退去強制令書発付処分取消請求(追加的併合)事件(第1事件)
平成14年(行ウ)第2号
難民認定をしない処分無効確認等請求事件(第2事件)
平成14年(行ウ)第88号
裁決取消請求(追加的併合)事件(第3事件)
平成14年(行ウ)第90号
原告:A、第1事件被告:東京入国管理局主任審査官、第2・第3事件被告:法務大臣
東京地方裁判所民事第3部(裁判官:藤山雅行・新谷祐子・加藤晴子)
平成16年2月26日
判決
主 文
1 原告の被告法務大臣が原告に対し平成13年12月27日付けでした裁決の取消しを求める訴えを
却下する。
2 被告法務大臣が原告に対し平成13年11月20日付けでした難民の認定をしない処分が無効であ
ることを確認する。
3 被告東京入国管理局主任審査官が原告に対し平成13年12月27日付けでした退去強制令書発付
処分を取り消す。
4 訴訟費用は被告らの負担とする。
事実及び理由
第1 請求
1 被告東京入国管理局主任審査官が原告に対してした退去強制令書発付処分を取り消す。
2 被告法務大臣の原告に対する出入国管理及び難民認定法49条1項に基づく原告の異議の申出
は理由がない旨の裁決を取り消す。
3 (主位的請求)
被告法務大臣が原告に対して行った難民の認定をしない処分が無効であることを確認する。
(予備的請求)
被告法務大臣が原告に対して行った難民の認定をしない処分を取り消す。
第2 事案の概要
原告は、平成13年7月ころ、本邦に不法入国した者であるところ、同年10月3日、東京入国管
理局(以下「東京入管」という。)の違反調査を受け、同月23日に出入国管理及び難民認定法(以
下「法」という。)24条1号に該当する旨の認定がされ、同年11月8日に同認定に誤りがない旨が
判定されたため、同日被告法務大臣に対し、異議の申出をしたが、同年12月27日、被告法務大臣
は、上記異議の申出に理由がない旨の裁決をし(以下「本件裁決」という。)、被告東京入管主任審
査官(以下「審査官」という。)は、同日、原告に対し、退去強制令書(以下「退令」という。)を発
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付した(以下「本件退令発付処分」という。)。また、原告は、平成13年8月27日、難民認定申請を
したところ、被告法務大臣は、同年11月20日、原告について難民の認定をしない旨の処分をした
(以下「本件不認定処分」といい、本件裁決、本件退令発付処分と合わせて「本件各処分」という。)。
本件は、原告が、イスラム教シーア派に属するハザラ人であり、本件各処分当時、アフガニスタ
ンにおいて、タリバン勢力から迫害を受けていたから難民の地位に関する条約(以下「難民条約」
という。)上の難民に該当する等と主張して、本件裁決及び本件退令発付処分について取消しを、
本件不認定処分について主位的に無効確認、予備的に取消しを求めるものである。
1 前提となる事実(括弧内に認定根拠を掲げた事実のほかは、当事者間に争いのない事実か、弁
論の全趣旨により容易に認定できる事実である。)
 原告は、1974(昭和49)年《日付略》に出生した、アフガニスタン国籍を有するイスラム教シ
ーア派に属するハザラ人である(甲1の10、乙7の1)。
 原告は、平成13年7月ころ、船籍船名不詳の貨物船で横浜港に入り、本邦に不法入国し、本
邦入国後、千葉県佐倉市《住所略》の自動車解体現場敷地内に居住している。
 原告は、平成13年8月22日、千葉県佐倉市長に対し、同市《住所略》を居住地として外国人
登録の新規登録申請をした。
 原告は、平成13年8月27日、東京入管において、被告法務大臣に対し、難民認定申請をした
(以下「本件難民申請」という。)。
 東京入管入国警備官は、平成13年10月3日、原告について、違反調査を実施し、原告が法24
条1号に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして、被告審査官から収容令書(以下「本
件収令」という。)の発付を受けた(乙7の1ないし7の3、乙9)。なお、原告は、同月19日、
当庁に収容令書発付処分の取消しを求める訴えを提起したが(当庁平成13年(行ウ)第287号
事件)、平成14年9月25日、この訴えを取り下げた。
 東京入管入国警備官は、平成13年10月22日及び同年11月7日、原告について、違反調査を実
施した(乙7の4、7の5)。
 東京入管入国審査官は、平成13年10月5日、同月17日及び同月23日、原告について、違反
審査を実施し(乙11の1ないし11の3)、同日、原告が法24条1号に該当する旨を認定し(乙
12)、原告にこれを通知したところ、原告は、同日、東京入管特別審理官に対し、口頭審理を請
求した。
 東京入管特別審理官は、平成13年11月8日、B弁護士の同席の下で原告について口頭審理を
実施し(乙13)、入国審査官の上記認定に誤りがない旨を判定したところ(乙14)、原告は、同日、
被告法務大臣に対し異議の申出をした(以下「本件異議申出」という。乙15)。
 被告法務大臣は、平成13年11月20日、原告からの本件難民申請について、不認定とする旨の
本件不認定処分をしたところ(乙17)、原告は、同月30日、同被告に対し、異議の申出をした。
 被告法務大臣は、平成13年12月27日、本件異議の申出について理由がない旨の本件裁決をし
(乙19)、被告審査官は、同日、原告に本件裁決を告知するとともに(乙20)、本件退令発付処分
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をした(乙21)。
 原告は、平成14年1月4日、被告審査官に対し、本件退令発付処分の取消しを求める訴え(第
1事件)を提起し、同年2月25日、被告法務大臣に対し、主位的に本件不認定処分の無効確認
を、予備的にその取消しを求める訴え(第2事件)及び本件裁決の取消しを求める訴え(第3事
件)を提起した。
2 争点及び争点に関する当事者の主張
本件の争点は、本件各処分の適法性であり、その内容は原告の難民該当性である。なお、原告は、
従前、各処分の手続違反の主張をしていたが、第3準備書面において、主要な争点は原告の条約
難民該当性の有無であることを主張し、平成13年1月30日付け意見書において、手続的瑕疵等の
諸問題については主要争点と捉えていない旨を、同年2月13日付け意見書において、原告の難民
該当性以外の争点については、第一審において争わない旨を重ねて明らかにした上、本件第10回
口頭弁論期日において、「(処分の手続的瑕疵について言及した)第12準備書面は、本件処分の手
続違反の主張をするものではない」旨を陳述したことが、当裁判所に明らかである。
 被告らの主張
ア 本件不認定処分の適法性について
原告は、「人種」及び「宗教」を理由に、国籍国において迫害を受けるおそれがあり、国籍国
の保護を受けることができないとして本件不認定処分の取消しを求めているが、原告の主張
は、以下のとおり理由がない。
ア 難民、迫害の意義について
法に定める「難民」とは、難民条約1条又は難民議定書1条の規定により難民条約の適
用を受ける難民をいうところ(法2条3号の2)、同規定によれば、難民とは、「人種、宗教、
国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受け
るおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であっ
て、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにそ
の国籍国の保護を受けることを望まないもの及び常居所を有していた国の外にいる無国籍
者であって、当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を
有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」とされている。そし
て、その「迫害」とは、「通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であ
って、生命又は身体の自由の侵害又は抑圧」を意味し、また、上記のように「迫害を受ける
おそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」というためには、「当該人が迫害を受
けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情のほかに、通常人が当該人の
立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情が存在していることが必要で
ある(東京地裁平成元年7月5日判決・行裁例集40巻7号913頁、東京高裁平成2年3月
26日判決・行裁例集41巻3号757頁)。
ある者が難民条約所定の難民に該当するか否かを確認する難民の認定は、上記難民の定
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義に照らし、申請者各人につき、その申請内容の信ぴょう性等も吟味し、各人の個別の事
情に基づいてされるべきであるところ、難民であることの立証責任は、申請者が負うべき
