難民認定をしない処分等取消請求事件
平成14年(行ウ)第5号
原告:A、被告:法務大臣・名古屋入国管理局主任審査官
名古屋地方裁判所民事第9部(裁判官:加藤幸雄・舟橋恭子・富岡貴美)
平成15年3月7日
判決
主 文
1 原告の請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1 請求
1 被告法務大臣が平成10年12月28日付けで原告に対してした難民の認定をしない旨の処分は無
効であることを確認する。
2 被告法務大臣が平成12年11月10日付けで原告に対してした異議の申出は理由がない旨の裁決
は無効であることを確認する。
3 被告法務大臣が平成13年7月13日付けで原告に対してした難民の認定をしない旨の処分を取
り消す。
4 被告名古屋入国管理局主任審査官が平成12年11月13日付けで原告に対してした退去強制令書
発付処分は無効であることを確認する。
第2 事案の概要
本件は、本邦に在留中のスーダン国籍を有する原告が、出入国管理及び難民認定法(以下「法」
という。)に基づいて難民認定を申請したところ、被告法務大臣が認定しない旨の処分を行い、そ
の後の名古屋入国管理局特別審理官による退去強制事由の判定に対する異議申出に対しても理由
がない旨の裁決をした上、被告名古屋入国管理局主任審査官が退去強制令書発付処分を行ったこ
とから、これらの処分の無効確認を求め(上記請求の1、2項及び4項)、次いで、原告が再度難
民認定の申請をしたのに対し、被告法務大臣が前同様の処分を行ったことから、その取消しを求
めた(上記請求の3項)抗告訴訟である。
1 前提事実(争いのない事実及び証拠により容易に認定できる事実)
 原告の国籍について
原告は、1963年(昭和38年)《日付略》、スーダン共和国(以下、スーダン民主共和国と称する
場合を含めて「スーダン」とも略称する。)の《地名略》市において出生した同国籍を有する男
性である。
 原告の入国及び在留状況について(甲1、16、乙1、2、4)
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原告は、平成10年(1998年)6月9日、スーダン政府発行の旅券を所持して、新東京国際空
港に到着し、東京入国管理局(以下、入国管理局を「入管」という。)成田空港支局入国審査官に
対し、渡航目的「VISA」、日本滞在予定期間「15日」とする上陸申請を行い、同審査官から在留
資格「短期滞在」、在留期間90日の許可を受けて、本邦に上陸した。
そして、原告は、平成10年9月14日と同年12月17日に各90日の在留期間の更新許可を受け
た(最終の在留期限は平成11年3月6日である。)。
 原告の居住関係について(乙3、5、20、24)
原告は、平成10年6月11日、東京都板橋区長に対し、居住地を同区《住所略》として、外国人
登録法に基づく新規登録申請をし、次いで、平成11年7月22日、東京都杉並区長に対し、居住
地を同区《住所略》として同法に基づく居住地変更登録をしたが、その後は居住地変更登録を
することなく、同年11月ころから静岡県《住所略》に居住し、後記の仮放免を受けた平成14年
5月28日以降は、原告肩書地に居住している。
 難民認定申請等の経緯について
ア 原告は、平成10年7月21日、被告法務大臣に対し、ウンマ党に所属していることにより迫
害を受けるおそれがあるという理由で、法61条の2第1項の規定に基づく難民認定申請をし
た(以下「第1次申請」という。乙6)。
イ 東京入管難民調査官は、平成10年11月12日及び同月26日、原告から事情聴取をするなど
の事実の調査を行った(乙7、9)。その上で、被告法務大臣は、同年12月28日、原告の上記
申立てについては、これを立証する具体的な証拠がないので、難民の地位に関する条約(以
下「難民条約」という。)1条A及び難民の地位に関する議定書(以下「難民議定書」とい
う。)1条2に規定する「政治的意見」を理由として迫害を受けるおそれは認められず、同条
約及び同議定書にいう難民(以下「条約上の難民」という。)とは認められないとして、不認
定処分(以下「第1次不認定処分」という。)を行い、平成11年1月19日、原告に告知した(乙
11)。
ウ 原告は、平成11年1月25日、第1次不認定処分を不服として、法61条の2の4に基づき、
被告法務大臣に対する異議の申出をした(乙12)。そこで、東京入管難民調査官は、同年2月
15日、原告から事情を聴取するなどの事実の調査を行った(乙13)。その後、被告法務大臣は、
同年11月22日、第1次不認定処分に誤りは認められず、他に原告が条約上の難民に該当する
ことを認定するに足りる資料もないとして、原告からの異議の申出は理由がない旨判断し、
平成12年9月21日、原告に通知された(乙17)。 
エ 東京入管難民調査官は、平成12年1月25日と同年2月21日、杉並区《住所略》あてに普通
郵便及び簡易書留を郵送する方法で、原告に対して出頭要請をしたが(乙15、16)、原告は転
居のため通知を受け取らず、出頭しなかった。
オ 名古屋入管入国警備官は、平成12年9月18日、静岡県《住所略》に居住する原告を摘発し、
法24条4号ロ(「在留期間の更新又は変更を受けないで在留期間を経過して本邦に残留する
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者」)該当容疑で違法調査に着手し(乙5)、同日、被告名古屋入管主任審査官が発付した同日
付け収容令書を執行して、名古屋入管収容場に収容した(乙18、19)。
カ 名古屋入管入国警備官は、平成12年9月18日、原告について違反調査を実施し(乙20、
21)、同月19日、原告を法24条4号ロ該当容疑者として名古屋入管入国審査官に引渡した(乙
22)。
キ 名古屋入管入国審査官は、平成12年9月19日、同月28日、同年10月5日及び同月10日、原
告について違反調査を実施し(乙23ないし25、27)、その結果、同月10日、原告が法24条4
号ロに該当する旨の認定を行い(以下「不法残留認定処分」という。)、原告にこれを通知した
(乙29)。
ク 原告は、平成12年10月10日、不法残留認定処分を不服として、法48条1項に基づく口頭審
理の請求をした(乙27)ため、名古屋入管特別審理官は、同年10月20日、原告について口頭
審理を実施し(乙30)、その結果、同日、入国審査官の上記認定には誤りがない旨判定し、原
告にこれを通知した(乙32)。
ケ 原告は、平成12年10月20日、上記判定を不服として、法49条1項に基づき、被告法務大臣
に対して異議の申出をした(乙33)ところ、被告法務大臣は、同年11月10日、原告の上記異
議の申出については、理由がない旨裁決した(以下「本件裁決」という。乙35)。
同裁決の通知を受けた被告名古屋入管主任審査官は、同月13日、原告に本件裁決を告知す
るとともに(甲4、乙36)、退去強制令書(乙37)を発付した(以下「本件退令発付処分」とい
う。)。
なお、名古屋入管入国警備官は、平成12年12月13日、原告を入国者収容所西日本入国管理
センターに移収した(乙37)。
コ 原告は、平成12年12月1日、被告法務大臣に対し、再度難民認定申請をしたため(以下「第
2次申請」という。乙38、39の1ないし9)、大阪入管難民調査官が、平成13年1月9日及び
同年4月19日、原告から事情を聴取するなどの事実の調査を行った(乙40、41)。その上で、
被告法務大臣は、同年7月13日、第2次申請は、法61条の2第2項所定の期間を経過してさ
