難民認定をしない処分等取消請求事件
平成14年(行ウ)第81号
原告:A、被告:大阪入国管理局主任審査官
大阪地方裁判所第7民事部(裁判官:川神裕・山田明・一原友彦)
平成17年4月7日
判決
主 文
1 被告法務大臣が原告に対し平成12年2月10日付け通知書により同月23日に通知した難民の認
定をしない処分を取り消す。
2 被告法務大臣が原告に対し平成14年3月7日付け通知書により同月18日に通知した出入国管
理及び難民認定法(平成16年法律第73号による改正前のもの)61条の2の4第1号の規定による
異議の申出は理由がない旨の裁決の取消しを求める訴えを却下する。
3 原告のその余の請求をいずれも棄却する。
4 訴訟費用は、原告に生じた費用の4分の1と被告法務大臣に生じた費用の3分の1を被告法務
大臣の負担とし、その余の全費用を原告の負担とする。
事実及び理由
第1 請求
1 主文1項同旨
2 被告法務大臣が原告に対し平成14年3月7日付け通知書により同月18日に通知した出入国管
理及び難民認定法(平成16年法律第73号による改正前のもの。以下「法」という。)61条の2の4
第1号の規定による異議の申出は理由がない旨の裁決(以下「本件不認定裁決」という。)を取り
消す。
3 被告法務大臣が原告に対し平成14年3月18日付け裁決通知書により同日に通知した法49条1
項の規定による異議の申出は理由がない旨の裁決(以下「本件退去裁決」という。)を取り消す。
4 被告大阪入国管理局主任審査官(以下「被告主任審査官」という。)が原告に対し平成14年3月
18日付けでした退去強制令書発付処分(以下「本件令書発付処分」という。)を取り消す。
第2 事案の概要
1 訴訟の対象
本件は、アフガニスタン国籍を有する原告が、被告法務大臣に対し、帰国すれば迫害を受ける
おそれがあるなどとして難民認定申請をしたところ、平成12年2月10日付通知書により同月23
日に難民の認定をしない処分(以下「本件不認定処分」という。)の通知を受けたため、被告法務
大臣に対し、法61条の2の4の規定による異議の申出をしたが、本件不認定裁決を受け、また、
法24条4号ロに該当する旨の大阪入国管理局(以下「大阪入管」という。)入国審査官の認定及び
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当該認定に誤りがない旨の大阪入管特別審理官の判定を受けたため、被告法務大臣に対し、法49
条1項の規定による異議の申出をしたが、本件退去裁決を受け、さらに、本件令書発付処分を受
けたことから、本件不認定処分、本件不認定裁決、本件退去裁決及び本件令書発付処分の各取消
しを求めている抗告訴訟である。
2 法及び条約の定め
 法における「難民」とは、難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)1条の規定又
は難民の地位に関する議定書(以下「議定書」という。)1条の規定により難民条約の適用を受
ける難民をいう(法2条3号の2)。
 議定書1条は、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的
意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国
の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を
有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及び常居所を有していた国の外に
いる無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような
恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの(同条2、難民条約
1条A。以下、これらの者を単に「難民」という。)について、難民条約2条から34条までの
規定を適用する旨規定している。
3 前提事実(争いのない事実及び証拠〔書証番号は特記しない限り枝番を含む。以下同じ。〕等に
より容易に認められる事実)
 原告は、1960年(昭和35年)アフガニスタンにおいて出生した、アフガニスタン国籍を有す
る外国人の男性である。原告の属する民族はハザラ人、信仰する宗教はイスラム教シーア派で
ある(弁論の全趣旨)。
 原告は、平成8年1月29日、アフガニスタンの首都カブールにおいてアフガニスタン旅券の
発給を受けた(乙1)。
 原告は、平成9年1月26日、同年9月4日及び平成10年3月9日の3回にわたり、在パキス
タン・イスラム共和国(以下「パキスタン」という。)日本国特命全権大使から、渡航目的を短
期滞在とする1回限りの有効な渡航証明書の発給を受け、それぞれ平成9年1月31日、同年9
月8日及び平成10年3月16日、関西空港に到着し、大阪入管関西空港支局入国審査官に対し上
陸の申請をし、同入国審査官から、在留資格を「短期滞在」(法別表第一の三)、在留期間を「90
日」とする上陸の許可を受けて本邦に上陸し、それぞれ平成9年4月29日、同年12月6日及び
平成10年6月13日に本邦を出国した(乙2ないし4)。
 原告は、同年9月15日、在パキスタン日本国特命全権大使から、渡航目的を短期滞在とする
1回限りの有効な渡航証明書の発給を受け、同月28日、関西空港に到着し、大阪入管関西空港
支局入国審査官に対し上陸の申請をし、同入国審査官から、在留資格を「短期滞在」、在留期間
を「90日」とする上陸の許可を受けて本邦に上陸した(乙5、6)。
 原告は、同年11月27日、大阪入管において、難民認定の申請をしたい旨の意思を表明し、職
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員から難民認定申請書の用紙を受領してその記入方法等の指示を受けたが、その場で英文での
記入を行うことができなかったため、これを持ち帰り、同月30日、大阪入管において、難民認
定申請書を提出した(以下「本件難民認定申請」という。乙13)。
 原告は、同年12月17日、平成11年3月16日、同年6月18日、同年9月13日及び同年12月15
日の5回にわたり、大阪入管において、被告法務大臣に対し、「難民認定申請のため」との理由
による在留期間の更新を申請し、各同日、被告法務大臣から、在留資格を「短期滞在」、在留期
間を 「90日」とする在留期間の更新の許可を受けた(乙6ないし10)。
 被告法務大臣は、平成12年2月10日付けで、本件難民認定申請は法61条の2第2項所定の期
間を経過してされたものであり、かつ、同項ただし書の規定を適用すべき事情は認められない
との理由により、本件不認定処分をし、原告に対し、同日付け通知書をもって、同月23日、その
旨を通知した(乙15)。
原告は、同月25日、被告法務大臣に対し、本件不認定処分について、法61条の2の4第1号
の規定による異議の申出をした(乙16)。
 原告は、同年3月17日、大阪入管において、被告法務大臣に対し、「難民不認定異議申出中及
び裁判準備の為」との理由による在留期間の更新を申請した(乙11)ところ、被告法務大臣は、
同月21日、上記申請を不許可とする処分(以下「本件更新不許可処分」という。)をし、同日、原
告に対し、その旨を通知した(乙12)。その結果、原告は、最終在留期限である同日を超えて本
邦に残留することとなった。
 大阪入管入国警備官は、同月24日、原告について、法24条4号ロ(不法残留)に該当すると
疑うに足りる相当の理由があるとして違反調査に着手し、同年7月24日、大阪入管主任審査官
から収容令書の発付を受け、同月26日、同収容令書を執行し、原告を大阪入管入国審査官に引
き渡した(乙18)。
 大阪入管入国審査官は、同年10月11日、原告について違反審査を実施した結果、原告が法24
条4号ロに該当する旨認定し、その旨を原告に通知したところ、原告は、同日、口頭審理の請求
をした(乙20)。
 大阪入管特別審理官は、同年11月13日、原告に対し口頭審理を実施した結果、入国審査官の
上記認定には誤りがない旨判定し、その旨を原告に通知したところ、原告は、同日、被告法務大
臣に対し、法49条1項の規定による異議の申出をした(乙21、22)。
 被告法務大臣は、平成14年3月7日付けで、本件難民認定申請は法61条の2第2項所定の期
間内にされたものと認められるが、原告は難民条約上の難民に該当せず、難民の認定をしない
