退去強制令書発付処分取消等請求事件(甲事件)
平成13年(行ウ)第416号
難民認定をしない処分取消請求事件(乙事件)
平成14年(行ウ)第131号
原告:A(甲・乙事件)、被告:法務大臣(甲・乙事件)・東京入国管理局成田空港支局主任審査官(甲事件)
東京地方裁判所民事第38部(裁判官:菅野博之・市原義孝・近道暁郎)
平成17年11月11日

判決
主 文
一 甲・乙事件被告法務大臣が原告に対して平成13年9月21日付けでした難民の認定をしない旨
の処分を取り消す。
二 甲・乙事件被告法務大臣が原告に対して平成13年9月21日付けでした出入国管理及び難民認
定法49条1項に基づく異議の申出には理由がない旨の裁決を取り消す。
三 甲事件被告東京入国管理局成田空港支局主任審査官が原告に対して平成13年9月26日付けで
した退去強制令書発付処分を取り消す。
四 訴訟費用は、全事件を通じて、甲・乙事件被告法務大臣及び甲事件被告東京入国管理局成田空
港支局主任審査官の負担とする。
事実及び理由
第一 請求
主文同旨
第二 事案の概要
一 事案の骨子
甲事件は、アフガニスタン(なお、時期及び支配勢力により、同国の国名は複数のものがあるが、
本判決では、いずれも単に「アフガニスタン」と表記する。)の国籍を有する男性である甲・乙事
件原告(以下「原告」という。本邦入国当時18、9歳)が、東京入国管理局成田空港支局入国審査
官から平成16年法律第73号による改正前の出入国管理及び難民認定法(以下「出入国管理法」と
いう。)24条1号に該当する旨の認定を受け、次いで、東京入国管理局成田空港支局特別審理官か
ら同認定に誤りがない旨の判定を受け、さらに、甲・乙事件被告法務大臣(以下「被告法務大臣」
という。)から出入国管理法49条1項に基づく異議の申出には理由がない旨の裁決を受け、甲事
件被告東京入国管理局成田空港支局主任審査官(以下「被告主任審査官」という。)から退去強制
令書発付処分を受けたため、アフガニスタンに送還されれば迫害のおそれがあるにもかかわらず
在留特別許可を認めなかった上記裁決は違法であり、それを前提とする上記発付処分も違法であ
るなどと主張して、被告法務大臣に対しては上記裁決の取消しを、被告主任審査官に対しては上
記発付処分の取消しを求める事案である。
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乙事件は、原告が、出入国管理法61条の2第1項に基づき難民の認定を申請したところ、被告
法務大臣から難民の認定をしない旨の処分を受け、さらに、出入国管理法61条の2の4の規定に
基づく異議の申出についても、被告法務大臣から理由がない旨の決定を受けたため、上記処分が
違法であると主張して、被告法務大臣に対し上記処分の取消しを求める事案である。
二 関係法令の定め等
1 難民の定義
 出入国管理法61条の2第1項は、「法務大臣は、本邦にある外国人から法務省令で定める
手続により申請があつたときは、その提出した資料に基づき、その者が難民である旨の認定
(以下「難民の認定」という。)を行うことができる。」と規定している。そして、出入国管理法
2条3号の2は、出入国管理法における「難民」の意義を、「難民の地位に関する条約(以下「難
民条約」という。)第1条の規定又は難民の地位に関する議定書第1条の規定により難民条約
の適用を受ける難民をいう。」と規定している。
 難民条約1条Aは、「1951年1月1日前に生じた事件の結果として、かつ、人種、宗教、
国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるお
それがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であつて、そ
の国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国
の保護を受けることを望まないもの及びこれらの事件の結果として常居所を有していた国の
外にいる無国籍者であつて、当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はその
ような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」は、難民
条約の適用上、「難民」という旨規定している。
 難民の地位に関する議定書(以下「難民議定書」という。)1条2は、難民議定書の適用上、
「難民」とは、難民条約1条Aの規定にある「1951年1月1日前に生じた事件の結果として、
かつ、」及び「これらの事件の結果として」という文言が除かれているものとみなした場合に
同条の定義に該当するすべての者をいう旨規定している。
