難民認定をしない処分取消等請求事件
平成14年(行ウ)第49号
原告:A、被告:法務大臣・名古屋入国管理局主任審査官
名古屋地方裁判所民事第9部(裁判官:加藤幸雄・舟橋恭子・平山馨)
平成16年4月15日
判決
主 文
1 被告法務大臣が、原告に対して平成13年10月2日付けでした難民の認定をしないとの処分を
取り消す。
2 被告法務大臣が、原告に対して平成12年1月7日付けでした出入国管理及び難民認定法49条
1項に基づく異議の申出は理由がないとの裁決は無効であることを確認する。
3 被告名古屋入国管理局主任審査官が、原告に対して平成12年1月27日にした退去強制令書の
発付は無効であることを確認する。
4 訴訟費用は被告らの負担とする。
事実及び理由
第1 請求
主文同旨
第2 事案の概要(以下、年号は、本邦で生じた事実については元号を先に西暦を後に表記し、本邦外
で生じた事実については西暦により表記する。また、国名は、慣用例により適宜略記する。)
本件は、トルコ(共和国)国籍を有する原告が、同人に不法残留の退去強制事由がある旨の入国
審査官の認定に誤りがないとの特別審理官の判定に対してした異議の申出について、被告法務大
臣(以下「被告大臣」という。)が理由がないとの裁決をし、次いでその裁決に基づいて被告名古
屋入国管理局主任審査官(以下「被告主任審査官」といい、名古屋入国管理局を「名古屋入管」と
いう。)が原告に対する退去強制令書を発付したため、同被告らに対してそれらの無効確認を求
め、さらに原告が被告大臣に対して難民認定申請(第2次)をしたところ、同被告が難民の認定を
しない処分をしたため、同被告に対して、その取消しを求めた抗告訴訟である。
1 前提事実(当事者間に争いのない事実及び証拠により容易に認定できる事実)
 原告の入国・在留状況について
ア 原告は、1973年《日付略》、トルコの《地名略》県において出生したトルコ国籍を有する外
国人である(甲1、乙1)。
イ 原告は、平成9(1997)年1月30日、トルコ政府発行に係る本人名義の旅券を所持して、
トルコのイスタンブールからトルコ航空592便で新東京国際空港に到着し、東京入国管理局
(以下「東京入管」という。)成田空港支局入国審査官に対し、渡航目的「for business(商用)」、
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日本滞在予定期間「One Week(1週間)」と記載した外国人入国記録を提出して上陸申請を
行い、同入国審査官から、在留資格「短期滞在」、在留期間「90日」とする上陸許可を受け、本
邦に上陸した(甲1、乙1、2)。
原告は、在留期間更新許可申請又は在留資格変更許可申請をすることなく、在留期限であ
る同年4月30日を徒過して本邦に残留した(乙22)。
ウ 原告は、平成9(1997)年8月19日、居住地を愛知県《住所略》として外国人登録申請を行
い、同年9月5日、外国人登録証明書の交付を受け、次いで、平成10(1998)年8月14日、三
重県《住所略》に、平成12(2000)年6月30日、同市《住所略》にそれぞれ居住地変更登録を
している(乙3、4)。
その後、原告は、遅くとも平成15(2003)年9月ころまでに、肩書地に転居している。
 原告の難民認定申請手続について
ア 原告は、平成9(1997)年10月3日、東京入管において、同人がクルド人であるために迫
害を受けるおそれがあることを理由として、被告大臣に対し、出入国管理及び難民認定法(以
下、法律名を示すときは「入管難民法」といい、条文を示すときは単に「法」という。)61条の
2第1項に基づき、難民認定申請をした(以下「第1次申請」という。甲1、乙1、3、5)。
イ 東京入管の担当者は、平成9(1997)年10月7日付けで原告に対して、第1次申請の申請
書上の住所に出頭通知書を郵送したが、転居先不明の理由で返送された。そのため、担当者
は、同住所地に居住する者に電話で出頭要請の伝言を依頼したが、原告は出頭しなかった。
さらに、平成10(1998)年7月22日付けで、原告に対して、外国人登録上の住所地に出頭通
知書を郵送したが、「棟・室番号漏れ」のため返送され、原告は出頭しなかった(乙6の1・
2)。
ウ 被告大臣は、平成10(1998)年10月27日、第1次申請について、法61条の2第2項所定の
期間を経過してなされたものであり、かつ、同項ただし書の規定を適用すべき事情は認めら
れないとして、難民不認定処分(以下「第1次不認定処分」という。)をし、同年12月17日、
原告に通知した(甲7、乙3、7)。
エ 原告は、平成10(1998)年12月17日、被告大臣に対し、第1次不認定処分について異議の
申出をしたため、名古屋入管難民調査官は、平成11(1999)年3月31日及び同年4月8日、
原告から事情を聴取するなどの事実の調査を行った(乙3、8ないし10)。
オ 被告大臣は、平成11(1999)年12月17日、原告からの異議申出について、法61条の2第2
項所定の期間を経過してなされたものであり、かつ、同項ただし書の規定を適用すべき事情
は認められないので、理由がない旨の裁決をし、平成12(2000)年1月6日、原告に告知し
た(乙11)。
カ 原告は、平成12(2000)年2月18日、被告大臣に対し、帰国したクルド人が殺害されたこ
とを知って恐怖感を持った旨の理由を付加して、再度、難民の認定を申請した(以下「第2次
申請」という。甲9、乙3、12)。
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キ 被告大臣は、平成13(2001)年8月1日及び同月3日に実施された名古屋入管難民調査官
による調査を経て、同年10月2日、第2次申請について、迫害を受けるおそれは認められず、
難民とは認められないとして不認定処分をし(以下「本件不認定処分」という。)、同年11月
7日、原告に通知した(甲10、乙3、13ないし15)。
ク 原告は、平成13(2001)年11月9日、被告大臣に対し、本件不認定処分について異議の申
出をしたため、同被告は、名古屋入管難民調査官による調査の結果を受けて、平成14(2002)
年5月31日、難民の認定をしないとした原処分の判断に誤りは認められず、他に難民に該当
することを認定するに足りるいかなる資料も見いだし得なかったとして、原告からの異議の
申出は理由がない旨の裁決をし、同年6月14日、原告にこれを通知した(甲11、12、乙3、
16ないし18)。
 原告の退去強制手続について
