退去強制令書発付処分等取消請求事件(A事件)
平成13年(行ウ)第406号
難民認定をしない処分取消請求事件(B事件)
平成14年(行ウ)第255号
原告:A(A事件・B事件)、被告:法務大臣(A事件・B事件)・東京入国管理局主任審査官(A事件)
東京地方裁判所民事第2部(裁判官:大門匡・田徹・矢口俊哉)
平成17年9月27日

判決
主 文
1 原告の請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1 請求
(A事件)
1 被告法務大臣が平成13年11月28日付けで原告に対してした出入国管理及び難民認定法49条1
項に基づく原告の異議の申出は理由がない旨の裁決を取り消す。
2 被告東京入国管理局主任審査官が同日付けで原告に対してした退去強制令書発付処分を取り消
す。
(B事件)
被告が平成13年11月28日付けで原告に対してした難民の認定をしない処分を取り消す。
第2 事案の概要
本件は、原告が、①被告法務大臣が原告に対して在留特別許可を与えないでした、出入国管理
及び難民認定法49条1項に基づく原告の異議の申出は理由がない旨の裁決については、原告の
難民該当性を看過するという事実誤認があり、裁量権の濫用及び逸脱があるから違法であるとし
て、また、被告東京入国管理局主任審査官がした原告に対する退去強制令書発付処分については、
瑕疵ある同裁決に基づくものであり、固有の瑕疵もあるから違法であるとして、同裁決及び同発
付処分の各取消しを求める(A事件)とともに、②被告法務大臣が原告に対してした難民の認定
をしない処分についても、原告の難民該当性を看過するという事実誤認、理由附記の不備の違法
があるとして、同処分の取消しを求めている(B事件)事案である。
1 前提事実(当事者間に争いのない事実並びに掲記の証拠(特記しない限りA事件のものである。)
及び弁論の全趣旨により容易に認められる事実)
 原告の出入国歴と難民認定の手続等
ア 原告は、アフガニスタンにおいて出生した、アフガニスタン国籍を有する外国人である。
なお、パスポート等には、昭和49年(1974年)《日付略》が生年月日として記載されている(乙
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1)。
イ 原告は、平成12年4月7日、タイ王国(以下「タイ」という。)のバンコクより、関西国際空
港に到着し、在留資格「短期滞在」、在留期間「90日」の上陸許可を受けて、我が国に上陸し、
同年7月6日、名古屋国際空港より出国した(乙3、4)。
ウ 原告は、平成13年9月26日、台湾より、東京国際空港に到着し、有効な旅券又は乗員手帳
を所持せず、法定の除外事由がないのに不法に我が国に入国した(乙5、12、14から16まで)。
エ 原告は、平成13年10月31日、東京入国管理局において、被告法務大臣に対し難民認定の申
請をした。
オ 被告法務大臣は、平成13年11月28日、上記申請に対し、難民の認定をしない処分(以下「本
件不認定処分」という。)をし、同月29日、原告に告知した(処分日及び告知につき、乙8)。
カ 原告は、平成13年11月29日、本件不認定処分に対し異議の申出をしたが、被告法務大臣は、
平成14年2月4日付けで異議の申出に理由がない旨の決定をした(乙9、30、31)。
 原告に対する退去強制手続
ア 東京入国管理局入国警備官は、平成13年10月16日、原告が法24条1号に該当すると疑う
に足りる相当の理由があるとして、被告東京入国管理局主任審査官から収容令書の発付を受
け、同月17日、同令書を執行して原告を東京入国管理局収容場に収容し、同月18日、法24条
1号該当容疑者として東京入国管理局入国審査官に引き渡した(乙11から13まで)。
イ 東京入国管理局入国審査官は、違反審査を実施し、平成13年11月6日、原告が法24条1号
に該当する旨認定し、原告にこれを通知したところ、原告は、同曰、東京入国管理局特別審理
官に対し口頭審理を請求した(乙14から17まで)。
ウ 東京入国管理局特別審理官は、平成13年11月16日、口頭審理を実施し、入国審査官の上記
認定に誤りがない旨判定し、原告にこれを通知したところ、原告は、同日、被告法務大臣に対
し異議の申出をした(乙18から20まで)。
エ 被告法務大臣は、同月28日、上記異議の申出については、理由がない旨裁決をし(以下「本
件裁決」という)、同裁決の通知を受けた被告東京入国管理局主任審査官は、同月29日、原告
に本件裁決を告知するとともに、退去強制令書の発付処分をした(以下「本件発付処分」とい
う。)
(処分日及び告知につき、乙21から23まで)。
オ 同日、退去強制令書は、東京入国管理局入国警備官によって執行され、原告は、東京入国管
理局収容場に収容され、その後、入国者収容所東日本入国管理センターへ移収されていたと
ころ、平成14年4月26日、仮放免許可を受け、同日仮放免された(乙23、B事件乙18)。
2 本件の争点(争点に対する当事者の具体的主張は、別紙のとおりである。)
 本件不認定処分及び本件裁決当時、原告が、アフガニスタンにおいて、イスラム教シーア派
のハザラ人であることを理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有し
ていたといえるか(原告の難民該当性)。
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 本件発付処分について、アフガニスタンを送還先と定めた点等について違法はあるか(本件
発付処分固有の瑕疵)。
 本件不認定処分の通知書に記載された理由には不備があって違法といえるか(本件不認定処