 したがって、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的
意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍
国の外にいる者であつて、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐
怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」は、出入国管理法にいう
「難民」に該当することとなる。
2 退去強制令書の発付と在留特別許可等
 出入国管理法49条3項は、「法務大臣は、第1項の規定による異議の申出を受理したとき
は、異議の申出が理由があるかどうかを裁決して、その結果を主任審査官に通知しなければ
ならない。」と規定している。
 出入国管理法49条5項は、「主任審査官は、法務大臣から異議の申出が理由がないと裁決
した旨の通知を受けたときは、すみやかに当該容疑者に対し、その旨を知らせるとともに、
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第51条の規定による退去強制令書を発付しなければならない。」と規定している。
 出入国管理法50条1項は、「法務大臣は、前条第3項の裁決に当つて、異議の申出が理由が
ないと認める場合でも、当該容疑者が左の各号の1に該当するときは、その者の在留を特別
に許可することができる。」とし、その3号において、「その他法務大臣が特別に在留を許可
すべき事情があると認めるとき。」と定めている。
3 難民の追放及び送還の禁止
 難民条約32条1項は、「締約国は、国の安全又は公の秩序を理由とする場合を除くほか、合
法的にその領域内にいる難民を追放してはならない。」と規定している。
 難民条約33条1項は、「締約国は、難民を、いかなる方法によつても、人種、宗教、国籍若
しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見のためにその生命又は自由が脅
威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放し又は送還してはならない。」と規定してい
る。
4 拷問を受けるおそれのある者の追放及び送還の禁止
 拷問及び他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する条約(以下
「拷問等禁止条約」という。)3条1項は、「締約国は、いずれの者をも、その者に対する拷問
が行われるおそれがあると信ずるに足りる実質的な根拠がある他の国へ追放し、送還し又は
引き渡してはならない。」と規定している。
 拷問等禁止条約1条1項は、「この条約の適用上、『拷問』とは、身体的なものであるか精神
的なものであるかを問わず人に重い苦痛を故意に与える行為であって、本人若しくは第三者
から情報若しくは自白を得ること、本人若しくは第三者が行ったか若しくはその疑いがある
行為について本人を罰すること、本人若しくは第三者を脅迫し若しくは強要することその他
これらに類することを目的として又は何らかの差別に基づく理由によって、かつ、公務員そ
の他の公的資格で行動する者により又はその扇動により若しくはその同意若しくは黙認の下
に行われるものをいう。『拷問』には、合法的な制裁の限りで苦痛が生ずること又は合法的な
制裁に固有の若しくは付随する苦痛を与えることを含まない。」と規定している。
三 前提事実
本件の前提となる事実は、次のとおりである。いずれも、証拠及び弁論の全趣旨等により容易
に認めることのできる事実であるが、括弧内に認定根拠を付記している。
1 原告の身分事項及び入国・在留状況について
 原告は、アフガニスタンにおいて出生したアフガニスタン国籍を有する男性の外国人であ
り、昭和57年(1982年)(月日不詳)に出生した旨供述している(乙2、弁論の全趣旨)。
 原告は、平成13年8月1日、有効な旅券等を所持することなく、新東京国際空港(現在の
成田国際空港。以下、改称の前後を問わず「成田空港」という。)に到着し、本邦に不法入国し
た(乙1の1)。
2 原告の退去強制手続について
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 警備会社の警備員が、平成13年8月1日、成田空港内のトイレで原告を発見した。同警備
員から原告の引渡しを受けた東京入国管理局(以下「東京入管」という。)成田空港支局審査
管理部門首席審査官は、出入国管理法24条1号(不法入国)に該当する疑いがあるとして、
同日、同支局首席入国警備官にその旨通報した。(乙1の1から1の4まで)
