退去強制令書発付処分取消等請求事件(第1事件)
平成17年(行ウ)第114号
難民不認定処分無効確認請求事件(第2事件)
平成17年(行ウ)第115号
原告:A、被告:法務大臣・東京入国管理局主任審査官
東京地方裁判所民事第2部
平成19年2月2日

判決
主 文
1 被告法務大臣が平成17年1月24日付けで原告に対してした出入国管理及び難民認定法49条1項の規定による異議の申出には理由がないとの裁決を取り消す。
2 被告主任審査官が同日付けで原告に対してした退去強制令書発付処分を取り消す。
3 被告法務大臣が平成15年11月14日付けで原告に対してした難民の認定をしない処分が無効であることを確認する。
4 訴訟費用は、全事件を通じ、被告らの負担とする。
事実及び理由
第1 請求
主文と同じ。
第2 事案の概要
本件は、本邦に不法残留していたとの理由で退去強制手続をとられ、被告法務大臣から出入国管理及び難民認定法(以下「入管法」という。)49条1項の規定による異議の申出には理由がないとの裁決を受け、被告主任審査官から退去強制令書発付処分を受けた外国人である原告が、難民である自分に対しては在留特別許可が与えられるべきであったからこれらの処分は違法であると主張してその取消しを求めるとともに(第1事件)、難民認定申請に対して被告法務大臣がした難民の認定をしない処分が無効であることの確認を求める(第2事件)事案である。
1 難民に関する法令の定め
法務大臣は、本邦にある外国人からの申請に基づき、その者が難民であるか否かの認定を行う(入管法61条の2第1項)。
入管法上、難民とは、難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)1条の規定又は難民の地位に関する議定書(以下「難民議定書」という。)1条の規定により難民条約の適用を受ける難民のことである(同法2条3号の2)。そして、難民条約1条A及び難民議定書1条1・2によれば、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であつて、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」は難民条約の適用を受ける難民であるから、この定義に当てはまる者が入管法にいう難民ということになる。
2 前提事実(後記の事実は当裁判所に顕著であり、それ以外の事実は弁論の全趣旨により容易に認められる。)
 原告の国籍
原告は、1972(昭和47)年《日付略》、バングラデシュ人民共和国(以下「バングラデシュ」という。)において出生した、同国国籍を有する男性である。
 入国・在留状況
ア 原告は、平成14年7月19日、マレーシアのクアラルンプールから航空機で成田国際空港に到着し、「短期滞在」の在留資格で在留期間を90日とする上陸許可を受けて本邦に上陸した。
以後、東京入国管理局において、同年10月21日、平成15年1月20日、同年4月17日、同年7月17日、同年10月20日の5回にわたり、それぞれ在留期間を90日とする在留期間更新許可を受けた。
イ 原告は、平成14年7月22日、居住地を東京都江戸川区《住所略》として外国人登録法に基づく新規登録をした。
ウ 原告は、在留期間の更新又は在留資格の変更を受けることなく、最終の在留期限である平成16年1月10日を超え、不法残留となった。
 退去強制手続
ア 東京入国管理局入国警備官は、平成16年12月2日、違反調査を実施し、原告が入管法24条4号ロ(不法残留)に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして同局主任審査官から発付を受けた収容令書を執行して原告を同局収容場に収容した上、同月3日、同法24条4号ロ該当容疑者として原告を同局入国審査官に引き渡した。
イ 東京入国管理局入国審査官は、同年12月6日及び14日、違反審査を実施し、同月14日、原告が入管法24条4号ロに該当すると認定し、これを原告に通知したところ、原告は特別審理官に対し口頭審理を請求した。
