難民認定をしない処分取消請求事件(甲事件)
平成15年(行ウ)第360号
退去強制令書発付処分等取消請求事件(乙事件)
平成16年(行ウ)第197号
原告:A、両事件被告:法務大臣、乙事件被告:東京入国管理局主任審査官
東京地方裁判所民事第38部(裁判官:菅野博之・鈴木正紀・本村洋平)
平成17年3月25日
判決
主 文
一 被告法務大臣が原告に対して平成14年11月11日付けでした難民の認定をしない旨の処分を取
り消す。
二 被告法務大臣が原告に対して平成16年1月27日付けでした出入国管理及び難民認定法49条1
項に基づく異議の申出は理由がない旨の裁決を取り消す。
三 被告東京入国管理局主任審査官が原告に対して平成16年3月16日付けでした退去強制令書発
付処分を取り消す。
四 訴訟費用は、被告らの負担とする。
事実及び理由
第一 請求
一 甲事件
主文第一項と同旨。
二 乙事件
主文第二項及び第三項と同旨。
(なお、乙事件訴状の「請求の趣旨1」欄記載の「3月16日」は誤記と認める。)
第二 事案の概要
一 事案の骨子
本件は、①ミャンマー連邦(以下「ミャンマー」という。なお、同国は、1989年に名称をビルマ
連邦社会主義共和国から改称したが、本判決では、改称の前後を区別することなく、「ミャンマー」
という。)の国籍を有する原告が、出入国管理及び難民認定法(以下「出入国管理法」という。)61
条の2第1項に基づき、難民の認定を申請したところ、被告法務大臣から難民の認定をしない旨
の処分を受けたため、同処分が違法であると主張して、同被告に対し上記処分の取消しを求める
事案(甲事件)、並びに②原告が、被告法務大臣から出入国管理法49条1項に基づく異議の申出は
理由がない旨の裁決を受け、被告東京入国管理局主任審査官(以下「被告主任審査官」という。)
から退去強制令書発付処分を受けたため、原告が出入国管理法等に規定する「難民」に該当する
にもかかわらず在留特別許可を認めなかった上記裁決及び上記発付処分は違法であるなどと主張
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して、被告法務大臣に対し上記裁決の取消しを、被告主任審査官に対し上記発付処分の取消しを、
それぞれ求める事案(乙事件)である。
二 関係法令の定め等
1 出入国管理法61条の2第1項は、「法務大臣は、本邦にある外国人から法務省令で定める
手続により申請があったときは、その提出した資料に基づき、その者が難民である旨の認定
(以下「難民の認定」という。)を行うことができる。」と規定している。そして、出入国管理法
2条3号の2は、出入国管理法における「難民」の意義を、「難民の地位に関する条約(以下「難
民条約」という。)第1条の規定又は難民の地位に関する議定書第1条の規定により難民条約
の適用を受ける難民をいう。」と規定している。
 難民条約1条Aは、「1951年1月1日前に生じた事件の結果として、かつ、人種、宗教、
国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるお
それがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、そ
の国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国
の保護を受けることを望まないもの及びこれらの事件の結果として常居所を有していた国の
外にいる無国籍者であつて、当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はその
ような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」は、難民
条約の適用上、「難民」という旨規定している。
 難民の地位に関する議定書(以下「難民議定書」という。)1条2は、難民議定書の適用上、
「難民」とは、難民条約1条Aの規定にある「1951年1月1日前に生じた事件の結果として、
かつ、」及び「これらの事件の結果として」という文言が除かれているものとみなした場合に
同条の定義に該当するすべての者をいう旨規定している。
 したがって、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的
意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍
国の外にいる者であつて、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐
怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」は、出入国管理法にいう
「難民」に該当することとなる。
2 出入国管理法61条の2第3項は、「法務大臣は、第1項の認定をしたときは、法務省令で定め
る手続により、当該外国人に対し、難民認定証明書を交付し、その認定をしないときは、当該外
国人に対し、理由を付した書面をもつて、その旨を通知する。」と規定している。
3 出入国管理法50条1項は、「法務大臣は、前条第3項の裁決に当つて、異議の申出が理由がな
いと認める場合でも、当該容疑者が左の各号の1に該当するときは、その者の在留を特別に許
可することができる。」とし、その3号において、「その他法務大臣が特別に在留を許可すべき
事情があると認めるとき。」と定めている。
4 拷問及び他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する条約(以下「拷
問等禁止条約」という。)3条1項は、「締約国は、いずれの者をも、その者に対する拷問が行わ
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れるおそれがあると信ずるに足りる実質的な根拠がある他の国へ追放し、送還し又は引き渡し