とした本件不認定処分の判断に誤りは認められないとの理由により、本件不認定裁決をし、原
告に対し、同日付け通知書をもって、同月18日、その旨を通知した(乙17)。
 被告法務大臣は、同月7日付けで、本件退去裁決をした(乙23)。被告主任審査官は、原告に
対し、同日付け裁決通知書をもって、同月18日、本件退去裁決を通知するとともに、同日付け
で、送還先をアフガニスタンとして、本件令書発付処分をした(乙24、25)。
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 原告は、同年6月17日、本件訴えを提起した。
 近年におけるアフガニスタン情勢の概要は、次のとおりである。
ア アフガニスタンは、イラン系のパシュトゥーン人やタジク人、モンゴロイド系のウズベク
人やハザラ人等の民族が混在する多民族国家である。アフガニスタンにおいては、1979年
(昭和54年)12月、「ソビエト社会主義共和国連邦軍(以下「ソ連軍」という。)の軍事介入の
下にカルマル社会主義政権が誕生し、1986年(昭和61年)5月にはナジブラが書記長に就任
して政権を引き継いだが、イスラム教徒民兵組織であるムジャヒディーンがゲリラ戦を展開
し、ソ連軍は、1989年(平成元年)2月、アフガニスタンから完全に撤退し、1992年(平成4
年)4月、ムジャヒディーンの軍事攻勢によりナジブラ政権が崩壊した。ムジャヒディーン
には、イスラム教スンニ派でパシュトゥーン人中心のイスラム党(ヘクマチヤル派)、タジク
人中心のイスラム協会(ラバニ派)、ウズベク人中心のイスラム国民運動党(ドストム派)、イ
スラム教シーア派のハザラ人中心のイスラム統一党(ヘズベ・ワフダッド)マザリ派(後の
ハリリ派)、同アクバリー派、イスラム運動(ハラカティ・イスラミ)等が属していたところ、
1993年(平成5年)1月、イスラム協会の最高指導者・ラバニが大統領に就任したが、各派
間の主導権争いが激化し、全土が内戦状態に巻き込まれることとなった。
イ 1994年(平成6年)、パシュトゥーン人を中心とし、ムッラー・ムハマド・オマルが率い
るイスラム原理主義勢力タリバンが台頭し、イスラム原理主義政権の画立を目指して勢力を
拡大し、1996年(平成8年)9月末にはラバニ派を中心とする政権が支配していた首都カブ
ールを制圧し、暫定政権の樹立を宣言した。これに対し、ラバニ派ハリリ派ドストム派等の
各派は、北部マザリ・シャリフを中心に反タリバン同盟(通称北部同盟)を結成し抵抗を続
けたが、1998年(平成10年)夏には、タリバンの攻勢によりマザリ・シャリフ及びイスラム
統一党の拠点バーミヤンが陥落し(その際、2000人以上が虐殺されたとの報道等もあった。)、
同年末には、アフガニスタン国土の大半をタリバンが支配するに至った。
ウ アメリカ合衆国軍(以下「米軍」という。)とグレート・ブリテン及び北部アイルランド連
合王国軍は、2001年(平成13年)10月7日(日本時間8日)、同年9月のいわゆる同時多発テ
ロ事件を契機として、ウサマ・ビンラディンの引渡しを拒否したタリバン政権に対する攻撃
を開始する一方、北部同盟も米軍等の支援を受けて進攻した。タリバン政権は、同年11月13
日、首都カブールを放棄し、同年12月7日ころには、組織として崩壊するに至った。
エ 他方、国際連合(以下「国連」という。)の主導により、暫定政府発足のためのアフガニスタ
ン代表者会議が開催され、同月5日、アフガニスタン暫定行政機構が向こう6か月以内に開
催される緊急国民大会議(ロヤ・ジルガ)まで国政を担当し、同会議で樹立される暫定政府
がその後の統治に当たることで合意し、同月22日、パシュトゥーン人であるハミド・カルザ
イを議長(首相)とする暫定行政機構が正式に発足した。同機構の閣僚は、議長を含め30名
であるところ、ハザラ人5名(女性閣僚1名を含む。)が閣僚に就任した(乙27)。日本政府も、
同月20日、同機構を政府として正式に承認することを閣議決定し(乙29)、平成14年2月に
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は、東京でアフガニスタン復興支援会議が開催され、同月19日には、カブールの在アフガニ
スタン日本大使館が再開され(乙30)、同年5月1日には川口外務大臣がアフガニスタンを
訪問した(乙31)。そして、同年6月に開催された緊急ロヤ・ジルガにおいて、カルザイ暫定
政権議長が国家元首(大統領)に選出されて移行政権が発足し、ハザラ人でイスラム統一党
の指導者であるカリム・ハリリが副大統領に指名されたほか、ハザラ人閣僚が5名選出され
た(乙28)。
4 争点及び当事者の主張
 本件不認定処分の適法性について
(原告の主張)
次のとおり、本件不認定処分は違法である。
ア 本件不認定処分は、法61条の2第2項に定める制限期間遵守の有無について認定を誤った
瑕疵がある。
イ 仮に、本件不認定処分の理由が本件不認定裁決により同項違反から難民非該当に差し替え
られたとしても、①原告がハザラ人であること、②原告がマザリ・シャリフに居住していた
こと、③マザリ・シャリフにおいては、シーア派ハザラ人を中心とする勢力がタリバンの攻
勢に対して激しく抵抗していたこと、④原告は、マザリ・シャリフがタリバンの攻勢により
陥落する直前にマザリ・シャリフを脱出したものであること、⑤その当時、原告は戦闘員と
なり得る年代の男性であったこと、⑥原告のマザリ・シャリフ脱出以降、タリバンは、マザ
リ・シャリフを含むアフガニスタンのほぼ全土を掌握するに至ったこと、⑦タリバンがアフ
ガニスタン掌握の過程でハザラ人を中心とする人々を大量虐殺したことに照らせば、本件不
認定処分の当時、原告は、ハザラ人であることやシーア派を信仰していることによりタリバ
ンから無差別に身体を傷つけられ、又は拘束されて自由を奪われるという迫害を受けるおそ
れがあるという十分に理由ある恐怖を有し、難民に該当していた。
(被告法務大臣の主張)
ア ①申請者が難民に該当しないこと(以下「難民非該当」という。)、 ②難民認定申請が法61
条の2第2項所定の期間経過後にされたもので、かつ、同項ただし書に規定するやむを得な
い事情が認められないこと(以下「制限期間不遵守」という。)のいずれかの申請拒否要件が
あれば難民不認定処分は適法と解すべきところ、本件不認定裁決においては、難民非該当を
理由に本件不認定処分が維持されているから、本件不認定処分は、イのとおり、その処分時
における難民非該当を理由とするものとして適法である。
イ ①原告の供述する本件難民認定申請に至る経緯が不自然で信用できないこと、②原告がア
フガニスタンにおいて迫害を受けるおそれがあることを基礎付ける事情に係る原告の供述も
信用できないこと、③原告の供述を裏付ける手紙等は成立の真正が疑わしく信ぴょう性に乏
しいこと、④本件不認定処分の当時、アフガニスタンにおいて、およそイスラム教シーア派
のハザラ人であれば迫害を受けるおそれがあったとはいえないこと、⑤本件難民認定申請の
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目的が本邦での長期就労にあったと推認できることに照らし、上記の当時、原告は、難民に
該当していなかった。
 本件不認定裁決の適法性について
(原告の主張)
本件不認定裁決は、その理由として、単に難民条約上の難民に該当しない旨を述べるのみで、
その具体的判断内容を明らかにしていない。難民該当性の認定が難民条約及び議定書に基づく
国の義務を履行するための手続であって法務大臣に裁量判断の余地がなく、その判断を誤れば
申請者の生命・身体・自由に重大な危険を生じさせることになるものであることを考慮すると、
本件不認定裁決は、行政処分においては、判断の慎重・合理性を担保し、申請者の争訟提起の
便宜を図るため、その理由を被処分者に明らかにしなければならないという憲法上の要請に反
し、違法である。
(被告法務大臣の主張)
難民の認定は、難民条約に定める各種保護を与える前提として、申請人たる外国人が難民条
約の適用を受ける難民であることを確認する行為であり、難民不認定処分ないしこれに係る裁
決は、当該外国人が難民条約の適用を受ける難民とは認定できないことを確認するにすぎず、
本来、外国人に保障された人権を制約するという性格のものではない。そうすると、難民不認
