退去強制令書発付処分取消等請求事件
平成15年(行ウ)第11号・平成16年(行ウ)第66号
原告:A・B、被告:東京入国管理局主任審査官
東京地方裁判所民事第3部(裁判官:鶴岡稔彦・金子直史・潮海二郎)
平成17年1月21日
判決
主 文
一 原告Bの訴えを却下する。
二 被告が平成一四年一一月六日付で原告Aに対してした退去強制令書発付処分を取り消す。
三 訴訟費用のうち、原告Bに生じた費用は原告Bの負担とし、その余を被告の各負担とする。
事実及び理由
第一 請求
一 (平成一五年(行ウ)第一一号)
被告が平成一四年一一月六日付で原告Aに対してした退去強制令書発付処分を取り消す。
二 (平成一六年(行ウ)第六六号)
被告が平成一四年一一月六日付で原告Bの妻である原告Aに対してした退去強制令書発付処分
が無効であることを確認する。
第二 事案の概要
本件は、被告から退去強制令書発付処分を受けた原告A及びその夫である原告Bが、原告Aに
対してなされた退去強制令書発付処分(以下「本件処分」という。)は違法である旨主張して、原
告Aにおいてはその取消しを、原告Bにおいてはその無効確認をそれぞれ求めた事案である。
一 争いのない事実等(証拠あるいは弁論の全趣旨により容易に認定可能な事実も含む)
 原告両名の身分事項
原告Aは、昭和五五年八月一一日、タイ、チェンライにおいて出生したタイ国籍を有する外
国人女性である(乙一)。
原告Bは、日本人男性であり、原告らは、平成一四年一一月二六日、婚姻の届出をした(甲二)。
 原告Aの入国、在留状況等
ア 原告は、平成一三年六月一六日、原告名義の旅券を用いて、バンコク・ドンムアン空港か
ら出国した(乙一)。
イ 原告Aの供述によれば、原告Aは、本国出国後、マレイシア国クアラルンプールを経由し
て、同月一八日、新東京国際空港(以下「成田空港」という。)に到着し、本邦に不法入国した(乙
一、四)。
なお、原告Aは、同人に係る上陸許可事実が見あたらないことについて、本国出国から同
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行していたタイ人男性に原告の旅券を渡し、成田空港到着後、同人らと共に上陸審査を受け
たが、その際、原告の旅券に上陸許可証印が押されたかどうかは分からない旨供述している
(乙四)。
ウ 原告Aは、本邦に不法入国した後、約四か月間、売春に従事し、その後は群馬県伊香保温泉
でホステスとして不法就労していた(乙四、五)。
 退去強制令書発付処分に至る経緯等
ア 東京入国管理局(以下「東京入管」という。)高崎出張所入国警備官は、平成一四年一一月
一日、群馬県警察渋川警察署警察官とともに、群馬県北群馬郡《住所略》所在のCアパートに
いた原告Aらを摘発し、出入国管理及び難民認定法(以下「法」という。)違反容疑により、東
京入管第二庁舎まで任意で連行した(乙三)。
イ 東京入管入国警備官は、同日、原告Aが法二四条一号該当すると疑うに足りる相当の理由
があるとして、東京入管主任審査官から収容令書の発付を受け、同日、同令書を執行して、原
告Aを東京入管収容場に収容した(乙六)。
ウ 東京入管入国警備官は、同日、原告Aを法二四条一号該当者として東京入管入国審査官に
引渡した(乙七)。
エ 東京入管入国審査官D(以下「担当入国審査官」という。)は、同月五日、原告Aに係る違反
審査を行い、法二四条一号に該当する旨認定した(乙八、九)。翌六日、被告は、原告Aに対し、
違反認定に服し、口頭審理請求権を放棄したものとして、法四七条四項により退去強制令書
を発付した(乙一一)。
なお、違反審査において法四七条三項の口頭審理権の告知がなされたか否か、原告Aが法
四七条四項の違反認定に服したといえるかどうか、上記口頭審理放棄書の署名が真意に基づ
くものか、違反認定の内容に誤りがあるか等については後記のとおり争いがある。
二 当事者の主張の要旨
 本案前の主張の要旨−原告Bの原告適格
(原告Bの主張)
ア 法が「日本人の配偶者等」の在留資格を設けた趣旨は、日本人と外国人との婚姻に配慮し、
その夫婦共同生活を保護しようとしたからにほかならない。このことは、出入国管理基本計
画(甲五二)において、「在留特別許可を受けた外国人の多くは、……より具体的な例として
は、日本人と婚姻し、その婚姻の実態がある場合で、……法務大臣は、……その外国人の家族
状況……総合的に考慮し、基本的に、その外国人を退去強制することが、人道的な観点等か
ら問題が大きいと認められる場合に在留を特別に許可している。」と規定されていること、さ
らに、入国管理局が規定した「違反審判要領第五章第一節異議の申出の受理等第二専決」の
二は、日本人と婚姻しているもので婚姻に信憑性及び安定性が認められている等のものにつ
いては、原則として、在留特別許可を付与するものと規定していることからも明らかである。
イ 原告Bは、原告Aに対する本件処分により、その法律上の利益(婚姻関係及び夫婦共同生
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活を営む利益)を侵害されたものであって、原告適格が認められるべきである。
(被告の主張)
ア 本件処分の名宛人は原告Aであり、また、本件処分の関係各条項は、いずれも退去強制手
続に係る規定であって、専ら当該容疑者が、法二四条各号に規定する退去強制事由のいずれ
かに該当し、本邦からの退去を強制すべき者かどうかの判断に向けられているものであるか
ら、当該容疑者の配偶者である日本人に対し、その婚姻関係上の権利・利益を保護する趣旨
を含むものではないことは明らかである。
イ 法は「在留資格」の一つとして「日本人の配偶者等」を定めているが(法二条の二第二項、
別表第二)、在留資格とは、法が在留資格制度を採用し、外国人の身分・地位に応じて、日本
で行うことのできる活動をあらかじめ一定の類型として定めた法的地位であって、日本人の
配偶者である外国人が、在留資格である「日本人の配偶者等」に該当する身分・地位を有す
ることはともかく、外国人の配偶者である日本人に法的権利・利益を付与するための規定で
はない上に、本件処分の関係条項でもない。
 本件処分の違法性
(原告らの主張)
ア 違法性判断基準
法四七条の違反認定及び口頭審理請求権放棄を受けて退去強制令書を発付する場合、その
前提となる違反認定及び口頭審理請求権放棄が有効かつ合法であることが必要である。すな
わち、法四七条四項は、退去強制令書の発付処分の要件として、①「認定に服した」こと、②
法四七条三項の説明がされた上で、主任審査官が「口頭審理を請求しない旨を記載した文書
に署名させる」こと、③違反認定が有効かつ合法であること、④口頭審理放棄書の署名は、本
人がその法的効果を理解した上で、その真意に基づいて行うことが必要である。
そして、退去強制令書発付処分は、その前提となる違反認定ないし口頭審理請求権放棄に
瑕疵がある場合は、その瑕疵を引き継ぎ、同様に違法と評価される。
イ 違反審査手続の違法性
原告Aの違反審査に当たった担当入国審査官は、同原告の日本語能力が十分でなかったに
もかかわらず、能力のある通訳を付さずに、同じ容疑者であり、通訳能力がなく通訳意思も
ない同国人に通訳を行わせて違反審査したものであり、このような調査方法では、容疑者で
ある原告Aの真意を確認することは到底不可能であるから、違反審査は全体として違法とい
うべきである。
ウ 違反認定内容及び手続の違法性
ア 担当入国審査官は、本件は、法二四条二号の不法上陸に該当するにもかかわらず、その
違反事実を確認するための調査をせず、根拠なく法二四条一号の不法入国と認定した。
イ 違反審査を終了するに当たっては、在留特別許可事由の有無を審査しなければならなか
ったにもかかわらず、これを行わず、また、原告Aに対し、証拠の申出の有無を確認して、
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主張立証の機会を与えなければならないにもかかわらず、これをしないで違反審査を終了
し、違反認定を行った。
エ 口頭審理請求権の告知手続の違法性
担当入国審査官は、原告Aに対し、口頭審理請求権(法四七条三項)について説明をしなか
った。
被告は、「担当入国審査官において、身分事項、容疑事実、帰国希望もしくは在留希望の有
無を確認したところ、原告Aは帰国を希望したものであるから、これによって、口頭審理請
求権の告知は十分になされたものというべきである。」という趣旨の主張をしているが、原告
Aに対しては、これらの説明さえも十分にされていない(例えば、同原告に対しては「ビザが
欲しいかどうか。」という確認さえもされていない。)上、仮にこれらの確認がされていたと
しても、これによって容疑者である原告Aには口頭審理請求権があることを理解させること
は到底不可能であり、いずれにせよ口頭審理請求権の告知がされたとはいえない。
オ 法四七条四項違反
ア 原告Aは違反認定に服していないのに、これに服しているとして退去強制令書が発付さ
れた。
原告Aは、原告Bと日本において夫婦生活を送ることを切望していたのであるから、「口
頭審理請求」の意味を理解させて、その請求の有無を尋ねれば、請求したのは間違いない
のであるから、「認定に服した」との認定は誤りである。
イ 口頭審理放棄書への有効かつ真意に基づく署名がないにもかかわらず、これがあるもの
として退去強制令書が発付された。
担当入国審査官は、口頭審理について説明をせず、口頭審理請求権放棄の法律的効果を
説明せずに、「タイに帰る場合はここに署名する。」といった単に放棄書に署名を迫る方法
で口頭審理放棄書に署名させたため、原告Aは意味内容を理解しないまま同書に署名した
もので、真意に基づくものではない。
カ 口頭審理請求権の放棄手続の違法性
法四七条二項は、入国審査官は、違反事実を認定したときは、その旨を主任審査官に知ら
せなければならない旨を定め、同条四項は、主任審査官において、容疑者に、口頭審理の請求
をしない旨を記載した文書に署名をさせなければならないと定めているにもかかわらず、本
件においては、担当入国審査官が、主任審査官に対し、原告Aの違反事実を認定した旨の告
知もしないまま、単独で同原告に口頭審理請求放棄書に署名させたものであり、このような
手続は、上記規定に違反する。
(被告の主張)
ア 原告は、平成一三年六月一八日ころ、有効な旅券を所持せず、成田空港に到着し、本邦に不
法に入国した者であり、法二四条一項所定の退去強制事由に該当する。原告は、平成一四年
一一月五日、担当入国審査官による違反審査において、本国への帰国を求めて、入国審査官
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の認定に服し、特別審理官による口頭審理を放棄しており、法四七条四項により、主任審査
官には退去強制令書を発付するにつき裁量の余地はなく、本件処分は適法である。
イ 原告ら主張に対する反論
原告らは、上記口頭審理の放棄は、違反審査に通訳の立ち会いもなく(前記イ)、原告Aの
日本語能力が十分でないため、意味内容を理解しないまま口頭審理放棄書に署名したもの
で、真意に基づくものではなく(前記オ)、原告Aが原告Bとの生活を求め本邦での在留を希
望していたにもかかわらず、担当入国審査官が法二四条一号に該当する認定をし(前記ウ)、
口頭審理の請求を放棄した手続には重大な瑕疵があり(前記エ、カ)違法である旨主張する
が、以下のとおり失当である。
ア 担当入国審査官は、違反審査の開始に当たって、「今日は簡単なお話をします。タイに帰
るか。日本に居たい、ビザが欲しいとお願いをするかだけを決めてもらいます。」、「恋人や、
だんなさんがいる人はいませんか。」などと質問し、さらに、在留希望であるか、帰国希望
であるかの点は、審査が終了するまでに三回は確認しており、帰国を希望する者に対して
は、違反審査の最後に「これからどうしますか。もっと詳しい審査をお願いしますか。」と
質問することにより認定に服するか否かを確認し、在留を希望しないことを念押しした
上、口頭審理放棄書への署名を求めており、原告Aに対しても、同様の審査を行った結果、
認定通知書を交付し、口頭審理放棄書に署名させたものである。
イ 原告らは違反審査手続に通訳人を付けなかった点を問題とするが、初回の違反審査にお
いては、速やかに帰国させるべき者と慎重に違反調査を行うべき者とを振り分けるという
観点から、①身分事項、②容疑事実、③帰国希望若しくは在留希望を確認するにとどめて
いるところ、このような初回の審査は簡単な質問と説明で足りることから通訳をつけずに
行ったものである。そして、原告Aは、これらの確認に対し、帰国を希望する旨の意思を明
確に表明したため、違反認定に服したものとして、退去強制の対象としたものであるから、
このような手続には何ら違法はない。
なお、原告Aがこれらの確認の内容を理解した上で回答をし得る程度の日本語の会話能
力を有していたことは、違反審査時はすでに一年四か月以上にわたり不法に滞在し、その
間、原告Bと一時的に同居していたほか、横浜及び伊香保において日本人相手の接客の仕