ウ 東京入国管理局特別審理官は、平成17年1月5日、口頭審理を実施し、入国審査官の上記認定が誤りがないと判定し、これを原告に通知したところ、原告は、入管法49条1項の規定により、被告法務大臣に対し異議を申し出た。
エ 被告法務大臣は、同月24日、原告からの上記異議の申出に理由がないとの裁決をした(以下「本件裁決」という。)。この通知を受けた被告主任審査官は、同日、原告に本件裁決を通知するとともに、バングラデシュを送還先とする退去強制令書を発付した(以下「本件退令発付処分」という。)。同局入国警備官は、同日、この令書を執行して原告を同局収容場に収容した。
オ 原告は、平成17年6月1日、入国者収容所東日本センターへ移収され、平成18年2月22日、仮放免された。
 難民認定手続
ア 原告は、平成14年9月12日、東京入国管理局において、被告法務大臣に対し難民の認定を申請し(以下「本件難民認定申請」という。)、同局難民調査官は、平成15年1月14日、17日及び21日の3回にわたり、原告から事情を聴取するなどの調査をした。
イ 被告法務大臣は、同年11月14日、本件難民認定申請について、下記の理由により難民の認定をしない処分をし、同年12月4日、これを原告に通知した(以下「本件不認定処分」という。)。

あなたは、「政治的意見」を理由とした迫害を受けるおそれがあると申し立てています。
しかしながら、
① あなたの所持する旅券及びあなたの供述によれば、1993年10月、身柄を拘束されたとする時以降、バングラデシュ政府から正常に旅券の発給を受け、合法的に出国したと認められること
② 1997年12月、バングラデシュ政府とジュマ民族の政治組織PCJSS(JSS)との間に和平協定が締結され、既に難民の帰還や武装解除が進められていること
③ あなたに対する国家による保護が欠如しているとは認められないこと
④ あなたが提出した告訴状は、記載内容にその信用性を疑わせる点が少なくないこと
 等からすると、申立てを裏付けるに足りる十分な証拠があるとは認め難く、難民の地位に関する条約第1条A及び難民の地位に関する議定書第1条2に規定する難民とは認められません。
ウ 原告は、平成15年12月4日、本件不認定処分につき、被告法務大臣に対し異議の申出をし、東京入国管理局難民調査官は、平成16年3月8日、原告から事情を聴取するなどの調査をした。
エ 被告法務大臣は、平成16年11月10日、下記の理由により原告からの上記異議の申出には理由がないとの決定をし、同年12月2日、これを原告に通知した。

あなたは原処分に対する異議申出において、原処分において申し立てた内容とほぼ同旨を申し立てるもののほか、迫害による新たな事実を申し立てているところ、新たに提出のあった資料を含め全記録により検討しても、原処分に誤りはなく、平成15年11月14日付け「通知書」の理由のとおり、あなたが難民の地位に関する条約第1条A及び難民の地位に関する議定書第1条2に規定する難民とは認められません。
 訴えの提起
原告は、平成17年3月18日、本件第1事件(本件裁決及び本件退令発付処分の各取消請求事件)及び第2事件(本件不認定処分の無効確認請求事件)の各訴えを提起した。
3 争点
本件の主要な争点は次のとおりであり(争点は第1事件及び第2事件の双方にかかわるもの、同は第2事件のみにかかわるものである。)、これに関して摘示すべき当事者の主張は、後記第3「争点に対する判断」において掲げるとおりである。
 原告の難民該当性
 本件不認定処分には、原告を難民と認定しなかったという実体面において、又は原告に対し十分な釈明の機会を与えずにされたという手続面において、無効原因があるか。 
第3 争点に対する判断
1 争点(原告の難民該当性)について
 バングラデシュ情勢
原告の難民該当性を検討するに先立ち、まず、背景事情となるバングラデシュ国内情勢にかかわる事実を認定する。
ア チッタゴン丘陵地帯を巡る政治情勢(この項では元号ではなく西暦を用いることとする。)