てはならない。」と規定している。そして、拷問等禁止条約1条1項は、「この条約の適用上、『拷
問』とは、身体的なものであるか精神的なものであるかを問わず人に重い苦痛を故意に与える
行為であって、本人若しくは第三者から情報若しくは自白を得ること、本人若しくは第三者が
行ったか若しくはその疑いがある行為について本人を罰すること、本人若しくは第三者を脅迫
し若しくは強要することその他これらに類することを目的として又は何らかの差別に基づく理
由によって、かつ、公務員その他の公的資格で行動する者により又はその扇動により若しくは
その同意若しくは黙認の下に行われるものをいう。『拷問』には、合法的な制裁の限りで苦痛が
生ずること又は合法的な制裁に固有の若しくは付随する苦痛を与えることを含まない。」と規
定している。
三 前提事実
本件の前提となる事実は、次のとおりである。なお、証拠及び弁論の全趣旨により容易に認め
ることのできる事実は、その旨付記しており、それ以外の事実は、当事者間に争いのない事実で
ある。
1 原告の国籍等について
原告は、昭和53年(1978年)《日付略》、ミャンマーにおいて出生したミャンマー国籍を有す
る外国人である。
2 原告の入国・在留状況について
 原告は、平成10年(1998年)10月12日、タイ王国からタイ国際航空で新東京国際空港に到
着し、東京入国管理局(以下「東京入管」という。)成田空港支局入国審査官に対し、外国人入
国記録の渡航目的の欄に「STUDY」、日本滞在予定期間の欄に「6 MONTH」と記載して上陸
申請をし、同入国審査官から出入国管理法別表第一に規定する在留資格「就学」及び在留期
間「6月」の許可を受けて、本邦に上陸した。
 原告は、東京都新宿区長に対し、平成10年10月20日、外国人登録申請をした。
 原告は、平成11年3月17日、在留期間の更新申請を行い、同月26日、在留期間6月の許可
を受けた。
 原告は、平成11年10月7日、在留期間の更新申請を行い、同月12日、在留期間6月の許可
を受けた。
 原告は、平成12年3月16日、在留資格の変更申請を行い、同月30日、出入国管理法別表第
一に規定する在留資格「留学」及び在留期間2年の許可を受けた。
 原告は、平成12年8月9日、出入国管理法26条1項前段に定める再入国許可を受け、同月
30日、同許可に基づき出国し、同年9月20日、本邦へ再入国した。
 原告は、平成14年3月27日、在留資格の変更申請を行い、同年4月3日、出入国管理法別
表第一に規定する「短期滞在」及び在留期間90日の許可を受けた。
 原告は、平成14年6月24日、在留期間の更新申請を行い、同年7月2日、在留期間90日の
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許可を受けた。
 原告は、平成14年9月24日、在留期間の更新申請を行い、同年10月8日、在留期間90日の
許可を受けた。
その後、原告は、在留期間の更新又は変更を受けないで最終の在留期限である同年12月25
日を経過して本邦に不法に残留することとなった。
3 原告の難民認定申請手続について
 原告は、被告法務大臣に対し、平成14年3月26日、難民の認定を申請した(以下、この申
請を「本件難民認定申請」という。)。
 東京入管難民調査官は、平成14年7月24日、同年8月14日、同月29日、同年9月9日の合
計4回、原告から事情を聴取するなどの調査をした。
 被告法務大臣は、平成14年11月11日付けで、本件難民認定申請について、「あなたの「人
種」、「宗教」、「国籍」、「政治的意見」を理由とした迫害を受けるおそれがあるという申立ては
証明されず、難民の地位に関する条約第1条A及び難民の地位に関する議定書第1条2に
規定する「人種」、「宗教」、「国籍」、「政治的意見」を理由として迫害を受けるおそれは認めら
れないので、同条約及び同議定書にいう難民とは認められません。」との理由を付して、難民
の認定をしない旨の処分(以下「本件難民不認定処分」という。)をし、同月19日、原告に通
知した。
 原告は、被告法務大臣に対し、平成14年11月22日、本件難民不認定処分についての異議の
申出をした。
 東京入管難民調査官は、平成15年1月30日、原告から事情を聴取するなどの調査をした。
 被告法務大臣は、平成15年3月18日付けで、前記の異議申出について、「貴殿の難民認
定申請につき再検討しても、難民の認定をしないとした原処分の判断に誤りは認められず、
他に、貴殿が難民条約上の難民に該当することを認定するに足りるいかなる資料も見出し得
なかった。」との理由を付して、異議の申出に理由がない旨の決定をし、同年4月14日、原告
に通知した。
4 原告の退去強制手続について
 東京入管入国警備官は、平成15年3月19日、東京入管審判部門から、原告に係る退去強制
容疑者通報を受け、違反調査を実施した結果、原告が出入国管理法24条4号ロ(不法残留)
に該当すると疑うに足る相当の理由があるとして、同年9月8日、被告主任審査官から収容
令書の発付を受け、同月11日、同令書を執行して、原告を東京入管収容場に収容し、同日、原
告を東京入管入国審査官に引渡した(弁論の全趣旨)。
 東京入管入国審査官は、平成15年9月11日、原告について違反審査をし、その結果、同日、
原告が出入国管理法24条4号ロ(不法残留)に該当する旨の認定を行い、原告に通知した。
原告は、同日、口頭審理を請求した。なお、被告主任審査官は、原告に対し、同日、仮放免を
許可した。(弁論の全趣旨)
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 東京入管特別審理官は、平成16年1月9日、原告について口頭審理を行い、その結果、同
日、東京入管入国審査官の認定に誤りのない旨判定し、原告に通知した。原告は、被告法務大
臣に対し、同日、異議の申出をした。(弁論の全趣旨)
 被告法務大臣は、平成16年1月27日、原告からの異議の申出について理由がない旨の裁決
