難民認定をしない処分取消請求控訴事件
平成16年(行コ)第347号(原審:東京地方裁判所平成12年(行ウ)第181号)
控訴人:法務大臣、被控訴人:A
東京高等裁判所第8民事部(裁判官:原田敏章・氣賀澤耕一・渡部勇次)
平成17年12月1日
判決
主 文
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
1 控訴人
 原判決を取り消す。
 被控訴人の請求を棄却する。
 訴訟費用は、第1、2審とも被控訴人の負担とする。
2 被控訴人
主文と同旨
第2 事案の概要
1 本件は、ミャンマー連邦の国籍を有する被控訴人A(原審原告)が、控訴人(原審被告)に対し、
出入国管理及び難民認定法(以下「法」という。)による難民認定の申請をしたところ、控訴人か
ら、難民性を認定するに足りる証拠がないとして、平成11年5月24日付けで難民の認定をしない
旨の処分(以下「本件処分」という。)を受けたため、本件処分には難民性の判断を誤るなどの違
法があると主張して、その取消しを請求した事案である。
原審は、被控訴人からの本件処分の取消請求を認容した。そこで、控訴人が原判決を不服とし
て控訴に及んだ。
2 前提となる事実(当事者間に争いがない。)は、原判決の「事実及び理由」欄の「第2 事案の概
要及び争点」の1のないしに記載(原判決3頁7行目から4頁8行目まで)のとおりである
から、これを引用する。
3 争点及び争点に関する双方の主張は、原判決の「事実及び理由」欄の「第2 事案の概要及び争
点」の2ないし4に記載(原判決4頁9行目から23頁17行目まで)のとおりであるから、これを
引用する。ただし、原判決9頁20行目から21行目にかけての「特殊性をかんがみれば」を「特殊
性にかんがみれば」に改め、12頁21行目の「率先し行って」を「率先して行って」に改める。
4 控訴人の控訴理由の骨子
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被控訴人は、ミャンマーにおいて、1978年(昭和53年)に国立大学であるB大学を卒業し、政
府から許可を受けて学習塾を開き、また、特にすべてのビデオが政府の検閲下にある状況のもと
で、1985年(昭和60年)以降、政府から許可を受けて10年以上にわたり貸しビデオ店を経営して
いたものであり、1997年(平成9年)7月25日、ミャンマー政府から正規に旅券の発給を受け、
1998年(平成10年)4月27日に旅券に渡航先国の追加を行い、同年5月20日には旅券に渡航目的
の追加を行った上で、同年6月16日に何らの問題もなく正規に本国を出国するなどしているので
あって、被控訴人がミャンマー政府から迫害の対象とされていたとは認め難い客観的事情が存在
しているのである。
上記の点を踏まえて被控訴人の供述等の信用性を検討すると、その供述等の全体に信用性を認
めることあるいは少なくともその基本的な部分に信用性を認めることは到底できず、したがっ
て、被控訴人が「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」ものと認め
るに足りる証拠はないのである。この点、原判決は、被控訴人の供述等に信用性を認め、これに基
づいて被控訴人が難民に該当するものと認めたのであるが、被控訴人の供述等の信用性について
の評価を誤ったもので不当である。
第3 当裁判所の判断
1 本件の争点は、被控訴人の難民該当性の有無、本件処分に附記された理由の不備の有無、
の2点である。
そこで、まず、被控訴人の難民該当性の有無について判断するが、被控訴人が難民であるか否
かは、法第2条第3号の2に定義する「難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)第1
条の規定又は難民の地位に関する議定書第1条の規定により難民条約の適用を受ける難民」に該
当するか否かによって決定される。すなわち、被控訴人が「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会
的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由
のある恐怖を有するために、国籍国(ミャンマー)の外にいる者であって、そのような恐怖を有す
るためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」(難民条約第1条A及び難民の地位
に関する議定書第1条2参照)」に該当すれば、控訴人は被控訴人を難民として認定しなければな
らないことになる(法第61条の2第1項)。
本件においては、被控訴人が上記の「特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を
理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」ものとの要件を満たす
か否かが実質的な争点であるので、以下、その見地から、被控訴人の難民該当性の有無について
判断することとする。
2 被控訴人の出身国情報
関係証拠及び弁論の全趣旨によって認められる被控訴人の国籍国であるミャンマーの状況等に
ついては、原判決の「事実及び理由」欄の「第3 争点に対する判断」の2に記載(原判決23頁23
行目から27頁末行まで)のとおりであるから、これを引用する。ただし、原判決26頁23行目から
24行目にかけての「立入りの拒否を」の次に「1999年(平成11年)5月ころまで(乙37の1ない
- 3 -
し3)」を加える。
3 原審における被控訴人の供述等
被控訴人の原審本人尋問における供述及び陳述書(甲2)の記載(以下、まとめて「被控訴人の
供述等」という。)の要旨は、原判決の「事実及び理由」欄の「第3 争点に対する判断」の3に
記載(原判決28頁5行目から32頁2行目まで)のとおりであるから、これを引用する。
ただし、原判決28頁13行目の「原告の弟は、」の次に「1985年(昭和60年)、《地名略》州独立の
ために戦う」を加え、29頁24行目の「努め」を「務め」に改め、30頁6行目の「原告はこれに参加し、
青年部の」を「原告はNLDに入党し、下部組織であるNLD《地名略》州北部支部青年部の」に改め、
31頁2行目から7行目までを下記のとおり改め、同頁18行目の「就職先の会社が、」の次に「部品
調達のために」を加え、同頁25行目の「努めている」を「務めている」に改める。
「コ ところで、原告の経営する貸しビデオ店については、1997年(平成9年)3月ころ、店舗
内の営業用機器やビデオテープ100本以上が軍情報部に押収されたことから、廃業に至った。こ
のような押収を受けた理由は、公式には明らかにされていないが、原告としては、原告が1995年
(平成7年)7月に自宅軟禁から解放されたCの演説等を収録したビデオを複写して貸し出すな
どしていたことが原因であると考えている。
原告は、1997年(平成9年)5月ころ、自分の身に危険が迫った場合には国外に出ることを考
えて、用事でヤンゴンに行った際に旅券を取得するための申請手続をし、賄賂を用いて、同年7
月25日に旅券(乙1)の発給を受けた。この旅券には、1998年(平成10年)5月にブローカーを
通じて「商用目的」の追加を行った。」
4 当審における証人Dの証言等
当審証人Dの証人尋問における証言及び陳述書(甲40)の記載(以下、まとめて「Dの証言等」
という。)の要旨は、以下のとおりである。
 Dは、《日付略》にミャンマー(当時のビルマ)のマンダレーで生まれ、被控訴人とは幼なじ
みであった。1974年(昭和49年)9月にE経済大学に入学し、1978年(昭和53年)11月に同大
学を卒業した。その後はマンダレーで洋服の生地などを売る店を経営していた。現在、日本政
府から難民認定を受けて、日本に居住している。妹が1980年(昭和55年)に被控訴人と結婚し
ている。 
 ミャンマーでは、1988年(昭和63年)3月のヤンゴンでの軍事独裁政権に対する反政府運動
がマンダレーにも波及した。Dは、同年8月8日のマンダレーでの反政府デモに参加し、同月
12日に設立された「上ビルマイスラム教徒同盟」の書記長に就任するなどして反政府運動に関
与しため、警察に追われる身となり、同年9月25日に自らマンダレーの国軍大隊本部に出頭し
て、警察に逮捕され、そのまま1989年(平成元年)2月10日までマンダレー刑務所に収容され
ていた。Dは、刑務所から出た翌日である同年2月11日にNLDに入党し、1996年(平成8年)
9月にミャンマーを出国するまで、NLDの区組織委員会のメンバーになったりあるいはマンダ
レー管区調査局の担当員になったりするなどの活動をしていた。
- 4 -