 東京入管成田空港支局入国警備官は、平成13年8月2日、被告主任審査官から収容令書の
発付を受け、同日、これを執行して原告を同支局収容場に収容し、同月3日、原告を出入国管
理法24条1号該当容疑者として同支局入国審査官に引き渡した(乙3から5まで)。
 東京入管成田空港支局入国審査官は、平成13年8月3日及び同月9日、原告に対する違反
審査を行い、同日、原告について、出入国管理法24条1号に該当する旨認定し、原告にこれ
を通知した。原告は、同日、口頭審理の請求をした。(乙7、8の1、9)
 東京入管成田空港支局特別審理官は、平成13年8月16日、口頭審理を実施して、上記認定
に誤りがない旨判定し、原告にこれを通知した。原告は、同日、法務大臣に異議の申出をした。
(乙10、11、12の1、12の2)
 被告法務大臣は、平成13年9月21日付けで、原告の上記異議の申出には理由がない旨の裁
決(以下「本件裁決」という。)をした。本件裁決の通知を受けた被告主任審査官は、同月26日、
原告に本件裁決を告知するとともに、退去強制令書(以下「本件退令」という。)の発付処分(以
下「本件退令処分」という。)をした。(乙13から15まで)
 東京入管成田空港支局入国警備官は、平成13年9月26日、本件退令を執行して原告を同支
局収容場に収容した後、同月27日、原告を入国者収容所東日本入国管理センターに移収した
(乙15)。
 原告は、平成13年12月25日、本件裁決及び本件退令処分の取消しを求めて、甲事件に係る
訴えを提起した(当裁判所に顕著な事実)。
 原告は、平成14年7月1日、仮放免された(乙15)。
3 原告の難民認定申請手続について
 原告は、平成13年8月3日、東京入管成田空港支局において、難民の認定の申請(以下「本
件難民認定申請」という。)をした(乙6、19)。
 被告法務大臣は、平成13年9月21日付けで、本件難民認定申請について、難民の認定をし
ない旨の処分(以下「本件不認定処分」という。)をし、同月26日、これを原告に告知した。原
告は、被告法務大臣に対し、同月29日、本件不認定処分について、異議の申出をした。
なお、本件不認定処分の告知書に付記された理由は、「あなたの『人種』、『宗教』、『国籍』、
『政治的意見』、『特定の社会的集団の構成員であること』を理由とした迫害を受けるおそれが
あるという申立てについては、これを立証する具体的な証拠がなく、難民の地位に関する条
約第1条A及び難民の地位に関する議定書第1条2に規定する『人種』、『宗教』、『国籍』、
『政治的意見』、『特定の社会的集団の構成員であること』を理由として迫害を受けるおそれは
認められず、同条約及び同議定書にいう難民とは認められません。」というものであった。(乙
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16、17の1から17の3まで)
 法務大臣は、平成13年12月10日付けで、原告の上記異議の申出には理由がない旨の決定
(以下「本件決定」という。)をし、同月18日、これを原告に通知した。
なお、本件決定の通知書に付記された理由は、「貴殿の難民認定申請につき再検討しても、
難民の認定をしないとした原処分の判断に誤りは認められず、他に、貴殿が難民条約上の難
民に該当することを認定するに足りるいかなる資料も見出しえなかった。」というものであ
った。(乙18)
 原告は、平成14年3月14日、本件不認定処分の取消しを求めて、乙事件に係る訴えを提起
した(当裁判所に顕著な事実)。
四 争点
本件の主な争点は、次のとおりである。
1 難民該当性の有無
すなわち、本件不認定処分のされた平成13年9月21日当時、原告は、「人種」、「宗教」、「国籍」、
「政治的意見」、「特定の社会的集団の構成員であること」を理由に、アフガニスタン暫定政権及
びタリバンの残党から迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有しているた
めに、国籍国の外にいる者ということができるか。
2 本件裁決の適法性
すなわち、本件裁決のされた平成13年9月21日当時、原告はアフガニスタンに送還されれば
迫害を受けるおそれがあったので、在留特別許可を付与されるべきであったのに、これを付与
せずにされた本件裁決は、被告法務大臣の有する裁量権を逸脱するなどしてされた違法なもの
であるということができるか。
3 本件退令処分の適法性
具体的には、本件裁決が違法であるから、これを前提とする本件退令処分も違法であるか。
また、本件退令処分には、送還先をアフガニスタンとしたこと、送還の目どがないのに退去強
制令書を発付したこと等につき違法があるか。
五 争点に関する当事者の主張の要旨
1 争点1(難民該当性の有無)について
 原告の主張
 アフガニスタンの一般情勢について
