退去強制令書執行停止申立て事件
平成14年(行ク)第8号
申立人:A、相手方:広島入国管理局主任審査官
広島地方裁判所民事第3部(裁判官:能勢顯男・田中一隆・財津陽子)
平成17年3月29日
決定
主 文
1 相手方が平成14年6月14日に申立人に対して発付した退去強制令書に基づく執行は、本案事
件(当庁平成14年(行ウ)第11号難民認定をしない処分等取消請求事件)の判決が確定する日まで、
これを停止する。
2 申立費用は相手方の負担とする。
事実及び理由
第1 申立て
主文第1項と同旨。
第2 事案の概要
申立人は、アフガニスタン国籍を有し本邦に不法入国したところ、①法務大臣により難民の認
定をしない旨の処分、②法務大臣により出入国管理及び難民認定法(以下「入管法」という。)49
条1項に基づく申立人の異議申出には理由がない旨の裁決、③相手方により退去強制令書の発付
処分を受けたが、これらの処分はいずれも違法であるとして、本案訴訟において上記各処分の取
消しを求め、本件執行停止を求めるに至った。
1 前提事実(記録による。)
 申立人は、昭和47年(1972年)《日付略》、アフガニスタン国内で出生したアフガニスタン国
籍を有する外国人である。
 申立人は、平成7年7月から平成12年6月まで、合計9回、いずれも短期滞在の在留資格(在
留期間90日)で日本に入国し、自動車中古部品の買付・輸出等の業務を行った。
 申立人は、山口県《住所略》所在の有限会社a(以下「a」という。)に雇用されることとなり、
平成12年12月1日、広島入国管理局(以下「広島入管」という。)岩国港出張所に、入管法7条
の2に基づく滞在期間を3年とする申立人の在留資格認定証明書の交付申請を行った。
 申立人は、平成13年4月14日、アラブ首長国連邦(以下「UAE」という。)の在ドバイ日本総
領事に対し短期査証発給申請を行った。
 申立人は、同年6月10日、韓国の釜山から航空機で福岡空港に到着し、福岡入国管理局(以
下「福岡入管」という。)の入国審査官に対し、前もって入手していたオランダ国籍のA’ 名義の
偽造旅券を提示し、在留期間90日、短期滞在の在留資格による上陸許可を不法に得て本邦に上
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陸した。
申立人は、同年6月下旬ころ、前記在留資格証明書の不交付通知(平成13年6月19日付け)
があったことを知り、必要書類を追加した上、同年8月6日付けで、広島入管に対し、入管法7
条の2に基づく滞在期間を3年とする申立人の在留資格認定証明書の交付申請を行った。
 申立人は、同年9月6日、福岡入管を訪れて難民認定申請の意向を告げ、その際、自己の名を
A”、入国時期を同年8月22日、入国経路を船舶で横浜港と思われる港に到着したと、それぞれ
虚偽の事実を申告した。申立人は、同月12日、福岡入管に対してA” 名義で難民認定申請を行
い、同人に対するタリバン発付の拘束令状の写しを提出した。
 申立人は、同年11月7日、大阪入国管理局(以下「大阪入管」という。)に対し、本名であるA
での難民認定申請を行い、同年12月12日、福岡入管に対する難民認定申請を取り下げた。
 法務大臣は、平成14年2月27日、申立人の大阪入管に対する難民認定申請につき、難民認定
をしない処分(以下「本件不認定処分」という。)をし、同年3月6日、申立人にその旨通知した。
申立人は、同月8日、本件不認定処分に対する異議を申し出た。
 法務大臣は、同年6月13日、申立人の上記異議に理由がない旨の裁決をし、同月18日、申立
人にその旨通知した。
 広島入国管理局(以下「広島入管」という。)入国審査官は、同年5月17日、申立人の違反審
査を実施し、入管法24条1号に該当すると認定して、申立人にその旨通知した。
申立人からの口頭審理請求を受け、広島入管特別審理官は、同月23日、口頭審理を実施し、
上記認定に誤りがないとの判定をし、申立人にその旨通知した。
 申立人は、同日、上記判定について、法務大臣に対し異議の申出をした。
これを受けた法務大臣は、同年6月14日、申立人の異議申出には理由がない旨の裁決(以下
「本件裁決」という。)をし、相手方に通知し、同日、相手方は、申立人に対し、本件裁決のあっ
たことを通知した。
 相手方は、同日、申立人に対する退去強制令書(以下「本件退令」という。)を発付し、申立人
を収容した。
 申立人は、同年10月29日、仮放免の許可を受けた。
 一方、申立人は、同年2月28日、入管法違反容疑で逮捕勾留され、同年3月20日、同法違反
により広島地方裁判所に起訴され、第一審で刑の免除判決を受けたが、控訴審で罰金刑の判決
を受け、この判決は確定した。
2 当事者の主張