(以下「本件裁決」という。)をした。本件裁決の通知を受けた被告主任審査官は、同年3月16
日、原告に本件裁決を通知するとともに、送還先をミャンマーとする退去強制令書を発付し
(以下、これによる処分を「本件退令発付処分」という。)、同日、原告を東京入管収容場に収
容した。(乙37、64、弁論の全趣旨)
 東京入管入国警備官は、平成16年10月8日、原告を入国者収容所東日本入国管理センター
へ移収した(乙37、64)。
 入国者収容所東日本入国管理センター所長は、平成17年1月21日、原告を仮放免した(乙
64、65)。
四 争点
1 本件難民不認定処分の適法性①
原告は、出入国管理法に規定する「難民」に該当するか、具体的には、本件難民不認定処分の
された平成14年11月11日当時、原告がイスラム教信者のロヒンギャ族であって、ミャンマー国
籍を有すること、並びに本国及び本邦において反政府政治活動をしていたことを理由として、
迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する者であるか。
2 本件難民不認定処分の適法性②
本件難民不認定処分に相当の理由付記がされたといえるか。
3 本件裁決の適法性
具体的には、本件裁決のされた平成16年1月27日当時、原告は、ミャンマーに送還されれば
迫害を受けるおそれがあったので、在留特別許可を付与されるべきであったのに、これを付与
せずにされた本件裁決は、被告法務大臣の有する裁量権を逸脱するなどしてされた違法なもの
であるということができるか。
4 本件退令処分の適法性
本件裁決が違法であるから、これを前提とする本件退令処分も違法であるか。
五 争点に関する当事者の主張の要旨
1 争点1(本件難民不認定処分の適法法①)について
 原告の主張
 ミャンマーの一般情勢について
ア ミャンマーにおいて、司法当局は軍によって統制されており、基本的な表現の自由、
結社と集会の自由が法律に基づいて制限されている。平和的な政治活動を行った者が、
非常事態法、国家保護法のような漠然とした法律によって逮捕されている。ミャンマー
政府は、国民に対し、暴虐的、組織的な人権侵害を継続している。 
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ミャンマーにおいて、政治的、市民的な権利への迫害が継続しており、それには超法
規的死刑執行、即決若しくは恣意的死刑執行、兵士による子どもへの虐待、特に少数民
族及び宗教的少数派への強制労働、強制移住、強制連行を含む抑圧等が含まれている。
ミャンマーにおいては、基本的人権が抑圧されている。
イ ミャンマーには、緊急事態法、非合法団体法、国家保護法、国家反逆法、印刷出版登録
法及びその改正法、1985年ビデオ法等、多くの政治囚を生み出すことを可能にする法律
が存在する。ミャンマーにおいては、反政府の立場にある者を様々な法律を使って極め
て簡単に処罰することが可能となっており、現に、これらの法律により多くの者が政治
囚として捕らえられている。
ウ 軍情報部員、刑務所の看守や警察官は、政治的理由による拘留者を尋問するときに、
また、暴動を牽制するための手段として、拷問や虐待を用いている。治安部隊は、情報を
引き出したり、政治囚や少数民族の人々を罰したり、軍事政権に批判的な人々に恐怖を
植え付ける手段として、拷問を用い続けている。
ア 以下のとおり、原告は、ロヒンギャ族であり、イスラム教徒である。
ア 原告は、ロヒンギャ族でなければ入会することができない在日ビルマロヒンギャ協
会(以下「BRAJ」という。)に加入し、会計監査の役職に就いた。BRAJのゾウ・ミン・
トは、原告がロヒンギャ族である旨述べている。BRAJは、ミャンマーにおける民主主
義の回復とロヒンギャ族の権利回復のために活動する団体である。
イ ミャンマー・ムスリム宗教学者(ウラマー)組織のシェイ・ラテフ・シャー及びラ
カイン州の国会議員ウー・チョウミンは、原告がイスラム教徒である旨述べている。
ウ 被告法務大臣は、原告が提出した戸籍表(乙28)によると、原告の父が「B」、原告
の母が「C」であること、家族全員がキリスト教及びバマー民族とされていること、経
費支弁書(乙26)によると、「D」が原告の兄とされていることから、原告がロヒンギ
ャ族であることは疑わしい旨主張する。
しかし、ミャンマー政府は、ロヒンギャ族の存在を認めていないため、ロヒンギャ
族であることを公に証明するものなど存在しない。その上、原告の父は拷問により死
亡し、原告自身も、平成8年(1996年)にデモ行進に参加し、ロヒンギャ族であるこ
とがミャンマー軍事政権当局に判明している状況であり、通常の手続で、旅券や来日
のための在留資格認定証明書を入手することは不可能であった。在留資格認定証明書
を申請したのは、E日本語学校であるが、これは、原告の母とブローカーが手配をし
たものであり、原告は一切関与していない。
また、旅券取得手続は、原告の母とブローカーが行ったので詳細は不明であるが、
ロヒンギャ族を名乗って旅券を作成することができないため、原告の母及びブローカ
ーは、懇意にしていた「B」や「C」に協力を求め、原告をその子としたと考えられる。
さらに、ブローカーを通じて関係官庁に相当の賄ろが支払われていた。
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当時、日本に在留資格を持ち滞在をしていた「D」が、兄として身元を保証し、経費
を支弁することができるという形にした方が円滑であった。
以上のとおり、原告がロヒンギャ族であるために、原告の母及びブローカーは、こ
のような工作をせざるを得なかったのである。
エ 被告法務大臣は、原告が収容されて約2か月経過した後に肉抜き食にすることを求
めた旨主張する。被告法務大臣は、イスラム教徒は、肉を食さないために、上記事実を
もって、原告は、イスラム教徒ではなく、原告の供述等は信用性がないという根拠と