事をしていたこと、原告Aが収容後に原告Bあてに出した手紙の内容が十分に意味が通じ
る日本語で書かれていること(甲三六の一ないし同一〇)からしても明らかであり、担当
入国審査官が平易な言葉に置き換えて説明した内容が理解できなかったとは到底考え難
い。
この点、原告Aは、本人尋問において、担当入国審査官の話す言葉は分からなかったが、
友達にいわれるまま署名し、共に審査を受けた同国人が自分の代わりに担当入国審査官の
質問に回答したなどと供述しているが、原告Aは、他のタイ人の違反審査の通訳をしてお
り、自己の違反審査を日本語で行うことに支障のある程度の日本語能力しか有しない者に
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あえて通訳を依頼するなどということは不合理で考え難い上、上記のとおり違反審査は日
常会話程度の簡単な日本語で行われたのであり、上記原告Bあての手紙を書く程度の日本
語能力があれば、十分に理解できたはずである。
また、原告Aは、その本人尋問において、担当入国審査官に対し、タイへ帰国したいなど
と一度も言っておらず、終始夫がいるので帰国しないと述べた旨供述する。しかしながら、
初回の違反審査においては①身分事項、②容疑事実、③帰国希望もしくは在留希望を確認
するだけにとどめ、退去強制事由の該当性が明らかでかつ本国への帰国を希望する者と、
それ以外の者との振り分けを行い、退去強制事由の該当性の認定に更なる審査が必要な者
や在留希望者については、改めて審査を行うこととされているのであるから、担当入国審
査官が、在留希望者にあえて口頭審理放棄書に署名をさせて後のトラブルを招くような行
為をする必要性も理由も全くなく、上記のとおり原告Aが相当な日本語の会話能力を有し
ていたことに照らすと、いわれるまま内容の全く分からない書面に署名をした旨の原告A
の供述は到底信用しがたく、原告Aが、本国への早期帰国を希望し、その真意に基づいて
口頭審理放棄書に署名したことは明らかである。
ウ 原告らは、婚姻を誓い合うなど深い結びつきであったのであるから、原告Aが口頭審理
を放棄することは考えがたい等と主張する。
しかしながら、原告Aと原告Bが同居していた期間は、横浜での約五か月間しかなく、
伊香保のスナックで働き始めた平成一四年三月から摘発された同年一一月一日までの約八
か月間に至っては、原告らが起居を共にしたのは一か月のうちわずか四日から一週間程度
というものである。しかも、原告Bは、原告Aが勤めていたスナックが売春を行っている
ことを知りながら、原告Aが同店で稼働することを容認し、原告Aは、本国へ仕送りする
ため、原告Bと生活を別にして群馬県北群馬郡a町において、ホステスとして不法就労活
動に従事するほか売春にも従事していたもので、原告らの間には婚姻を前提とした真摯な
交際関係があったとは到底いえない。
さらに、原告Aが摘発された後、原告Bは、原告Aが本国に帰国するための航空券を購
入して購入証明書を差入れ、収容後の初めての面会の際には帰国を免れるための相談をす
ることもなかったもので、これらの行動に照らすと、原告らの関係は、収容当初はいまだ
婚姻を前提としたものではなかったものである。
エ 原告らは、原告Aは、同行していたタイ人男性が原告A名義の真正な旅券を預かってい
たことを理由として本邦に上陸時には有効な旅券を所持していたのであるから、退去強制
事由は法二四条二号(不法上陸者)と判断されるべきであり、担当入国審査官が行った法
二四条一号(不法入国者)の認定は誤りである旨主張する。
しかしながら、原告Aは、タイで出国審査を受けてから旅券を同行者に預けたままそれ
がどこに保管されているかも知らず、本邦に不法入国後四か月を経過するまでの間、自分
の旅券を一度も見ることはなかった旨供述しているところ、旅券上にはタイの出国証印は
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あるものの、経由地であるマレイシアの入国及び出国の証印がないことに照らすと、同行
者が本邦入国時に原告A名義の旅券を所持していた事実及び原告Aが有効な旅券を所持し
ていた事実を認めることもできないのであるから、担当入国審査官が法二四条一号に該当
すると認定したことは正当である。
三 争点
以上を整理すると、本件の争点は、原告Bの原告適格のほか、①本件違反審査において、担当入
国審査官が通訳人をつけずに同国人の容疑者の通訳により行った手続が違法といえるかどうか、
②本件違反認定内容及び手続の違法性の存否、③本件違反審査において口頭審理請求権の告知手
続がなされたといえるかどうか、④口頭審理請求権の放棄書への署名が主任入国審査官の面前で
なされていない手続等が違法といえるかどうか、⑤口頭審理請求権の放棄が原告Aの真意に基づ
いてなされた有効なものといえるかどうかである。
第三 当裁判所の判断
一 本案前の主張に対する判断
行政処分に対する取消訴訟の原告適格については、行政事件訴訟法九条が規定しているとこ
ろ、同条にいう「法律上の利益を有する者」とは、当該処分により自己の権利若しくは法律上保護
された利益を侵害され又は必然的に侵害されるおそれのある者をいう。そして、当該処分を定め
た行政法規が、不特定多数者の具体的利益を専ら一般的公益の中に吸収解消させるにとどめず、
それが帰属する個々人の個別的利益としてもこれを保護すべきものとする趣旨を含むと解される
場合には、かかる利益も上記の法律上保護された利益に当たり、当該処分によりこれを侵害され
又は必然的に侵害されるおそれのある者は、当該処分の取消訴訟における原告適格を有すると解
するのが相当である(最高裁判所平成元年二月一七日第二小法廷判決・民集四三巻二号五六頁、
最高裁判所平成四年九月二二日第三小法廷判決・民集四六巻六号五七一頁参照)。 
以上を前提に、退去強制令書発付処分の取消訴訟につき、同処分の対象者の配偶者が原告適格
を有するか検討すると、法の退去強制手続に関する規定は、専らその対象となった外国人の地位
や利益を問題にしているのにとどまり、当該外国人の配偶者である日本人の婚姻関係の権利、利
益を保護すべきものとする趣旨を含むものと解することは到底困難である。そして、原告らが指
摘するその他の規定等をみても、法二条の二第二項所定の在留資格の一つとして「日本人の配偶
者等」が定められているものの、これは同法が当該外国人が日本で行いうる活動や期間を定めて
おく制度を採用していることとの関係で必要な分類概念にすぎず、当該外国人の配偶者である日
本人を保護するための規定ではないし、原告らの主張する出入国管理基本計画等は、そもそも法
律の規定と同一視することができるかどうかが疑問であるのみならず、同計画等において、容疑
者が婚姻しているかどうかは、当該容疑者に在留特別許可を与えるかどうかに関する裁量判断の
一考慮要素にすぎないのであって、外国人の配偶者である日本人が本邦において外国人と同居し
婚姻生活を営むという権利、利益を具体的に保護すべきものとする趣旨を含むと解することはで
きない。
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そして、他に、原告Bの原告適格を基礎付けるに足りる根拠を見出すこともできないから、結
局、同原告の訴えは、原告適格を欠き、不適法であるから却下を免れない。
二 本件処分の適法性について
 法の規定とその趣旨
ア 入国審査官の審査
法四五条一項は、入国審査官は、容疑者の引渡を受けたときは、容疑者が法二四条各号の
一に該当するかどうかを速やかに審査しなければならない旨規定している。
イ 違反認定
法四七条二項は、入国審査官は、審査の結果、容疑者が法二四条各号の一に該当すると認
定したときは、すみやかに理由を付した書面で主任審査官及び容疑者にその旨を知らせなけ
ればならない旨規定している。そして、ここでいう容疑者に対する通知は、単に認定結果を
知らせるにとどまらず、特別審理官による口頭審理(聴聞)に先立つ告知の意味を有するも
のと解されている。
ウ 口頭審理請求権の告知
法四七条三項は、二項の通知をする場合には、入国審査官は、当該容疑者に対し、法四八条
による口頭審理の請求をすることができる旨を知らせなければならない旨規定している。こ
の規定を受けて認定通知書(規則別記第五三号様式)の中に「認定に不服があるときは、この
通知を受けた日から三日以内に特別審理官に対し口頭審理の請求をすることができる」旨が
記載されており、口頭審理請求の告知が確実に行われるように配慮されている。
エ 口頭審理請求権の放棄
法四七条四項は、容疑者が入国審査官の認定に服したときは、主任審査官は、その者に対
し、口頭審理の請求をしない旨を記載した文書に署名させ、すみやかに法五一条による退去
強制令書を発付しなければならない旨規定している。ここにいう「認定に服したとき」とは、
容疑者が退去強制事由に該当するものであることを自ら認めるとともに、口頭審理を請求し
ないとの意思を明らかにしたという意味であると解される。また、「口頭審理の請求をしない
旨を記載した文書に署名させ」るのは、その意思表示によって口頭審理請求権が消滅し、そ
の結果退去強制の処分が確定することになるから、事の重要性にかんがみ、これを書面によ
り確認しておくためであると解される。
オ 口頭審理
法四八条一項は、法四七条二項の違反認定の通知を受けた容疑者は、その認定に異議があ
るときは、その通知を受けた日から三日以内に、特別審理官に対し、口頭審理を請求するこ
とができる旨規定している。
カ 本件処分は、違反審査において容疑者に口頭審理請求権の告知(法四七条三項)がなされ、
適正な手続のもとで真に口頭審理請求権の放棄をした(法四七条四項)ことを前提になされ
たものであるから、その前提となるような手続に違法事由がある場合には、本件処分も違法
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となると解すべきである。
 事実関係について
証拠(甲一、四、五、六、一一、七一、七二、乙一〇、一六、一七、担当入国審査官の証言、原告
ら本人尋問の結果)によれば前記争いのない事実に加えて以下の事実が認められる。
ア 原告Aは平成一三年六月に来日後、横浜において売春に従事していたところ、客として来
店した原告Bと知り合い、同年九月ころから原告Bのアパートで同居するようになった。原
告Aは平成一四年三月ころから伊香保のスナックで稼働するようになり、同年一一月一日に
摘発を受け、法二四条一号違反容疑で東京入管に収容された。
イ 原告Bは、同月五日に収容されていた原告Aと面会し、原告Aが帰国するための航空券の
購入証明書の差し入れをしているが、この点につき、証人E及び原告B本人は、当該航空券
は、原告Aの雇い主であったEが、原告らの婚姻が成立していない以上、原告Aの送還は免
れないと考えて、一緒に摘発された他の同国人らの分と併せて手配したものであり(証人
E)、その後、原告Bが、退去強制手続の詳細はわからないまま、形だけでも航空券の手配が
必要なのであろうと考えて、入管の職員に航空券を渡し、購入証明書を原告Aに差し入れた
(原告B)と供述している。
ウ 原告Bの面会終了後、原告Aに対する違反審査(以下「本件違反審査手続」という。)が行
われた。なお、その際同時期にタイ人一二名の審査が行われ、四名のグループが一つ、三名の
グループが二つ、二名のグループが一つに振り分けられ、原告Aは三名のグループの一つに
入って違反審査を受けた。
本件違反審査手続においては、通訳人は付されずに、担当入国審査官が日本語で簡単な日
常会話ができる容疑者に対し、日本語が分からない容疑者の通訳を依頼する方法で審査を行
ったが、原告Aに対して行われた違反審査の詳細は明らかではない(担当入国審査官は、そ
の証人尋問において、詳細は記憶していないと述べており、原告Aは、違反審査の内容は分
からなかったと述べている。)。
原告Aは、入国審査官の面前において口頭審理放棄書に署名押印した。
エ 同日夜間、原告Bは東京入管に電話し、「帰国しないで在留希望にするように」と原告に伝
えてもらいたい旨の依頼及び帰国便をキャンセルしたい旨の申出をした。
翌六日午前一〇時ころから原告Bは原告Aと面会した。面会終了後原告Aからの申出によ
り、領置されていた航空券の購入証明書が原告Bに返却された。
同日午後五時ころ原告Aに対し、退去強制令書の執行が行われたが、原告Aは、日本人婚
約者と婚姻して日本で生活したい旨述べて、同令書の執行を受けた事実確認のための署名を
拒否した。
 判断
以上を前提として検討するに、当裁判所は、本件違反審査手続は、少なくとも、正規の通訳人
を介した手続が行われていない点(争点①)、及び口頭審理請求権の告知がされていない点(争
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点③)において不十分かつ違法なものであり、その結果、原告Aの真意を十分に確認しないま
ま口頭審理請求権放棄書に署名をさせた上(争点⑤)、その放棄があったものとして本件処分が
