退去強制令書発付処分無効確認等請求事件(第1事件)
平成14年(行ウ)第75号
難民認定をしない処分取消請求事件(第2事件)
平成14年(行ウ)第80号
原告:A、第1事件被告:東京入国管理局成田空港支局主任審査官、両事件被告:法務大臣
東京地方裁判所民事第3部(裁判官:藤山雅行・新谷祐子・加藤晴子)
平成16年5月27日
判決
主 文
1 原告の被告法務大臣が原告に対し平成13年8月29日付けでした裁決が存在しないことの確認
を求める主位的訴え、同裁決が無効であることの確認及び同裁決の取消しを求める予備的訴えを
いずれも却下する。
2 被告東京入国管理局成田空港支局主任審査官が原告に対し平成13年8月30日付けでした退去
強制令書発付処分が無効であることを確認する。
3 被告法務大臣が原告に対し平成13年8月29日付けでした難民の認定をしない処分を取り消す。
4 訴訟費用は被告らの負担とする。
事実及び理由
第1 請求
(第1事件)
1 (主位的請求)
被告法務大臣の原告に対する出入国管理及び難民認定法49条1項に基づく原告の異議の申出
は理由がない旨の裁決が存在しないことを確認する。
(予備的請求)
 被告法務大臣の原告に対する出入国管理及び難民認定法49条1項に基づく原告の異議の申
出は理由がない旨の裁決が無効であることを確認する。
 被告法務大臣の原告に対する出入国管理及び難民認定法49条1項に基づく原告の異議の申
出は理由がない旨の裁決を取り消す。
2 主文第2項同旨
(第2事件)
主文第3項同旨
第2 事案の概要
原告は、平成13年7月2日に本邦に不法入国した者であるところ、同日、東京入国管理局(以
下「東京入管」という。)成田空港支局入国警備官の違反調査を受け、同月6日に同支局入国審査
官により出入国管理及び難民認定法(以下「法」という。)24条1号に該当する旨の認定がされ、
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同月17日に同認定に誤りがない旨が判定されたため、同日被告法務大臣に対し、異議の申出をし
たが、被告東京入管成田空港支局主任審査官(以下「審査官」という。)は、同年8月29日に被告
法務大臣が上記異議の申出に理由がない旨の裁決(以下「本件裁決」という。)をしたとして、翌
30日、原告に対し、退去強制令書(以下「退令」という。)を発付した(以下「本件退令発付処分」
という。)。また、原告は、同年7月3日、東京入管成田空港支局において、難民認定申請をしたと
ころ、被告法務大臣は、同年8月29日、原告について難民の認定をしない旨の処分をした(以下
「本件不認定処分」といい、本件裁決、本件退令発付処分と合わせて「本件各処分」という。)。
本件は、原告が、イスラム教シーア派に属するハザラ人であり、反タリバン勢力であるハラカ
ット・イスラミの元司令官及び中央委員会のメンバーであるため、本件各処分当時、アフガニス
タンにおいて、タリバン勢力から迫害を受けており難民の地位に関する条約(以下「難民条約」と
いう。)上の難民に該当する等と主張して、本件裁決の不存在確認(予備的に本件裁決の無効確認
ないし取消し)及び本件退令発付処分について無効確認を、本件不認定処分について取消しを求
めるものである。
1 前提となる事実(括弧内に認定根拠を掲げた事実のほかは、当事者間に争いのない事実か、弁
論の全趣旨により容易に認定できる事実である。)
 原告は、1964(昭和39)年《日付略》に出生した、アフガニスタン国籍を有するイスラム教シ
ーア派に属するハザラ人である(甲51、乙9の2)。
 原告は、パキスタン、タイを経て、平成13年7月2日、便名等不詳の航空機により新東京国
際空港(以下「成田空港」という。)に到着して本邦に不法入国した(乙2、7ないし9の1、11
の1)。
 東京入管成田空港支局入国警備官は、平成13年7月2日、原告の違反調査を実施し(乙2)、
原告が法24条1号に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして、被告審査官から収容令
書(以下「本件収令」という。)の発付を受けた(乙4)。
 原告は、平成13年7月3日、東京入管成田空港支局において、被告法務大臣に対し、難民認
定申請をした(乙6、以下「本件難民申請」という。)。
 東京入管成田空港支局入国審査官は、平成13年7月3日、同月4日及び同月6日、原告に対
して、違反審査を実施し(乙7ないし9の1ないし9の3)、同日、原告が法24条1号に該当す
る旨を認定し、原告にこれを通知したところ(乙10)、原告は、同日、同支局特別審理官に対し、
口頭審理を請求した(乙9の1)。
 東京入管成田空港支局特別審理官は、平成13年7月17日、原告について口頭審理を実施し
(乙11の1ないし3)、入国審査官の上記認定に誤りがない旨を判定したところ(乙12)、原告
は、同日、被告法務大臣に対し異議の申出をした(乙13、以下「本件異議申出」という。)。
 被告法務大臣は、平成13年8月29日、本件異議の申出について理由がない旨の本件裁決をし
たとして、その旨を被告審査官に通知し(乙15)、被告審査官は、翌30日、原告に本件裁決がさ
れたとの通知があったことを告知するとともに(乙16)、本件退令発付処分をした(乙17)。
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 被告法務大臣は、平成13年8月29日、原告からの本件難民申請について、不認定とする旨の
本件不認定処分をしたところ(乙14)、原告は、同日、同被告に対し、異議の申出をしたが(乙
18)、被告法務大臣は、同年12月4日、同異議の申出に理由がない旨を決定し、同月11日、原告
に通知した(乙19)。
 原告は、平成14年2月15日、被告法務大臣に対し、本件裁決の不存在確認(予備的に本件裁
決の無効確認ないし取消し)を求めるとともに、被告審査官に対し、本件退令発付処分の無効
確認を求める訴え(第1事件)を提起し、同月19日、被告法務大臣に対し、本件不認定処分の取
消しを求める訴え(第2事件)を提起した。
 原告は、平成14年3月7日、仮放免許可を受け(乙17)、現在肩書住所地に居住している。
2 争点及び争点に関する当事者の主張
本件の争点は、本件裁決の存否及び本件各処分の適法性であり、後者の内容は原告の難民該当
性である。なお、原告は、従前、各処分の手続違反の主張をしていたが、平成15年2月3日付け意
見書において、主要な争点は原告の条約難民該当性の有無であることを主張するとともに、同月