定処分及びこれに係る裁決において、法務大臣は難民該当性を基礎付ける事実の存在が認めら
れないとき又は制限期間を経過して申請がされ、かつそのことにやむを得ない事情が認められ
ないときは、難民と認定できないことになるから、これを理由として提示すれば足りるという
べきである。本件不認定裁決は、難民に該当しない旨の理由が付されており、適法である。
 本件退去裁決の適法性について
(原告の主張)
次のとおり、原告に対しては在留特別許可が付与されるべきであったのであり、本件退去裁
決において原告に在留特別許可を付与しなかった被告法務大臣の判断は、違法である。
ア 前記(原告の主張)イの諸事情に加え、アフガニスタンでは本件退去裁決がされた時点
においてもタリバンの復活のおそれが存在しており、原告の迫害に対する恐怖心を解消する
程度に状況が安定していたとは到底いえないことを考慮すると、原告は、その時点において
も、難民に該当し、アフガニスタンへ帰国すると生命、身体及び自由への侵害の危険が明ら
かに予想されていた。また、仮に、原告が難民に当たらないとしても、上記時点におけるアフ
ガニスタンの状況に照らし、原告にはなお生命、身体又は自由に対する相当大きな脅威が存
在していた。したがって、被告法務大臣の上記判断は、日本国憲法(以下「憲法」という。)13
条、14条、市民的及び政治的権利に関する国際規約(以下「B規約」という。)6条、7条、9
条、26条の各規定に違反するし、仮に、そうでないとしても、それらの規定の趣旨に照らせ
ば、被告法務大臣の裁量権の範囲を大きく逸脱したものである。
イ 前記(原告の主張)イの諸事情によれば、本件不認定処分の当時、原告は、合法的に日本
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国に在留している難民として、国の安全又は公の秩序を理由とする場合を除くほか、他国に
追放されない権利を有し、被告法務大臣は、原告の在留期間の更新を許可し続けるべき義務
を負っていた(難民条約32条)。ところが、前記前提事実のとおり、原告は、被告法務大臣が
本件不認定処分に相前後して原告の在留期間の更新を不許可とした結果、法24条4号ロに該
当するに至ったものであり、このまま退去強制されれば、5年間の上陸拒否(法5条1項9
号後段)という重大な不利益を被ることになる。そうすると、仮に、本件不認定処分後の事情
の変動により、原告が本件不認定裁決ないし本件退去裁決の時点では難民に該当しなくなっ
ていたとしても、それは本件不認定裁決に係る手続の遅延によるものであり、そのために原
告が上記のような不利益を被るのは極めて不合理である。したがって、被告法務大臣の上記
判断は、明らかに裁量権の範囲を逸脱したものである。
(被告らの主張)
前記(被告法務大臣の主張)イのとおり、本件不認定処分の時点において原告は難民に該
当していなかった上、本件退去裁決がされた当時、アフガニスタンにおいては、タリバンは組
織として完全に崩壊し、相当数のハザラ人が参加した暫定政権が成立していて、原告が迫害を
受けるおそれはなかったこと、原告の本邦入国が就労目的で、本件難民認定申請の動機も本邦
で長期間就労を継続することにあったものと推認できること、その他原告に在留を特別に許可
すべき理由は見いだせないことを考慮すれば、原告に在留特別許可を付与しなかった被告法務
大臣の判断が、裁量権の範囲を逸脱し、又はこれを濫用したものとはいえず、本件退去裁決は
適法である。
 本件令書発付処分の適法性について
(原告の主張)
前記(原告の主張)のとおり、本件退去裁決は違法であるから、法49条5項の規定により
本件退去裁決に基づいてされた本件令書発付処分も違法である。
また、前記(原告の主張)アの諸事情によれば、原告は、本件令書発付処分がされた当時に
おいても難民であり、アフガニスタンにおいて生命等が脅威にさらされるおそれがあったか
ら、本件令書発付処分は、難民条約32条1項及びノン・ルフールマン原則(難民条約33条1項、
法53条3項、拷問等禁止条約3条1項)に反し、違法である。
(被告主任審査官の主張)
被告主任審査官は、被告法務大臣が本件退去裁決をした以上、本件令書発付処分をしなけれ
ばならないところ(法49条5項)、前記(被告らの主張)のとおり、本件退去裁決は適法であ
るから、これに基づいてされた本件令書発付処分も適法である。
なお、前記(被告らの主張)のとおり、原告は、本件不認定処分の時点において難民に該当
せず、本件退去裁決がされた当時にも、アフガニスタンに送還されても迫害を受けるおそれは
なかったのであるから、本件令書発付処分は、難民条約32条1項及びノン・ルフールマン原則
に違反しない。
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第3 当裁判所の判断
1 本件不認定処分の適法性(争点)について
 判断の枠組みについて
ア 前記前提事実によれば、本件不認定処分は、その処分がされた当初においては、制限期間
不遵守を処分理由としてされたものであったが、その後、本件不認定裁決により、上記処分
理由が撤回され、難民非該当に差し替えられた上で、原告について難民の認定をしないとい
う結論が維持されたものと認められる。また、被告法務大臣も、本件訴訟において、本件不認
定処分の処分理由としては難民非該当のみを主張し、制限期間不遵守の主張はしないことを
明確にしている。そうすると、本件不認定処分の取消訴訟において問題となる処分理由は、
難民非該当に限られるというべきであり、たとえ本件難民認定申請が法61条の2第2項所定
の制限期間内にされたもので、当初の処分理由が誤りであったとしても、そのことによって
本件不認定処分の違法が導かれるものではない。したがって、本件不認定処分に同項所定の
制限期間遵守の有無の認定を誤った瑕疵がある旨の原告の主張は失当である。
なお、制限期間不遵守のみを処分理由としてされた難民不認定処分の取消訴訟において法
務大臣が新たに難民非該当を処分理由として主張することが許されるか否かについては、議
論の存するところである。しかしながら、本件では、本件不認定裁決において、本件不認定処
分の処分理由(制限期間不遵守)と異なる処分理由(難民非該当)により、原告について難民
の認定をしないという本件不認定処分の結論が維持されたのであるから、被告法務大臣は、
本件不認定裁決により、原告が難民に該当するか否かについて、難民調査官による事実の調
査(法61条の2の3)を経た上で、専門的見地から第一次的判断権を行使したものと評価す
ることができるから、被告法務大臣が難民非該当を本件不認定処分の処分理由として主張す
ることに何ら差し支えはないというべきである。
イ 上記のとおり、本件不認定処分は、本件不認定裁決により、難民非該当という処分理由の
下で維持されたものであるところ、被告法務大臣は、本件訴訟において、本件不認定処分の
時点において認められた事情を基礎として本件不認定裁決を行ったとし、難民該当性の判断
は本件不認定処分時が基準時になる旨明確に主張している。そうであれば、本件不認定処分
の取消訴訟において問題となる原告の難民該当性判断の基準時は、本件不認定処分の時と解
するのが相当である。
ウ 前記法及び条約の定めのとおり、議定書1条は、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集
団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由
のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けること
ができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まな
いもの及び常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有していた国
に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に
帰ることを望まないものについて、難民条約2条から34条までの規定を適用する旨規定して
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いる。
そして、ここにいう「迫害」とは、通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし
圧迫であって、生命又は身体ないしその自由の侵害又は抑圧をもたらすものを意味し、「迫害
を受けるおそれがある十分に理由のある恐怖を有する」というためには、その者が迫害を受
けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情のみならず、通常人がその者の
立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情が存在していることが必要であ
ると解される。
エ 難民非該当を処分理由とする難民不認定処分の取消訴訟において、申請者が難民に当たる
こと又は当たらないことの立証責任をいずれの当事者が負うべきかについては、①法61条の
2第1項は、「法務大臣は、……申請があったときは、その提出した資料に基づき、その者が
難民である旨の認定を行うことができる。」と定め、出入国管理及び難民認定法施行規則55
条1項は、難民の認定を申請しようとする外国人は、難民に該当することを証する資料を提
出しなければならないと定めていること、②難民の認定は、申請者の難民該当性について公
の権威をもって判断する行為で、事実の確認であり、これを受けていることが他の利益的な
取扱い(法61条の2の5、61条の2の6、61条の2の8)を受けるための要件となっており、
授益処分に該当するところ、授益処分については原則として申請者に立証責任があると解さ
れること、③難民であることを基礎づける事実は、通常申請者の生活領域内で生じる事実で
あること、④国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の難民認定基準ハンドブックにおいても、
申請を提出する者に立証責任があるのが一般の法原則である旨記述されていること(顕著な
事実)に照らすと、申請者は、自らが難民であることの立証責任を負うものと解するのが相
当である。
しかし、国籍国等において迫害を受け、又は迫害を受けるおそれがある者が、十分な客観
的証明資料を所持せずに国籍国等を出国し、出国後もこれらの資料の収集に困難な場合があ
ることは、経験則上認められるところである。そうすると、上記のとおり、難民であることに
ついての終局的な立証責任を負うのは申請者であるとしても、難民該当性の認定に当たって
は、申請者がこれらの資料を提出せず、あるいは申請者の提出した証拠の信ぴょう性に乏し
い部分があるからといって、直ちに難民であることを否定するのは相当でなく、本人の供述
等を中心に、資料収集の困難な事情をも十分に考慮した上で、申請者が難民であることを基
礎付ける根幹的な事実が認定できるかどうかという観点から判断する必要があるというべき
である。
オ 以上を前提に、本件不認定処分がされた当時、原告が難民に該当していたと認められるか
否かについて検討する。
 本件不認定処分がされた当時のアフガニスタン情勢について
前記前提事実、証拠(後掲)及び弁論の全趣旨によれば、本件不認定処分がされた当時までの
アフガニスタン情勢に閲し、次の各事実が認められる。
- 10 -
ア 1993年(平成5年)以降、全土が内戦状態にあったアフガニスタンにおいては、1994年(平
成6年)、パシュトゥーン人を中心とするイスラム原理主義勢力タリバンが台頭し、イスラム
原理主義政権の樹立を目指して勢力を拡大し、1995年(平成7年)にかけて、カンダハルを
中心とするアフガニスタン南部を制圧した(乙42、45、46、59、60)。タリバンは、同年3月、
カブールに進攻し、同市内を分割支配して対立・抗争していたラバニ派及びイスラム統一党
マザリ派と交戦したが、カブールを制圧するには至らなかった(乙46、59、60)。その過程に
おいて、マザリ派は、ラバニ派及びタリバンの双方から攻撃を受け、カブール市内南西部の
ハザラ人が多く居住する支配地域を失うとともに、指導者マザリがタリバンに拘束されて死
亡し、ハリリが新たに指導者となった(乙44、46、60)。また、タリバンは、同年9月、アフガ
ニスタン西部の中心都市ヘラートを制圧し、同年11月から12月にかけて再びカブールヘの
攻撃を行った(乙46、59、60)。
イ タリバンは、1996年(平成8年)9月末、ラバニ派を中心とする政権が支配していたカブ
ールを制圧し、暫定政権の樹立を宣言した。これに対し、ラバニ派、ハリリ派、ドストム派等
の各派は、北部マザリ・シャリフを中心に反タリバン同盟(通称北部同盟)を結成し抵抗を
続け、1997年(平成9年)5月には、タリバンがマザリ・シャリフを一時占領したのに対し、
数日のうちにこれを撃退した(甲11、乙44)。その際、ハリリ派は、タリバンの兵士約300人
を殺害するとともに、約2000ないし3000人を捕虜にした(甲11、乙44、49)。
ウ これに対し、タリバンは、その後もマザリ・シャリフへの攻撃を継続し、同年9月には、マ
ザリ・シャリフ近郊のゲゼラバードにおいて、子供を含む約70人のハザラ人非戦闘員を殺害
した(甲11、乙49)。また、1998年(平成10年)8月8日、タリバンの攻勢によりマザリ・シ
ャリフが陥落し、タリバンは、前記のとおり多数のタリバン兵士が殺害されるなどしたこと
への報復として、ハザラ人を中心に、約2000ないし8000人の市民を殺害するとともに、多く
の市民を拘束した(甲11、乙44、49、50)。さらに、タリバンは、同年9月13日、ハリリ派の
拠点バーミヤンを陥落させたが、その際の戦闘においても、非戦闘員の市民が多数殺害され
た(甲11、乙49、50)。
エ その後、同年末には、アフガニスタン国土の大半をタリバンが支配するに至ったが、1999
年(平成11年)から2000年(平成12年)にかけても、国際社会による和平調停が行われる一
方で、タリバンと北部同盟との戦闘が継続された(甲11、乙48、50、59)。
オ タリバン政権下におけるハザラ人又はシーア派信仰者に対する人権侵害に関し、国際機関
等により、次のような報告がされている。
ア アフガニスタンにおいては、1995年(平成7年)以降、氏族的対立が目立ち始め、ある
地域が対立する勢力に占拠されると、少数民族に対し、残虐な行為が加えられることがあ
る。アフガニスタンでは、特にタリバンとハザラ人との間に民族的な対立が存在したが、
これまでそのような民族浄化は全く経験されていなかった(乙49)。
イ タリバン政権下における人権侵害の主要な標的には、タリバンと関係しない非パシュト
- 11 -
ゥーン人、宗教的少数者等が含まれていたが、発生した人権侵害の主要な要因は、宗数へ
の加入又は民族的特性によるとは限らず、むしろ、タリバンに対し、実際に反対者であっ
たか又はそのように解されたことによる(乙49)。
ウ タリバンの少数民族に対する対応は、反対勢力との接触の疑いがあるという主に政治的
な動機によるものであり、戦闘地域及び衝突のおそれのある地域の少数民族は、特に危険
である(乙50)。
エ ハザラ人は、その民族のために組織的に迫害されているわけではないが、特に戦闘年齢
の男性は、戦闘地域や反対勢力が形作られている地域において、反対勢力とのつながりを
疑われており、シーア派教徒も同様に反対勢力に属していると疑われることがある(乙
50)。
カ 日本国外務省は、平成10年12月28日付けで、アフガニスタンについて、現地情勢にかんが
み、危険度5の退避勧告の継続を発表し、どのような目的であれ、アフガニスタンへの渡航
は、情勢が安定するまで延期するよう勧告していた(乙59)。
 原告の個人的事情等について
ア 原告は、アフガニスタンにおいて迫害を受けるおそれがあること等に関し、概要、次のよ
うに供述する(甲12、原告本人)。
ア 1960年(昭和35年)、父Bと母の間の四男として出生した。3人の兄(長男C、次男D、
三男E)がいる。1984年(昭和59年)、妻Fと婚姻し、同人との間に3男2女をもうけた。
イ 1979年(昭和54年)、カブールの中等・高等学校を卒業し、社会主義政権による徴兵の
ため2年間の兵役を務めた後、カブールにおいて、Cと共に自動車及び自動車部品の販売
業を営んでいた。
ウ 原告は、同年、ハラカティ・イスラミに入党した。ハラカティ・イスラミにおいては、軍
事部門の指導者であるサイエド・ホセイン・アンワリ将軍のグループに属し、主としてポ
スターの作成、貼付等の仕事に従事していたが、兵士として活動したことはなかった。
エ 1993年(平成5年)、カブールにおいて、パシュトゥーン人及びタジク人のグループ(エ
