難民認定をしない処分等取消請求事件
平成14年(行ウ)第11号
原告:A、被告:法務大臣・広島入国管理局主任審査官
広島地方裁判所民事第3部(裁判官:能勢顕男・田中一隆・財津陽子)
平成17年3月29日
判決
主 文
1 被告法務大臣が平成14年2月27日に原告に対してした難民の認定をしない旨の処分を取り消
す。
2 被告法務大臣が平成14年6月14日に原告に対してした原告の出入国管理及び難民認定法49条
1項に基づく異議の申出は理由がない旨の裁決を取り消す。
3 被告主任審査官が平成14年6月14日に原告に対してした退去強制令書発付処分を取り消す。
4 訴訟費用は被告らの連帯負担とする。
事実及び理由
第1 請求
主文第1ないし3項と同じ。
第2 事案の概要
原告は、アフガニスタン国籍を有する外国人であり、本邦に不法入国したところ、①被告法務
大臣により出入国管理及び難民認定法(以下「入管法」という。)61条の2第1項に基づく難民の
認定をしない旨の処分、②被告法務大臣により入管法49条1項に基づく原告の異議申出には理由
がない旨の裁決、③被告主任審査官により退去強制令書の発付処分を受けたが、これらの処分は
いずれも違法であるとして、それぞれの取消しを求めた事案である。
1 争いのない事実(末尾に証拠の記載のないもの)及び証拠によって容易に認められる事実
 原告は、昭和47年(1972年)《日付略》、アフガニスタン国内で出生したアフガニスタン国籍
を有する外国人である。
 原告は、平成7年7月から平成12年6月まで、合計9回、いずれも短期滞在の在留資格(在
留期間90日)で日本に入国し、自動車中古部品の買付・輸出等の業務を行った。(乙2)
 原告は、山口県《地名略》所在の有限会社a(以下「a」という。)に雇用されることとなり、
平成12年12月1日、広島入国管理局(以下「広島入管」という。)岩国港出張所に、入管法7条
の2に基づく滞在期間を3年とする原告の在留資格認定証明書の交付申請を行った。(乙3)
 原告は、平成13年4月14日、アラブ首長国連邦(以下「UAE」という。)の在ドバイ日本総領
事に対し短期査証発給申請を行った(乙4)。
 原告は、同年6月10日、韓国の釜山から航空機で福岡空港に到着し、福岡入国管理局(以下
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「福岡入管」という。)の入国審査官に対し、前もって入手していたオランダ国籍のA’ 名義の偽
造旅券を提示し、在留期間90日、短期滞在の在留資格による上陸許可を不法に得て本邦に上陸
した。(乙5、41)
原告は、同年6月下旬ころ、前記在留資格証明書の不交付通知(平成13年6月19日付け)が
あったことを知り、必要書類を追加した上、同年8月6日付けで、広島入管に対し、入管法7条
の2に基づく滞在期間を3年とする原告の在留資格認定証明書の交付申請を行った。(乙6)
 原告は、同年9月6日、福岡入管を訪れて難民認定申請の意向を告げ、その際、自己の名を
A”、入国時期を同年8月22日、入国径路を船舶で横浜港と思われる港に到着したと、それぞれ
虚偽の事実を申告した。
原告は、同月12日、福岡入管に対してA” 名義で難民認定申請を行い、同人に対するタリバ
ン発付の拘束令状の写しを提出した。(乙9)
 原告は、同年11月7日、大阪入国管理局(以下「大阪入管」という。)に対し、本名であるAで
の難民認定申請を行い、同年12月12日、福岡入管に対する難民認定申請を取り下げた。(乙22
の、)
 被告法務大臣は、平成14年2月27日、原告の大阪入管に対する難民認定申請につき、難民認
定をしない処分(以下「本件不認定処分」という。)をし、同年3月6日、原告にその旨通知した。
(甲25、乙23)
原告は、同月8日、本件不認定処分に対する異議を申し出た。(乙24)
 被告法務大臣は、同年6月13日、原告の上記異議に理由がない旨の裁決をし、同月18日、原
告にその旨通知した。(甲26)
 広島入管入国審査官は、同年5月17日、原告の違反審査を実施し、入管法24条1号に該当す
ると認定して、原告にその旨通知した。(甲27)
原告からの口頭審理請求を受け、広島入管特別審理官は、同月23日、口頭審理を実施し、上
記認定に誤りがないとの判定をし、原告にその旨通知した。(甲28)
 原告は、同日、上記判定について、法務大臣に対し異議の申出をした。これを受けた被告法
務大臣は、同年6月14日、原告の異議申出には理由がない旨の裁決(以下「本件裁決」という。)
をし、被告広島入管主任審査官に通知し、同日、同審査官は、原告に対し、本件裁決のあったこ
とを通知した。(乙40、甲29)
 被告主任審査官は、同日、原告に対する退去強制令書を発付し(以下「本件退令発付処分」と
いう。)、原告を収容した。(乙43)
 原告は、同年10月29日、仮放免の許可を受けた。
 一方、原告は、同年2月28日、入管法違反容疑で逮捕勾留され、同年3月20日、同法違反に
より広島地方裁判所に起訴され、第一審で刑の免除判決を受けたが、控訴審で罰金刑の判決を
受け、この判決は確定した。(甲34ないし甲47の、甲50)。
2 争点
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 原告が難民に該当するといえるか。
 本件不認定処分が理由を付した適法なものといえるか。
 本件難民認定の申請が入管法61条の2第2項の期間を徒過した不適法なものといえるか。
 本件裁決が法務大臣の裁量権濫用行為として不適法なものといえるか。
 本件退令発付処分が不適法なものといえるか。
3 争点(原告が難民に該当するといえるか)に関する当事者の主張
 原告の主張
ア 本邦入国の経過
ア 原告は、ハザラ人であり、シーア派イスラム教徒である。
イ 原告は、b大学卒業後の1992年、シーア派ハザラ人の政治団体であるイスラム統一党に
入党して文化委員会に所属し、主に通訳や広報関係の活動を行い、タリバンやタジク人勢
力からの攻撃の際は、これに対抗する軍事活動にも参加した。
ウ 1995年3月、原告は、西カブールにおいてタジク人グループがハザラ人に対する軍事攻
撃を行った際、カブールからペシャワールに逃亡し、それ以降安全にアフガニスタンに入
国することができなくなった。また、1994年にパキスタンのペシャワールにて中古自動車
部品販売業者であるBのもとで働いていたときには、イスラム統一党のペシャワール事務
所において通訳として活動した。