13日付け意見書において、原告の難民該当性以外の争点については、第一審において争わない旨
を重ねて明らかにしたことが当裁判所に明らかである。
 被告らの主張
ア 本件不認定処分の適法性について
原告は、「人種」、「宗教」及び「政治的意見」を理由に、国籍国において迫害を受けるおそれ
があり、国籍国の保護を受けることができないとして本件不認定処分の取消しを求めている
が、原告の主張は、以下のとおり理由がない。
ア 難民、迫害の意義について
法に定める「難民」とは、難民条約1条又は難民議定書1条の規定により難民条約の適
用を受ける難民をいうところ(法2条3号の2)、同規定によれば、難民とは、「人種、宗教、
国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受け
るおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であっ
て、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにそ
の国籍国の保護を受けることを望まないもの及び常居所を有していた国の外にいる無国籍
者であって、当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を
有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」とされている。そし
て、その「迫害」とは、「通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であ
って、生命又は身体の自由の侵害又は抑圧」を意味し、また、上記のように「迫害を受ける
おそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」というためには、「当該人が迫害を受
けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情のほかに、通常人が当該人の
立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情が存在していることが必要で
ある(東京地裁平成元年7月5日判決・行裁例集40巻7号913頁、東京高裁平成2年3月
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26日判決・行裁例集41巻3号757頁)。
ある者が難民条約所定の難民に該当するか否かを確認する難民の認定は、上記難民の定
義に照らし、申請者各人につき、その申請内容の信ぴょう性等も吟味し、各人の個別の事
情に基づいてされるべきであるところ、難民であることの立証責任は、申請者が負うべき
である。つまり、いかなる手続を経て難民の認定手続がされるべきかについては、難民条
約に規定がなく、難民条約を締結した各国の立法政策にゆだねられているところ、我が国
においては、法61条の2第1項において、被告法務大臣は、申請者の「提出した資料に基
づき、その者が難民である旨の認定を行うことができる」と規定し、法61条の2の3にお
いて、被告法務大臣は、申請者により「提出された資料のみでは適正な難民の認定ができ
ないおそれがある場合その他難民の認定又は取消しに関する処分を行うため必要がある場
合には、難民調査官に事実の調査をさせることができる」と規定していることからも明ら
かなとおり、難民認定申請者が、まず自ら条約に列挙された事由を理由として迫害を受け
るおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情があり、かつ、通常人が当該人
の立場におかれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情も存在していることを認め
るに足りるだけの資料を提出することが求められている。外国人である申請人が難民であ
るか否かを判断する資料を、我が国が有権的に当然に把握できるものではない。 
イ シーア派・ハザラ人に属することのみをもって、難民該当性が認められることがないこ

a ラバニ政権成立(1992(平成4)年)以降のアフガニスタンにおいて、ハザラ人を基盤
とし、又はハザラ人が含まれるグループとして、イスラム統一党マザリー派(ハリリ派)、
同アクバリー派、イスラム運動(ハラカテ・イスラミ)、イスラム国民運動党(ドストム
将軍派)、タリバンがある。そして、各グループは、それぞれ複雑な対立構造の下に抗争
を繰り返しており、タリバン台頭以前のアフガニスタン情勢は、ラバニ大統領派とヘク
マティール首相派の双方にハザラ人を主体とするグループとパシュトゥーン人を主体と
するグループの双方が属し、ハザラ人同士、パシュトゥーン人同士の抗争を含め複雑多
岐にわたる抗争関係が存在しており、アフガニスタン全土が混沌とした内戦状態だった
ものであるから、特定の民族や集団について、常に当該民族や集団等が一方的に被害者
であった等と断じることはできない。
b 次に、タリバン台頭後のアフガニスタンに関しても、シーア派・ハザラ人であること
のみで難民該当性が認められるものではない。
すなわち、被告提出の書証(乙22、69、74)等に記載されているとおり、タリバン政権
下において発生した人権侵犯の主要な要因は、宗教的又は民族的特性というよりも、む
しろタリバンに対し、軍事的又は政治的に対立する者であったか又はそのように解され
たことによると評価することが適当である。
そして、タリバンが、ハザラ人を迫害の対象とすることを意図する旨の公式見解を出
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したとの報告はいかなる国際機関等からも示されていない。さらに、タリバンは、パシ
ュトゥーン人全体を代表するものでもないのであって(乙70、71)、タリバンと対峙す
る北部同盟側にも多くのスンニー派又はパシュトゥーン人がいたという事実からは、む
しろ、タリバンと北部同盟との間の対立構造が、宗教的又は民族的背景によるものとい
うよりは、むしろ軍事的又は政治的な背景によるものであったことをうかがわせるもの
である。
c 原告は、ハザラ人迫害の根拠として、マザリシャリフ、バーミヤン等における虐殺事
件を指摘するが、これらについては、虐殺された被害者の数やその実態等について判然
としない上、これらの虐殺は、北部同盟との戦闘地域に集中しており、両陣営の軍事衝
突に伴い互いの報復行為として行われた側面が強いものといえる(乙66、69)。
