難民認定をしない処分取消等請求事件
平成14年(行ウ)第19号
原告:A、被告:法務大臣・名古屋入国管理局主任審査官
名古屋地方裁判所民事第9部(裁判官:加藤幸雄・舟橋恭子・平山馨)
平成15年9月25日
判決
主 文
1 被告法務大臣が、原告に対して平成14年1月16日付けでした出入国管理及び難民認定法49条
1項に基づく異議の申出は理由がないとの裁決を取り消す。
2 被告名古屋入国管理局主任審査官が、原告に対して平成14年1月18日にした退去強制令書の
発付を取り消す。
3 原告の被告法務大臣に対するその余の請求を棄却する。
4 訴訟費用はこれを3分し、その1を原告の、その余は被告らの各負担とする。
事実及び理由
第1 請求
1 被告法務大臣が、原告に対して平成14年1月16日付けでした難民の認定をしないとの処分を
取り消す。
2 主文1、2項と同旨
第2 事案の概要(以下、年号については、本邦において生じた事実は元号を先に、本邦外において生
じた事実は西暦を先に表記する。)
本件は、旧ビルマ連邦(現ミャンマー連邦。以下、国名の変更があった1989(平成元)年6月18
日を境に、これより前は「ビルマ」、同日以後は「ミャンマー」という。また、同名の民族、言語に
ついては、その前後を問わず「ビルマ民族」又は「ビルマ人」、「ビルマ語」といい、国籍で区別す
るときは「ミャンマー人」という。)において出生した原告が、被告法務大臣(以下、本件における
被告としてのそれを「被告大臣」という。)に対して難民認定申請をしたところ、同被告が原告に
対し難民の認定をしない処分をし、次いで原告に不法入国の退去強制事由がある旨の入国審査官
の認定に誤りがないとの特別審理官の判定に対してした異議の申出は理由がないとの裁決をした
ため、同被告に対してこれらの取消しを求め、さらにその裁決に基づいて被告名古屋入国管理局
主任審査官(以下「被告主任審査官」という。)が原告に対する退去強制令書を発付したため、同
被告に対してその取消しを求めた事案である。
1 前提となる事実
 原告の身上と本邦への入国
原告は、1967(昭和42)年《日付略》に出生したミャンマー国籍を有する外国人であり、平成
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4(1992)年6月22日、他人(B)名義のミャンマー旅券を用いて、名古屋空港に到着した。
原告は、同空港において、名古屋入国管理局(以下「名入管」という。)名古屋空港出張所入国
審査官に対し、渡航目的「訪問(Visit)」、日本滞在予定期間「10日間」として上陸申請を行い、
同入国審査官から、在留資格「短期滞在(Temporary Visitor)」及び在留期間「15日間」の許可
を受け、本邦に上陸した(乙3)。
 退去・収容関係手続
ア 原告は、平成11(1999)年12月6日、帰国を希望して名入管に出頭申告した。そこで、名
入管入国警備官は、同日、原告について違反調査を実施し(乙5の1及び2)、同年12月9日
に再度出頭するよう求めた(乙5の3)が、原告は出頭しなかった。
イ 名入管入国警備官は、原告が平成13(2001)年11月2日に出入国管理及び難民認定法(以
下、法律名を示すときは「入管難民法」と、条文を示すときは単に「法」という。)70条1項5
号違反(不法在留)の被疑事実により逮捕(乙4)、勾留された(甲7)ことから、同月21日、
名入管主任審査官から収容令書(乙7)の発付を受け、同月22日の不起訴(起訴猶予)処分(乙
6)後、これを執行して名入管収容場に収容するとともに、同年12月6日まで4度の違反調
査をした(乙8、10ないし12)。
他方、名入管入国審査官は、同年11月22日に入国警備官から原告の身柄の引渡しを受け
(乙9)、同年12月14日まで4度にわたり違反審査をした(乙13ないし16)結果、同日、原告
が法24条1号(不法入国)に該当すると認定し、その旨通知した(甲3、乙16、17)。
ウ 原告は、この認定を不服として、前同日、法48条1項に基づき、名入管特別審理官に口頭
審理の請求をした(乙16)が、名入管特別審理官は、同月20日の口頭審理(乙20)の結果、同
認定に誤りがないと判定してその旨原告に通知した(甲4、5、乙18、21)。
エ 原告は、この判定を不服として(乙20)、同日、法49条1項に基づき、被告大臣に異議の申
出をした(乙22)が、同被告は、平成14(2002)年1月16日、その理由がない旨裁決し(以下
「本件裁決」という。)、同月18日、これを被告主任審査官を通じて、原告に通知した(甲2、
乙23、24)。
オ 被告主任審査官は、同日、原告に対して、送還先をミャンマーとする退去強制令書(以下「本
件退令」という。)を発付した(乙25の1。以下「本件発付」という。)。
カ 原告は、平成14(2002)年2月14日、法務省入国者収容所西日本入国管理センターに移収
された(乙25の2)が、同年6月3日、仮放免を許可された(乙26)。
 難民認定申請関係手続
ア 原告代理人Cは、前記入管難民法違反(不法在留)の嫌疑により原告が勾留中であった平
成13(2001)年11月20日、政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるとして、被告大臣
に対して難民認定申請書を提出したところ、名入管は、難民認定申請の代理人資格を制限し
た法施行規則55条を理由として、原告の同申請の意思が確認された同月22日付けをもって
受理した(甲6の1及び2、乙27、86、87、弁論の全趣旨。以下「本件難民申請」という。)。
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被告大臣は、難民調査官による2度の調査(乙28、29)の結果、平成14(2002)年1月16日、
本件難民申請が、法61条の2第2項所定の期間を経過してされたものであり、かつ、原告の
申請遅延について、同項ただし書の規定を適用すべき事情は認められない旨を理由として、
原告に対して難民の認定をしない処分をし(甲1、乙30。以下「本件不認定処分」という。)、
同月18日、これを原告に通知した。
イ 原告は、本件不認定処分を不服として、同月22日、被告大臣にこれに対する異議の申出を
し(甲64、乙31)、現在被告大臣において審理中である。
 本件訴訟の提起
原告は、本件訴訟を平成14(2002)年4月12日に提起した。
2 主な争点
 本件不認定処分の適否
ア 難民認定申請期間制限条項(法61条の2第2項本文。以下「60日ルール」という。)の合憲
性等の有無
イ 「やむを得ない事情」(同項ただし書)の有無
ウ 適正手続の履行の有無
エ 原告の難民性の有無
 本件裁決の適否
 本件発付の適否
3 争点に関する当事者の主張
 争点ア(60日ルールの合憲性等の有無)について
(原告の主張)
ア 国際法及び憲法98条2項違反(難民の待遇に関する国際慣習違反)
我が国は、難民の地位に関する条約(以下、単に「条約」という。)及び難民の地位に関する
議定書(以下、単に「議定書」といい、条約と併せて「条約等」という。)の締約国として、条
約1条に定義する難民に該当するすべての者に対して様々な便宜を供与する義務を負うか
ら、条約等上の難民に該当する者が難民としての庇護を求めた場合に、こうした便宜を与え
ないことは許されない。そして、条約の基本構造に照らせば、人は、認定を経て難民となるの
ではなく、認定は難民であることを確認し、宣言するものであるから、上記の定義に含まれ
ている要件を満たすや、特別の難民認定手続を経ることなく、直ちに条約等上の難民として
扱われるべきである。したがって、条約等は、締約国により条約等上の難民に当たる者がそ
のまま正確に難民であると認定されることを要請しており、仮に国内法の難民認定手続が、
条約等上の難民に当たる者のうち一定の者を難民と認定しない結果をもたらすようなもので
ある場合、その手続規定は、条約等に違反する疑いが極めて濃いといわなければならない。
現に、欧州諸国をはじめとする先進国において、難民認定申請に期間制限を設けている国は
ほとんどなく、設けている米国、ベルギー等においても、例外を認める扱いを採っている。
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もっとも、条約等は、難民認定手続について具体的な規定を置いていないから、日本を含
めた条約等の締約国は、自国が妥当と考える行政的・司法的認定手続を選択することができ、