である。つまり、いかなる手続を経て難民の認定手続がされるべきかについては、難民条
約に規定がなく、難民条約を締結した各国の立法政策にゆだねられているところ、我が国
においては、法61条の2第1項において、被告法務大臣は、申請者の「提出した資料に基
づき、その者が難民である旨の認定を行うことができる」と規定し、法61条の2の3にお
いて、被告法務大臣は、申請者により「提出された資料のみでは適正な難民の認定ができ
ないおそれがある場合その他難民の認定又は取消しに関する処分を行うため必要がある場
合には、難民調査官に事実の調査をさせることができる」と規定していることからも明ら
かなとおり、難民認定申請者が、まず自ら条約に列挙された事由を理由として迫害を受け
るおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情があり、かつ、通常人が当該人
の立場におかれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情も存在していることを認め
るに足りるだけの資料を提出することが求められている。外国人である申請人が難民であ
るか否かを判断する資料を、我が国が有権的に当然に把握できるものではない。
イ シーア派・ハザラ人に属することのみをもって、難民該当性が認められることがないこ

a ラバニ政権成立(1992(平成4)年)以降のアフガニスタンにおいて、ハザラ人を基盤
とし、又はハザラ人が含まれるグループとして、イスラム統一党マザリー派(ハリリ派)、
同アクバリー派、イスラム運動、イスラム国民運動党、タリバンがある。そして、各グル
ープは、それぞれ複雑な対立構造の下に抗争を繰り返しており、タリバン台頭以前のア
フガニスタン情勢は、ラバニ大統領派とヘクマティール首相派の双方にハザラ人を主体
とするグループとパシュトゥーン人を主体とするグループの双方が属し、ハザラ人同
士、パシュトゥーン人同士の抗争を含め複雑多岐にわたる抗争関係が存在しており、ア
フガニスタン全土が混沌とした内戦状態だったものであるから、特定の民族や集団につ
いて、常に当該民族や集団等が一方的に被害者であった等と断じることはできない。
b 次に、タリバン台頭後のアフガニスタンに関しても、シーア派・ハザラ人であること
のみで難民該当性が認められるものではない。 
すなわち、被告提出の書証(乙29、142、143、147)等に記載されているとおり、タリ
バン政権下において発生した人権侵犯の主要な要因は、宗教的又は民族的特性というよ
りも、むしろタリバンに対し、軍事的又は政治的に対立する者であったか又はそのよう
に解されたことによると評価することが適当である。
そして、タリバンが、ハザラ人を迫害の対象とすることを意図する旨の公式見解を出
したとの報告はいかなる国際機関等からも示されていない(乙29、142、143)。さらに、
タリバンは、パシュトゥーン人全体を代表するものでもないのであって(乙138、144、
145)、タリバンと対峙する北部同盟側にも多くのスンニー派又はパシュトゥーン人がい
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たという事実からは、むしろ、タリバンと北部同盟との間の対立構造が、宗教的又は民
族的背景によるものというよりは、むしろ軍事的又は政治的な背景によるものであった
ことをうかがわせるものである。
c 原告は、ハザラ人迫害の根拠として、マザリシャリフ、バーミヤン等における虐殺事
件を指摘するが、これらについては、虐殺された被害者の数やその実態等について判然
としない上、これらの虐殺は、北部同盟との戦闘地域に集中しており、両陣営の軍事衝
突に伴い互いの報復行為として行われた側面が強いものといえる(乙139、142)。
d 諸外国政府においても、およそハザラ人に属することのみをもって難民認定を行うと
いった取扱いは行われておらず、申請者の迫害に係る個別の具体的事情等を考慮した上
で難民認定の可否が判断されている(乙146の1ないし6)。
ウ 原告が迫害されたとする事実は客観的事実に反すること
a 原告は、2001(平成13)年にアフガニスタンのαにおいてタリバンに捕まったことを
挙げる。
原告の供述によれば、タリバンに捕まった時期について、陳述書(甲4)、原告本人尋
問第1日目においては同年3月か4月とするものの、平成15年7月23日に実施された
原告本人尋問第3日目においては、あいまいな供述を繰り返しており、これらの供述を
まとめると、原告は、2000(平成12)年11月7日に本邦を出国してからドバイ及びペシ
ャワールに1、2か月滞在し、同年12月末から2001(平成13)年1月初めの間にαに戻
り、そこで2か月か4か月暮らした後タリバンに捕まったことになる。
しかしながら、在ドバイの日本国総領事館に提出された査証申請書(乙160)、同申請
書に添付された原告名義の旅券に貼付されたUAE滞在査証の記載と、原告本人の供述
を合わせると、原告は、同滞在査証の発行日である2001(平成13)年3月13日ころまで
の間にUAEにおいて査証申請を行っていたことが推認され、上記供述と矛盾すること
となる。この点について、原告は合理的な説明をしていない上、UAEの滞在査証更新の
事実について、原告が本人尋問第3日目に至るまで供述していなかった点等を合わせる
と、原告のこの点の供述を信用することはできない。
b 次に、原告は、1998(平成10)年8月、マザリシャリフにタリバンが攻めてきた1週
間後にタリバンに拘束されたが、1週間後に逃げ出すことができ、友人や親戚の家を1
か月ほど渡り歩いた後、アフガニスタンからパキスタンに出国した旨を主張する。そう
すると、原告がパキスタンに出国した時期は、早くとも同年9月20日ころとなるはずで
ある。
しかしながら、原告は、1998(平成10)年8月27日付けでアラブ首長国連邦(以下
「UAE」という。)の在ドバイ日本総領事発行の渡航証明書を取得しており(乙157)、原
告が自ら査証を取得したことを認めていること(原告本人3日目23ないし26項)からす
ると、原告がタリバンに拘束され、逃れた時期にはUAEにいたことになるはずである。
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この点に関する原告の供述や、その変遷に照らせば、原告のこの主張を信用することは
できない。
エ 原告の供述に不自然な変遷が認められること
a 原告は、とりわけ本人尋問第3日目において、迫害の事実に関する質問に対し、全体
としてあいまいな供述に終始し、従前の供述が客観的事実と矛盾することを指摘される
と、はぐらかして回答する(同65項等)等した。そして、原告の陳述書(甲4)の内容と
本人尋問の回答が齟齬する点を指摘されると、陳述書の内容や従前の供述は通訳の誤り
であること等を供述した。
b さらに、原告は、原告と同一場所で摘発された訴外C(以下「C」という。)との兄弟関
係の有無について、原告本人尋問第1日目で問われた際には親戚である可能性を否定し
ていたものの、DNA鑑定の結果が出た後になって、前記本人尋問の際にも、親戚である
と供述した等と述べており、原告の供述には不自然な変遷が見られ、全体として信用す
ることはできない。
オ 原告の真の目的は不法就労であること
a 原告は、D社の取締役であり(乙149添付資料1及び3)、1995(平成7)年1月22日
の入国を初めとして、今回の入国までに計6回の入国歴があり、そのいずれも渡航目
的を「Business」としている(乙148)。そして、原告がタリバンから迫害されたとする
1998(平成10)年8月のマザリシャリフへのタリバン侵攻の後にも4度にわたり本邦に
入国するものの、この間、一時庇護を求めたり、難民認定申請をすることなく本邦に滞
在しているのであるから、原告には、迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のあ
る恐怖があったとは到底考えられない。
b 原告は、本邦滞在期間中、一貫して中古車部品取引に専念し、現在も継続しているの
であり、結局原告の真の目的は本邦での不法就労活動にあったというほかない。
カ 本件が組織的背景を有する不法入国事案であること
a 原告は、C及びE(以下「E」という。)と同一場所で摘発されており、Cについては、
D社の従業員であるC’ と同一人であるほか(乙161)、原告と兄弟関係にあることも判
明しており、同様にEについては、D社の従業員であるE’ と同一人であることが判明
している(乙162)。そして、そもそも原告は、D社において取締役であって、社員に対し
て身元保証書を発行できる立場にあり、原告とC及びEは、過去の本邦入国時の外国人
登録上の居住地及び本邦に在留していた時期が重なること(原告本人2日目211、234
項、乙152の1)、Cの査証申請の際、原告が2度にわたり身元保証書に署名しているこ
と(原告本人2日目204ないし208項、乙164)から、原告が本邦入国前に両名と面識を
有していたことは明らかである。
b 原告は2001(平成13)年3月19日付けで(乙160)、Cは同年1月16日付けで(乙115