d 諸外国政府においても、およそハザラ人に属することのみをもって難民認定を行うと
いった取扱いは行われておらず、申請者の迫害に係る個別の具体的事情等を考慮した上
で難民認定の可否が判断されている(乙73の1ないし6)。
e アフガニスタン国外避難民の本国への帰還については、アフガニスタン暫定行政機構
発足後の平成14年3月に国連帰還プログラムが開始された以降、250万人のアフガニス
タン避難民がパキスタン及びイランから帰国する(乙76)等、帰還が着実に進んでいる。
また、アフガニスタンでは平成16年1月に新憲法が採択される等、復興が着実に進んで
いる(乙80、81)。
ウ 原告が難民に該当しないこと
a 原告がタリバンを批判する意見を発表したため、タリバンから出頭命令を受けたとす
る各証拠が偽造であること
原告は、タリバンから出頭命令を受けたと主張し、その根拠として2001(平成13)年
5月16日付けサハール紙(甲69)に、原告がタリバンを批判するインタビュー記事が掲
載され、この記事を受けて同月23日付けシャリアット・デイリー紙(甲70)に原告を発
見したらタリバンに通報するようにとの記事が掲載されたとする。
しかし、上記サハール紙(甲69)は、紙面左項右上部には2001年5月16日を発行日と
する記載があるのに対し、同紙面の右項右上部には同月22日を発行日とする記載がされ
ており、日刊紙としてあり得ない表記がされている(乙50の2)こと、一体の記事の
一部がダリ語、他の部分がパシュトゥーン語で書かれている上、両者の内容自体が全く
連続していないこと、サハール紙発行元から被告が入手した同月16日付け同紙(乙44)
及び同月22日付け同紙(乙50の2)は、原告の指摘する記事は掲載されていないこと
等から、偽造されたものであることが明らかである(アフガニスタンとの国境に近いパ
キスタン・ペシャワールには、「旅行代理店」を自称するブローカーが多数存在し、旅券
やタリバンによる召喚状等の文書を偽造して売りさばいている実態があるとされており
(乙60)、原告が上記偽造の新聞を提出したことも、こうした実態を背景とするものと考
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えられる。)。
上記サハール紙が偽造であるとすると、同紙の記事を受けて作成されたと原告が主張
する2001年5月23日付けシャリアット・デイリー紙(甲70)、同年6月14日付けのタリ
バンの指名手配書(甲74)、同年8月14日付け呼出状(甲75)も偽造であるというほかな
い。
原告が、本人尋問において、上記記事に関して行われたはずの取材の状況について、
その詳細を答えられないこと等からすると、取材が実際に行われたか自体が極めて疑わ
しいものであるし(平成15年9月12日実施の本人尋問(以下「原告本人4日目」という。)
71項以下)、原告の主張するサハール紙及びシャリアット・デイリー紙の入手経路に変
遷がみられることからも、原告の供述には信用性が認められないというべきであり、本
件では、原告自身が甲第69号証の偽造に関与していた疑いが極めて高いこと等からする
と、この事実は原告の供述全体の信用性を揺るがす事実である。
b ハラカテ・イスラミの司令官としてタリバンとの戦闘に従事していたとする各証拠も
偽造であること
原告は、ハラカテ・イスラミの司令官であり、タリバンとの戦闘に参加していたこと
を裏付ける証拠として、甲第51号証ないし第77号証を提出するが、ハラカテ・イスラミ
の任命書、感謝状等の各証拠は、いずれも偽造である疑いが強い。すなわち、原告が経
営者の1人であるUAEに所在する「B」の社員であったCは、C’ との偽名を使って本
邦に6回目の入国をし、ハラカテ・イスラミの構成員であるとして難民認定申請をした
が、同人が提出したサハール紙(タリバンが同人の財産を没収する等したという内容の
もの。)は偽造されたものであることが判明し(乙51、52)、同人は難民不認定処分を受
け、異議審査中にアフガニスタンに向けて自費出国をした。この経緯からは、同人が上
記申請の際に提出した上記各任命書等も偽造であると解されるところ、原告が提出した
甲第53号証、第58号証、第61号証ないし第63号証は、いずれもC’ が提出した書面と各
書面上部の定型の記載欄及び書面下部にされたサインが酷似しているし、甲第57号証、
第59号証、第64、第65号証についても、C’ が提出した同種の文書と書式等が酷似して
いる(乙53)。そして、原告と上記Cが会社の経営者と社員という密接な関係を有するこ
と、両名がいずれも偽造のサハール紙を難民認定申請の証拠として提出していること等
を合わせ考えると、原告の提出した上記各書証も偽造である疑いが強いというべきであ
る。
c 原告の供述に信ぴょう性が認められないこと
 原告の供述には、真にハラカテ・イスラミの司令官であったとすれば、不自然な供
述が多く含まれる上、原告が仮にハラカテ・イスラミの党員であったとしても、原告
は自分の活動内容を「情報収集の仕事」及び「ハラカテ・イスラミの広報活動として
反共産政権のビラ配布など」(乙37)と供述しているから、その内容は軽微なものに
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すぎず、期間も1981(昭和56)年の入党から翌年に秘密警察に逮捕されるまでの1年
間と、ハラカテ・イスラミからの要請を断り切れず活動を再開したとする1998(昭和
63)年からナジブラ政権に逮捕された翌年までの1年間であり、合わせてわずか2年
間にすぎないのであるから、このような活動により司令官に任命されたとする原告の
供述には信用性が認められない。原告の活動は、専ら貿易業であったというべきであ
り、ハラカテ・イスラミ党員としての活動実績はほとんど皆無であったというべきで
あるし、原告が2度にわたりカルマル、ナジブラ両政権に逮捕されたと述べる部分に
ついては、仮にこれが事実であったとしても、現在アフガニスタンに共産主義政権は
存在しないのであって、原告の迫害を基礎付けるものとは認められない。
 原告が真実司令官としてタリバンと交戦していたのであれば、なぜ偽造のサハール
紙を証拠として提出しなければならなかったのかが全く不明というほかなく、原告が
ハラカテ・イスラミの司令官としてタリバンとの戦闘に参加していたとすること自
体、疑わしいものといわざるを得ない。
なお、念のため指摘すると、ハラカテ・イスラミの司令官であれば当然に難民とな
るものではなく、迫害を受けるおそれがあるとする事情を個別に検討し、難民該当性