証拠(甲2ないし6、20ないし22、25、26、27の1〜3、28の1・2、29ないし36、39ないし42、44の2〜12、48、49、乙27ないし32、35、36、42、43、証人B)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実を認めることができる。
ア バングラデシュ南東部のインド及びミャンマーとの国境に接する地域はチッタゴン丘陵地帯と呼ばれ、平坦な国土の広がるバングラデシュの中では唯一の山岳地帯である。この地域には約12の先住民族(チャクマ族、マルマ族、トリプラ族等)が居住しており、これらの人々はジュマ民族とも総称される。その宗教も、同国の国教であるイスラム教ではなく、仏教徒が多い。
イ チッタゴン丘陵地帯においては、英領時代には、平地に住む多数派のベンガル人の入植が禁止され、東パキスタン時代もおおむねこれが踏襲されたため、先住民族の文化的独自性が維持されていた。ところが、1971年にバングラデシュが事実上独立して国として成立すると、政府は、先住民族からの自治の要求を否定し、逆に、ベンガル人をチッタゴン丘陵地帯へ入植させる政策を進めた。このため、1947年にこの地域の人口のわずか3パーセントほどであったベンガル人は、1997年には住民100万人のほぼ半分を占めるに至り、ベンガル人入植者と先住民族との対立は激化した。先住民族側は、1973年、チャクマ族を中心
に、政治団体として「チッタゴン丘陵人民連帯連合協会」(PCJSS)を、その下部組織として「シャンティ・バヒニ(平和の戦士)」と称する軍事組織(ゲリラ組織)を結成し、政治活動を続けながら一方では武装ゲリラ活動を行うという二重路線を取った。シャンティ・バヒニが政府軍やベンガル人入植者に対する激しい攻撃を行ったため、政府は大規模な軍隊をチッタゴン丘陵地帯に展開して制圧を図った。このような対立状況の下、1980年代から90年代にかけて、数万人単位の先住民族が国境を接するインドに避難し、国際的な注目を
浴びることになった。
1992年、約千人の先住民族が軍に殺害された事件とチャクマ族国会議員の訴えを契機に、政府は和平に向けてPCJSSとの協議を開始したが、PCJSSは憲法上の自治権の保障を要求し、政府は現行憲法の枠内における解決を主張したため、合意には至らなかった。
1996年にアワミ連盟政権が発足すると、政府は事態の解決に向けて動き出し、同年9月、「国家チッタゴン丘陵委員会」(NCCHT)を設置した。同年12月21日、NCCHT とPCJSS との間で第1回協議が行われ、合計7回に及ぶ協議の結果、1997年12月2日、NCCHT側とPCJSS側が合意し、「チッタゴン丘陵地帯和平協定」が調印された。
ウ チッタゴン丘陵地帯和平協定は、丘陵地帯3県における「丘陵県評議会」及びその上部組織としての「丘陵地帯地域評議会」の設置、これら評議会への一定の自治権の付与、抗争から逃れるためにインドへ避難した先住民族の帰還、土地問題解決のための土地委員会の設置、先住民族側の武装解除、軍施設の撤退、チッタゴン丘陵地帯問題省の設置などを定めた。当時野党であったバングラデシュ民族主義党(BNP)は、和平協定は特定の地域に対し特別の権限を与えるため違憲であると主張したが、一般には、既に20万人以上の死者を生んだとされている長年の懸案の解決の糸口となるものとして画期的なものと評価された。
1998年2月には、2000人程度のシャンティ・バヒニのメンバーが投降して武器を政府に引渡し、インドに避難していた先住民族の多くもチッタゴン丘陵地帯へ帰還した。
しかし、アワミ連盟政権下においても、先住民族側の武装解除、避難民の帰還のほかには、チッタゴン丘陵地帯問題省の設置以外の措置はほとんど実施されないままに終わり、2001年に発足したBNP政権は、和平協定の実施に熱意を示していない。丘陵県評議会、丘陵地帯地域評議会選挙はいまだに実施されず、土地問題を解決するために設置されたはずの土地委員会は機能しておらず、軍関係施設の撤退もほとんど進んでいないとされる。