難民認定申請者に対して、申請を一定期間内に行うよう求めることはできる。しかしながら、
条約等は、被告らが想定するようなフリーハンドの難民認定手続を設けることを許容してい
るわけではなく、条約等の上記趣旨・目的に適合する必要があるので、手続上の要件欠缺を
理由に難民の権利及び基本的自由の否定という結果を招くような慣行は、いかなるものであ
っても許されない。この点について被告らは、D氏の難民不認定処分に関する最高裁判所平
成9年10月28日第三小法廷判決を援用するが、同判決は、法規その他の法原則の適用に関し
て一定の判断を示したものではなく、拘束力を有するものではないし、D氏は、その後の第
2、3次難民認定申請のいずれかが理由ありと認められ、難民として認定されてもいる。し
たがって、その期間内に申請がない場合でもその者の申請を検討の対象から除外すべきでな
く、難民性の実体判断を行わなければならないというのが条約等から導かれる論理的帰結で
ある。そして、60日という極めて短期間の申請期間を定めた法61条の2の規定をこれに適合
するように解釈するならば、上記申請期間は、単に努力目標を定めたものと解釈するか、そ
の例外としての「やむを得ない事情」をかなり広く解して、期間経過後の難民認定申請につ
いても難民性の実体判断をすることが原則となるような解釈をするほかない。
しかるに、被告らの主張するように、申請期間の遵守を難民性の実体審査に入る前にクリ
アされるべき条件と位置付け、「やむを得ない事情」を極めて限定的に解するならば、条約等
上の難民であるにもかかわらず、難民認定申請が60日以内に行われないという理由によっ
て難民と認定されない者を制度的に生み出すものとして、「入管難民法上の難民」と「条約等
上の難民」という2種類の難民概念を作り出すに等しく、合理性を欠く。そのような解釈で
は、条約7条ないし34条の各個別条項に定められた各種の難民保護措置(特に33条1項のい
わゆるノン・ルフルマン原則、28条の旅行証明書の発給、7条の相互主義の適用の免除、27
条の身分証明書の発給、22条2項の教育に関する待遇等)を全うすることができない。この
点について、被告らは、例えば退去強制手続に関する法53条3項によってノン・ルフルマン
原則が保障されていると主張するところ、第三国に送還するためにはその国の承諾等が必要
であるが、その受入れについては何らの制度的保障もないし、我が国では現実に法務省(入
国管理局)のいう「国益」を重視する裁量判断が先行していて、現行の退去強制手続は何ら同
原則の担保になっていないことは明白であること、また、恩恵的な在留特別許可制度によっ
て同原則が担保されるということ自体深刻な矛盾であることなどを考慮すると、入管難民法
は、本来、難民認定手続における難民認定を通じてノン・ルフルマン原則等を担保すること
を予定しているというべきである。
以上の法理は、国連難民高等弁務官事務所(以下「UNHCR」という。)執行委員会結論15
号が「庇護なき難民の決議」において、「難民として保護を求める人々がその難民認定申請を
一定期間内にしなければならないと定められている場合にも、そのような期間を遵守せず、
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ないしはその他の形式上の要件を履行していないことを理由として難民申請を審査の対象か
ら除外してはならない。」と定めていることからも明らかであり、短期間内に難民認定申請を
しない条約上の難民に対して、難民としての庇護を与えないことが許されないことは、国際
慣習として確立しているというべきである。
この点について、被告らは、条約等上の難民でありながら60日ルールによって難民と認定
されなくとも、条約上の保護措置の利益は、一部を除いて、ア難民であるか否かに関わらず
享受し得るか、又はイ各行政機関が難民であるとの個別的判断を行うことによって享受し得
ると主張するが、難民認定という複雑な判断を各行政機関がその都度行うことは効率的でな
いし、行政の不統一を露呈することにもなりかねず、また条約等上の義務履行に問題を生じ
かねないので、我が国においては、法務大臣の難民認定を受けずに各行政機関が個別に難民
性を判断することはできない(いわゆる統一認定方式)と解すべきであり、難民と認定され
た者に交付される難民認定証明書、難民旅行証明書は、まさに統一的な認定を行うべき機関
である法務大臣が難民と認めた証明書となる。被告らが、ア難民と認定されているか否かに
関わらず利益を享受することができるという保護措置は、認定難民に限り保護措置を認める
通達等が実務を羈束しているか、そもそも条約から解釈される保護措置に当たらないかのど
ちらかであるし、イ各行政機関等の判断により実施される保護措置があるというのも、現実
と乖離している。
さらに、被告らは、難民が迫害の恐怖から早期に逃れるために速やかに他国の保護を求め
るのが通常であり、早期に保護を求めなかったことは、難民に当たるとの主張の信ぴょう性
を疑わしめるかのような主張をするが、多くの難民は当局の人間に不信感を抱くに十分な経
験をしてきて、不正規在留者の場合、難民認定申請をすることによって逆に本国に送還され
るのではないかという恐怖心が非常に強い上、自分以外の人を危険にさらすことを恐れてい
る可能性もあるから、速やかに難民認定申請をしなかった事実を難民非該当性に直結させる
ことは、重大な事実誤認又は経験則違背である。日本では、難民認定手続が外国人に周知さ
れていないため、申請期間に制限があること自体があまり知らされておらず、手続的に不透
明であることに加え、難民行政が(必要以上に)厳格に運用されていて、そのことが申請者の
懸念を一層増幅させており、このような難民の特殊性を何ら考慮することなく、申請の時期
を信ぴょう性の判断要素とするどころか、それによって難民性の判断そのものを放棄するよ
うな運用及びその理由付けとしての被告らの主張は、全く妥当性を欠くものとして、我が国
が何らの留保を付さずに条約を批准していることと矛盾し、条約等や国際慣習法を含めた国
際法、ひいては条約の国内的効力を認めた憲法98条2項に違反する。
イ 憲法31条違反
憲法31条の適正手続保障規定は、行政手続にも準用され、難民認定申請者が正当な理由な
く難民認定申請を行う機会を奪われないこと、難民認定手続の準備のために十分な時間を与
えられることを保障するところ、60日ルールは、短期間の経過をもって、本人の難民該当性
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の有無を審査することなく難民認定を拒絶することにより、我が国における庇護の可能性を
否定するという結果をもたらすものであって、憲法31条に違反する。
(被告らの主張)
ア 国際法及び憲法98条2項適合性
原告の主張アは争う。
原告の主張は、以下のとおり、条約等の国際法及び我が国の法制度を正解しないものであ
って、失当といわざるを得ない。
条約が、難民の定義及び締約国の採るべき「保護」措置について相当に詳細な規定を置い
ているにもかかわらず、難民認定手続については何ら定めていないのは、各国の置かれた政
治的、社会的、経済的、地理的等々様々な与件の下で、外国人(難民も外国人である。)の入国・
滞在を許容するか否かを各主権国家の裁量に委ねてきた伝統的な国際法の原則の修正を受け
容れることは困難であるという共通の認識が国際社会に存在し、これを反映して各国の出入
国管理制度がかなり不揃いであること、難民の入国・滞在については一国の負担が他国の利
害と複雑に絡まっていること等の理由によるものである。したがって、そもそも条約の下で、
締約国は、難民を積極的に受け入れる義務、すなわち、難民を「庇護」する義務を課されてい
ないのであって、条約等は、締約国が受け入れた難民に対して当該締約国が一定の「保護」を
与えることを義務付けているにすぎず、認定手続を定めるか否か、定めるとした場合にどの
ように定めるかについても、各締約国の立法政策上の裁量に委ねているから、条約等上の難
民に該当する者であっても、自分の希望する締約国に入国できず、難民申請もできない場合
が理論上生じ得ることを当然に認めている。このことは、原告と同様の主張を明確に排斥し
た最高裁判所平成9年10月28日第三小法廷判決(いわゆるD判決)からも明らかである。
我が国においては、入管難民法が難民認定手続について規定しているところ、60日ルール
を含む法61条の2第2項の規定も、難民認定申請の手続的要件であり、これに違反して不適