していると思われる。
イスラム教徒は、一般に知られているように豚肉を禁忌しており、原告も豚肉は食
していないし、収容施設においても豚肉を食していない。その他の肉は食していたが、
これはイスラムの教義上も何も問題がない。ただし、収容施設においてイスラム教の
教義に厳格な者から、肉食のためには儀式等が必要であることを教えられ、それが十
分にすることができない収容施設において、肉をすべて抜くように申出をしたまでで
ある。
イア ミャンマー政府は、ロヒンギャ族について、歴史的にベンガルとアラカンを好き勝
手に移動してきたビルマ語を解さないイスラム教徒集団とみなし、闇貿易や犯罪、治
安かく乱に関与している反ミャンマー集団として非難し、ロヒンギャ族の存在を認め
ず、公式の居住権を認めていない。ロヒンギャ族は、ミャンマー政府から強制労働、強
制移住、土地と財産の没収、恣意的な徴税、恣意的逮捕、移動の自由の制限等の迫害を
受けている。原告も、掃除や木の伐採、運搬等を強制的にさせられたことがあった。
イ ミャンマー政府は、1989年から新しい身分証明書を発行しているが、ロヒンギャ族
に対しては何も行われていない。したがって、ロヒンギャ族は、身分証明書を必要と
する事柄、すなわち旅行用チケットを買う際や子どもを学校に入学させる際、自分の
州地域以外に住む友人宅に宿泊する際、すべての民間機関を含む職を求める際、土地
の購入、交換、そして他の日常的な行動の際のすべてにおいて法的に拒絶されている。
原告は、新しい身分証明書を作成する際、ロヒンギャ族として登録することができ
ず、民族の欄には「ベンガリー、カマン、パキスタン、ミャンマー」という架空の民族
で登録させられた。この身分証明書は、ミャンマーの役人から偽物と判断され、仕事
をするときや移動をするときには通用しない。
ウ ミャンマーにおいては、昭和57年(1982年)に新国籍法が制定され、国民を「国民」、
「準国民」及び「帰化国民」の3ランクに分類している。しかし、ロヒンギャ族は、これ
らのいずれにも分類されることなく、不法に滞在する外国人扱いされている。市民権
は、基本的な社会、教育、健康施設にアクセスするために不可欠であるが、ロヒンギャ
族の市民権がはく奪された状態が続いている。
エ 平成3年(1991年)12月から平成4年(1992年)3月にかけて、ミャンマーのアラ
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カン地方からバングラデシュ側へ25万人ないし30万人といわれるロヒンギャ難民が
流出した。この流出した要因として、①市民権の欠如、国籍の延長書換えの不認定、②
ミャンマー当局による移動の制限、③強制労働と軍のためのポーターの役務、④強制
的な食物の寄付や、ゆすりと恣意的課税、⑤土地の没収あるいは移住、⑥高い物価と
食糧(米)の欠乏が挙げられている。
オ ミャンマーでは、政治的不満や経済的不満が国内に充満した際に、仏教徒のイスラ
ム教徒に対する暴動がしばしば発生している。さらに、普段の生活においても、一般
に仏教徒であるミャンマー人のイスラム教徒に対する偏見と差別が根強く存在する。
上座仏教が優勢なミャンマーにおいては、政府や軍の高官も圧倒的に仏教徒が多く、
イスラム教徒への差別感情や偏見を抱くことが一般的である。このような仏教徒であ
るミャンマー人によるイスラム教徒への偏見や差別意識が、政府によるロヒンギャ族
に対する非難とふくそうして、ロヒンギャ族のミャンマーにおける安全な居住を妨げ
ている。ロヒンギャ族は、宗教を理由とする迫害にもさらされている。
ウ 原告の父は、後に軍事政権によって非合法化された「National Democratic Party for
Human Rights」(以下「NDPH」という。)の中央実行委員会の構成員となり、ロヒンギ
ャ族の権利高揚のための活動、選挙活動等を行ってきた。原告の父は、ロヒンギャ族を
抑圧していたミャンマー政府に反対していた。
原告の父は、政治活動、献身的な医療活動等、常にロヒンギャ族の側にたった活動を
してきたため、平成5年(1993年)2月15日、軍情報局の者に強制的に連行された。そ
の後、原告の父はインセイン刑務所に収容されていると伝えられたが、原告の母がイン
セイン刑務所に何回も足を運んでも、原告の父と一度も会うことができなかった。原告
の父は、苛酷な暴行を受けて、平成7年(1995年)3月10日に死亡した。原告の父は、ロ
ヒンギャ族を弾圧する軍事政権に反対し、拷問を受けて死亡したのである。
エ 以上によれば、原告がロヒンギャ族であることのみで、難民に該当するというべきで
ある。
ア 原告は、軍事政権が原告の父を殺害し、遺体を引き取ることもできず、葬式をするこ
ともできなかったこと、政府が教育を統制していたこと、アウン・サン・スーチーの軟
禁を解かないことに憤りを覚えたことなどから、平成8年(1996年)12月の民主化デモ
に参加した。
原告が参加した上記デモは、平穏かつ平和的なものであったが、その途中、待ちかま
えていた警官隊が四方を取り囲み、消防車から放水を開始し、デモ隊を崩した上で、学
生をこん棒で殴打し、約200名を連行した。
原告もこん棒で殴られ、足でけり飛ばされ、逮捕されて、警察車両に放り込まれた。原
告は、インセイン警察署に連行され、10日間、身柄を拘束された。その間、原告は、学生
運動を先導した者に関する情報を提供するよう強要され、顔や頭を殴打され続けた。
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原告は、二度と政治活動を行わないこと、学生のグループを作らないこと、夜に外出
しないこと、ヤンゴン州から許可なく出ないこと、政治活動を行った場合厳しく処罰さ
れることなどの内容を含む誓約書にサインをして、ようやく警察署から解放された。
イ その後も、原告は、デモ行進のたびに、地元の警察に呼び出され、尋問を受けたり、留