申立人の申立ての理由は、別紙「執行停止申立書」記載のとおりであり、相手方の意見は、別紙
「意見書」記載のとおりである。
第3 当裁判所の判断
1 回復困難な損害について
申立人は、本件退令に基づく収容及び送還により身体的拘束及び本国への強制的送還を受ける
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ことを余儀なくされるところ、強制送還が回復困難な損害に当たることは明らかであり、収容に
よる身体的拘束が人権に対する重大な侵害であり、申立人に多大な精神的肉体的苦痛をもたらす
ものであることを考慮すると、この収容による損害もまた金銭によって償うことは社会通念上容
易ではないというべきであり、この点は相手方がどのように収容施設の充実を図ったとしても変
わるものではないから、上記収容もまた回復困難な損害に当たるというべきである。とすると、
本件退令に基づく収容及び送還の執行停止申立てについては、行政事件訴訟法(以下「行訴法」と
いう。)25条2項にいう「回復の困難な損害を避けるため緊急の必要性」があるといえる。なお、
平成17年4月1日施行の改正行訴法によって上記要件は緩和され、かつ、同規定は遡及的に適用
される。
2 本案について理由がないとみえるかどうかについて
 記録によれば、次の事実が認められる。
(アフガニスタンの国内情勢の概要)
ア アフガニスタンは、パシュトゥン人(ペルシャ系。人口の約38パーセントを占める。イス
ラム教の宗派はスンニ派。)、タジク人(ペルシャ系。人口の約25パーセントを占める。大半
がスンニ派)、ハザラ人(モンゴル系。人口の約19パーセントを占める。シーア派。)、ウズベ
ク人(モンゴル系とトルコ系の混血民族。人口の約6パーセントを占める。スンニ派。)を始
めとする諸民族が混在する多民族国家である。国民の98パーセントがイスラム教徒で、ハザ
ラ人を中心とする15パーセントがシーア派、84パーセントがスンニ派であるとされる。
イ アフガニスタンは、1919年に英国から王国として独立し、1973年に共和制に移行し、昭和
53年(1978年)には共産主義のアフガニスタン人民民主党(PDPA)政権が誕生した。
昭和54年(1979年)12月、旧ソ連軍の軍事介入のもと親ソ派のカルマルにより社会主義政
権が誕生し、昭和61年(1986年)5月にはナジブラが書記長に就任して政権を引き継いだが、
イスラム教徒民兵組織であるムジャヒディン各派が、それぞれ周辺各国から支援を受けてゲ
リラ戦を展開し、平成元年(1989年)2月、ソ連軍はジュネーブ合意に基づきアフガニスタ
ンから完全撤退し、平成4年(1992年)4月、ムジャヒディン各派の軍事攻勢によりナジブ
ラ政権が崩壊した。平成5年(1993年)1月、イスラム協会の指導者ラバニが大統領に就任
したが、各派間の主導権争いが激化し、全土が内戦状態に巻き込まれることになった。
ムジャヒディンの主な勢力として、タジク人中心のイスラム協会(ジャミアテイ・イスラ
ミ。ラバニ派)、パシュトゥン人中心のイスラム党(ヘズベ・イスラミ。ヘクマチャル派)、ア
フガニスタン解放イスラム同盟(イッティハディ・イスラミ。サヤフ派)、ハザラ人中心のイ
スラム統一党(ヘズベ・ワフダット。マザリ派とアクバリ派がある。)、ウズベク人中心のイ
スラム国民運動(ドストム派)があった。
ウ イスラム教スンニ派のパシュトゥン人を中心とするイスラム教原理主義組織タリバン(指
導者オマル)は、平成6年(1994年)ころから台頭し、平成8年(1996年)9月末、ラバニ派
を中心とする政権が支配していた首都カブールを制圧し、暫定政権の樹立を宣言した。
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これに対し、ラバニ派、ドストム派等の各ムジャヒディン勢力は、北部マザリシャリフを
中心に反タリバン同盟である全国アフガニスタン救済イスラム統一戦線(通称北部同盟)を
結成し抵抗を続け、イスラム統一党も、この北部同盟に加入した。タリバンは、政権樹立の宣
言以来、国際社会に対し、アフガニスタンの正統な政権としての承認を求めていたものの、
タリバン政権を承認したのは、パキスタン、サウジアラビア、UAEの3国のみであった。
エ 平成13年(2001年)9月11日、米国でいわゆる同時多発テロが発生した。米国は、タリバ
ン政権がその首謀者であるオサマ・ビンラディンを匿っているとして、これを強く非難し、
その引渡しを求めた。これを機に、UAEは、同月22日、タリバン政権との外交関係を断絶し
た。
米国及び英国は、同年10月7日、タリバンへの軍事攻撃を開始し、北部同盟も米国らの支
援を受けてタリバンの支配地域へ進攻し、同年11月13日、タリバン政権は首都カブールを放