れたものであり、かつ、申請遅延の申立ては、同項ただし書の規定を適用すべき事情とは認
められないとして、不認定処分を行い(以下「第2次不認定処分」という。)、同月27日、原告
に告知した(甲2、乙42)。
サ 原告は、平成13年8月1日、大阪入管において、第2次不認定処分を不服として、異議の
申出をしたため(乙43、44)、大阪入管難民調査官が、同年9月4日及び同月12日、原告から
事情を聴取するなどの事実の調査を行い(乙45、46、48、49の1)、被告法務大臣は、同年11
月1日、第2次申請は、法61条の2第2項所定の期間を徒過してなされたものであり、かつ、
同項ただし書の規定を適用すべき事情も認められないので、原処分に誤りは認められないと
して、第2次不認定処分に対する異議の申出は理由のない旨判断し、同年11月7日、原告に
通知した(甲3、乙50)。
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シ 原告は、本訴提起後である平成14年5月28日、仮放免され、以後、原告肩書地において、
居住している。
なお、原告は、平成14年12月10日、国連難民高等弁務官によって、関心の対象となる者の
認定を受けた(甲55の1)。
 スーダン情勢について(甲20、21、27ないし30、41、47、乙58ないし60、69)
ア 独立後の概略について
ア スーダン共和国は、1956年(昭和31年)1月1日、エジプトとの統合から独立し、Bを
党首とする統一国民党政権が誕生したが、統一国民党はウンマ党と民主統一党に分裂し、
同年7月から、両党の2大政党による議会制民主主義政権が誕生した。
その後、1958年(昭和33年)3月に総選挙が行われて、ウンマ党が圧勝し、C内閣が誕
生したが、同年11月、D将軍が起こした軍事クーデターによって軍事政権が成立した。同
政権は、1964年(昭和39年)10月に崩壊し、1965年(昭和40年)4月、ウンマ党と国民統
一党による連立内閣が成立したが、1969年(昭和44年)5月22日、E大佐を中心とする陸
軍中堅将校による無血クーデターが成功し、同大佐を議長とする革命評議会が全権を掌握
して一党独裁制をとった上、国名を「スーダン民主共和国」に改称した。
1979年(昭和54年)、ウンマ党指導者Fの指導の下、クーデター未遂事件が発生した。ス
ーダンは、この事件へのリビアの関与を非難し、同国と断交した上、エジプトとの間に共
同防衛条約を締結した。そして、1983年(昭和58年)、E大統領が南部州を3州に分割し、
全国に「シャリア」(イスラム法)を導入したところ、南部の黒人系キリスト教徒等の反政
府勢力は、これに強く反発し、今日まで継続している内戦状態に突入した。
イ 1985年(昭和60年)、E大統領の米国訪問中、G国防相がクーデターを起こし、暫定軍事
評議会を発足させたため、E大統領は、エジプトに亡命した。そして、スーダンは、同年6
月、リビアとの関係を修復し、同国との間で軍事協定を締結し、同年12月には、国名を再
度「スーダン共和国」に改めた。
1986年(昭和61年)4月、民政移行のための総選挙が実施され、ウンマ党と民主統一党
の連立によるF文民政権が発足したが、1989年(平成元年)6月30日、H中将の率いるス
ーダン軍部がクーデターを起こし、多数の主要な政治家を逮捕した。これにより、非常事
態宣言がなされ、憲法は停止し、議会は解散、政党活動も非合法化され、Hを議長とする革
命評議会が全権を掌握した(以下「89年クーデター」という。)。そして、1990年(平成2年)
10月、同評議会は、政党政治を否定し、リビア型人民議会体制に倣う新政治体制の導入を
決議した。
89年クーデターにより政権を掌握したH政権は、イスラム原理主義を標榜する民族イス
ラム戦線(NIF)を支持基盤とする一党翼賛体制であり、同政権による各国のイスラム原理
主義運動への同情的態度は、国際社会からの非難を招き、1993年(平成5年)以降、アメ
リカは、スーダンをテロ支援国家に指定している。さらに、1995年(平成7年)6月のIエ
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ジプト大統領暗殺未遂事件を契機に、1996年(平成8年)4月以来、国連安保理の制裁対
象国となった。
ウ H政権は、近年、従来の軍事色の強い一党独裁体制から、限定的ではあるが、民主政治
への移行を図り、1992年(平成4年)暫定国民議会を設立し、1993年(平成5年)10月全
権を掌握していた革命評議会を解散し、立法権及び行政権はそれぞれ暫定国民議会及び
大統領を長とする内閣に全面移管されるとともに、89年クーデター以来継続していた夜
間外出禁止令は解除された。そして、1995年(平成7年)12月、「第13次憲法令」が発布さ
れ、大統領、内閣及び国民議会党の国家統治機構の新たな枠組みが決まり、1996年(平成
8年)3月には大統領及び国民議会議員の直接選挙が行われ、H大統領が選出され、1997
年(平成9年)8月に北部州知事選挙、同年12月には、南部州知事選挙を実施した。さらに、
1998年(平成10年)6月、これまで発出された暫定憲法令を集約した新憲法が制定され、
同年12月には同憲法施行の一環として政治結社設立に関する法が制定され、多数政党制を
前提とする政治へと歩み出した。そして、1998年(平成10年)5月、政党結成の自由など
を含む新憲法の可否を問う国民投票が実施され、圧倒的な賛成票を得て成立し、同年6月
30日、同憲法が施行された。
2000年(平成12年)12月、大統領及び国民議会議員の直接選挙が実施され、H大統領が
86パーセント以上の得票を得て再選されたが、主要野党は選挙をボイコットした。また、
1999年(平成11年)12月施行の国家非常事態令は2001年(平成13年)末まで延長されて
いる。
イ スーダン内戦について
ア スーダン内戦は、そもそも、1956年(昭和31年)の独立以前から、スーダン国内が、アラ
ブ人でイスラム教信者が多い北部と、ブラックアフリカ民族でキリスト教信者あるいは伝
統宗教の信者が多い南部とに分かれ、北部が経済的にも発達し、南部との格差が大きかっ
た上、行政機関が北部出身者によって占められ、1955年(昭和30年)に南部住民から求め
られた連邦制導入を北部住民が無視して翌年独立したことから、南部住民の北部住民すな
わち政府に対する抵抗運動が始まったことに端を発する(第1次内戦)。
イ 1975年(昭和50年)、米シェブロン社によって、南部にあるマルート油田等の油田が発
見された。その後、E大統領時代に、イスラム法シャリアが導入されたため、南部住民の政
治家等がイスラム人民解放運動(SPLM)を結成し、南部ヌバ山岳地帯で武力闘争を開始し
た(第2次内戦)。米シェブロン社は、内戦激化に伴い、開発利権をスーダン政府に返上し、
中国、マレーシア、カタール及びカナダが後を引き受けて、石油開発を継続した。第2次内
戦は、歴史的な宗教・文化的対立に加え石油の利権が絡み合い、今日まで継続している。
ウ 89年クーデター以後、北部のウンマ党、民主統一党、共産党、労働組合組織、スーダン国
軍合法司令部、ゲリラ組織スーダン人民解放軍(SPLA)は、反政府組織である国民民主同
盟(NDA)を結成し、SPLAを中心に政府に対して抵抗を続けた。
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1998年(平成10年)にも、スーダン南部及び東部国境地帯における戦闘が継続的に発生
し、これに伴い大量の国内被災民が発生した。特に、バハル・エル・ガザール州では、大規