分の理由附記の不備)
第3 争点に対する判断
1 争点について
 難民の意義について
出入国管理及び難民認定法(平成16年法律第73号による改正前のもの。以下「法」というこ
とがある。)2条3号の2は、同法における「難民」の意義について、難民の地位に関する条約(昭
和56年条約第21号。以下「難民条約」という。)1条の規定又は難民の地位に関する議定書(昭
和57年条約第1号。以下「難民議定書」という。)1条の規定により難民条約の適用を受ける難
民をいうと規定している。
一方 難民条約1条Aは、同条約の適用を受ける「難民」の意義について、「1951年1月1
日前に生じた事件の結果として、かつ、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員で
あること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有
するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又
はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及びこれらの
事件の結果として常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有してい
た国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国
に帰ることを望まないもの」と規定している。また、難民議定書1条は、同議定書の適用を受け
る「難民」について、難民条約1条Aの「1951年1月1日前に生じた事件の結果として、か
つ、」及び「これらの事件の結果として」という文言を除かれているとみなした場合に同条の定
義に該当するすべての者をいい、これらの者については、難民条約2条から34条までの規定が
適用されると規定している。
したがって、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意
見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の
外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有
するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」は、出入国管理及び難民認定法に
いう「難民」に該当することとなる。そして、上記の「迫害」とは、通常人において受忍し得な
い苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって、生命又は身体の自由の侵害又は抑圧を意味するも
のと解するのが相当であり、また、上記にいう「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由
のある恐怖を有する」というためには、当該人が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱い
ているという主観的事情のほかに、通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱
くような客観的事情が存在していることが必要と解される。
 原告の難民該当性
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ア 前提となるアフガニスタン情勢とハザラ人を巡る状況
このような見地から本件についてみると、証拠(甲101から103まで、105から108まで、
118、198の1及び2、乙28、101、103、112、119から127まで、139、140、144から146まで、
148から150まで、152)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる(証拠を明示
することが適当な場合は適宜個別に掲記した。)
ア アフガニスタンの民族構成とハザラ人
アフガニスタンは、多民族国家で、主要な民族は、パシュトゥーン人(約35パーセント)、
タジク人(約25パーセント)、ハザラ人(約15パーセントから20パーセント)及びウズベク
人(約6パーセント)であり、その宗教は、パシュトゥーン人、タジク人及びウズベク人の
ほとんどがイスラム教スンニ派であるのに対し、ハザラ人はイスラム教シーア派である。
ハザラ人は中央アジアに人種的起源があると考えられており、その他の民族とは、身体
的外見によって区別できるといわれている。主にアフガニスタン中央部のバーミヤンをは
じめとするハザラジャートという山岳地帯に居住しているほか、カブールやマジャリシャ
リフ等の都市部に居住している。
なお、ハザラ人は、アフガニスタンにおいて、パシュトゥーン人中心の国家政策が長く
続いたため、社会的経済的差別の対象とされ、後記ムジャヒディーン諸勢力による内戦前
は、自らハザラ人であることを認めることを望まなかったといわれている(乙122)。
イ タリバン台頭前の政治体制とムジャヒディーン諸勢力(ハザラ人勢力を含む。)による権
力闘争等
a アフガニスタンでは、昭和48年(1973年)、王政から共和制に移行後、昭和53年(1978
年)、人民民主党(PDPA)による共産主義政権が成立し、ソ連軍侵攻による軍事介入が
行われ、ソ連の支援下でカルマル政権が成立した。これに対して、各民族は、「ムジヤヒ
ディーン」(聖戦の戦士)と称するゲリラ勢力(以下単に「ムジャヒディーン」という。)