棄して事実上崩壊した。
同じころ、ドイツのボンにおいて、アフガニスタン各派代表者会議が開催された。これに
参加した各派は、同年12月5日、カルザイを議長とするアフガニスタン暫定行政機構(以下
「暫定機構」という。)を発足させること、緊急国民大会議(ロヤジルガ)による移行政権の誕
生まで暫定機構が国政を担当すること、暫定政権における30名の閣僚の内訳等について、合
意した(ボン合意)。
暫定機構は、同年12月22日、正式発足した。暫定政権の閣僚の内訳は、パシュトゥーン人
11名、タジク人8名(内相カヌニ、外相アブドラ、国防相ファヒム等、なおファヒムはラバニ
派の軍人マスードの配下にあった者である。)、ハザラ人2名(副議長兼女性問題担当相にシ
マサマル、計画相にイスラム統一党員であるムハマンド・モハケック)、シーア派セイド(預
言者ムハンマドの子孫とされるアラブ系民族。)3名(商業相カゼミ、農相アンワリ等)、ウズ
ベク人3名、その他の民族3名であった。国際社会は暫定機構をアフガニスタン政府として
承認し、日本政府もこれに続いた。平成14年(2002年)2月19日、カブールの在アフガニス
タン日本大使館が再開され、同年5月1日には川口外務大臣がアフガニスタンを訪問した。
オ 同年6月、カブールで緊急国民大会議(ロヤジルガ)が開催された。これを構成する代議員
は1656名で、そのうち、ハザラ人は12.5パーセントを占めた。これにより、カルザイを大統
領とするアフガニスタン移行政権が発足した。
同政権の閣僚は、計31名であり、うちハザラ人は、副大統領のカリム・ハリリ(95年にマ
ザリが死亡した後にイスラム統一党党首に就任した。)、計画相モハマド・モハケックの2名
であった。その他の閣僚は、パシュトゥーン人13名、タジク人9名(副大統領兼国防相ファ
ヒム、外相アブドラ等)、シーア派セイド3名(商業相カゼミ、農相アンワリ、運輸相ジャベ
ド)、ウズベク人3名、トルクメン人1名であった。その後、ハザラ人のハビバ・サラビが女
性問題担当相に就任し、ハザラ人閣僚は3名となった。
カ 本件不認定処分及び本件裁決当時(平成14年2月27日から同年6月14日)のアフガン国内
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の政治、治安、人権の状況
ア 政治情勢
暫定機構及び移行政権は、貿易関連税、ビザ発行手数料等の徴税能力を保持し、カブー
ル及びアフガン北東部については、軍事的にも政治的にも制圧、統治しているものの、そ
の余の地域については、これを統治するまでにはなく、同地域のほとんどは軍閥の支配下
にある。司法制度や国家警察の整備も行われておらず、公務員への給与の支払も困難な状
態にある。
暫定機構及び移行政権においては、パンジールグループと呼ばれるタジク人少数派が外
務(アブドラ)、国防(ファヒム)等の重要ポストを独占し、軍、警察、諜報部の実質的な支
配権を握っており、これに対して他の民族が不満を抱いていることから、民族同士の権力
闘争が再燃することを懸念する意見や報道もなされている。
その一方で、アフガニスタン南東部には、タリバン勢力及びアルカイダに所属する部隊
が残存し、政権奪取を狙って、テロを行ったり、政権の軍隊や米軍を中心とする治安部隊
との間に戦闘を行ったりしていると報道されている。
イ 治安
2003年のアムネスティ・インターナショナルの報告によれば、アフガニスタンにおい
ては、警察が十分に機能していない。カブールの治安は、国連治安支援部隊(ISAF)と米軍
により保たれているが、一部地域では犯罪や政治的意図に基づくと思われる暴力が発生し
ている。地方の治安は不十分であり、全土にわたって民族同士の対立や衝突が報告されて
いる。また、軍閥同士の戦闘も起こっている。地方の治安は、その土地を支配する軍閥によ
って保たれているが不安定であり、各地で強盗や暴行、勢力同士の衝突が絶えないとの報
告がある。
外務省は、本件各処分時におけるアフガニスタンの危険情報について、カブール市内は
危険度4「渡航延期勧告」を、その他の地域については警察等による治安推持能力が極め
て低く、各地で異なるグループ間の武力衝突や地方自治を巡る混乱も発生しており、不安
定な状況が続いているとして、危険度の最高レベルである危険度5「退避勧告」を発出し
ている。
ウ 人権
地方においては、武装集団による攻撃からの政府等の公的な保護を受けることは困難で
あり、ある者が攻撃のリスクにさらされるかどうかは地理的出身地、政治的な所属及び民
族的背景の3要素によって決まる。例えば、北部地域のパシュトゥン人は最も攻撃されや
すく、タリバン政権が崩壊した平成13年(2001年)11月以降、他の民族(パンジール地方