模な飢餓発生の危険が高まったため、スーダンと近隣6カ国で作る政府間開発機構(IGAD
パートナーフォーラム)、Jケニア大統領及びK国連事務総長の働きかけにより、スーダ
ン政府とSPLAは、同年7月に、国連による人道緊急援助活動(OLS)の円滑な実施を確保
するため、同州において3か月間の部分的停戦に合意した。その後も両者は、同年10月、
1999年(平成11年)1月及び2002年(平成14年)7月、停戦に合意したが、そのたびに内
戦が再燃している。
エ なお、スーダン政府は、1997年(平成9年)4月、SPLAを除く南部反政府勢力の分派
(SSIM、ケルビーノ派、アロク・トン・アロク派等)との間で「ハルツーム和平協定」を調
印し、その後、個別にSSLM UNITED(アラーム・アコル派)、ヌバ山脈分派と停戦合意を
調印している。上記協定は、南部住民に4年間の移行期間終了時に行われる国民投票によ
って、統一又は独立を決定する自決権を保証している。
ウ ウンマ党について
ア ウンマ党は、1956年(昭和31年)のスーダン共和国独立後間もなく、スーダン北部のイ
スラム教の宗教的名家であったL家を中心とし、同家支持者を基盤として結成されたイス
ラム教アンサール派の政治組織である。同党は、その後2年間、同様に宗教的名家であっ
たM家を中心として結成された民主統一党と共に議会制民主主義政治を行ったが、1958
年(昭和33年)のD将軍によるクーデターにより政権を失った。
その後も最大野党として存在し、1961年(昭和36年)、Fがウンマ党党首となり、前記の
とおり、1965年(昭和40年)4月に、ウンマ党・国民統一党による連立内閣を成立させた
が、E大佐によるクーデターにより政権を失った。
イ 1986年(昭和61年)4月、ウンマ党は、再度、民主統一党との連立による文民政権を発
足させ、Fが首相に就いたが、これも、H現大統領の89年クーデターによって政権を奪わ
れ、政党の非合法化に伴い、ウンマ党員の多数が国外に追放された。国内に残ったウンマ
党員等は、1989年(平成元年)6月、民主統一党、共産党やSPLAとともに国民民主同盟に
加わり、SPLAを中心に政府に対して、抵抗を続けながら、H政権打倒後の新しいスーダン
への動きを模索してきた。
 条約上の難民の定義について
難民とは、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見
を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外
にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有す
るためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及び常居所を有していた国の外にいる
無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖
を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないものである。
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2 争点
 総論その1−原告は、条約上の難民に該当するか。
 総論その2−被告らによる調査の過程に適正手続違反が存在したか。
 各論その1−第1次不認定処分は無効か。
 各論その2−本件裁決は無効か。
 各論その3−第2次不認定処分は違法か。
 各論その4−本件退令発付処分は無効か。
3 争点に対する当事者の主張の要旨
 争点(総論その1−原告は、条約上の難民に該当するか)について
(原告)
ア 立証責任の所在について
申請者の個人的事情については、申請者本人に基本的な主張責任があることは認めるが、
その個人的事情の下で、迫害概念の要素である「十分に理由のある恐怖」を認定する根拠と
なる迫害国の状況については、国に立証責任があると解すべきである。
イ 条約上の難民該当性について
原告は、以下のとおり、H政権から迫害を受け、あるいは受けるおそれがあるという十分
に理由のある恐怖を有するから、条約上の難民に当たる。
ア H政権のウンマ党員に対する迫害のおそれについて
① 89年クーデターによって誕生したH政権は、軍事力を組織的に用いて断固とした行動
をとる軍事政権であり、その統治の手法は、軍事力そのものに頼る強権的なもので、反
対派や民主的政治勢力に対しては、違法な人権侵害手段を当然とする体質を有してい
る。現に、アムネスティ報告は、H政権の誕生は、スーダン史上空前の規模と範囲を特徴
とする人権侵害の新時代の到来を告げたと総括している。
具体的には、政権のイデオロギーを支持する者らによって構成された準軍事的組織で
ある人民防衛軍(PDF)と、非公式な治安部隊である革命治安部、さらには政権にイデオ
ロギー上の影響を与えている急進的イスラム政党である民族イスラム戦線(NIF)らは、
反対派を大量に逮捕し、裁判もないまま、一般刑務所か治安局事務所に拘禁し、看守に
よって過度の肉体的虐待が加えるなどの弾圧を実行している。その実態は、アムネステ
ィ報告によって公表された、拷問体験者らの証言によって明らかである。
② アムネスティ報告によれば、H政権は、1989年(平成元年)と1990年(平成2年)、政
治的意見を理由に何百人も逮捕し、その中には少なくとも35人のウンマ党の主要メンバ
ーと89年クーデター後に解任された軍隊の上級将校が含まれていた。1992年(平成4
年)にハルツームだけで拘禁された政治犯は250人余りに達し、1月に逮捕されたウン
マ党員は8月まで拘禁されている。また、1993年(平成5年)4月から6月にかけて、北
部の複数の町で多数の人が拘禁されたが、特にイスラム教アンサール派の信者やその政
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治組織であるウンマ党党員が猛攻撃を受けた。さらに、1994年(平成6年)9月末には、
ハルツームで100人以上のスーダン共産党とウンマ党の活動家、ジャーナリスト、労働
組合活動家、弁護士その他の人々が逮捕され、数週間から数か月間拘禁されている。そ
して、党首であるFも、同年4月に24時間の拘禁を受け、6月及び7月に13日間拘禁さ
れた。
このように、H政権は、拷問と虐待を公式の政策として採用しており、その実態は常
軌を逸したものになっている。そのため、ウンマ党関係者は、多くがスーダン国外に脱
出することを余儀なくされている。
③ なお、被告らは、ウンマ党が、2000年(平成12年)以降、H政権と和解する姿勢を示し
ていることから、原告に対する迫害のおそれはないと主張するが、その主張は客観性に
欠ける。すなわち、和解の姿勢を示しているのは、ウンマ党から分派したエルサディク
派の者にすぎず、原告も所属している主流派のうち、Nを指導者とするグループの代表
者らはアメリカに、同じく主流派であるO博士を指導者とするグループの代表者らは英
国に滞在するなど、主要な部分は、依然として帰国することができない状態にある。こ
れらの主流派は、ウンマ党はH政権を含むいかなる全体主義政権にも参加せず、公正な
選挙の実施と国民主体の広い基盤を持つ政府が形成されることが政権参加の条件である
ことを表明している。
そして、H政権と和解し、これに参加する姿勢を示したかのように報道されたグルー
プは、H政権の画策によって分裂したといわれており、H政権と和解のための会談をし
た前首相Fも、全体主義政権である現政権に加わる意思のないことを表明している。