め置かれたりしており、警察からマークされていた。
ウ このように、原告は、二度と政治活動をせず、政治活動をしたら処罰を受ける旨の上
記誓約書を作成させられたのであり、その後に政治活動を行えば誓約書違反として処罰
を受けることは明らかである。原告は、来日以前から、警察に、個別的に氏名を特定され、
その人物像も把握されている。
ア 原告の母は、ミャンマー政府によって原告が今後も身柄拘束をされる危険性を考え、
国外に出ることを勧めた。来日の準備については、原告の母及びブローカーがすべてを
行い、原告は、当時どのようにしたのかは全く知らなかった。ロヒンギャ族であること
が判明している原告は、通常の正規の方法では旅券を入手することは不可能であり、ブ
ローカーは相当巧妙な方法で行ったものと考えられる。
イ 被告法務大臣は、原告がミャンマー政府から旅券の発給を受け、本国を出国したから、
原告の難民該当性が疑わしい旨主張する。
しかし、難民申請者が正規の旅券の発給を受けて合法的に出国したことは、難民該当
性と関連性を有しない事実であり、旅券の正規発給を受けることを出身国の保護を求め
ることと同視する考え方は誤りである。旅券は、現代社会においては、国籍国を出国し、
あるいは庇護を求めた国で生活を送るために必要な手段にすぎない。旅券の申請又は旅
券の延長申請と保護の付与との間に自動的なつながりはないから、申請者が旅券の申請
又は延長申請を行った理由が真に同人の利益を国籍国の保護にゆだねようというもので
ない限り、申請者の当該行為をもって国籍国の保護を求めたものと考えることはできな
い。
また、いかにミャンマー政府が厳格な手続を経て、旅券を発給等しているかを調べて
みても、全く無意味である。このような手続を経ずに旅券の発給を受けるために賄ろが
支払われているからである。
 原告は、平成11年(1999年)の春ころから、BRAJに接触し、反政府活動に参加した。も
っとも、原告は、ミャンマーで身柄を拘束された際にサインをした前記誓約書の違反によ
って、家族に不利益が及ぶことをおそれ、当初は、メンバーには入らず、ひそかに活動を支
援して、ミーティングに参加したり、通訳、翻訳などをしてきた。なお、BRAJは、少数民
族かつイスラム教徒の反政府団体であり、軍事政権から激しく敵視されている。
ア 原告は、平成12年(2000年)8月30日、原告の母の健康状態が悪化したために一時帰
国したが、ヤンゴン空港において、軍情報局に逮捕され、タムウェーの警察駐屯地に連
行されて、8日間、身柄を拘束された。
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軍情報局は、原告が日本の反政府政治団体と関係を持っているとの情報に基づき、反
政府活動の有無、日本の諸団体の活動、中心メンバーについて詳細に取り調べた。軍情
報局は、特にBRAJを中心として日本の反政府団体の幹部のメンバーの名前や集会・デ
モの写真等を示して、取調べを行った。
原告は、執ような尋問に対し、帰国した理由は原告の母の看病のためである、政治活
動については関心もなく、何も知らないなどと答えて、身柄を解放された。
イ しかし、軍情報部は、原告がミャンマーの民主化運動家と接触するのではないかと疑
っており、その後も、原告を尾行したりした。原告は、身の危険を感じて、再びミャンマ
ーを出国した。
ウ 軍当局は、原告の素性・政治活動歴も十分に理解した上で、原告に注目している。原
告が一度でも政治活動を行えば、身柄拘束を受け、弾圧される可能性が高い。
ア 原告が日本に再入国した後の平成12年(2000年)10月1日、軍当局が、原告の母の自
宅を訪れ、原告に関する質問を行った。
イ 原告は、民族の一員としてロヒンギャ族のための活動をしたいと考えたこと、メンバ
ーにならないと組織の詳細を知ることができないこと、原告が一時帰国をしたときの政
府の対応に我慢をすることができないと思ったことから、平成12年11月21日、BRAJに
正式に入会した。
原告は、ミャンマーに帰国した際に取調べを受けた経験に基づき、日本での活動家は、
デモや集会の写真で察知されていたので、デモや集会等により外部に対して露出するこ
とが少なければ大丈夫であろうと考えた。そこで、原告は、ミーティングや他団体との
折衝、内部の書類作成等には参加したものの、デモや集会に参加したり、ビラを配布し
たりするなどの大使館に知られるような活動はしなかった。
ウ 原告は、原告の母に電話をしたところ、軍情報部が、原告の母の自宅に何度も来てお
り、部屋の中を捜索して、書類、写真等を押収し、原告の母に対し、原告が本当に勉強し
ているのか、どんな仕事をしているのか、政治活動をしているかなどと細かく尋ねてい
ること、原告の母も警察に出頭し、尋問を受けていることが判明した。また、原告は、原
告の母に対し、BRAJに加入していることを伝えていなかったにもかかわらず、原告の
母は、軍情報部を通じて、原告がBRAJのメンバーになっていることを知っていた。
原告の母は、原告の身を案じて、絶対に帰国してはいけない旨伝えた。原告は、帰国し
た場合、父のようになると考え、恐怖で一杯になり、難民申請を決意するに至った。原告
は、帰国すれば、軍当局に逮捕され、殺されるか、長期の身柄拘束をされるという現実的
危険性に直面することになった。
エ 原告は、本件難民認定申請後、ミャンマーの知人に電話をしたところ、原告の母の自
宅の門には政府所有と記載された紙が貼ってあり、自宅が没収されているらしいこと、
原告の母の自宅には、頻繁に警察が来ていることが判明した。
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オ 原告は、難民申請を行うことを決意してから、BRAJの活動をより熱心に行うことに
した。原告は、自身の身の危険はあるにしても、ロヒンギャ族を虐げ、民主化運動を押さ
え込む現在の軍事政権を許すことができないと考えていたからである。以後、原告は、