が判断されなければならない。
d 原告の真の目的は本邦での不法就労活動であること
 原告は、UAE所在のB社の共同出資者であり、経営者であるところ(乙37)、平成9
年2月7日の入国を初めとして、今回までに計6回の本邦への入国歴があり、そのい
ずれも渡航目的を「BUSINESS」又は「CAR BUSINESS」としており(乙43)、中古自
動車部品の仕入れ等を行っていた。原告は、平成9年以降、UAEのシャルジャにおい
て在留資格を取得しており(乙41)、経営するB社の営業利益を上げ、生活の拠点とし
ている(乙9、38、41)。また、パキスタンにおいても査証を取得し、正規に出入国を
繰り返して中古自動車部品の販売業を行い(乙9)、在イスラマバード日本大使館にお
いて3回、在ドバイ日本領事館において3回の計6回の本邦への渡航証明書及び査証
の取得申請をしている(乙9)。
このように原告は、平成7年以降、正規の手続を取って日本、パキスタン、UAEの
3カ国を頻繁に行き来し、一貫して中古車部品の商売を行っているところ(乙9)、こ
の間日本を含むいずれの国においても一時庇護を求めたり、難民申請を行うことはな
かったし、またその手続きを調べたり準備を進めるようなこともなかった。
原告は、アフガニスタンの状況が改善される可能性を信じていたため、難民認定申
請等を行わなかった旨を弁解するが(原告本人4日目240項)、原告の最後の本邦出国
である2000(平成12)年7月16日の時点と本邦に不法入国した2001(平成13)年7月
2日の時点を比較して特段、タリバン政権の勢力が伸張したような事実がないのに対
して、むしろ例えば原告の3回目の本邦出国時(平成10年7月1日)と4回目の入国
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時(平成11年1月27日)との間に平成10年8月8日マザリシャリフ陥落とパキスタン
などによるタリバン政権の国家承認といった事実が発生しているのであるから、その
時点で難民認定申請を行うあるいは少なくともその準備をするのが合理的であると思
われるのに、原告がしたのは中古自動車部品の商売のみであったもので、原告の弁解
は不合理としかいいようがない。
そして、6回目の出国時と今回の不法入国時との間において、原告の主張するサハ
ール紙の反タリバンプロパガンダ記事掲載から、これを非難するタリバン機関誌シャ
リアット・デイリー紙記事掲載、指名手配書の発付の事実が発生したとのことである
が、これらの事実が偽造証拠による虚偽のものであることは前記のとおりである。
 原告は、今回の不法入国後においても、本邦で中古自動車部品等の仕入れ資金の送
金を受けるために開設してあった口座にUAE所在のB社から200万円の送金を受け
(原告本人4日目60、62項)、本邦において中古自動車部品を買付けてはB社に向け輸
出しているほか、本邦においても中古自動車部品の売買を行って多額の利益を上げて
いる(同56、57項)。
この商売によって原告が得ている収入は、極めて多額であり、現に原告は、UAEに
会社を設立し、パキスタン・ペシャワール屈指の豪邸が立ち並ぶ高級住宅街であるハ
ヤタバードに豪邸を建て裕福な生活を送っていた(乙74、9の3)。
 原告は今回の本邦入国の時点において正規の旅券を所持しており(乙37)、UAEの
滞在許可も有していたのであるから(乙41)、日本以外の第三国に査証を申請するな
りして正規に渡航する選択肢が存在した。特に隣国のイランは、原告の宗教と同じく
イスラム教シーア派を国教とし、言語はダリ語と非常に近いペルシア語であり、多く
のアフガニスタン人が生活し、ハラカテ・イスラミの事務所が存在し(乙37、38)、そ
の支援を受けられるばかりか、原告が真実ハラカテ・イスラミの司令官ならばまさに
司令官として活動するのに最適であることは明白であり、かつ、イランも難民条約の
締約国である等、原告の安全のためにまず第1に検討すべき渡航先であると思われる
ところ、原告は、避難先として何らイランを検討することはなかった(甲79、原告本
人2日目64項)。また、原告が過去に訪れた経験があるという意味ならばドイツも同
様であり、なぜに日本でなければならなかったのか原告から合理的な説明はされてい
ない。原告は、1万500ドルもの多額の費用をかけて日本に不法入国しており、しかも
アフガニスタンから脱出してきた家族を原告が暮らしていけないほど危険なパキスタ
ンにあえて残したことになるが、原告が日本を選んだ真の理由は、日本が中古自動車
部品の仕入れ先であったからにほかならない。
 中古自動車部品商売に従事する原告のようなアフガニスタン人にとって、仕入れ先
である日本に入国できないことは商売における死活問題となることは明らかである。
原告は、平成12年10月18日に在パキスタン日本国大使館に渡航証明書及び査証の申
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請を行ったものの(乙9の3)、以前は即日か翌日に発給されたそれらについて、結論
が出るまで1か月かかると言われたこと(原告本人2日目95項、96項)を認めている
が、平成12年から同13年ころ、在パキスタンや在UAEの日本大使館において、少なく
ない数の中古自動車部品業を営むアフガニスタン人の本邦への渡航証明書及び査証の
発給が不許可とされた事情がうかがわれること(乙87)も合わせ考えると、本件は原
告が渡航証明書等の発給が極めて困難と考え、難民を偽装することを計画したものと
みるべきである。
 被告らの調査によれば、渡航証明書及び査証の申請をしながらこれらを交付されず
(あるいは審査中に)本邦に不法入国したアフガニスタン人難民認定申請者が東京地
方裁判所に訴訟係属した者に限っても11名おり(乙87)、平成12年以降、アフガニス
タン人で難民認定申請をした者のうち、既に本邦から退去強制されている21名のう
ち、実に17名が原告と同じ中古自動車部品業を営んでいた者である(乙86)。さらに
現在、東京地方裁判所に係属中の難民不認定等取消訴訟の原告36名のうち、中古自動
車部品業を営んでいた者が22名(乙88)に上る。通常、特定の職業の者が特定の時期
に一斉に難民認定申請をすること自体不自然であり、これらの者が相互に関係してい
ると推認されることからすれば、原告の関係者であったCに限らず、過去の出入国歴
を秘し偽名や偽造と思われる各種書類を提出して難民認定申請を行う手口がアフガニ
スタン人の中古自動車部品業者に浸透していることを推認させるものである。