されたものであるから、本件処分は、その前提を欠く上、本件処分に至る手続にも違法がある
ものとして取り消されるべきであると判断する。その理由は、次のとおりである。
ア 本件違反審査手続が、正規の通訳人を介さず、必要な場合には、同席したタイ国人のうち、
日本語の会話が可能な者を介して行われたことは前認定のとおりであるところ、同手続を行
った担当入国審査官は、違反審査手続は、一般的に次のように行っており、本件違反審査手
続も、同様の方法で行ったものであると証言している。
一回目の違反審査では人定、容疑事実の確認、在留希望の有無だけを聞くようにしている
(同人の証人尋問調書(以下同じ)三〇項)。
在留希望かどうかについては、「あなたは日本にいたいですかと、それとも国に帰りたいで
すか。」と聞くようにしている(二二項)(なお、担当入国審査官の陳述書(乙一七)には、在
留希望の有無の確認においては、「今日は簡単なお話をします。タイに帰るか、日本に居たい、
ビザを欲しいとお願いをするかだけを決めてもらいます。恋人やだんなさんがいる人はいま
せんか。」などと質問する旨の記載がある。)。
在留希望であるか、帰国希望であるかの質問は、審査が終了するまでに少なくとも三回は
確認している(一九項ないし二七項)。
口頭審理請求権の説明については、「ビザがもらえるかどうか分からないですけれどビザ
のお話。」(二二八項)、「ビザが欲しい人はビザのお願いをして下さい。」(二三二項)、「お願い
は日本の偉い人にお願いします。」(二三五頁)等という言い回しで説明するようにしている。
口頭審理請求権の放棄については「ビザがいらない、本国に帰るという意思のときに帰り
たいならここに名前を書いてください。」という説明をする(二二九項)。特別審理官に対し
て請求することは説明しない(二四二頁)。口頭審理放棄書に署名させるときは、「これは日
本のビザいりません、帰りますという紙です、これにサインしますか。」といった言い方をす
る(一四九項)(なお、担当入国審査官の陳述書(乙一七)には、帰国を希望するものに対して
は、違反審査の最後に「これからどうしますか。もっと詳しい審査をお願いしますか」と質問
することにより、認定に服するか否かを確認し、在留を希望しないことを念押しした上、口
頭審理放棄書への署名を求めている旨の記載がある。)。
これに対し、原告A本人は、言葉が通じなかったため、どのような手続が行われているの
かはよくわからなかったが、これはもう捕まったと思って、書類にサインをした(同人の本
人尋問調書(以下同じ)七二項)、一緒に摘発された同国人から、そのように書かなければい
けないと言われ、「ガッパーンムアンタイ」(タイに帰るの意味)と書いた(七七項)、お願い
します、だんなさんいます、待っていますという趣旨のことを述べたが(二三〇項)、同席し
ていた同国人から早くサインをしろとせかされたので、サインをした(八三項)という趣旨
の供述をしている。
- 11 -
そして、担当入国審査官が、本件違反審査手続において、通常とは異なる手続を行うべき
理由はないことからすれば、本件違反審査手続も、概ね一般的なそれに従った方法によって
行われたものと認めるのが相当である。他方、担当入国審査官が、本件違反審査手続当日に
は、合計一二人のタイ国人を、四人、三人、三人、二人のグループに分けて審査したところ、
原告Aが属していたと考えられる三人のグループ二つのうち、一つのグループを審査した際
には、グループのうちの一人が、他の一人を指して、「この人には彼氏がいる。」と言ったが、
彼氏がいると言われた者も、タイに帰ると言って書類に署名をし(九四ないし九八項)、また、
もう一つのグループを審査した際にも、その中の一人が「私は日本人と結婚できるのかとか、
ビザがもらえるのかどうか、ビザがもらえるためにここにどれだけいなきゃいけないのかど
うかとか、そういったことを聞いてきたが」、結局、口頭審理請求放棄書に署名した(一二九
ないし一三四項)という趣旨の証言をしていることからすると、原告Aが、本件違反審査手
続の中で、少なくともいったんは、原告Bの存在に言及し、在留を希望するような発言をし
たことも事実であるというべきである。
イ ところで、前述のとおり、法四七条によれば、入国審査官は、違反事実を認定したときは、
すみやかに理由を付した書面をもって、容疑者である外国人にその旨を知らせ(二項)、その
際には、口頭審理の請求をすることができる旨も知らせなければならず(三項)、さらに、容
疑者が違反認定に服したときは、主任審査官において口頭審理の請求をしない旨を記載した
文書に署名させなければならない(四項)ものであるところ、担当入国審査官が行った審査
手続は、ア記載のとおりであって、その内容は、在留を希望するか帰国を希望するかを確認
したのにとどまり、法が要求している手続を履践したものと評価することは困難であるとい
わざるを得ない。特に、口頭審理請求権の説明に関しては、ビザが欲しいかどうかという形
で説明をしていたのにすぎないというのであるから、これによって口頭審理請求権の内容を
説明し、その権利を放棄するかどうかを確認したと評価することは到底困難である。そうす
ると、担当入国審査官が行った審査手続は、法の要求に沿うものではなく、また、口頭審理請
求権を放棄するかどうかに関し、原告の真意を確認する手続としても不十分なものであった
といわざるを得ない。
また、法が定める手続を忠実に履践しようとした場合には、違反事実を告知して、それを
認めるのかどうかを確認し、さらに、口頭審理の意味を理解させた上で、口頭審理を求める
かどうかを確認しなければならないのであるから、原告Aのように日本語の日常会話さえも
十分に行えるかどうか定かではない者が、通訳を介さずに、その内容を理解することは到底
困難であるといわざるを得ず(被告は、原告Aは、他の同国人のために通訳をしていた位で
あるから、十分な日本語の理解力を有していたという趣旨の主張をしているが、担当入国審
査官において、原告Aの日本語能力を十分に評価した上で通訳をさせたと認めるに足りる証
拠はなく、かえって、同審査官は、第一回の違反審査手続は、在留を希望するか帰国を希望す
るかという極めて簡単な事柄しか確認しないので、簡単な日本語がわかれば足りるという理
- 12 -
解の下に、手続を進めていたというのであるから、仮に原告Aが他の同国人の通訳をしたこ
とが事実であったとしても、それは、同原告の日本語能力が高度なものであったことを裏付
けるに足りるものではない。また、本件違反審査手続において用いられた書面等には、せい
ぜい英語訳が付されていたのにすぎないところ、原告Aは英語を理解することはできなかっ
たのであるから(同原告本人尋問調書、二四四項)、書面を読むことにより、手続の内容を理
解することができたということもできないところである。)、本件違反審査手続は、正規の通
訳を介さずに行われたという点においても、同様の不備があったものというべきである。
ウ ところで、被告は、第一回の違反審査手続は、基本的には在留を希望する者と帰国を希望
する者を振り分ける手続として位置づけられており、在留を希望する者に対しては、更に、
通訳を介した慎重な手続が行われることになっているのであるから、本件違反審査手続が違
法であるとはいえないという趣旨の主張をするところ、入国審査官は、大量の違反審査手続
を行わなければならないことや、違反審査の対象となった外国人の中には、積極的に帰国を
希望する者も少なくないであろうと推認されるところ、このように積極的に帰国を希望する
外国人にとっては、違反事実の確認や口頭審理手続は、さして意味のある事柄ではないもの
と考えられることなどからすると、在留希望者と帰国希望者を振り分けるための第一回違反
審査手続が担当入国審査官の証言するような形で行われることそれ自体は、法の規定に忠実
に従った方法ではないとしても、やむを得ない側面があるというべきである。
しかしながら、このことは、容疑者である外国人が積極的に帰国を希望し、現にその希望
に基づいて帰国をした場合には、法の趣旨に沿わない違反審査手続が行われたという問題点
が顕在化しないままで手続が終了したということを意味するのにとどまるのであって、上記
のような違反審査手続が、法の趣旨に従った適法なものとみなされるということを意味する
ものではない。したがって、入国審査官としては、第一回の違反審査手続において,容疑者で
ある外国人が真に帰国を希望しているのかどうかを慎重に審査すべきものであることは当然
であるし、いったんは、当該外国人が帰国を希望しているものとして審査手続が終了した場
合であっても、その後、当該容疑者が意思を翻し、帰国を拒絶する態度に出た場合には、上記
の問題点が顕在化したものといわざるを得ないのであるから、第一回違反審査手続において
在留を希望した者と同様に、改めて法の趣旨に即した違反審査手続を行わない限り(既に退
去強制令書が発付されている場合には、これを取消した上で、手続をやり直さない限り)、法
の趣旨に沿わない違反審査手続が行われたという評価を免れないものというべきである。
上記の観点から考えると、原告Aは、本件審査手続の中においても、少なくともいったん
は、在留を希望するような意向を示していたことは前認定のとおりなのであるから、担当入
国審査官としては、慎重に同原告の真意を確認すべきであったのに、その配慮を欠いたので
はないかという疑問を指摘せざるを得ない上に、本件審査手続が行われた日の翌日に、同原
告は、明らかに帰国を拒絶する意思を表明していたのであるから、少なくとも、この時点に
おいては、法の趣旨に沿わない違反審査手続が行われたという問題点が顕在化したものとい
- 13 -
わざるを得ない。それにもかかわらず、改めて通訳を介した慎重な違反審査手続が行われて
いない以上、本件審査手続は、少なくとも、原告Aの日本語の理解力が十分ではなかったに
もかかわらず、通訳を介さずに行われているという点、及び口頭審理請求権の告知が行われ
ていないという点において違法であり、その結果、口頭審理請求権を放棄するかどうかに関
する原告の真意を十分に確認しないまま同原告が口頭審理請求権を放棄したものとして退去
強制令書を発付する本件処分が行われたものであって、本件処分もまた違法といわざるを得
ないのである。 
エ 被告は、原告Aは、本件審査手続において、積極的に帰国する旨の意思を表明したのであ
るから、同手続は違法とはいえないという趣旨の主張をしているが、その主張事実をそのと
おり認めることができるかどうかに疑問が存することは既に指摘したとおりであるのみなら
ず、違反認定に服し、口頭審理請求権を放棄するかどうかと帰国を希望するかどうかは本来
別個の事柄なのであるから、仮に同原告が帰国の意思を表明していたとしても、これによっ
て違反認定に服し、口頭審理請求権を放棄したと評価することはできないのであって(むし
ろ、同原告は、本件審査手続当時、既に原告Bとの付き合いを始めていたことや、本件審査手
続が行われた日の翌日には、同原告は、日本人婚約者と婚姻して日本で生活したい旨述べて、
退去強制令書の執行を受けた事実確認のための署名を拒絶していることなどの事情に照らし
てみれば、本件審査手続において、通訳を介した上で、違反審査手続及び口頭審理手続の趣
旨や、同原告の権利について丁寧な説明が行われていれば、同原告としては、在留の可能性
を求めて口頭審理手続を希望した可能性が高かったものというべきである。)、被告の上記主
張を採用することはできない。
オ 以上によれば、他の争点について判断をするまでもなく、本件処分は違法として取り消し
を免れないものというべきである。
第四 結論
よって、原告Bの訴えは不適法であり却下を免れないが、原告Aの請求には理由があるから、
これを認容することとし、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法七条、民事訴訟法六一条の
規定を適用して、原告Bに生じた費用については原告Bの負担とし、その余を被告の負担とし、
主文のとおり判決する。

退去強制令書発付処分取消等請求控訴事件
平成15年(行コ)第13号
控訴人:Aほか6名、被控訴人:法務大臣・福岡入国管理局主任審査官
福岡高等裁判所第2民事部(裁判官:石塚章夫・永留克記・高宮健二)
平成17年3月7日
判決
主 文
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人法務大臣が平成13年12月14日付けで各控訴人に対してした平成13年法律第136号に
よる改正前の出入国管理及び難民認定法49条1項に基づく控訴人らの異議の申出は理由がない
旨の裁決をいずれも取り消す。
3 被控訴人福岡入国管理局主任審査官が平成13年12月17日付けで各控訴人に対してした退去強
制令書発付処分をいずれも取り消す。
4 被控訴人法務大臣と控訴人らのそれぞれの間に生じた訴訟費用は、第1、2審ともに同被控訴
人の、被控訴人福岡入国管理局主任審査官と控訴人らのそれぞれの間に生じた訴訟費用は第1、