テハッド)がハザラ人の居住地区に侵攻し、多くのハザラ人を逮捕、殺害し、略奪を行うと
いう事件が発生した。その際、原告は、甥(Eの子)が殺害されるなどしたため、自宅や家
族を守るため、銃を持って上記グループとの戦闘に参加した。
オ 上記のとおり甥が殺害された5か月か6か月前のころ、原告は、上記グループに拘束さ
れて銃床等で殴打されるなどの暴行を受け、翌日に上記グループの捕虜との交換で解放さ
れたものの、上記暴行により歯が折れ、左耳が聞こえなくなるなどの傷害を負い、1週間
の入院を余儀なくされた。
カ 原告は、1996年(平成8年)2月パシュトゥーン人との争いから逃れるため、前記アの
家族と共にカブールからマザリ・シャリフへ移り住み、兄らと共に自動車及び自動車部品
の販売業を営むようになった。
- 12 -
キ 原告は、自動車部品の買付けを行うため、日本語及び英語を話すことのできるハザラ人
Gと共に、平成9年1月31日、同年9月8日及び平成10年3月16日の3回にわたって本邦
に入国・滞在した。その際、Hからマザリ・シャリフにおいて商品を販売して得た買付資
金をGが本邦に開設していた銀行口座に随時送金してもらい、その資金を用いて、Gの通
訳により、中古自動車部品の買付けを行っていた。
ク タリバンは、1998年(平成10年)までに、マザリ・シャリフへ2度侵攻したが、いずれ
も敗退し、そのうち1度目の侵攻時には、約2000名のタリバン兵士が殺害された。原告は、
タリバンとの戦闘に直接加わったことはないが、所有する自動車で戦闘による負傷者を病
院に運び、あるいはイスラム統一党の司令官に資金を提供するなどの援助を行っていた。
ケ 原告及びその兄らは、同年8月、タリバンのマザリ・シャリフに対する3度目の攻勢を
受けて、仮にマザリ・シャリフがタリバンに陥落すれば、若者はタリバンに捕まって殺さ
れてしまうだろうという話になり、兄弟のうちで一番若い原告は、以前からこの時期に予
定していた日本での自動車部品の買付けを行う目的も兼ねて、マザリ・シャリフを脱出す
ることとなった。原告は、同月6月早朝、マザリ・シャリフを出てHに山まで送ってもら
い、以後、山岳地帯を自動車及び徒歩で移動し、バーミヤン、カズニ及びカンダハルを経由
してパキスタンのクィタに到着し、クィタから飛行機でペシャワールに入って、Gと落ち
合った。マザリ・シャリフが陥落したという話は、バキスタンへの移動中にも聞いていた
ものの、そのことを確実な情報として知ったのは、パキスタン入国後である。しかし、それ
までと同様に、今回もタリバンは敗退するのではないかと思っており、また、家族とは連
絡が取れなかったが、タリバン占領下のマザリ・シャリフに戻って家族を捜すわけにも行
かず、このままペシャワールで状況の変化を待っていても仕方がないので、予定どおり自
動車部品の買付けを行うため、日本へ向かうことにした。
コ 同年9月28日、Gと共に本邦に入国し、パキスタンから本邦の自分の銀行口座に送金し
た手持ちの資金1万ドル分の自動車部品の買付けを行ったが、約束していたHからの送金
がなく、資金が尽きたため、Gとの協力関係も維持できなくなった。原告は、Cからの送金
を待つとともに、日銭を稼ぎ、また気を紛らわせるため、塗装工として稼働し始めたが、依
然として送金がないことや、他のアフガニスタン人から聞いた情報により、マザリ・シャ
リフにおいてタリバンがハザラ人に迫害を加えていることが分かったことから、Hがタリ
バンにより殺害されたのではないかと思うようになり、自分もアフガニスタンに帰れば間
違いなく危険であると考え、本件難民認定申請をした。
サ 原告は、平成11年3月、友人のIから兄らがタリバンに捕まったらしいとの話を聞き、
その後、父母及び妻から届いた手紙(甲1ないし3、5)により、3人の兄がタリバンに拘
束されたこと、そのうちDは、一時釈放されたものの、再度拘束されて死亡したこと、Hは
カンダハルの収容所に、Eはシベルガンの収容所にそれぞれ連行されたようだが、結局行
方不明となっていること、父母も亡くなったこと等を知った。
- 13 -
シ 原告の妻及び子らは、長男が成長し、タリバンから目を付けられるおそれが生じたため、
同年、マザリ・シャリフを脱出し、パキスタンへ移り住んだ。
イ 原告は、上記供述の裏付けとして、以下の文書を提出しているので、これらの文書につい
て検討する。
ア イスラム太陽暦1378年4月10日(平成11年7月10日)付け手紙(甲1の1。以下「甲1
の手紙」という。)
a 甲1の手紙の前半部分は、その記載内容から原告の父又は母が作成名義人であること
を読み取ることができ、①マザリ・シャリフの陥落後、Dがタリバンに捕まったが、健
康を害したため、10か月後に釈放されたこと、②Eも、タリバンに拘束されカンダハル
ヘ連行されたこと、③イスラム太陽暦1377年6月1日(平成10年8月23日。なお、甲1
の翻訳文に1378年」とあるのは、「1377年」の誤りと思われる。)、タリバンがマザリ・
シャリフの原告宅を捜索し、モハケック、イスラム統一党等に対する援助の領収書、ア
リ・サルワル司令官に贈与したランドクルーザーの領収書等を押収したこと、④Hはそ
の場にいなかったこと、⑤その後、タリバンは、月に1、2度、原告宅を捜索し、原告の
行方を捜していること等が記載されている。
また、甲1の手紙の後半部分は、原告の妻が作成名義人となっており、タリバンが、原
告宅から、原告がモハケックやドストムと一緒に写った写真等を押収したこと等が記載
されている。
b 原告は、甲1の手紙の筆跡は原告の父のものである旨供述しているところ、被告らは、
甲1の手紙は、成立の真正が疑わしく、内容の信ぴょう性にも乏しいと主張するので、
以下検討する。
 甲1の手紙は、その作成日付けから1年近く前の出来事であるタリバンによる原告
宅の捜索・押収の様子や原告の兄らがタリバンに拘束されたこと等が詳細に記載さ
れ、原告がマザリ・シャリフにとどまっていた場合の危険を強調する内容になってい
る。そうすると、甲1の手紙は、その作成者において原告が本件難民認定申請を行っ
ていることを認識した上で、原告が難民認定を受けるために有利な資料を提供すると
いう目的で作成された可能性があり、その信ぴょう性の吟味は、他の証拠等との整合
性等を踏まえて慎重に行う必要があるものと考えられる。
しかしながら、原告の供述するように、原告の家族において、何らかの方法によっ
て原告が本件難民認定申請をしたことを知り、アフガニスタンに帰国した場合の危険
を報告して原告の援助をするために、あえて上記のような内容の手紙を作成した可能
性も否定できず、上記事情のみをもって甲1の手紙が偽造されたもの又は内容虚偽の
ものとまで断じることはできない。
 また、原告は、原告の家族がペシャワールに行くスンニ派タジク人に甲1の手紙を
託し、その者がペシャワールのパークホテルに滞在中のハザラ人に手紙を手渡し、そ
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のハザラ人が愛知県岡崎市にいたハザラ人Jに甲1の手紙を届け、Jが原告に甲1の
手紙を手渡した旨主張・供述する(原告本人)ところ、被告らは、甲1の手紙の封筒(甲
1の2)には、あて先として、マザリ・シャリフで自動車や自動車部品の販売をして
いた原告に届けてほしい旨の記載しかなく、上記のような託送により、第三者を介し
て現実に、日本に届くとは考えられず、また、上記のような内容の手紙がタリバン等
の手に渡れば家族の生命にも危険が及ぶ可能性があるのに、これをスンニ派の人物に
託すのは不合理であり、さらに、甲1の手紙をJから受け取った際にこれがどのよう
にして届けられたのか尋ねなかったという原告の供述(原告本人)は不自然であるな
どと指摘する。
しかしながら、後記のとおり、イの手紙(甲2の1)には、原告の上記主張ないし供
述に沿う記載がある。また、確かに、証拠(乙66)によれば、平成11年以降、日本とア
フガニスタンとの間の郵便業務は、平成13年10月14日から平成14年1月16日までの
間を除き、特に制限等はされていなかったことが認められるが、長年にわたって内戦
状態にあり、タリバンと北部同盟との戦闘が継続していた当時の情勢に照らすなら
ば、アフガニスタン国内において、郵便制度が正常に機能していたかは疑問であるし、
仮にこれが機能していたとしても、タリバン政権下の郵便制度をあえて利用せず、原
告の家族において信頼できると考えた第三者を介して我が国に滞在する原告に手紙を