法な申請をした者が難民認定を受けられないのは当然であって、同項は、条約等の定める「難
民」の要件を加重してその概念を変更し、又はその法的効果を排除し若しくは変更するもの
ではないから、条約42条による同1条の留保禁止に何ら反するものではない。難民として受
け入れ、条約上の「保護」を与えるか否かは、締約国が主権的判断に基づいて決定すべき事項
であり、このことは、条約前文が難民を自国の領域内に受け入れて滞在を認めることを意味
する「庇護」と、難民に対して種々の権利ないし利益を付与することを意味する「保護」とを
明確に区別していることや、条約の起草過程における議論等からも明らかである。
この点について、原告は、UNHCR執行委員会の見解を援用するが、条約の解釈は、条約
締約国の意思に適合するように条約の規定の意味と範囲を確定させるものであるところ、
UNHCR執行委員会は、条約によって設立されたものではなく、飽くまで第三者機関にすぎ
ないのであって、締約国の合意を離れて締約国がその見解に拘束されるものではない。しか
も、同委員会の結論15号は、難民認定手続に関するものではなく、当該難民を受入れる国が
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ない難民に対し、庇護を与えるよう最善の努力をすべきであるという指針を示したものにす
ぎないし、そもそも同委員会の結論30号も、明らかに理由がないとみなされる申請を迅速に
処理するための特別の規定を置くことができる旨述べており、申請期間の制限を禁止するよ
うなことは全く述べておらず、ましてそれを禁止する国際慣習法は存在しない。現に、米国
では到着してから1年以内、ベルギーでは不法入国者の場合入国から8勤務日以内、スペイ
ンでは同様に入国後1か月以内の期間に難民認定申請すべきことを定めている。
また、60日ルールが適用される結果、条約等上の難民でありながら難民と認定されない場
合であっても、条約上の保護措置の利益は、難民旅行証明書の発給(法61条の2の6第1項、
条約28条)を除いて、ア難民であるか否かにかかわらず享受し得るもの(教育や労働法制・
社会保障に関する保護措置、身分証明書の発給、合法にいる難民の国外追放の禁止など)か、
イ関係行政機関等が個別に難民性を判断して実施することによって実質的に享受すること
が可能なもの(ノン・ルフルマン(送還の禁止)原則、相互主義の適用免除、属人法の問題、
避難国への不法入国・不法滞在の刑事免責など)であるし、難民旅行証明書を有していなく
ても、我が国に合法的に滞在する難民は、旅券と同様のものとして取り扱われている再入国
許可書の交付を受けて(法26条)海外渡航することは可能であり、運用実態等を入管難民法
の条約適合性の判断要素として考慮しようとする原告の主張は、不適切である上、その指摘
する通達等についても、認定を受けていない難民について何らかの制限を設けたものではな
く、その趣旨を正解していない。
そもそも、避難国に不法にいる難民については、遅滞なく当局に出頭することを要件とし
て刑罰が免除されることを定めた条約31条1項、庇護希望者は庇護を求める意思を庇護国当
局又はUNHCRに速やかに伝えなければならない旨記載されたUNHCR作成の「難民認定研
修マニュアル」並びに先進諸外国の国内法令の規定及び行政・司法解釈に照らしても、難民
が迫害の恐怖から早期に逃れるために速やかに他国の保護を求めるのが通常であることが、
一般的な経験則として認められているところ、原告の主張するように難民認定申請に期間制
限を設けていない条約の締約国もあることは確かであるとしても、このことによって同経験
則が何ら否定されるものではなく、このような経験則が認められる場合に、それを難民該当
性の信ぴょう性の判断の資料として使用するにとどめるのか、それとも、それを基礎として、
我が国のように、難民認定行政の適正かつ円滑な実施を図るという目的達成のために、合理
的な期間制限を設けるのかは、条約等が各締約国の裁量に委ねている事柄であり、法61条の
2第2項は、こうした経験則を基礎として、難民認定行政の適正かつ円滑な実施を図るとい
う目的達成のために設けられた規定である。
そして、仮に上陸後60日を経過した後に行われた難民認定の申請であっても、法61条の2
第2項ただし書に規定する「やむを得ない事情」が認められる場合には、60日の期間内にさ
れた申請と同様に難民性の有無を判断され得ることをも併せ勘案すれば、同項の規定が、条
約等の趣旨に照らし合理性を欠くとは解されず、憲法98条2項に反するともいえない。 
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イ 憲法31条適合性
原告の主張イは争う。
法61条の2第2項は、前記のとおり、我が国の実情にあった合理的かつ適正な手続を定め
る規定である。
すなわち、法務大臣は、上陸後60日を過ぎて申請があった場合でも申請を受理してやむを
得ない事情があったか否か等を判断しているのであり、加えて、仮に法61条の2第2項によ
り難民認定しなかったときでも、条約等上の難民該当性を審査し、難民であると判断されれ
ば、当該外国人は条約で規定されている保護措置の利益を実質的に享受することが可能であ
り、条約等上の難民に対して何ら不利益を課すものではないから、入管難民法の手続は適正
なものであり、憲法31条の規定に反するものではない。
 争点イ(法61条の2第2項ただし書のやむを得ない事情の有無)について
(原告の主張)
ア 難民の特殊性と「やむを得ない事情」の趣旨
60日ルールが仮に条約等に反しないとしても、難民の立場で考えれば、難民であることの
表明は故国との絶縁という重大な結果をもたらすばかりか、それ自体危険を伴う行為である
から、避難国が信頼に足るか否かに不安を抱く場合もある(日本の入国管理局が難民を認め
ようとしないことは外国人であれば周知の事実であり、当局に自らの難民性を認めさせるた
めには、明白な証拠とその翻訳のため等の多大な労力と時間と費用が必要である。)し、差し
当たり平穏に在留できていれば迫害を受ける危険から逃れられるから、そのような状態が続
く限りは難民であることを秘匿し、それが維持できなくなって初めて、いわば最後の手段と
して、難民であることを理由に保護を求めるのも無理からぬものと考えられる。そのような
実情に照らすと、平穏に在留している以上は難民認定を申請しないことにつき定型的に「や
むを得ない事情」があるというべきであって、それが難民申請権の濫用にわたるなど難民と
しての保護に値しないと認められる特段の事情がなく、実体審査をするまでもなく難民に該
当しないことが明らかな場合でない限りは、原告の難民認定制度に関する知識の有無や申請
を決意した時期等にかかわらず、期間徒過のやむを得ない事情があったと解するのが、条約
等はもとより、入管難民法の立法目的にも適う。
前記の条約等の趣旨や締約国としての義務にかんがみれば、法61条の2第2項ただし書の
「やむを得ない事情があるとき」については、形式的に60日間を過ぎていても、その都度、期
間徒過の程度、徒過に至った理由、難民申請者の難民該当性等を総合勘案してその有無を決
定すべきところ、その判断が著しく合理性を欠く場合には、裁量の範囲を逸脱するものとし
て違法性を有すると解すべきである。
イ 被告らの主張に対する反論
被告らは、申請期間の遵守を難民性の実体審査に入る前にクリアされるべき条件であると
位置づけ、「やむを得ない事情」について、病気、交通の途絶等の客観的事情により物理的に
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入国管理官署に出向くことができなかった場合か、本邦において難民認定の申請をするか否
かの意思を決定するのが客観的にも困難と認められる特段の事情がある場合をいう旨極めて
限定的に解し、その理由として、長期間経過後に難民認定申請がされると事実関係を把握す
るのが著しく困難となること、我が国に庇護を求める者は速やかにその旨を申し出るべきで
あること、我が国の地理的、社会的実情からすれば、60日という期間は申請に十分な期間と
考えられることを主張するが、迫害から逃走してくる者は、ごく少量の必需品のみを所持し
て到着することが通常であり、60日ルールを強固に貫いたところで事実関係の把握という観
点からはそれほど意味がないこと、速やかに難民認定申請をしないことが難民非該当性を物