BRAJのミーティング、大使館前の集会、法務省や国連前のデモ、その他のデモ行進に全
部参加し、BRAJの会計監査の役員にも就任した。なお、原告がBRAJの会計監査の役員
に就いていることは、外部に公表されており、インターネットにも掲載されていた。
カ 原告は、平成14年11月ころ、在日ビルマ市民労働組合(以下「FWUBC」という。)に
加入した。FWUBCは、日本に居住するビルマ人の労働問題、未払賃金、差別等の問題の
解決をするとともに、アウン・サン・スーチーを支持し、ミャンマー軍事政権に反対す
る団体である。原告は、平成14年度には労使紛争担当、平成15年度には、総書記に就任
している。原告は、書記職として、他団体との折衝、申入れ、「Japanese Association of
Metal, Machinery and Manufacturing workers」(以下「JAM」という。)の事務所での
個別の労働問題での打合せ等をしている。また、FWUBCの役員として、ミャンマー大
使館の門の前で、自分自身がハンドマイクをもって発言したり、歌ったりし、政権の交
代などを訴えている。その際、大使館から写真を撮られた。
キ 原告が行った国会や国会議員への要請活動等に関する写真が雑誌に掲載されたりし
て、広く出回っている。
ク 原告は、ミャンマー政府に把握され、危機にさらされている。原告が入国管理局に収
容されている際、難民認定申請をしながら、ミャンマーに帰国する予定であった同室の
ミャンマー人が、在日ミャンマー大使館に対し、難民申請をしているミャンマー人とし
て原告の名を話した。
ケ 原告は、原告の母に電話をしたところ、原告の母の自宅が政府に接収されていること
などが判明した。
 以上のとおり、原告は、人種、国籍、宗教、政治的意見を理由に拘束されるおそれがあり、
場合によっては拷問を受け、命を落とす可能性があり、迫害を受けるおそれがあるという
十分な理由がある恐怖を有しているというべきである。
 被告法務大臣の主張
 以下のとおり、原告がイスラム教徒でありロヒンギャ族に属するとは到底認め難い。
ア 原告は、イスラム教徒の戒律を守って生きてきた旨供述しながら、本邦においては、
焼肉店で就労し、同店で雑用ばかりを命じられて嫌になったため、別の韓国焼肉店に転
じて、直接自らの手で食肉を扱う調理見習いを務めている。それのみならず、東京入管
に収容されてからも、約2か月を経過した後、突如として、イスラム教の先生に教えて
もらったと称し、食肉に関して配慮を申し出た。
イ 原告は、イスラム暦による自身の生年月日も本を見ないと分からない旨供述する。し
かし、原告がイスラム教徒であるのならば、日常生活ではイスラム暦を使用していない
- 12 -
としても、自らの生年月日すらイスラム暦で答えることができないというのは不自然で
ある。
ウ 戸籍表(乙28)によれば、原告の父の名は「B」、原告の母の名は「C」であり、3人の
姉のほか、「D」という兄がいるとされ、宗教及び民族は、原告を含め家族全員がキリス
ト教及びバマー民族とされている。その内容は、父「B’」、母「C’」との間の3人兄弟の
長男として出生したもので、「F」と「G」の2人の姉がいるという原告の供述内容とは
全く異なる。
したがって、原告がイスラム教徒であり、ロヒンギャ族であるとの主張や、原告の父
の名がB’ であって、平成7年(1995年)に刑務所で拷問を受けて死亡したとの主張自
体が相当疑わしい。
エ ロヒンギャ族とは、ミャンマーのラカイン州に居住するイスラム教徒であるから、イ
スラム教徒であるとは認め難い原告は、ロヒンギャ族であるとも到底認め難い。
オ 原告は、一般に色黒と言われるロヒンギャ族の風貌と、色白である自らの風貌とが異
なることを自認している。
カ ロヒンギャ族は、ラカイン州だけでも140万人存在するともいわれているところ、原
告は、ミャンマー国内のロヒンギャ族の数について、40万人ないし50万人と供述した
り、2万人と供述したりしている。
ロヒンギャ族の実態については未知の点が多いとしても、原告の上記供述には何らの
根拠がなく、誤りというべきである。
このように、ミャンマー国内のロヒンギャ族の数について誤った供述をしていること
に加え、けた違いの全く異なる数を述べていることからすれば、原告はロヒンギャ族の
実態について無知であるのみならず、あたかもそれらを知っているかのごとく装おうと
していることが明らかである。
キ なお、ロヒンギャ族が、ミャンマーのラカイン州北部から国境を接する隣国バングラ
デシュに難民であるとして流出する事件が何度かあった旨報道がされているが、平成4
年(1992年)4月、ミャンマー政府とバングラデシュ政府との間で、二国間協定が調印
されたことなどにより、バングラデシュに流出した者はミャンマーに帰還し始め、現在
までに約9割の者が帰還している。また、帰還民が迫害ないし差別を受けたという事情
はない。過去に大量流出を招いた原因はほぼ解決されている。ロヒンギャ族に属するこ
とのみで迫害を受けると推認することはできない。
 原告は、原告の父が逮捕されたのは、平成5年(1993年)2月15日である旨主張する。
ところが、原告は、難民調査官の調査に際しては、原告の父の逮捕日は平成5年(1993年)
2月10日である旨供述している。
原告によれば、原告の父は、原告の目の前で連行され、その後、原告の父とは面会してい
ないというのであるから、原告の父が連行された日は、原告にとって父の姿を見た最後の
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日のはずである。原告の主張が真実であるならば、その日を言い間違えることは不自然で
ある。しかも、原告は、原告の父が連行された日が平成5年(1993年)2月10日で正しい
かという旨の原告代理人の質問に対し、いったんは「はい。」と回答しながら、陳述書との
そごを指摘されてようやく訂正したのである。