エ 原告は、1995年3月にカブールから逃亡して以後、ペシャワールに居住し、1997年には
UAEのシャージャに移住して中古自動車部品販売業に従事した。
オ 1998年8月、タリバンがアフガニスタン北部の町マザリシャリフに進攻し、多数(約
8000人)のハザラ人を虐殺した。マザリシャリフには原告の両親、弟、妻が住んでいたが、
原告の弟が行方不明になり、両親も家を略奪され、一家は《地名略》県に逃れた。
原告は、1999年と2000年にそれぞれ1度ずつ《地名略》県の両親を訪ねたが、2001年
4月7日、両親に会うため密かにアフガニスタンに入国し、カブールの親戚宅を訪れたと
ころ、おばから、原告がイスラム統一党員であることをタリバンが知り、原告を逮捕しよ
うとしたが、原告が不在であったため、代わりに原告の父が逮捕されたことを知らされた。
当時、UAEは、パキスタンとサウジアラビアとともにタリバン政権を承認しており、UAE
に居住する原告もタリバンによって逮捕される危険性が高かった。
カ そこで、原告は、日本に避難することを決意し、密航ブローカーに依頼して、平成13年
5月30日、UAEのドバイから出国した。
イ 難民該当性
ア 入管法にいう難民といえるためには、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構
成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のあ
る恐怖を有するために、国籍国の外にいる者」であることを要するが、ここにいう「迫害」
は、被告らが主張するような、「通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす」との要件ま
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では必要とせず、生命や身体に対する脅威だけでなく、そのほかの人権に対する重大な侵
害も迫害に当たると解すべきである。
また、「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖」が存在するというため
には、被告が主張するような通常人を基準とした要件は不要であり、申請者の主観的な恐
怖が客観的状況により裏付けられていることで足りると解すべきである。
さらに、難民であることの立証責任を原則として申請者が負うとしても、立証の困難さ
にかんがみると、申請人の説明が信憑性を有すると思われるときは、これとは反対趣旨の
十分な理由がない限り、難民性が肯定される(灰色の利益を与えられる)べきである。
イ 原告は、ハザラ人、シーア派イスラム教徒である。ハザラ人は、モンゴル系でその容貌か
ら他の民族とは区別され、かつ、アフガニスタンでは少数派のシーア派に属するため、他
の民族によって有形無形の差別を受け、ときには虐殺されるなど迫害の対象とされてきた
歴史がある。特に、パシュトゥン人を中心とするスンニ派のタリバン政権下においては、
シーア派教徒は敵視され迫害された。また、原告はイスラム統一党員として活動した経歴
を持ち、ハザラ人の政治的権利を主張する政治的意見を有している。
本件不認定処分時は、暫定政権が発足したとはいえアフガニスタンの国内情勢は流動的
であり、タリバンは政権崩壊後も組織としては完全に崩壊しておらず、国内各地には相当
規模の兵力が残り、復活の兆候もあったし、タリバンにつながるスンニ派のイスラム原理
勢力も各地で活発に活動していた。
また、現政権は、旧敵対勢力であったタジク人(ファヒムを始めとするパンジールグル
ープやラバニ派)が権力を握っており、ハザラ人閣僚の登用は少なく実権もない。現政権
にはC等ハザラ人と報道されている閣僚がいるが、彼らはハザラ人ではなくセイドと呼ば
れるアラブ民族であり、かつてはタジク人に与してハザラ人と戦闘をした経歴を持つ者で
あって、ハザラ人の権利を主張したりする人や教育のある人、過去にイスラム統一党で活
動していた人を敵視する傾向がある。また、Cはイスラム統一党アクバリ派に属していた
ことがあり原告と面識もあるので、現政権に原告の個人情報が知られるおそれもある。
被告らは、難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)にいう迫害とは、当該国
の政府当局による行為に関連するものをいうと主張するが、反対派や地域住民による攻撃
等が行われる場合でも、それが政府当局によって容認されているか、又は当局が適当な保
護を与えることを拒否し、若しくは保護することができない場合も「政府当局の行為に関
連するもの」ととらえることができる。現政権の発足後、アフガニスタンの治安は極めて
悪く、複数の閣僚が暗殺されるなど要人の安全さえ確保されない状況である。また、現政
権は、アフシャールやマザリシャリフにおけるハザラ人の大量殺害事件について事実を明
らかにしようとしていない。このような状況の下では、現政権がスンニ派イスラム原理主
義勢力等ハザラ人を敵視するグループからハザラ人を保護するとは到底考えられず、現政
権による恣意的な逮捕やタリバン勢力によるテロ行為などのおそれもあるのであって、原
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告に対する迫害の危険性が去ったとはいい難い。
したがって、本件不認定処分当時、原告には、再台頭する可能性のあるタリバン及びそ
れにつながるスンニ派の原理主義勢力、あるいは、現政権の中枢を握るタジク人勢力等か
ら、民族・宗派・特定集団に所属すること及び政治的な意見を有することを理由とする迫
害を受ける客観的なおそれがあった。
ウ 被告は、原告が入国後に稼働していたこと、難民認定申請の当初、氏名等を偽っていた
ことを指摘して、原告が難民としての保護を受ける真摯な姿勢がなく、迫害を受けるおそ
れがあるという恐怖を抱く主観的事情もないと主張する。
しかし、入国後に稼働したのは生活のためにやむを得ないことであった。氏名、入国経
緯等を偽ったのは、既に本名で在留資格証明書の交付申請をしており二重申請を避け、さ
らには、密入国を依頼したブローカーから、「過去の入国経験があると難民認定がされにく
い。入国経路を海路とした方が認定されやすい。迫害される危険があることの具体的な証
拠が必要である。」と聞かされ、これを信じたためである。難民が強制送還を恐れる心理か
ら虚偽の申告をすることは珍しくないことであって、この事実のみをもって原告の供述全
てに信用性がないとはいえない。