のタジク人が中心であるが、ハザラ人、ウズベク人もタリバン支配に対する反動から攻撃
に加わっている。)による攻撃を受け、難民も発生している。他方、ヘラートのダリ語を話
す(パシュトゥン人)グループは最も攻撃されにくいグループであるとの報告がある。
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カブールにおけるハザラ人については、民族的迫害はなく自由な移動が可能であり、ハ
ザラ人(申立人によるとシーア派セイドのアンワリ)が大臣を務める農業省には多くのハ
ザラ人が雇用されているとの報告がある。
(アフガニスタンにおけるハザラ人の状況)
ア ハザラ人は、ハザラジャットと呼ばれるアフガニスタンの中央部に古くから居住し、自治
を確立していたが、1893年、パシュトゥン人の王であるアブドゥル・レーマンによって制圧
された後は、民族的及び宗教的理由から差別や迫害を受け、奴隷として扱われるなど社会的・
経済的に低い地位に置かれることとなった。1979年、社会主義政権の誕生によって、ハザラ
人は他の民族と平等に扱われるようになり、政府閣僚を輩出するなど一定の社会進出を果た
したが、進学率や公務員への就職等では他の民族に比べて劣位に置かれていた。また、この
ころ、多くのハザラ人がカブールに移住し、特に西カブールはハザラ人の居住地域として国
内最大のものとなった。
イ イスラム統一党は、平成元年(1989年)、ハザラ人の権利獲得を目的としてマザリを中心
として結成された政治組織であり、ハザラ人の政治的・社会的活動の中心的組織であったと
ころ、ナジブラ政権崩壊後にムジャヒディン各派によって樹立された暫定政権からは除かれ
た。同党は、1992年にアフガニスタン全土が内戦状態に陥った後は、カブール市内において
「西カブールの抵抗」と呼ばれる暫定政権に対する抵抗運動を1995年5月まで継続し、27回
もの戦闘を行った。そのような中、1993年2月11日、西カブールのアフシャール地区におい
て、一般市民を含む数百人のハザラ人がラバニ派のマスード将軍に率いられたタジク人及び
パシュトゥン人勢力によって殺害されるという事件が起きた。
ウ 1995年3月6日、カブール市内において、マスード率いるタジク人勢力とイスラム統一党
との間に戦闘が始まった。この時、イスラム統一党指導者のマザリは、タリバンとの間で、イ
スラム統一党の部隊の重火器を提供する代わり、タリバン部隊がカブール市街に進出してマ
スードと対峠することを合意した。そこで、タリバンは、軽武装の部隊をカブールに投入し
た。ところが、イスラム統一党の部隊が上記合意に反してタリバンへの重火器の引渡しを拒
否しタリバンの部隊と戦闘を始め、さらにマスードの部隊がタリバンの部隊に一斉攻撃をし
たため、タリバンは、市街から撤退を余儀なくされ、数百名の戦死者を出すという痛手を被
った。そして、この撤退の際、タリバンは、マザリらイスラム統一党員7名を逮捕して殺害し
た。
エ イスラム統一党は、1995年5月にカブールから撤退し、その後は、イランの支援を受けつ
つ、バーミヤンを拠点としで各地で他民族の勢力と戦闘を行い、1996年にタリバン政権が樹
立された後は、北部同盟に加わった。
オ タリバンはパシュトゥン人を中心とするイスラム教スンニ派の原理主義組織であり、民
族・宗教的理由からハザラ人を敵視し、平成10年(1998年)8月8日に北部のマザリシャリ
フを占領した際には、一般市民を含むハザラ人の大量殺害を行い、その数は数千人に上ると
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の報告がなされた。また、同年9月15日にイスラム統一党の本拠地であるバーミヤンを陥落
させた際にも、多くのハザラ系市民を殺害した旨の報告がなされている。平成13年(2001年)
1月、バーミヤン地方のヤコウランにおいて、100人以上のハザラ住民がタリバン部隊によ
り殺害されたとの報告もある。
(難民認定申請に至るまでの申立人の行動及び履歴)
ア 申立人は、平成3年(1991年)にb大学経済学部を卒業し、同大学在学中、cに通学し、英
語を習得した。申立人は、平成4年(1992年)ころから、西カブール地区において、父が経営
する自動車部品の仕入れ販売店の手伝いをしながら、イスラム統一党への支援活動(資金、
食糧、医薬品の収集等)をし、平成5年(1993年)に同党に入党し、入党後、党の文化委員会
に所属し、党の方針を伝える活動、スローガンを書いて掲げる活動、さらにはイスラム統一
党の要人がマスコミからのインタビューに応じる際の英語通訳等に従事するようになった。
イ 申立人は、平成5年(1993年)、UAEのd社に中古部品の営業員として採用され、その買