を結成して共産主義政権に対する抵抗を開始した。昭和61年(1986年)5月にはカルマ
ルからナジブラに政権が引き継がれたが、平成元年(1989年)2月にはソ連軍が撤退し、
平成4年(1992年)4月に至って、ナジブラ政権が崩壊し、首都カブールでは、ムジャヒ
ディーン各派の合意によって、イスラム協会(タジク人が基盤)の党首ブルハヌディン・
ラバニ(以下「ラバニ」という。)を次期大統領に抱く暫定政権が成立した。しかし、グル
バディン・ヘクマティヤール(以下「ヘクマティヤール」という。)を党首とするイスラ
ーム党(パシュトゥーン人が基盤)がカブール攻撃を開始し、イスラム国民運動(ドスト
ム将軍派。ウズベク人が基盤)のカブールからの撤退を要求したり、イスラム教スンニ
派のサヤーフ学派が同シーア派の排除を要求してイスラム統一党(ハザラ人が基盤)と
武力衝突するなど、ムジャヒディーン各派による権力闘争と内戦が繰り広げられ、全国
各地において各派が入り乱れて軍閥的に支配する状態が続くことになった。
b 平成4年(1992年)6月末、ラバニを支持するイスラム協会等のラバニ派と、ヘクマ
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ティヤールを支持するイスラーム党等のヘクマティヤール派との間で、ラバニが大統領
に就任し、ヘクマティヤール派のファリードが首相に就任することで合意が成立したも
のの、両者間で総選挙の実施時期を巡って裂を生じ、同年8月には、イスラーム党(ヘク
マティヤール派)がカブールへの攻撃を行った。平成5年(1993年)1月、イスラーム党
は、ラバニが正式に大統領に就任したことに反発して、イスラム統一党等と共闘し、ラ
バニ大統領の退陣を要求してカブールへの攻撃を再開し、多数の死者が生じた。その後、
パキスタン首相の仲介により、停戦に向けた交渉がもたれ、同年6月には、停戦が合意
され、ラバニ大統領とヘクマティヤール首相という二頭体制の連立政権が発足したが、
ヘクマティヤールは事実上政府に参加せず、両者の対立は継続した。また、イスラム国
民運動(ドストム将軍派)は、前記合意による内閣に参加できなかったことを不満とし
ており、ヘクマティヤール派と結んでカブールに攻撃をかけるなど、その戦闘は拡大し
ていくこととなった。
c そのころ、イスラム教シーア派ハザラ人を基盤とする政治勢力は、イスラム統一党と
イスラム運動(ハラカティ・イスラミ)等に分かれていた。イスラム統一党は、当初ラバ
ニを支持していたが、平成4年(1992年)末ころ、ヘクマティヤール派支持に転じ、西
カブールの支配権を巡って、ラバニ政権のアフマド・シャー・マスード司令官の部隊と
その支援を受けたアフガニスタン解放イスラム同盟(党首サヤーフ。パシュトゥーン人
が基盤)との間で激しい戦闘となり、平成5年(1993年)2月には、《地名略》地区のハ
ザラ人数百人が両勢力によって殺害されたり、行方不明になったりしたとされている。
また、イスラム統一党は、ラバニ派に属するイスラム運動(ハラカティ・イスラミ)との
間で、平成6年(1994年)夏、カブール南西部の支配権を巡って交戦し、平成7年(1995
年)9月にも武力衝突を起こして、数百人の死者と数千人の負傷者を生じたと報告され
ている(甲118、乙121から124まで)。
d イスラム統一党は、平成6年(1994年)9月、率いる者の名を冠したアクバリー派と
マザリー派とに分裂した。マザリー派がハザラ人の住む地域で主要派閥を占めたのに対
し、アクバリー派はごく少数にとどまったものの、ラバニ派やイスラム運動(ハラカテ
ィ・イスラミ)と同盟を結んで、マザリー派と熾烈な戦闘を繰り広げ、多くの民間人の
犠牲者を出した(乙122)。
e イスラム統一党は、平成4年(1992年)以来、ムジャヒディーン各派間の権力闘争に
積極的に加わり、平成5年(1993年)から平成7年(1995年)まで、西カブールを支配
し、平成8年(1996年)から平成10年(1998年)にかけては、北部地域で度々軍事的勝
利を収めた。こうした過程において、ハザラ人が歴史上長らく、経済的社会的に末端の
地位に甘んじていたこともあって、イスラム統一党の兵士らは、パシュトゥーン人、タ
ジク人、ウズベク人といったハザラ人以外の民族集団に対して極めて敵対的な態度をと
り、恣意的な逮捕や拷問、レイプ、裁判なしの処刑等を行い、捕虜に対する虐待にも及ん
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だため、イスラム統一党は、内戦中、アフガニスタンで最も暴力的な集団の一つとみな
されていたと報告されている(乙122)。
ウ タリバンの台頭とカブール陥落、北部同盟の結成
a いわゆるタリバン(「イスラム神学校生及び神の道を求める人達」の意)は、平成6年
(1994年)春ころ、代表を名乗るイスラム神学校教師ムハンマド・オマルとその友人数
人によって、アフガニスタン南部のパキスタン国境付近で創設されたと伝えられてい
る。真のイスラム国家の樹立を目的として、ムジャヒディーン各派による権力闘争を否
定し、その解散と武装解除を目指した聖戦を布告して、その活動を開始すると、ムジャ
ヒディーン政権が成立した後も各派の権力闘争による内戦状態の長期化、治安の悪化等
で疲弊していた民衆の支持を集めて、その勢力を急速に拡大していった。その主要な構
成員は、パシュトゥーン人であったが、タジク人、ハザラ人、ウズベク人等それ以外の民
族も含まれていた。
b タリバンは、平成6年(1994年)11月、カンダハルに入り、同市の行政府を解散させて、