エ 以上によれば、本件不認定処分当時、原告が「人種、特定の社会集団の構成員であること、
又は政治的意見を理由とする迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖」を
有していたことは明らかであって、これを認定しなかった本件不認定処分は違法である。
 被告らの主張
ア 難民に該当するというための要件について
原告も主張するとおり、入管法にいう「難民」に該当するというためには、「人種、宗教、国
籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそ
れがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者」であることを
要するが、ここにいう「迫害」とは、通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし
圧迫であって、生命又は身体の自由の侵害又は抑圧をいうと解される。そして「迫害を受け
るおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」というためには、難民認定申請者の
主観的事情に加え、通常人が申請者の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観
的事情が存在していることを要すると解すべきである。
イ 難民認定の手続について
いかなる難民認定の手続を設けるかについては、難民条約及び難民の地位に関する議定書
(以下「難民議定書」といい、難民条約と合わせて「難民条約等」という。)には規定がなく各
締結国の立法政策に委ねられていると解されるところ、法は、法務大臣は申請者の提出した
資料に基づいて難民認定を行うことができ、提出資料のみでは適正な認定ができないおそれ
がある等の場合には、難民調査官をして事実調査をさせることができるとしている。さらに、
難民該当性を基礎づける資料は、申請者の本邦外での活動に関連することが多く、それらを
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全て入管が収集することは不可能であり、他方、申請者はそれらの資料を最もよく収集し得
る立場にある。
上記の点から、難民性の立証責任は申請者が負担すると解すべきであり、法務大臣は、一
次的には申請者が提出した資料に基づき、二次的には難民調査官が必要に応じて実施した事
実調査で収集された資料に基づいて難民該当性を判断し、それでも難民該当性を認めるに至
らなかった場合には、不認定処分をなすべきである。UNHCRハンドブックの基準に則って
も、「全ての手に入り得る資料が入手されて検証され、かつ、審査官が申請人の一般的信憑性
について納得したとき」に限り「灰色の利益」が付与されるべきとされているのであるから、
全ての申請者が当然に灰色の利益を受けられるものではない。
ウ 迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱く客観的事情の不存在
タリバン台頭以前のアフガニスタン情勢は、ラバニ大統領派とへクチャマル首相派の双方
にハザラ人を主体とするグループとパシュトゥン人を主体とするグループの双方が属するな
ど、ハザラ人同士、パシュトゥン人同士の抗争を含め、複雑多岐にわたる抗争関係が存在し
ていたのであって、ある特定の民族や集団が、常に一方的な被害者であったと断じることは
できない。むしろ、イスラム統一党員の民間人に対する残虐行為が行われたという報告もな
されている。したがって、原告がハザラ人、イスラム統一党員であることから直ちに難民と
認定することはできない。
また、タリバンのハザラ人に対する人権侵害は、宗教的民族的特性によるものではなく、
タリバン政権の敵対勢力の一つとして戦闘地域における報復・攻撃の対象としていたに過ぎ
ない。
原告が主張するハザラ人殺害事件は、7ないし9年前のタリバン台頭以前の内戦状態下で
起こったものや、タリバンと北部同盟との軍事衝突の一環として発生したものに過ぎない。
そして、平成14年2月27日の本件不認定処分当時、タリバンはアフガニスタンの支配政権と
しても、組織としても完全に崩壊しており、ハザラ人迫害のおそれはほぼ皆無といえるほど
に希薄化していた。また、カルザイ政権は政治的に安定した歩みを始めており、閣僚にも数
人のハザラ人が登用されるなどハザラ人の地位も安定したものであったから、原告が政府当
局から迫害を受けるおそれもなかった。また、「迫害」の主体は政府当局の行為に関連するも
のを意味し、反対派勢力から攻撃を受けるおそれがあることから直ちに難民に当たるという
ことはできない。本件不認定処分当時は、タリバン政権は既に崩壊しており、暫定政権も成
立途上にあり、そもそも迫害の主体となるべき政府当局が存在していなかったともいえる。
なお、原告は、審理終結間近になって、迫害の主体として、従前に主張していたタリバン及
びタジク人勢力のほかに、サヤフ派やワッハービ派のイスラム原理主義勢力、イスラム協会、
パンジールグループ及びCを加える旨主張し(原告第6-3、第7、第8各準備書面)、書証
(甲113ないし127)を提出したが、これは原告の故意又は過失により時機に後れて提出した
攻撃防御方法である。これを許せば、被告がこれらの新主張等に対して反論、反証すること
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を要し、訴訟の完結を遅延させる結果を招来するから、原告の上記主張立証は却下されるべ
きである。
エ 主観的事情の不存在
原告は、c社を設立した上、aに雇用されて、本邦における商業活動を本格的に開始しよ
うとし、そのため、平成12年11月15日、在留資格認定証明書の交付申請を行い、平成13年4
月14日には、渡航目的を「商用」とする90日間の短期滞在査証の発給申請を行った。さらに、
不法入国後は、福岡入管に難民申請するまでの約3か月間に各地で自動車中古部品の買付・
輸出等の業務を行っていた。原告は、難民認定申請をする際には、入管はおろか自己の支援
者に対しても氏名、入国の時期・経緯、迫害を受ける理由を偽り、難民としての保護を真摯
に求める行動をしなかった。
これらの事実からすれば、原告は稼働目的で本邦に不法入国したのであり、迫害を受ける
おそれがあるという恐怖を抱く主観的事情が存在しないことは明らかである。