語るという被告らの主張自体が経験則に反していること、我が国の物理的環境だけで難民性
の実体判断をしないことを正当化することはできないことを考慮すれば、かかる解釈は合理
性を欠き、条約等に違反することが明らかである。
ウ 原告の本件難民申請に係る事情
原告は、在留資格は有していなかったが、我が国において平穏に在留していたものであり、
日本入国後は頼るべき人物もおらず、難民認定申請についての知識もなく、もちろん60日ル
ールも知らなかった。したがって、原告に上陸後60日以内に難民認定申請することを期待す
るのは不可能であり、これができなかったことには相当な理由があるというべきであって、
それをもって原告の難民性を否定するようなことが許されるはずがない。原告が入管難民法
所定の期間を経過したことには「やむを得ない事情」が存したというべきである。
(被告らの主張)
原告の主張は争う。
ア 「やむを得ない事情」の意義
入管難民法が、本邦に上陸した日又は本邦にある間に難民となる事由が生じた場合にあっ
てはその事実を知った日から60日以内に難民認定の申請を行わなければならないと定めて
いるのは、難民となる事実が生じてから長期間経過後に難民の認定が申請されるとその当時
の事実関係を把握するのが著しく困難となり、適正かつ公正な難民認定ができなくなるこ
と、迫害を受けるおそれがあるとして我が国に庇護を求める者は、速やかにその旨を申し出
るべきであり、速やかに難民認定申請をしないこと自体、難民非該当性を物語ると考えられ
ること、及び我が国の国土面積、交通・通信機関、地方入国管理官署の所在地等の地理的、社
会的実情からすれば、60日という期間は申請に十分な期間と考えられること等の理由による
ものであり、この趣旨からすれば、「やむを得ない事情」とは、本邦に上陸した日又は本邦に
ある間に難民となる事由が生じた場合にあってはその事実を知った日から60日以内に難民
認定の申請をする意思を有していた者が、病気、交通の途絶等の客観的事情により物理的に
入国管理官署に出向くことができなかった場合か、本邦において難民認定の申請をするか否
かの意思を決定するのが客観的にも困難と認められる特段の事情がある場合をいうものと解
すべきである。
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イ 原告の主張に対する反論
「やむを得ない事情」を原告主張のように解した場合、我が国においては、相当長期にわた
って難民認定申請を行わないことが容認される者が出てくる可能性があるが、長期の猶予期
間を与えることによって、時間の経過による証拠散逸のリスクが大幅に高まり、本人及び関
係者の記憶があいまいになる結果、正確な情報の収集が一層困難になると考えられるとこ
ろ、特に1980年代後半以降の難民認定申請者の急増に伴って、国際的に難民を装った移民の
問題が深刻化した結果、これに対処するため、難民認定制度の濫用を防止する必要性は、近
年ますます高まっており、こうした状況の下で、正確な情報の収集の困難を防止して偽装難
民の問題にまさに対処するために設けられた申請期間の制限の例外を広く解することは、到
底是認できないものといわなければならない。
また、原告は、平穏に在留していたことが「やむを得ない事情」を裏付けるかのように主張
するが、そのように無限定的に解釈することはできないのみならず、不法入国して不法に在
留を続け、入国後10年にわたって外国人登録をすることもなく、不法に就労して得た利得を、
正規の手続に基づかずに海外流出させたと述べている上、自動車を無免許で運転するなど、
数々の重大・悪質な違法行為を行っており、日常生活を営む上での様々な保護や利益を日本
国の地域社会等から享受しながら、それを支える税金の納付を行っている裏付けもなく、日
本国の国益という観点からみて、善良な通常人と比較して「平穏」な在留と呼ぶ余地もない。
ウ 原告の本件難民申請に係る事情
そもそも原告は、本邦入国後、平成11(1999)年12月6日に仕事がなくなったとして名入
管に出頭申告して帰国しようとするなど不自然な行動を取った上、帰国後逮捕されることを
危惧して、名入管が出頭を指示した違反調査日に出頭せず、不法に滞在していたところ、平
成13(2001)年11月22日、名入管に収容されて、本件難民申請に及んだものであり、法定申
請期間を経過した理由については、同年1月又は8月に弁護士から難民申請手続の説明を受
けて間もなく難民申請しようと資料を集め始めていた矢先に名入管に捕まった旨主張する一
方で、難民申請のことは、「1998年、東京でミャンマー人のデモに参加してから、同じロヒン
ギャー民族の人から声をかけられ知りました」旨も供述しているし、平成13年の退去強制手
続時には、平成11年の出頭理由を母の病気見舞いに変えるなどの供述の変遷も見られるとこ
ろであり、真に迫害を逃れ庇護を求める者であれば、手続を知った時点で直ちに申請を行う
のが当然と思われるにもかかわらず、真しに難民申請を行おうとしていたとは考え難い。し
かも、原告は、単なる法の不知を申し立てるのみで何らやむを得ない事情に該当する具体的
事実を主張するものではないから、申請期間の経過についてやむを得ない事情は認める余地
がない。
 争点ウ(適正手続の履行の有無)について
(原告の主張)
ア 通訳人の不適格
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本件のような難民事件においては、ミャンマー政府と利害関係を持たず、あるいは原告の
属する民族に偏見を持っていない通訳人を選任すべきであったにもかかわらず、原告の難民
調査の際の通訳人は、ロヒンギャーに批判的なラカイン出身のミャンマー人であったと思わ
れ、現に「ロヒンギャー民族」を「国民」と訳す等、十分な通訳がされなかった。そこで、不信
感を募らせた原告は、日本語で通訳人の通訳に介入し、そのような通訳であれば日本語で説
明した方がまだましであると考えて、調査担当者に対し、日本語で説明を加えたほどである。
イ 難民調査官の予断
また、原告の調査を担当した難民調査官(現在は大阪入国管理局所属)は、予断を持ち、原
告に対して時間が限られているから全ての話を聞くことはできないと述べて、それまでに作
成された供述調書の内容を引用することを伝え、現に原告が難民であることを訴えるべく繰
り返し説明したシットウェ刑務所の解放運動の話が意図的に除かれているが、難民調査官の
都合でこのような不十分な調査を行うことは許されるものではない。
以上のように、難民調査においては、適正手続違反の違法がある。
(被告らの主張)
原告の主張は争う。
ア 通訳人の適格性
名入管においては、能力及び人物評価をして選んだ名簿の中から、過去数年間の実績を調
査し、難民認定申請者と利害関係のない等適切な者を選定し、難民認定申請者から忌避する
旨の申立てがない限り通訳人として使用することとしているところ、本件不認定処分に関す
る調査において、通訳人の適格性に問題はなく、原告からも忌避する旨の申立てはなかった。
通訳人がラカイン出身の人物であったと思われるとする根拠も明らかでなく、仮にそうだと
しても、そのことだけで虚偽の通訳がされたということはできない。そもそも、通訳人の通
訳に問題があると考えたのであれば、相当な日本語能力を有する原告がそれを指摘したはず
であるが、そのようなことをしなかったばかりか、難民調査の際、ビルマ語で供述調書の読
み聞かせを受けた上で、それが誤りのない旨を申し立てたり、「昨日の通訳は十分理解しまし
た。」などと供述するはずがない。
イ 難民調査官による供述録取の妥当性
また、調査を担当した難民調査官が、原告に対して時間が限られているから全ての話を聞
くことはできないと述べた事実はなく、十分に時間をかけて原告から供述を録取している
し、それまでに作成された供述調書の内容を引用することを伝えた事実もなく、かえって原
告から「経歴については、何度も聞かれて矛盾点が出て、嘘をついていると思われるのが嫌
で、これまでの調書を難民の資料にしてほしい。」旨の申出があったものである。そして、同
調査官は、ほかの調書を引用する場合には、当該供述調書に引用を示す記載を行っている。
ちなみに、シットウェ刑務所の解放運動については、難民認定申請書に記載されているが、
難民調査等の手続においては、何らの供述がなかったので、調書に記載されていないにすぎ
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ない。
 争点エ(原告の難民性の有無)について