ア 名古屋入管入国警備官は、平成9(1997)年9月4日、原告を法24条4号ロ(不法残留)該
当容疑で立件し、平成11(1999)年1月13日、原告について違反調査を行った結果、同容疑
について相当の理由があると判断し、同年2月23日、名古屋入管主任審査官から収容令書の
発付を受け、同月25日、同収容令書を執行して、原告を名古屋入管収容場に収容するととも
に、同日、上記容疑者として名古屋入管入国審査官に引渡した(乙3、19ないし21)。
イ 名古屋入管入国審査官は、平成11(1999)年2月25日、原告について2度の違反調査を行
い、その結果、原告が法24条4号ロに該当する旨の認定を行い、原告に通知した。なお、原告
は、同日、名古屋入管入国審査官から仮放免を受けた(乙3、22ないし25)。
ウ 原告は、平成11(1999)年2月25日、この認定に異議があるとして、名古屋入管特別審理
官による口頭審理を請求したが、同審理官は、同年4月8日、原告について口頭審理を行っ
た結果、同認定は誤りがない旨判定し、原告に通知した(甲8、乙24、26、27)。
エ 原告は、平成11(1999)年4月8日、被告大臣に対し、この判定について異議の申出をし
たが、同被告は、平成12(2000)年1月7日、原告に対し、上記異議の申出は理由がない旨の
裁決を行い(以下「本件裁決」という。)、同裁決の通知を受けた被告主任審査官は、同月27日、
送還先をトルコとする退去強制令書を発付し(以下「本件発付処分」という。)、同月28日、原
告に本件裁決を告知するとともに、原告を名古屋入管に収容した(乙28ないし31)。
オ 原告は、平成12(2000)年1月28日、被告主任審査官から仮放免を許可されたが、平成14
(2002)年6月17日、仮放免期間延長については許可されず、同日付けの仮放免許可申請も
不許可となって名古屋入管収容場に収容された。
その後、原告から同年7月4日付けで出された仮放免許可申請は、同年8月19日、許可さ
れている(乙3、32ないし35)。
 トルコにおけるクルド人の概況
ア トルコ内には、推定1000万人以上のクルド人(クルド系住民)が居住しており、クルド人
が多数居住するトルコ南東部については開発の遅れが指摘されている。そして、トルコにお
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いて、親クルド的政党である人民労働党(HEP)、民主党(DEP)及び人民民主党(HADEP)
が存在していたが、2003年、人民労働党及び民主党が解散を命じられた。また、クルディス
タンのトルコからの分離独立を目指すクルド労働者党(又はクルディスタン労働者党。以下
「PKK」という。)は非合法組織とされている。
イ 国連拷問禁止委員会(CAT)は、1993年11月に、ヨーロッパ拷問防止委員会(CPT)は、
1996年12月に、それぞれ、報告又は声明の中で、トルコ政府に対し、拷問を一掃するための
勧告を行い、「国連の超法規的即決又は恣意的処刑に関する特別報告者」や「国連の強制的失
踪に関するワーキンググループ」は、トルコ政府に対し調査の機会を与えるように要請して
いる。また、アムネスティ・インターナショナルは、1996年6月、トルコにおける現状につ
いての報告書を発表し、トルコ政府による様々な拷問、超法規的処刑などの事案を認定した
上で、その是正のための勧告を行っている。
 難民の定義
入管難民法上の難民とは、「難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)第1条の規
定又は難民の地位に関する議定書(以下「議定書」という。)第1条の規定により難民条約の適
用を受ける難民をいう。」と定義されている(法2条3号の2)ところ、これらの規定による難
民(以下「条約難民」という。)とは、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員で
あること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有
するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又
はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及びこれらの
事件の結果として常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有してい
た国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国
に帰ることを望まないもの」とされている(難民条約1条A及び議定書1条2項)。
なお、「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」とは、当該人が迫
害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているとの主観的な事情のほかに、通常人が当該人
の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的な事情が存在していることを意味す
る。
2 争点
 本件不認定処分は違法か−原告は条約難民に該当するか
ア 立証責任の所在、供述の信ぴょう性判断
イ トルコにおけるクルド人の状況
ウ 原告固有の事情
エ 原告の難民該当性
 本件裁決は無効か。
 本件発付処分は無効か。
3 争点に対する当事者の主張の要旨
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 争点(本件不認定処分は違法か−原告は条約難民に該当するか)について
(原告)
原告は、後記アないしエについての原告主張のとおり、条約難民に該当する。それにもかか
わらず、本件不認定処分は、原告が条約難民に該当することを認定するに足りる資料がないと
判断しているが、これは、事実を誤認するものであるか、法令の適用を誤るものであって、違法
である。
(被告ら)
後記アないしエについての被告ら主張のとおり、原告がトルコ政府から迫害を受けていると
いう事実に関する原告の主張ないし供述には整合性も一貫性もないから、原告に対する迫害が
あったと認定できないし、迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有すると
認めることもできない。したがって、原告が条約難民に該当する事実について立証はなされて