の1)、Eは2000(平成12)年10月2日付けで(乙154)、それぞれ査証申請をしたものの、
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いずれも査証が発給されなかったため、本邦における中古自動車部品販売に関する業務
遂行は困難となった。そのため、原告、C及びEは、難民認定されることにより従前どお
りの業務を遂行しようと考え、難民認定され易いように、不法入国が組織的、集団的な
ものであることを隠蔽する必要から、原告、C及びEの3名が親戚関係にあること、同
一会社に属していること等を秘匿し、C及びEは、過去の入国歴を隠蔽するため偽名を
使用し、それぞれ難民認定申請したものである。
c そして、原告を含む中古自動車販売業に係わる一定のアフガニスタン人が難民認定申
請をするに当たり、F(以下「F」という。)が不可欠の役割を果たしたことは、同人の証
人尋問の結果等から明らかである。なお、Cは、原告との兄弟関係についてDNA鑑定の
ため検体を採取した後、急遽本国に帰国した旨を述べ、鑑定結果が明らかになる以前に
本国に帰国し(乙134、135)、Eは、原告との血縁関係について被告らが鑑定申出書を提
出した後、訴えを取り下げて帰国した(乙170の1ないし178)。
キ 以上によれば、原告が迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する
とは到底認めることができないから、本件不認定処分は適法にされたものというべきであ
る。
イ 本件裁決の適法性について
原告は、2001(平成13)年7月初めころ、釜山港から船名船籍等不詳の貨物船で出発し、
横浜港に到着して本邦に不法入国した者であり(乙7の1及び2)、法24条1号所定の退去
強制事由に該当すると認められ、特別審理官の判定には何らの誤りもない。
そして、原告が難民に該当しないことは、前記アのとおりであり、その他に原告に対し在
留特別許可を付与するか否かの判断において格別積極的に斟酌しなければならない事情は見
当たらず、アフガニスタンにおいては、避難民の帰還が進んでおり、原告が本国に帰国して
生活することに支障はないから、法務大臣が在留特別許可を付与せずにした本件裁決に裁量
権を逸脱濫用した違法があるということはできない。
ウ 本件退令発付処分の適法性について
退去強制手続において、法務大臣から「異議の申出は理由がない」との裁決をした旨の通
知を受けた場合、主任審査官は、速やかに退去強制令書を発付しなければならないのであっ
て、退去強制令書を発付するにつき裁量の余地はないから、本件裁決が適法である以上、本
件退令発付処分も当然に適法であるというべきである。
エ 以上のとおり、本件不認定処分、本件裁決、本件退令発付処分はいずれも適法であるから、
原告の各請求はいずれも棄却されるべきである。
 原告の主張
被告法務大臣は、原告が難民であるにもかかわらず、原告のした難民認定申請を認めなかっ
たのであるから、本件不認定処分は違法なものであって、無効又は取り消されるべきである。
また、被告法務大臣は、原告の法49条1項の異議の申出に対して、在留特別許可を認めずに異
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議の申出に理由がない旨の本件裁決をしたが、原告の難民該当性を看過した同被告の判断には
重大かつ根本的な事実誤認による裁量権の逸脱があって、本件裁決は違法であるから、本件裁
決は取り消されるべきである。さらに、本件退令発付処分は、送還先をアフガニスタンとする
点で、難民を迫害のおそれのある国に送還することを禁じた難民条約33条1項、法53条3項の
ノン・ルフールマン原則に違反しており、被告審査官独自の裁量権についても濫用があり違法
なものであるから、取り消されるべきである。
ア 難民認定の際の立証基準の解釈の在り方
ア 我が国の難民認定制度においては、難民条約上の難民をそのまま難民として認定するこ
とが義務付けられているから、いかなる者が難民として認定されるべきかは、難民条約の
規定及び解釈により決せられるべきである。そして、難民認定の目的が、紛争解決や法的
安定性の確保という一般の争訟の目的と異なること、難民認定制度は、証明対象を一般の
争訟手続と異にすること、判断の誤りにより侵害される法益は重大であり、事後回復が不
可能であることからすれば、難民認定手続における立証基準は、これまでの同手続の実務
において形成されてきた様々なルール(例えば、後記の供述の信ぴょう性に関する議論や、
灰色の利益のルール等)に共通する「難民の可能性のある者の取りこぼしをせず、できる
だけ広く保護の網をかぶせる」という姿勢を念頭において検討されるべきである。
イ 上記を前提とすると、難民条約締結国における判例で示された解釈も、難民認定手続に
おける立証の在り方を考える重要な手がかりとなる。そして、アメリカ合衆国においては、
「十分に理由のある恐怖」については、迫害を受ける可能性が50パーセント以下であって
も、その者が抱く恐怖には十分に理由があるといえると判断されている(カルドサ・フォ
ンセカ事件に関する1987年連邦最高裁判所判決)。また、カナダにおいては、同文言の解
釈に際しては、迫害を受ける合理的見込み、あるいはそう信じる十分な基盤があれば足り
る旨が示されている(アジェイ事件に関する1989年1月27日ブリティッシュコロンビア
州バンクーバー連邦控訴裁判所判決)。さらに、英国においても、同文言は、客観的な状況
ではなく本人の立場に立った状況を前提に判断すべきである旨が示されているほか(シヴ
ァクラマン事件に関する1987年10月12日控訴裁判所判決)、オーストラリアにおいても、
迫害発生率がたとえ50パーセント以下であっても十分に理由のある恐怖になり得ること
が明らかにされている(チャン事件における1989年最高裁判所判決、オーストラリア難民
再審査委員会1995年8月11日決定及び同委員会1997年9月17日決定等)。
このように、諸外国の判例等は、「十分に理由のある恐怖」の立証について、極めて緩や
かな判断基準を用いている。
ウ 以上の検討によれば、「十分に理由のある恐怖」とは、客観的な迫害の可能性ではなく、
主観的な恐怖に十分な理由があることであり、十分な理由とは、当該申請者がおかれた状
況に合理的な勇気を有する者が立ったときに、帰国したら迫害を受けるかもしれないと感
じ、国籍国への帰国をためらうであろうと評価し得る場合を指すものというべきである。
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イ 難民認定における信ぴょう性判断の在り方について
ア 難民認定における信ぴょう性判断は、難民問題の特殊性や種々の要因(例えば、証拠収
集が困難であるという物理的要因、申請者の心的ストレスによる記憶の変容等の心理的要
因、言語的障害等の文化的要因、対審構造が取られていないことに由来する構造的要因)
等にかんがみ、慎重な検討が必要である。
イ したがって、難民認定手続に際しては、証拠の一部が信ぴょう性に欠けるとしても全て
の証拠を検証すべきであり、信ぴょう性を否定する場合には、合理的な理由に基づかなけ
ればならない。また、申請者の供述に一貫性や誠実性が認められる場合には、補強証拠が
なくとも信ぴょう性を認めるべきであるほか、仮に証拠の一部に矛盾や不整合、証言内容
の変遷等があってもそれを絶対視すべきではなく、申請者の証言にほとんど信ぴょう性が
見いだせない場合であっても、出身国情報等から難民として認定される可能性があるとい
うべきである。
ウ さらに、前記アの特殊性にかんがみれば、難民認定に際しては、「疑わしきは申請者の利
益に」という原則(いわゆる「灰色の利益」の原則)が妥当するというべきであり、同原則は、
カナダ、ニュージーランド、オーストラリア等の実務・判例で採用されている。
エ そして、以上のような信ぴょう性判断の在り方は、難民認定行為をする機関のみにとど
まらず、その処分の妥当性を判断する裁判所にも妥当するものである。
ウ アフガニスタン一般情勢について
ア ハザラ人は、2300年以上前から現在のアフガニスタン地域に居住する先住民族であり、
1880年代までは現在のアフガニスタン中央部に広がるハザラジャットという山岳地帯で
完全な自治を確立していたものの、1890年代に王位についたパシュトゥーン人の王によ
って決定的な変容を迫られ、以後3回にわたり反乱を起こすも失敗に終わり、それ以降ハ
ザラ人は社会的、経済的に社会の最下層として差別を受けている。
イ 1980年代から1990年代前半にかけて、ハザラ人は様々な政党を結成し、連合、解散を繰
り返して来たが、1890年代に入り、ヘズベ・ワハダット党とその指導者であるマザリ師を
中心として結束した。しかし、ヘズベ・ワハダット党は、ナジブラ政権崩壊後に成立した
暫定政権から閉め出され、暫定政権はペシャワールを拠点とするムジャヒディンにより構
成されたため、結局のところシーア派ハザラ人は無視され、1993(平成5)年2月には、西
カブールのアフシャール地区において数百人のハザラ人がラバニ大統領とその司令官マス
ードの命令により虐殺されるという事件が起きた。
ウ ヘズベ・ワハダット党(以下「イスラム統一党」ということもある。)は、1995(平成7)