ア 概要
多民族国家であるアフガニスタンは、1919年に王制の下でイギリスから独立を達成
し、昭和48年(1973年)7月に共和制に移行した。昭和53年(1978年)の政変により共
産主義のPDPA(アフガニスタン人民民主党)が成立し、昭和54年(1979年)12月のソビ
エト社会主義共和国連邦(以下「ソ連」という。)の軍事進攻後、ソ連の支援下で共産主
義のカルマル政権が成立した。
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しかし、イスラム原理主義を中心とするムジャヒディーン(イスラム聖戦士)がソ連
及びカルマル政権に対する抵抗を開始し、アフガニスタン国内は現在まで続く内戦状態
となった。政権は、昭和61年(1986年)5月にカルマルからナジブラに引き継がれたが、
ソ連軍が平成元年(1989年)に撤退すると、ナジブラ政権は平成4年(1992年)に崩壊し、
ムジャヒディーン各派による連立政権が成立した。
その後、ムジャヒディーン各派同士での主導権争いにより内戦が激化し、その中から、
イスラム原理主義の新興勢力であるタリバンが、平成6年(1994年)末ころ、台頭して
きた。
タリバンは、急速に支配地域を拡大し、平成8年(1996年)9月には首都カブールを
占拠した。こうしたタリバンの進攻に対し、ムジャヒディーン各派は反タリバン勢力と
して統一戦線(北部同盟)を結成し、両者の間での激しい内戦が最近まで継続していた。
タリバンは、平成10年(1998年)に入り、北部の要衝地であるマザリシャリフなどを支
配下に納め、平成13年(2001年)4月初めには国土の9割を掌握したといわれている。
一方、タリバン政権の崩壊後、暫定行政機構の中核をなす北部同盟は、タジク人を主
体とするラバニ・マスード派、ウズベク人を主体とするアフガニスタン・イスラム運動、
ハザラ人を主体とするイスラム統一党を中心としている。
イ ハザラ人の迫害の歴史
ハザラ人は、今から2300年以上前から、現在のアフガニスタンで暮らしている先住民
族である。
ハザラ人は、1880年代までは、現在のアフガニスタン中央部に広がるハザラジャート
という山岳地帯で完全な自治を確立し、支配していた。しかし、1890年に王位についた
パシュトゥーン人の王アブドル・ラーマンは、激しい抵抗をみせたハザラ人に対して怒
りと憎しみを抱いており、敗残兵の首で塔を建てたり、敵軍の兵に対して拷問を行うな
ど残虐な行為を繰り返していた。
ハザラ人たちは、アブドル・ラーマンによる専制政治に対して、3回にわたって反乱
を起こしたが、これらがいずれも失敗に終わったことで、ハザラ人社会は多くの面でか
つてない変容を遂げることになった。それまで部族単位による統治が行われていたハザ
ラジャートは、アブドル・ラーマンが派遣したアフガニスタン人統治者と政府から給与
を払われた者によって支配されるようになった。また、アブドル・ラーマンは、シーア
派ハザラ人に対して、スンニ派の信仰を強要したこともあった。ハザラジャートのすべ
ての放牧地を没収する命令が1894年4月11日に下され、また、ハザラ人だけに課された
重税も多数あった。さらに、上記反乱での敗退により、莫大な数のハザラジャートのハ
ザラ人が殺され、又は移住を余儀なくされた。
その後、アマヌッラー王による治世が行われていた時代には、ハザラ人には一定の権
利が認められ、奴隷制度も廃止された。しかし、後のパシュトゥーン人による国家主義
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政策によって、ハザラ人は社会から隔離されてしまい、その中でも特に顕著なのがパシ
ュトゥーン語の公用語化政策であった。
1929年から1978年までのハザラ人に対する政治的抑圧は、アブドル・ラーマンの治
世下の時代を除いて、最もひどいものであるといわれている。工事現場での作業等に従
事するのもハザラ人であり、ハザラ人には重税が課された。また、多くの指導的立場に
あったシーア派ハザラ人は、暗殺されたり処刑されたりした。このほか、ハザラ人に対
する社会的・経済的な隔離政策も行われた。1970年代に飢饉が起きたが、ハザラ人は政
府から援助を受けられず、公共投資はパシュトゥーン人の居住地域だけに行われ、パシ
ュトゥーン人は税金も兵役も免除された。また、パシュトゥーン人は教育面でも優遇さ
れていた。このような中でも、ハザラ人は、カブールにおいて、政治・経済・文化面で幾
らかの功績を上げていたが、昭和53年(1978年)のPDPAによる共産主義クーデターに
よって、その発展は止まり、多くの指導的なハザラ人は、迫害を受けたり、国外退去を強
いられた。
ハザラ人社会は、1980年代から1990年代前半にかけて最もめざましい進展を遂げ、