このように、原告は、原告の父が連行された日のことは鮮明に記憶にある旨供述するに
もかかわらず、真実であれば、通常言い間違えるとは思われないことについて、難民調査
官の調査に際して言い間違えた旨供述し、本人尋問においても指摘されるまで気付かなか
ったというのであるから、この点に関する原告の供述にも信ぴょう性があるとはいい難
い。
 原告は、平成8年(1996年)12月、学生デモに参加したことにより逮捕されたことがあ
る旨供述する。
しかし、原告は、上記デモにおける逮捕者について、80人から90人くらいと供述したり、
100人くらいと供述している一方で、陳述書においては、200人くらいと陳述している。
また、原告は、上記デモの目的や参加した理由について、当初、アウン・サン・スーチー
の解放や学生連盟を作るためなどと供述していなかったにもかかわらず、その後、デモの
目的には、アウン・サン・スーチーの解放も含まれていた旨供述を変遷させた。さらに、
原告本人尋問においては、学生連盟を作ることもデモの目的にはあったという趣旨に変遷
した。
以上によれば、原告が平成8年(1996年)12月に行われたというデモに参加したとする
供述自体、甚だ疑わしいというべきである。
 原告は、平成8年(1996年)12月、学生デモに参加したことにより逮捕されたことを契
機に、原告が今後も身柄拘束をされる危険性を考えた原告の母の勧めで、日本語を学ぶこ
とを考え、出国した旨主張する。
一方、難民認定申請書添付の陳述書(乙7)では、命の危険すら感じて心配になったため
ミャンマーを命がけで出た旨供述している。
しかし、原告は、難民調査官の調査の段階では、上記供述とは異なり、留学目的で出国し
た旨供述し、身柄拘束の危険などについては言及していない。
また、原告は、平成10年(1998年)9月17日、本人自ら旅券事務所に出頭するなどし
て旅券を取得し、同年10月11日に特に問題なく出国証印を受けて本国を出国しているば
かりか、平成12年(2000年)8月30日に一時帰国するに当たって、あらかじめ在日ミャン
マー大使館に赴き、日本に学生として在留している事実及び一時帰国の目的を明らかにす
る証明書の発行を受けている。その上、本邦入国後も長期間庇護を求めることも難民認定
申請をすることもなかったという経緯に照らしても、原告が本国で身柄拘束の危険に直面
していたとは到底認め難い。そもそも、原告は、5ないし6年勉強して帰国しようと考え
ていたと来日の動機を供述しており、来日して以来、本件難民認定申請に至るまで、庇護
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を求めることも、難民認定申請をすることもなかったのであるから、原告がミャンマー政
府からの迫害をおそれて来日したものでないことは明らかである。
したがって、原告の母が身柄拘束の危険から原告に出国を勧めたという上記主張は理由
がない。 
 ア 原告は、ヤンゴンにおいて正規に旅券を取得している。
旅券とは、外国への渡航を希望する自国民に対して当該国政府が発給する文書であ
り、その所持人の国籍及び身分を公証するとともに、渡航先の外国官憲にその所持人に
対する保護と旅行の便宜供与を依頼し、その者の引取りを保証する文書である。したが
って、正規の旅券の発給を受けた原告は、本国政府に自発的に保護を求め、かつこれを
享受したことにほかならないのであって、このように自ら正規旅券の発給を求めるとい
う原告の態度は、それまで反政府活動に従事していたとする原告の供述内容と矛盾して
いる。
イ ミャンマーにおいては厳格な旅券発給等の審査が実施されており、反政府活動に関与
した程度によって旅券発給の許否等が決定されていると考えられる。したがって、正規
旅券の発給等が認められた者は、少なくともその時点において反政府活動に深く関わっ
ているとミャンマー政府が考えていない者であったことが、強く推認される。
ア 原告は、旅券の発給を受け、在ミャンマー日本国大使館で査証を取得し、ヤンゴンに
おいて正規に出国手続を受けてミャンマーを出国しているほか、平成12年(2000年)9
月19日にも、正規に出国手続を受けてミャンマーを出国している。
このように、原告が陸づたいに国外逃亡するという選択肢をとらず、あえて危険な出
国手続を求めているという態度に照らせば、それまで反政府活動に従事していたという
原告の供述が極めて疑わしいことはもちろん、客観的に見ても、ミャンマー政府が原告
に対して正規の出国許可を付与していることに照らせば、少なくとも当該手続の時点に
おいて、原告は、反政府活動に深く関わっているとミャンマー政府が考えていない者で
あったことが、強く推認される。
イ ミャンマーにおいては厳格な出国審査が実施されており、反政府活動に関与した程度
によって出国の許否等が決定されていると考えられる。したがって、正規に出国が認め
られた者は、少なくともその時点において反政府活動に深く関わっているとミャンマー
政府が考えていない者であったことが、強く推認される。
 原告は、来日後、BRAJに接触し、反政府活動に参加するようになったことから、一時帰
国した際にヤンゴン空港で軍当局から身柄を拘束され、タムウェーの警察駐屯地に連れて
行かれ、8日間身柄拘束されて取調べや拷問を受けた旨供述する。
しかし、BRAJなる組織の目的や実態は不明であり、同組織に関わり、反政府活動に参
加したこと自体疑わしいばかりか、これがミャンマー政府の関係者に知れるところとなっ
て、一時帰国した際に空港で軍に拘束された旨の主張に至っては、およそ荒唐無けいとい
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うほかない。原告は、平成12年8月30日に実母の看病のため一時帰国し、同年9月20日に
何の支障もなく本国を出国して、予定どおり本邦に再入国しているのである。したがって、
その間に本邦での反政府活動を疑われて軍当局によって拘束を受けたとは到底信じ難い。