年2月、マスード部隊の攻撃に対処するため、当時勢力を増大していたタリバンと停戦協
定を結び、タリバンが西カブールの前線に入ることを許可したものの、タリバンはヘズベ・
ワハダット党を援助することなく、政府軍の攻撃に耐えられず撤退する際に、マザリ師を
連行する等して同党を裏切った。その後マザリ師は死体で発見されたことから、シーア派
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ハザラ人の活発な活動と苦闘は終局し、ハザラ人は、以後タリバン政権下で迫害を受ける
こととなった。
エ タリバンは、アフガニスタンの最大民族であるパシュトゥーン人を主体とするイスラム
原理主義の急進主義者であり、1995(平成7)年以降、急激に勢力を増大すると、1996(平
成8)年9月にはアフガニスタンの首都カブールを占拠した。これに対しムジャヒディン
各派は、反タリバン勢力として統一戦線(以下「北部同盟」ということがある。)を結成し、
その後タリバン政権が崩壊するまで、両者の間の内戦が継続した。北部同盟は、タジク人
を主体とするラバニ・マスード派、ウズベク人を主体とするアフガニスタン・イスラム運
動、ハザラ人を主体とするイスラム統一党を中心としていた。
少数民族であるハザラ人、タジク人、ウズベク人は、タリバン政権下において迫害対象
になっていた。とりわけ、ハザラ人は、多くがイスラム教シーア派に属することから、タリ
バンによる組織的な殺害を含む迫害の対象とされ、1998(平成10)年8月8日にタリバン
がマザリシャリフを攻略したときには、何千人ものハザラ人の一般市民が、計画的かつ組
織的に虐殺され、生き残ったシーア派に対しては、改宗か死かの選択が迫られた。1998(平
成10)年9月には、バーミヤンにおいて、同様にハザラ人の一般市民が虐殺された上、同
年には、ヘズベ・ワハダット党の支持者ないし党員と疑われた700人以上のハザラ人が投
獄されたこと等が報道されている。
オ 2001(平成13)年12月、タリバンは、アフガニスタンにおいて統治機能を喪失し、同月
22日には、かつての北部同盟を中心とする暫定政権が発足したと報道された。しかし、ア
フガニスタンにおけるハザラ人迫害はタリバン誕生前からのものであり、タリバンが崩壊
したとの報道のみでハザラ人に対する迫害の危険がなくなったと判断するのは早計にすぎ
る。同暫定政権において、ハザラ人勢力は、重要性の低い5つのポストを与えられたのみ
であり、北部同盟内部についても、分裂が危惧される状況にあった。
カ 上記オのような不安定な状況においては、タリバン崩壊及び暫定政権の発足という事実
のみによりハザラ人迫害の歴史に本質的な変化が生じたと認めることはできない。したが
って、本件各処分当時、シーア派ハザラ人は、シーア派ハザラ人であることのみをもって
アフガニスタンにおいて、人種及び宗教を理由に迫害を受けるおそれがあったと認められ
る。実際に、諸外国においても、シーア派ハザラ人であることを理由として難民該当性が
認められた例は数多く存在し、とりわけオーストラリアに関しては、128件の決定例を調
査したところ、調査した期間内において、アフガニスタン国籍のハザラ人のうち、難民と
認定されなかった者はいなかった。また、東京弁護士会からUNHCRへの照会に対する回
答(以下「UNHCR回答」という。甲14の3)においても、UNHCR本部が、2001年8月に
各国事務所に対して発したガイドラインには、「特定地域出身の少数民族(主にシーア派)
のアフガン人大多数については迫害の危険性が高いため(1998年のタリバンによるマザ
リシャリフの制圧がよい例である。)、同様の背景を有するアフガン人男性を集団別に集団
- 11 -
認定に近い形での認定が正当化される」旨の記載がある。
キ 被告らは、国際機関等から、およそシーア派ハザラ人であれば殺害されるという報告は
されておらず、タリバン支配地域の非パシュトゥーン人について、民族浄化は経験されな
かった旨を主張する。
しかしながら、被告らがその主張の根拠とする連合王国の2001(平成13)年4月に公表
された「アフガニスタンアセスメント」(乙29)においても、1998(平成10)年8月に、タ
リバンがマザリシャリフにおいて、「シーア派マイノリティ、ハザラ人屠殺作戦」あるい
は「ハザラ人を根絶するための作戦」と評される虐殺をしたこと、ハザラ人少数民族が、
主として拘束の標的とされた旨の報告がされたことが明記されている。また、デンマーク
移民サービス局の「アフガニスタンにおける治安及び人権状況検討のためのパキスタン
視察団報告」(乙142)によれば、ハザラ人は、その民族のために反タリバン勢力であるワ
ーダット党への加盟を疑われ、イスラム教シーア派を信仰しているためにも攻撃を受け
る旨が記載されており、また、ワーダット党とのつながりを疑われるという理由で、その
疑いの客観的な根拠もなく暴力が行われる場合もあるとの記載が認められる。さらに、前
記UNHCR回答(乙14の3)からも、およそシーア派・ハザラ人であれば殺害されるとい
う報告がされたと解されるのであって、民族浄化が経験されなかったとする被告らの主張
は、文献資料の恣意的な引用に基づく不当なものであるといわざるを得ない。被告らは、
東京入管難民調査部門入国審査官の報告書(乙147)を引用して、実際に平成13年6月に
カブールを訪れた際、特にハザラ人であることから迫害されている様子は確認されなかっ
た旨を主張するが、実質的な調査期間がわずか2日間であったこと、同審査官の訪問の目
的は現地NGO視察であって、人権状況調査ではなかったこと、判断の根拠もカブール西
部地区を車で通過した際に、ハザラ人が店舗を並べていたこと等内実に乏しいものである
ことからすると、このような資料に何ら証拠価値を見いだすことはできない。
被告らは、タリバンにはハザラ人も含まれていたことを指摘するが、確固たる情報源に
よるものではなく、また仮に含まれていたとしても、取るに足りない程度の勢力であった
ことが明らかである。また、被告らは、マザリシャリフ、バーミヤン、ヤカウラン等で行わ
れた虐殺は、報復行為として行われた側面が強いことを指摘するが、仮にそのような側面
があったとしても、その背景に宗教的・民族的な要因があったことは、前記に指摘した被
告ら提出の書証の記載等からも明らかであり、シーア派ハザラ人に対する民族的・宗教的
な理由に基づく迫害の事実を否定することはできない。
エ 原告の難民性について
ア 原告は、アフガニスタン国籍を有するシーア派ハザラ人であり、本件各処分当時、タリ
バンによる迫害の対象となっていたから、難民条約上の難民に該当することは、前記のと
おりである。そして、原告の供述によれば、原告及びその家族は、個別的にもタリバンによ
る迫害を受けたことが認められるから、原告は難民条約上の難民に該当する。
- 12 -
イ 原告の個別的迫害の状況は、以下のとおりである。
a 原告は、2歳のころからカブールに居住していたが、1992(平成4)年、ムジャヒディ
ン間の内戦が激化し、マスード派に属する者により父が連行されそうになり、従兄弟な
どの親戚が内戦で死亡し、原告の家もマスード派のロケット攻撃により破壊される等の
事件が起きたことがあった。これを契機に、原告は、βへ転居し、さらに内戦のさらなる
激化を受けて、同年のうちにマザリシャリフに転居した。
b 原告は、1997(平成9)年5月、タリバン侵攻の情報を聞いて、イスラム統一党の拠点
の存在するマザリシャリフのγ地区から、δ地区に避難した。しかし、原告の両親は、γ
地区の自宅に家財を残していたことから、同地区に戻っていた際、夜間にタリバンが侵
入して原告の父が連行されそうになる事件が起きた。また、このころタリバンにより原
告のγ地区の自宅が荒らされ、家財道具がほとんどなくなってしまった。 
c 原告は、1998(平成10)年8月、タリバンが再びマザリシャリフに侵攻したことから、
γ地区からδ地区に再び避難した。そのころ、原告は、タリバンから機関銃を突きつけ
られて連行され、同地区の空き家の地下室で、約1週間にわたり、約20人のハザラ人の
若者とともに監禁されるという迫害を受けた。原告は、タリバンに拘束されて約1週間
の後、タリバンが早朝の礼拝をしている間に、隙を見て逃走したため無事であった。
d 原告は、2001(平成13)年3月か4月ころ、就寝中に突然やって来たタリバンの兵士
により、タリバンの駐在地に連行され、他のハザラ人の若者とともに拘禁された。原告
は、この際、タリバンの兵士から暴行を受けたり、武器や金員を要求されたりしたが、約
1週間後、村の長老を通じて母がタリバンに400ドルを支払ったことから、釈放された。
さらに原告が釈放されてから1週間後、再びタリバン兵士が原告の自宅に来たが、原
告は、自宅の裏口から付近の親戚の家に逃げ、かくまってもらったため無事であった。
しかし、このとき原告の父は、タリバンに連行され、父の連行を止めようとした妹Gは、
タリバンの銃でこめかみを殴られ、2日後に死亡した(父は現在も所在不明である。)。
タリバンの来た翌日に家に戻った原告は、この状況を知り、母から安全な国に行くよう
に勧められたため、アフガニスタンを出国して、難民認定申請することを決意した。