4 争点(本件不認定処分が理由を付した適法なものといえるか)に関する当事者の主張
 被告らの主張
難民不認定処分は、申請者が難民に該当しないことを確認する行為であり、本来申請者に保
障された人権を制約するものではないから、処分の根拠となった資料を示して不認定処分を理
由づける具体的事実や、結論に達した過程を明らかにする必要はない。
前記のとおり、法務大臣の難民該当性を基礎づける資料の収集能力には限界があり、申請者
が常に立証を尽くすとは限らない実務の現状を考慮すれば、詳細な理由を付記することは困難
であり、認定手続の遅延を招き、申請者側にも混乱を生じさせるおそれがある。
難民該当性の立証責任は申請者にあり、法務大臣が申請者からの提出証拠及び難民調査官の
調査結果を総合評価しても難民性を認めるに足りない場合には、難民不認定処分の通知文書が
「全ての証拠を検討してもなお難民該当性を認めるに至らない。」と申請者側の立証責任を前提
にした記載になるのはやむを得ない。
以上の点からすれば、本件不認定処分における処分理由の付記は、法の要求を十分に満たし
ている。
 原告の主張
行政処分において理由の付記が求められるのは、行政庁の判断の慎重・合理性を担保してそ
の恣意を抑制すること及び不服申立ての便宜を図ることにある。この点について、難民認定に
関する処分には行政手続法の適用がないが(同法3条10号)、上記の趣旨の点では他の行政処
分との違いはない。この点に加えて、難民の認定は覇束行為であるから法務大臣の裁量の余地
はないこと、誤った認定がなされた場合には生命・身体・自由に対して重大な侵害を与えるも
のであることからすれば、その認定に関する手続については、刑事手続に準ずる手続的保障が
与えられるべきである。
本件不認定処分の通知書は、「具体的証拠がない。」と記載されているに過ぎず、これでは結
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論のみを記したに等しく、不認定処分の根拠を明らかにするものとはいえないから、理由を付
した書面により通知したとはいえない。
5 争点(本件難民認定の申請が入管法61条の2第2項の期間を徒過した不適法なものといえる
か。)に関する当事者の主張
 被告らの主張
原告は、平成13年6月10日、偽造旅券を使用して本邦に入国、「短期滞在」「90日」の上陸許
可を得て上陸し、その150日後である同年11月7日、大阪入管に本件難民申請をしたのである
から、同申請が入管法61条の2第2項の期間を徒過した不適法なものであること(いわゆる「60
日ルール」)は明らかである。
そして、同項ただし書の「やむを得ない事由」とは、申請者が入管に出向くことが物理的な事
情により不能であった場合のほか、本邦において難民の申請をするか否かという意思を決定す
るのが客観的に困難と認められる特段の事情がある場合をいうと解せられるところ、原告は60
日ルールを知悉した上、これを徒過していることを隠すために氏名、入国時期・経路につき虚
偽の事実を述べていたのであるから、上記「やむを得ない事由」も認められない。原告は、稼働
目的での不法入国から始まった不法滞在を事後的に合法化し本邦に滞在するための方策として
A” 名義での難民認定申請の準備を進めるうち、法定申請期間を徒過してしまったに過ぎない。
 原告の主張
ア 入管法61条の2第2項(60日ルール)の違法性
難民条約等は、締結国に対し、難民条約等における「難民」の定義に該当する者(以下「条
約上の難民」という。)を、そのまま「難民」として認定する手続を整備することを要求して
おり、締結国の難民認定手続の規定又は解釈・運用が、難民条約上の難民に該当するにもか
かわらず、一定の者を難民と認定しない結果をもたらす場合には、その手続規定又は解釈・
運用は、難民条約等の授権の範囲を超えたものとして、違法であるというべきである。
これを入管法61条の2第2項についてみると、同項の期間制限は、難民条約上の難民に該
当するにもかかわらず所定期間内に申請を行わなかった者を難民認定しない結果をもたらす
ものといえるから、難民条約等に違反し、違法無効というべきである。
また、難民の認定は事実確認行為であって、法務大臣が申請人を難民条約上の難民と認め
るときは難民認定をしなければならない覇束行為であるから、難民に該当するにもかかわら
ず期間の徒過という形式的要件を設けることにより難民認定をしないとする本項は、明らか
に難民条約等に反している。
さらに、難民条約は難民認定の申請期間に制限を設けていないこと、他国(合衆国、スペイ
ン、韓国)の立法・運用をみても、入国後60日以内という短期の期間制限を設けている例は
なく、それぞれの期間制限の運用も緩やかであることにかんがみると、同項の期間制限は国
際基準と照らし合理性を欠いたものというべきである。
加えて、同項は、難民認定申請をすることにより逆に本国に強制送還されるのではないか
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という恐怖を抱く難民の心理状態に対する配慮を欠いている。申請の遅延は、申請人の主張
の信用性に関する判断要素となるものであっても、遅延自体により難民該当性を否定すべき
ではない。60日を徒過した申請でも難民認定をしたケースは存在し、60日経過後の認定申請
では実体判断を行わないという被告の主張は実情と乖離している。
イ 入管法61条の2第2項ただし書該当性
仮に、同項が有効であるとしても、前記難民条約等の趣旨にかんがみれば、同項ただし書
の「やむを得ない事情のあるとき」とは、申請をすることに対する心理的な障害や情報不足
等の事情も考慮して緩やかに解すべきである。
これを本件についてみると、原告は、母国との関係を絶つことになる難民認定の申請を躊
躇し、むしろaを介して交付申請をしている在留資格認定証明書により適法な在留資格を得
たいと考えた。また、同一人が在留資格証明書の交付申請と難民認定申請を同時に行うこと
は相矛盾する行為であり、どちらか一方の取下げ勧告等を招くことになると考え、難民認定
の申請をすることにも躊躇した。原告が、当初、偽名で難民認定申請を行った理由の一つも、
既に本名で在留資格認定証明書の交付申請をしていたため、難民認定申請との同時申請とな
ることをおそれたがためである。さらに、原告の日本語能力は、日常会話程度であればこな
せるものの、読み書きはほとんどできず、言葉が巧く通じないことから信頼できる相談相手
もおらず、認定申請手続に関する情報が不足していた。