届けようとするのも理解できない行動ではない。さらに、原告の供述によれば、Jが
原告の家族から直接甲1の手紙を託されたものでなく、Jが原告の家族の消息を知っ
ているとは限らない状況であったのであるから、原告がJに対し甲1の手紙がどのよ
うにして手元に届けられたかを確認しなかったとしても、それを直ちに不自然な行動
ということはできない。
 被告らは、別件訴訟の判決においてハザラ人J’ の関与した文書の成立の真正に疑
問が示されたことを指摘し、原告の供述するJとは、上記J’ である旨主張する。
しかし、原告はこれを否定する供述をしており(原告本人)、両者が同一人物である
ことを認めるに足りる証拠はない(なお、原告は、甲1の手紙を「大阪で会社を持って
いたハザラ人のJ” から受領した」と主張しており、本人尋問においても、平成12年
ころ、イスラム統一党関係の文書を来日した「J”’」から受け取ったこと、「J”’」を介
して原告の電話番号が家族に伝わったことなどを供述しているが、これらの事情によ
っても、原告の主張又は供述する「J」、「J”」ないし「J”’」と被告の指摘する「J’」
との同一性は明らかではない。)。また、別件訴訟とは事案及び証拠状況を異にする本
件訴訟において、上記判決の判示をもって直ちに甲1の手紙に信ぴょう性がないとま
でいうことはできない。
 したがって、甲1の手紙の記載内容の信用性については、他の証拠等との整合性等
の観点から慎重な吟味が必要であるが、甲1の手紙が父の筆跡である旨の原告の前記
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供述をにわかに排斥することはできず、甲1の手紙が成立の真正の証明を欠き、ある
いはおよそ信ぴょう性に乏しいものとすることはできない。
イ イスラム太陽暦1378年8月15日(平成11年11月6日)付け手紙(甲2の1。以下「甲2
の手紙」という。)
a 甲2の手紙は、原告の妻が作成名義人であり、①この前に出した手紙を託した人は、
パークホテル前に集まっていたハザラ人らが原告を知っていたので、そのうちの1人に
手紙を託した旨述べていること、②イスラム太陽暦1377年6月1日(平成10年8月23
日)、タリバンがマザリ・シャリフの原告宅を捜索し、モハケック、イスラム統一党等に
対する援助の領収書、原告がモハケックやドストムと一緒に写った写真等を押収したこ
と、③その後、タリバンは、月に1、2度、原告宅を訪れ、原告の行方を捜していること、
④イスラム太陽暦1377年7月12日(平成10年10月4日)、Hがタリバンに捕まったこ
と、⑤HとEは、今のところ殺される心配はなく、カンダハルとシベルガンにそれぞれ
収容されているようであること等が記載されている。
b 原告は、甲2の手紙について、筆跡は原告の父のものであり、原告の家族から託送に
よってアフガニスタン国籍を有するKの下に届けられ、同人から原告に手渡された旨供
述しているところ、被告らは、甲1の手紙と同様に、甲2の手紙も、成立の真正が疑わし
く、内容の信ぴょう性にも乏しいと主張する。
しかし、アbにおいて判示したのと同様に、甲2の手紙は、上記のような記載内容に
照らすと、その作成者において原告が本件難民認定申請を行っていることを認識した上
で、原告が難民認定を受けるために有利な資料を提供するという目的で作成された可能
性があり、その記載内容の信用性については、他の証拠等との整合性等の観点から慎重
な吟味が必要であるが、甲2の手紙が父の筆跡である旨の原告の前記供述をにわかに排
斥することはできず、甲2の手紙が成立の真正の証明を欠き、あるいはおよそ信ぴょう
性に乏しいものとすることはできない。
c なお、前記のとおり、甲2の手紙には、イスラム太陽暦1377年7月12日(平成10年10
月4日)にHがタリバンに捕まったことが記載されているところ、仮にこの日付が正し
ければ、イスラム太陽暦1378年4月10日(平成11年7月10日)付けの甲1の手紙に上
記のような記載がないのは、やや不自然といえる。
しかし、上記各手紙の記載が積極的に矛盾するとまではいえないこと、甲2の手紙の
文脈上、Hが捕らわれたのは、イスラム太陽暦1378年7月(平成11年10月)の出来事で
あるとも善解し得ないではないこと、甲1の手紙及び甲2の手紙が偽造され、あるいは
虚偽の内容を記載されたものとするならば、あえてこのような不自然な記載がされると
は考え難いことに照らし、上記の点をもって、甲1の手紙及び甲2の手紙が成立の真正
の証明を欠き、あるいはおよそ信ぴょう性に乏しいものとすることはできない。
ウ イスラム太陽暦1378年9月13日(平成11年12月4日)付け手紙(甲3の1。以下「甲3
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の手紙」という。)
a 甲3の手紙は、原告の父及び妻が作成名義人であり、①最近、Dがタリバンに捕まっ
たこと、②タリバンに拘束されているHはシベルガンにいるが、Eの所在は不明である
こと、③原告がイスラム統一党や司令官に援助したお金と車の受領書をタリバンが持っ
ていったこと、④イスラム統一党のアリ・サルワル司令官の母がバルクアブから原告宅
を訪ねてきて、タリバンの事務所で働いている中立の者が、タリバンの出した文書をこ
っそりと取り出し、イスラム統一党を介してバルクアブヘ送っており、同党は、その文
書内容を協力者に知らせていること、⑤約1月前に原告の従兄弟であるLがタリバンに
捕まり、原告宅の近所でも、数週間前に2人がタリバンに捕まったこと等が記載されて
いる。
b 原告は、甲3の手紙について、筆跡は原告の父のものであり、原告の家族から託送に
よって愛知県岡崎市のMの下に届けられ、同人から原告に手渡された旨供述していると
ころ、被告らは、甲1、2の手紙と同様に、甲3の手紙も、成立の真正が疑わしく、内容
の信ぴょう性にも乏しいと主張する。
しかし、アbにおいて判示したのと同様に、甲3の手紙は、上記のような記載内容に
照らすと、その作成者において原告が本件難民認定申請を行っていることを認識した上
で、原告が難民認定を受けるために有利な資料を提供するという目的で作成された可能
性があり、その記載内容の信用性については、他の証拠等との整合性等の観点から慎重
な吟味が必要であるが、甲3の手紙が父の筆跡である旨の原告の前記供述をにわかに排
斥することはできず、甲3の手紙が成立の真正の証明を欠き、あるいはおよそ信ぴょう
性に乏しいものとすることはできない。
エ イスラム太陰暦1419年《日付略》付け殺害指示書(甲4)
a 上記殺害指示書は、バルフ県諜報部事務所マザリ・シャリフ支部のNが作成名義人で、
その旨の署名があり、Bの息子で、イスラム統一党に所属し、《地名略》県出身の原告は、
アブガニスタン・イスラム首長国の敵であり、その逮捕を執行すること及びもし逮捕で
きない場合は見つけ次第処刑することを許可する旨が記載されている。なお、上記殺害
指示書の右上部には、イスラム太陽暦で1378年《日付略》との日付が記載されている。
b 上記殺害指示書は、仮にこれが真正に成立したものであるとすれば、タリバン内部に
おいて保管されているはずの文書であるところ、原告は、その入手経緯について、タリ
バンの事務所職員が上記殺害指示書を盗取してイスラム統一党に手渡し、これをアリ・
サルワル司令官の母が原告宅に持参し、原告の家族が甲3の手紙に同封して託送した旨
主張しており、甲3の手紙にもこれに沿う記載がある(前記ウaの④)。
しかしながら、上記のような入手経緯は、タリバンの事務所職員が自ら危険を冒して
まで上記殺害指示書を盗取してイスラム統一党に交付したとする点において非常に不自
然であり、容易には納得できない。また、原告の供述(原告本人)を前提としても、原告は、
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イスラム統一党の党員ではなく、同党に対し他のお金を持っているハザラ人と同等の資
金援助等を行っていたにすぎないのであり、そのような原告に対し、マザリ・シャリフ
の陥落後18日程度しか経過していない時期に、わざわざ上記のような殺害指示書が発行
されるというのも、不自然な印象を免れない。さらに、前記のような人定事項を基にし
て実際に原告を捜し出すのは、非常に困難であると考えられる。これらの事情に照らす