独自の行政府を樹立し、それから5か月の間に南部を中心にした全土31州のうち9州ま
でを支配下に収めた。平成7年(1995年)3月には、カブールまで進望するも、マスード
司令官の指揮するラバニ派の反撃を受けて、カブールからの退却を余儀なくされた。し
かし、その際、タリバンに攻撃を仕掛けてきたへクマティヤール派をその本拠地・カブ
ール南方のチャールアシアープから駆逐するとともに、イスラム統一党マザリー派もカ
ブールから排除した。マザリーはタリバンの部隊に拉致されて死亡し、ハリリがイスラ
ム統一党の後継者となった。弱体化したヘクマティヤール派は平成8年(1996年)6月
にはラバニ政権に参加し、ヘクマテイヤールは首相に就任することになった。
c タリバンは、平成7年(1995年)9月には西部のヘラードを制圧するなどして更に支
配地域を広げ、その範囲は全土の3分の2に及び、平成8年(1996年)9月には、ヘクマ
ティヤール派と共闘するラバニ派との戦闘の末、カブールを制圧して暫定政権を樹立し
た。
d こうして勢力を拡大していったタリバンに対し、ラバニ派は、平成8年(1996年)10
月、イスラム国民運動(ドストム将軍派)、マザリー派を引き継いだイスラム統一党ハリ
リ派との間で反タリバンの軍事同盟(祖国防衛最高評議会)を結び、その後、アフガニス
タン解放イスラム同盟(パシュトゥーン人が基盤)やイスラム運動党(ハラカティ・イ
スラミ)の参加も得て、「アフガニスタン救国イスラム統一戦線」(北部同盟)と称し、タ
リバンとの間で激しい戦闘を繰り広げることになった。
e 一方、イスラム統一党アクバリー派は、平成10年(1998年)11月、タリバンに投降し
て、その兵士もタリバンに組み込まれた(乙122、150)。
f タリバンは、後記エの各地での攻防を経て、平成13年(2001年)4月ころまでには、
国土の約9割を制圧するに至った。
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エ タリバンとムジャヒディーン各派との各地での戦闘における残虐行為、報復等
a マザリシャリフ
平成9年(1997年)5月、ドストム将軍に反旗を翻しタリバン支持を表明したマレッ
ク将軍率いるイスラム国民運動の部隊によりマザリシャリフは制圧され、タリバンもマ
ザリシャリフに進入してハザラ人の居住地区で武装解除を実施しようとしたが、これを
拒んだイスラム統一党ハリリ派との間で激しい戦闘となり、マレック将軍もタリバン攻
撃に転じた。このため、タリバンはマザリシャリフから撤退したが、その際、イスラム統
一党ハリリ派は、タリバンに属する者約300人を殺害し、タリバンの兵士約2000人を捕
虜にしたとされている。また、マレック将軍の部隊もタリバン戦士の多くを殺害したと
されている(甲105、乙122、149)。
タリバンは、平成10年(1998年)8月マザリシャリフを再度侵攻して陥落させたが、
上記平成9年(1997年)5月の戦闘時の損害に対する報復として、何千人もの市民、特
にハザラ人を殺害したとされている(甲106、乙122、150)。
なお、マザリシャリフから北部へ逃れようとした市民(ハザラ人を含む。)に対し、そ
のルートを支配していたイスラム統一党ハリリ派の兵士は、金を要求し、金が払えない
場合には、逃亡を許さず、タリバンの元へ追い返したとされている(乙122)。
b バーミヤン
タリバンは、平成10年(1998年)9月、イスラム統一党ハリリ派の本拠地であるバー
ミヤンも制圧した。平成11年(1999年)4月には北部同盟がいったんこれを奪回したも
のの、同年5月にはタリバンによって再び制圧された(乙120)。
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)作成の平成13年(2001年)1月付けバックグラ
ウンドペーパー(甲102)及びアメリカ合衆国(以下「米国」という。)国務省作成の平成
12年(2000年)2月25日付け国別人権状況報告(甲103)によれば、タリバンは、平成10
年(1998年)9月のバーミヤン制圧の際、多数のハザラ人の一般市民を虐殺したとされ
ている。一方、UNHCR作成の平成14年(2002年)4月付けバックグラウンドペーパー
(乙103)によれば、タリバンは、平成11年(1999年)5月の再度のバーミヤン制圧の際、
ハザラ人やタジク人からなる民間人の多くを強制移住させたが、そのほとんどは、翌月
以降に帰還することができたとされている。
タリバンは、平成11年(1999年)9月、再度バーミヤンから撤退したが、イスラム統
一党ハリリ派の部隊は、地元の牢獄に捕えられていた30名のタリバン支持者の殺害に及
んだとされている(乙122)。
c ヤカオラン等
平成12年(2000年)12月から平成13年(2001年)前半にかけて、中部山岳地帯のハザ
ラジャートを巡ってタリバンとイスラム統一党ハリリ派が、北東部のタハール州を巡っ
てタリバンとラバニ派が、それぞれ攻防戦を展開し、いずれの地域でも短期間に支配権
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が入れ替わって、状況はめまぐるしく変化した。平成12年(2000年)12月には、タリバ
ンがヤカオランを制圧し、翌年1月22日には、イスラム統一党ハリリ派がヤカオランを
奪還したが、2月17日には、タリバンが再度これを制圧した。タハール州でも、戦闘が
頻発し、7月4日の戦闘において北部同盟が270人のタリバン兵士を殺害したとの発表
がされた(乙152)。
上記ヤカオランの攻防を巡っては、平成12年(2000年)12月にタリバンが同地を制圧