いないから、本件不認定処分は適法である。
ア 争点ア(立証責任の所在、供述の信ぴょう性判断)について
(原告)
ア 立証責任の所在について
難民認定における立証責任は、原則として難民認定を申請する者が負担しているが、申
請者は、出身国から逃れて来る者であるから、多くの場合、証拠となるものを持ち出す余
裕がなく、最小限度の必需品のみを所持し、身分に関する書類すら携帯しない例もまれで
はない。他国に到着してからも、これらを入手することは困難であり、しかも、誤った不認
定処分がなされれば、難民に極めて深刻な結果をもたらす。このような、申請者にもたら
される極めて深刻な結果と、客観的な証拠を入手することが困難な申請者の置かれた状況
を考慮すれば、立証できない陳述が存在する場合において、申請者の説明が信ぴょう性を
有すると思われるときは、反対の十分な理由がない限り、申請者は、いわゆる灰色の利益
(「疑わしきは申請者の利益に」)を与えられるべきである。
この原則は、カナダ、ニュージーランド、オーストラリアなどの各国の実務で採用され、
難民条約35条によって同条約の運用を監督する責務を与えられた国際連合難民高等弁務
官事務所(以下「UNHCR」という。)が発行する「難民認定手続ハンドブック」(以下「ハン
ドブック」という。)にも定められているところ(196、203)、その内容は、条約法に関する
ウィーン条約(昭和56年条約第16号)32条が定める「解釈の補足的な手段」に当たると考
えられるから、その趣旨を十分に尊重すべきである。
イ 信ぴょう性判断について
難民の認定行為は、裁量行為ではなく、難民の要件に該当する事実が備わっていると認
められるときは、羈束的に行われるべき事実の確定行為であるところ、この作業において、
難民申請者の供述の信ぴょう性判断は、申請者が客観的証拠を提出することが例外的であ
るという事情もあって、決定的な要素となり得る。したがって、この判断を行う際には、難
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民申請者特有の心理的要因(心的外傷後ストレス障害、当局職員に対する不信感、残った
親族等に対する配慮等)、文化的要因(文化、言語の相対性)、さらには難民認定手続が対審
構造を採用していないこと(認定機関に権限が集中していること)などを考慮して、慎重
な検討が必要である。
そのため、難民認定手続には証拠法の一般的諸原則がなじまないというべきであり、申
請者の供述そのものに一貫性、信ぴょう性、誠実性が認められる場合には、これを補強す
る客観的証拠を要するものではなく、逆に証拠の一部に矛盾、不整合、変遷が存し、信ぴょ
う性が欠けていたとしても、それを絶対的なものとして扱って直ちに難民でないと判断す
べきではなく、すべての証拠を検討した上で、当該申立て全体を通じての本質的に重大な
証拠の矛盾や不一致が存在するか否かを検証しなければならないし、信ぴょう性について
否定的結論に至るためには、それだけの理論的根拠と有効な反対証拠が実在しなければな
らない。また、出身国に関する情報の収集については、認定機関側の積極的関与がなされ
るべきである。
また、憲法13条、31条は、いわゆる適正手続の原則を表明しているところ、最高裁判所
の判決は、行政手続においても、適正手続の保障が与えられるべきものと判断している。
そして、難民認定手続は、誤った処分がなされた場合に失われる利益の重大性などにかん
がみると、より一層この保障が要請される。したがって、難民認定手続において必要かつ
重要な理念は公平の原則であることが強調されるべきであり、審査官が申請者により提出
された証拠の信ぴょう性に疑いを抱いたときには、申請者にその心証を開示し、その事項
について釈明する機会を付与すべきである。
(被告ら)
原告の主張は争う。
難民条約等は、いかなる手続を経て難民の認定がなされるべきかについて、何らの規定を
設けておらず、これらを締結した各国の立法政策に委ねている。このことは、被迫害者が庇
護を求める権利としての庇護権は、いまだ国際法上確立した概念となっておらず、難民条約
等も、その前文などから明らかなように、難民を受け入れ、保護を与えるか否かは、結局、各
締約国が主権的判断に基づいて決定すべきものとして、上記庇護権を保障するものでないこ
とからも裏付けられる。したがって、難民認定の基準が難民条約等の解釈に還元され、それ
がすべてであるかのような原告の主張は、それ自体失当である。
ア 立証責任の所在について
法61条の2第1項が、申請者の提出した資料に基づいて法務大臣がその者を難民と認定
することができる旨規定し、法61条の2の3第1項が、申請者の提出した資料のみでは適
正な難民の認定ができないおそれがある場合その他難民の認定又はその取消しに関する処
分を行うため必要がある場合には、法務大臣は難民調査官に事実の調査をさせることがで
きる旨規定していることに照らすと、難民該当性の立証責任は申請者に課せられていると
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解すべきである。このことは、そもそも難民認定処分が授益処分であること、実質的に考
えても、およそ難民該当性の判断に必要な出来事は外国でしかも秘密裏にされたものであ
ることが多く、これらの事実の有無及びその内容については、それを直接体験した申請者
が最も良く主張立証し得ることからも裏付けられる。
この点について、原告は、条約法に関するウィーン条約32条を援用するが、同条約31条
1項は文理解釈を原則とすることを定め、解釈の補足的な手段は、①同条約31条の規定の
適用により得られた意味を確認するため(同条約32条本文)、②同条約31条の規定による
解釈によっては意味があいまい又は不明確である場合における意味を決定するため(同条
約32条)、又は③同条約31条の規定による解釈により明らかに常識に反した又は不合理
な結果がもたらされる場合における意味を決定するため(同条約32条)に、初めて依拠
することができるものであるから、難民条約等に難民認定手続に関する規定がない以上、
難民認定手続に係る諸原理について、そもそも解釈すべき対象がなく、同条約31条、32条
の適用が問題となる余地はないし、ハンドブックも、難民認定手続について規定しておら
ず、各国で異なった制度が採用されていることを当然の前提としている。
したがって、難民申請者は、一般の民事訴訟におけると同様、その難民性を合理的な疑