 Dは、1989年(平成元年)3月にラショーの主要な民主化活動家であったFにNLD《地名略》
州北部支部議長になってくれるように説得に行き、説得に成功したが、その際に同行してくれ
たNLD党員の一人が被控訴人であり、それから活動家としての付き合いが始まった。
当時、被控訴人は、NLD青年部の一員で、NLD党員や支持者を拡大するために重要な役割を
担っていた。被控訴人は1990年(平成2年)の総選挙の際には、NLD《地名略》州北部支部の選
挙対策委員会の委員であり、同支部において投票所責任者に選ばれている。1990年(平成2年)
5月の総選挙では、NLDが議席の82%を獲得したが、軍事政権はNLDに政権を委譲せず、む
しろ弾圧を加えた。
 1995年(平成7年)7月にCが自宅軟禁から解放されて週末ごとに自宅前で対話集会を開き、
演説をしたりしていたが、その演説等のビデオを広める(複写して配布する)のに被控訴人が
ラショーで経営していたビデオ店も重要な役割を担っていた。ヤンゴンから来る演説等のビデ
オをラショーからマンダレーに買物にやって来る商人に託して被控訴人に渡してもらっていた
のは、1995年(平成7年)10月〜11月ころから1996年(平成8年)4月ころまでである。
 Dは、1996年5月26日から28日まで、複数政党制による選挙施行の6周年記念として、ヤン
ゴンのNLD本部での第1回総会に参加し、憲法起草委員会の委員として新憲法の基本原則の
起草に係わり、総会後もしばらくヤンゴンにとどまっていたが、総会に参加して先にマンダレ
ーに戻ったNLD党員が次々と逮捕されている状況の中で、身の危険を感じ、軍情報部による逮
捕を逃れるためにラショーに行くことにした。被控訴人は、ラショーに着いたDを案内して、
自動車で20分ほどのところにあるGに連れて行き、同村の知人のところに2週間ほどDを匿っ
た。
 Dは、上記のとおりGに身を隠した後、ヤンゴンに戻り、逮捕を免れるために国外に脱出す
ることを計画し、1996年(平成8年)7月25日に高額の金員を渡したブローカーを通じて旅券
を取得し、同年9月25日にミャンマーを出国した。
その間の同年9月22日、Dは、友人の弁護士から、欠席裁判で7年の刑の判決が出ているこ
とを聞かされ、また、妻から、同月24日にマンダレーの自宅が軍によって家宅捜索されて文書
や写真などが押収されたことを聞かされた。
 Dは、1996年(平成8年)9月25日にミャンマーを出国し、同年11月17日に日本に入国し、
同年12月26日に難民認定の申請をし、1999年(平成11年)2月2日に日本において難民認定を
受けた。
5 被控訴人の供述等の信憑性及びDの証言等の信憑性について
 被控訴人の供述等の信憑性について
当裁判所も、前記3の原審における被控訴人の供述等については、少なくともその基本的な
部分について十分に信憑性があるものと判断する。その理由は、原判決の「事実及び理由」欄の
「第3 争点に対する判断」の3に記載(原判決32頁4行目から37頁2行目まで)のとおり
であるから、これを引用する。ただし、原判決32頁5行目の「前記1」を「前記2」に改め、同
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頁末行の「7月」を「5月」に改め、33頁1行目の「同月15日」を「同年7月15日」に改め、同頁
4行目冒頭の「会員党」を「会員」に改め、同頁12行目の「NLD《地名略》州支部」を「NLD《地
名略》州北部支部」に改め、34頁20行目から21行目にかけての「少なくとも1988年(昭和63年)
ころからは」を「1995年(平成7年)7月に自宅軟禁から解放された」に改め、35頁21行目の「昭
和58年」を「昭和53年」に改める。
なお、被控訴人の難民認定申請の際の供述書(乙4の2)中のSSLAとの係わりに関する部分
や軍諜報局員による拘留・尋問に関する部分について、あるいは、被控訴人の難民調査官に対
する供述調書(乙7)中の1998年3月若しくは4月ころのDとの係わりに関する部分について、
それぞれ正確性を欠いた記載があること(いずれも被控訴人が原審の本人尋問において自認し
ている。)や、ミャンマーで1990年(平成2年)5月に行われた総選挙の際に被控訴人がNLD
から特定地区の投票所の責任者に任命された書面(甲3)の趣旨についての被控訴人の原審で