このような情勢下で、H政権は、依然として強権的な対野党姿勢を維持している。す
なわち、2002年(平成14年)8月19日、野党である大衆国民会議(PNC)の指導者であ
るPの自宅軟禁が、裁判も行われないまま1年間延長されたし、同月10日、H政権によ
って発表された政党活動禁止の解除も、スーダン国会の復権について言及されず、政党
活動許可申請に条件を付した結果、許可を得た約20の政党の多くはHが率いる与党国民
会議党の影響下にある。ウンマ党は、民主連合党とともに、条件を容認することはでき
ないとして、登録を拒んでいる。
イ 原告に対する迫害のおそれについて
① 原告は、スーダン政府が迫害・逮捕を繰り返すウンマ党の思想的な創立者である4代
前のQの家系に属し、幼少のころから党員としてその活動に従事し、家族全員も党員で
あった。
ちなみに、原告とは、その曾祖父が兄弟であるFは、89年クーデターによって政権を
追われた前首相であり、その祖父の兄弟であるRは、1970年(昭和45年)、E政権によっ
て殺害されている。
そして、原告は、1987年(昭和62年)から1995年(平成7年)まで、インド国プーナ
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(POONA)大学に留学し、修士号を取得したが、この間、スーダンのH政権に批判的な
スーダン学生組織に所属し、その活動の一端を担った。
なお、原告は、現在では、国民民主同盟を離脱し、帰国した分派ではなく、アメリカに
いるNを指導者とするグループらのウンマ党主流派に属している。
② 原告は、1995年(平成7年)4月、スーダンに帰国し、《地名略》総合大学のa大学に
て教鞭を執り始め、学生に対して、政府の政策に批判的で自由主義的な立場からの講義
を行った。ところが、原告の講義を受けている学生の中に、原告の政治的見解や講義姿
勢について政府関係機関に通報する者がいたため、原告は、ある日の講義が終わった後、
政府との関係が緊密な民族イスラム戦線の特別捜査官によって逮捕された。原告は、逮
捕後、ウンマ党や家族について質問されたが、反抗的な態度をとったため、同捜査官の
一人に建物の2階から突き落とされ、生命の危険にさらされた上、落下の衝撃で両足等
を骨折し、同年5月1日、b病院に担ぎ込まれた。
なお、その際の治療経過等を記録したものが、2通の医療報告書(乙48添付資料7と
同9。以下、それぞれ「医療報告書資料7」、「医療報告書資料9」という。)である。とこ
ろで、原告が、第1次難民認定の申請をした際に、上記の迫害の事実を証するものとし
て提出した退院カード(乙27添付の「DISCHARGE CARD」。以下「退院カード」という。)
は、実際には別人のものであったが、兄が入手し、原告に渡してくれたものであったた
め、誤りに気づかなかったものである。
③ 原告は、1995年(平成7年)7月28日、上記病院を退院することができたが、教職に
はもはや就けなかったので、大学を辞め、cという会社に勤務した。しかし、そのころか
ら、政府の監視が更に厳しくなり、原告の2人の兄が逮捕されたため、原告は、自分に追
及の手が及ぶことは必至であると考えて身を隠した。
しかし、1997年(平成9年)12月、原告は、再度逮捕されて軍隊に送られ、スーダン南
部の人々と戦うように命じられた。原告は、この命令が、原告を生命の危険にさらさせ
ようとする当局の思惑と理解しており、平和主義者として同じ国の人々と殺し合いをす
るのは耐えられなかったため、南部戦線へ行くことを断った。その結果、原告は、拷問を
受け、食物と水も与えられず、衰弱してマラリアに罹患したため、病院に担ぎ込まれた。
1週間後、原告は、病院を抜け出し、警察官をしていた党員の助力を得て国外へ脱出
する計画を立て、1998年(平成10年)6月6日、スーダンを出国し、カイロ、アムステル
ダムを経由して同月9日、来日した。
④ 被告らは、原告が条約上の難民に当たらないと主張し、その理由として、迫害の事実
についての原告の供述が齟齬し、変遷していることを指摘する。しかしながら、それは、
原告の供述の信用性のなさを証明するものではなく、むしろ、被告らの難民行政の根本
にあるところの、国際的に批判されてきた消極姿勢(難民認定数を制限する運用、難民
調査官の専門性の欠如、研修の不足等)の反映にすぎない。すなわち、被告らは、難民認
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定申請者は全員が経済難民であるとの予断を抱き、その結果、国際人道法、国際庇護法
たるべき法の解釈、運用を基本的に誤り、国境管理法としてのみ機能させている。
例えば、原告の旅券(乙1)は、アラビア語を用いて作成されているところ、その訳文
には、数字の見誤り(3や0)、固有名詞と普通名詞の取り違い、原告の住所の地名を全
く違う発音に訳すなど、20箇所の誤訳、翻訳漏れ等があり、ずさんな翻訳であると評価
せざるを得ないが、これからも、被告らが用意している通訳人のレベルに疑問を抱かせ
るに十分である。したがって、被告らの指摘する原告の供述の変遷等の相当数は、通訳
の誤訳あるいは不適切な訳が原因となっている可能性が十分にあるというべきであり、
これを考慮した上で判断すべきである。
また、被告らの指摘する原告の供述の食い違いは、子細に検討すれば、事実関係に矛
盾はないから、齟齬とか変遷と評価すべきものではないし、表現上の相違も、調書とい
うものは調査担当者が編集者として素材を取捨選択して作成されるものであることを考
慮すると、不自然、不合理と評価すべきではない。
そもそも、被告らは、難民認定申請者の事情が、純粋に個人的な事情と、その個人を取
り巻く政治的、社会的事情が渾然一体となっていることを捨象しており、この基本的理
解のずれによって、難民調査は、申請者の供述への過度の依存を生んでいるが、迫害状
況から逃れてきた難民認定申請者は、立証手段を所持していることが少なく、迫害によ
るトラウマによる記憶の混乱もあり得るから、難民受入先進国のように、申請者の供述
のみに依存せず、客観的情勢の科学的調査を重視することを手続指針として、難民調査
手続が行われるべきである。 
⑤ 原告は、国連難民高等弁務官の関心の対象となる者の認定を受けており、帰国すれば
迫害のおそれがあり人道上問題であると公に認められている。
ウ 原告の家族に対する迫害について
① 原告の父Sは、《地名略》市にて、《地名略》・マーケットに多数の店を出し経営してい
たが、1982年(昭和57年)ころ、E政権によって主要な財産を没収されたため、ショッ
クと怒りで心臓発作を起こし、死亡した。
② 長兄Tは、d大学卒業後、1969年(昭和44年)からスーダン財務省に勤務し、その後、
F政権下で、内務省に招請され、1989年(平成元年)にはアミード(警察署長級)を勤め
ていたが、同年のクーデターにより、1990年(平成2年)に上記地位を追われた上、逮
捕されて1年以上の拘禁を受けた。同人は、1995年(平成7年)と1997年(平成9年)
ころにも逮捕・拘禁され、1999年(平成11年)に、エリトリアに脱出後エジプトへ移っ
た。その後、家族もエジプトに移り、現在は、SPLAやSNDAの軍事訓練を指揮している。
③ 次兄Uは、イタリアの大学で工学を学んだ後、サウジアラビアの石油会社に勤務した
が、F政権下の1985年(昭和60年)ころ、軍の技術官に就いた。しかし、1990年(平成
2年)に職を追われた上、逮捕・拘禁された。同人も、1995年(平成7年)と1997年(平