いを容れない程度に証明しなければならず、被告大臣に難民認定に関する調査義務を負わ
せ、調査していない事項について法的義務違反を肯定するなど、立証責任を事実上転換す
るに等しい結果を招くのは、法61条の2第1項の解釈を誤るものというべきである。
イ 信ぴょう性判断について
原告は、申請者の供述の信ぴょう性の評価原則について主張するが、これらはいたずら
に難民の認定が独自の法領域である旨強調しすぎるものであって、その引用するハンドブ
ック等もいわば心構えを述べたものにすぎないから、絶対的なものではあり得ない。 
例えば、供述の中に、誇張や一部事実をゆがめた供述、客観的事実に反した供述がある
場合に、その部分を無視して他の供述の信ぴょう性を判断しなければならないとするの
は、供述の信用性判断のプロセスを否定するものであって不合理であり、そのような部分
を含めて供述全体の信用性を判断すべきである。また、供述の信ぴょう性の判断において
は、その一貫性が重要な要素であることは自明であって、難民認定の特殊性を考慮しても、
これを判断要素から排除することは不合理であり、このことは、ハンドブックにおいても
指摘されている。さらに、供述の信ぴょう性を疑う場合に、それが虚偽であることの確た
る証拠が必要であるとするならば、証拠収集が困難と考えられる事項しか供述されない場
合、その供述は信ぴょう性があると判断せざるを得ない結果となり、不合理である。
この点について原告は、「灰色の利益」や「疑わしきは申請者の利益に」の原則を援用す
るが、これらは供述の信ぴょう性の評価原則ではなく、申請者の供述に信ぴょう性が認め
られることを前提として、申請者の立証責任を緩和するものにすぎない。
イ 争点イ(トルコにおけるクルド人の状況)について
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(原告)
原告は、以下のとおり、クルド人であることや政治的意見等を理由として迫害を受ける十
分に理由のあるおそれがある。
すなわち、トルコ政府は、クルド人を「山岳トルコ人」と呼称し、民族の独自性自体を否定
しており、これに抵抗するクルド人に対する弾圧は、その態様があまりに過酷かつ大規模で
あるため、国際社会においても非難を受けているが、トルコ政府は、その迫害の多くが国家
組織によってなされているにもかかわらず、これを放置し、徹底的捜査を行わない結果、ク
ルド人やクルド人の独自性を主張する者に対する迫害状況にはほとんど変化がなく、難民認
定が認められずに帰国したクルド人に対する迫害も続いている。
ア 歴史について
a クルド人
クルド人とは、クルディスタン(トルコ・イラン・イラク・シリアの国境地帯にまた
がる山岳地帯)に居住する民族であり、人種的にはインド・ヨーロッパ系であり、その
言語であるクルド語もインド・ヨーロッパ語族に属する。また、クルド人は、中東第4
位の人口を擁し、国家を持たない世界最大の民族であって、トルコには、推定で1000万
人以上のクルド人が居住している。宗教的には、イスラム教スンニ派に属する者が多い
が、少数派のアレヴィ派(3分の1)もいる。アレヴィ派は、トルコ人の中にもいるが、
スンニ派の正式な要件を遵守せず、セメビと呼ばれる礼拝室で祈りを捧げる。
これに対し、トルコ人はアジア系であり、その言語であるトルコ語もクルド語と共通
点はない。
b 第1次大戦後
第1次対戦後のオスマントルコの処理に関するセーブル条約(1920年締結)では、ク
ルド人を一民族として認め、固有の国家を持つ資格があると認めたが、この条約は、ト
ルコ共和国を築いたムスタファ・ケマル(後のアタチュルク。以下「ケマル」という。)
の反対、イギリスの中東政策の変更等のため発効せず、その独立性は国際的に全く無視
された。
ケマルらは、トルコの分割を画する欧州列強との戦いを祖国解放運動と位置づけ、そ
の原動力として、トルコナショナリズムを標榜した。その結果、トルコ政府は、総人口
の4分の1をも占めるといわれるクルド人などの他民族の存在自体を否定し、少数民
族の独自性を主張するあらゆる行動を弾圧した。このことは、1924年憲法はもちろん
のこと、1982年制定の憲法(以下「1982年憲法」という。)も、前文で「トルコの国家利
益、国家と国土とが不可分であるというトルコの存立の原則、トルコ人であるという歴
史的・精神的価値、アタチュルクの民族主義・原則・改革・文明性に反しては、いかな
る思想も見解も保護されず、」と規定し、14条で「本憲法で定めるいかなる権利及び自由
も、国土と国民とから成る不可分の国家の全体性を破壊し、トルコ国と共和制の存立を
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危うくし、基本的権利と自由を剥奪し、(中略)言語、民族、宗教及び宗派の相違を惹起
すること等のいかなる方途であれ、かかる見解と思考に基づいた国家の秩序を構築する
目的では行使し得ない」と規定していることにも表れている。また、クルド語の使用は、
1924年に公式に禁止され、1930年代にはトルコ語を至上のものとする太陽言語理論が
推進された。
これらの政策に対して、1925年2月のシャイフ・サイドによる反乱、1929年のジェ
ラリー族による反乱、1937年のデルスィムによる反乱など、クルド人は何度も反抗を繰
り返したが、そのたびに、無差別の虐殺など、トルコ政府による過酷な弾圧を受けた。こ
れらの弾圧により、クルド人の部族社会は壊滅し、民族としてのアイデンティティを奪
われた。
c 第2次大戦後
第2次大戦後、トルコは複数政党制の時代を迎えたが、政権は軍の許容する枠内で政
策を実施したにすぎず、軍の許容する枠を超えると、軍はクーデタ(1960年、1971年、
1980年の3回)などの手段で政権を交代させることを繰り返した。その間、トルコ政府
は、ほぼ一貫してクルド民族の存在や分離主義を主張した者を、その主張自体を理由と
して逮捕し、実刑判決を言い渡し、沈黙を強いる政策を実行し、クルド人の多くが居住
するトルコ南東部は、開発から取り残され、社会資本の充実が遅れたまま放置された。
これに対して、クルド人側は、クルディスタン民主党(KDP)やトルコ労働者党(TIP)
の中の革命的東部文化クラブ(DDKO)などを拠点に言論によって抑圧を告発する活動
をしたが、指導者は暗殺や逮捕、起訴されるなどの弾圧を受けた。そのような中で、それ
までクルディスタンの独自性を主張して政治活動をしていたアブド・アッラフ・オジャ
ラン(以下「オジャラン」という。)を中心に、1978年、PKKが設立されると、同党は非