した際、この地域で被った損害に対する報復として多数の一般市民を即決処刑したとさ
れ、平成13年(2001年)1月7日の戦闘では、ハザラ人約300人を虐殺したと報告され
ている。一方、イスラム統一党ハリリ派も、この地域を支配している間、タリバンの協力
者とみなされる者に虐待を行っており、平成12年(2000年)12月に同地域を支配下に置
いていた数日間に少なくとも4人を即決処刑にしたと報告されている(甲107、108)。
オ タリバン政権下での人権侵害と民族の関係等
デンマーク王国移民局作成の平成13年(2001年)11月付け「アフガニスタンにおける治
安及び人権状況検討のためのパキスタン視察団報告」(乙125)によれば、平成9年(1997
年)以降、アフガニスタンにおける少数民族の政治的迫害や追放が一般化したことはなく、
迫害されるかどうかは、むしろ被害者の居住地域によるところが大きく、アフガニスタン
の戦闘地域又は衝突のおそれのある地域の少数民族は極めて危険であるとされ、アフガニ
スタンの戦闘地域では報復攻撃が行われており、北部同盟がタリバンの兵士を襲うと、タ
リバンが後に当該地域を奪回したときに報復を行ったとされている。
また、英国内務省作成の平成13年(2001年)4月付け「アフガニスタン・アセスメント」
(乙101)によれば、タリバン政権下のアフガニスタンにおいて、タリバンと関係のない非
パシュトゥーン人や宗教的な少数派は、タリバンによる拘束、拷問等の人権侵害の主要な
標的とされたものの、実際に発生した人権侵害の主要な要因は、宗教への加入や民族的特
性によるものというよりは、むしろ被侵害者がタリバンに実際に反対していたか又はその
ようにみられたためであり、タリバンとハザラ人との間に民族的な対立はあったものの、
いわゆる「民族浄化」は起こらず、非戦闘員に対する残虐な行為のほとんども、内戦下で対
立組織の支配地域を占領した際に、報復等の意図で行われていたとされている。
カ タリバン政権の崩壊とその後のアフガニスタンの状況
a タリバン政権の崩壊と暫定行政機構の成立
米国は、タリバン政権に対し、その庇護下にあるムスリム過激派のウサマ・ビン・ラ
ディンが平成10年(1998年)8月のケニア・タンザニアの米国大使館爆破事件に関与し
たとして、その身柄引渡しを要求したにもかかわらず、タリバン政権がこれに応じなか
ったことから、平成11年(1999年)8月には、国内資産凍結等の経済制裁を発動した。
諸外国もこれに同調し、同年10月には、国連安全保障理事会において、海外資産凍結等
同様の措置を内容とする決議が採択されたことで、タリバン政権は、国際的に孤立した
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状態に置かれていた。
また、平成13年(2001年)3月には、タリバン政権は、国連や諸外国・団体の要請を
無視して、文化的価値の高いバーミヤンの大仏立像を破壊したことにより、国際的な非
難を浴び、更に孤立を深めていった。
平成13年(20011年)9月11日、いわゆる米国同時多発テロが発生し、米国政府は、こ
れへの関与の可能性を指摘してビン・ラディンの身柄引渡しを改めて要求したが、タリ
バン政権がこれを拒否したことを受けて、同年10月4日には、イギリスと共にタリバン
支配地域への空爆を開始した。北部同盟も、米英軍の支援を得て反撃を開始し、同年11
月9日にはマザリシャリフを、同月13日にはカブールを、それぞれ制圧し、翌14日には
米国副大統領がタリバン政権の崩壊を宣言し、同月17日にはカブールに入ったラバニ大
統領が勝利宣言を行った。
タリバンの兵士は、もともと日和見主義的に参加した者が多かったため、組織に対す
る忠誠心が薄く、マザリシャリフ陥落の報に接し、その多数がタリバンを離脱してしま
い、一部アラブ系義勇兵の抵抗はあったものの、同月25日までに、タリバンの支配地域
はカンダハル周辺を残すのみとなった。
一方、同年12月5日、アフガニスタン主要4派がドイツのボン近郊において協議を行
い、アフガニスタン暫定行政機構の人選等に関して合意するに至った。その結果、パシ
ュトゥーン人の有力指導者カルザイを議長とする暫定行政機構が、遅くとも平成14年
(2002年)6月中に開かれる緊急国民大会議(ロヤ・ジルガ)まで国政を運営し、同大会
議で樹立される暫定政府(移行政権)が、その後1年半以内の「移行期」の統治にあたる
こととなった。
このような状況の中で、タリバンは、平成13年(2001年)12月6日、カンダハルを含
む南部の3州を、元タリバン指揮官で、地元の武装勢力司令官であるナキーブッラーが
率いるパシュトゥーン勢力に明け渡すことに同意し、同月7日、その明渡しを完了した。
かくして、タリバンは政権としても組織としても崩壊し、他方において、同月22日、
アフガニスタン暫定行政機構がカブールに設立され、日本政府をはじめ、各国がこれを
正式な政府として承認した。
b 避難民の帰還とアフガニスタンの復興に向けた動き
上記aのような経過によってタリバンが崩壊し、暫定行政機構が発足してアフガニス
タン復興への動きが始まったため、パキスタン等の周辺国に避難していたアフガニスタ
ン人が本国への帰還を始め、その数は平成13年(2001年)11月に6900人、同年12月に
は3万人を超えた。
同年12月20日及び21日には、アフガニスタン復興運営グループの第1回会合が、ブリ
ュッセルで開催され、アフガニスタン復興に向けての国際的支援が合意された。
平成14年(2002年)1月21日及び22日には、日本政府も、東京において、アフガニス