e 以上によれば、原告が迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有す
るとは到底認めることができないから、本件不認定処分は適法にされたものというべき
である。
イ 本件裁決の適法性について
原告は、本件裁決は裁決書が作成されておらず、不存在である旨を主張するが、この主張
は理由がない。
次に、原告は、パキスタン人ブローカーに1万500米ドルを支払い、同人と共に便名等不
詳の航空機に搭乗し、平成13年6月29日、パキスタン・イスラマバードを出発、名称等不詳
の空港に到着して1泊した後、再び便名等不詳の航空機により、タイ王国(以下「タイ」とい
う。)のバンコクと思われる空港を経由し、同年7月2日、有効な旅券又は乗員手帳を所持せ
ず、かつ、法定の除外事由がないのに成田空港に到着し、もって本邦に不法入国した(乙2、
7ないし9の1、11の1)者であり、法24条1号所定の退去強制事由に該当すると認められ、
特別審理官の判定には何らの誤りもない。
そして、原告が難民に該当しないことは、前記アのとおりであり、その他に原告に対し在
留特別許可を付与するか否かの判断において格別積極的に斟酌しなければならない事情は見
当たらず、アフガニスタンにおいては、避難民の帰還が進んでおり、原告が本国に帰国して
生活することに支障はないから、法務大臣が在留特別許可を付与せずにした本件裁決に裁量
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権を逸脱濫用した違法があるということはできない。
なお、原告が予備的に本件裁決の取消しを求めている点については、被告審査官は、平成
13年8月30日、原告に対し本件裁決の結果を告知するとともに本件退令を発付しているこ
とが明らかであるから、同年12月1日をもって行政事件訴訟法14条1項に定める出訴期間
を徒過しているから、同訴えは不適法なものというべきである。
ウ 本件退令発付処分の適法性について
退去強制手続において、法務大臣から「異議の申出は理由がない」との裁決をした旨の通
知を受けた場合、主任審査官は、速やかに退去強制令書を発付しなければならないのであっ
て、退去強制令書を発付するにつき裁量の余地はないから、本件裁決が適法である以上、本
件退令発付処分も当然に適法であるというべきである。
エ 以上のとおり、本件不認定処分、本件裁決、本件退令発付処分はいずれも適法であるから、
原告の各請求はいずれも棄却されるべきである。
 原告の主張
被告法務大臣は、原告が難民であるにもかかわらず、原告のした難民認定申請を認めなかっ
たのであるから、本件不認定処分は違法なものであって、取り消されるべきである。また、被告
法務大臣は、原告の法49条1項の異議の申出に対して、在留特別許可を認めずに異議の申出に
理由がない旨の本件裁決をした旨を主張するが、本件裁決は裁決書が作成されていないという
重大な方式の瑕疵を有するものであって不存在であり、仮にそうでないとしても、原告の難民
該当性を看過した同被告の判断には重大かつ根本的な事実誤認による裁量権の逸脱があって、
本件裁決は違法であるから、無効ないし取り消されるべきである。さらに、本件退令発付処分
は、送還先をアフガニスタンとする点で、難民を迫害のおそれのある国に送還することを禁じ
た難民条約33条1項、法53条3項のノン・ルフールマン原則に違反しており、被告審査官独自
の裁量権についても濫用があり違法なものであるから、無効である。
ア 難民認定の際の立証基準の解釈の在り方
ア 我が国の難民認定制度においては、難民条約上の難民をそのまま難民として認定するこ
とが義務付けられているから、いかなる者が難民として認定されるべきかは、難民条約の
規定及び解釈により決せられるべきである。そして、難民認定の目的が、紛争解決や法的
安定性の確保という一般の争訟の目的と異なること、難民認定制度は、証明対象を一般の
争訟手続と異にすること、判断の誤りにより侵害される法益は重大であり、事後回復が不
可能であることからすれば、難民認定手続における立証基準は、これまでの同手続の実務
において形成されてきた様々なルール(例えば、後記の供述の信ぴょう性に関する議論や、
灰色の利益のルール等)に共通する「難民の可能性のある者の取りこぼしをせず、できる
だけ広く保護の網をかぶせる」という姿勢を念頭において検討されるべきである。
イ 上記を前提とすると、難民条約締結国における判例で示された解釈も、難民認定手続に
おける立証の在り方を考える重要な手がかりとなる。そして、アメリカ合衆国においては、
- 11 -
「十分に理由のある恐怖」については、迫害を受ける可能性が50パーセント以下であって
も、その者が抱く恐怖には十分に理由があるといえると判断されている(カルドサ・フォ
ンセカ事件に関する1987年連邦最高裁判所判決)。また、カナダにおいては、同文言の解
釈に際しては、迫害を受ける合理的見込み、あるいはそう信じる十分な基盤があれば足り
る旨が示されている(アジェイ事件に関する1989年1月27日ブリティッシュコロンビア
州バンクーバー連邦控訴裁判所判決)。さらに、英国においても、同文言は、客観的な状況
ではなく本人の立場に立った状況を前提に判断すべきである旨が示されているほか(シヴ
ァクラマン事件に関する1987年10月12日控訴裁判所判決)、オーストラリアにおいても、
迫害発生率がたとえ50パーセント以下であっても十分に理由のある恐怖になり得ること
が明らかにされている(チャン事件における1989年最高裁判所判決、オーストラリア難民
再審査委員会1995年8月11日決定及び同委員会1997年9月17日決定等)。
このように、諸外国の判例等は、「十分に理由のある恐怖」の立証について、極めて緩や
かな判断基準を用いている。
ウ 以上の検討によれば、「十分に理由のある恐怖」とは、客観的な迫害の可能性ではなく、
主観的な恐怖に十分な理由があることであり、十分な理由とは、当該申請者がおかれた状
況に合理的な勇気を有する者が立ったときに、帰国したら迫害を受けるかもしれないと感
じ、国籍国への帰国をためらうであろうと評価し得る場合を指すものというべきである。
イ 難民認定における信ぴょう性判断の在り方について
ア 難民認定における信ぴょう性判断は、難民問題の特殊性や種々の要因(例えば、証拠収
集が困難であるという物理的要因、申請者の心的ストレスによる記憶の変容等の心理的要
因、言語的障害等の文化的要因、対審構造が取られていないことに由来する構造的要因)