2審ともに同被控訴人のそれぞれ負担とする。
事実及び理由
以下、Aを「控訴人A」と、Bを「控訴人B」と、Cを「控訴人C」と、Dを「控訴人D」と、Eを「控
訴人E」と、Fを「控訴人F」と、Gを「控訴人G」と、控訴人A、控訴人B、控訴人D及び控訴人Eを
まとめて「控訴人子ら」とそれぞれいう。
第1 当事者の求める裁判
1 控訴の趣旨
 原判決を取り消す。
 被控訴人法務大臣が平成13年12月14日付けで各控訴人に対してした平成13年法律第136号
による改正前の出入国管理及び難民認定法(改正後の法律の施行日は平成14年3月1日。以下
「難民認定法」という。)49条1項に基づく控訴人らの異議の申出は理由がない旨の裁決(以下
「本件裁決」という。)をいずれも取り消す。
 被控訴人福岡入国管理局主任審査官が平成13年12月17日付けで各控訴人に対してした退去
強制令書発付処分(以下「本件発付処分」という。「本件裁決」及び「本件発付処分」をまとめて「本
件各処分」ということもある。)をいずれも取り消す。
第2 本件事案の概要
本件は、被控訴人法務大臣が、平成13年12月14日、控訴人らの異議の申出に対して理由がない
旨の本件裁決を行い、同裁決を受けて、被控訴人主任審査官が、同月17日、本件発付処分を行っ
- 2 -
たところ、控訴人らが、在留特別許可を付与しなかった上記裁決は、被控訴人法務大臣が裁量権
を逸脱又は濫用した違法な処分であり、被控訴人主任審査官による本件発付処分も、裁量権を逸
脱又は濫用した違法な処分であるなどとして、本件裁決及び本件発付処分の取消しを求める事案
である。
第3 本件の争点
本件の争点は、①本件裁決及び本件発付処分が、市民的及び政治的権利に関する国際規約(以
下「B規約」という。)ないし児童の権利に関する条約(以下、「児童の権利条約」という。)に違反
するか否か、②被控訴人法務大臣の本件裁決に裁量権を逸脱又は濫用した違法があるか否か、③
被控訴人主任審査官の本件発付処分に裁量権を逸脱又は濫用した違法があるか否か、④平成13年
11月5日になされた控訴人らに対する上陸許可取消処分(以下「本件上陸許可取消処分」という。)
は重大かつ明白な瑕疵が存する当然無効のものか否か、仮に本件上陸許可取消処分が当然に無効
といえないとしてもその違法性は本件裁決及び本件発付処分に承継されて本件裁決及び本件発付
処分の取消事由となるか否かであり、④の争点は、当審において追加されたものである。
第4 原審における当事者の主張
原審における当事者の主張は、原判決の「事実及び理由」欄の「第2 事案の概要」の「2 争点」
に記載のとおりであるから、これを引用する。
第5 当審において当事者が付加した主張
1 控訴人らの主張
 B規約及び児童の権利条約違反性(争点①について)
原判決は、B規約や児童の権利条約も国家に外国人の出入国に関する自由な決定権を認めて
いると判断したが、憲法98条2項は「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これ
を誠実に遵守することを必要とする」と明記しているから、B規約や児童の権利条約は本件に
おいても遵守されなければならず、最大判昭和53年10月14日(マクレーン判決)にいう「特別
の条約」に当たる。そして、控訴人らはB規約17条及び23条1項によって保護されるべき「家
族」に該当し、本件裁決及び本件発付処分は控訴人ら家族に対する「恣意的な干渉」に当たるか
ら同規約17条1項に違反し、また、「児童の最善の利益」に反するから児童の権利条約3条に違
反する。 
 本件裁決及び本件発付処分の裁量権の逸脱・濫用による違法性(争点②、③について)
ア 原判決の、控訴人らの入国経緯に関する評価の誤りについて
原判決は、H、控訴人C及び控訴人Fの入国時の虚偽の身分関係作出行為には重大な違法
性があるとしているが、控訴人Cの2回にわたる入国申請の経緯、Hや控訴人Cの福岡入国
管理局担当者の説明に対する理解内容、姓名を変更することが中華人民共和国(以下「中国」
という。)では合法とされている事情、Hの作成した誓約書の内容等に照らすと、控訴人Cや
Hには、控訴人C来日当時、虚偽の申請をしているとの認識はほとんどなかったと認めるべ
きである。また、控訴人Fについても、Hの作成した申請書類ではHは控訴人Fの「実父」で
- 3 -
はなく「父」とされているだけであるところ、Hは、血はつながっていなくても妻Iの子であ
る控訴人Fの父であると考えていたし、控訴人FもHの二女と考えていたから、そこに虚偽
は存しない。後記のとおり問題となるJやKの手続でもHは彼らの手続に協力しなければ控
訴人Fの家族を呼び寄せることができず、協力せざるを得なかったものであり、また控訴人
FがJやKのことを知らされたのは平成10(1998)年10月の来日直前であった。
イ 本件処分の平等原則違反性
本件裁決及び本件発付処分は、同種事案の処理と比較して正反対の結論となっており、裁
量権が恣意的に行使されたものであり、平等原則(憲法14条、B規約26条(法の前の平等))
に違反し、裁量権の逸脱・濫用がある。
 本件上陸許可取消処分の違憲・違法性(争点④について)
ア 上陸許可取消処分の概要
上陸許可取消処分は、「偽り・不正が明白な事案」において、当該上陸許可処分を取消して
遡及的に無効にする処分であり、被処分者には告知・聴聞の機会も与えられずに直ちに退去
強制手続に付せられる。本件においても、控訴人らは、平成13年11月5日、上陸許可取消通
知が発付され、同日、退去強制手続の前提となる収容令書を発付され即日摘発された。この
上陸許可取消処分から収容までは、控訴人らは告知・聴聞の機会を与えられていない。
イ 憲法41条違反
上陸許可取消処分は、重大な人権侵害を伴うものであるにもかかわらず何ら法律上の根拠
がなく、法律による行政の原則(憲法41条)に違反する違憲な行政処分である。
ウ 憲法31条違反
憲法31条は、手続の法定のみならず、法定された手続の適正を要請しているが、本件上陸
許可取消処分の現実の運用において被処分者には何ら告知・聴聞の機会が与えられていない
から、本件上陸許可取消処分は憲法31条に違反する違憲な行政処分である。
エ 憲法13条違反
行政権行使の内容(手段)と意図される目的との間には合理的な比例関係がなければなら
ないが(比例原則)、上陸許可取消処分の目的は「偽り、不正が明白な事案」について直ちに
退去強制を行うことができるようにすることであり、その手段は上陸許可を遡及的に無効と
し即時に摘発・収容することである。これに対し、入国経緯に何らの違法が存せず、「偽り、
不正が明白な事案」といえない本件のような事案において被処分者を即時に摘発・収容した
本件上陸許可取消処分は、憲法13条(比例原則)に違反し違憲な行政処分である。
2 被控訴人らの主張
 B規約及び児童の権利条約違反性についての反論(争点①について)
国家は、外国人の入国を認めなければならない一般的な国際法上の義務を負っているもので
はなく、外国人の入国を認めるかどうかは自由であることは、国際慣習法上の当然の前提であ
る。B規約も、これら国際慣習法あるいは一般国際法上の原則を当然の前提としていて、これ
- 4 -
を変更したものと解することはできない。また、B規約13条1項は、不法に在留する者に対し
て退去強制措置をとり得ることを前提にしており、同規約は、外国人の入国及び在留の許否に
ついて国家に自由な決定権があることを前提としているものと解される。控訴人らは、事実と
異なる文書を使用して不法に入国しているのであるから、合法的に我が国の領域内にいる者で
はないのみならず、控訴人らに対する上陸許可の取消しから退去強制令書発付に至る一連の処
分は、いずれも法律に基づいて行われた決定であるから、本件裁決及び本件発付処分は同規約
の容認するところであって、控訴人らについて、同規約17条、23条の適用の前提がないことは
明らかである。また、児童の権利条約9条4項は、父母の一方若しくは双方、又は児童自身が退
去強制の対象となる場合があることを前提とした規定であり、同条約で規定する権利は本邦を
含む各締結国の在留制度の枠内で保障されるにすぎないものであることは明らかである。した
がって、本件裁決及び本件発付処分は児童の権利条約には違反しない。
 控訴人らの入国経緯の主張についての反論(争点②、③について)
ア 控訴人らの入国経緯の評価について
福岡入国管理局では、控訴人CがHとIの婚姻前に出生していることを前提として、公証
書等の関係書類で「身分関係の立証がなされていること」から、被控訴人法務大臣において
在留資格認定証明書を交付したものである。中国国籍を有する外国人において、いわゆる事
実婚関係にある夫婦間に出生する場合もあるから、婚姻手続前に出生した子であるからとい
って直ちに夫婦のいずれか一方の「連れ子」であることが「一目瞭然」であるとはいえない。
控訴人らがHの実子であるとの虚偽の事実を作出したことは、証拠上明らかである。また、
Kの平成15年4月18日付の入国警備官に対する供述調書によれば、控訴人Fらは、入国手続
前から、K及びJを実子と偽って不法入国させることを知っていたと認められる。
イ 本件処分の平等原則違反性について
在留特別許可を付与するかどうかは、諸般の事情を総合的に考慮したうえで個別的に決定
されるべきものであるから、本件裁決及び本件発付処分の事案と他の事案を単純に比較して
法適用の平等違反を主張することはまったく意味がなく主張自体失当である。
 本件上陸許可取消処分の違憲・違法性についての反論(争点④について)
ア 憲法41条違反について
行政処分に違法な瑕疵がある場合には、法律による行政の法理違反の状態が存在し、また
公益違反の状態が生じており、適法性の回復又は合目的性の回復という行政行為の取消しの
根拠があることになるから、行政行為の取消しには法律の特別の根拠は必要ではない。控訴
人らの「法律の根拠がない」との主張は独自の見解であり、理由がない。
イ 憲法31条違反について
上陸許可取消処分が行政手続法にいう「不利益処分」に当たるとしても、同法は外国人の
出入国、難民の認定又は帰化に関する処分については適用除外となっているから、同法の定
める聴聞等の手続の規定も適用されない。外国人の上陸の適否については、行政手続法3条
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1項10号の立法趣旨と同様の理由により告知・聴聞手続をとらなくても憲法31条に違反し
ないと解すべきである。
ウ 憲法13条違反について
控訴人らに対する上陸許可は、虚偽の身分関係に基づくもので、難民認定法7条1項2号
に規定する上陸のための条件に適合しないことから、原始的瑕疵があることは明らかであ
る。本件上陸許可処分のような虚偽の申請に基づく瑕疵ある処分をそのまま存続させること
は、適正な出入国管理行政を行ううえでの重大な障害となるから、上記処分を取り消す公益
上の必要性があり、取消しをしたとしても比例原則に反するものではなく憲法13条違反とは
ならない。
エ 本件上陸許可取消処分の瑕疵と本件裁決及び本件発付処分
先行行為たる行政処分が有効である限り、これに瑕疵があったとしても権限のある機関に
よって取り消されない限り有効とされ、先行行為の違法(瑕疵)が後行行為に承継されるこ
とはなく、後行行為の取消訴訟においては後行行為固有の違法事由しか主張し得ないのが原
則である。この原則の例外として、先行行為と後行行為とが同一の目的を追求する手段と結
果の関係をなし、これらが相結合して一つの効果を完成する一連の行為となっている場合に
は違法性の承継が認められるとされる。しかし、上陸許可取消処分と退去強制手続の関係は、
直接的、必然的なものではなく、その目的、効果も異なるから、違法性の承継は認められない。
オ 在留資格取消制度
平成16年法律第73号による改正後の出入国管理及び難民認定法(以下「平成16年改正後の
難民認定法」という。平成16年12月2日施行、上記改正前の同法を「平成16年改正前の難民
認定法」という。)により在留資格取消制度が新設された。公正かつ的確な出入国管理行政を
実現するため、新たに入国審査官に実態調査権限を付与し、外国人の入国・在留目的等を聴
取させ、対象者の利益保護により配慮しつつ的確な事実認定を行い、取消権の行使に十全を
期するとともに、取消しの効果を遡及させず、任意の出国の機会を付与するなど、取消しの
要件と効果を明定し、在留資格の取消制度を創設することとした。平成16年改正後の難民認
定法の在留資格取消制度では意見聴取手続が規定されたが、このことから平成16年改正前の
難民認定法の上陸許可取消制度が違憲又は無効であるということはできない。本件上陸許可
取消処分によって達成される公益は、我が国の出入国管理における秩序という国家的法益で
あり、不正な事実が判明した場合にはこれを取り消す処分を行う必要性、緊急性も高い。そ
うすると、本件上陸許可取消処分を行うに際し、相手方に事前に告知、弁解聴聞、防御の機会
を常に与える必要はないと解するのが相当である。