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成9年)ころに逮捕・拘禁されたので、1999年(平成11年)に、長兄と共にエリトリア
に脱出した。現在は、SPLAやSNDAに所属して、軍の指導をしている。
④ 三兄Vは、d大学卒業後、スーダンの保険会社に部長として勤務し、その後、e大学、
f大学で保険の講義を担当していた。しかし、89年クーデターの直後にエジプトに脱出
し、その後、サウジアラビアで保険会社を経営している。原告の母Wは、現在、三兄と同
居している。
⑤ 五兄のXは、g大学卒業後、アメリカに渡り、ロサンゼルスのh航空に勤務した、その
後、ニューヨークの貨物空輸会社に勤務し、アメリカ市民権を取得している。
⑥ 六兄Yは、i大学を卒業後、スーダンで弁護士になり、また新聞記者としても仕事を
していた。しかし、同人は、1990年(平成2年)から1994年(平成6年)までの間に、他
の弁護士と共に逮捕された。その後はサウジアラビアに脱出し、現在は同国で弁護士を
している。
⑦ 弟Zは、a大学に入学したが、1992年(平成4年)ころ、反政府活動をしている大学
生に対する粛清が始まり、学生組合に参加していた同人も追われた。現在、同人は、アメ
リカで暮らしている。
(被告ら)
ア 立証責任について
法の定める難民とは、前提事実で示した条約上の難民をいうところ(2条3号の2)、そ
こでいう迫害とは、「通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって、
生命又は身体の自由の侵害又は抑圧」を意味し、また、迫害を受けるおそれがあるという十
分に理由のある恐怖を有するというためには、「当該人が迫害を受けるおそれがあるという
恐怖を抱いているという主観的事情のほかに、通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫
害の恐怖を抱くような客観的事情が存在することが必要」というべきである。
そして、ある者が条約上の難民に該当するか否かを認定する作業は、申請人各人に対して、
その申請内容の信ぴょう性等を吟味し、各人の抱える個別事情に基づいて行われるべきもの
であるところ、いかなる手続を経て難民の認定がされるべきかは、難民条約及び難民議定書
のいずれにも規定がないことから、これらを締結した各国の立法政策に委ねられていると解
される。
しかるところ、法61条の2第1項が、申請者の提出した資料に基づいて法務大臣がその者
を難民と認定することができる旨規定し、法61条の2の3第1項が、申請者の提出した資料
のみでは適正な難民の認定ができないおそれがある場合その他難民の認定又はその取消しに
関する処分を行うため必要がある場合には、法務大臣は難民調査官に事実の調査をさせるこ
とができる旨規定していることに照らすと、難民該当性の立証責任は申請者にあり、まず、
申請者が難民であるとの陳述を行い、これを立証する証拠資料を提出する必要があると解す
べきである。このことは、そもそも難民認定の申請は、申請人が自己の便益を受けようとす
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る行為であること、およそ難民該当性の判断に必要な出来事は外国でしかも秘密裏にされた
ものであることが多く、それを直接体験した申請人がもっともよく主張し得る立場にあるこ
とからも、合理的であるというべきである。
イ 条約上の難民該当性について
原告の供述は、その内容について変遷や齟齬があり、信用性はなく、さらに、近年のスーダ
ン国内やウンマ党情勢からすれば、原告が帰国したとしても、「迫害を受けるおそれがあると
いう十分に理由のある恐怖を有する」ものとは認められない。すなわち、
ア H政権のウンマ党員に対する迫害のおそれについて
スーダンでは、1989年(平成元年)、H中将が民族イスラム戦線と連繋して無血クーデ
ターを起こし、革命評議会を設置してその議長に就任した。その後、1992年(平成4年)1
月、民政移管に向けた暫定国民議会が発足し、1993年(平成5年)10月には革命評議会が
解散され、H議長が大統領に就任して、立法権及び行政権は暫定国民議会と内閣に全面移
管されるとともに、夜間外出禁止令が解除された。1995年(平成7年)12月には、第13次
憲法令が発布され、国家統治機構の新たな枠組みが決まり、1996年(平成8年)3月には、
大統領及び国民議会議員総選挙が実施され、H大統領が再選された。
ところで、スーダンにおいては、独立以前から、アラブ人でイスラム教徒の多い北部と、
ブラックアメリカでキリスト教徒あるいは伝統宗教の信者の多い南部とに分かれていたと
ころ、経済的に発達し、行政機関を占めていた北部が、連邦制導入を求める南部を無視し
て独立したことから、内戦が開始され(第1次内戦)、イスラム法シャリアを南部にも適用
したE政権の時代にも、再発し(第2次内戦)、石油開発の利権もからんで現在まで継続し
ている。そして、H政権が誕生した後は、ウンマ党、民主統一党、共産党、SPLA等が国民
民主同盟を結成し、政府に抵抗するようになった。
しかし、H政権は、1997年(平成9年)4月、SPLAを除く南部反政府勢力の一部(SSIM、
ケルビーノ派、アロク・トン・アロク派等)と「ハルツーム和平協定」を締結し、これを法
制化した第14次憲法令が制定されたが、この協定は、抗争の主要な相手方である南部住民
に対し、4年間の移行期間終了時に実施される国民投票によって、統一又は独立を決定す
る自決権を保証している。同政権は、その後も、SSLM UNITED(アラーム・アコル派)や
ヌバ山脈分派と個別的に停戦合意を調印した。
そして、1998年(平成10年)6月、これまで発布された憲法令をまとめた新憲法が制定
され、同年12月には、政治結社設立に関する法が制定されるなど、多数政党政治を前提と
する政治に踏み出している。
このような情勢の下で、国民民主同盟は、2000年(平成12年)3月ころ、エリトリアの
首都アスマラにて会議を開催したが、ウンマ党は、これから離脱した上、H政権と和解す
る姿勢を示し、同年4月、国外追放処分を受けていたウンマ党の活動家約40名が帰国する
に至り、H政権の副大統領が出迎えた。そして、同年11月23日には、原告の親戚で、ウン
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マ党党首であるFが帰国し、多くのウンマ党員が出迎えた。同人は、平穏に《地名略》市の
自宅に居住し、政権と和解に向けた協議を続けている。
以上の状況に照らせば、原告がスーダンに帰国しても、迫害を受けるおそれは到底認め
られない。
イ 原告に対する迫害のおそれについて
① 原告は、ウンマ党員であると主張するが、当初は、スーダン国内の最大野党であって
F首相を輩出したウンマ党の党員であると供述していたにもかかわらず、ウンマ党がH
政権と和解したことが明らかとなるや、αを党首とするウンマ党(以下「イスラム・ウ
ンマ党」という。)の党員であると供述を変更させた。
しかし、イスラム・ウンマ党は、1999年(平成11年)4月の結党以来、上記ウンマ党
とは別個独立の政党であって、H政権とは同盟関係にある。原告が、真に政党活動をし
ていたのであれば、当然、両者を区別していたはずであるから、原告の供述は不合理で
あり、信用することができない。
② 原告は、両踵骨骨折に関して医療報告書資料7及び同9を提出するが、同一の病院発
行であるにもかかわらず、記載内容・書式、作成名義人等が異なること、署名は1995年