等にかんがみ、慎重な検討が必要である。
イ したがって、難民認定手続に際しては、証拠の一部が信ぴょう性に欠けるとしてもすべ
ての証拠を検証すべきであり、信ぴょう性を否定する場合には、合理的な理由に基づかな
ければならない。また、申請者の供述に一貫性や誠実性が認められる場合には、補強証拠
がなくとも信ぴょう性を認めるべきであるほか、仮に証拠の一部に矛盾や不整合、証言内
容の変遷等があってもそれを絶対視すべきではなく、申請者の証言にほとんど信ぴょう性
が見いだせない場合であっても、出身国情報等から難民として認定される可能性があると
いうべきである。
ウ さらに、前記アの特殊性にかんがみれば、難民認定に際しては、「疑わしきは申請者の利
益に」という原則(いわゆる「灰色の利益」の原則)が妥当するというべきであり、同原則は、
カナダ、ニュージーランド、オーストラリア等の実務・判例で採用されている。 
エ そして、以上のような信ぴょう性判断の在り方は、難民認定行為をする機関のみにとど
まらず、その処分の妥当性を判断する裁判所にも妥当するものである。
ウ アフガニスタン一般情勢について
- 12 -
ア ハザラ人は、2300年以上前から現在のアフガニスタン地域に居住する先住民族であり、
1880年代までは現在のアフガニスタン中央部に広がるハザラジャットという山岳地帯で
完全な自治を確立していたものの、1890年代に王位についたパシュトゥーン人の王によ
って決定的な変容を迫られ、以後3回にわたり反乱を起こすも失敗に終わり、それ以降ハ
ザラ人は社会的、経済的に社会の最下層として差別を受けている。
イ 1980年代から1990年代前半にかけて、ハザラ人は様々な政党を結成し、連合、解散を繰
り返して来たが、1990年代に入り、ヘズベ・ワハダット党とその指導者であるマザリ師を
中心として結束した。しかし、ヘズベ・ワハダット党は、ナジブラ政権崩壊後に成立した
暫定政権から閉め出され、暫定政権はペシャワールを拠点とするムジャヒディンにより構
成されたため、結局のところシーア派ハザラ人は無視され、1993(平成5)年2月には、西
カブールのアフシャール地区において数百人のハザラ人がラバニ大統領とその司令官マス
ードの命令により虐殺されるという事件が起きた。
ウ ヘズベ・ワハダット党(以下「イスラム統一党」ということもある。)は、1995(平成7)
年2月、マスード部隊の攻撃に対処するため、当時勢力を増大していたタリバンと停戦協
定を結び、タリバンが西カブールの前線に入ることを許可したものの、タリバンはヘズベ・
ワハダット党を援助することなく、政府軍の攻撃に耐えられず撤退する際に、マザリ師を
連行する等して同党を裏切った。その後マザリ師は死体で発見されたことから、シーア派
ハザラ人の活発な活動と苦闘は終局し、ハザラ人は、以後タリバン政権下で迫害を受ける
こととなった。
エ タリバンは、アフガニスタンの最大民族であるパシュトゥーン人を主体とするイスラム
原理主義の急進主義者であり、1995(平成7)年以降、急激に勢力を増大すると、1996(平
成8)年9月にはアフガニスタンの首都カブールを占拠した。これに対しムジャヒディン
各派は、反タリバン勢力として統一戦線(以下「北部同盟」ということがある。)を結成し、
その後タリバン政権が崩壊するまで、両者の間の内戦が継続した。北部同盟は、ハラカテ・
イスラミを含むタジク人を主体とするラバニ・マスード派、ウズベク人を主体とするアフ
ガニスタン・イスラム運動、ハザラ人を主体とするイスラム統一党を中心としていた。
少数民族であるハザラ人、タジク人、ウズベク人は、タリバン政権下において迫害対象
になっていた。とりわけ、ハザラ人は、多くがイスラム教シーア派に属することから、タリ
バンによる組織的な殺害を含む迫害の対象とされ、1998(平成10)年8月8日にタリバン
がマザリシャリフを攻略したときには、何千人ものハザラ人の一般市民が、計画的かつ組
織的に虐殺され、生き残ったシーア派に対しては、改宗か死かの選択が迫られた。1998(平
成10)年9月には、バーミヤンにおいて、同様にハザラ人の一般市民が虐殺された上、同
年には、ヘズベ・ワハダット党の支持者ないし党員と疑われた700人以上のハザラ人が投
獄されたこと等が報道されている。
オ 2001(平成13)年12月、タリバンは、アフガニスタンにおいて統治機能を喪失し、同月
- 13 -
22日には、かつての北部同盟を中心とする暫定政権が発足したと報道された。しかし、ア
フガニスタンにおけるハザラ人迫害はタリバン誕生前からのものであり、タリバンが崩壊
したとの報道のみでハザラ人に対する迫害の危険がなくなったと判断するのは早計にすぎ
る。同暫定政権において、ハザラ人勢力は、重要性の低い5つのポストを与えられたのみ
であり、北部同盟内部についても、分裂が危惧される状況にあった。
カ 上記オのような不安定な状況においては、タリバン崩壊及び暫定政権の発足という事実
のみによりハザラ人迫害の歴史に本質的な変化が生じたと認めることはできない。したが
って、本件各処分当時、シーア派ハザラ人は、シーア派ハザラ人であることのみをもって
アフガニスタンにおいて、人種及び宗教を理由に迫害を受けるおそれがあったと認められ
る。実際に、諸外国においても、シーア派ハザラ人であることを理由として難民該当性が
認められた例は数多く存在し、とりわけオーストラリアに関しては、128件の決定例を調
査したところ、調査した期間内において、アフガニスタン国籍のハザラ人のうち、難民と
認定されなかった者はいなかった。また、東京弁護士会からUNHCRへの照会に対する回
答(以下「UNHCR回答」という。甲89の3)においても、UNHCR本部が、2001年8月に
各国事務所に対して発したガイドラインには、「特定地域出身の少数民族(主にシーア派)
のアフガン人大多数については迫害の危険性が高いため(1998年のタリバンによるマザ
リシャリフの制圧がよい例である。)、同様の背景を有するアフガン人男性を集団別に集団
認定に近い形での認定が正当化される」旨の記載がある。
エ 原告の難民性について
ア 原告は、本件各処分当時、民族的・宗教的な理由によりタリバン勢力から迫害を受けて
いるイスラム教シーア派のハザラ人であり、反タリバン勢力であるハラカテ・イスラミの
元司令官及び中央委員会のメンバーであったため、アフガニスタンに帰国すれば人種、宗
教及び政治的意見を理由として、生命又は身体に迫害を受けるおそれがあるという十分に
理由のある恐怖を抱いていたと認められ、難民条約上の難民に該当する。