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タン暫定行政機構関係者のほか、米国、EU、サウジアラビア等を交えて、アフガニスタ
ン復興支援国際会議を開催し、復興支援に関する国際社会の約束が発表された。
同月15日には、国連安全保障理事会において、タリバンはもはやアリアナ・アフガン
航空を所有、賃借、運航、管理等していないとの判断に基づいて、アフガニスタンに対す
る制裁措置のうち、国際線運航の停止を解除する旨の決議が採択され、同月24日には、
同航空の運航が再開された。
c 移行政権の成立と新憲法の採択・カルザイ大統領の選任等
平成14年(2002年)6月、アフガニスタンの最高意思決定機関であるロヤ・ジルガに
おいて、国家元首となる移行政権の長に、暫定行政機構のカルザイ議長を選出し、これ
を受けて、カルザイ議長は、大統領に就任したが、イスラム統一党出身のハリリが副大
統領に就任するなど、ハザラ人からも5名の閣僚が選任された。
平成16年(2004年)1月には、ロヤ・ジルガにおいて、新憲法を採択し、同年11月には、
新憲法に基づいて大統領選挙のための国民投票が初めて実施され、移行政権のカルザイ
大統領が新大統領に選出された。
周辺国に避難していたアフガニスタン人の帰還は、その後も更に数を増しており、
UNHCRの発表によれば、平成14年(2002年)3月以降、平成16年(2004年)5月末ま
での時点で、その数は315万人余りに及び、国内にとどまっていた避難民であって元の
居住地へ帰還したものを合わせると、その合計は360万人に達している。
イ シーア派ハザラ人の一般的状況と難民該当性
ア 前記アの認定事実を基に、まず、ハザラ人一般に対する迫害のおそれについて検討する
と、アフガニスタンの歴史を通じて、ハザラ人が、宗教、民族上の少数派として、経済的社
会的に差別的扱いを受け、政治的に圧迫されてきた結果、パシュトゥーン人との間に根深
い対立感情が存在することはうかがえるところであり、また、前記アエのaからcまでの
とおり、タリバンとイスラム統一党あるいは北部同盟との内戦下で、多数のハザラ人の一
般市民に対して、タリバンの部隊による即決処刑等の残虐な殺害行為が存在したというこ
とができる。
イ しかし、そうした行為が行われたとされている地域は、マザリシャリフ、バーミヤン及
びヤカオラン等の戦闘地域に集中しており、イスラム統一党の側も、一般市民に対して残
虐な行為をしたと報告されているところであって(前記アイe)、前記アオの報告にあると
おり、これらの残虐な行為のほとんどは、内戦下の対立組織の支配地域を占領した際に報
復の意図で行われていたとみることができる。
ムジャヒディーン勢力同士の内戦下でも、ハザラ人勢力を含めて離合集散が行われ(前
記アイaからcまで)、タリバン台頭後には、主要構成民族や宗派も異なり、それまで対立
していたムジャヒディーン諸勢力がタリバンに対抗して北部同盟を結成するなど(前記ア
ウd)、民族、宗教のみによって単純に説明できない複雑な権力闘争が繰り広げられてい
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た。また、タリバンは、パシュトゥーン人中心の組織ではあったが、ハザラ人も構成員に含
んでおり、イスラム統一党アクバリー派の加入を受け入れている(前記アウe)。これらの
事実を総合すると、タリバン政権下において、ハザラ人が、タリバンから、支配争奪を巡る
戦闘時の対立状況を離れて、単にその民族及び宗教を理由に、生命、身体に対して危害を
加えられ、迫害されていたとは認め難いところである。
また、本件不認定処分の当時、アフガニスタンにおいては、北部同盟がカブールを奪還
して、米国副大統領がタリバン政権の崩壊を宣言し、その支配地域はカンダハル周辺を残
すのみという状況にあった(前記アカa)ものであり、暫定行政機構や移行政権の成立前
の段階とはいえ、タリバンとイスラム統一党あるいは北部同盟との内戦は国土の大部分の
地域で終息していたものということができるから、戦闘地域において結果としてハザラ人
に対して行われることがあったとされる残虐行為についても、その危険は解消されていた
とみるのが相当である。
ウ これに対して、原告は、本件不認定処分の当時、タリバンが崩壊していたというのは事
実誤認であり、復活を目指してその勢力を温存していて、タリバンによる迫害の危険は取
り除かれておらず、さらに、ハザラ人とパシュトゥーン人との対立は歴史的に根深いもの
があることから、タリバン政権崩壊後であっても、このような対立関係が解消されない限
り、ハザラ人がパシュトゥーン人によって迫害を受ける危険は解消されないなどと主張し
ているので、この点について、更に検討する。
a 確かに、甲213の新聞報道によれば、平成15年(2003年)に至っても、タリバンの残党
と思われる勢力が政府機関や国連・援助関係者に対する攻撃を仕掛けたり、政府軍及び
アフガニスタンに駐留を続ける国際治安支援部隊との間で戦闘を行ったりしており、双
方に多数の死傷者が生じている事実を認めることができる。
しかしながら、これらの攻撃や戦闘は、選挙の実施その他統治機構の確立や治安維持・
復興支援等にあたる政府や国連・援助関係者に向けられたものであり、それ以上に特定
の民族・集団が標的にされたものではないことからすれば、ハザラ人に対する迫害のお
それの根拠となるものでないことは明らかである。
b また、本件不認定処分当時は、北部同盟によるカブール奪還直後であって、いまだ暫
定行政機構や移行政権が成立する前の段階にあり、安定した統治機構が築かれていたわ
けではなく、治安も依然混乱した状況にあったことは否定し難い。このことは、同じく