(原告の主張)
ア 難民性の立証
難民認定申請者は、必ずしも補強証拠等を携えて出国するわけではないので、個々の申請
者が本国に戻れば迫害を受ける可能性がどの程度あるかについては、最終的には個々のケー
スにおいてその本人の供述の信ぴょう性の存否を判断するほかない。そして、その判断には、
事実の評価や異文化コミュニケーションなどの面で極めて高度な能力を要するのであり、そ
の意味で、難民認定を行う者は、十分な経験と見識が必要とされる。
難民該当性に関する原告の供述は具体的であって、若干の記憶違いあるいは表現違いはあ
るにしても一貫しているから、十分に信用できるものであるが、仮に原告の供述に矛盾点が
あれば、難民調査官はその点について説明を求めるべきであり、これをすることなく矛盾を
理由に難民性を否定することは許されるものではない。
イ ミャンマーの一般的情勢
ア 政治情勢
ビルマは、1948(昭和23)年にイギリスから独立した後、1962(昭和37)年に、ネ・ウ
ィン将軍が軍事クー・デタによって全権を掌握し、その後、軍と情報組織を用いながら独
自の社会主義思想を標榜するビルマ社会主義計画党(BSPP)による一党支配が行われたが、
極端な経済不振にあえぎ、1987(昭和62)年12月には国連により後発発展途上国(いわゆ
る最貧国)としての指定を受けるに至った。
1988(昭和63)年3月、旧ラングーン工科大学(現ヤンゴン工科大学)の一部の学生が
反体制の抵抗運動を始め、同年8月後半から9月前半にかけてその運動は最も高揚し、当
初の「反ネ・ウィン」闘争から、複数政党制の実現、人権の確立、経済の自由化を三本柱と
する民主化闘争に姿を変えて、首都ラングーン(以下、1989(平成元)年6月18日を境に、
同日以降については「ヤンゴン」という。)市では連日数十万人がデモや集会に参加した。
アウン・サン・スー・チー(以下「スー・チー」という。)も1988(昭和63)年8月に学生
たちに推されて表舞台に登場したが、同年9月18日、国軍幹部20名から構成される国家法
秩序回復評議会(以下「SLORC」という。)による軍事政権の成立が宣言され、それまで建
前上は政治の表舞台に立つことがなかった国軍が全面的に政治権力を行使することになっ
た。
SLORCは、デモ隊に発砲を続ける一方、複数政党制の導入と総選挙の実施を公約し、
1990(平成2)年5月27日に複数政党制に基づく国会(人民会議)の総選挙を実施したと
ころ、前年7月からの国家防御法に基づくスー・チーの自宅軟禁による露骨な選挙活動妨
害にもかかわらず、軍事政権の後押しした民族統一党(NUP)の10議席に対し、スー・チ
ーが書記長を務める国民民主連盟(以下「NLD」という。)が全485議席の81パーセントに
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当たる392議席を獲得して圧勝した。しかし、SLORCはこの結果を認めず、国会も招集せ
ずに、政権委譲を無期限延期するとともに、代議員701名中、先の総選挙で当選した議員を
99名しか含まない制憲国民会議を1993(平成5)年1月に発足させ、1995(平成7)年11
月にNLD所属の代議員全86名が同会議が非民主的であることを理由にボイコットするや、
その全員を同会議から除名し、また、長期休会を繰り返しながら、現在まで長々と憲法草
案の審議を続けている。
当局は、NLDを合法的な政党と認めながら、明白な法的根拠のないまま国内各所の多く
の同党事務所を閉鎖して日常の政治活動を阻止し、スー・チーら党首脳陣らの政治的地位
を認めることを拒否しており、この間、SLORCは、1996(平成8)年末の大規模な抗議集
会に関係した34人(内11人がNLD党員)全員について、翌1997(平成9)年1月下旬に、
現存しないビルマ共産党の党員であるとして、最短で7年の禁固刑を科す等し、他のNLD
党員らも相次いで逮捕した。この時期に、NLD所属の議員は、辞職しなければその家族が
逮捕や公共部門からの永久解雇を受けるとの脅迫を受け、20人以上の議員が辞職を余儀な
くされたほか、7人の議員が逮捕され、獄中にある議員数は33人となった。
前後して、1996(平成8)年12月25日には、SLORC第2書記官で軍司令官でもあるティ
ン・ウ中将がヤンゴンの世界平和仏塔を参拝する直前に爆弾が爆発して5名が死亡、17名
が負傷し、1997(平成9)年4月7日には、同中将の娘チョ・レイ・ウが自宅に送られた
小包爆弾を開けて死亡した事件が発生したところ、SLORCは、これらを全ビルマ学生民主
戦線(ABSDF)及びカレン民族同盟(以下「KNU」という。)の武装反対勢力によるものと
して、NLDをこれらのグループと連絡を取り合う「公然とした破壊的因子」であると決め
つけ、後者の事件につき、後に日本で難民として認定されるゴ・アウンによるものと公表
した。
NLDは、軍政が国会開催に応じないことから、1998(平成10)年9月16日、独自に先の
総選挙で当選した議員の過半数の委任状を正統性の根拠として、当選議員10名から成る国
会代表者委員会(CRPP)の代行開催に踏み切ったが、軍政はNLDに対する抑圧を強め、脱
党の強要、国営紙への中傷記事や漫画の掲載、翼賛団体である連邦連帯開発協会(USDA)
による同党非難とスー・チーの海外追放要求の決議等の様々な方法を採るとともに、ス
ー・チーのヤンゴンからの移動を認めず、強制的な自宅への連れ戻しと軟禁を3度も繰り
返し、米国政府による制裁が厳しくなる中、2002(平成14)年5月6日にようやく軟禁状
態が解除されたが、その後も対話は進展せず、周知のとおり、本件口頭弁論終結直前には、
スー・チーは軍事政権により四たび身柄を拘束された。
被告らは、スー・チーの軟禁や行動制限措置の解除により、ミャンマーにおいてあたか
も政治的理由に基づく迫害がなくなっているかのように主張するが、ヤンゴンにおける政
治情勢の変化だけでは軍事政権の体質は判断できず、重要なのは、少数民族に対する姿勢
であって、20を超える少数民族政党は、SLORCが1997(平成9)年11月15日に名称変更
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した国家平和開発評議会(以下「SPDC」という。)によって厳しい弾圧や活動制限を受け、
被告らの指摘する政治犯の釈放も、すべてNLD関係者で、学生、僧侶、少数民族活動家、
他の政党関係者らは1人も釈放されておらず、依然1400名の政治犯が拘束されたままで
ある。また、政治活動家等が一時的に逮捕されて行方不明になるケースや、拷問、家庭生活
への干渉が報告されていて、尼僧がビラを配っただけで投獄されるような状況であるし、
司法機関は行政機関から独立しておらず、公正な公開裁判も行われていない。
イ ロヒンギャー民族の待遇
ビルマ西南部のアラカン地方(現ラカイン州)には仏教国のアラカン王国が栄えていた
が、15世紀ころ、ベンガル地方(現バングラデシュ)からイスラム教徒が流入して、両教徒
の共存が始まり、19世紀以降のイギリス植民地期以降も基本的状況に変化はなかった。20
世紀に入り、仏教徒であるビルマ民族によるナショナリズム運動が盛り上がり、1948(昭
和23)年にイギリスから独立を達成したが、アラカン地方に住むイスラム教徒による政治
活動も活発化し、1960年代初頭から、ロヒンギャーを名乗るイスラム教徒集団がビルマ政
府と対立関係に入った。
ミャンマー政府も、彼らをロヒンジャー(ビルマ語に「ギャ」の音がないため)と呼んで、
歴史的にベンガル地方からアラカン地方に勝手に移動してきたイスラム教徒集団とみな
し、反ミャンマー的集団として公式の居住権を認めず、「国民」、「準国民」、「帰化国民」の
3ランクから成るミャンマー国民のどれにも当たらない、不法に滞在する外国人として扱
ったため、ロヒンギャー民族は、公的にはロヒンギャーであることを主張せず、様々な書
類を上手に作成してロヒンギャー以外の民族名で国民である旨の認定を受けられるよう努
力しなければならない上、苦労して「国民」となってもイスラム教徒であるため公平に扱
われず、一般に仏教徒ビルマ人に根強くあるイスラム教徒への偏見と差別が、政府による
ロヒンギャー非難と相まって、ロヒンギャー民族の安全な居住を妨げている現実が存在す
る。ロヒンギャー民族は、強制労働を強いられ、土地使用権を認められず、様々な新しい税
を課徴され、移動の自由が制限され、同民族がミャンマー軍によって殺されたとしても、