付等の業務に従事し、平成6年(1994年)、同社がパキスタンのペシャワールに支店を置い
たことから、カブール、マザリシャリフ、ペシャワールを往来する生活を続け、一方で、主に
カブールにおいて前記のような党の活動も続けた。そして、同年にはイスラム統一党の指導
者を巡り、マザリとアクバリ(ハザラ人のうちラバニ政権に親和的な勢力アクバリ派の代表)
とが争い、軍事抗争にまで発展したが、申立人は、マザリ支持者としてこの戦闘行為に参加
した。アクバリは、この抗争に敗北し、その後、表立ってラバニ政府との協力関係を表明する
ようになった。また、申立人は、カブールでのラバニ派の部隊との戦闘にも兵士として参戦
することもあった。
ウ 前記のとおり、マスードの部隊(タジク人)は、平成7年(1995年)3月、西カブールに入
ったタリバンを攻撃し、このマスードの部隊には前記アクバリ派に属し西カブールから追
われたハザラ人も加わっていた。結局、タリバンは西カブールから排除され、マスードの部
隊がこれを制圧したが、当時カブールにいた申立人は、自己がイスラム統一党の活動家であ
り、前記のような戦闘行為に参加した経歴もあることから、マスードの部隊を構成するタジ
ク人やアクバリ派の者に逮捕され、殺されるのではないかと恐れ、同じような立場にある者
2名と共にカブールを脱出し、ペシャワールに逃亡した。このようなことから、申立人は、ア
フガニスタンで生活することはもちろん、帰国することさえ身体的危険を伴うものと考え、
極力帰国を避けるようになり、両親に会うためにアフガニスタンに入国したのは、平成11年
(1999年)及び平成12年(2000年)の2回であった。
エ 申立人は、ペシャワールに逃亡した後も、d社の営業員として働き、平成9年(1997年)
には、同社が開設したe社(その後、e’ 社と改称)に採用され、従前と同様の営業に従事し
た。これらの営業のため、申立人は、平成7年7月22日に本邦へ適法に入国してから平成12
年(2000年)まで、計9回にわたり本邦に適法に入国し、自動車中古部品の買付や輸入等の
業務を行うとともに、シンガポールや韓国にも渡航して同様の業務を行った。また、平成11
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年(1999年)ころからは、山口県《地名略》所在のaと取引をするようになった。
その間の平成8年(1996年)、申立人は婚姻し、二児をもうけた。また、申立人は、平成9年、
e社の業務に従事するため、UAEのシャージャに居住するようになり、家を空けることも多
かったことから、妻子をアフガニスタン北部のマザリシャリフに行かせ、同所で申立人の両
親と同居生活をさせた。
オ 申立人は、平成10年(1998年)ころからは、イスラム統一党の活動をしなくなった。
カ 前記の平成10年(1998年)8月のマザリシャリフの大量殺害の際、申立人の弟Bは死亡し、
申立人の父は負傷した。申立人の両親と妻子は、マザリシャリフから《地名略》に逃れた。
キ 申立人は、平成12年(2000年)、e社の業務として、f社を設立し、山口県《地名略》所在
の工場を同社名義で借り受けるなどして本邦での営業活動を行っていた。また、そのころ、
申立人は、aの専務取締役であるCから、同社で働くよう誘いを受け、Cを介して、同年12
月1日、広島入管岩国出張所に対し、入管法7条の2に基づく申立人の在留資格認定証明書
の交付申請(発行されると最長3年間の滞在が認められる。)を行ったが、この申請に対する
判断がなかなか出なかった(平成13年6月19日に不交付通知がなされた。)。
ク 申立人は、平成13年(2001年)4月7日ころ、両親に会う目的でアフガニスタンに帰国し、
カブールに入ったところ、母方の叔父の妻で、数日前に《地名略》から帰ってきたばかりのD
から、「タリバンが統一党員である申立人の知り合いを拷問し、申立人がイスラム統一党で活
動していたことを知り、申立人を逮捕するため、申立人の両親宅にやって来たが、申立人が
いなかったため、代わりに申立人の父を逮捕した。」旨を聞いた。そして、Dから、危険であ
るから《地名略》には行かないよう言われたため、申立人は、ペシャワールに戻った。
しかし、申立人は、タリバン政権に友好的な関係にあるパキスタンやUAEも危険であると
考え、同月14日、在ドバイ(UAE)の日本総領事に対し査証発給申請をしたものの、短期間で
これに対する判断を受けられそうになかったことから、単独で日本に不法入国することを決
意し、偽造旅券(A’ 名義のもの)を用いて、同年6月10日、福岡空港から本邦に入国した。
ケ 申立人は、本邦入国後、前記《地名略》工場に居住し、aの関係者には短期ビザで入国した
と偽り、従前どおり、e’ 社(旧e社)のために自動車部品の買付や輸出等を行っていた。