ウ 以上の原告の主張する事実は、いずれも具体的かつ詳細に供述され、アフガニスタンの
客観的状況とも一致するほか、概ね一貫していると認められるから、十分信用することが
できる。そして、これらの事実に照らせば、原告が、本件各処分当時アフガニスタンに帰国
した場合、人種及び宗教を理由に迫害を受けるおそれがあると信じる相当な理由が認めら
れるから、原告は難民条約上の難民に該当するというべきである。
エ 以上に対し、被告らは、原告の供述には信用性が認められないと主張する。しかしなが
ら、被告らの主張は以下のとおり理由がない。
a 被告らは、原告が、Cと兄弟であることについて虚偽の供述をしていたと指摘する。
しかし、原告は、Cと幼少時から離れて生活しており、必ずしも兄弟と認識していなか
- 13 -
った上、偽名を用いて来日歴を秘匿して難民認定申請していたCから、原告とCとは関
係がないといわれていたのであるから、原告が、Cと兄弟であることを否定していたこ
とには合理的な理由がある。
b 次に、被告らは、1997(平成9)年9月のタリバンによるマザリシャリフ侵攻に原告
が言及しなかったことから、原告は当時マザリシャリフに居住していなかった可能性を
指摘する。しかし、1997(平成9)年9月のマザリシャリフ侵攻の際、マザリシャリフ市
内は混乱状態にあったのみで、タリバンに陥落されることはなかったものであるし、原
告は同年5月のタリバンによる第1回侵攻の後も、タリバンが遠方から町を破壊したこ
と等に言及していることが認められる。
c また、被告らは、原告が仮に1998(平成10)年8月にタリバンにより拘束されていた
としても、原告が3度目の日本入国(同年11月)後も難民認定申請をすることなくマザ
リシャリフに戻ったことからすれば、原告がタリバンから迫害を受ける恐怖を有してい
たとは認められないと主張する。しかし、原告は、当時日本で難民認定申請をしなかっ
た理由について、アフガニスタンの情勢が好転する希望を持っていたことや、マザリシ
ャリフに家族が居住していたこと等を述べており、これらは十分に首肯できる理由であ
るといえる。
d さらに、被告らは、原告が2001(平成13)年3月13日付けでUAEの3年間の居住資格
を延長し、同月19日付けで在ドバイ総領事において査証申請手続をしたことについて、
原告の供述に変遷が見られ、これらの事実に照らせば、原告は同年3月当時原告がUAE
に滞在していたことがうかがわれるとして、同年3月から4月ころにεでタリバンに連
行されたという原告の供述には信用性が認められないと主張する。しかし、原告は、居
住資格延長を否定したのは、UAEに退去強制されることを恐れたためである旨供述して
おり、供述の変遷には合理的な理由があるといえるし、原告が居住資格の延長をした時
期が同年3月19日ころであったとしても、同月か同年4月であったとする原告の主張と
必ずしも矛盾するものではない。
e その他、被告らは、原告の今回の入国経緯に関する供述の変遷や、原告や原告の家族
が迫害を受けた時期等に関する原告の供述に見られる曖昧な点を捉えて、原告の主張に
信用性がない旨を指摘する。しかし、原告が今回の入国経緯に関して、ブローカーに口
止めされていたため虚偽の供述をしていたと説明する点は、合理的な理由であると認め
ることができるし、その他の時期の供述に関する曖昧な点や変遷は、原告の母国で、イ
スラム暦が使用されていたという事情等からやむを得ないものというべきである。そし
て、難民認定申請者は、迫害の体験又は危険に起因して心理的作用に障害が及ぶことが
あり、2001(平成13)年11月21日に原告の精神状態を診断したH医師は、原告には難民
特有の心的外傷が存在することを指摘しており、そもそも本質的でない部分の供述の食
い違いは、信用性を否定する根拠にはなり得ないというべきであるから、被告の指摘は
- 14 -
当たらないというべきである。
f なお、被告らは、本件が組織的な不法入国事案であり、原告は、難民認定制度に乗じて
就労目的で入国した旨を主張する。しかし、難民条約上の難民に該当すれば、原告の入
国の態様が組織的背景を有する不法入国事案であるか否かは原告の難民該当性に何の影
響も与えないというべきであるし、就業の動機と難民認定申請の意思は併存し得るもの
である。また、原告と同時期に不法入国を摘発された者の中には、原告と類似した迫害
の事実を主張する者もいるが、これをもって不自然であるということはできないし、原
告の難民認定申請の際にも通訳等を務めたFが、実は日本におけるブローカーの手引を
しており、中古車自動車販売業に関わるアフガニスタン人の難民認定申請について積極
的に主導した可能性がある等とする部分は、単なる憶測を述べているにすぎず、到底事
実と認めることはできない。したがって、被告らの主張には、いずれも理由がないとい
うべきである。
第3 争点に関する判断
1 法49条1項の異議の申出に対する裁決の処分性
 法49条1項の異議の申出を受けた法務大臣は、同異議の申出に理由があるかどうかを裁決し
て、その結果を主任審査官に通知しなければならず(法49条3項)、主任審査官は、法務大臣か
ら異議の申出に理由があるとした旨の通知を受けたときは、直ちに当該容疑者を放免しなけれ
ばならない一方で(同条4項)、法務大臣から異議の申出に理由がないと裁決した旨の通知を受
けたときは、速やかに当該容疑者に対しその旨を知らせるとともに、法51条の規定による退去
強制令書を発付しなければならないこととされている(法49条5項)。
このように、法は、法務大臣による裁決の結果につき、異議の申出に理由がある場合及び理
由がない場合のいずれにおいても、当該容疑者に対してではなく主任審査官に対して通知する
こととしている上、法務大臣が異議の申出に理由がないと裁決した場合には、法務大臣から通
知を受けた主任審査官が当該容疑者に対してその旨を通知すべきこととする一方、法務大臣が
異議の申出に理由があると裁決した場合には、当該容疑者に対しその旨の通知をすべきことを
規定しておらず、単に主任審査官が当該容疑者を放免すべきことを定めるのみであって、いず
れの場合も、法務大臣がその名において異議の申出をした当該容疑者に対し直接応答すること
は予定していない(なお、平成13年法務省令76号による改正後の法施行規則43条2項は、法49
条5項に規定する主任審査官による容疑者への通知は、別記61号の2様式による裁決通知書に
よって行うものとすると定めているが、この規定はあくまで主任審査官が容疑者に対して通知
する方式を定めたものにすぎず、法の定め自体に変更がない以上、この規則改正をもって法務
大臣が容疑者に直接応答することとなったとは考えられない。)。こうした法の定め方からすれ
ば、法49条3項の裁決は、その位置づけとしては退去強制手続を担当する行政機関内の内部的
決裁行為と解するのが相当であって、行政庁への不服申立てに対する応答行為としての行政事
件訴訟法3条3項の「裁決」には当たらないというべきである。
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 このことは、法の改正の経緯に照らしても明らかである。すなわち、法第5章の定める退去
強制の手続は、法の題名改正前の出入国管理令(昭和26年政令319号)の制定の際に、そのさら
に前身である不法入国者等退去強制手続令(昭和26年政令第33号)5条ないし19条の規定する
手続を受け継いだものと考えられ、同手続令においては、入国審査官が発付した退去強制令書
について地方審査会に不服申立てをすることができ(9条)、地方審査会の判定にも不服がある
場合には中央審査会に不服の申立てをすることができ(12条)、中央審査会は、不服の申立てに
理由があるかどうかを判定して、その結果を出入国管理庁長官(以下「長官」という。)に報告
することとされ、報告を受けた長官は、中央審査会の判定を承認するかどうかを速やかに決定
し、その結果に基づき、事件の差戻し又は退去強制令書の発付を受けた者の即時放免若しくは
退去強制を命じなければならないものとされていた(14条)もので、この長官の承認が、法49
条3項の裁決に変わったものと考えられる。そして、長官の承認は、中央審査会の報告を受け
て行われるものとされていて、退去強制令書の発付を受けた者が長官に対して不服を申し立て
ることは何ら予定されておらず、長官の承認・不承認は、退去強制手続を担当する側の内部的
決裁行為にほかならない。したがって、同制度を受け継いだものと考えられる法49条3項の裁
決についても、退去強制令書の発付を受けた者の異議申出を前提とする点において異なるもの
の、その者に対する直接の応答行為を予定していない以上、基本的には同様の性格のものと考
えるのが自然な解釈ということができる。
 また、前記の解釈は、法49条1項が、行政庁に対する不服申立てについての一般的な法令用
語である「異議の申立て」を用いずに、「異議の申出」との用語を用いていることからも裏付け
られる。すなわち、昭和37年に訴願法を廃止するとともに行政不服審査法(昭和37年法第160
号)が制定されたが、同法は、行政庁に対する不服申立てを「異議申立て」、「審査請求」及び「再
審査請求」の3種類(同法3条1項)に統一し、これに伴い、行政不服審査法の施行に伴う関係