と、甲3の上記記載及び原告の上記主張をにわかに採用することはできず、他に上記殺
害指示書が真正に成立したことを認めるに足りる証拠はない。
したがって、上記殺害指示書は、成立の真正に疑問があり、信ぴょう性に乏しいもの
といわざるを得ない。
オ イスラム太陽暦1379年3月16日(平成12年6月5日)付け手紙(甲5の1。以下「甲5
の手紙」という。)
a 甲5の手紙は、原告の妻が作成名義人であり、①原告の両親が死亡したこと、②タリ
バンが原告宅にDの遺体を持ってきたこと、③原告の妻子らは、原告の長男が大きくな
り、タリバンにより逮捕・殺害される危険が高まったため、マザリ・シャリフからパキ
スタンヘ行くことにしたこと、④Dは、タリバンに捕まり、一度釈放されたが、それは原
告を捕まえるための罠であり、原告がいないことが分かると、タリバンは、もう一度D
を拘束し、拷問して殺害したこと、⑤パキスタンまで逃げたときのことを電話で話した
かったが、時間がなく、お金もかかるので手紙にしたこと、⑥原告の妻子らは、パキスタ
ンの《地名略》港に到着した後、イスラム統一党の援助を受け、現在はパキスタンの《地
名略》に住んでいること、⑦パキスタンへ向かう途中、持っていたお金と装飾品をタリ
バンに取り上げられたこと等が記載されている。
また、その封筒(甲5の2)の表面には、あて先を大阪市生野区所在のaという会社の
Oとする旨及び甲5の手紙を原告に渡してほしい旨が記載され、2000年(平成12年)、
6月13日付けの消印が押捺されており、その裏面には、パキスタンの《地名略》におけ
る原告の家族の住所が記載され、国際エクスプレスメールによって上記aに配達された
ことを示す伝票が貼付されている。
b 原告は、甲5の手紙について、誰の筆跡かは不明であるが、何者かが文字の読み書き
ができない原告の妻が述べたことを代書したもので、原告の家族がaに勤務する原告の
同僚のOあてに郵便を出した旨供述しているところ、被告らは、甲1ないし3の手紙と
同様に、甲5の手紙も、成立の真正が疑わしく、内容の信ぴょう性にも乏しいと主張す
る。
しかし、アbにおいて判示したのと同様に、甲5の手紙は、上記のような記載内容に
照らすと、その作成者において原告が本件難民認定申請を行っていることを認識した上
で、原告が難民認定を受けるために有利な資料を提供するという目的で作成された可能
性があり、その記載内容の信用性については、他の証拠等との整合性等の観点から慎重
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な吟味が必要であるが、原告の上記供述をにわかに排斥することはできず、甲5の手紙
が成立の真正の証明を欠き、あるいはおよそ信ぴょう性に乏しいものとすることはでき
ない。
なお、原告は、平成12年4月ないし5月ころに原告の妻から電話連絡があった旨供述
している(乙37)ところ、被告らは、同年6月になってわざわざO経由で甲5の手紙を
出す必要はなかった旨主張するが、甲5の手紙の分量やその記載内容の重要性に照らせ
ば、その伝達のために電話ではなく手紙を用いたことも首肯し得るところである。
カ イスラム太陽暦1371年《日付略》付け病院紹介状(甲7)
a 上記病院紹介状は、b衛生局の医師が作成名義人であり、カブールの病院あてに、①
原告はハラカティ・イスラミのメンバーであり、アフガニスタン・イスラム国の敵によ
って拷問を受けたこと、②原告は重傷であり、入院と投薬による治療を希望すること等
が記載されている。
b 原告は、原告の家族が、原告宅にあった上記病院紹介状をパキスタンへ持参し、甲8
ないし10の文書と共に甲5の手紙に同封して郵送してきたのではないかと思う旨供述
する。
しかしながら、原告は、甲7ないし10の文書について、原告の妻が2000年(平成12
年)5月24日付けの封筒に入れてペシャワールから原告に送付した旨主張しているこ
と、甲1ないし3の手紙には、タリバンが原告宅を繰り返し捜索し、イスラム統一党
等に提供した資金の領収書等を押収していることが記載されていること、甲5の手紙
には、原告の妻がパキスタンへ向かう途中、所持していたお金と装飾品をタリバンに取
り上げられた旨記載されていること、上記aの記載内容は、単なる病院の紹介状とし
ては不自然であり、平成4年当時に発行された上記病院紹介状を、その後も原告宅に保
管していた理由も明らかでないことに照らすと、原告の上記供述をにわかに採用するこ
とはできず、他に上記病院紹介状が真正に成立したことを認めるに足りる証拠はない。
したがって、上記病院紹介状は、成立の真正に疑問があり、信ぴょう性に乏しいもの
といわざるを得ない。
キ イスラム太陽暦1377年《日付略》付け避難指示書(甲8)
a 上記避難指示書は、ハラカティ・イスラミのサイエド・ホセイン・アンワリ司令官が
作成名義人であり、①ロシアとの戦闘の際及びマザリ・シャリフにおけるタリバンの攻
撃の際に、原告が政治・経済・文化面で多大な支援をしたことを賞すること、②原告は
ハラカティ・イスラミの国家に貢献する人物であり、原告及びその家族は危険な状況で
あるため、マザリ・シャリフから避難するよう指示すること等が記載されている。
b 原告は、原告の家族が、原告宅にあった上記避難指示書をパキスタンへ持参し、甲7、
9、10の文書と共に甲5の手紙に同封して郵送してきたのではないかと思う、旨供述す
る。
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しかしながら、カbにおいて判示したないしの事情に加え、上記aの記載内容は、
余りにも説明的で、原告に避難を指示するためにわざわざこのような文書を作成する必
要性があるのか疑問であることに照らすと、原告の上記供述をにわかに採用することは
できず、他に上記避難指示書が真正に成立したことを認めるに足りる証拠はない。
したがって、上記避難指示書は、成立の真正に疑問があり、信ぴょう性に乏しいもの
といわざるを得ない。
ク イスラム太陽暦1358年《日付略》付け党員証(甲9)
a 上記党員証は、ハラカティ・イスラミの党員証である。
b 原告は、原告の家族が、原告宅にあった上記党員証をパキスタンへ持参し、甲7、8、
10の文書と共に甲5の手紙に同封して郵送してきたのではないかと思う旨供述する。
しかしながら、カbにおいて判示したないしの事情に加え、原告は、上記党員証
の発行日の当時、社会主義政権下で兵役に服していたこと(甲12、原告本人)に照らすと、
社会主義政権と対立するムジャヒディンの一員であるハラカティ・イスラミに加入して
いたとするのは不自然であって、原告の上記供述をにわかに採用することはできず、他
に上記党員証が真正に成立したことを認めるに足りる証拠はない。
したがって、上記党員証は、成立の真正に疑問があり、信ぴょう性に乏しいものとい
わざるを得ない。
ケ イスラム太陽暦1374年《日付略》付け検問通行依頼書(甲10)
a 上記検問通行依頼書は、ハラカティ・イスラミのカブール支局長が作成名義人であり、
カブールからマザリ・シャリフのムジャヒディン及び担当者あてに、原告はハラカテ
ィ・イスラミのメンバーであり、支障なく往来できるよう配慮されたい旨が記載されて
いる。
b 原告は、原告の家族が、原告宅にあった上記検問通行依頼書をパキスタンへ持参し、
甲7ないし9の文書と共に甲5の手紙に同封して郵送してきたのではないかと思う旨供
述する。
しかしながら、カないしクにおいて判示したところに照らすと、原告の上記供述をに
わかに採用することはできず、他に上記検問通行依頼書が真正に成立したことを認める
に足りる証拠はない。したがって、上記検問通行依頼書は、成立の真正に疑問があり、信
ぴょう性に乏しいものといわざるを得ない。
ウ 以上を前提に、原告の前記供述の信用性について検討する。
ア ハラカティ・イスラミへの加入(アウ)について
原告は、1979年(昭和54年)以来、ハラカティ・イスラミに加入している旨供述する(甲
12、乙38、原告本人)。
しかしながら、前判示のとおり、ハラカティ・イスラミへの加入に関して原告が提出す
る甲7ないし10の文書は、いずれも成立の真正に疑問があり、信ぴょう性に乏しいもので
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ある。
また、前判示のとおり、原告は、同年当時、社会主義政権下で兵役に服していたこと(甲
12、原告本人)に照らすと、社会主義政権と対立するムジャヒディンの一員であるハラカ