の供述が変遷していることも、被控訴人の供述等の基本的な部分についての信憑性に影響を与
えるものではないというべきである。
 Dの証言等の信憑性について
前記4に記載したDの証言等についても、その内容は具体的であって特に不自然・不合理な
点はなく、少なくともその基本的な部分については十分に信憑性があるものと判断される。D
が被控訴人の義兄(被控訴人の妻の兄)であることから被控訴人のためにことさらに虚偽の証
言をしあるいは虚偽の内容の陳述書を作成したことを窺わせるような事情は認められない。
したがって、Dの証言等によっても、前記3の原審における被控訴人の供述等の基本的な部
分についての信憑性が裏付けられるものというべきである。
 なお、被控訴人がミャンマー政府から正規に旅券の発給を受けて適法にミャンマーを出国し
た事実については、たしかに、それは被控訴人がミャンマー政府から反政府運動の中心人物と
して特に注目され警戒されるほどの積極的な反政府活動家ではなかったことを推測させるもの
ではある。しかしながら、被控訴人が賄賂を用いて旅券を入手したことをしばらく措くとして
も、ミャンマー政府においても、国内の反政府活動家を迫害することは人道的見地から国際的
非難を浴びることになろうから、そうした非難をできるだけ避けるためにも、政府にとって好
ましからざる人物が自らミャンマー国外に出国することをむしろ歓迎し、たとえ出国者が反政
府活動家であることを把握していたとしても、その出国者が反政府運動の中心人物でない場合
にはあえて出国を阻止しなかった可能性も十分にあると考えられるのであるから、反政府運動
の中心人物としては特に注目され警戒されていなかった被控訴人がミャンマー政府から正規に
旅券の発給を受けて適法にミャンマーを出国したからといって、そのことと被控訴人がNLD
に所属する反政府活動家であって政府にとって好ましからざる人物であったこととの間に直ち
に矛盾があるものとはいえないというべきであり、この点の供述等が不自然・不合理なものと
して前記の被控訴人の供述等の信憑性が失われるものではないというべきである。我が国で難
民と認定されたD自身もブローカーを通じてミャンマー政府から正規に旅券の発給を受け、適
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法にミャンマーを出国しているのである。法務省入国管理局e作成の報告書(乙22)も未だ上
記の判断を左右するには至らない。
6 被控訴人の難民該当性について
 上記5で検討したとおり、前記3の被控訴人の供述等は少なくともその基本的な部分におい
て信用することができるものであり、前記4のDの証言等も少なくともその基本的な部分にお
いて信用することができるものである。そして、これらによれば、被控訴人は、ミャンマー国籍
を有する本件処分当時46歳の男性で、1998年(平成10年)6月にミャンマーを出国して我が国
に入国し、現在、国籍国の外にあるものであるところ、① 被控訴人は、大学生のときの1974
年(昭和49年)ころから反政府運動に加わるようになり、② 1978年(昭和53年)に国立大学
を卒業した後、故郷のラショーに帰って学習塾を開いたが、子供たちの前で政府(軍事政権)を
批判したことから、1985年(昭和60年)に軍情報部よって塾の閉鎖を命じられ、③ その後、
貸しビデオ店を開業したが、1988年(昭和63年)8月にラショーで行われた民主化を求めるデ
モに青年グループのリーダーとして参加し、そして、同年9月にNLDが結成されるや、直ちに
これに入党して《地名略》州北部支部青年部の組織部長となり、以後、NLD党員として反政府
活動を行っていたものであり、1989年(平成元年)には軍情報部から尋問を受けたこともあり、
④ 1990年(平成2年)5月にミャンマーで複数政党制による総選挙が行われた際には、NLD
から特定地区の投票所の責任者に任命され、党務としてNLDの勝利のために活動し、⑤ こ
の総選挙によってCの率いるNLDが圧勝したものの、SLORCから政権委譲が行われなかった
ため、なおも反政府活動を継続し、⑥ 1995年(平成7年)7月にCがようやく自宅軟禁から
解放されて、週末ごとに自宅前で市民との対話集会を開き、演説等を行うと、被控訴人におい
て折から貸しビデオ店を経営していたことから、その様子を収録したビデオを複製して貸し出