カ 控訴人らに対する本件上陸許可取消処分がされるに至った経緯及び同処分が違法なもので
はないこと
本件上陸許可取消処分に当たっては、第三者甲から事情聴取が行われているほか、平成13
年8月15日、福岡入国管理局熊本出張所入国審査官においてHから任意の事情聴取を行って
- 6 -
おり、その聴取結果を乙103号証として提出している。このように控訴人らが血縁関係にあ
るとしていたHという重要人物本人から事情聴取を行い、控訴人らに対する上陸許可が平成
16年改正前の難民認定法7条1項2号に規定された上陸の条件に適合せず、かつ偽り、不正
が明白な事案であることが判明したのであるから、控訴人らに告知・聴聞の機会を与える必
要はない。
第6 当裁判所の判断
1 判断の前提となる事実
争いのない事実並びに証拠及び弁論の全趣旨により容易に認められる事実は、原判決の31頁
14行目に「控訴人FがHとIの実子である旨」とあるのを「控訴人Fは関係人HとIの次女であ
ることを証明する旨」と訂正し、同頁20行目に「各人が控訴人Gと控訴人Fの実子である旨」と
あるのを「各人の父親は控訴人Gで母親は控訴人Fであることを証明する旨」と訂正するほかは、
同判決の「第2 事案の概要」の1及び「第3 当裁判所の判断」の1ないし記載のとおりで
あるから、これを引用する。その要旨は以下のとおりである。
 控訴人ら、H及びIの生年月日及び身分関係は、別紙1(身分関係図)のとおりである。
控訴人C及び控訴人Fは、中国国籍であるI(当時、現在は日本国に帰化している。)と、同
じく中国籍であるLとの間の子である。Hは、控訴人C及び控訴人Fが出生した後にIと結婚
したため、Hにとって控訴人C及び控訴人Fは、いわゆるIの連れ子に当たる(以下、本件にお
いて「連れ子」とは、再婚前の前夫又は前妻との間の子をいう。)。
Iは、平成5(1993)年2月ころ、本邦に帰化した。
 控訴人ら来日までの経緯
ア 控訴人C及び控訴人FとHとの関係
Hは、昭和15(1940)年7月1日、中国牡丹江省(現在の黒龍江省)において、日本人であ
るMとNの子として出生した。その後、太平洋戦争が終結したものの、本邦に帰国すること
ができなかった。Hは、終戦後、両親とともに中国牡丹江省寧安県東京城鎮にある日本人収
容所に収容されたが、Mは、そのころ、病気により死亡した。
Nは、生活のために仕事に出なければならず、Hを育てることができなかったため、Hを
中国人Oの養子とした。
控訴人C及び控訴人Fは、中国人であるLとIを父母とするが、Iは、昭和40(1965)年
ころ、当時3歳であった控訴人Cと、当時1歳だった控訴人Fの2人を伴って、Hと結婚し
た。Hは、Iの2人の連れ子を育てるつもりであったが、控訴人Fが病弱であったため同女
をPの養子とした。他方、控訴人Cは、昭和57(1982)年に中国人Qと結婚するまでの間、H
夫婦と同居していた。H夫婦の間には、実子として4人の子供が出生したため、控訴人Cを
加えて7人家族となったが、控訴人Cは、子供たちの中で最年長であったことから、家事な
どIの手伝いをし、特にHが病気で倒れた際には、率先して家族の生活を支えてきた。
イ H、I及びHの実子4人の本邦入国
- 7 -
Hは、昭和47(1972)年に日本と中国の国交が回復した後、中国残留日本人の帰国交渉を
受けて、昭和53(1978)年、半年の間、日本に一時帰国した。その後、Hは、Iに対して日本
での永住の希望を伝えたところ、Iは、当初は反対したものの先に永住した友人の勧めもあ
って日本への永住を決意した。
Hは、日本への永住手続をとったものの、このとき、当時同居していたHの養父であるO
が高齢であることから、Hが日本に永住した場合に、同人の面倒を誰が見るかが問題となっ
た。そこで、話合いがされた結果、Hの子供のうちの年長であった控訴人Cが、Oの面倒を見
るため中国に残ることとなった。
そしてHは、昭和58(1983)年、本邦に永住帰国し、I及びHの実子4人は、本邦へ入国し
た。
ウ 控訴人Cの家族の本邦入国
平成2(1990)年ころ、Hの養父であるOが死亡した。そこで、控訴人Cは、日本に行こう
と決意し、平成3(1991)年ころ、控訴人C’ 名で、「日本人の配偶者等」の資格で本邦に入国
するための手続を行った。このときHが提出した申請書に添付された公証書には、控訴人C
がLとIの子であったが、LとIは離婚し、その後、控訴人CがHの継子となった旨が記載
されていた。ところが、上記申請は認められず、控訴人Cは本邦に入国することができなか
った。
その後、控訴人Cは、姓をC1” からHの中国姓であったH1” に変更したうえ、さらに、C2”
の名を、他の実子の名に付けられたC3” と同じ文字を使用するとの趣旨でC4” に変更した。
これを受けて、Hは、平成8(1996)年に、「控訴人C」がHの長女であるから呼寄せを許
可してほしい旨の誓約書を控訴人Cに送付した。控訴人Cは、同誓約書を持って公証処に赴
き、氏名を控訴人C、Hとの続柄が長女であるとの記載のある公証書の発付を受け、これを
Hに送付した。平成8(1996)年7月12日付けの同公証書には、「控訴人C」という人物が、
昭和38(1963)年3月14日にH及びIの長女として出生したこと及びこのころQの妻であ
ったことが記載されており、中国黒龍江省寧安市公証処の公証員の記名様の文字及び公証処
の押印がある。控訴人Cから上記公証書を受領したHは、平成8(1996)年8月20日ころ、
控訴人Cにつき、名義を控訴人C、続柄を長女として、また、控訴人Cの家族につき、それぞ
れ長女である控訴人Cの夫及び子であるとして、本邦への入国を申請し、上記公証書を添付
した。
控訴人Cは、同申請により、平成8(1996)年12月28日、日本人であるHの実子であると
して、在留資格「日本人の配偶者等」として本邦への上陸が許可された。同時に、控訴人Cの
夫であったQ(後に中国へ帰国した。)並びに控訴人CとQの子である控訴人A及び控訴人B
も、在留資格「定住者」として、本邦への入国を許可された。
その後の在留の経緯等については、原判決添付の別紙2(入国在留経過一覧表)記載のと
おりである。
- 8 -
エ 控訴人Fの家族の本邦入国
一方、控訴人Fは、養子先に引き取られた後、昭和58(1983)年12月ころに控訴人Gと結
婚するまで、P家で養女として暮らしてきた。控訴人Fは、控訴人Gと結婚した後、中国黒龍
江省寧安市興華郷で農業を営んで生活していた。控訴人Dは、昭和59(1984)年12月8日に
出生し、控訴人Eは、昭和62(1987)年12月14日に出生した。
控訴人Gは、その後、控訴人Fの実母であるIのことを知る者の情報に基づいて同女の住
所を探したところ、昭和59(1984)年ころ、東京城鎮にあるH家族の家を発見した。しかし
ながら、控訴人Cは在住していたものの、H及びIは、既に昭和58(1983)年8月ころ日本
に帰国していたため、控訴人Fは、Hらと再会することはできなかった。
控訴人Fは、その後も控訴人Cと連絡を取り合っていたところ、平成8(1996)年ころ、控
訴人Cの家族が本邦に入国することができたことを聞き、Hらとともに暮らすため、自らも
本邦へ入国することを決意したが、本邦への入国手続が分からなかったため、養子先の義理
の兄であり、寧安市の公安局の職員で、以前控訴人Cの渡航手続を行ったと聞いていたRに、
氏名の変更を含む渡航手続を依頼し、また、控訴人Cに連絡して、控訴人CからRへ連絡を
とるよう依頼した。
控訴人Fは、平成9(1997)年ころ、Rに対して、控訴人F名義での公証書、旅券、結婚証
書及び居民身分証の作成を依頼した。
Hは、Rに対し、控訴人FがHの二女である旨の誓約書を送付したところ、Rから、控訴人
Fの家族の他に、Rの実子であるJ及びKについても、控訴人Fの実子として公証書を作成
したため、両名についても在留資格認定証明書の交付申請を行うようにとの連絡があり、控
訴人Fの家族に加えて、J及びKについても、平成10(1998)年6月9日付けの公証書が送
付された。
控訴人Fに係る親族関係公証書については、「控訴人F」が昭和38(1963)年3月14日に
出生し、HとIの次女である旨記載があり、中国黒竜江省寧安市公証処の公証員の記名様の
文字及び公証処の押印がある。また、控訴人Fに係る出生公証書には、「控訴人F」は関係人
HとIの次女であることを証明する旨の記載があり、上記同様の公証員の文字及び押印があ
った。
控訴人D及び控訴人Eの出生公証書には、それぞれ生年月日が「1983年12月8日」及び
「1984年12月14日」との内容虚偽の記載があり、上記同様の公証員の文字及び押印があった。
J及びKに係る公証書については、各人の父親は控訴人Gで母親は控訴人Fであることを
証明する旨の記載があり、上記同様の文字及び押印があった。
Hは、平成10(1998)年7月17日、控訴人Fの家族、J及びKの6名分について、在留資
格認定証明書の交付申請を行った。Hは、控訴人Fに係る申請書について、氏名を「控訴人F」
として、同申請書の生年月日欄に「1963年3月14日」と、前記控訴人Fに係る申請書及び控
訴人Gに係る申請書の「婚姻、出生又は縁組の届出先及び届出年月日」の「本国等届出先」
- 9 -
の「届出年月日」欄に「1980年10月1日」と、いずれも虚偽内容が記載された公証書に記載
されたのと同様の、虚偽内容の記載をした。また、Hは、控訴人Dに係る申請書及び控訴人E
に係る申請書の生年月日欄及び「婚姻、出生又は縁組の届出先及び届出年月日」の「本国等
届出先」の「届出年月日」欄に、それぞれ「1983年12月8日」及び「1984年12月14日」と、真
実の生年月日と異なる生年月日を記載した。Hは、平成10(1998)年7月17日、Jに係る申
請書及びKに係る申請書を作成し、同申請書の「扶養者」欄の氏名に控訴人Gの氏名を記載
し、申請人との続柄のうち、「父」欄に印を付けた。その上でHは、前記内容虚偽の公証書に
つき、少なくとも控訴人FがHの実子ではないこと、J及びKが控訴人Fと控訴人Gの実子
ではないことを知りながら、申請書の添付書類として提出した。
控訴人Fの家族は、平成10(1998)年10月1日ころ、身体検査を受けに行った際、Rから、
自らの2人の子供であるJ及びKを、それぞれ「J」及び「K」として、控訴人Fらの実子と
して登録したので一緒に連れて行くこと、控訴人Fの生年月日について、前記J及びKとの
年齢差を考慮して、昭和38(1963)年3月14日とし、控訴人Fと控訴人Gとの結婚も、昭和
55(1980)年としたこと、これに伴って、控訴人Dの生年月日につき、真実は昭和59(1984)
年12月8日であったところ、パスポート及び公証書上は昭和58(1983)年12月8日と、控訴
人Eの生年月日につき、真実は昭和62(1987)年12月14日であったものが、パスポート及び
公証書上は昭和59(1984)年12月14日と、それぞれ記載されていることを伝えられた。公証
書には、親族関係の公証として、平成10(1998)年6月9日付けで、Fなる人物が、昭和38
(1963)年3月14日に出生しており、この者は、H及びIの次女であるとの記載がある。この
ため、公証書上は、控訴人Fは、控訴人Cと同日に出生したこととなった。控訴人F家族は、
なぜRがそのようなことをするのかと感じたものの、既に手続は終了しており、書類も作成
されているので、J及びKを連れて行くこととした。
控訴人Fの家族は、平成10(1998)年10月28日、H及びIの実子として、本邦への入国が
認められた。同時に、控訴人G、控訴人E及び控訴人Dの入国も許可され、さらに、J及びK
も、控訴人Fの実子として、本邦への入国を許可された。許可の内容及びその後の更新申請
については、原判決添付の別紙2(入国在留経過一覧表)記載のとおりである。
 控訴人らの日本での生活状況
ア 控訴人Cの家族は、肩書住所に住み、控訴人Cは、平成12(2000)年4月ころから、自宅近
くにある鮮魚店に勤務し、控訴人A及び控訴人Bはそれぞれの学校に通学している。
控訴人Cの家族は、本邦に入国後は、特に犯罪等を犯すことなく生活してきた。本件につ
いて控訴人Cの家族が収容された際には、控訴人Cの勤務先や、控訴人Bの就学先の教諭等
から、嘆願書が提出された。
イ 控訴人Fの家族は、肩書住所に住み、控訴人F及び控訴人Gは、ともにaに勤務した後、控
訴人Gは平成10(1998)年9月から上陸許可が取り消されるまでは会社に勤務し、控訴人F
は平成10(1998)年10月から組立作業に従事し、平成12(2000)年8月以降はアイロン及び
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ミシン作業に従事している。控訴人D及び控訴人Eはそれぞれの学校に通学している。
控訴人Fの家族は、本邦に入国後、特に犯罪等を犯すことなく生活していた。本件につい
て控訴人F家族が収容された際には、控訴人F及び控訴人Gの勤務先や、控訴人D及び控訴
人Eの就学先の教諭等から、嘆願書が提出された。 
 Hの家族らと控訴人C及び控訴人Fの各家族との交流