ミャンマーの警察は捜査を行わないほどであり、集団的に迫害されている。
そうした経緯から、1991(平成3)年12月から翌年3月にかけて、25万人ないし30万人
といわれるロヒンギャー難民が、アラカン地方からバングラデシュ側へ避難するという事
件が発生している。大量難民が流入したバングラデシュは、UNHCRや国際社会の非難に
もかかわらず、たびたび実力を行使して強制送還を行った。その後、両国政府とUNHCR
の協議により、ロヒンギャー難民の帰還促進が決まったが、ミャンマーにおける迫害状況
に変化がないことなどの理由で、帰還は順調に進んでいない。
ウ 原告固有の事情
ア 政治活動
原告は、1988(昭和63)年ころから、ラングーン市の私立学校に在籍しながら、民主化
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のための学生運動に参加するようになり、このころNLDの幹部であるEや同年7月に逮
捕され以後行方不明のFと知り合った。原告は、その後、同市及びアラカン州アキャブ市
(シットウェ市ともいう。)の政治団体や、イスラム教の学生政治団体であるムスリム学生
連盟にも加入するようになった。
原告は、同年8月8日の全国的なデモの際、ア・ロッタマ市民病院から出発したグルー
プの旗持ちとして参加したところ、同月13日ころ、マークした当局が逮捕するために自宅
に来たが、不在だったために逮捕を免れた。そこで、身の危険を感じてシットウェ市に逃
れたが、その直後ころ、シットウェ刑務所においてロヒンギャー人2名と学生1名が発砲
されて殺される事件があったため、原告は、他のメンバーとともに同刑務所長の自宅に押
しかけ、同人から鍵を受け取って投獄されていたロヒンギャー民族や仲間の学生を解放し
た。
その後10日ほどして、原告は、当局が実家に来て警告したことを知り、また同年9月26
日ころにロヒンギャーの同級生2名が逮捕されたことを聞いて、父の故郷である《地名略》
村に隠とんしたが、間もなく、父と長兄が当局から暴行を受けて取り調べられた旨記載さ
れた父からの手紙を受け取って村を出、同年10月ころ、バングラデシュ国境を越えてロヒ
ンギャー難民キャンプへ、さらにインド、パキスタンへと逃れた。
その後、原告は、タイの首都バンコク等で政治活動に参加していたが、1990(平成2)年
5月にミャンマー総選挙でNLDが勝利したと聞いて、スー・チーらの民主化運動を支援
するために帰国を決意し、1991(平成3)年2月ころ、幼なじみの助けを借りてミャンマ
ーへ密入国してヤンゴンにたどり着いた。原告は、親戚の家を転々とした後、父や長兄の
行商の仕事を手伝いながら密かにビラ配り等の民主化運動を行うとともに、万一の際の国
外逃亡のためにブローカーを経由して旅券を入手したが、1992(平成4)年4月ころ、軍
に身分証明書、履歴書、家族関係の書類等の提出を求められ、逮捕される危険を感じたた
め、知人に相談し、同年5月、空路タイのバンコクへ出国し、同年6月22日、前記前提とな
る事実のとおりに来日した。
来日後、原告は、日本の「ロヒンギャーグループ」の代表に連絡を取ろうとしたが取れな
かったため、東京都八王子市在住のミャンマー人から教えてもらった名古屋市で活動して
いる政治団体を頼って来名したが、紹介を受けたミャンマー人がカレン民族の反ビルマ軍
ゲリラグループであるKNUに加盟することを求めたので、これを断り、苦労の末、名古屋
市内で仕事を見つけて生活するようになった。この間、原告は、タイ所在のロヒンギャー
民族の政治活動メンバーらと連絡を取り、毎月3万円位を送金していた。なお、1994(平
成6)年半ばころ、原告と連絡していることが疑われた父や義兄がミャンマーにおいて軍
から暴行を受けたのを始め、原告の実家は、何度も軍による捜査を受けたため、父は、現地
の慣習に従い、原告と親子の縁を切る旨を新聞に掲載したほどであった。 
その後、原告は、平成9(1997)年ころから、ロヒンギャー民族に限らずミャンマー国
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内で反政府活動を行ってきたメンバーによって構成され、後にビルマ民主化同盟(以下
「LDB」という。)に発展する学生ボランティアグループに参加し、その名古屋支部(以下
「LDB名古屋」という。)財務担当として、駐日ミャンマー大使館前でのデモ活動等、同国
政府に反対する政治活動をしている。そして、平成13(2001)年11月2日の入管難民法違
反による逮捕後、本件難民申請前の同月6日ころに、逮捕の事実をまだ知らなかったと思
われる両親からバンコク経由で届いた手紙によれば、ミャンマー当局が日本での原告の政
治活動を把握し、ミャンマーの家族を迫害していることは明らかであり、その後も原告の
父は、同年のクリスマス過ぎに軍情報部に連行されて、翌2002(平成14)年1月3日まで
1週間帰宅せず、その際、腕や肋骨を折られる暴行を受けている。
なお、原告の旅券及び有効期間の更新印はいずれも偽造されたものであるところ、被告
らは、差別から生じる問題を賄賂によって解決できるという程度のものであれば、そもそ
も難民には当たらないなどと主張するが、非常識極まりないというべきである。
イ ロヒンギャー民族であること
原告のロヒンギャー名はAであり、ロヒンギャー民族の出自であることは「民族:バン
ガリー/ラカイン」と記載されている原告の国民登録証明書、ロヒンギャー語を話せるこ
と、原告の幼なじみが原告のことをロヒンギャー民族であると述べていること等の事実に
照らし、明らかである。被告らは、原告の母がラカイン族であるかのように主張するが、原
告の母は「G」、その父は「H」、その祖父は「I」というロヒンギャー名を持つロヒンギャ
ー民族である。このように、原告がロヒンギャー民族であることから、1984(昭和59)年
ころ、軍人から荷物の運搬を命じられてこれを断ったところ、耳元でライフルを3発発射
され、片耳の聴力に障害を残すに至っている。
また、被告らは、原告の父が軍人であったこと、原告が教育を受けることができたこと、
家族がヤンゴンに移住したことなどを理由に、原告に対する迫害の事実やロヒンギャー民
族であることに疑義があると主張するが、原告の父が軍人であったのは、1962(昭和37)
年のネ・ウィン政権発足前に軍人になったためであり、その後も、学歴が高く英語ができ、
車の修理技術を持っていたこと等の理由で軍務を続けられたものの、1988(昭和63)年の
原告のデモ参加を理由に、軍から暴力を受け退役している。また、原告は、シットウェ地区
で生まれ、ビルマ名で育てられたため、11歳まで自分がロヒンギャーであることを知らな
かったほどで、教育を受けられたのもロヒンギャーであることを隠していたからである。
さらに、原告の親族には、仏教徒によって殺され、あるいは軍によって負傷した者もおり、
許可なしの移動の自由はないのであるから、現に迫害を受けており、被告らの主張は理由
がない。
ウ 来日が就労目的でないこと(被告らの主張に対する反論)
被告らは、原告が、平成11(1999)年12月6日ころ、仕事がなくなったため本国に帰国
したいとして名入管に出頭したこと、来日するに当たって旅券ブローカーに支払った費用
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が多額にのぼることなどを理由に、原告の本邦への入国目的は不法就労であった旨主張す
る。
しかしながら、原告は、同年11月23日ころ、タイにいた父から、母の心臓病の状態が芳
しくなくタイの病院に入院中であると聞き、タイ行きを検討して名入管に架電し、同年12
月6日ころには名入管に出頭してタイ経由での帰国を相談したが、タイ経由になるかミャ
ンマーへの直行便となるかは名入管の判断で決まると言われたため、帰国は危険だとのミ
ャンマーの妹等からの話に従って断念した経緯があるが、その際、出頭理由を仕事がない
ためとされたのは、日本語で聴取した名入管入国警備官の判断によるものにすぎない。
また、原告が旅券を取得した当時は、反軍事政権の活動家であっても、賄賂を払えば旅
券を取得できたのであり、ブローカーに支払った金員が多額であることから就労目的であ
るとするのは短絡的である。お金は父が借りて準備したものであるし、来日した理由の1
つには、原告の祖父母が仏教徒に殺されたため、父や兄弟が日本人に育てられて好印象を
持っていたこともある。
エ まとめ
以上のような事情からすれば、原告が帰国すれば、軍事政権による逮捕、投獄、拷問、ある