上記の各事実によれば、原告が上陸後60日以内に難民認定申請をしなかったことには相当
な理由があるというべきであり、同項ただし書にいう「やむを得ない事情」があったといえ
る。
6 争点(本件裁決が法務大臣の裁量権濫用行為として不適法なものといえるか)に関する当事
者の主張
 原告の主張
各国政府の裁量が認められる外国人の出入国管理に関する処分であっても、その処分が憲法
又は条約によって保障された何らかの人権を侵害する場合には、当該処分は裁量権の濫用又は
逸脱行為として違法であると解される。
当時のアフガニスタン情勢に照らせば、原告を難民と認める事情があったばかりか、前記の
とおり、原告がアフガニスタンに帰国すれば、生命、身体及び自由への侵害を受けることが予
想されるのであるから、被告法務大臣が本件裁決をし、原告について特別在留許可をしなかっ
たのは、憲法13条、14条、市民的及び政治的権利に関する国際規約第6条、7条、9条、26条に
違反し、裁量権の濫用又は逸脱行為に該当するというべきである。
 被告らの主張
特別在留許可は退去強制事由のある外国人に対する恩恵的措置であり、これを付与するか否
かの判断は国内外の情勢に通暁し出入国管理の衝に当たる法務大臣の自由な裁量に委ねられて
いるものと解すべきである。したがって、裁判所は、法務大臣の特別在留許可に関する処分の
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適否については、法務大臣の第一次的な裁量判断が既に存在することを前提として、その判断
が社会通念上著しく妥当性を欠き、裁量権付与の目的を逸脱し、これを濫用したといえる場合
に限り、違法と判断できると解すべきである。
本件では、原告に難民該当性は認められない上、原告の入国経緯及び入国後の行動等に照ら
すと、原告について「特別に在留を許可すべき事情」は認められないから、入管法49条1項に
基づく原告の異議の申出には理由がない旨の裁決をし特別在留許可を認めなかった法務大臣の
行為が裁量権の濫用又は逸脱であるとはいえない。
7 争点(本件退令発付処分が不適法なものといえるか)に関する当事者の主張
 原告の主張
ア 本件裁決は違法であるから、これに基づく本件退令発付処分も違法である。
イ 原告は難民に該当するから、原告を本国に強制送還することを目的とする本件退令発付処
分は、難民条約32条、33条1項に違反する。また、原告が本国に強制送還されれば、ハザラ
人であることなどから「拷問」ともいえる重い肉体的・精神的苦痛を強いられるおそれが高
いから、本件退令発付処分は、拷問等禁止条約3条の1及び入管法53条にも違反する。
 被告らの主張
ア 本件退令発付処分の適法性について
主任審査官は、法務大臣から「異議申出は理由がない。」との裁決をした旨の通知を受けた
ときは、速やかに退去強制令書を発付しなければならないのであり(法49条5項)、退去強制
令書を発付するにつき全く裁量の余地はない。
したがって、本件裁決が適法である以上、被告広島入管主任審査官がした本件退令発付処
分も適法であるというべきである。
イ 難民条約32条
原告は難民に該当しないから、原告の主張は前提を欠いている。また、同条1項は、合法的
に滞在した難民のみを保護しているのであり、原告のように不法に入国した者まで保護する
ものではない。
ウ 難民条約33条
同条についても、原告は難民に該当しないから、原告の主張は前提を欠いている。また、ア
フガニスタンは入管法53条3項にいう「難民条約33条1項に規定する領域の属する国」には
該当しない。
エ 拷問禁止条約
最近のアフガニスタンの情勢に照らすと、原告がハザラ人であること等の原告指摘の諸事
情を考慮しても、アフガニスタンが、「その者に対する拷問が行われるおそれがあると信じる
に足りる実質的な根拠のある他の国」に該当するとはいえない。
第3 当裁判所の判断
1 時機に後れた攻撃防御方法の主張について
- 11 -
この点に関する被告らの主張は、前記「事案の概要」の「争点に関する被告らの主張」のウに
摘示したとおりである。しかし、被告らが上記主張において指摘する原告の主張立証は、要する
に、タリバンにつながるイスラム原理主義勢力(サヤフ派やワッハービ派)、あるいは、イスラム
協会やパンジールグループのタジク人勢力が迫害するおそれがあるという点にあり、これらは従
来の原告の主張や提出の証拠にも現れており(訴状15頁等参照)、従前の主張立証の域を出るも
のではないから、時機に後れた攻撃防御方法とはいえない。よって、被告の上記主張にある申立
てを却下する。
2 前記争いのない事実、証拠(甲1ないし11、15ないし29、44の、45ないし47の、49、51、
58ないし74、88、107、111、乙1ないし56、60、62、86、90、原告本人)及び弁論の全趣旨を総
合すると、次の事実が認められる。
 アフガニスタンの国内情勢の概要
ア アフガニスタンは、パシュトゥン人(ペルシャ系。人口の約38パーセントを占める。イス
ラム教の宗派はスンニ派。)、タジク人(ペルシャ系。人口の約25パーセントを占める。大半
がスンニ派)、ハザラ人(モンゴル系。人口の約19パーセントを占める。シーア派。)、ウズベ
ク人(モンゴル系とトルコ系の混血民族。人口の約6パーセントを占める。スンニ派。)を始
めとする諸民族が混在する多民族国家である。国民の98パーセントがイスラム教徒で、ハザ
ラ人を中心とする15パーセントがシーア派、84パーセントがスンニ派であるとされる。(甲
72)
イ アフガニスタンは、1919年に英国から王国として独立し、1973年に共和制に移行し、昭和
53年(1978年)には共産主義のアフガニスタン人民民主党(PDPA)政権が誕生した。
昭和54年(1979年)12月、旧ソ連軍の軍事介入のもと親ソ派のカルマルにより社会主義政
権が誕生し、昭和61年(1986年)5月にはナジブラが書記長に就任して政権を引き継いだが、
イスラム教徒民兵組織であるムジャヒディン各派が、それぞれ周辺各国から支援を受けてゲ
リラ戦を展開し、平成元年(1989年)2月、ソ連軍はジュネーブ合意に基づきアフガニスタ
ンから完全撤退し、平成4年(1992年)4月、ムジャヒディン各派の軍事攻勢によりナジブ
ラ政権が崩壊した。平成5年(1993年)1月、イスラム協会の指導者ラバニが大統領に就任
したが、各派間の主導権争いが激化し、全土が内戦状態に巻き込まれることになった。
ムジャヒディンの主な勢力として、タジク人中心のイスラム協会(ジャミアティ・イスラ