1990年代には、イスラム統一党という政党とその指導者であるマザリー師の下で固い
結束が生まれた。しかし、イスラム統一党がナジブラ政権崩壊後に成立した暫定政権か
ら締め出されたため、シーア派ハザラ人は再び完全に無視される結果となった。
イスラム統一党は、平成7年(1995年)2月に、当時勢力を増してきたタリバンと停
戦協定を結んだ。その後、当時のラバニ大統領の主任司令官であったマスードの部隊が、
同年3月6日に、イスラム統一党に対して最大級の攻撃を仕掛けてきたため、イスラム
統一党は、タリバン軍に対し、西カブールの前線に入ることを許可したところ、タリバ
ンは、イスラム統一党の援助をするどころか、イスラム統一党の兵士から武器を取り上
げ、マザリー師を殺害した。
こうして、ハザラ人社会において初めての統一的なリーダであったマザリー師の死に
より、シーア派ハザラ人の活発な活動には急速な終末がもたらされ、その後は、タリバ
ンが勢力を拡大して、平成8年(1996年)にはカブールを制圧した。
ウ タリバン政権下におけるハザラ人に対する迫害
タリバンは、ムッラー・ムハンマド・オマル師を最高指導者とする集団であり、パキ
スタン・イスラム共和国(以下「パキスタン」という。)の「マドラサ」と呼ばれる宗教
学校の教師や学生を中心として結成された。タリバンは、イスラム原理主義者の中で最
も厳格にシャリアと呼ばれるイスラム法を解釈し執行する急進主義者である。タリバン
は、他のイスラム社会や西欧社会、国連の援助機関を含む国際社会との一切の妥協を拒
否し、タリバンの政策やイスラム法の解釈に対する議論や批判を許していない。タリバ
ンに反対するとの疑いを受けた人の多くは、拷問や残虐な取扱いを受けている。
タリバン体制下でのアフガニスタンには、憲法、法の支配及び独立した司法組織は存
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在せず、司法手続は、各地の指揮官や当局者の判断により恣意的に執行されていた。ま
た、タリバンは、公開の死刑、むち打ち刑、四肢切断刑等の残虐な刑罰を実施している。
このほか、タリバンは、娯楽活動を禁止し、男性のひげの長さや女性の服装等について
も厳しく取り締まるなど、人々の社会的活動を抑圧している。
タリバンは、アフガニスタンの最大民族であるパシュトゥーン人を主体としており、
少数民族であるハザラ人、タジク人、ウズベク人等を迫害している。とりわけ、パシュト
ゥーン人の多くがイスラム教スンニ派であるのに対し、ハザラ人の多くがイスラム教シ
ーア派であることから、ハザラ人は、以下のとおり、タリバンによる組織的な殺害を含
む迫害の対象となってきた。
タリバンが平成10年(1998年)8月8日にマザリシャリフを攻略したときには、何千
人ものハザラ人の一般市民が、タリバンにより計画的かつ組織的に虐殺された。オマル
師は、シーア派ムスリム不信仰者(ハザラ人)を殺害しても罪にはならないとの布告を
出したとされている。生き残ったシーア派ハザラ人に与えられた選択肢は、改宗するか、
他国に逃れるか、殺されるかであった。
また、200人とも500人ともいわれるハザラ人の一般市民が、同年9月に、バーミヤン
において虐殺された。さらに、タリバンは、平成11年(1999年)5月9日にバーミヤン
を再占領し、同月14日に、バーミヤン地方第2の都市であるヤカオランを奪取した。こ
の際にも、多くのハザラ人の一般市民が、タリバン警備隊による組織的殺害の標的とさ
れた。
タリバンは、平成12年(2000年)12月にも、再度ヤカオラン地域を制圧した後、100
人から300人にのぼるアフガニスタン一般市民を即決処刑した。さらに、タリバンは、平
成13年(2001年)1月にも、ヤカオラン地域において、ハザラ系住民を逮捕、処刑した。
エ タリバン崩壊後のアフガニスタンの情勢
平成13年(2001年)9月11日、大規模なテロ事件が、ニューヨークにおいて発生した。
アメリカ合衆国は、アルカイダが上記テロを行ったとして、アルカイダを支援していた
タリバンを攻撃し、アフガニスタンの各地を空爆した。
その結果、同年12月にタリバンがアフガニスタンにおいて統治機能を喪失したと報道
されているが、アフガニスタンにおけるハザラ人迫害の歴史は、タリバン誕生前からの
ものであり、タリバン崩壊の報道がされているだけで、ハザラ人に対する迫害の危険が
なくなったとするのは、早計に過ぎる。
北部同盟の将軍たちは、以前にアフガニスタン全土を不安と混乱に陥れたその人達で
あり、パキスタン在住のアフガニスタン市民は、治安に対する不安を述べている。
マスードの部隊及び北部同盟の構成メンバーは、深刻な人権侵害を数多く行ってい
る。マスードの部隊は、カブールに対して散発的なロケット攻撃を行っており、反タリ