合法でありながら、クルド人の間に支持を広げていった。
d 1980年のクーデタ発生以降
1980年9月12日、トルコ3軍及び憲兵(ジャンダルマ)によるクーデタが発生し(以
下「1980年クーデタ」という。)、その司令部である国家保安評議会(NSC)は、トルコ全
土に非常事態宣言を布告した。この非常事態宣言は徐々に解除され、1984年に民政移管
となったものの、南東部については解除は遅れ、軍司令官の一存で住民の諸権利が奪わ
れる状態が続いた。それ以降の政治体制は、このクーデタによって作られた体制を受け
継いでいる。
1980年クーデタの際、トルコ政府は、PKK党員であるという容疑で1790人を逮捕し、
その多くが有罪判決を受けて受刑し、あるいは長期間勾留された。そのため、PKKは、
1984年、武装闘争の方針を採った。1990年代に入り、PKKは支持を広げ、オザル大統領
の時代には、独立から自治に要求を落とし、一方的に停戦を発表して、トルコ政府に対
して交渉を呼びかけ、オザル大統領もこれに呼応するかのような時期もあった。しかし、
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1993年、同大統領が死亡してからは、トルコ政府軍は攻勢に転じ、衝突が続いている。
その他、クルド人の権利を擁護する政党として、1989年結成の人民労働党があるが、
国会の宣誓式でクルド語を使用しようしたことや党会議での発言を理由に、1992年、憲
法裁判所においてその合憲性が審査され、実質的に閉鎖に追い込まれた。同党の後継政
党として、1993年結成の民主党も、党首の逮捕、議員・党員の暗殺等が相次ぎ、1994年、
憲法裁判所によって閉鎖命令が出され、さらに、同年7月結成の人民民主党も、閉鎖命
令が出されるに至っている。
イ クルド人に関するトルコ共和国の法制度について
a トルコ憲法とクルド語の使用禁止
1982年憲法26条3項は「思想の表現及び伝達において法律で禁止された言語は使用
できない。」と、同法28条2項は「法律で禁止された言語では出版を行い得ない。」と、同
法42条9項は「トルコ語以外のいかなる言語も、教育及び教導の機関においてトルコ国
民に対し母国語として教授されることはない。」とそれぞれ規定し、これを受けた「トル
コ語以外の諸言語での出版に関する法律」(1983年10月19日付け第2932号法)におい
ても、1条ないし3条において、トルコ国民の母国語はトルコ語であり、トルコ語以外
の言語による思想の表現等を禁止する旨規定し、4条ないし6条において罰則を規定し
ている。
b 反テロリズム法の制定
上記2932号法は、1991年4月12日に制定された反テロリズム法の制定に伴い、廃止
されたが、反テロリズム法は、クルド人による独立運動はもちろん、その独自性の主張
などクルド人問題の存在に関する言論を含め一切の活動を排除すべく立法されたもので
あって、テロリズムを広く定義することにより、クルド人の独自性を主張すること自体
を同法の適用対象とし(1条)、一定の犯罪がテロリスト犯罪として行われた場合には一
般の法定刑の1.5倍の刑を科することとし(5条)、反テロリズム法を非難する行為、テ
ロリスト犯罪摘発に従事する公務員の氏名を公表する行為、テロリスト団体の宣言文や
パンフレットを印刷、出版する行為などを重罰金に処することとし(6条)、テロリスト
団体を結成した者等に対して懲役刑及び重罰金刑の併科とし(7条)、トルコ及びその領
土の統一性を破壊することを目的とする宣伝、集会、示威行動を禁止し(8条)、反テロ
リズム法違反の罪は、特別裁判所である国家保安裁判所(SSC)が管轄し(9条)、テロ
リズム犯罪防止のための職務に従事する警察、情報機関等の職員がその職務遂行中の行
為に関して訴追された場合に、懲役刑を免除し、所属機関の費用で3人以下の弁護人を
付する(15条)など、かかる活動を徹底的に封じ込めるためのあらゆる手段を有してい
る上、運用においていくらでも反テロリズム法違反の容疑をかけることが可能な法律で
あった。その結果、いったんその容疑者とされた者は、当局による拷問に対し、トルコ共
和国法上の保護を一切受けられないことになった。そして、反テロリズム法は、国際的
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非難によって何度も改正された(1995年10月25日の改正が比較的大きなものである。)
が、法定刑の上限を下げる程度の内容にとどまり、実質的な改善はなされなかった。
ウ クルド人に対する迫害状況について
クルド人であっても、民族のアイデンティティを公然と又は政治的に主張しなければ、
通常、迫害を受けることはないが、これらを主張したり、公の場でクルド語を話すことを
支持する人は、迫害を受けるリスクを負っている。クルド人に対する迫害状況は、ジャー
ナリストに対するら致や行方不明が多数あるため、実態を正確に把握することが困難であ
るが、政治的意見又はクルド民族であるという理由によって迫害を受けたクルド人の具体
例は枚挙にいとまがない。迫害の主体は、主として、軍、警察又は憲兵であるが、MIT(ミ
ツリー・イステイヒバラット・テシユキリヤートウ)と呼ばれ、普段は民間人として働い
ているように見えながら、実際には、政府の指示を受けて、情報収集や暗殺等の任務を果
たす機関とその構成員も、クルド人への弾圧行為を行うことがある。
その具体例は、政府寄りの新聞であるトルコデイリーニュースの報道からも知ることが
できるが、1980年代後半から発生したクルド人民間活動家に対する暗殺の被害者は、一説
によれば1000名にも達し、村の焼き討ちによる被害者は200万人に上ると推定され、1996
年までに南東部の各地における焼き討ちの際に銃殺された村民の数は1000人を超える。
また、軍、警察、憲兵は、一切の適正手続を無視した暴力的尋問、逮捕、拘禁、拷問を繰り
返し、1991年から96年までの5年間に少なくとも93名が拘束中に死亡し、1995年までに
拘束中に行方不明になった例が100件以上報告されている。以上の事態は、国連の強制的
失踪に関するワーキンググループによる報告(1994年)、アメリカ国務省の国別人権状況
リポート(1999年)、英国移民局の「連合王国における庇護国別評価 トルコ」(2000年)
などの報告によっても裏付けられる。
このような迫害状況は、その後も改善されておらず、現に、トルコにおいて数年にわた
って勾留され、裁判を受けた経験を有し、日本において難民認定を申請していたBは、認