法律の整理等に関する法律(昭和37年法律第161号)は、それまで各行政法規が定めていた不
服申立てのうち、行政不服審査法によることとなった行政処分に対する不服申立ては廃止する
とともに、行政処分以外の行政作用に対する不服申立ては前記3種類以外の名称に改め、そう
した名称の一つとして「異議の申出」を用いることとした。
他方、法の対象とする外国人の出入国についての処分は行政不服審査の対象からは除外され
ている(行政不服審査法4条1項10号)とはいえ、前記のとおり行政不服審査法の制定に際し
て個別に不服申立手続について規定する多数の法令についても不服申立てに関する法令用語の
統一が図られたのに、法49条1項に関しては、従前どおり「異議の申出」との用語が用いられ
たまま改正がされず、法についてはその後も数次にわたって改正がされたにもかかわらず、や
はり法49条1項の「異議の申出」との用語については改正がされなかった。そして、現在にお
いては、法令用語としての「異議の申出」と「異議の申立て」は通常区別して用いられ、「異議の
申出」に対しては応答義務さえないか、又は応答義務があっても申立人に保障されているのは
形式的要件の不備を理由として不当に申出を排斥されることなく何らかの実体判断を受けるこ
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とだけである場合に用いられる用語であるのに対し、「異議の申立て」は、内容的にも適法な応
答を受ける地位、すなわち手続上の権利ないし法的地位としての申請権ないし申立権を認める
場合に用いられる用語として定着しているということができる。したがって、数次にわたる改
正を経てもなお「異議の申出」の用語が用いられている法49条1項の異議の申出は、これによ
り、法務大臣が退去強制手続に関する監督権を発動することを促す途を拓いているものではあ
るが、同異議の申出自体に対しては、被告の応答義務がないか、又は、応答義務があっても、形
式的要件の不備を理由として不当に申出を排斥されることなく何らかの実体判断を受けること
が保障されるだけであり、申出人に手続上の権利ないし法的地位としての申請権ないし申立権
が認められているものとは解されない(最高裁第一小法廷判決昭和61年2月13日民集40巻1
号1頁は、土地改良法96条の2第5項及び9条1項に規定する異議の申出につき、同旨の判示
をしている。)。
よって、法49条1項の異議の申出に対してされる法49条3項の「裁決」は、不服申立人にそ
うした手続的権利ないし地位があることを前提とする「審査請求、異議申立てその他の不服申
立て」に対する行政庁の裁決、決定その他の行為には該当せず、行政事件訴訟法3条3項の裁
決の取消しの訴えの対象となるということはできない。
 さらに、法49条1項の異議の申出については、前記のとおり、申出人に対して法の規定によ
り手続上の権利ないし法的地位としての申請権ないし申立権が認められているものと解する
ことはできないのであるから、異議の申出に理由がない旨の裁決がこうした手続上の権利ない
し法的地位に変動を生じさせるものということはできず、同裁決が行政事件訴訟法3条2項の
「処分」に当たるということもできない(前記の最1小判参照。)。
 以上によれば、法49条1項の異議の申出に対する法務大臣の裁決は内部的決裁行為というべ
きものであり、行政事件訴訟法3条1項にいう公権力の行使には該当しないというべきもので
ある。
2 原告の難民該当性について
原告は、本件不認定処分は、原告が難民条約上の難民に該当するにもかかわらず、これを看過
してされた処分であるから無効あるいは取り消されるべきであり、本件退令発付処分は、送還先
をアフガニスタンとしたことが、難民を迫害のおそれのある国に送還することを禁じた難民条約
33条1項、法53条3項のノン・ルフールマン原則に違反し取り消されるべきである旨を主張す
る。そこで原告の難民該当性について検討する。
 歴史的沿革
本件各証拠(甲1の20ないし30、乙38の1、38の2、39、40、49、53、137、142ないし145)
によれば、アフガニスタンの歴史的沿革について、以下の事実が認められる。
ア アフガニスタンは、イラン系のパシュトゥーン人やタジク人、モンゴロイド系のウズベク
人やハザラ人等の民族が混在する多民族国家である。このうち、パシュトゥーン人が最大の
民族グループで、人口の約35パーセントを占め、次に多いのがタジク人で約25パーセント、
- 17 -
ハザラ人は約19パーセント、ウズベク人は約6パーセントを占める。
イ アフガニスタンには、1979(昭和54)年12月、ソ連軍が侵攻し、ソ連の支援の下で、共産
主義のカルマル政権が成立したが、イスラム原理主義を中心とするムジャヒディン(イスラ
ム聖戦士達)がソ連及びカルマル政権に対する抵抗運動を開始し、以後、内戦状態が続いた。
ウ 政権は、1986(昭和61)年5月にカルマルからナジブラへと引き継がれ、1989(平成元)
年2月にはジュネーブ合意に基づき、ソ連軍が撤退し、1992(平成4)年4月には、ナジブラ
政権は崩壊してムジャヒディン各派による連立政権が誕生したが、各派間での主導権争い等
により、国内の内戦は激化した。
エ 1994(平成6)年末には、イスラム教スンニ派のパシュトゥーン人を中心としたタリバン
と呼ばれるイスラム原理主義勢力が台頭し、イスラム原理主義政権の樹立を目指して勢力を
拡大し、1996(平成8)年末には、タリバンが首都カブールを制圧して暫定政権の樹立を宣
言した。これ以降、タリバンに反対するムジャヒディン各派、すなわち、タジク人中心のイス
ラム協会(ラバニ派)、パシュトゥーン人中心のイスラム党(ハクマチヤル派)、イスラム教シ
ーア派のハザラ人中心のヘズベ・ワハダット党(イスラム統一党、ハリリ派等)、ウズベク人
中心のイスラム国民運動党(ドストム派)の四大勢力の統一戦線(通称北部同盟)とタリバン
との内戦が続いた。統一戦線は、タリバンによりカブールを追われた政府であるアフガニス
タン・イスラム国(旧政府)を支持しており、旧政府の最高指導者であるグルバディン・ラ
バニが形式上の最高指導者とされていた。
オ タリバンは、1998(平成10)年夏には、マザリシャリフ及びイスラム統一党の拠点である
バーミヤンを陥落させ、2001(平成13)年10月ころには、国土の9割を掌握し、アフガニス
タンを実質的に支配していた。
カ アメリカ合衆国におけるいわゆる同時多発テロを契機とした米英軍の空爆と統一戦線によ
る攻撃により、2001(平成13)年12月には、タリバンは統治機能を喪失した。
そして、同月22日には、アフガニスタン暫定政権が発足し、日本は、同政権を承認した。暫
定政権は、パシュトゥーン人のハミド・カルザイ元外務次官を首相に相当する議長とする合
計30人の閣僚で構成され、うち11人がパシュトゥーン人、8人がタジク人、5人がハザラ人、
3人がウズベク人、その他が3人であった。
キ 暫定政権成立以後のアフガニスタンについては、パキスタン等の隣国に逃れていた避難民
の大量帰国を報じる新聞報道もある一方で、治安の悪化を懸念する報道もされており、さら
には、暫定政権の成立に向けた交渉過程で、ラバニ元大統領派のタジク人が政権の要職を占
めつつあったことに反発して、ウズベク人の指導者であるドスタム将軍やクルド人の指導者
であるイスマイル・カーン司令官が暫定行政機構への参加を一時見送ろうとしたことや、暫
定行政機構の中心となっているパシュトゥーン人については、以前にあった部族有力者らの
腐敗と権力闘争が再燃するおそれがあること等から、暫定行政機構には全土統一を達成でき
るだけの軍事力もなく、カリスマもイデオロギーもないとして、タリバンによる政権掌握前
- 18 -
の内戦状態に後戻りすることを危惧する報道もされていた。
 アフガニスタンにおけるハザラ人の状況
ア 本件各証拠(甲1の2、1の3、1の5ないし1の8、1の18、1の19、2、乙29、30、47
の1ないし3、48、49、53、137、142)によれば、アフガニスタンにおけるハザラ人の状況
については、以下の事実を認めることができる。
ア ハザラ人は、アフガニスタンに存在する最も古い移住民族の1つであり、今から2300年
以上前に今日ハザラジャットとして知られる地域に移住し、1880年代までは、完全に自治
を確立し、同地域を支配していた。
イ しかしながら、アブドゥル・ラーマンがアフガニスタンの王位に就いた1890(明治23)
年から1901(同34)年にかけて、ハザラ人は、宗教上の理由及び民族的理由により、同王
による迫害の対象とされ、3度の反乱を起こしたが失敗に終わり、以後1970年代まで社会
的経済的差別の対象とされ、厳しい政治的抑圧を受けた。
ウ 1980年代から1990年代前半にかけて、ハザラ人は、政党を結成し、連合や解散を繰り返
してきたが、1990年代に入ると、ヘズベ・ワハダット党とその指導者であるマザリ師を中
心として結束した。ハザラ人は、1992(平成4)年までにカブールのほとんどの地域に住
むようになり、西カブールは、シーア派ハザラ人の居住地域として国内最大のものとなっ
ていた。しかしながら、ナジブラ政権崩壊後、ムジャヒディンにより構成された暫定政権