控訴人C及び控訴人Fの各家族は、ともにHの家族が住むb団地に居住していたところ、同
団地には、Hの実子であるS及びTも居住しており、Hの家族、S及びTと控訴人らとは、頻繁
に往来している。
 控訴人らが本邦に上陸し、再入国許可、在留更新許可を受けた経緯及びその際の在留資格、
在留期間は、原判決添付の別紙2(入国在留経過一覧表)記載のとおりである。
 控訴人らの収容から本件各処分までの経緯は、原判決の「第2 事案の概要」の1記載の
とおりである。
 本件訴訟提起及び執行停止の申立て
控訴人らは、平成13(2001)年12月25日、本件訴訟を提起すると同時に、本件発付処分に係
る退去強制令書の執行停止を求め、同令書はその送還部分につき執行が停止された。
なお、控訴人Gを除く控訴人らに対しては、翌26日、仮放免が許可されたが、控訴人Gの仮
放免は許可されなかった。
福岡入国管理局入国警備官は、翌27日、控訴人Gを入国者収容所大村入国管理センターに移
送した。
控訴人Gは、平成15年9月17日仮放免を許可され、上記収容所を退所した。
2 本件裁決及び本件発付処分は取消訴訟の対象となるか否か
本件裁決がその対象となることについては特に争点とはなっていないが、判断の前提となる法
律問題なので、まず、この点を検討する。
 行政事件訴訟法(以下「行訴法」という。)3条2項にいう「公権力の行使に当たる行為」とは、
行政庁による公権力の行使としてなされる国民の権利義務を形成し又はその範囲を具体的に確
定する行為をいい、同条3項にいう「裁決」とは、行政庁の処分その他公権力の行使に関し相手
方その他の利害関係人が提起した審査請求、異議申立てその他の不服申立てに対し、行政庁が
義務として審理判定した行為をいい、行政不服審査法所定の審査請求及び再審査請求に係る裁
決並びに異議申立てに係る決定のほか、他の法令で定める特別の不服申立てに係る義務的な応
答行為を含むというべきである。
 そして、本件裁決及び本件発付処分に至る手続の概要は、原判決の「第2 事案の概要」欄の
1アに記載のとおりであるところ、難民認定法49条3項の法務大臣の裁決は、特別審理官の
判定に対する当該容疑者からの不服申立てに対し義務として応答するものであるから、行訴法
3条3項の裁決に当たり、取消訴訟の対象となる。また同法49条5項により、主任審査官が当
該容疑者に対し法務大臣から異議の申出が理由がない旨の通知を受けた旨を知らせるととも
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に同法51条の規定による退去強制令書を発付する行為も、行訴法3条2項にいう「公権力の行
使に当たる行為」に当たり取消訴訟の対象となる。なぜなら、後記のとおり退去強制令書を発
付するかどうかについて主任審査官に裁量権は認められないが、発付行為に係る退去強制令書
は、入国警備官によって執行され(同法52条1項)、当該容疑者は、退去強制令書の執行として
の強制退去を受けて、その者の国籍等の属する国に送還され(同法53条1項)、直ちに送還する
ことができないときは、送還可能のときまで、入国者収容所等の主任審査官が指定する場所に
収容される(同法52条5項)から、退去強制令書を当該容疑者に対し発付する主任審査官の行
為は、行政庁による公権力の行使としてなされる国民の権利義務を形成し又はその範囲を具体
的に確定する行為であり行訴法3条2項の処分に当たるというべきだからである。
3 争点①(本件裁決及び本件発付処分が、B規約ないし児童の権利条約に違反するか否か)につ
いての判断
 難民認定法50条1項3号は、同法49条3項の裁決に当たって、異議の申出に理由がないと認
めるときであっても、被控訴人法務大臣が特別に在留を許可すべき事情があると認めるときに
は、その者の在留を許可することができる旨を定めるのみであり、その具体的な基準について
は特に明示していない。また、在留特別許可を付与するか否かについては、異議申立人の申立
事由のみならず、当該外国人の入国経緯、在留中の一切の行状、国内及び国際情勢、外交関係等
の諸般の事情を考慮して、時には高度な政治的判断も必要となり、時宜に応じた的確な判断を
しなければならないことからすれば、難民認定法は、当該外国人に在留特別許可を付与するか
否かを判断するに際して、被控訴人法務大臣に広範な裁量権を認めたものであると解される。
したがって、被控訴人法務大臣が退去強制事由に該当する外国人に対し在留特別許可を付与し
なかったことが違法となるのは、その判断が全く事実の基礎を欠き、又は社会通念上著しく妥
当性を欠くことが明らかな場合に限られると解するのが相当である。
控訴人らは、本件各処分が、B規約23条等、児童の権利条約3条等に違反し、確立した国際
法規の遵守を定めた憲法98条2項にも違反することを理由として、直ちに本件各処分は違法と
なる旨主張する。
しかし、憲法22条1項は、日本国内における居住・移転の自由を保障する旨を規定するにと
どまり、外国人が本邦に入国することについては何ら規定していないものであり、このことは、
国際慣習法上、国家は外国人を受け入れる義務を負うものではなく、特別の条約がない限り、
外国人を自国に受け入れるかどうか、また、これを受け入れる場合にいかなる条件を付与する
かを、当該国家が自由に決定することができるものとされていることと、その考えを同じくす
るものと解される。したがって、憲法上、外国人は、本邦に入国する自由を保障されているもの
でないことはもちろん、在留の権利ないし引き続き在留することを要求し得る権利を保障され
ているものでもないと解される。そして、B規約には、上記のような国際慣習法を制限する旨
の規定は定められていないし、B規約13条は、「合法的にこの規約の締約国の領域内にいる外
国人は、法律に基づいて行われた決定によってのみ当該領域から追放することができる。」と規
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定しており、不法に在留する者に対して退去強制措置をとり得ることを前提としているものと
解されることからすれば、B規約は、外国人の入国及び在留の許否について国家に自由な決定
権があることを前提としているものであり、マクレーン判決にいう国際慣習法上の原則を制約
する「特別の条約」には当たらない。また、児童の権利条約9条4項は、締約国がとった父母の
一方若しくは双方又は児童の抑留、拘禁、追放、退去強制、死亡等のいずれかの措置に基づいて
父母と児童が分離した場合について規定しており、同条項は、父母と児童が退去強制措置によ
って分離されることがあり得ることを前提としているものと解され、児童の権利条約も、外国
人の入国及び在留の許否について国家に自由な決定権があることを前提としているものであ
り、マクレーン判決にいう国際慣習法上の原則を制約する「特別の条約」には当たらない。した
がって、本件各処分が、B規約若しくは児童の権利条約又は憲法98条2項に違反して違法とな
るとの控訴人の主張は採用できない。
 もっとも、憲法98条1、2項(条約・国際法規の遵守)及び憲法99条(公務員の憲法尊重擁
護義務)によれば、我が国の公務員は、このような国際人権条約(B規約や児童の権利条約)の
精神やその趣旨(家族の結合の擁護や児童の最善の利益の保障)を誠実に遵守し、尊重する義
務を負う。したがって、当該外国人に在留特別許可を付与するか否かを判断するに当たって、
被控訴人法務大臣は、国際人権条約(B規約や児童の権利条約)の精神やその趣旨を重要な要
素として考慮しなければならない。
4 争点②(被控訴人法務大臣の本件裁決に裁量権を逸脱又は濫用した違法があるか否か)につい
ての判断
 入国手続の違法性の評価
ア 前記3のとおり、広汎な裁量権を有する被控訴人法務大臣の判断であっても、当該裁決に
関する判断が全く事実の基礎を欠き、又は社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかな場
合には、裁量権の逸脱又は濫用として違法となることがあり得る。そこで以下、この点につ
いて事実関係に立ち入って検討する。(なお、本件においては、被控訴人法務大臣から高度な
政治的判断が必要であるとの事情は主張されていない。)
イ 前記認定のとおり、Hは、平成3(1991)年ころ、控訴人C’ で、Hとの身分関係が継子で
あることの公証書を添付して本邦への入国を申請したところ、これが認められなかった後、
平成8(1996)年ころ、控訴人Cが自分の「長女」である旨の誓約書を作成し、同女が自分の
長女であるとして本邦への入国を申請する際、その旨の記載のある公証書を添付し、また、
平成10年ころ、控訴人Fが自分の「次女」である旨の誓約書を作成し、同女が自分の次女で
あるとして本邦への入国を申請する際、その旨の記載のある公証書を添付した。これらの事
実に照らすと、Hは、控訴人CがHの継子であるとの身分関係では本法に入国できないこと
を認識したうえで、同女が実子であるとの虚偽の事実を作出して本法に入国させたものであ
ると推認することができる。この点控訴人らは、継子と実子を明確に区別していない中国の
実情等を根拠として、Hには虚偽の申請をしているとの認識がなかったと主張するが、Hが
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平成3年の申請時には控訴人Cを「継子」とした(甲3)のに、平成8年及び平成10年の申
請時には控訴人Cを「長女」控訴人Fを「次女」と記載し、かつ添付した身分関係図(乙129、
130の各1)にも、明らかにこの二人が自分の実子であることを前提とした記載をしている
のであるから、Hに虚偽の申請をしている旨の認識があったことは疑いの余地がない。また、
これらの誓約書及び公証書を見ている控訴人C及び同控訴人Fにも、同様の認識があったも
のと認められる。さらに、控訴人Fは、J及びKが自分とは全く血縁関係のない人物である
のに、これらの者が自分の実子であるとの虚偽の公証書を使用したり虚偽の生年月日を記載
したりして在留資格認定証明書の交付を申請し、Hもこれらの事実を知っていたと認められ
る。
以上を要するに、H、控訴人C及び同控訴人Fは、公証書の記載及び申請書に記載した身
分関係がいずれも虚偽であることを認識しながら、あえてその身分関係に基づいて本邦に入
国しようとしたというべきである。
ウ しかしながら、控訴人C及び同控訴人Fが姓名を変更したことや継子を「長女」「次女」と
呼称すること自体は中国の法律や慣行上特段違法・不自然なものではないこと(甲218)、H
が各申請時に添付した戸籍等の資料は真正なものであって、これらをつぶさに検討すれば、
Hの申請が虚偽であることが発覚する余地もあったこと、乙141、142に照らすと、もしHや
控訴人らが真実の身分関係を当初から明らかにして入国申請をしておれば入国が許可された
可能性がなかったとはいえないこと、J及びKの不法入国についてのHや控訴人らの関与は
主導的・積極的なものではなかったことなどの諸事情に照らすと、H、控訴人C及び同Fの
入国手続における虚偽申請の違法性は極めて重大なものとまでは評価できない。
 本件に特有の事情
ア 本件においては、原判決挙示の証拠によって認められる以下のような事情を考慮する必要
がある。
まず、控訴人Cは、Iの連れ子であることをはるかに越えて、Hやその家族と密接な関係
がある。すなわち、控訴人Cは、HとIの婚姻後昭和57(1982)年に自らが結婚するまでの
間H夫婦と同居し、この間に生まれた4人の子供の上にいる最年長者として家事などIの手
伝いをし、Hが病気で倒れた際には率先して家族の生活を支えるなど、Hの家族の重要な一
員となっていたものである。そして、特筆すべきは、Hが日本への永住手続をとった際、中国
当局者から高齢の養父Oの世話をしなければ日本へ帰国できないと言われたため、Hの子供
のうち最年長であった控訴人Cが同人の世話をするために中国に残り、同人が死亡するまで
の7年間Hに代わってその世話をしたことである。このような事情は、控訴人CがHの実子
以上の存在であったと評価できるものである。そして、平成2(1990)年にOが死亡したこ
とから今回の入国申請になったものであるが、このように控訴人Cは、H自身及びその家族
全体との関係で、Hの実子同様の密接さがあったということができ、このような家族関係は、
日本国がその尊重義務を負うB規約に照らしても十分に保護されなければならないものであ
- 14 -
る。
また、控訴人Cの妹である控訴人Fは、病弱であったためやむなく他に養子で出されたが、
結婚後控訴人Cと連絡を取り合い、一時帰国したHやIと再会して日本国への入国を申請し
たものであり、そのHや控訴人Cとの家族関係も控訴人Cと同様尊重されるべきである。
イ そしてなにより、H、控訴人C及び同控訴人Fらの家族が本件のような事態に直面したこ
とについては、控訴人らに退去を強制している日本国自身の過去の施策にその遠因があり、
かつその救済措置の遅れにも一因があることが留意されなければならない。すなわち、Hの