定を受けられる見込みがないため、やむなく帰国したところ、1999年7月ころ、自宅で殺
害されたが、同人はトルコ治安当局によってPKKの日本における責任者とみなされてお
り、その殺害状況の不自然さに照らすと、トルコ政府による謀略に基づく疑いがある。
なお、イスラム教アレヴィ派は、その政教分離論への強い傾斜から、伝統的に左派政党
を支持してきたところ、トルコにおいては、同派は、宗教担当監督庁から財政援助を受け
られず、中学校の宗教教科書にもスンニ派の情報のみが記載されるなど、差別の対象とさ
れてきた。特に、アレヴィ派クルド人であることは、反体制派との疑いを増す要素となっ
ている。
エ 国際的非難について
上記のようなトルコ政府の現状にかんがみ、国連拷問禁止委員会は1993年に、ヨーロッ
パ拷問防止委員会は1996年に、それぞれ報告又は声明の形式で拷問を一掃するための勧
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告を行い、また、同年1月18日、欧州議会は、1995年12月11日のPKKによる停戦の提案
を評価して、トルコ政府に対して民主主義的改革のための政策強化と人権尊重などを求め
たが、トルコ政府は、政治的干渉であるとして反発するばかりであったため、1997年12月
にはクルド人弾圧を主な理由の一つとして欧州連合(以下「EU」という。)加盟対象から外
されている。
トルコへの武器輸出国であるドイツは、1992年、1994年及び1995年に武器輸出を一時
停止することにより抗議の姿勢を表明し、スイスも、1993年、首都においてトルコ大使館
員によるクルド人デモ隊への発砲事件に抗議している。
(被告ら)
原告の主張は争う。
トルコは、以下のとおり、民主的クルド人文化を受容しており、クルド人は、その民族的出
自のみを理由に迫害を受けるおそれがあるとは認められない。
ア 歴史について
原告の主張アのうち、クルド人が主にトルコ、イラン、イラクにまたがる地域に居住し、
その言語がクルド語であり、トルコ内に推定で1000万人以上のクルド人が居住している
こと、トルコにおける1980年クーデタを契機として、非常事態宣言が布告されたところ、
南東部の11県においては、1990年代まで解除されなかったこと、親クルド政党である人民
民主党に対し、その閉鎖を求める提訴がされたこと、以上の事実は認める。
しかし、非常事態宣言は2002年までにトルコ全土の全県で解除され、原告の出身地であ
る《地名略》県においては、既に1986年に解除されているし、憲法裁判所は、人民民主党
に対し、閉鎖を求める提訴がされたものの、1999年4月の総選挙に参加することを許可
し、合法的に活動できることを保障している。
イ クルド人に関するトルコ共和国の法制度について
a トルコの民主化と憲法改正
1982年憲法は、1980年クーデタの影響下で策定されたものであり、国家治安の維持
を重視した内容であったが、1990年代初頭からの治安の安定とともに、1987年、1993
年、1995年、1999年(2回)、2001年と頻繁に憲法改正がなされ、トルコ社会全体が徐々
にクルド人やクルド語を受入れる民主的体制に変容してきている。
2001年10月3日の改正後の憲法(以下「2001年憲法」という。)においては、法律で
禁止された言語の使用禁止条項が削除されるなど、思想、信条、表現の自由が憲法上よ
り明確に保障されるように改められ、2002年8月3日には、クルド語の教育や放送を解
禁する法案を含む14改革法案がトルコ国会で一括可決されている。2001年憲法は、トル
コからの分離独立を目的とする活動を禁止しているが、これは、国家の治安維持を優先
しなければならないような社会状況を背景とし、その後もトルコ社会が分離独立主義を
掲げるPKK等の数多くの非合法組織によるテロ行為の脅威にさらされた経緯にかんが
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みれば、やむを得ないことであって、上記の趣旨も、そのようなテロ行為に象徴される
反社会的行動を禁止するものにすぎず、クルド人の人権に対する制約を許容するもので
ないことは明白である。以上のことは、2001年憲法が、共和制、政教分離、民主主義を
保障し、多様な基本的権利や自由を保障していること、禁止されているのは国家及び国
家体制の根幹を破壊する具体的行為であって、思想、信条の自由が侵害されることはな
い旨確認されていること、トルコの国会にはクルド人議員が多数在籍していることなど
からも明らかである。
なお、2001年憲法は、本件不認定処分直後に成立したものであるが、これにつながる
社会情勢の変化は1990年代から継続的に起こっていたものである。
b クルド語の使用
1991年春には、トルコ国内においてクルド語を使用することを禁止する根拠となっ
ていた法律が廃止され、クルド語の出版物や音楽著作物が合法的に流通し、クルド語に
よる放送が一定の範囲内で事実上認められるようになったこと、トルコ政府は、前記憲
法改正に先立ち、2001年3月、EU加盟に向けた国家プログラムを発表し、EUの政治条
項に調和すべく、2004年までに憲法その他の関連立法について大々的に改正する計画
を立てていること、2002年8月には、クルド語の教育や放送を解禁する法案を含む14の
法案がトルコ国会で一括可決されていることからも明らかである。なお、反テロリズム
法に基づく出版制限についても、テロ行為を奨励し、社会秩序を深刻に損なう思想の表
現を規制するものであるから、テロ行為に無縁なクルド語の出版物が規制を受けるとは
いえない。
c 反テロリズム法
原告は、反テロリズム法自体が人権に対する重大な侵害である旨主張するが、後記エ
ウにおける被告らの主張のとおり、テロリズムの取締りは国家の重要な責務であり、諸
外国に比べ、殊更に過酷な刑罰を法定しているものではなく、手続保障もなされている。
しかも、1995年10月27日の法改正により、具体的な破壊活動を伴うものでなければ
罰せられないことになり、テロ防止のために職務に従事している職員が訴追された場合
に懲役刑を免除する旨の同法15条は削除され、同改正により多数の収監者が減刑された
り、釈放された。
また、2000年12月採択の恩赦法により、表現行為に対する処罰法令に基づく刑罰の執
行は猶予されることになり、多数の有罪判決を受けた者及び未決勾留者が釈放され、テ
ロ組織支援者に対しても、本人の明確な意思に基づいて故意に支援活動を行ったか否か