ミ。ラバニ派)、パシュトゥン人中心のイスラム党(ヘズベ・イスラミ。ヘクマチャル派)、ア
フガニスタン解放イスラム同盟(イッティハディ・イスラミ。サヤフ派)、ハザラ人中心のイ
スラム統一党(ヘズベ・ワフダット。マザリ派とアクバリ派がある。)、ウズベク人中心のイ
スラム国民運動(ドストム派)があった。
ウ イスラム教スンニ派のパシュトゥン人を中心とするイスラム教原理主義組織タリバン(指
導者オマル)は、平成6年(1994年)ころから台頭し、平成8年(1996年)9月末、ラバニ派
を中心とする政権が支配していた首都カブールを制圧し、暫定政権の樹立を宣言した。
- 12 -
これに対し、ラバニ派、ドストム派等の各ムジャヒディン勢力は、北部マザリシャリフを
中心に反タリバン同盟である全国アフガニスタン救済イスラム統一戦線(通称北部同盟)を
結成し抵抗を続け、イスラム統一党も、この北部同盟に加入した。タリバンは、政権樹立の宣
言以来、国際社会に対し、アフガニスタンの正統な政権としての承認を求めていたものの、
タリバン政権を承認したのは、パキスタン、サウジアラビア、UAEの3国のみであった。
エ 平成13年(2001年)9月11日、米国でいわゆる同時多発テロが発生した。米国は、タリバ
ン政権がその首謀者であるオサマ・ビンラディンを匿っているとして、これを強く非難し、
その引渡しを求めた。これを機に、UAEは、同月22日、タリバン政権との外交関係を断絶し
た。
米国及び英国は、同年10月7日、タリバンへの軍事攻撃を開始し、北部同盟も米国らの支
援を受けてタリバンの支配地域へ進攻し、同年11月13日、タリバン政権は首都カブールを放
棄して事実上崩壊した(乙50)。
同じころ、ドイツのボンにおいて、アフガニスタン各派代表者会議が開催された。これに
参加した各派は、同年12月5日、カルザイを議長とするアフガニスタン暫定行政機構(以下
「暫定機構」という。)を発足させること、緊急国民大会議(ロヤジルガ)による移行政権の誕
生まで暫定機構が国政を担当すること、暫定政権における30名の閣僚の内訳等について、合
意した(ボン合意)。
暫定機構は、同年12月22日、正式発足した。暫定政権の閣僚の内訳は、パシュトゥーン人
11名、タジク人8名(内相カヌニ、外相アブドラ、国防相ファヒム等、なおファヒムはラバニ
派の軍人マスードの配下にあった者である。)、ハザラ人2名(副議長兼女性問題担当相にシ
マサマル、計画相にイスラム統一党員であるムハマンド・モハケック)、シーア派セイド(預
言者ムハンマドの子孫とされるアラブ系民族。)3名(商業相カゼミ、農相アンワリ等)、ウズ
ベク人3名、その他の民族3名であった(甲58、乙55)。国際社会は暫定機構をアフガニスタ
ン政府として承認し、日本政府もこれに続いた。平成14年(2002年)2月19日、カブールの
在アフガニスタン日本大使館が再開され、同年5月1日には川口外務大臣がアフガニスタン
を訪問した(乙58ないし60)。
オ 同年6月、カブールで緊急国民大会議(ロヤジルガ)が開催された。これを構成する代議員
は1656名で、そのうち、ハザラ人は12.5パーセントを占めた(甲72の233頁)。これにより、
カルザイを大統領とするアフガニスタン移行政権が発足した。
同政権の閣僚は、計31名であり、うちハザラ人は、副大統領のカリム・ハリリ(95年にマ
ザリが死亡した後にイスラム統一党党首に就任した。)、計画相モハマド・モハケックの2名
であった。その他の閣僚は、パシュトゥーン人13名、タジク人9名(副大統領兼国防相ファ
ヒム、外相アブドラ等)、シーア派セイド3名(商業相カゼミ、農相アンワリ、運輸相ジャベ
ド)、ウズベク人3名、トルクメン人1名であった(甲58、82、乙55、61)。その後、ハザラ人
のハビバ・サラビが女性問題担当相に就任し、ハザラ人閣僚は3名となった(乙62)。
- 13 -
カ 本件不認定処分及び本件裁決当時(平成14年2月27日から同年6月14日)のアフガン国内
の政治、治安、人権の状況(甲24、61〜68、72、76、77、107、乙86)
ア 政治情勢
暫定機構及び移行政権は、貿易関連税、ビザ発行手数料等の徴税能力を保持し、カブー
ル及びアフガン北東部については、軍事的にも政治的にも制圧、統治しているものの、そ
の余の地域については、これを統治するまでにはなく、同地域のほとんどは軍閥の支配下
にある。司法制度や国家警察の整備も行われておらず、公務員への給与の支払も困難な状
態にある。
暫定機構及び移行政権においては、パンジールグループと呼ばれるタジク人少数派が外
務(アブドラ)、国防(ファヒム)等の重要ポストを独占し、軍、警察、諜報部の実質的な支
配権を握っており、これに対して他の民族が不満を抱いていることから、民族同士の権力
闘争が再燃することを懸念する意見や報道もなされている(甲61ないし68、72、76、77)
その一方で、アフガニスタン南東部には、タリバン勢力及びアルカイダに所属する部隊
が残存し、政権奪取を狙って、テロを行ったり、政権の軍隊や米軍を中心とする治安部隊
との間に戦闘を行ったりしていると報道されている(甲64)。
イ 治安
2003年のアムネスティ・インターナショナルの報告によれば、アフガニスタンにおい
ては、警察が十分に機能していない(甲73)。カブールの治安は、国連治安支援部隊(ISAF)
と米軍により保たれているが、一部地域では犯罪や政治的意図に基づくと思われる暴力が
発生している。地方の治安は不十分であり、全土にわたって民族同士の対立や衝突が報告
されている(甲63)。また、軍閥同士の戦闘も起こっている。地方の治安は、その土地を支
配する軍閥によって保たれているが不安定であり、各地で強盗や暴行、勢力同士の衝突が
絶えないとの報告がある。
外務省は、本件各処分時におけるアフガニスタンの危険情報について、カブール市内は
危険度4「渡航延期勧告」を、その他の地域については警察等による治安維持能力が極め
て低く、各地で異なるグループ間の武力衝突や地方自治を巡る混乱も発生しており、不安
定な状況が続いているとして、危険度の最高レベルである危険度5「退避勧告」を発出し
ている(甲107の)。
ウ 人権
地方においては、武装集団による攻撃からの政府等の公的な保護を受けることは困難で
あり、ある者が攻撃のリスクにさらされるかどうかは地理的出身地、政治的な所属及び民
族的背景の3要素によって決まる。例えば、北部地域のパシュトゥン人は最も攻撃されや