すことを始め、そのためにこれを知った軍情報部から1997年(平成9年)3月ころに貸しビデ
オ店の閉鎖を命じられ、⑦ この間の1996年(平成8年)5月ころには、NLD党員でそのころ
軍情報部から追われていた義兄のDをラショー付近の小村に匿い、⑧ そして、1997年(平成
9年)5月ころには、自分の身に危険が迫った場合に備えて旅券の申請し、賄賂を用いて、同年
7月に旅券の発給を受け、貸しビデオ店を廃業した同年8月ころに家族をラショーに残してヤ
ンゴンに転居し、自動車部品会社に就職していたところ、翌1998年(平成10年)5月にSSAの
関係者2名がCの自宅前でビラを配布していて逮捕され、また、ラショーに住んでいる妹から
「軍情報部の関係者が来て被控訴人がどこに住んでいるのかを聞いて行った。」旨の連絡を受け
たことから、自らが逮捕される危険性が迫っているものと感じて出国を決意し、たまたま就職
先の会社が部品調達のために被控訴人を日本に派遣したいということであったことから、上記
の旅券により同年6月16日にミャンマーを出国し、翌同月17日に我が国に入国し、⑨ 我が国
に入国後は直ちにNLD-LAのメンバーとなり、同年8月に難民認定の申請をしたものである。
⑩ なお、我が国で難民認定を受けた上記Dは被控訴人の妻の兄であり、また、被控訴人の弟
は《地名略》州独立のためにミャンマー政府と戦うSSAのメンバーである。
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 上記①ないし⑩の事実を総合考慮し、これに、ミャンマー国内においてはNLD党員に対して
迫害が行われているという一般的な政治情勢をも加えて検討すると、たとえ被控訴人がミャン
マー政府から反政府運動の中心人物として特に注目され警戒されるほどの積極的な反政府活動
家ではなかったとしても、少なくとも被控訴人はNLDに所属する反政府活動家として政府に
とって好ましからざる人物として忌避の対象となる存在であったことは否定できず、平成11年
5月24日の本件処分時において、被控訴人は「特定の社会的集団の構成員であること又は政治
的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」ものであっ
たというべきである。すなわち、被控訴人が平成11年5月24日当時にミャンマーに帰国した場
合には、被控訴人は我が国に入国する前の活動や我が国に入国した後の言動等を理由にミャン
マー政府あるいは軍情報部によって身柄を拘束されあるいは通常人において受忍し得ないよう
な身体的自由に対する不当な圧迫を受ける具体的な可能性が少なからずあったものというべき
である。
 被控訴人が国立大学を卒業していること、ミャンマー政府から許可を受けて学習塾を開いて
いたこと、すべてのビデオが政府の検閲下にある状況の中で被控訴人が政府から許可を受けて
10年以上にわたり貸しビデオ店を経営していたこと、被控訴人が貸しビデオ店を廃業するに当
たり政府や軍情報部から逮捕されたり処罰を受けたりしたことがないこと、そして、被控訴人
は政府から正規に旅券の発給を受け、これによって何ら問題なく適法にミャンマーを出国した
ものであること、さらに、被控訴人がミャンマーに残している妻子も現在まで政府から迫害を
受けてはいないこと、等も、未だ上記判断を左右するには足りないものというべきである。な
お、被控訴人がその出国当時において我が国で就労して得た金銭をミャンマーの家族に送りた
いとの気持を有しており現にその後送金をしているとしても、そのことと被控訴人が難民であ
ることとが直ちに矛盾するものではないというべきである。
7 まとめ
以上の検討によれば、被控訴人は法第2条第3号の2に定義する難民に該当するものと認めら
れるから、被控訴人が難民に該当することを認めるに足りる資料がないことを理由としてなされ
た本件処分は違法なものといわざるを得ない。
したがって、本件処分の取消しを求める被控訴人の本件請求は、理由附記の不備の点について
判断するまでもなく、理由があるからこれを認容すべきである。
第4 結論
よって、被控訴人の請求を認容した原判決は相当であり、本件控訴は理由がないからこれを棄
却することとして、主文のとおり判決する。

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