イ 原告の個別的迫害の状況は、以下のとおりである。
a 原告は、イスラム教シーア派に属するハザラ人であり、3、4歳のころから、家族とと
もにカブールで生活するようになった。原告の長兄であるDは、中古自動車部品の貿易・
販売事業で生計を立てていたが、1980(昭和55)年ころから、ハラカテ・イスラミのメ
ンバーとして活動するようになり、原告も1979(昭和54)年にソ連がアフガニスタンに
侵攻していたこと、ハザラ人やイスラム教シーア派が迫害を受けていたことから、アフ
ガニスタンの民主化のためハラカテ・イスラミのメンバーとなる決意をし、1981(昭和
56)年ころからハラカテ・イスラミのメンバーとして活動を開始し、カブール担当の第
5情報部門の責任者に任命され、情報収集などを行うようになった。
他方で原告は、1981(昭和56)年ころ、アフガニスタンの事業許可を取得し、中古自
動車部品の貿易・販売事業で生計を立てるようになった。
- 14 -
b 原告は、1982(昭和57)年ころ、当時のカルマル政権によりハラカテ・イスラミの活
動を理由として逮捕され、1か月以上身柄を拘束されたが、ハザラ人の100人以上の長
老らが保証人となり、当時のカルマル政権で副首相を務めていたハザラ人のスルタン・
アリ・キシュトマンに釈放を求めたために釈放された。
c その後も原告は、事業で得た利益でハラカテ・イスラミを経済的に支援したり、同党
の広報に携わる等の政治活動をしていたが、ハラカテ・イスラミの最高司令官であるサ
イード・フセイン・アヌワリ(以下「アヌワリ」という。)からの依頼を受け、カブール
に潜入していたBBCのイギリス人ジャーナリストからインタビューを受け、現地を案内
する等したため、1989(平成元)年ころ、当時のナジブラ政権により再び逮捕され、裁判
で2年間の懲役を命じられたが、ナジブラ政権とムジャヒディンが一時的に和平合意を
したために、6か月後に恩赦により釈放された。原告は、これらの身柄拘束の際、金属製
ケーブルで身体を殴られたり、電気ショックを受けさせられ、熱した棒を左腕に押しつ
けられる等の拷問を受けた。
d 原告は、その後もハラカテ・イスラミのメンバーとして同党に経済的支援をしたほか、
同党の重要なミーティング等に参加するようになった。その間、原告は1982(昭和57)
年ころから1991(平成3)年ころまで西ドイツを1年に1度ないし数度の割合で訪問し
て貿易を行う等した。また、原告は、アヌワリ等の司令官からの依頼を受けて、西ドイツ
に滞在するアフガニスタン人への連絡や、西ドイツ政府へハラカテ・イスラミの支援依
頼をする等、当時の共産主義政権に批判的な活動をしたほか、西ドイツのテレビや新聞
等からのインタビューに応じた。
原告は、1990(平成2)年ころ、中央カブールに衣類や日用品等を販売する店舗を他
のアフガニスタン人と共同で購入して利益を2人で分配していたほか、長兄が有してい
た中央カブール等の店舗からも賃料を取得する等して、1992(平成4)年まで、これら
の事業により生計を立て、利益をハラカテ・イスラミへの経済的支援等にも充てていた。
e 1992(平成4)年3月ないし4月ころ、ハラカテ・イスラミを含むムジャヒディンは、
カブールを制圧し、ナジブラ政権を崩壊させたが、その後ムジャヒディン間で内戦が始
まり、当時ハラカテ・イスラミの副最高司令官の地位にあった原告の長兄D(西カブー
ルでスカット・ミサイルの防衛を担当する司令官をしていた。)がこの内戦で殺害され
た。原告は、同人の弟であったため、他のハラカテ・イスラミのメンバーから信頼され、
1992(平成4)年5月ころ、長兄を継いで西カブールでスカッド・ミサイルの防衛を担
当する第34部隊の司令官になり、650人から800人くらいの部下を率いて活動を行うよ
うになるとともに、ハラカテ・イスラミの中央委員会のメンバーに任命され、ヘクマテ
ィアルらのパシュトゥーン人のムジャヒディン勢力と戦ったところ、これらの活動が評
価されアヌワリから感謝状を受けた。
また、原告は、1993(平成5)年8月、ムジャヒディン間の内戦が一時的に停止した時
- 15 -
期にアヌワリとともに停戦維持に関する任務に従事し、代表団の安全確保を行うなどし
たところ、1994(平成6)年1月には、アフガニスタン・イスラム国の第990部隊の司令
官に任命された。
f 原告は、1995(平成7)年10月、ハラカテ・イスラミの軍事部門の情報管理・規律維
持の責任者に任命され、1996(平成8)年5月には、カブールで、各組織の衝突の防止及
び治安維持のための部隊の司令官に任命され、600名の部下を率いて活動したものの、
同年9月27日、タリバンがカブールを制圧したため、約3か月間にわたり北カブール、
トルクマンへと戦闘をしながら退避した後、自分や家族の命を守るためにアフガニスタ
ンを出国することを決意した。
g 原告は、1996(平成8)年12月ないし翌年1月ころ、パシュトゥーン人に500万アフ
ガニを支払い、身元を隠しながらパキスタンのペシャワールへ逃走した後、生計を立て
るために他のアフガニスタン人2人と共同で貿易事業を行うことにし、1997(平成9)
年2月ころ、日本の会社を紹介されて初めて来日した。
h 原告は、日本からパキスタンに帰国後、UAEに滞在することにし、1997(平成9)年
7月ころ、他の2人のアフガニスタン人とUAEのシャルジャに貿易事業の会社を設立
したが、その後アヌワリからアフガニスタン国内のハラカテ・イスラミメンバーに経済
的支援をする任務を与えられ、UAEにおける責任者として活動するようになり、UAE国
内に滞在するハラカテ・イスラミのメンバーや支援者らへの連絡、会議等を開催してア
フガニスタンの状況を話したりするほか、イランやパキスタンに滞在するメンバーと連
絡を取っていた。
原告は、メディアやジャーナリストからのインタビューに応じ、タリバンに批判的な
内容を話したこと等により、ハラカテ・イスラミから感謝状の交付を受けた。
i 原告は、1997(平成9)年8月から翌年7月までの間、5回にわたり短期滞在の在留
資格を取得して来日し、中古自動車部品の貿易事業に従事しつつ、1998(平成10)年春
ころには、ハラカテ・イスラミのミーティングに参加するためタジキスタンを経由し、
アフガニスタン北部のタハールに行ったり、ハラカテ・イスラミに経済的支援をする等、
同党の活動を続けていた。原告の活動は同党から評価され、原告は2000(平成12)年3
月ころ、同党の中央委員会のメンバーに再登録された。
j 2001(平成13)年3月ころ、原告は、ハラカテ・イスラミの中央委員会の会議に参加