もっとも、PCJSSの党首は、閣僚級の待遇を受ける丘陵地帯地域評議会議長を務めており、政府は、PCJSSの協力の下に和平協定を推進していくという方針は維持している。
エ 和平協定の締結は、一方で、先住民族の側の政治運動の分裂をもたらした。和平協定は、先住民族の権利の憲法上の保障を認めたものではなく、また、ベンガル人入植者の撤退を定めたものでもなかったことなどから、先住民族の中には、完全自治を求め、和平協定の締結及び推進に対して反対する運動が生じた。そうした中で、従来からPCJSSとともに活動を展開していた「丘陵人民評議会」、「丘陵学生評議会」及び「丘陵女性連盟」の3つの団体は、和平協定賛成派と反対派に分裂し、反対派は、1998年12月、和平協定に反対する政治団体として「統一人民民主戦線」(UPDF)を結成した。
和平協定に対して正反対の立場をとるPCJSSとUPDFは、その運動方針を巡って互いに非難、中傷を繰り返しただけでなく、相手方の運動を暴力によって妨害するようにもなった。どちらの陣営においても、活動家が襲撃を受け、誘拐されたり、あるいは殺傷されるなどの事件が頻発し、そのたびに、PCJSSとUPDFは、相手方を非難する抗議文を発するといった状態となった。バングラデシュの新聞(英字紙ザ・デイリー・スター)は、2002年10月19日付けの記事で、警察によると、1997年12月の和平協定締結から2002年9月までにPCJSSとUPDFの間の暴力事件で少なくとも231人が死亡し、400人が負傷、380人の誘拐事件が起こったと報じている。
こうして、チッタゴン丘陵地帯においては、従来からのベンガル人入植者と先住民族との対立に、新たに先住民族内におけるPCJSS派とUPDF派との対立が加わり、状況は一層複雑化している。抗争を背景に、焼き討ちや爆破事件も起こっており、さらに、近年は、ビジネスマンや外国人の誘拐事件も起きるなど、この地域においては緊張状態が続き、事態が改善される気配は全くみられないとされている。
もっとも、UPDFはその後活動を弱めているようであり、バングラデシュの新聞(日刊ジュガントル)は、2004年6月5日付けの記事で、UPDFは、理念の食い違いなどにより50人以上の指導的な活動家が辞任し、中心的な指導者が外国に移住するなど、組織の崩壊と勢力の衰退に直面していると報じている。
イ バングラデシュの治安情勢一般
在バングラデシュ日本大使館が平成17年10月31日付けで作成した「バングラデシュの概要と最近の政治情勢」と題する文書には、バングラデシュの治安について以下の記述がある(甲39の11頁以下)。なお、記述中にある現政権(ジア政権)発足の時期は2001(平成13)年10月である。
ア 「前政権末期から悪化した治安情勢の改善は現政権の課題であったが、ジア政権発足後も治安情勢が大きく改善されたとは言えない。現政権成立後、アワミ連盟支持者が多いとされているヒンドゥー教徒への迫害事件が頻繁に報道された。その後、殺人、ゆすり、誘拐、強姦等の一般犯罪が増加し、1日当たり平均11件の殺人事件が発生している計算になるとされた。また2002年9月以降、爆破事件が相継ぎ、大量の武器密輸も発覚したがそのほとんどが解明されていない。」
イ 「2002年10月、政府は『オペレーション・クリーン・ハート』と称して、治安の改善のために軍の導入に踏み切ったため、治安は一時的に改善された。しかしながら、50名以上の被疑者が尋問中に死亡しており、その多くに拷問と思われる傷跡があったため、死因に疑問がもたれた。2003年2月、政府は軍の導入中に発生した死亡事件、拷問、人権侵害に関係した者に対する司法措置を排除するために『合同作戦免責法』を可決した。このような措置は違憲かつ人権侵害であるとする非難が国内で高まったほか、アムネスティ・インターナショナル、欧州議会等も非難した。その後再び治安情勢が悪化したため、政府は警察・軍・国境警備隊よりなる緊急行動隊(RAB: Rapid Action Battallion)を組織し、2004年6月からRAB による犯罪組織取り締まりを本格化した。RAB は治安改善に大きな成果を上げたものの、犯罪組織取り締まりの過程で発砲による死者が相継ぎ、西側諸国・人権団体等はRABの強引な取り締まりに懸念を示した。」