甲213の新聞報道において、平成14年(2002年)6月の移行政権成立当時においても、
暫定行政機構が直接支配しているのはカブール等を含む3州に限られており、その余の
州では、旧ムジャヒディーン各派に支配が分かれた、いわば群雄割拠の状態にあったと
されていること、その後も、各派間の武力衝突がたびたび生じているほか、政権から排
除された武装勢力等によるテロ行為が活発化していたとされていること等からも裏付け
られるところである。
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しかしながら、ハザラ人勢力は、タリバンからカブールを奪回した北部同盟を始めと
して、以降の統治機構の構成メンバーに一貫して名を連ねているところであり、統治機
構の不安定や治安状況の悪化といった事情があり、各派間の対立抗争や軍事的衝突の可
能性はあるにせよ、そのことが、原告が主張するような、パシュトゥーン人によるハザ
ラ人に対する迫害のおそれに直ちにつながるものではない。
c 以上の点に関して、原告は、タリバンの支配以前からそれと無関係にハザラ人への迫
害が行われていた例として、平成5年(1993年)2月に起こった《地名略》での虐殺行為
を挙げる。
しかし、前記アイcのとおり、これも西カブールの支配権を巡りイスラム統一党がラ
バニ政権の部隊との間で激しい戦闘を行った過程で生じた事件というべきである。当
時、イスラム統一党はパシュトゥーン人を基盤とするイスラーム党(ヘクマティヤール
派)と結んで反ラバニ勢力の一角をなしており、同じハザラ人勢力でもラバニ派に与す
るイスラム運動(ハラカティ・イスラミ)とは、激しい対立状態にあったとされること
(前記アイc)からすれば、《地名略》の虐殺行為を、パシュトゥーン人とハザラ人との間
の民族間の対立関係から説明するのは無理があり、パシュトゥーン人によるハザラ人一
般に対する迫害の事例と評価するのは適切ではない。ましてや、本件不認定処分当時は、
かつて西カブールの支配権を巡って争っていた各派、ラバニ派と反ラバニの両陣営に分
かれていた各派も北部同盟に参加するなど、タリバンに対抗するためムジャヒディーン
勢力が結集されており、タリバンからカブールを奪還し、国土の大半からこれを排撃し
た時期にあたるのであって、ハザラ人やムジャヒディーン各派を取り巻く情勢も平成5
年(1993年)の時点から大きく変化している。
したがって、本件不認定処分当時におけるハザラ人に対する迫害のおそれを判断する
に当たり、《地名略》での虐殺行為はその資料になり得ないというべきである。
d さらに、ハザラ人に関する専門家である英国の大学教授が、難民再審査裁判所の委託
を受けてハザラ人の安全に関して作成した文書である甲219の中には、平成15年(2003
年)のカブール及びジャグリ(ガズニ州の東南に位置する都市)の状況として、ハザラ人
がパシュトゥーン人から定期的に襲われていることや、警察と地元住民が衝突したなど
の話を聞いたことがある旨記載された部分がある(原文6頁・訳文7頁)。
しかし、当該ハザラ人が被害を受けた行為の内容は、泥棒や嫌がらせであり、その記
載内容から、直ちに、ハザラ人が生命又は身体の自由の侵害又は抑圧を受ける具体的危
険が存在するとまでは認め難く、また、行政当局が、事案の内容や当該地区一般の治安
の状況を離れて、ハザラ人が被害者であるという理由のみで、その保護を放棄している
とまでは断ずることができない。
したがって、甲219は、本件不認定処分の当時、原告が、その個別事情のいかんを問わ
ず、ハザラ人の民族、宗教のみを理由に、その生命又は身体の自由の侵害又は抑圧を受
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けるとの恐怖を抱くような客観的な事情が存在したことの根拠になるものではない。
ウ 原告の個別的事情と難民該当性
ア 次に、原告の個別的事情についてみると、証拠(甲1から3まで、乙12、15、16、18、B
事件乙1の1及び2、14、7、原告本人)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認めら
れる。
a 原告は、ハザラ人であって、イスラム教シーア派の信者であり、昭和47年(1972年)
ころにカブールの《地名略》地区で出生した。原告の父は、自動車の部品販売業を営んで
おり、原告も10歳で小学校をやめて家業を手伝うようになった。
b 平成4年(1992年)にナジブラ政権が崩壊した後、カブール市内では、サヤーフ派と
ラバニ派とが連帯してイスラム統一党との間で激しい戦闘を繰り広げるようになった。
その際、戦闘の現場を通りかかった原告の兄は流れ弾を腰に受けて死亡した。戦闘によ
る危険を避けるため、原告一家は、カブールを離れて両親の出身地の《地名略》市に移り
農業に従事していたが、十分な仕事にならなかったので、原告は、2、3か月を過ごして
都市部であるマザリシャリフに移動し、中古車部品販売店を開業した。ここで、原告は、
亡き兄の妻と結婚し、長男、二男をもうけ、妻と兄との間の長女と共に生活していた。
c タリバンは2度にわたってマザリシャリフに侵攻し、平成10年(1998年)時の2度目
の侵攻でこれを制圧したが、その際、タリバンは市内で無差別に銃撃を行って市民を殺
害した。原告一家は、市内から逃げ出して《地名略》という町に向かったが、その途中で、
原告は、ロケット弾の破片を背中に被弾したほか、銃撃を受けて左臀部から左大腿部ま
でを貫通する傷害を負ったことから、家族と離れて一人動けなくなって気を失ったとこ