いは行方不明になる現実的な危険が存するものであり、原告は条約1条A項号及び議定書
1条の規定により条約の適用を受ける難民のうち、「人種……若しくは特定の社会的集団の
構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のあ
る恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、……そのような恐怖を有するために
その国籍国の保護を受けることを望まないもの」に該当する。
被告らは、UNHCRが原告をマンデート難民と認定していないことを原告に不利益な事情
として主張するが、本末転倒も甚だしい。
(被告らの主張)
ア 難民、迫害の意義及び主張立証責任
ア 難民等の意義
入管難民法に規定する「難民」とは、条約1条又は議定書1条の規定により条約の適用
を受ける難民をいうところ、その定義にある「迫害」とは、通常人において受忍し得ない苦
痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって、生命又は身体の自由の侵害又は抑圧を意味し、そ
れを受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するというためには、当該人が
迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情のほかに、通常人が
当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情が存在していること
が必要と解すべきである。
イ 難民該当性の主張立証責任
そもそも、難民の認定は、申請人各人に対して、その申請内容の信ぴょう性等を吟味し、
各人の抱える個別の事情に基づいてされるべきものであるが、その申請は、申請人が自己
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の便益を受けようとする行為であるから、これを得るためには、難民該当性を積極的に立
証しなければならない立場に置かれるのは当然のことであって、法61条の2第1項におい
て、法務大臣が、申請者「の提出した資料に基づき」難民と認定することができると規定し
たのは、一定の便益を受けようとする者は、そのような便益を享受し得る立場にあること
を自ら立証すべきとの法の一般原則を明らかにしたものにほかならない。
法61条の2の3第1項の規定を併せみても、我が国においては、難民認定申請者が、ま
ず、迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有することを認めるに足り
るだけの資料を提出することが必要であり、条約31条1項ただし書も、この法理を明文化
しているし、実質的に考えても、およそ難民該当性の判断に必要な出来事は、外国でしか
も秘密裏になされたものであることが多いから、これらの事実の有無及びその内容につい
ては、それを直接体験した申請人が最もよく主張し得る立場にあるのに対し、法務大臣は、
それらの事実につき資料を収集することがそもそも困難であるから、法61条の2第1項
が、申請人自身がこれを証明すべきものであるとしたのは合理的であるといわなければな
らない。
イ ミャンマーの一般情勢
ア 政治情勢
原告の主張イアのうち、ビルマが1948(昭和23)年にイギリスから独立したこと、同国
において、1962(昭和37)年に社会主義政権が成立したこと、1988(昭和63)年に国軍が
SLORCを組織して政権を掌握したこと、1990(平成2)年に国会の総選挙が実施され、ス
ー・チー率いるNLDが圧勝したこと、ミャンマー政府が民政移管には堅固な憲法が必要
であるとして政権を委譲していないこと、1989(平成元)年からスー・チーに対し国家防
御法違反を理由に自宅軟禁措置を課したこと及び2002(平成14)年5月にスー・チーの行
動制限が解除されたこと、以上の事実はいずれも認める。
ミャンマー政府は、スー・チーに対し、1989(平成元)年から1995(平成7)年まで自宅
軟禁措置を課し、2000(平成12)年9月には同人らを再び事実上の自宅軟禁に置くなどし
たが、同年10月から、軍事政権とスー・チーとの間で直接対話が開始され、政府は、拘束
していた政治犯170余名を2001(平成13)年10月までに釈放するとともに、NLD支部9か
所の活動再開を認め、2002(平成14)年5月には、スー・チーに対し、行動制限措置を解
除するとともに、政治活動を含むすべての活動の自由を伝えたところである。
イ ロヒンギャー民族の待遇
原告の主張イイのうち、ミャンマーが旧イギリス領であった時代に、多くのイスラム教
徒が西南部の現ラカイン州に移住し、その子孫がロヒンギャー民族と称されていること、
ロヒンギャー民族は、ミャンマー国内でイスラム教を信仰する民族であるところ、ビルマ
独立後に、同国政府により自国の民族として認められず、移動の自由について一定の制限
を課されたため、社会的に差別を受け、基本的な社会・教育・医療サービスを受けるのが
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極めて困難となり、1978(昭和53)年3月には、当時の社会主義政権により、国境付近に
居住する不法移民排除のための大規模な住民調査がされた結果として、処罰を恐れた22万
5000人のロヒンギャー民族がバングラデシュへ避難したり、1991(平成3)年3月ころに
再度バングラデシュへ難民が流出して一時難民数は25万人を超えたことがあったこと、以
上の事実はいずれも認めるが、その余は知らない。
上記の難民流出後、国際社会の支援や国連難民高等弁務官の協力等によって、多くのロ
ヒンギャー難民がミャンマーに帰還し、2001(平成13)年9月現在、バングラデシュに残
るロヒンギャー民族は約2万1600人に減少するなど、帰還民の再定住支援が重大な問題
となっている。また、1982(昭和57)年の新しい国籍法(ビルマ市民権法)によっても、ロ
ヒンギャー民族が市民権を取得するのは非常に難しい状況であったことは確かであるが、
ロヒンギャー民族のすべてが国籍を取得できなかったということではない。2000(平成
12)年現在、UNHCRは、ロヒンギャー民族の国籍問題の解決についてミャンマー政府と
意見交換をしているが、UNHCR自体、海外にいるロヒンギャー民族が、条約等上の「難民」
にも、また、UNHCR規程に所定の責務(マンデート)に基づき、国連総会及び経済社会理
事会の決議中に反映された難民的状態に置かれた他の部類の者について、これより広い範
囲で独自に「高等弁務官の関心の対象となる者」として認定するいわゆるマンデート難民
にも該当するわけではないことは認めている。
以上のとおり、本件不認定処分時において、真にロヒンギャー民族に対する迫害が存在
していたかは極めて疑わしい。
ウ 原告固有の事情
ア 原告の政治活動
原告の主張ウアの事実は知らない。
原告は、1988(昭和63)年8月8日、ラングーンで大規模な反政府デモに参加したこと
から当局にマークされることになった旨主張するが、デモに参加した事実さえ信用し難い
ものであるし、同年、バングラデシュ、インド経由でパキスタンに出国した後も、1991(平
成3)年にはミャンマーに帰国している。また、原告は、ミャンマー政府発行の真正な旅券
を入手しているが、これを取得できた理由についても、当初は元軍人であった父のコネと
お金の力によったと述べながら、裁判になるとブローカーに賄賂を払ったためと大きく供
述を変遷させており、かつその変遷に合理的理由がないという不自然さが認められる。そ
もそも、賄賂によって差別から生じる問題を解決できるという程度のものであれば、迫害
を受けているとはいえない。さらに、原告が、1991(平成3)年8月から10月までの間に
ミャンマーにおいて国際運転免許証を取得し、本邦滞在中の1993(平成5)年に運輸行政
局から再発行を受けた事実や、平成7(1995)年から平成11(1999)年までの間、在京ミ
ャンマー大使館において現在所持している旅券の更新手続を行っている事実は、原告がミ
ャンマー政府から迫害どころか保護を受けていることを示しており、原告がミャンマー政
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府から手配されているとは考えられない。