ウ 「相継ぐ爆破事件に対し、各国は深刻な懸念を表明し、政府に対し全面的な捜査、犯人の逮捕・処罰を要求した。ダッカにおけるアワミ連盟集会爆破事件に対しては、インターポール、米国のFBIが捜査協力したが、真相は全く解明されておらず、首謀者も逮捕されていない。また武器密輸事件に関しても、末端のトラック運転手が逮捕されたのみで真相は不明である。治安の悪化の原因として警官の少なさ、警察の捜査能力の低さ、警官の低い志気・腐敗、犯罪組織と警察・政治家の結びつき、国境管理の困難性が原因とされている。
爆破事件の首謀者に関しては多くの説があるが、政府にはこれまでに発生した爆破事件を解決しようとする政治意志が必ずしもみられず、犯罪を犯しても、つかまらない、罰せられないとの風潮が強まり、事件が益々エスカレートしていると指摘されている。」
ア 原告の個人的事情(この項では元号ではなく西暦を用いることとする。)
次いで、証拠(甲1ないし7、15、19、20ないし26、27の1〜3、28の1・2、29ないし34、37の1・2、38、44の1〜14、45、46、48、49、乙4ないし6、9、11、15、17、37、38、41、44、45、証人C、原告本人)によれば、原告の個人的事情として、以下の事実を認めることができる。
ア 原告は、チッタゴン丘陵地帯の《地名略》県で、チャクマ族の両親から生まれた。その後、同地帯の別の県である《地名略》県に移住し、来日するまでここに住んでいた。姉が一人、妹が三人、弟が二人おり、いずれもバングラデシュで生活している。両親は、原告が来日した当時は健在であったが、その後亡くなった。家族の中で政治運動に携わっているのは原告のみである。
原告には、1998年に婚姻した妻と幼い娘がおり、《地名略》県の村で、農業に従事する原告の弟とともに暮らしている。原告も、バングラデシュにおいては、後述のような政治運動をするかたわら、農業を営んでいた。
イ 幼いころからベンガル人入植者やその権益の擁護者である軍に対して反発心を抱いて育った原告は、チッタゴン県にあるラングニア・カレッジに在学中の1991年、丘陵学生評議会(前記アエ参照)に参加し、チッタゴン丘陵地帯に住む先住民族のための政治運動に携わることとなり、同年10月、同カレッジ内に丘陵学生評議会の支部を創設してその初代代表となった。1993年5月には、丘陵学生評議会の中央委員会事務局次長となった。
ウ 1993年10月、《地名略》県において、住民が仏教寺院の法事に参加するのを警察が禁止するなどしたことから、原告ら学生は、これに抗議するため県庁前で座り込みをしようとした。すると、警察は原告を含む学生9人を逮捕し、原告の身柄の拘束は11日間続いた。
エ 原告は、1994年には丘陵学生評議会中央委員会の副書記長に、1996年6月には副代表に就任し、1997年6月から1年間は代表を務めた。
1997年12月にチッタゴン丘陵地帯和平協定が締結されると、原告は、和平協定反対の立場をとった。そして、1998年12月に、丘陵学生評議会の和平協定反対派が、丘陵人民評議会及び丘陵女性連盟の和平協定反対派とともにUPDF(前記アエ参照)を設立した際には、原告は、5人から成るその招集者委員会のメンバーとなった。
その後、原告は、UPDF の中心的なメンバーとして政治活動を続けた。2000年2月、PCJSSとUPDFとが和解の話合いをしたことがあり、その際、原告はUPDFの代表としてこれに参加した。
オ 原告は、チッタゴン丘陵地帯和平協定に反対する政治的立場を変えることはなかったが、PCJSSとUPDFが暴力的な抗争を繰り返すことに嫌気がさし、また、UPDF執行部を構成する他のメンバーの党運営に対しても次第に不満を感じるようになった。さらに、2000年11月と2001年5月の2回にわたり、PCJSSのメンバーから襲撃を受けそうになったこともあり、原告はUPDFを脱退することを決意し、2002年4月、党の責任者に辞表を提出した。