バン勢力は、民間人居住地域への無差別爆撃を行っている。北部同盟の軍事部隊、その
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下級指揮官及び不良分子は、政治的暗殺、誘拐、身代金目的の誘拐、拷問、強姦、恣意的
な拘束、戦利品の略奪を行っている。
北部同盟は、しばしばカブールに対しロケット攻撃を行った。この一連の攻撃の多く
で、民間人を死傷させている。
北部のマスード配下の指揮官の一部は、囚人及び政治的な対立勢力構成員から情報を
得るため、又はその意思をくじくために拷問を行ったと伝えられている。
マスードによって拘束された囚人の一部は、地雷原でのざんごう掘りのような生命の
危険がある仕事を強制されている。
タリバンと北部同盟双方の民兵が、市民の監獄からの釈放、又は逮捕をしないことと
引換えに賄ろを要求したという、信頼のおける複数の報告がある。
北部のシバルガン近くで平成9年(1997年)に集団墓地が発見された事実は、広く報
道された。墓地には2000人の遺体が埋められていたと伝えられており、これらは平成9
年(1997年)ごろにマザリシャリフ付近で拘束され、北部同盟部隊に処刑されたタリバ
ン兵の遺体であると考えられている。
北部のマスード配下の北部同盟指揮官たちが、タジキスタン経由でアフガニスタンに
運び込まれている人道的救援物資の一部を接収し、NGO職員を威嚇し、救援部隊の交通
を妨害し、その他の方法で人道的支援の活動を妨害しているとの複数の報道がされてい
る。
市民が、自らの民族的出自及び敵対勢力への協力の容疑により、タリバン及び北部同
盟の両勢力によって拘束されているとの信頼のおける報道が複数存在する。特に、その
ほとんどがシーア派イスラム教を信じているハザラ系住民は、そのほとんどがスンニ派
イスラム教徒であるパシュトゥーン系のタリバンによる民族的出自を理由とした攻撃の
対象となっている。
マスード配下の北部同盟が、タリバン側の囚人を道路や空港の滑走路の建設作業に強
制的に従事させたとする、複数の信頼のおける報道も寄せられている。
平成13年(2001年)12月22日にアフガニスタンでは暫定政権が発足した。しかし、暫
定政権の外交、内務、国防の重要閣僚ポストを得た派閥の頭領で記念式典に出席したラ
バニ前大統領やマスード将軍は、平成5年(1993年)2月11日、西カブールのアフシャ
ール地区で、数百人のハザラ人を殺害し、レイプや放火を行った者たちである。このよ
うに、北部同盟の将軍たちは、以前にアフガニスタン全土を不安と混乱に陥らせた人物
である。
そもそも、アフガニスタンの多数民族であるパシュトゥーン人と1800年代まで自国
を有していたハザラ人との対立は、歴史的に根深いものがある。支配民族と被支配民族
という関係は、1930年から50年代にかけてのパシュトゥナイゼーションともいえる政
策によって顕著となるが、両民族の長年にわたる闘争、シーア派とスンニ派の教義上の
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対立、そして、民族的ルーツの違いが、互いの不信感や憎悪を増長する根源となってい
る。この民族間対立により、ハザラ人に対する人権侵害は、タリバンによる政権掌握に
よって、より公式に制度化されたということができる。
逆に言えば、タリバン崩壊後であっても、このような対立関係が解消されない限り、
ハザラ人がパシュトゥーン人によって迫害を受ける危険は解消されないのである。
さらに、タリバンは、アルカイダと共闘して、復活の機会を狙っており、米軍のヘリコ
プターを撃墜したり、駐留中の米軍にロケット弾を撃ち込むなどしている。タリバン代
表のオマル師が、「米国との戦争は終わっておらず、米国はアフガンで旧ソ連軍と同様、
重大な損失を出すだろう。」などと述べていると報道されている。パキスタンの地元紙に
よれば、タリバン政権のジララディン・ハッカニ司令官とヘクマティヤール元首相との
間では、アフガニスタン暫定政権の打倒に向け連携することで合意が成立しているとさ
れている。
報道によれば、暫定政権の実効支配地域はせいぜい全国の2割程度であり、パシュト
ゥーン人であるカルザイ首相の存在感は、事実上のタジク人政権とも言える暫定政権の
中では極めて薄く、米国や国連の後ろ盾で辛うじて支えられているとされている。この
ように、いつ、現在の暫定政権が覆されて、かつてのムジャヒディーンたちによる混乱
が起きたり、あるいはタリバンが復活したり、タリバン以外のパシュトゥーン人による
ハザラ人の迫害が再燃しても、全くおかしくない状況である。

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