また、原告は、ロヒンギャ族であると旅券の発給を受けられないため賄ろを渡して旅券
の発給を受けた旨供述している。しかし、仮に、原告が一時帰国した際、空港で身柄を拘
束され、尋問や拷問を受けたというのであれば、軍当局者にとって、原告が賄ろによって
旅券の発給を受けていたこと自体をもって、原告を逮捕することは容易であったはずであ
る。ところが、原告は一時帰国時に旅券の発給を受けたことを理由に逮捕されてはいない
のであるから、原告の供述は相互に矛盾している。
また、原告は、一時帰国した際、証明書(甲30、31)を持ち歩いていたと思われる。しか
し、原告は、尋問や拷問を受け、8日間身柄を拘束されていたというにもかかわらず、上記
証明書は軍当局者によって発見されず、持ち物については何らとがめられることなく釈放
されたというのは、全く不可解というほかない。
さらに、原告は、本国に一時帰国中、4人から監視されていたとしながらも、問題なく出
国することができたのであり、本邦に再入国後も、直ちに難民認定申請をしないばかりか、
拘束を受け取調べを受けた原因となったというBRAJに、正式メンバーとして加入したと
いうのである。これらは、相矛盾するというほかない。
以上によれば、原告が一時帰国した際、反政府活動を疑われて身柄を拘束されて拷問を
受け、監視された旨の供述は、一時帰国中に逮捕や持ち物の没収もされず、無事に出国す
ることができたという事実及び本邦再入国後の原告の行動に照らして、全く信ぴょう性が
認められないというべきである。
ア 原告は、本国への一時帰国後、本邦に再入国した約2か月後の平成12年11月21日に
BRAJのメンバーとなった際、入会すればミャンマーに帰国することができなくなると
思った旨供述しながら、在留期限が切れる平成14年3月には帰国しようと思っていた旨
供述し、その矛盾を指摘されるや、入会当初は大使館前でのデモ等、目立った活動をし
なければ帰国をしても大丈夫だと思っていたと、場当たり的に供述を変遷させている。
結局のところ、原告の行動からすれば、一時帰国の際に身柄を拘束されたなどの供述も
信用し難い上、BRAJに加入することについても何らの危険を感じていなかったことは
明らかである。
イ 原告は、本国の実母に電話した際、軍情報部が実家を捜索して原告について取調べを
するなどしており、帰国すれば、虐待されて殺されるか、無期懲役になる可能性がある
ので、帰国するなと言われた旨供述する。そして、原告の母及び原告の友人が、原告に帰
国をしないよう呼びかけた手紙(甲26の1及び2、27の1及び2)を提出する。
しかし、原告は一時帰国の際に身柄拘束などの危険を体験した旨主張しながら、帰国
するや、すぐにBRAJに正式メンバーとして加入し、さらに母親から帰国するなと言わ
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れたとする直後に、本格的にデモ行進等の活動に参加するようになったのである。この
ように、原告の供述に従う限り、原告は自らの迫害のおそれを感じる機会ごとに、殊更
に迫害のおそれを強めるような行動をとっていることになり、極めて不可解である。む
しろ、原告が自らの難民該当性を基礎付ける事実として供述する内容は、ことごとく信
ぴょう性を認め難いものであることを総合すると、原告は、留学目的で来日したが、平
成14年3月30日の在留期限が迫り、本邦に在留し続ける策として、原告の母の電話や手
紙等を証拠として難民認定を申請することを思い立ったものと考えるのが、はるかに自
然で合理的である。
また、手紙(甲26の1及び2、27の1及び2)についていえば、別人から差し出され
たという手紙であるにもかかわらず、封筒の表書きを比較すると、極めて類似した特徴
のある筆跡で記載されている。この点を措くとしても、仮に原告の活動を理由に、原告
の実家を軍当局が捜索し、家族に尋問をするような状況にあれば、原告あてにその身の
危険を警告する内容を含むような手紙が、何らのチェックも経ずに発送されることも不
自然といわざるを得ない。
以上からすれば、原告が母から電話で帰国するなと言われた旨の供述や、母や友人か
ら届いたと称する手紙は、到底信用することができない。したがって、平成13年2月に
本国の実母から、軍が自宅に来て原告のことを調べていると電話で聞かされた旨の主張
もこれを信用することはできない。
なお、大使館への抗議行動、民主化組織への所属等、本邦における民主化運動の事実
をもって、直ちに迫害のおそれがあるともいい難いことは明らかである。
 原告は在留資格「就学」で入国し、その後「留学」へ資格変更したが、結局、大学を中退
し、その後、「短期滞在」へ資格変更し、最終的な在留期限である平成14年12月25日を超え
て不法残留したものである。そして、その間、東京都内所在の飲食店等において、月曜から
金曜日の週5日、月額約14万円の収入を得て稼動していたものであり、本国から真に迫害
を受けるおそれがある者の行動と考えられるような迫真性はおよそない。また、原告が本
件難民認定申請をしたのは、原告が最初に日本に入国してから約3年5か月後、再入国を
してからでも約1年6か月経ってからのことであり、原告が、在日ミャンマー大使館前の
デモに初めて参加したというのも、在留期間終了間際の平成14年3月12日であり、本件難
民認定申請のわずか2週間前である。これらにかんがみても、本件難民認定申請は、安定
した在留資格を得、本邦における不法就労を行うことが目的であり、難民として保護を受
けることが目的ではないものというほかない。真に迫害の危険をおそれて予定より早めに
来日したのであれば、日本に再入国した後、速やかに難民認定申請をしているはずであり、
原告のかかる行動は難民としての行動とは相容れないものである。
2 争点2(本件難民不認定処分の適法性②)について

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