申立人は、入管法62条の2第2項のいわゆる60日ルールについては、本邦へ不法入国する
前から知っていたが、不法入国者であり、迫害を受けるおそれを立証する明らかな物証を所
持していないことや過去に来日歴があることから、自分の供述を信用してもらえずアフガニ
スタンに強制送還されるのではないかとの不安を抱いていたこと、日本に入国したことによ
り自己の生命が危険にさらされるのを一応避けられたという安心感、また、現在申請中であ
る在留資格認定証明書が交付されれば、正式な在留資格が与えられ、不法滞在が合法化され
るものと思いこんでいたこと、難民認定申請をすると、前記在留資格認定証明書の申請と二
重申請になり、在留資格認定証明書の発行を受けられなくなると考えたことから、入国後直
ちに難民認定申請をしなかった。
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申立人は、同年6月下旬、前記在留資格証明書不交付通知がなされたことを知ったが、不
交付の理由が申立人のUAEにおける住所が不安定であるためであると聞き、同年8月6日、
再度、Cを通じて広島入管に在留資格認定証明書の交付申請を行った。
申立人は、上記証明書が発行されないため、8月27日、難民の支援活動をしているカトリ
ック教会に電話をして難民認定の相談をし、同年9月12日、福岡入管に対して難民認定申請
を行った。申立人は、密航ブローカーから、「日本に入国したことのある者が難民認定を受け
るためには自分の名前でなく他人の名前を使わなくてはいけない。認定されるためにはタリ
バンから迫害を受けるおそれがあるという証拠が必要である。海路で入国したと述べる方が
よい。」とのアドバイスを受け、A”(イスラム統一党の軍事司令官でタリバンにより逮捕勾
留されたことがある者)に対する拘束令状の写しを購入し、A” と偽って上記申請をし、同写
しを提出し、入国経緯については、船で横浜港から入国したと偽った。また、60日ルールに
よって申請が不適法となることをおそれ、入国日を同年8月22日と偽った。
しかし、申立人は、福岡入管での事情聴取を受けるうち、密航ブローカーのアドバイスで
した難民認定申請では難民として認められないと判断し、同年9月22日、大阪で難民支援活
動を行っているEに相談し、同年11月7日、大阪入管に対し、本名で難民認定申請を行った
が、その際にも、ペシャワールから韓国を経由して同年8月22日に横浜港に上陸したとして、
入国日及び入国経路を偽った。
 申立人が難民に該当するといえるか
入管法2条3号の2は、同法にいう「難民」とは、難民の地位に関する条約1条(以下「難民
条約」という。)又は難民の地位に関する議定書(以下「難民議定書」という。)1条の各規定に
より難民条約の適用を受ける難民をいうと定めている。したがって、同難民とは、同条約1条
Aに定めるところの、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は
政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、
国籍国の外にいるものであって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのよう
な恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」をいう。そして、これ
にいう「迫害」とは、「通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃又は圧迫」をいうもの
と解され、迫害は、通常の場合は国家機関によって直接行われるものであるが、国家機関によ
らない迫害行為を政府当局が知っていながら放任するような場合も上記規定にいう迫害に当
たると解される。また、「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」と
は、申請人の主観的な事情のほかに、通常人が申請人の立場に置かれた場合にも迫害を受ける
おそれがあるという恐怖を抱くような客観的な事情が存在していることが必要であり、その事
情は、一般的な事情ではなく、申請人に関する個別具体的な事情であることを要すると解する
のが相当である。
そこで、上記の点を本件についてみると、前記認定の事実、すなわち、ハザラ人は、その民族
的宗教的特性や抗争の経緯等から、タリバン政権によって敵視され、迫害を受けていたこと、
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申立人は、シーア派に属するハザラ人であると同時にタリバン政権の敵対勢力であったイスラ