から、ヘズベ・ワハダット党は完全に閉め出され、シーア派ハザラ人は無視された。1993
(平成5)年2月11日には、西カブールのアフシャール地区で、数百人のハザラ人が、ラバ
ニ大統領とその主任司令官マスードの命令により虐殺されるという事件が起きた。
エ その後、ヘズベ・ワハダット党は、1995(平成7)年2月、当時勢力を増大していたタリ
バンと停戦協定を結び、タリバンが西カブールの前線に入ることを許可したものの、タリ
バンは同党を裏切り、同党の指導者であるマザリ師等を連行した。その後、マザリ師は死
体で発見されるに至った。
オ タリバンは、1996(平成8)年にカブールを制圧し、1998(平成10)年8月8日、マザリ
シャリフを奪取したが、その際、わずか3日間に数千人(最大8000人ともいわれる。)のハ
ザラ人の民間人が殺害された。また、タリバンは、同年9月には、当時ヘズベ・ワハダット
党の根拠地であり、ハザラ人のホームランドとして同党に支配されていたバーミヤンを制
圧した。これに対し、北部同盟は、1999(平成11)年4月21日、バーミヤンを奪還したが、
翌5月9日には、同市は再びタリバン勢力下に戻った。タリバンによるバーミヤン地方の
ヤカオラン奪取直後には、多くのハザラ人の一般市民が殺害された。また、タリバンは、
2000(平成12)年12月、同地域において数百人に上る一般市民を即決処刑した。
イ 被告らは、アフガニスタンにおけるハザラ人は、タリバン台頭前においては、複雑な対立
構造の下に抗争を繰り返しており、常に一方的な被害者であったと認めることはできないと
主張し、また、タリバン台頭後については、ハザラ人に対する人権侵害の主要な要因は、宗教
- 19 -
的又は民族的特性によるものではなく、むしろタリバンに対立する者であったか、そのよう
に解されたことによるものであるから、本件各処分当時、シーア派ハザラ人が、その民族又
は宗教のみを根拠に迫害を受けた事実は認められない旨を主張する。
ウ そこで検討するに、本件各証拠中には、被告らの主張に沿うものとして、以下の記載があ
ることが認められる。
ア 民族に基づく深刻な虐待行為は、反タリバン派も犯してきた。例えば、1999(平成11)
年4月21日から5月9日の3週間に、バーミヤンを制圧しようとした反タリバン勢力は、
新しく移ってきたパシュトゥーンの人々や、タリバンの協力者の疑いのある人々を激しく
殴ったり、何人もの民間人を恣意的に拘束したり、それら家族にひどい仕打ちをしたとい
われる(1999年1月付けUNHCR資料・甲1の5、4頁)。
イ タリバンによる処刑は、2000(平成12)年12月、反タリバン勢力イスラム統一党との激
しい戦闘の末、ヤカオランを奪還した直後に行われた。今回の処刑は、この地域を征服す
る際にタリバンが被った被害に対する報復だと見られている。反タリバンと見られる13歳
から70歳までのすべての男性を殺害するようタリバン司令官が命じたと伝えられている。
イスラム統一党も、この地域を支配していたときにタリバンに協力したと見なされた
人々を虐待してきたと報告されている(アムネスティ発表国際ニュース2001年1月23日・
甲1の7、1頁)。
ウ 1997(平成9)年5月末、およそ3000人のタリバン兵士の捕虜が、マザリシャリフ周辺
で、アブダル・マリク・パラワン司令官指揮下の軍によって略式処刑された。また、同軍は、
同年1月5日、空からカブールの住宅街にクラスター爆弾を投下した。通常爆弾も使われ
たこの無差別空襲により、市民の間に死傷者が数名出た(ヒューマンライトウォッチレポ
ート(2001年10月5日付け)甲1の19)。
エ 発生した侵害の主要な要因は、宗教への加入又は民族的特性によるとは限らず、むしろ、
タリバンに対し、実際に反対者であったか又はそのように解されたことによる。 
1998(平成10)年8月に、タリバンはマザリシャリフを占拠した。約5000人(たいてい
はハザラ民族の民間人)が占拠後にタリバンにより虐殺されたとの報告があった。タリバ
ンは、1997(平成9)年に、ハザラ人及び他の戦闘員が彼らに敵対し、彼らの側の約2000
人を虐殺したことに対する報復をすることに集中していたとされる(連合王国における「国
別評価 アフガニスタン アセスメント2001年4月」(以下「連合王国アセスメント」と
いう。)・乙29、訳文1・2頁)。
オ 宗教的少数派の状況は、地元のタリバン指導者がその権限をどう行使するかによる。一
部地域では宗教的少数派も平和に暮らし、自分たちの宗教を奉じることができるが、他の
地域では彼らへの嫌がらせや迫害の事件が起こっている。
国連幹部情報筋や多くの国際・国内NGO等、いくつかの情報筋は、タリバンの少数民
族に対する対応は、反対勢力との接触の疑いがあるためで、主に政治的な動機によると強
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調した。これはつまり、戦闘地域及び衝突の恐れのある地域の少数民族が特に危険である
ということである。
ある中央の国連情報筋は、ハザラ人はその民族のために組織的に迫害されているわけで
はないが、特に戦闘年齢の男性は、戦闘地域や反対勢力が形作られている地域では、反対
勢力とのつながりを疑われている(デンマーク移民サービス局によるアフガニスタンにお
ける治安及び人権状況検討のためのパキスタン視察団報告(2001年1月18日から29日、
以下「デンマーク報告書」という。)・乙142)。
カ 上記アないしオの各記載からは、ハザラ人を中心とするイスラム統一党等は、タリバン
に協力したとみなされた者に暴行等の虐待を加えたことがあり、タリバンにより1998(平
成10)年8月に行われたマザリシャリフの大虐殺や、1999(平成11)年に行われたバーミ
ヤンにおける虐殺は、これらの反タリバン勢力による虐殺行為に対する報復として、反タ
リバン勢力に対する協力者、あるいは反タリバンとみなされた者を対象としてされた側面
のあることが認められ、タリバンは、ハザラ人を含む少数民族に対し、主に戦闘地域にお
いて反対勢力との接触の疑いのある場合に殺害や連行等の迫害を行ったことが認められ
る。
エ 他方で、被告がその主張の根拠として引用する連合王国アセスメントやデンマーク報告書
には、以下のような記載があることが認められる。
ア まず、連合王国アセスメントには、以下の記載がある。
 継続した紛争等による人権侵害の状況下では、アフガニスタンで、誰が危険で、誰が
そうでないかについて明確に区別する法則はない。しかしながら、人権侵害の主要な標的
の中には、以下のような者が含まれているといえる。タリバンと関係しない非パシュトゥ
ーン民族のメンバー、宗教的マイナリティーグループ等(訳文1頁)。
イ また、デンマーク報告書にも、以下のような記載がある。
a 「宗教的及び民族的少数者に対する状況について」と題する箇所
中央の国連情報筋、アフガニスタン協働センター(CCA)、多くのNGO等いくつかの
情報筋は、全体としてアフガニスタン少数民族の政治的迫害や追放は一般的ではなかっ
たが、それは彼らがどこに住んでいるかによると述べた。しかし、戦闘地域又は衝突の
恐れのある地域の少数民族は極めて危険である。この情報筋は、衝突のある地域数は、
1997(平成9)年以来増加しており、ハザラジャットとアフガニスタン西部での政治的
不安定を伴っていると述べた。
ある国連幹部情報筋は、戦闘が行われている地域、特に北部及びハザラジャットの少
数民族の状況は、現在非常に悪いため、彼らを非常に特別な危険状態にあると見なされ
なければならないと報告した。ハザラ人は特に迫害を受けやすいグループで、1998(平
成10)年以来そうである。
国連幹部情報筋や多くの国際・国内NGO等は、タリバンと非パシュトゥーン人少数
- 21 -
民族の間で民族分化が行われていると説明した。ある情報筋は、ハザラ人の「二重の少
数派」であるために苦しんでいると付け加えた。ハザラ人は、その民族のためにハザラ
人をベースとする反対勢力ワーダット党への加盟を疑われ、イスラム教シーア派を信仰
しているためにも攻撃を受けるからである。
全ての情報筋は、少数民族への攻撃は組織的ではなく、恣意的なものだと述べた。
CCAは、1997(平成9)年にカンダハルの刑務所を、また1998(平成10)年末にバグラ
ン州ナハリン地区の刑務所を訪れることができたが、タリバンが「政治犯」とする多く
の拘留者が、実際には少数グループの普通の労働者または農民で、街で捕らえられたも
のだと報告した。
b 「紛争の宗教的様相の拡大」と題する箇所
これまで述べたように、いくつかの情報筋は、タリバンの少数民族への対応は、反対
勢力とのつながりの疑いによる主に政治的動機によるものだと確信していた。
しかし、国連幹部情報筋や、CCA、アフガニスタン救済団体調整局(ACBAR)等の多
くの情報筋は、最近数年、宗教的要素が戦争に加わってきたと述べた。これは、タリバン
が多くの外国人イスラム教スンニ派原理主義者を自軍に組み込み、彼らが非スンニ派を
殺害することを自分たちの宗教的使命と見なしているからである。同様に最近、戦闘の
実施に関して、強い反シーア派的声明が発されている。
c 「民族的少数者に対する状況」のうちハザラ人に関する箇所