ろを、タリバンに捕まって、そのままマザリシャリフ市内の刑務所に収監された。
d 刑務所内では、タリバンの兵士から、銃でたたかれたり、ナイフで切りつけられるな
どの暴行を受けた。しかし、原告の父がパシュトゥーン人の知り合いに口利きしてもら
ってタリバンに賄賂を払い、約2か月後に出所することができた。
e 原告一家は、マザリシャリフでも危険な目に遭ったことから、パキスタンに移り住む
ことを決意し、自動車や列車を利用してパキスタンのペシャワールまで移動し、そこで
家を借りて生活を始めた。仕事も探したが見つからず、やむを得ず、妻ら家族とともに
じゅうたんの製作を行い、それでわずかな収入を得て生計を立てていた。
f 原告は、平成12年(2000年)4月には、自動車部品販売業を営む知り合いのBに誘わ
れて来日し、約3か月滞在したが、日本国内では、自動車部品の運搬、車からの取り外し、
コンテナへの積み込みなどの作業を手伝って報酬を得ていた。
g 平成12年7月16日に日本からパキスタンに戻ったころから、原告は、ペシャワール
にいるアフガニスタン人が警察官に逮捕され、お金を払わなければアフガニスタンに送
り返されるという話を聞くようになり、原告も警察官から質問を受けてお金を払って解
放されるということがあった。原告は、アフガニスタンに戻れば危険な目に遭うおそれ
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があると考え、また、じゅうたんの製作による収入だけでは家族の生活が苦しいという
事情もあったため、ペシャワールに移り住んでいた父と今後の身の振り方について相談
し、海外に渡航して就労資格を得て、そこで働いて家族に仕送りをすることとした。こ
のとき、父は渡航の手続を依頼したブローカーに1万6千米ドルの費用を支払ってい
る。
h 原告は、渡航先としては、多くのアフガニスタン人が難民として認められビザの取得
が容易であるという話を聞いていたロンドンを考え、ブローカーからもその旨の説明を
受けて、パキスタン・イスラマバードから出国した。途中まで同行したブローカーの案
内に従って何度か飛行機を乗り継いだものの、ブローカーと別れて搭乗した飛行機(中
華航空機)の到着地が羽田空港であり、パスポートもブローカーに預けたままにしてあ
ったことから、入国審査の際に、パスポートを所持していないこと等を説明したところ、
不法入国の容疑で警察に引き渡された。
イ 以上認定した事実経過の中で、原告は、①カブールに在住していた時、サヤーフ派及び
ラバニ派とイスラム統一党との間の戦闘に巻き込まれて原告の兄が命を落としているこ
と、②マザリシャリフに移ってからは、タリバンが侵攻してきた時、タリバンからロケッ
ト砲の破片を被弾したり銃撃を受けたりして負傷していること、さらに、③その傷害を負
った状態でタリバンによって拘束されて、刑務所に収容され、そこでも暴行・虐待を受け
たこと等について、原告が難民であることを裏付けるものとして主張している。これらに
ついては、原告又はその親族が、タリバンその他の者から直接生命又は身体の侵害にさら
された事実ということになるので、果たして、これらの事実が原告に対する迫害のおそれ
の根拠となり得るかについて検討を加える必要がある。
まず、上記①の点についてみると、兄はムジャヒディーン勢力間のカブール市内の戦闘
の巻き添えとなって、負傷・死亡に至ったものであって、シーア派のハザラ人であること
を理由に標的にされたなどの事情があるわけではないから、原告に対する迫害のおそれ
の根拠になるものではない。次に、②及び③の点については、前記アエaでみた平成10年
(1998年)のマザリシャリフ侵攻・制圧時におけるタリバンの一般市民、特に、ハザラ人
に対する残虐行為であって、原告自身がその被害を受けたものとみることができるが、そ
うした行為の評価は、前記イイに述べたとおりである。特に、刑務所内において虐待が行
われた経緯については、タリバン兵士は、刑務所の警備と外部での戦闘を交代で行ってお
り、外部での戦闘で仲間が殺されるなどの被害を受けた後に、その直接的な報復、腹いせ
として、そうした行為に及んだものである旨を原告自身が供述している(甲1)。このこと
からみても、当時のマザリシャリフでの戦闘状態を離れて、その民族及び宗教を理由にし
て、原告の生命、身体に対して危害が加えられ、迫害されていたとは認め難いところであ
る。
なお、前記アgのとおり、パキスタンのペシャワールでの生活について、原告は、ペシャ
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ワールにいるアフガニスタン人が警察官に逮捕され、お金を払わなければアフガニスタン
に送り返されるという話を聞くようになり、原告も警察官から質問を受けてお金を払って
解放されるということがあった点については、このような事情は、アフガニスタンから避
難してペシャワールで生活している原告にとって、海外に渡航して難民認定の申請を行う
契機になったものとしては理解できるものの、原告が本件において、その難民性として主
張するところの、アフガニスタン本国におけるタリバンによるハザラ人に対する迫害のお
それ、さらには、パシュトゥーン人一般によるハザラ人に対する迫害のおそれを基礎づけ
るものでないことは明らかである。
ウ 以上にかんがみると、原告の個別事情を勘案しても、本件不認定処分当時、原告が本国
において迫害を受けるとの恐怖を抱くような客観的事情が存在したとは認められないとい
うべきである。

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