が重要な点とされ、故意であっても食料を1回提供した程度で刑罰を適用されることは
ないなど、支援活動の動機、程度等を考慮して、処罰されるか否かが決められるように
なった。
ウ クルド人に対する迫害状況について
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a 民族的理由による差別
トルコにおけるクルド人は、その民族的出自のみを理由に迫害を受けるおそれがある
とはいえない。このことは、英国移民局や米国国務省の報告によっても、またUNHCR
の報告によっても支持される。
例えば、英国移民局の報告によれば、トルコ南東部以外では、クルド民族のアイデン
ティティを公然と、又は政治的に主張しないならば、クルド人は迫害や差別を受けない
し、都会のクルド人は、一般にクルド分離主義を支持せず、トルコ人と通婚し、社会的地
位の高い者も相当数存在するとしているし、UNHCRも、本来クルド人であることだけ
に基づいて迫害が存在するとの主張を支持することはできないと述べている。
b 拷問等
トルコ憲法は拷問の禁止を定めており、トルコ政府は、人権に関する国務大臣を置き、
人権委員会(IHD)を設立して、トルコ国内における人権保障の確立に努めている。加え
て、トルコ政府は、警察に対し拷問が容認されないことを指導し、1997年3月には、拷
問の抑止を目的として勾留期間を短縮し、弁護士による接見をより保障する改正を行っ
ている。そして、実際にもトルコにおける状況は改善されており、拷問方法の厳しさは
減少し、かつ、拷問はもはやトルコ政府によって承認ないし許容されているものとはい
えないと報告されている。
c 地域的特殊性等
トルコ南東部のうち、1990年代に非常事態宣言下にあった11県(エラズー、マルディ
ン、ビトリス、ビンギョル、バットマン、シルト、バン、ハッカリ、ディヤルバクル、トゥ
ンジェリ、シルナク)は、歴史的にPKKの活動がもっとも活発であり、治安状況が深刻
であったと考えられるイラン、イラク、シリアとの国境側の地域であるが、原告が出生
した《地名略》県は、それより中央に位置し、1980年代の半ばまでに非常事態宣言が解
除されており、原告が主張するトルコ南東部の事情のすべてを難民性に関する国内情勢
であるということはできない。
また、1999年2月のオジャランの逮捕等によってトルコ人とクルド人の関係が悪化
した時期には、トルコ政府とPKKとの紛争進行中に紛争地域から逃れたクルド人が多数
流入した地域において、PKKとの関係を疑われるクルド人がその他の地域へ定住するこ
とが困難であったとしても、近年においては、そのような緊張は緩み、UNHCRの追跡
調査によっても、送還者の逮捕又は訴追はかなりまれであったと報告されている。
d 帰国者などの状況
原告は、難民申請を取り下げて帰国した者に対する迫害について主張するが、日本に
おいて、クルド人であること等を理由に難民申請をしていた者の多くが、日本において
仕事がないことや迫害のおそれがないことを理由に、自主的に難民申請を取り下げてい
る。このことは、難民申請した者に不法就労目的の偽装難民が多数混じっていたか、あ
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るいは、社会情勢が変化して現在は迫害が消滅したかのどちらかである。
現に、英国を始めとする欧州諸国の大多数の国の裁判所は、クルド人をトルコへ強制退
去させることが、難民条約33条などに違反するものではないと判断している。
エ 国際的非難について
原告の主張エのうち、国連拷問禁止委員会及びヨーロッパ拷問防止委員会が、トルコに
対して拷問を一掃するための勧告を行い、調査の機会を与えるよう要請したこと、ドイツ
が、武器輸出を一時停止したこと、スイスが、1993年、首都においてトルコ大使館員によ
るクルド人デモ隊への発砲事件の捜査のため、外交特権の免除措置をとるよう要請したこ
と、以上の事実は認めるが、その余は知らない。
クルド系トルコ人の民族的出自を理由とする迫害のないことは、各種報告書やUNHCR
関係者の見解にも示されており、国際的認識といってもよい。すわなち、英国移民局の報
告書は、「クルド民族のアイデンティティを公然と、又は政治的に主張するクルド人は、い
やがらせ、虐待及び起訴の危険がある」とする一方で、「トルコ南東部以外では、もし彼ら
がそれらを主張しないならば、クルド人は通常迫害又は官僚的な差別さえも受けず」、「都
会では主として同化され、民族的にほとんど差別されない。彼らの民族的起源を否定しな
い数多くの高い地位のクルド人の中には、前副総理大臣もおり、25パーセントの議員及び
他の政府高官は民族的にはクルド人の背景を有すると見積もられている。」などと述べて
おり、1997年10月付けUNHCR背景報告も、クルド人を迫害されたグループであるとは位
置付けていない。
ウ 争点ウ(原告の個別事情)について
(原告)
ア 原告は、1973(昭和48)年《日付略》、クルド人である父C、同じく母Dの間に生まれた
5人姉弟の3番目の子で、長男でもある。生まれたのはシリア国境の北に当たるトルコ南
東部の《地名略》県にある《地名略》というクルド人の村であった。父は、1980年から《地
名略》県でブティックを経営している。宗教的には、イスラム教アレヴィ派に属している。
原告は、中学を辞めてから、15歳で父の営むブティックを手伝うようになったが、父と
その親族は、町で金持ちとして知られており、原告は、来日前はお金に困ることはなかっ
た。
イ 父の実家に住んでいた叔父は、村にやってきたトルコ軍から、「(クルドの)ゲリラと戦
え。」と言われたが、「銃はいらない。」と断ったため、一家は村から追い出され、町に逃げ
ることを余儀なくされた結果、家は放置されて崩壊した。
また、原告が小学校に入る前、伯父のEの背中にやけどがあるのを見つけ、どうしてで
きたかを聞くと、18歳のころ、ゲリラに食料を供給したことで、令状なしで憲兵の監視下
に山中に連れて行かれ、尋問され、首筋に火のついたビニールを突っ込まれたときにでき
たということであった。
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ウ 原告の家族らクルド人は、クルド語を使っているため、町の小学校に入学したころ、ト
ルコ語が分からないことをバカにされて、「クロ(ロバ)」等と言われ、小学校を休学したこ
とがあった。また、原告が、1993年8月30日から1995年1月28日までの間、兵役に服し