から現在に至るまでの間の病院長のものでないことなどから、いずれも偽造された書類
である。
かえって、原告から当初提出された退院カードは、その記載された手術内容や今後の
予約が原告の訴える症状と合致すること、インドにあるj病院には、その担当医師βが
実在すること、β医師と退院カードのγ医師とは同一人物であること等からすると、原
告の治療についてのものであり、したがって、原告は、インドにおいて、両踵骨骨折の傷
害を負い、治療を受けたと考えるのが合理的である。これに関する原告の供述は、平成
12年10月10日の調査の際には、いったんは自らの退院カードであることを認めたもの
の、日付の矛盾を指摘されるや、他人の診断書であると供述を翻し、同月20日の調査の
際には、自らの退院カードであることを認めた上で担当医師が誤った日付を記載したと
供述したが、平成13年9月13日の調査においては、長兄に頼んで取寄せたものの、長兄
が間違えて取得したものをよく確認しないまま、東京入管へ提出したと供述するに至っ
たが、このような変遷は、相互に矛盾し、不自然、不合理なものである上、H政権から迫
害を受けていた長兄に、退院カードを取りに行かせたことや、誤って原告以外の人物の
退院カードを交付したというのは、不合理である。
しかも、原告の傷害は、高いところから飛び降りてかかとから着地して負う時に起こ
りやすいものであって、本人が供述するように後ろ向きに落ちたことと符合しないし、
両足から着地した場合には意識を失うはずはなく、供述内容は不合理である。また、治
安部隊が、原告から情報を得ようとして逮捕したにもかかわらず、転落後放置したこと、
逮捕状況についての供述が不自然に変遷していることからも信用できない。
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以上のとおり、原告の1995年(平成7年)5月1日の迫害についての原告の供述は信
用できない。
③ 1997年(平成9年)12月の迫害の事実について、原告の供述する逮捕の状況、逮捕場
所、逮捕時期は不自然に変遷していること、原告が供述するスーダンで行った政治活動
は、1995年(平成7年)4月の大学での講義だけである(もっとも、原告は、その後、同
年5月の逮捕後も政治活動を続けていた旨の平成14年10月10日付け陳述録取書を提出
したが、その変遷は不合理で信用できない。)のに、1年以上経ってから突然治安機関に
逮捕されるというのは不自然であること、治安機関により迫害を受けるおそれがある者
が普通の会社に就職して稼働していたということも不自然であることなどからすると、
原告の2回目の逮捕に関する供述は信用できず、迫害の事実は認められない。
④ また、原告は、原告名義の正式な旅券と、日本の査証を取得して、合法的に航空機によ
って出国しているから、治安機関が原告に関心を持っていたとは考えられず、この点か
らも迫害を受けるおそれがあるとはいえない。そもそも、原告が、ウンマ党の支部がな
く、兄弟の住んでいない日本へ逃れてきたことも不自然である。
⑤ なお、原告は、供述変遷の原因として、通訳の能力不足を指摘するところ、なるほど、
旅券(乙1)についての誤訳はあるが、これは、通常通訳人として選任している者の都
合がつかなかったため、アラビア語に精通しているとはいえない者に依頼したためであ
り、難民調査等においては、後記の被告ら主張のとおり、法廷通訳等の経験者の中か
ら適正な通訳人を選任しており、原告は、録取した内容に誤りがないとして署名してい
るのであるから、原告の主張は不当である。
⑥ 国連難民高等弁務官による難民認定は、難民の条件を充たしていなくとも本国の事情
により難民に類似した状況に置かれた者を援助・保護するため、避難民や難民とも難民
に類似した避難民にも当たらないが人道支援の必要がある国内避難民も対象としてお
り、原告に対して、認定がなされたとしても、そのことによって、条約上の難民に該当す
るとはいえない。
ウ 原告の家族に対する迫害について
原告は、平成10年11月12日の東京入管難民調査官による調査においては、長兄及び次兄
はH政権によって職場を追われて年金生活を送り、三兄は《地名略》に居住して会社勤務、
四兄が同じく大蔵省勤務、五兄がワシントンに居住して会社勤務、六兄が《地名略》市に居
住して弁護士業務、八弟が製薬会社に勤務しているなどと供述していたが、平成12年9月
24日付けの上申書や同年10月10日の名古屋入管入国審査官による調査においては、長兄
と次兄が1997年(平成9年)12月に解雇されて逮捕され、弟も大学を辞めさせられたこと、
長兄ないし六兄は、1998年(平成10年)以降のスーダン情勢のため、国外に出国したなど
と述べるに至った。
しかしながら、ウンマ党は、1999年(平成11年)11月に国民民主同盟を脱退してH政権
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と協定を締結し、また、原告が所属すると主張するイスラム・ウンマ党はこれに先立って
同政権と同盟していたことに照らせば、原告の家族に対する迫害の事実があったとは認め
られない。
また原告自身の供述も、前記のとおり、1990年(平成2年)に既に解雇されて年金生活
を送っていたはずの長兄及び次兄が、1997年(平成9年)に解雇されたり、製薬会社に勤
務していたはずの弟が大学を辞めさせられるなど、相互に矛盾し、長兄及び次兄に対する
迫害に関する供述は、時間の経過とともに深刻なものとなるにもかかわらず、長兄に退院
カードを取りに行ってもらったことと矛盾するなど、信用できない。
 争点(総論その2−被告らによる調査の過程に適正手続違反が存在したか)について
(原告)
難民認定申請者は、世界各地からそれぞれの母国で、宗教上、政治上等の理由で迫害を受け、
日本国にその救済を求めてくるのであるから、申請者の母国語は様々であり、その訴えは、当
該国の宗教的、民族的、政治的な様々な背景に根ざしており、専門的知識がなければ理解でき
ないものもある。さらに、迫害を受けた申請者は、心理的に不安定で、トラウマにより、迫害の
記憶自体や、記憶の喚起に問題のある場合も多い。しかも、申請者は、入管で行う供述が外部に
漏れ、母国に残した親族等に重大な影響を与えるのではないかという不安も抱きがちである。
そうすると、難民認定手続における通訳、翻訳は、高度の語学力、知識を必要とする。しかるに、
本件においては、能力不足の通訳人によったため、旅券の数字の判読すらできず、20箇所にも
上るミスがあったり、誤訳によって、供述の変遷であるとの疑いを抱かれたりする結果になっ
ており、重大かつ明白な手続上の瑕疵がある。
(被告ら)
難民調査官は、原告に対する事実の調査において、条約上の難民を難民として認められるよ
うに、難民に該当しない者を誤って難民と認定しないように、難民該当性に判断に係る重要な
点について、根気強く原告の供述を聴取し、慎重に調査を行っている。また、事実調査において
は、裁判所の法廷通訳等の経験のある適切な通訳人を選任し、難民認定申請者から当該通訳人
を忌避する旨の申立てがない限り通訳人として使用することとしている。そして、本件に係る
調査においても、アラビア語又は英語の通訳を介して原告の供述を録取し、調書を取った後に
は読み聞かせを行った上で、原告は録取した内容に誤りがないとして供述調書に署名している
のであり、通訳人を忌避することもせず、録取した内容に誤りがないとして署名しているにも
かかわらず、訴訟になって、突然通訳人に問題があったと主張するのは、単なるいいがかりに