両親が中国に渡ったのは、当時の日本国の国策であった満州国開拓民大量入植計画によるも
のであり、また終戦後Hの母が日本に帰国できずHの帰国が遅れたのも、日本国の引き揚げ
施策が効を奏さなかったためであって、そのような中で生活維持のためにやむなくHがOの
養子とされたのである。その後、昭和47(1972)年の日中国交回復を経、終戦後36年にして
ようやく中国残留孤児の集団訪日調査が行われ、49年後の平成6(1994)年に至って、「今次
の大戦に起因して生じた混乱等により、本邦に引き揚げることができず引き続き本邦以外の
地域に居住することを余儀なくされた中国残留邦人などの置かれている事情にかんがみ、こ
れらの者の円滑な帰国を促進する」ことなどを目的として、「中国残留邦人等の円滑な帰国
の促進及び永住帰国後の自立支援に関する法律」(以下「中国残留邦人帰国促進自立支援法」
という。)が公布されたものである。このような救済措置の遅れは、当時の国際情勢等との関
係でやむを得なかった面もあるが、結果的にみてなんとしても遅きに失したとの感を否めな
い。そして、同法で、円滑な帰国・入国の特別配慮の対象とされている「当該中国残留邦人
等の親族」の中に控訴人らのような連れ子が含まれる旨の直接の規定はないが、控訴人らは
「前各号に規定する者に準ずるものとして厚生労働大臣が認める者」(同規則10条6号)に該
当する余地が残されている。他方、難民認定法により「定住者」として在留資格が認められる
者の中には、日本人配偶者たる外国人の連れ子が定められているが(平成2年法務省告示第
132号(定住者告示)の6号)、これは未成年で未婚の者に限定されている。この規定は一般
的には合理性を有するが、控訴人らのような中国残留邦人の親族の場合、実子同然に育った
者であっても、上記のような引き揚げ措置の遅れによって(この間に成人に達したり結婚し
たりして)在留資格を取得できないという不合理が生じ、中国残留邦人帰国促進自立支援法
の趣旨が没却されてしまうおそれがある。
このように、過去の日本国の施策が遠因となり、その被害回復措置の遅れによって結果的
に在留資格を取得できなくなってしまっている控訴人らの立場は、本件に特有の事情とし
て、特別在留許可の判断にあたって十分に考慮されなければならない。
 まとめ
以上のような、本件に特有の事情、前記に認定した控訴人らの日本での生活状況に顕れた控
訴人らの家族の実態及び控訴人子らが我が国に定着していった経過、控訴人子らの福祉及びそ
の教育並びに控訴人子らの中国での生活困難性等を、日本国が尊重を義務づけられているB規
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約及び児童の権利条約の規定に照らしてみるならば、入国申請の際に違法な行為(その違法性
の程度については前述したとおりである。)があったことを考慮しても、本件裁決は、社会通念
上著しく妥当性を欠くことが明らかであり、被控訴人法務大臣の裁量権の範囲を逸脱又は濫用
した違法があるというべきであるから、その余の点を判断するまでもなく、取消しを免れない。
5 争点③(被控訴人主任審査官の本件発付処分に、裁量権を逸脱又は濫用した違法があるか否か)
についての判断
難民認定法49条5項は、主任審査官は、法務大臣から異議の申出が理由がないと裁決した旨の
通知を受けたときは、すみやかに当該容疑者に対して退去強制令書を発付しなければならないと
定めており、主任審査官に対し、退去の強制に理由があるか否かをあらためて判断することを許
容するような規定は何ら設けられていない。このほか、難民認定法47条及び48条8項の類似規定
や難民認定法51、52条等の関係諸規定に照らしても、主任審査官は、法務大臣から前記裁決の通
知を受けたときは、その判断に拘束され、すみやかに所定の方式に従った退去強制令書を発付す
ることを義務づけられており、退去の強制に実体上の理由があるか否かについて独自に判断し得
る権限も、また、退去強制令書の発付を留保し得る権限も認められていないものと解するのが相
当である。したがって、被控訴人主任審査官による本件発付処分には裁量の余地がないから、裁
量権の逸脱や濫用について判断する余地はない。しかしながら、同処分は、被控訴人法務大臣に
よる本件裁決を前提とするものであって上記のとおりその裁決が違法なのであるから、本件発付
処分も違法となり取消しを免れない。
6 文書提出命令について
控訴人らの平成16年10月15日付け及び同年11月26日付け各文書提出命令申立書による各申立
ては、いずれも各「証明すべき事実」欄の記載から、本件上陸許可取消処分に関するものであるこ
とが明らかであり、上記のとおり本件上陸許可取消処分について判断する必要がなく、上記各申
立ての対象となる文書は取り調べる必要がないから、上記各申立ては採用しない。
7 結論
以上のとおりであって、原判決は相当でないからこれをこれを取消して、本件裁決及び本件発
付処分をいずれも取り消すこととし、主文のとおり判決する。

難民認定をしない処分取消請求事件(甲事件)
平成15年(行ウ)第360号
退去強制令書発付処分等取消請求事件(乙事件)
平成16年(行ウ)第197号
原告:A、両事件被告:法務大臣、乙事件被告:東京入国管理局主任審査官
東京地方裁判所民事第38部(裁判官:菅野博之・鈴木正紀・本村洋平)
平成17年3月25日
判決
主 文
一 被告法務大臣が原告に対して平成14年11月11日付けでした難民の認定をしない旨の処分を取
り消す。
二 被告法務大臣が原告に対して平成16年1月27日付けでした出入国管理及び難民認定法49条1
項に基づく異議の申出は理由がない旨の裁決を取り消す。
三 被告東京入国管理局主任審査官が原告に対して平成16年3月16日付けでした退去強制令書発
付処分を取り消す。
四 訴訟費用は、被告らの負担とする。
事実及び理由
第一 請求
一 甲事件
主文第一項と同旨。
二 乙事件
主文第二項及び第三項と同旨。
(なお、乙事件訴状の「請求の趣旨1」欄記載の「3月16日」は誤記と認める。)
第二 事案の概要
一 事案の骨子
本件は、①ミャンマー連邦(以下「ミャンマー」という。なお、同国は、1989年に名称をビルマ
連邦社会主義共和国から改称したが、本判決では、改称の前後を区別することなく、「ミャンマー」
という。)の国籍を有する原告が、出入国管理及び難民認定法(以下「出入国管理法」という。)61
条の2第1項に基づき、難民の認定を申請したところ、被告法務大臣から難民の認定をしない旨
の処分を受けたため、同処分が違法であると主張して、同被告に対し上記処分の取消しを求める
事案(甲事件)、並びに②原告が、被告法務大臣から出入国管理法49条1項に基づく異議の申出は
理由がない旨の裁決を受け、被告東京入国管理局主任審査官(以下「被告主任審査官」という。)
から退去強制令書発付処分を受けたため、原告が出入国管理法等に規定する「難民」に該当する
にもかかわらず在留特別許可を認めなかった上記裁決及び上記発付処分は違法であるなどと主張
- 2 -
して、被告法務大臣に対し上記裁決の取消しを、被告主任審査官に対し上記発付処分の取消しを、
それぞれ求める事案(乙事件)である。
二 関係法令の定め等
1 出入国管理法61条の2第1項は、「法務大臣は、本邦にある外国人から法務省令で定める
手続により申請があったときは、その提出した資料に基づき、その者が難民である旨の認定
(以下「難民の認定」という。)を行うことができる。」と規定している。そして、出入国管理法
2条3号の2は、出入国管理法における「難民」の意義を、「難民の地位に関する条約(以下「難
民条約」という。)第1条の規定又は難民の地位に関する議定書第1条の規定により難民条約
の適用を受ける難民をいう。」と規定している。
 難民条約1条Aは、「1951年1月1日前に生じた事件の結果として、かつ、人種、宗教、
国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるお
それがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、そ
の国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国
の保護を受けることを望まないもの及びこれらの事件の結果として常居所を有していた国の
外にいる無国籍者であつて、当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はその
ような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」は、難民
条約の適用上、「難民」という旨規定している。
 難民の地位に関する議定書(以下「難民議定書」という。)1条2は、難民議定書の適用上、
「難民」とは、難民条約1条Aの規定にある「1951年1月1日前に生じた事件の結果として、
かつ、」及び「これらの事件の結果として」という文言が除かれているものとみなした場合に
同条の定義に該当するすべての者をいう旨規定している。
 したがって、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的
意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍
国の外にいる者であつて、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐
怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」は、出入国管理法にいう
「難民」に該当することとなる。
2 出入国管理法61条の2第3項は、「法務大臣は、第1項の認定をしたときは、法務省令で定め
る手続により、当該外国人に対し、難民認定証明書を交付し、その認定をしないときは、当該外
国人に対し、理由を付した書面をもつて、その旨を通知する。」と規定している。
3 出入国管理法50条1項は、「法務大臣は、前条第3項の裁決に当つて、異議の申出が理由がな
いと認める場合でも、当該容疑者が左の各号の1に該当するときは、その者の在留を特別に許
可することができる。」とし、その3号において、「その他法務大臣が特別に在留を許可すべき
事情があると認めるとき。」と定めている。
4 拷問及び他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する条約(以下「拷
問等禁止条約」という。)3条1項は、「締約国は、いずれの者をも、その者に対する拷問が行わ
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れるおそれがあると信ずるに足りる実質的な根拠がある他の国へ追放し、送還し又は引き渡し
てはならない。」と規定している。そして、拷問等禁止条約1条1項は、「この条約の適用上、『拷
問』とは、身体的なものであるか精神的なものであるかを問わず人に重い苦痛を故意に与える
行為であって、本人若しくは第三者から情報若しくは自白を得ること、本人若しくは第三者が
行ったか若しくはその疑いがある行為について本人を罰すること、本人若しくは第三者を脅迫
し若しくは強要することその他これらに類することを目的として又は何らかの差別に基づく理
由によって、かつ、公務員その他の公的資格で行動する者により又はその扇動により若しくは
その同意若しくは黙認の下に行われるものをいう。『拷問』には、合法的な制裁の限りで苦痛が
生ずること又は合法的な制裁に固有の若しくは付随する苦痛を与えることを含まない。」と規
定している。
三 前提事実
本件の前提となる事実は、次のとおりである。なお、証拠及び弁論の全趣旨により容易に認め
ることのできる事実は、その旨付記しており、それ以外の事実は、当事者間に争いのない事実で
ある。
1 原告の国籍等について
原告は、昭和53年(1978年)《日付略》、ミャンマーにおいて出生したミャンマー国籍を有す
る外国人である。
2 原告の入国・在留状況について
 原告は、平成10年(1998年)10月12日、タイ王国からタイ国際航空で新東京国際空港に到
着し、東京入国管理局(以下「東京入管」という。)成田空港支局入国審査官に対し、外国人入
国記録の渡航目的の欄に「STUDY」、日本滞在予定期間の欄に「6 MONTH」と記載して上陸
申請をし、同入国審査官から出入国管理法別表第一に規定する在留資格「就学」及び在留期
間「6月」の許可を受けて、本邦に上陸した。
 原告は、東京都新宿区長に対し、平成10年10月20日、外国人登録申請をした。
 原告は、平成11年3月17日、在留期間の更新申請を行い、同月26日、在留期間6月の許可
を受けた。
 原告は、平成11年10月7日、在留期間の更新申請を行い、同月12日、在留期間6月の許可
を受けた。
 原告は、平成12年3月16日、在留資格の変更申請を行い、同月30日、出入国管理法別表第
一に規定する在留資格「留学」及び在留期間2年の許可を受けた。