ていた際にも、「クロ」、「おまえはどのゲリラの洞くつから来たのだ。」などとからかわれ
たり、ののしられたりした。
エ このような経験から、原告は、次第に自分の言葉、自分の文化を守りたいと思うように
なり、中学校の放課後、友人たちとPKKの勉強をして、共感し、援助しようと決めた。
そこで、原告は、店を手伝い始めたころから、金銭と物資をPKKに供給するようになり、
金銭については、2か月に1度、累計で1万5、6千ドルを、物資については、1か月に2
度、衣料品、食料品、薬をゲリラに渡して援助した。そして、原告は、18歳の時、《地名略》
県中心地で行われたクルド市民の行進に参加したこともあったが、この際、政府批判の言
葉を書いたプラカードを掲げたにすぎないのに、後に爆弾付きのプラカードを掲げたとの
被疑事実で不在逮捕令状等が出されている。その後、原告は、兵役に行くまで年に5、6
回、クルド人に対する虐待を止めることなどを求めた内容のポスターはりを行い、兵役後
も1、2回ポスターはりをした。
なお、原告が17歳の時、憲兵が自宅に来て、原告に対し、「なぜPKKに援助する。うそを
つくな。」と追求し、ヘルメットで目の近辺をたたいたが、そのときは証拠が見つからず、
それ以上の事態にはならなかった。しかし、その後も兵役に行くまで2か月に1回程度、
憲兵の来訪を受けた。
オ 原告は、兵役を終えた後、自宅に戻ったが、この間、《地名略》の大学を中退してゲリラ
になった仲の良い友人が山中で殺され、その弟も行方不明になった話を聞いてショックを
受けた。
さらに、原告は、密かにPKKに対する金銭の提供やポスターはりなどの支援活動をして
いたところ、1995年10月、店に来た警察官に無理矢理連行され、取調中、2人の警察官か
ら腹部、頭部や顔面を殴打されて、「活動しているだろう。あちこちにポスターを貼ってい
るらしいが。」と言われたが、原告はすべて認めなかった。原告は、このときは他に証拠が
無かったので、帰宅を許されたが、怖くて家に帰れなくなり、親戚の家に寝泊まりして、店
に出ることもなくなった。その後、原告は、1996年、久しぶりに家に電話すると、逮捕状
が出たと聞かされたため、現実的な恐怖を感じて、同年12月ころ、最終的に国外に逃げる
ことを決心し、賄賂を使ってブローカーからパスポートを入手することができた1997年
1月、トルコを出国した。
カ 原告は、日本に来てから、PKKに対する支援活動をしたわけではないが、クルド人の伝
統的祭りであるネブルズ祭(3月21日)や、クルド人が初めて政府と戦った日を記念する
「ジョの日(8月25日)」に参加したり、メーデーでクルド人の状況を日本人に訴えるなど
の活動を行っているが、トルコ大使館員は、このような活動の参加者の写真を撮るなどの
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情報収集活動をしている。
そして、原告は、第1次不認定処分の後、帰国したクルド人が迫害に遭っていることを
知り、帰国した際の危険性が高まり、帰国について強い恐怖を感じるようになった。
キ 原告に対しては、《地名略》第一審刑事裁判所による管轄外決定及び不在逮捕令状(以下
「本件逮捕状等」という。甲3の1・2)が出されているところ、その犯罪事実として、「辺
地にいるPKKメンバーを助けたり、彼らに食料や衣料を運んだり、市内でチラシを配布し
た」ことのほか、「《地名略》県《地名略》地区のモスクに爆弾仕掛けのプラカードを取り付
けたこと」が記載されているが、後者はでっち上げであり、かかる令状が出されているこ
と自体が、原告に対する危害のおそれを基礎付けている。そして、原告がトルコの親族か
ら取り寄せた住民登録票(以下「本件住民登録票」という。甲5)には、「警察にて捜索中」
との記載があり、本件逮捕状等の記載と符合している。
この点について、被告らは、印字の乱れ、記載事項の不完全性や出国状況を理由に、本
件逮捕状等は偽造であると主張するが、これらは原告の親族が当局から入手したものであ
り、タイプライターによって印字が乱れるのは当然であるし、記載事項の不完全性も、本
件逮捕状等が当局が政治的な意図に基づいて事実に反して発行したものであることからす
れば当然であって、そのような当局のずさんさによる責任を原告が負うべき理由はない。
また、被告らは、本件住民登録票についても、「警察にて捜索中」という記載がされること
がないことを理由に、偽造である旨主張するが、これは、原告の支援者であるFが、難民認
定申請手続とは無関係に、原告を養子にするために取寄せたものであって、信頼性は高い。
(被告ら)
原告の主張は争う。これに沿う同人の供述は、以下のとおり、信用できるものではない。
ア 原告の主張アのうち、原告が、1973年《日付略》、トルコの《地名略》県で出生した事実
は認めるが、その余は知らない。
イ 同イの事実は知らない。
ウ 同ウのうち、クルド人がクルド語を使っている事実は認めるが、その余は知らない。
エ 同エの事実は知らない。
原告がPKKのメンバーか否かという重要な部分について、供述の変遷がある。また、原
告は、PKKの党員又は支持者であると主張していながら、家族は迫害を受けておらず、親
戚の家で平穏に1年間過ごせたのは不自然である。
オ 同オの事実は知らない。
原告が、トルコを出国する際、その行き先が日本であることについて知った時期につい
て、供述の変遷がある。
カ 同カの事実は知らない。
原告は、日本でPKKの支援活動をすれば、原告の住所等が分かり、身の危険を感じると
供述していながら、自分の考えでデモ等に参加していると主張しており、信用できない。
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そして、本邦入国後は、全くPKKに経済的援助をしていない。
また、原告は、当初、トルコから出国できれば行き先はどこでもよいと供述しておきな
がら、平成13(2001)年に行われた事実調査においては、日本以外の国に行きたくないと
述べており、一貫しない。
本邦においてクルド人であることを理由に難民申請していたトルコ人が自主的に難民申
請を取り下げ、帰国している例が少なからずあり、自らの迫害に係る供述が虚偽であるこ
とを自認した者や、不認定処分を受けて帰国しながら、トルコで新たに旅券を取得して正
規の手続で出国した例もあり、不法就労目的の偽装難民が横行していることがうかがわれ
る。

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