その後、同年5月に、PCJSSの武装集団が原告の不在時に原告の住む村に来て原告の親戚を誘拐するという事件が起きるに至って、原告は切迫した身の危険を感じ、村を出ることを決めた。5月11日、村を出てチッタゴンの友人の家に逃れ、更に原告のいとこであるDのいるダッカに向かった。
Dは、2001年に日本人のCと婚姻していた。Cは、「ジュマ協力基金」という、チッタゴン丘陵地帯の先住民族(ジュマ民族)の人権擁護を目的に活動する我が国のNGO の共同代表を務めており、当時、同基金ダッカ事務所に駐在していた。Dは、かつて丘陵女性連盟の事務局長をしていたことがあり、原告とは異なり和平協定推進派であったが、原告は、日本人と婚姻をしているDのつてによって日本へ逃亡することを考え、ダッカに着いた日の翌日である6月3日、Dに会って事情を説明し、助けを求めた。Cは、UPDFの活動家と
して以前から原告の名を知っていたが、妻を通じて事情を聞き、原告が妻のいとこであることはこのとき初めて知った。PCJSSとUPDFの抗争を承知していたCは、事情を聞いて、原告の身に危険が及んでいると判断した。Cは、妻のDとは政治的立場を異にするUPDFに対しては必ずしも好感情を抱いていなかったし、原告を手助けしたことが発覚すれば自分たち夫婦あるいはジュマ協力基金がPCJSSとUPDFの抗争に巻きこまれ、生命に危険が及ぶことも懸念した。しかし、ジュマ民族全体の利益を考慮すると原告のような運動のリ
ーダーとなれる人物を見殺しにするわけにはいかないと考え、ジュマ協力基金の研修に参加するという名目で原告を急ぎ日本へ送り出すことにした。このような名目があれば、迅速に旅券と査証を取得することができると考えたからであった。
Cの協力もあって、原告は、旅券と査証を速やかに取得することができ、2002(平成14)年7月19日、バングラデシュを出国して本邦に上陸した。ジュマ協力基金の研修というのはあくまでも名目であったから、同基金は費用の負担をせず、渡航費用は原告が自分で調達した。
来日後は、Cから事情を聞いていた同基金の共同代表者のもとに身を寄せて我が国での生活を始め、前記前提事実アのとおり、同年9月には本件難民認定申請をした。
イ 原告の個人的事情に関する事実認定についての補足説明
ア 原告がバングラデシュ国内の少数派であるチッタゴン丘陵地帯先住民族の利益のための政治運動のリーダーであったことについて
この点は、チッタゴン丘陵地帯を巡る情勢について報道する新聞記事の中に原告の名前がしばしば登場することからも裏付けられる上(甲2ないし6、29)、原告本人の供述及び自らの証言によって、現地の事情に詳しいと認められる証人Cも、原告の上記中心的活動家としての状況に関する原告の供述を裏付ける証言をしているから、上記アイないしエのとおり認定することができる。
イ 原告が、2000(平成12)年11月と2001(平成13)年5月の2回、PCJSSのメンバーから襲撃を受けそうになり、2002(平成14)年5月にはPCJSSの武装集団が原告の村に来て原告の親戚を誘拐していったことについてこの点については、原告の供述しか証拠がなく、被告らはその信用性に疑いがあると主張するが、事柄の性質上、客観的な裏付け証拠の提出を原告に求めるのは酷であるから、その供述内容自体によって信用性を判断するほかない。このような観点からすると、まず、原告の供述内容は、それ自体特に不自然なところや、殊更に誇張したとみられるようなところはない。1998(平成10)年にUPDFが結成された後、チッタゴン丘陵地帯においてPCJSSとUPDFの間で暴力的な対立が激化しているという背景事情(前記アエ)及び2002(平成14)年初めころまではUPDFの中心的なメンバーであったという原告の経歴を前提にすれば、原告の供述するような襲撃事件が起こったとしても決して奇異なことではない。したがって、上記アオのとおり認定することができる。

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