次に、原告は、1988(昭和63)年9月、学生運動に加わり、シットウェ刑務所で受刑して
いたバングラデシュ人7、8名を解放した旨を主張するが、原告は、ミャンマーにおける
政治活動のうち最も具体的かつ重要な事実である刑務所解放運動について、名入管による
調査時に何ら供述していないこと、刑務所長が鍵を渡した理由が不合理であることなどに
照らすと、原告は、かかる運動に参加していないことが強く推測されるというべきである。
仮に、この解放運動を原因として、原告に対する手配が真実になされたとすれば、それは、
暴力による「刑務所破り」という重大犯罪に対する通常の刑事手続の一環とみるのが妥当
であるから、手配を受けたことをもって政治的意見を理由に迫害を受けたということはで
きない。
そして、原告は、本邦において反ミャンマー政府活動を行っているところ、これが既に
ミャンマー政府の知るところとなっており、軍政府が倒れるまで帰って来てはいけないな
どと書かれた手紙が家族から送付されたと主張するが、原告は、本邦においてロヒンギャ
ーグループが活動しているのを知りながら、タイで聞いた同グループの代表の電話番号に
つながらなかったというだけの理由で、東京から何の縁もない名古屋に移動し、全く異な
るグループで政治活動を行っていたというのであり、その後も当初のロヒンギャーグルー
プとは一切連絡を取った様子がなく、不法就労で稼いだお金から毎月3万円くらいをタイ
のロヒンギャー民族の政治活動のメンバーに送金していたとの主張に関しても具体的な立
証資料が全く提出されていないことからしても、原告が、真にロヒンギャー民族の権利回
復のための反ミャンマー政府活動を行っていたかは疑問があるといわざるを得ないし、提
出された手紙の消印、あて先等にも不審な点があって、ミャンマーの家族から送付された
ものではなく、本邦にいる原告又は原告の関係者が原告の主張に合わせて作成したものと
推認されるから、原告の供述に信ぴょう性はない。
イ 原告の民族的出自
原告の主張ウイの事実は知らない。
原告は、ミャンマーの中ではロヒンギャー民族か否かについては一目で分かるという一
方で、ロヒンギャー民族の風習については特に説明できないと述べているが、自分の民族
の風習について説明できないということは、原告がロヒンギャー民族であること自体疑わ
しいということを示している。
また、ビルマ市民権法2条は、国籍を有する者として「市民」、「准市民」、「帰化市民」の
3種類があること、同法3条は、完全な国民としての権利を有する市民の範囲にラカイン
族を含めること、同法7条は、両親の一方が「市民」で他方が「准市民」又は「帰化市民」で
ある子を「市民」とすること、以上のように規定しているところ、原告の所持する国民登録
証明書の「民族」欄の「バンガリー/ラカイン」の記載は、両親が「バンガリー族」と「ラカ
イン族」の出自であることを示すと考えるのが合理的であり、したがって、原告の母が「市
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民」である以上、原告も完全な国民である「市民」の扱いを受けているというべきである。
このことは、同証明書右上の「ナイン」というミャンマー語が、同証明書の所持者がミャン
マー国民であることを証明していることからも明らかである。
さらに、原告は、父が軍人であったと主張するが、国家権力そのものである軍隊の性質
からして、軍隊に属する軍人は自国の国民であるのが当然であり、少なくとも自国から迫
害を受けるおそれのある民族が軍人として採用されるとは考えられず、原告がミャンマー
政府から迫害を受けていたとの主張と明らかに矛盾する。まして、原告の父は、上官であ
るJ大尉から精米所の経営を許可されていたのであるから、国家から迫害を受けていた
どころか、自営の道を認めるという保護を受けていたというべきである。なお、原告が、
1984(昭和59)年ころ、ロヒンギャー民族であることから軍人に耳元でライフルを3発発
射されたというのは、仮に発砲があったとしても、原告が荷物の運搬を断ったのに対して
感情的になった軍人が、威嚇のため発砲したにすぎないと考えるのが合理的である。
加えて、原告は、ロヒンギャー民族には教育の機会が与えられず、また、居住権が否定さ
れ、ヤンゴンに居住することは認められない旨述べるが、他方で、原告は、ラカイン州シッ
トウェの軍基地内のアタカという5年制の小学校及び5年制の高校で教育を受け、アキャ
ブ市内の第6学校に在学し8学年まで進級したと述べているし、原告の家族はヤンゴンに
移住し、全員ミャンマーで継続して生活しており、1人たりとも迫害を受けていることを
理由に出国している者はおらず、どちらかといえばミャンマーでは恵まれており、本邦で
不法就労する原告からの送金は必要ないほどであったというのであるから、このような家
族の中にあって原告だけがロヒンギャー民族を理由に迫害を受けたとは考えられない。原
告の親族が当局の暴力によって傷害を負ったというのは20年以上も前の話であって、その
真偽は定かではないし、仮に真実であったとしても、迫害であるのか個人的な暴力である
のか、傷害の状態・程度などについても定かではない。
したがって、原告がミャンマー政府から国民として扱われておらず、迫害を受けていた
との主張は信ぴょう性がない上、上記のとおり、そもそも原告がロヒンギャー民族である
ということ自体に重大な疑義があるから、ロヒンギャー民族であることを理由としてミャ
ンマー政府から迫害を受けるおそれがあると判断することはできないというべきである。
ウ 就労目的による原告の来日
原告は、2度目の出国後タイに行き、本邦向けの偽造旅券を取得するのに4500ドル又は
6000ドルを支払ったと供述するが、この金額は、ミャンマーの1997(平成9)年における
1人当たり国民総生産の20倍前後に相当する莫大なもので、通常のミャンマー人に用意で
きる金額ではなく、まして、差別と迫害を受けて生活している原告の父が簡単に送金でき
る額であるとは考えられないから、原告は日本での就労を求めてブローカーに手続を依頼
したと考えるのが合理的である。このことは、原告が、平成11(1999)年12月6日に、不
法入国したとして名入管に出頭した際の、会社が倒産して仕事を失ったためミャンマーに
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帰国しようと思った旨の供述とも整合性がある。
本邦に不法入国後、不法就労して金を稼いだ外国人が、地方入国管理局等に出頭し帰国
するというケースは、経験則上非常に多いケースであり、しかも、原告は、その後名入管か
らの再出頭の要請に応じず、2年近く本邦に在留して不法就労を継続していた点を考慮す
ると、原告は、条約等上の難民ではなく、不法な手段により、より豊かな生活を求めて移住
していく移住労働者であると見るのが合理的である。
原告は、来日の理由の一つに、父や兄弟が日本人に育てられたことを挙げるが、ロヒン
ギャー民族の居住地域は外国人の立入りが禁じられているというのであるから、日本人が
育てることができたはずがないし、そのような経緯があって、ミャンマー政府から真に迫
害を受けているのであれば、原告の家族も日本に来るはずであるが、原告以外に来日した
家族はいない。
エ まとめ
原告の主張エは争う。
前記アのとおり、難民該当性については、難民認定申請者が主張立証すべき責任を負うと
ころ、原告についていえば、イ、ウで述べたとおり、原告の供述は、関連状況との整合性も一
貫性もなく、原告が、本邦に入国するまで、バングラデシュ、インド、パキスタン、タイ、香
港及び台湾に入国しながら、全く難民申請をせずに、本邦入国後9年以上も不法就労し、名
入管に収容されて初めて難民申請した事実からしても、ミャンマー政府から迫害を受けてい
るという主張に信ぴょう性は認められず、これを立証する資料は提出されていない。したが
って、原告が帰国した場合に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有す
るとは到底認められるものではないから、原告は実質的な難民に該当しない。
なお、原告は、名入管に収容された後、UNHCRの難民申請をしたようであるが、マンデー
ト難民として認定を受けたというような主張は何らされておらず、このことは、原告を本国
へ送還した場合に人道上の問題が生じるおそれがないことを裏付けるものである。

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