すく、タリバン政権が崩壊した平成13年(2001年)11月以降、他の民族(パンジール地方
のタジク人が中心であるが、ハザラ人、ウズベク人もタリバン支配に対する反動から攻撃
に加わっている。)による攻撃を受け、難民も発生している。他方、ヘラートのダリ語を話
- 14 -
す(パシュトゥン人)グループは最も攻撃されにくいグループであるとの報告がある。
カブールにおけるハザラ人については、民族的迫害はなく自由な移動が可能であり、ハ
ザラ人(原告によるとシーア派セイドのアンワリ)が大臣を務める農業省には多くのハザ
ラ人が雇用されているとの報告がある。
 アフガニスタンにおけるハザラ人の状況(甲5、6、8、11、21、22、72、76、90)
ア ハザラ人は、ハザラジャットと呼ばれるアフガニスタンの中央部に古くから居住し、自治
を確立していたが、1893年、パシュトゥン人の王であるアブドゥル・レーマンによって制圧
された後は、民族的及び宗教的理由から差別や迫害を受け、奴隷として扱われるなど社会的・
経済的に低い地位に置かれることとなった。1979年、社会主義政権の誕生によって、ハザラ
人は他の民族と平等に扱われるようになり、政府閣僚を輩出するなど一定の社会進出を果た
したが、進学率や公務員への就職等では他の民族に比べて劣位に置かれていた。また、この
ころ、多くのハザラ人がカブールに移住し、特に西カブールはハザラ人の居住地域として国
内最大のものとなった。
イ イスラム統一党は、平成元年(1989年)、ハザラ人の権利獲得を目的としてマザリを中心
として結成された政治組織であり、ハザラ人の政治的・社会的活動の中心的組織であったと
ころ、ナジブラ政権崩壊後にムジャヒディン各派によって樹立された暫定政権からは除かれ
た。同党は、1992年にアフガニスタン全土が内戦状態に陥った後は、カブール市内において
「西カブールの抵抗」と呼ばれる暫定政権に対する抵抗運動を1995年5月まで継続し、27回
もの戦闘を行った(甲21の49頁)。そのような中、1993年2月11日、西カブールのアフシャ
ール地区において、一般市民を含む数百人のハザラ人がラバニ派のマスード将軍に率いられ
たタジク人及びパシュトゥン人勢力によって殺害されるという事件が起きた。
ウ 1995年3月6日、カブール市内において、マスード率いるタジク人勢力とイスラム統一党
との間に戦闘が始まった。この時、イスラム統一党指導者のマザリは、タリバンとの間で、イ
スラム統一党の部隊の重火器を提供する代わり、タリバン部隊がカブール市街に進出してマ
スードと対峙することを合意した。そこで、タリバンは、軽武装の部隊をカブールに投入し
た。ところが、イスラム統一党の部隊が上記合意に反してタリバンへの重火器の引き渡しを
拒否しタリバンの部隊と戦闘を始め、さらにマスードの部隊がタリバンの部隊に一斉攻撃を
したため、タリバンは、市街から撤退を余儀なくされ、数百名の戦死者を出すという痛手を
被った。そして、この撤退の際、タリバンは、マザリらイスラム統一党員7名を逮捕して殺害
した。(甲72の60頁、112頁)
エ イスラム統一党は、1995年5月にカブールから撤退し、その後は、イランの支援を受けつ
つ、バーミヤンを拠点として各地で他民族の勢力と戦闘を行い、1996年にタリバン政権が樹
立された後は、北部同盟に加わった。
オ タリバンはパシュトゥン人を中心とするイスラム教スンニ派の原理主義組織であり、民
族・宗教的理由からハザラ人を敵視し、平成10年(1998年)8月8日に北部のマザリシャリ
- 15 -
フを占領した際には、一般市民を含むハザラ人の大量殺害を行い、その数は数千人に上ると
の報告がなされた。(甲5、6の15頁、8、22の、22のの2頁、)また、同年9月15日にイ
スラム統一党の本拠地であるバーミヤンを陥落させた際にも、多くのハザラ系市民を殺害し
た旨の報告がなされている(甲5、甲6、甲8、甲22の、22のの2頁)。平成13年(2001
年)1月、バーミヤン地方のヤコウランにおいて、100人以上のハザラ住民がタリバン部隊に
より殺害されたとの報告もある(甲72の125頁、76の)。
 難民認定申請に至るまでの原告の行動及び履歴
ア 原告は、平成3年(1991年)にb大学経済学部を卒業し、同大学在学中、dに通学し、英語
を習得した。原告は、平成4年(1992年)ころから、西カブール地区において、父が経営する
自動車部品の仕入れ販売店の手伝いをしながら、イスラム統一党への支援活動(資金、食糧、
医薬品の収集等)をし、平成5年(1993年)に同党に入党し(甲16、93年発行のイスラム統
一党員の身分証)、入党後、党の文化委員会に所属し、党の方針を伝える活動、スローガンを
書いて掲げる活動、さらにはイスラム統一党の要人がマスコミからのインタビューに応じる
際の英語通訳等に従事するようになった。
イ 原告は、平成5年(1993年)、UAEのe社に中古部品の営業員として採用され、その買付等
の業務に従事し、平成6年(1994年)、同社がパキスタンのペシャワールに支店を置いたこ
とから、カブール、マザリシャリフ、ペシャワールを往来する生活を続け、一方で、主にカブ
ールにおいて前記のような党の活動も続けた。そして、同年にはイスラム統一党の指導者を
巡り、マザリとアクバリ(ハザラ人のうちラバニ政権に親和的な勢力アクバリ派の代表)と
が争い、軍事抗争にまで発展したが、原告は、マザリ支持者としてこの戦闘行為に参加した。
アクバリは、この抗争に敗北し、その後、表立ってラバニ政府との協力関係を表明するよう
になった。また、原告は、カブールでのラバニ派の部隊との戦闘にも兵士として参戦するこ
ともあった。
ウ 前記ウのとおり、マスードの部隊(タジク人)は、平成7年(1995年)3月、西カブール
に入ったタリバンを攻撃し、このマスードの部隊には前記アクバリ派に属し西カブールから
追われたハザラ人も加わっていた。結局、タリバンは酉カブールから排除され、マスードの
部隊がこれを制圧したが、当時カブールにいた原告は、自己がイスラム統一党の活動家であ
り、前記のような戦闘行為に参加した経歴もあることから、マスードの部隊を構成するタジ
ク人やアクバリ派の者に逮捕され、殺されるのではないかと恐れ、同じような立場にある者
2名と共にカブールを脱出し、ペシャワールに逃亡した。このようなことから、原告は、ア
フガニスタンで生活することはもちろん、帰国することさえ身体的危険を伴うものと考え、
極力帰国を避けるようになり、両親に会うためにアフガニスタンに入国したのは、平成11年