すぎない。
 争点(各論その1−第1次不認定処分は無効か)について
(原告)
ア 原告は、争点の原告主張のとおり、条約上の難民に該当する。それにもかかわらず、第
1次不認定処分は、原告が条約上の難民に該当することを認定するに足りる資料がないとし
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て、不認定処分をしており、その判断には、重大かつ明白な瑕疵がある。したがって、第1次
不認定処分は無効である。
イ 第1次申請に当たり、被告法務大臣は、申請者に要求される立証責任について教示しなか
った。そのため、原告は、十分な立証を尽くせなかったのであるから、この点で重大かつ明白
な手続上の瑕疵がある。
(被告法務大臣)
ア 行政処分が無効であるというためには、当該処分に重大かつ明白な瑕疵が存在しなければ
ならず、その瑕疵が明白であるか否かは、処分の外形上、客観的に瑕疵が一見して看取し得
るか否かにより決せられるべきところ、争点の被告ら主張のとおり、第1次不認定処分に
おける被告法務大臣の判断には何ら誤りがなく、まして、重大かつ明白な瑕疵が外形上客観
的に看取できるものとはいえないから、無効とはいえない。
イ 前記のとおり、法律上難民該当性について、原告に立証責任が課されていることが明らか
であるから、難民調査官が原告に対してどの程度立証責任が課せられているか教示する義務
はない。
したがって、手続上の瑕疵があるとの原告の主張は失当である。
 争点(各論その2−本件裁決は無効か)について
(原告)
仮に、被告法務大臣において、証拠上あるいは60日ルールによって、条約上の難民に該当し
ないと判断したとしても、原告についての政治的な理由による迫害状況があり、しかも危険な
南部戦線への兵役を強要され、これを拒否した経緯があることからすると、原告が帰国すれば
生命の危険を招来することを理由に人道上在留特別許可が与えられるべきである。被告法務大
臣の裁量権の行使は、思想及び良心の自由を保障する憲法の人権規定によっても制約を受ける
のであるから、在留特別許可を与えなかった本件裁決が裁量権の行使を誤ったものであること
は明白であり、かつその結果は重大である。
現に、難民行政の実務においても、難民認定申請に対しては不認定としながらも、在留特別
許可を与えている場合も少なくない。このような便宜的な処分には、処分本来の性質をあいま
いにする問題点を含むが、難民該当性の立証責任を課せられた難民認定申請者にとって、立証
不十分による不認定という不条理を是正する第2次的救済手段として機能することが期待され
る。
したがって、本件裁決は無効である。
(被告法務大臣)
ア 憲法上、外国人は、本邦に入国する自由を保障されているものでないことはもちろん、在
留の権利ないし引き続き本邦に在留することを要求する権利を保障されているものでもな
い。そして、法50条1項所定の在留特別許可を与えるか否かも、外国人の出入国に関する処
分であることから、同様に被告法務大臣の自由裁量に委ねられているものと解すべきであ
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る。このことは、同項の規定の仕方からも明らかである。しかも、在留特別許可は、退去強制
事由に該当することが明らかで当然に本邦からの退去を強制されるべき者に対し、特別に在
留を認める処分であるから、その性質は恩恵的なものである。そうすると、その判断に当た
っては、当該外国人の個人的事情のみならず、その時々の国内の政治、経済、社会等の諸事情、
外交政策、当該外国人の本国との外交関係等の諸般の事情を総合的に考慮すべきものであっ
て、同許可に係る裁量の範囲は極めて広範囲なものというべきである。すなわち、被告法務
大臣の判断が違法となるかを判断するに当たっては、被告法務大臣の裁量権の行使としてな
されたものであることを前提として、その判断の基礎とされた重要な事実に誤認があること
等により上記判断が全く事実の基礎を欠くか否か、又は事実に対する評価が明白に合理性を
欠くこと等により、社会通念に照らして著しく妥当性を欠くことが明らかであるか否かにつ
いて審理し、それが認められる場合に限り、裁量権の範囲を超え又はその濫用があったもの
として違法となるというべきである。
イ また、法は、24条で退去強制事由を列挙し、27条以下にその手続を規定しているが、難民
認定手続と退去強制手続の関係については何ら規定しておらず、むしろ、法61条の2の8の
規定からは、難民認定を受けている者についても法24条1項各号に該当する限りこれを認定
しなければならないし、退去強制手続も進めなければならないことを前提としていると解す
ることができるから、難民認定申請をしていること又は難民認定を受けていることは、退去
強制手続を当然に停止せしめるものではなく、在留特別許可を付与するか否かについて判断
する際に考慮することになる事情の一つにすぎない。
ウ しかして、原告に下記の諸事情があることを考慮すると、本件裁決が無効となる余地はな
いというべきである。すなわち、
ア 原告は、在留期限である平成11年3月6日を経過して、本邦に不法に残留しており、法
24条4号ロの要件を充たす。
イ 原告は、外国人登録法8条1項に基づく居住地変更登録義務に違反している。
ウ 原告は、本国スーダンで出生・生育しており、来日するまで我が国と関わりがない。
エ 前記のとおり、原告が帰国したとしても、迫害を受けるおそれがあるという十分に理由
のある恐怖があるとは認められない。
オ その他、原告には、在留を特別に許可すべき事情がない。
 争点(各論その3−第2次不認定処分は違法か)について
(原告)
ア 法は、日本が難民条約を批准したことに基づき、締結国の義務履行として立法されたもの
であり、かつ根本概念である難民概念を独自に定義することなく、難民条約に譲っている。
そして、難民条約は、決して難民の概念を申請時期に係らしめることをせず、単なる手続と
してもそのような規定を置いていない。このことは、難民認定が確認行為であることからす
ると、当然のことである。しかるに、申請に法定期間を設けることは、条約上の難民概念の要
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件を充足することに加え、難民認定の申請を上陸後法定期間内に行うことの要件を付加し、
難民概念を加重、厳格化するものというべきである。したがって、いわゆる60日ルールは、
法の基礎である難民条約の趣旨に反し、違法・無効である。このことは、国連難民高等弁務
官事務所執行委員会が定めた「難民の国際的保護に関する結論」の記述からも明らかであり、
これは法規範性を有するというべきである。
現に、被告法務大臣自身、60日の法定期間を経過した難民認定申請に対して弾力的な運用
をしており、被告法務大臣の主張は破綻している。
イ 形式的に第2次申請の申請日を基準日として60日ルールを適用すると、いかなる理由があ
っても難民認定申請手続における再審は成立しないことになる。しかし、このような判断は、
生命の危険を含む迫害から申請者を庇護しようとする難民条約及び法の趣旨に反する。
少なくとも、第1次申請に難民条約や法の趣旨に反する重大な瑕疵がある場合は、再審申
請を許容すべきである。この場合、司法的救済が存することを理由に再審申請を拒否するこ
とは、難民条約、憲法31条又は条理上認められる「難民申請に関して適正な行政手続を受け
る権利」を侵害するというべきである。 
本件においては、第1次申請の際、被告らが適正な翻訳者、通訳人を選任せず、立証責任を