した際、同党の週刊誌であるマルドゥムのインタビューに応じ、タリバンに批判的な内
容を述べ、この記事の掲載された同週刊誌は、2001(平成13)年5月14日に発行された。
また、原告は、2001(平成13)年5月ころ、伯母の葬儀のためにペシャワールの親戚の
家を訪ね、その際ペシャワールの日刊紙であるサハールの記者のインタビューに応じた
が、その中でも原告は、タリバンに批判的な発言をし、同記事は同紙に掲載された。
k 原告は、上記のような反タリバン活動をしていたため、タリバンの諜報機関に個別に
- 16 -
把握されることとなり、UAEに滞在していた2001(平成13)年6月中旬ころには、カブ
ールに居住していた妻の親戚であるEから、原告の従兄弟であるFが連行されたと聞い
たほか、同月19日、アヌワリから、タリバンが原告の指名手配書をパキスタン大使館、
UAE大使館に送付しており、原告に身柄拘束の危険が迫っている旨の連絡を受けた。さ
らに翌20日には、UAEに駐在するタリバンの大使館から、原告の会社に対し、原告にア
ブダビの大使館に来るようにとの電話があった。原告は、これらの連絡を受け、自らの
身柄拘束の危険が迫っていると感じ、同月23日ころ、UAEからパキスタンのペシャワー
ルへと出国した。
l 一方、原告がペシャワールに入ったころ、原告は、パキスタンに滞在する親戚から、タ
リバンが伯母の葬儀を行った親戚の自宅を2度訪れ、原告の所在場所を尋ねたことを聞
かされたほか、原告が中央カブールに有していた店舗及び自宅等がタリバンに没収され
たり破壊された旨を聞いた。また、原告は、妻の兄であるG及びHから、原告が指名手
配された旨が記載されているタリバンの指名手配書や、シャリアット・デイリー紙、原
告のインタビューの掲載されたサハール紙を受け取った。さらに原告は、パキスタンに
おいてもタリバンの捜索を受けるようになったため、安全な国へ出国することを決意
し、過去に日本滞在の経験があり、日本語や日本人の性格を多少知っていたことから、
日本へ行くことを希望し、1万500米ドルと3枚の写真を渡して、ブローカーを使って、
2001(平成13)年6月28日、ペシャワールからイスラマバードへ行き、イスラマバード
から経由地の空港に空路で移動した後、バンコクと思われる空港をさらに経由し、同年
7月2日、成田空港に到着し、同日、東京入管成田空港支局上陸審査場において、同支局
入国審査官に対し、難民認定申請をしたい旨を述べた。
ウ 以上の原告の主張する事実は、アフガニスタンの客観的状況とも一致するほか、多数の
客観的証拠及び第三者による供述と細かい部分まで符号しているものであり、その内容も
自然かつ合理的なものであり、現実に事実を体験した者の供述のみが持つ迫真性を有して
おり、その内容にも一貫性が認められるから、原告の供述は高度の信用性を有するものと
いうことができる。そして、これらの事実に照らせば、原告が、本件各処分当時アフガニ
スタンに帰国した場合、人種、宗教及び政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあると
信じる相当な理由が認められるから、原告は難民条約上の難民に該当するというべきであ
る。
エ 被告らは、原告の供述には信用性が認められないと主張する。しかしながら、被告らの
主張は以下のとおり理由がない。
a 被告らは、甲第69号証のサハール紙が偽造されたものであると述べた上、同新聞記事
の掲載を前提として作成されたとする甲第70号証ないし74号証も偽造の疑いがあり、
この事実は原告の供述全体の信用性に影響を与える旨を主張するが、原告は、同新聞が
偽造である旨の指摘をされる以前から、サハール紙のインタビューに際しては、パキス
- 17 -
タン情勢やタリバンとパキスタンとの関係を詳細に述べたにもかかわらず、そのインタ
ビュー内容の多くが削除されているとして、記事の内容が不自然である旨を自ら供述し
ていたものである(原告本人5日目78ないし85項)。そして、原告は上記各書証は、G及
びHから受けとったものであると述べており、同新聞については、Gによる入手経緯は
分からない旨を供述していたことが認められる(同100項)。そして、原告が各書証を両
名から受け取った時期が、アヌワリから危険を知らされてUAEからパキスタンに出国
した時期の直後であることからすると、G及びHが、原告が他国で速やかに難民として
保護を受けられるようにこれらの書類を作成した原告に渡したことも十分に考えられる
のであって、これらの書類が仮に偽造であったとしても、その事実が原告の供述の信用
性に影響を与えるものではないというべきである。
また、真に難民に該当する者であったとしても、供述のみでは信用してもらえないの
ではないかという危惧や、難民であることを速やかに認定してほしいという心情から、
虚偽の書類等を提出して難民認定申請をすることは十分考えられるのであって、このよ
うな事実が仮にあったとしても、そのことのみから申請者の供述の信ぴょう性すべてを
否定するのではなく、申請者が提出した他の書類や出身国情報等のすべてを検討して信
ぴょう性判断がされなければならないことはいうまでもなく、原告の場合には、他の資
料からみて、原告の供述全体の信ぴょう性に疑いを挟む余地はないものというべきであ
る。
b 被告らは、原告がタリバンがカブールを制圧した前後のころ、数度にわたり来日して
いる点を捉えて、部隊の司令官の取るべき行動として現実と乖離している旨を主張する
が、原告は、貿易事業を行いながらハラカテ・イスラミに経済的支援を行うほか、アフ
ガニスタン北部に入ってハラカテ・イスラミのミーティングに参加する等の活動を行っ
ており、ハラカテ・イスラミの幹部として取るべき行動を取ったものと解されるから、
被告らの主張は失当である。
c 被告らは、原告のハラカテ・イスラミのメンバーとしての活動内容はいずれも軽微な
ものであり、その期間もわずかなものであるとして、原告は専ら貿易業に従事していた
ものと主張するが、原告は事業で得た利益でハラカテ・イスラミに経済的支援をしてい
たものであって、広報やミーティングに参加する等積極的に活動していたのみならず、
共産主義政権に2度にわたり身柄を拘束された経験を有するのであり、原告の活動実績
が皆無であるとは到底いうことができない。
d このほかに、被告らは、縷々主張して原告の供述に信ぴょう性がない旨を述べるが、
これらはいずれも失当である。

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