(1999年)及び平成12年(2000年)の2回であった。
エ 原告は、ペシャワールに逃亡した後も、e社の営業員として働き、平成9年(1997年)には、
同社が開設したf社(その後、f’ 社と改称)に採用され、従前と同様の営業に従事した。こ
- 16 -
れらの営業のため、原告は、平成7年7月22日に本邦へ適法に入国してから平成12年(2000
年)まで、計9回にわたり本邦に適法に入国し、自動車中古部品の買付や輸入等の業務を行
うとともに、シンガポールや韓国にも渡航して同様の業務を行った。また、平成11年(1999
年)ころからは、山口県《地名略》所在のaと取引をするようになった。
その間の平成8年(1996年)、原告は婚姻し、二児をもうけた。また、原告は、平成9年、
f社の業務に従事するため、UAEのシャージャに居住するようになり、家を空けることも多
かったことから、妻子をアフガニスタン北部のマザリシャリフに行かせ、同所で原告の両親
と同居生活をさせた。
オ 原告は、平成10年(1998年)ころからは、イスラム統一党の活動をしなくなった(甲49尋
問調書の49以下)。
カ 前記オの平成10年(1998年)8月のマザリシャリフの大量殺害の際、原告の弟Dは死亡
し、原告の父は負傷した。原告の両親と妻子は、マザリシャリフから《地名略》県に逃れた。
キ 原告は、平成12年(2000年)、f社の業務として、c社を設立し、山口県《地名略》所在の
工場を同社名義で借り受けるなどして本邦での営業活動を行っていた。また、そのころ、原
告は、aの専務取締役であるEから、同社で働くよう誘いを受け、Eを介して、同年12月1
日、広島入管岩国出張所に対し、入管法7条の2に基づく原告の在留資格認定証明書の交付
申請(発行されると最長3年間の滞在が認められる。)を行ったが、この申請に対する判断が
なかなか出なかった(平成13年6月19日に不交付通知がなされた。)。
ク 原告は、平成13年(2001年)4月7日ころ、両親に会う目的でアフガニスタンに帰国し、
カブールに入ったところ、母方の叔父の妻で、数日前に《地名略》県から帰ってきたばかりの
Fから、「タリバンが統一党員である原告の知り合いを拷問し、原告がイスラム統一党で活動
していたことを知り、原告を逮捕するため、原告の両親宅にやって来たが、原告がいなかっ
たため、代わりに原告の父を逮捕した。」旨を聞いた。そして、Fから、危険であるから《地名
略》には行かないよう言われたため、原告は、ペシャワールに戻った。
しかし、原告は、タリバン政権に友好的な関係にあるパキスタンやUAEも危険であると考
え、同月14日、在ドバイ(UAE)の日本総領事に対し査証発給申請をしたものの、短期間でこ
れに対する判断を受けられそうになかったことから、単独で日本に不法入国することを決意
し、偽造旅券(A’ 名義のもの)を用いて、同年6月10日、福岡空港から本邦に入国した。
(上記認定に関し、被告らは、原告は稼働目的で本邦に入国したのであって、入国に至る経
緯及び迫害を受けることの恐怖に関する原告の供述は信用することができない旨主張する。
しかし、原告の入国前のアフガニスタン情勢に関する供述は、アフガニスタンの歴史や各種
の報告とほぼ符合すること、供述の内容自体もとりたてて不自然な点がなく、特に、それま
で適法に本邦に入国していた原告が不法入国するに及んだのは上記認定の経過によるものと
考えるのが自然であること、原告は、難民認定手続の当初は氏名や入国経緯等を偽っていた
ものの、その後の難民認定手続や、刑事公判手続及び本件訴訟手続においては、ほぼ一貫し
- 17 -
て上記認定と同旨の供述をしており、原告の供述の信用性に疑問を抱かせるような供述の変
遷は窺われないこと等の点にかんがみると、原告の供述は、上記認定の限度では、信用する
ことができる。)
ケ 原告は、本邦入国後、前記《地名略》工場に居住し、aの関係者には短期ビザで入国したと
偽り、従前どおり、f’ 社(旧f社)のために自動車部品の買付や輸出等を行っていた。
原告は、入管法62条の2第2項のいわゆる60日ルールについては、本邦へ不法入国する
前から知っていたが(甲49の181)、不法入国者であり、迫害を受けるおそれを立証する明ら
かな物証を所持していないことや過去に来日歴があることから、自分の供述を信用してもら
えずアフガニスタンに強制送還されるのではないかとの不安を抱いていたこと、日本に入国
したことにより自己の生命が危険にさらされるのを一応避けられたという安心感、また、現
在申請中である在留資格認定証明書が交付されれば、正式な在留資格が与えられ、不法滞在
が合法化されるものと思いこんでいたこと、難民認定申請をすると、前記在留資格認定証明
書の申請と二重申請になり、在留資格認定証明書の発行を受けられなくなると考えたことか
ら、入国後直ちに難民認定申請をしなかった。
原告は、同年6月下旬、前記在留資格証明書不交付通知がなされたことを知ったが、不交
付の理由が原告のUAEにおける住所が不安定であるためであると聞き、同年8月6日、再度、
Eを通じて広島入管に在留資格認定証明書の交付申請を行った。
原告は、上記証明書が発行されないため、8月27日、難民の支援活動をしているカトリッ
ク教会に電話をして難民認定の相談をし、同年9月12日、福岡入管に対して難民認定申請を
行った。原告は、密航ブローカーから、「日本に入国したことのある者が難民認定を受けるた
めには自分の名前でなく他人の名前を使わなくてはいけない。認定されるためにはタリバン
から迫害を受けるおそれがあるという証拠が必要である。海路で入国したと述べる方がよ
い。」とのアドバイスを受け、A”(イスラム統一党の軍事司令官でタリバンにより逮捕勾留
されたことがある者)に対する拘束令状の写しを購入し、A” と偽って上記申請をし、同写し
を提出し、入国経緯については、船で横浜港から入国したと偽った。また、60日ルールによ
って申請が不適法となることをおそれ、入国日を同年8月22日と偽った。
しかし、原告は、福岡入管での事情聴取を受けるうち、密航ブローカーのアドバイスでし
た難民認定申請では難民として認められないと判断し、同年9月22日、大阪で難民支援活動
を行っているGに相談し、同年11月7日、大阪入管に対し、本名で難民認定申請を行ったが、
その際にも、ペシャワールから韓国を経由して同年8月22日に横浜港に上陸したとして、入
国日及び入国経路を偽った。

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