教示しないなど、著しくずさんな手続によって不認定処分が行われた以上、上記の重大な瑕
疵があるものとして、再審申請が認められるべきである。
ウ また、本件においては、第1次不認定処分において、原告が、難民に当たるにもかかわらず、
争点の原告主張のとおり、適正な手続による十分な調査が実施されなかったことにより第
1次申請が不認定となり、やむなく第2次申請がなされたのであるから、法61条の2第2項
ただし書のやむを得ない事情に当たると解すべきである。
エ 以上のとおり、第2次不認定処分は違法であり、取消しを免れない。
(被告法務大臣)
ア 法61条の2第2項は、難民認定申請は、本邦にある外国人が本邦に上陸した日から60日
以内に、また、本邦にある間に難民となる事由が生じた者にあっては、その事実を知った日
から60日以内に行わなければならない旨、また、やむを得ない事情があるときは、この限り
ではない旨定め、申請者が申請期間内に申請したことを難民の認定を受けるための手続的要
件としている。これは、難民となる事実が生じてから長期間経過後に申請されると、その当
時の事実関係を把握するのが著しく困難となり、適正かつ公正な難民認定ができなくなるこ
と、迫害を受けるおそれがあるとして我が国に庇護を求める者は、速やかにその旨申し出る
べきであること及び我が国の国土面積、交通・通信機関、地方入国管理官署の所在地等の地
理的、社会的事情からすれば、60日という期間は申請に十分な期間と考えられること等を理
由としており、十分に合理性を有する。そして、やむを得ない事情とは、病気、交通の途絶等
の客観的事情により物理的に入国管理官署に出向くことができなかった場合のほか、本邦に
おいて難民認定の申請をするか否かの意思を決定するのが客観的にも困難と認められる特段
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の事情がある場合をいうものと解すべきである。
イ しかるところ、第2次申請の理由は、ウンマ党に所属し活動していた証拠となる党員証明
書等を提出して、帰国すれば迫害を受けるというものであり、その内容はおおむね第1次申
請のそれと同じである。したがって、原告の主張する迫害事由は、本邦入国以前に係るもの
であり、また、原告は、本邦においては何ら政治活動を行っておらず、本邦にある間に難民と
なる事由が生じた場合に当たらないから、申請遅延についてやむを得ない事情も認められな
い。また、原告は、第1次申請の補充というべき再審として第2次申請をなした旨主張する
が、第2次申請は、新たに申請がなされたものであって、原告の主張は失当である。しかも、
原告の供述は、前記のとおり、信用できず、条約上の難民に該当しない。したがって、第2次
不認定処分に何らの違法はない。
 争点(各論その4−本件退令発付処分は無効か)について
(原告)
本件裁決は、争点の原告主張のとおり、違法・無効であるから、本件退令発付処分も違法・
無効である。
(被告名古屋入管主任審査官)
ア 退去強制手続においては、容疑者が法24条各号の一つに該当するとの入国審査官の認定若
しくは特別審理官の判定に容疑者が服したとき又は法務大臣から上記判定に対する容疑者の
「異議の申出は理由がない」旨の裁決の通知を受けたときには、主任審査官は、当該容疑者に
対する退去強制令書を発付しなければならないのであり、退去強制令書を発付するか否かに
ついて主任審査官の裁量の余地は全くない。
イ この点について、原告は、条約上の難民と認定されなくとも、帰国すれば迫害を受け、生命
の危険を招来するおそれがあると主張する(争点における原告の主張)が、退去強制手続
において、迫害を受けるおそれがあると主張する外国人からの法49条1項に基づく異議の申
出がなされた場合には、被告法務大臣は、その送還が、難民をいかなる方法によっても人種、
宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること、又は政治的意見のために、その
生命又は自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放又は送還してはならないと
いう「ノン・ルフールマンの原則」(難民条約33条参照)に違反することにならないか否かに
ついても考慮した上で、在留特別許可の許否の判断をしているから、何ら難民条約33条1項
に反するものではなく、原告の主張には理由がない。
ウ したがって、本件裁決が違法であるといえない以上、本件退令発付処分も適法である。
第3 当裁判所の判断
1 争点(総論その1−原告は条約上の難民に当たるか)について
 難民であることの立証責任の所在について
一般に、抗告訴訟における主張立証責任については、その適法性が問題とされた処分の性質
によって、分配原則を異にするのが相当である。すなわち、当該処分が、国民の自由を制限し、
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国民に義務を課するいわゆる侵害処分としての性質を有する場合は、処分主体である行政庁が
その適法性の主張立証責任を負担し、逆に、国民が、特別な利益・権利を取得し、あるいは法定
の義務を免れるいわゆる受益処分としての性質を有する場合には、当該国民がその根拠法令の
定める要件が充足されたこと(申請却下処分が違法であること)の主張立証責任を負担すると
解するのが原則であり、これに根拠法令の規定の仕方や要件に該当する事実に対する距離など
を勘案して、総合的に決するのが相当である。
本件において問題とされている難民の認定処分は、本来、当然には本邦に滞在する権利を有
しない外国人(最高裁判所昭和53年10月4日大法廷判決・民集32巻7号1223頁参照)に対し
て、その資格をもって滞在することを認め、あるいは出入国管理上の特典を与えるものであり
(法61条の2の5、61条の2の6第3項、61条の2の8参照)、これに、法61条の2第1項が、
申請者の提出した資料に基づいて法務大臣がその者を難民と認定することができる旨規定し、
法61条の2の3第1項が、申請者の提出した資料のみでは適正な難民の認定ができないおそれ
がある場合その他難民の認定又はその取消しに関する処分を行うため必要がある場合には、法
務大臣は難民調査官に事実の調査をさせることができる旨規定するなど、申請者の提出した資
料が第1次的判断資料とされていること、さらには、難民であることを基礎づける事実は、申
請者の生活領域内で生ずるのが通常であることなどを総合すると、条約上の難民に該当する事
実の主張立証責任は、申請者が負担すると解するのが相当である(原告も、申請者に基本的な
主張責任があること自体は認めている。)。
もっとも、経験則上、迫害を受け、あるいは受けるおそれがあることによって母国を出国し
た者については、十分な客観的証明資料を所持していることを期待できず、出国してからも、
これらの資料を収集するための協力を得ることが困難であることが多いと考えられるから、申
請者がこれらの資料を提出しないからといって、直ちに難民であることを否定すべきではな
く、申請者本人の供述するところを主たる材料として、恐怖体験による記憶の変容、希薄化の
可能性なども十分に考慮した上で、その内容が首尾一貫しているか、不合理な内容を含んでい
ないか等を吟味し、難民であることを基礎づける根幹的な主張が肯認できるか否かに従って、
最終的な判断を行うべきである。

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