ム統一党の党員としての活動歴を有する者であったこと、タリバン政府は、申立人がイスラム
統一党の党員であることをつきとめ、申立人を逮捕しようとしていたこと等の事情にかんがみ
ると、その余の事情を勘案するまでもなく、申立人は、本邦に不法入国した平成13年6月10日
当時、タリバン政権から迫害を受けるおそれがあるという十分に理由がある恐怖を有し、難民
に当たる者であったといえる。これを否定する相手方の主張は採用できない。
もっとも、タリバン政権は、米国や英国の軍事攻撃を受け、平成13年(2003年)11月13日、
首都カブールから撤退し、カブール及び北部同盟が支配していたアフガニスタン北部地域等に
対する軍事的政治的支配を喪失し、本件不認定処分及び本件裁決の各時点のころには、地方の
反政府的な武装組織にとどまる存在となったのであり、この点からすれば、同各時点のころに
ついても、申立人が平成13年6月10日当時難民に当たるとした前示の事情を根拠として、申立
人が難民に当たるということはできない。
しかし、暫定機構は、本件不認定処分時の約2か月前である平成13年12月22日にようやく
発足したばかりであり、移行政権が発足したのは本件裁決時とほぼ同時期であり、本件不認定
処分及び本件裁決の各時点ころの暫定機構や移行政権は、米国及び英国の軍事力に支えられて
カブールとアフガニスタン北部を一応制圧しているにとどまり、全土を統治するには至らず、
カブール市内の治安ですらISAF など外国の軍事力に依存せざるを得ない状態であったこと、
その余の地方は、地方的軍閥組織が徴税し治安を担うなどしてこれを支配していたこと、タリ
バンの残存勢力も武装を解除されたわけではなく未だアフガニスタン各地で抵抗を続け、政権
奪回を狙ってテロ等の暴力的活動をしていたこと等の点にかんがみれば、本件不認定処分及び
本件裁決の各時点ころにおいて、申立人が、タリバンの残存勢力によって生命を奪われ、ある
いは、身体を損傷されるおそれがあるという恐怖を抱く客観的な事情があったというべきであ
る。
加えて、暫定機構や移行政権は、前記認定のとおり長年にわたり対立抗争を続けてきた民族、
宗派及び政治組織の連合であり、本件不認定処分及び本件裁決の各時点ころにおいては未だ安
定的な政権といえず、政権内部の対立抗争から軍事闘争に発展することを危倶するのはむしろ
当然といえること、申立人は、平成5年(1993年)にイスラム統一党に入党し、前記認定のよ
うな英語通訳等の活動をし、平成6年(1994年)のマザリとアクバリとの軍事抗争の際にはマ
ザリ支持者としてこの戦闘行為に参加したこと、その後アクバリ派はラバニ派と協調し、移行
政権で商業相に就いたカゼミはアクバリ派の構成員であったこと、平成3年(1991年)から平
成7年(1995年)にかけて西カブールをほぼ制圧していたイスラム統一党とラバニ政権とは軍
事抗争を繰り返し、このころ申立人は、イスラム統一党の活動に積極的に参加し、時には軍事
闘争にも参加したこと、ラバニ派はその後北部同盟の主たる構成員となり、その後継者と目さ
れるファヒムは暫定機構で国防相に、移行政権で副大統領兼国防相に就いたこと、申立人は、
平成7年(1995年)3月、ラバニ政権のマスードの部隊によって西カブールが攻撃され、西カ
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ブールからタリバン及びイスラム統一党が排除された時、生命身体の危険を覚え、ペシャワー
ルに逃亡し、それ以降、アフガニスタンで恒常的に生活することを止め、ペシャワールやUAE
のシャージャに居住し、アフガニスタンへの帰国をも避けるようになったこと等の点にかんが
みれば、申立人が暫定機構や移行政権の中枢にいるアクバリ派やラバニ派の系統に属する者か
ら生命又は身体への侵害を受けるおそれを抱くのは無理からぬことであり、それは通常人が申
立人と同じ立場に立ったとしても同様といえるから、この点からも、申立人については前記の
「迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱くような客観的な事情」があったといえる。
したがって、申立人は、本件不認定処分及び本件裁決の各時点ころにおいても、難民に該当
するといえる。
 本件難民認定の申請が入管法61条の2第2項の期間を徒過した不適法なものといえるかに
ついて
申立人は、難民認定申請を本邦上陸日等から60日以内に行わなければならないと定める上記
条項(いわゆる60日ルール)は、難民条約に違反し違法無効である旨主張する。しかし、難民条
約は、難民認定手続については各国の裁量に委ねているところ、申請期間の制限を設けた趣旨
は、難民認定の資料とする証拠の散逸等を防止することにあると解され、一定の合理性がある