ある中央の国連情報筋は、ハザラ人はその民族のために組織的に迫害されているわけ
ではないが、特に戦闘年齢の男性は、戦闘地域や反対勢力が形作られている地域では、
反対勢力とのつながりを疑われていると報告した。タリバンが脅威を感じると、彼らは
ハザラ人に恣意的な逮捕等を押しつけて反応し、少数ながら処刑も行われた。この情報
筋は、ハザラ人を基盤とするワーダット党とのつながりを疑われるという理由で、その
疑いの客観的根拠もなく暴力が行われる場合もあると述べた。
CCAは、タリバンは脅威を感じると、カブールとマザリシャリフでいつもハザラ人と
ウズベク人を逮捕すると報告した(訳文19頁)。
d 「宗教的少数者に対する状況」と題する箇所
ある中央の国連情報筋は、反対勢力とのつながりを疑われることが少数民族への迫害
の主な理由だが、これは宗教的な迫害の点でも連鎖反応を招くと指摘した。例えば、シ
ーア派教徒は、反対勢力に属していると疑われることがあるという(訳文22頁)。
ウ 以上の被告らがその主張の根拠とする資料中、被告らが引用していない部分の記載から
は、タリバンによるハザラ人に対する暴行や殺害等の迫害は、必ずしも組織的に行われた
ものではないとしても、現実には、ハザラ人がその民族及び宗教的信仰のゆえに、タリバ
ンから反対勢力に属することを疑われ、その疑いの客観的証拠がなくとも暴行や殺害等を
受けることが相当の頻度であったことや、少なくとも一部のタリバン勢力が、非スンニ派
- 22 -
を殺害することを宗教的使命とみなしていたことが認められる。
オ さらに、本件各証拠には、以下のような記載もある。
ア アムネスティ・インターナショナルによれば、多数の非戦闘員が、タリバンの警備兵に
よって、故意にかつ恣意的に殺害されている。1998(平成10)年9月、アムネスティ・イ
ンターナショナルは、同年8月8日のマザリシャリフの奪取において、タリバンの軍隊が
街中及び市場で一般市民が逃げようとすると無差別に発砲したことを報告した。タリバン
は、その後直ちに各家の捜索を行い、タジク人、ウズベク人及びハザラ人の男性と10代の
少年を拘禁し、街中又は家で度々ハザラ人を射殺した。
上記マザリシャリフの奪取について、アフガニスタンにおける国連人権特別報告官は、
タリバンが、主にシーア派ハザラ人を標的とした殺人的狂乱の中で、広範かつ無差別な発
砲を行ったと報告している。(中略)タリバンは、路上で動く者を見ると、自分の家の窓や
ドアから覗いていただけかもしれない人も含め、誰であっても発砲した。
住民の中で攻撃と迫害を受ける特別の可能性があった、又は可能性がある集団として
は、彼らに敵対的な軍事的指導者に支配された地域にいる特定の民族的、宗教的又は政
治的集団が含まれ、政治的又は民族的に対立した集団に属している、あるいは属してい
ると疑われた武装していない一般市民は、人権侵害の標的となっている旨の記載がある
(UNHCR資料・甲1の2、5頁、同11頁)。
イ 何千人ものハザラ人系住民が、1998(平成10)年にタリバンにより殺害されたと推定さ
れている。また、民族的な理由による市民の強制追放も行われた形跡がある。1999(平成
11)年中、新たにタリバンの支配下に入った地域から、ハザラ系やタジク系の住民が強制
的に追放されたとする複数の報告がされている。そして、ハザラ系住民は、パシュトゥー
ン系であるタリバンによる民族的出自を理由とした攻撃の対象となっていると伝えられて
いる(アメリカ合衆国国防省による2000年2月25日公表の1999年国別人権状況報告書・
甲1の3、20頁、同31頁)。
ウ タリバンが1998(平成10)年8月にマザリシャリフを軍事的に制圧してから数日間、数
千人のハザラの民間人がタリバン警備兵に意図的かつ組織的に殺害されたという報告が相
次いだ(アムネスティ・インターナショナルの「アフガニスタン:マイノリティの人権」
と題する資料・甲1の5)。
エ 1999(平成11)年5月にタリバンが前回ヤカオランを奪取した際に多くのハザラ民族の
一般市民が、侵入してきたタリバン警備隊の組織的殺害の標的とされたと報告されている
(アムネスティ発表国際ニュース(2001年1月23日)・甲1の7)。
オ タリバンは、1998(平成10)年8月のマザリシャリフ制圧及び同年9月のバーミヤン制
圧に際し、ハザラ人を虐殺したと伝えられているが、1つの動機は、1997(平成9)年5月
にマザリシャリフを制圧しようとした際にタリバン側に死傷者が出たことに対する報復で
あったが、もう1つの動機は、シーア派ムスリムのハザラ人に対する宗派的憎悪であった
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と思われる。
デンマーク移民局は、1997(平成9)年11月にアフガニスタンを訪問し、タリバン支配
領土でも問題なくハザラ人が生きていけると報道担当者は述べているが、幅広い国連の情
報筋やアフガニスタン内外のNGOはすべてハザラ人が迫害を受けやすい人々であるとの
見解を示したと報告した。(中略)情報源によれば、ハザラ人が、イスラム統一党に属して
いるという容疑、軍への徴発、捕虜とされているタリバン側の者との交換用として収容さ
れているとのことである。1日に20人から50人のハザラ人がカブールで拘束されている
との報告がある(オーストラリア難民再審査審判書の決定・甲1の12、訳文6頁)。
カ 以上の各証拠中の記載を総合的に考慮すると、被告らの主張するように、タリバンによっ
て行われたハザラ人の虐殺行為には、反タリバン勢力の攻撃に対する報復という側面があっ
たこと自体は否定できないし、タリバンも公式には組織的かつ日常的にハザラ人を迫害する
ことを肯定していたものでもないが、実際には、少なくともアフガニスタンの一定の地域(例
えば、戦闘地域であったマザリシャリフやバーミヤンのほか、元々ハザラ人が多数居住して
いる地域等)において、その地に臨んだタリバン兵から、ハザラ人が、ハザラ人であること、
あるいはシーア派であることのために、客観的な理由なく反タリバン勢力に属するものと見
なされて積極的暴行を受けたり、あるいは宗教的憎悪の対象とされて、迫害を受けることが
頻繁にあったと認めることができる。そうであるとすると、同じくシーア派に属するハザラ
人であっても、比較的平和な地域に居住していて自らはもとより周辺に居住する者もタリバ
ンによる暴行等の被害に遭うことがなかった者については、その者がシーア派でありハザラ
人であることのみによって難民に該当するとは評価できず、被告らの主張もこの限度では正
当であるが、原告のように元々ハザラ人が多数居住する地域に住む者が、自ら又は周辺に住
む者についてタリバンから客観的な理由もなく暴行や拘禁などの被害を受けた経験を有し、
それが繰り返されるおそれがあった場合には、客観的にみても、その者がシーア派ハザラ人
であることを理由とする迫害を受けるおそれがあると認めることができる。
なお、被告らは、タリバンによるハザラ人に対する暴行等がより限定的なものにすぎなか
った旨主張し、2001(平成13)年6月に入国審査官がカブール市内においてハザラ人が何ら
迫害を受けずに生活している状況を現認した旨の報告書(乙147)を証拠として提出してい
る。しかし、上記認定は、タリバンが公式に組織的かつ日常的にハザラ人に対して迫害を行
うことを肯定しているというものではなく、むしろ、タリバンも公式にはそのようなことは
否定しているものの、タリバンの支配が十分に浸透していない地域においては、現地に臨ん
だタリバン兵が恣意的に上記のような行動に出ることが一般化しているというものであるか
ら、カブールの中心街に近く、タリバンが確実に制圧している地域における白昼の状況に関
する上記報告書の記載は、上記の認定を左右するものではない(なお、上記報告書中には、カ
ブール西部の状況を報告したものとの記載があるが、カブールの市街地が同報告書添付の地
図よりさらに西側に広がっていることは、当裁判所に顕著な事実であり、同地図には原告の
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供述中に現れるカブール西部の地名が全く現れていないことからすると、原告が居住してい
た地域付近についても調査が行われたか否か明らかでない。)。
キ そして、本件退令発付処分は、タリバン政権崩壊後、アフガニスタン暫定政権が成立した
わずか5日後にされているところ、前記のとおり暫定政権の基盤自体について、非常に脆弱
なものであるとの評価がされ、タリバン政権前の内戦状態に後戻りすることも危惧される旨
の報道がされていたこと、前記の各資料中の記載からは、ハザラ人に対する差別意識は、タ
リバン政権により初めて生じたものとは考えられず、民族的・宗教的な背景を持つものと認
められることからすれば、タリバン政権が崩壊した事実のみをもって、直ちにハザラ人に対
する迫害の状況に変化が生じたものとは到底認めることができないし、本件全証拠からも、
このような事実は認められない。したがって、本件退令発付処分当時においても、タリバン
政権下においてハザラ人の置かれた状況に特段の変化は認められないものというべきであ
る。

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