ティ・イスラミに加入していたとするのは不自然といわざるを得ない。
さらに、証拠(乙33ないし35、38)及び弁論の全趣旨によれば、原告は、難民調査官によ
る調査に対し、本件不認定処分がされるまで、ハラカティ・イスラミに加入していた事実
を供述したことはなく、本件不認定処分を受け、甲7ないし10の文書等を入手した後、平
成12年10月13日の事情聴取において初めてその事実を供述するに至ったことが認められ
る。このように、タリバンと対立する組織への加入という重要な事実について当初供述し
ていなかったことについて、原告は、合理的な理由を述べていない。
これらの事情によれば、原告の上記供述をにわかに採用することはできない。
イ エテハッドとの戦闘行為に参加した経験(アエ)について
確かに、前記前提事実及び認定事実のとおり、カブールでは、1993年(平成5年)1月に
ラバニが大統領に就任して以降、各派間の主導権争いによる内戦状態に陥っていたこと、
1995年(平成7年)3月には、ハザラ人を中心とするイスラム統一党マザリ派は、ラバニ
派及びタリバンの双方から攻撃を受け、カブール市内南西部のハザラ人が多く居住する支
配地域を失うなどの打撃を被ったことに照らすと、1993年(平成5年)の当時、カブール
のハザラ人居住地域において、パシュトゥーン人やタジク人のグループとハザラ人との間
で何らかの抗争・戦闘があったとしても不自然ではない。
しかしながら、証拠(乙33ないし40)及び弁論の全趣旨によれば、原告は、本件難民認
定申請後、平成15年6月5日付準備書面においてエテハッドとの戦闘行為に参加した事実
を主張するに至るまで、難民調査官等の大阪入管の担当官に対し、そのような事実を供述
したことはなかったものと認められる。その理由について、原告は、自分は戦争を嫌って
おり、日本も戦争が嫌いな国であると思っていたので、武器を手にしたことがあるという
話をすれば、難民認定上不利益ではないかという考えがあり、担当官からも特に質問を受
けなかったので、自分の判断で何も言わないことにしていた旨供述する(甲12、原告本人)
が、本件難民認定申請をしてから、本件訴訟提起後1年近くの時点まで、戦闘行為に参加
した経験に関する主張・供述を一切していなかったことに対する説明として、合理的とは
いい難い。
また、その他に、原告がパシュトゥーン人やタジク人のグループとの戦闘行為に参加し
たことがあることを裏付ける証拠はない。
そうすると、原告の上記供述をにわかに採用することはできない。
ウ 拘束されて暴行を受けた経験(アオ)について
前判示のとおり、病院紹介状(甲7)には、パシュトゥーン人やタジク人のグループに拘
束され、銃床等で殴打されるなどの暴行を受けて負傷し、1週間の入院を余儀なくされた
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旨の原告の供述に沿う記載があるが、上記病院紹介状は、成立の真正に疑問があり、信ぴ
ょう性に乏しいものである。
しかしながら、証拠(乙33、36、39)及び弁論の全趣旨によれば、原告は、平成11年
2月3日、難民調査官により最初の事情聴取が行われた際には、1992年(平成4年)ころ、
カブールで、1日だけ、「ATEHAD」グループにハザラ人であるという理由で素手や太い電
気コードで殴られ、足で蹴られたりして1週間寝込む迫害を受けた旨供述し、平成12年
5月15日の入国警備官による事情聴取に対しては、1992年(平成4年)ころ、カブール市
内で、銃の不法所持により、「タリバングループ」に逮捕され、1昼夜拘束された旨供述し、
平成12年11月13日の口頭審理においては、7年ほど前にハザラ人とパシュトゥーン人
との仲が悪化した時、「ヘズベエテハッド」というグループに捕まり、ハザラのコマンドの
居場所や武器の保管場所を聞かれ、銃床で殴られたり蹴られたりする拷問を受け、頭、耳、
左手小指から出血し、左耳がよく聞こえなくなるなどの傷害を負い、1週間ほど入院した
旨供述したことが認められる。そうすると、上記のとおり、原告の供述には、その細部にお
いて微妙な変遷も認められるが、少なくとも、1992年(平成4年)ないし1993年(平成5年)
ころにパシュトゥーン人等からなるグループに拘束されて暴行を受け、1週間程度入院な
いし寝込む傷害を負ったという限度では、早い段階から一貫した供述がされているものと
いえる。
なお、被告らは、暴行の理由、態様及び結果に係る供述が次第に具体的かつ苛烈な内容
になっていると主張するが、そのような変化は、担当官の質問や供述録取の方法に由来す
るものとも考えられるし、たとえ原告の上記供述に多少の誇張等が含まれるとしても、そ
の核心部分についてまで直ちに信用性が否定されるものではない。
したがって、原告の前記供述をにわかに排斥することはできず、1992年(平成4年)な
いし1993年(平成5年)ころ、原告がパシュトゥーン人やタジク人のグループに拘束され、
銃床等で殴打されるなどの暴行を受けて負傷し、1週間の入院を余儀なくされたという事
実があったものと認められる。
エ マザリ・シャリフに居住し、自動車等の販売業を営んでいたこと(アカ)について
前記のとおり、原告は、1996年2月、パシュトゥーン人との争いから逃れるため、家族
と共にカブールからマザリ・シャリフへ移住し、自動車及び自動車部品の販売業を営むよ
うになった旨供述しているところ、原告の供述調書等(乙33ないし40)の記載に照らして
も、上記供述の信用性を否定すべき事情は見当たらず、そのような事実があったものと認
められる。
オ イスラム統一党への援助(アク)について
前記のとおり、原告は、マザリ・シャリフにおけるタリバンと北部同盟との攻防戦に際
し、所有する自動車で北部同盟側の負傷者を病院に運び、あるいはイスラム統一党の司令
官に資金を提供するなどの援助を行っていた旨供述しているところ、前記の各手紙(甲1
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ないし3、5)には、これに沿う記載(原告がイスラム統一党の指導者に資金を提供した領
収書の存在等)がみられる。
確かに、証拠(乙33ないし35)及び弁論の全趣旨によれば、原告は、平成11年7月10日
ころに甲1の手紙を入手した後、同年9月24日の難民調査官による事情聴取に対し、マザ
リ・シャリフでイスラム統一党に自動車部品を販売し、資金や自動車を提供していた旨初
めて供述したもので、それ以前には上記のような供述をしていなかったことが認められ
る。また、前判示のとおり、甲1ないし3、5の手紙の記載内容の信用性については、慎重
な吟味が必要と考えられるところ、原告がイスラム統一党への援助を行ったことを具体的
に裏付ける証拠はない。さらに、原告の本人尋問における供述のうち、所有する自動車で
負傷者を病院に運んだとする点は、従前にない新たな供述であり(甲12、乙35ないし40)、
にわかに採用し難い。
しかしながら、原告は、自分が行っていた資金援助は、ある程度資金的な余裕のある者
であれば誰もがやらなければならない程度のもので、自分としてはそれほど重要なことと
は思っておらず、質問をされなかったので、自分からあえて説明はしなかった旨供述して
いるところ、1996年(平成8年)2月から1998年(平成10年)8月までの当時、北部同盟
が支配し、ハザラ人も多く居住するマザリ・シャリフにおいて自動車及び自動車部品の版
売業を営み、ある程度の資産を有していたものと推認される原告が、タリバンの攻勢が続
く状況において、北部同盟を構成するイスラム統一党に対し、他の者らと同様に、その資
産に見合う程度の何らかの援助を行ったことがあるとしても不自然ではない。そうであれ
ば、甲1の手紙を入手するまでは、上記のような程度の援助が難民該当性の判断において
重要な事実になるとは思い至らず、この点に関する供述をしていなかったという原告の上
記供述を不合理として直ちに排斥することはできず、上記のような軽度の何らかの援助を
した限度で、原告の供述や上記手紙の各記載内容も信用できるというべきである。
したがって、原告は、マザリ・シャリフに居住していた当時、イスラム統一党に対し、他
の者らと同様に、その資産に見合う程度の何らかの援助を行ったことがあるものと認めら
れる。

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