といえるから、同規定が難民条約等に違反して無効であるということはできない。
しかし、難民の保護を目的とした難民条約の趣旨にかんがみれば、同項ただし書にいう「や
むを得ない事情があるとき」の判断にあたっては、申請に際しての物理的障害のほか、本邦に
おいて難民申請をするか否かという意思決定が困難といえる事情、特に、難民特有の心理状態
や言語能力等の申請人個人の事情をも斟酌するのが相当と解すべきである(なお、上記60日ル
ールについては、その存在意義への疑問や難民条約等の理念との乖離についての指摘もあり、
平成16年法律第73号によって改正削除された。)。
これを本件についてみるに、前記認定のとおり、申立人は、難民認定申請をすることにより
不法入国者としてアフガニスタンに強制送還されることをおそれていたこと、申請中であった
在留資格認定証明書の発行によって滞在が合法化されることもあり得ると考え、これに希望を
つなぎ、難民申請が在留資格認定証明書の申請と重複することを避けようとしたため、上陸後
直ちに難民申請をせずにいたこと、ところが、在留資格証明書がなかなか発行されず難民申請
期間を徒過してしまったこと、申請期間経過後の平成13年9月12日、福岡入管に難民認定申請
を行ったが、密航ブローカーのアドバイスに従って、偽名を用いたものの、これで難民と認め
られることはないと悟り、同月22日、大阪で難民支援活動を行っているEに相談し、同年11月
7日、大阪入管に本名で難民認定申請を行ったこと等の事実が認められ、これらの事実からす
れば、不法入国した難民としての心情や法的知識に乏しく規範意識も低かったことから、適切
な意思決定ができなかったことが申請期間徒過の原因であったといえる上、徒過の期間が約90
日にとどまること(証拠の散逸防止という点に限っていえば、この程度の日数の経過による弊
害はほぼ皆無である。)をも考慮すると、申立人については前記の「やむを得ない事情がある」
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場合に当たるとするのが相当である。
したがって、申立人の上記難民認定申請は適法であり、期間の徒過を理由とする不認定処分
は許されない。
 本件裁決が法務大臣の裁量権濫用行為として不適法なものといえるかについて
特別在留許可は、退去強制事由に該当する者に対し、特に在留を認めるものであるから、そ
の判断は、法務大臣の裁量に委ねられているところ、その判断が違法であるか否かは、判断の
基礎とされた重要な事実に誤認があること等により上記判断が全く事実の基礎を欠くか、又は
事実に対する評価が明白に合理性を欠くこと等により上記判断が社会通念に照らし著しく妥当
性を欠くことが明らかである場合には上記判断が裁量権の範囲を越え又はその濫用があったも
のとして違法であるとすることができると解される(最高裁大法廷昭和53年10月4日判決参
照)。
前示のとおり、本件裁決時においては申立人を難民と認定するに足りる事情が存在したので
あり、法務大臣は、同事情が認められないとして、本件裁決をしたものと推認されるから、この
点で判断の基礎となった事実について誤認があったといえる。そうすると、その判断は、社会
通念に照らし著しく妥当性を欠くといえるから、本件裁決は、裁量権の範囲を超えるものとし
て、違法である。
 本件退令発付処分が不適法なものといえるかについて
本件裁決が不適法であることは前記のとおりである。入管法49条5項は、「主任審査官は、法
務大臣から異議の申出が理由がないと裁決した旨の通知を受けたときは、……第51条の規定に
よる退去強制令書を発付しなければならない。」と定めていることからすると、主任審査官が当
該退令発付処分についての裁量権を有するものではなく、法務大臣の裁決が違法である場合に
は、これに基づく退令発付処分もまた違法というべきである。そうすると、本件退令発付処分
は違法である。
 以上によれば、本件執行停止については、本案の理由があると認められる。
3 公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるといえるか
相手方は、本件執行停止の申立てを認容することは、在留資格制度の混乱を招く等の点から公
共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるなどと主張するが、同主張は、一般的な影響をいう
ものであり、具体性がなく、採用できない。
4 結論
よって、申立人の申立ては、理由があるから、これを認容することとし、主文のとおり決定する。

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