 原告は、平成12年8月9日、出入国管理法26条1項前段に定める再入国許可を受け、同月
30日、同許可に基づき出国し、同年9月20日、本邦へ再入国した。
 原告は、平成14年3月27日、在留資格の変更申請を行い、同年4月3日、出入国管理法別
表第一に規定する「短期滞在」及び在留期間90日の許可を受けた。
 原告は、平成14年6月24日、在留期間の更新申請を行い、同年7月2日、在留期間90日の
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許可を受けた。
 原告は、平成14年9月24日、在留期間の更新申請を行い、同年10月8日、在留期間90日の
許可を受けた。
その後、原告は、在留期間の更新又は変更を受けないで最終の在留期限である同年12月25
日を経過して本邦に不法に残留することとなった。
3 原告の難民認定申請手続について
 原告は、被告法務大臣に対し、平成14年3月26日、難民の認定を申請した(以下、この申
請を「本件難民認定申請」という。)。
 東京入管難民調査官は、平成14年7月24日、同年8月14日、同月29日、同年9月9日の合
計4回、原告から事情を聴取するなどの調査をした。
 被告法務大臣は、平成14年11月11日付けで、本件難民認定申請について、「あなたの「人
種」、「宗教」、「国籍」、「政治的意見」を理由とした迫害を受けるおそれがあるという申立ては
証明されず、難民の地位に関する条約第1条A及び難民の地位に関する議定書第1条2に
規定する「人種」、「宗教」、「国籍」、「政治的意見」を理由として迫害を受けるおそれは認めら
れないので、同条約及び同議定書にいう難民とは認められません。」との理由を付して、難民
の認定をしない旨の処分(以下「本件難民不認定処分」という。)をし、同月19日、原告に通
知した。
 原告は、被告法務大臣に対し、平成14年11月22日、本件難民不認定処分についての異議の
申出をした。
 東京入管難民調査官は、平成15年1月30日、原告から事情を聴取するなどの調査をした。
 被告法務大臣は、平成15年3月18日付けで、前記の異議申出について、「貴殿の難民認
定申請につき再検討しても、難民の認定をしないとした原処分の判断に誤りは認められず、
他に、貴殿が難民条約上の難民に該当することを認定するに足りるいかなる資料も見出し得
なかった。」との理由を付して、異議の申出に理由がない旨の決定をし、同年4月14日、原告
に通知した。
4 原告の退去強制手続について
 東京入管入国警備官は、平成15年3月19日、東京入管審判部門から、原告に係る退去強制
容疑者通報を受け、違反調査を実施した結果、原告が出入国管理法24条4号ロ(不法残留)
に該当すると疑うに足る相当の理由があるとして、同年9月8日、被告主任審査官から収容
令書の発付を受け、同月11日、同令書を執行して、原告を東京入管収容場に収容し、同日、原
告を東京入管入国審査官に引渡した(弁論の全趣旨)。
 東京入管入国審査官は、平成15年9月11日、原告について違反審査をし、その結果、同日、
原告が出入国管理法24条4号ロ(不法残留)に該当する旨の認定を行い、原告に通知した。
原告は、同日、口頭審理を請求した。なお、被告主任審査官は、原告に対し、同日、仮放免を
許可した。(弁論の全趣旨)
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 東京入管特別審理官は、平成16年1月9日、原告について口頭審理を行い、その結果、同
日、東京入管入国審査官の認定に誤りのない旨判定し、原告に通知した。原告は、被告法務大
臣に対し、同日、異議の申出をした。(弁論の全趣旨)
 被告法務大臣は、平成16年1月27日、原告からの異議の申出について理由がない旨の裁決
(以下「本件裁決」という。)をした。本件裁決の通知を受けた被告主任審査官は、同年3月16
日、原告に本件裁決を通知するとともに、送還先をミャンマーとする退去強制令書を発付し
(以下、これによる処分を「本件退令発付処分」という。)、同日、原告を東京入管収容場に収
容した。(乙37、64、弁論の全趣旨)
 東京入管入国警備官は、平成16年10月8日、原告を入国者収容所東日本入国管理センター
へ移収した(乙37、64)。
 入国者収容所東日本入国管理センター所長は、平成17年1月21日、原告を仮放免した(乙
64、65)。
四 争点
1 本件難民不認定処分の適法性①
原告は、出入国管理法に規定する「難民」に該当するか、具体的には、本件難民不認定処分の
された平成14年11月11日当時、原告がイスラム教信者のロヒンギャ族であって、ミャンマー国
籍を有すること、並びに本国及び本邦において反政府政治活動をしていたことを理由として、
迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する者であるか。
2 本件難民不認定処分の適法性②
本件難民不認定処分に相当の理由付記がされたといえるか。
3 本件裁決の適法性
具体的には、本件裁決のされた平成16年1月27日当時、原告は、ミャンマーに送還されれば
迫害を受けるおそれがあったので、在留特別許可を付与されるべきであったのに、これを付与
せずにされた本件裁決は、被告法務大臣の有する裁量権を逸脱するなどしてされた違法なもの
であるということができるか。
4 本件退令処分の適法性
本件裁決が違法であるから、これを前提とする本件退令処分も違法であるか。
五 争点に関する当事者の主張の要旨
1 争点1(本件難民不認定処分の適法法①)について
 原告の主張
 ミャンマーの一般情勢について
ア ミャンマーにおいて、司法当局は軍によって統制されており、基本的な表現の自由、
結社と集会の自由が法律に基づいて制限されている。平和的な政治活動を行った者が、
非常事態法、国家保護法のような漠然とした法律によって逮捕されている。ミャンマー
政府は、国民に対し、暴虐的、組織的な人権侵害を継続している。 
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ミャンマーにおいて、政治的、市民的な権利への迫害が継続しており、それには超法
規的死刑執行、即決若しくは恣意的死刑執行、兵士による子どもへの虐待、特に少数民
族及び宗教的少数派への強制労働、強制移住、強制連行を含む抑圧等が含まれている。
ミャンマーにおいては、基本的人権が抑圧されている。
イ ミャンマーには、緊急事態法、非合法団体法、国家保護法、国家反逆法、印刷出版登録
法及びその改正法、1985年ビデオ法等、多くの政治囚を生み出すことを可能にする法律
が存在する。ミャンマーにおいては、反政府の立場にある者を様々な法律を使って極め
て簡単に処罰することが可能となっており、現に、これらの法律により多くの者が政治
囚として捕らえられている。
ウ 軍情報部員、刑務所の看守や警察官は、政治的理由による拘留者を尋問するときに、
また、暴動を牽制するための手段として、拷問や虐待を用いている。治安部隊は、情報を
引き出したり、政治囚や少数民族の人々を罰したり、軍事政権に批判的な人々に恐怖を
植え付ける手段として、拷問を用い続けている。
ア 以下のとおり、原告は、ロヒンギャ族であり、イスラム教徒である。
ア 原告は、ロヒンギャ族でなければ入会することができない在日ビルマロヒンギャ協
会(以下「BRAJ」という。)に加入し、会計監査の役職に就いた。BRAJのゾウ・ミン・
トは、原告がロヒンギャ族である旨述べている。BRAJは、ミャンマーにおける民主主
義の回復とロヒンギャ族の権利回復のために活動する団体である。
イ ミャンマー・ムスリム宗教学者(ウラマー)組織のシェイ・ラテフ・シャー及びラ
カイン州の国会議員ウー・チョウミンは、原告がイスラム教徒である旨述べている。
ウ 被告法務大臣は、原告が提出した戸籍表(乙28)によると、原告の父が「B」、原告
の母が「C」であること、家族全員がキリスト教及びバマー民族とされていること、経
費支弁書(乙26)によると、「D」が原告の兄とされていることから、原告がロヒンギ
ャ族であることは疑わしい旨主張する。
しかし、ミャンマー政府は、ロヒンギャ族の存在を認めていないため、ロヒンギャ
族であることを公に証明するものなど存在しない。その上、原告の父は拷問により死
亡し、原告自身も、平成8年(1996年)にデモ行進に参加し、ロヒンギャ族であるこ
とがミャンマー軍事政権当局に判明している状況であり、通常の手続で、旅券や来日
のための在留資格認定証明書を入手することは不可能であった。在留資格認定証明書
を申請したのは、E日本語学校であるが、これは、原告の母とブローカーが手配をし
たものであり、原告は一切関与していない。
また、旅券取得手続は、原告の母とブローカーが行ったので詳細は不明であるが、
ロヒンギャ族を名乗って旅券を作成することができないため、原告の母及びブローカ
ーは、懇意にしていた「B」や「C」に協力を求め、原告をその子としたと考えられる。
さらに、ブローカーを通じて関係官庁に相当の賄ろが支払われていた。
- 7 -
当時、日本に在留資格を持ち滞在をしていた「D」が、兄として身元を保証し、経費
を支弁することができるという形にした方が円滑であった。
以上のとおり、原告がロヒンギャ族であるために、原告の母及びブローカーは、こ
のような工作をせざるを得なかったのである。
エ 被告法務大臣は、原告が収容されて約2か月経過した後に肉抜き食にすることを求
めた旨主張する。被告法務大臣は、イスラム教徒は、肉を食さないために、上記事実を
もって、原告は、イスラム教徒ではなく、原告の供述等は信用性がないという根拠と
していると思われる。
イスラム教徒は、一般に知られているように豚肉を禁忌しており、原告も豚肉は食
していないし、収容施設においても豚肉を食していない。その他の肉は食していたが、
これはイスラムの教義上も何も問題がない。ただし、収容施設においてイスラム教の
教義に厳格な者から、肉食のためには儀式等が必要であることを教えられ、それが十
分にすることができない収容施設において、肉をすべて抜くように申出をしたまでで
ある。
イア ミャンマー政府は、ロヒンギャ族について、歴史的にベンガルとアラカンを好き勝
手に移動してきたビルマ語を解さないイスラム教徒集団とみなし、闇貿易や犯罪、治
安かく乱に関与している反ミャンマー集団として非難し、ロヒンギャ族の存在を認め
ず、公式の居住権を認めていない。ロヒンギャ族は、ミャンマー政府から強制労働、強
制移住、土地と財産の没収、恣意的な徴税、恣意的逮捕、移動の自由の制限等の迫害を
受けている。原告も、掃除や木の伐採、運搬等を強制的にさせられたことがあった。
イ ミャンマー政府は、1989年から新しい身分証明書を発行しているが、ロヒンギャ族
に対しては何も行われていない。したがって、ロヒンギャ族は、身分証明書を必要と
する事柄、すなわち旅行用チケットを買う際や子どもを学校に入学させる際、自分の
州地域以外に住む友人宅に宿泊する際、すべての民間機関を含む職を求める際、土地
の購入、交換、そして他の日常的な行動の際のすべてにおいて法的に拒絶されている。
原告は、新しい身分証明書を作成する際、ロヒンギャ族として登録することができ
ず、民族の欄には「ベンガリー、カマン、パキスタン、ミャンマー」という架空の民族
で登録させられた。この身分証明書は、ミャンマーの役人から偽物と判断され、仕事
をするときや移動をするときには通用しない。
ウ ミャンマーにおいては、昭和57年(1982年)に新国籍法が制定され、国民を「国民」、
「準国民」及び「帰化国民」の3ランクに分類している。しかし、ロヒンギャ族は、これ
らのいずれにも分類されることなく、不法に滞在する外国人扱いされている。市民権
は、基本的な社会、教育、健康施設にアクセスするために不可欠であるが、ロヒンギャ
族の市民権がはく奪された状態が続いている。
エ 平成3年(1991年)12月から平成4年(1992年)3月にかけて、ミャンマーのアラ
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カン地方からバングラデシュ側へ25万人ないし30万人といわれるロヒンギャ難民が
流出した。この流出した要因として、①市民権の欠如、国籍の延長書換えの不認定、②
ミャンマー当局による移動の制限、③強制労働と軍のためのポーターの役務、④強制
的な食物の寄付や、ゆすりと恣意的課税、⑤土地の没収あるいは移住、⑥高い物価と
食糧(米)の欠乏が挙げられている。
オ ミャンマーでは、政治的不満や経済的不満が国内に充満した際に、仏教徒のイスラ
ム教徒に対する暴動がしばしば発生している。さらに、普段の生活においても、一般
に仏教徒であるミャンマー人のイスラム教徒に対する偏見と差別が根強く存在する。
上座仏教が優勢なミャンマーにおいては、政府や軍の高官も圧倒的に仏教徒が多く、
イスラム教徒への差別感情や偏見を抱くことが一般的である。このような仏教徒であ
るミャンマー人によるイスラム教徒への偏見や差別意識が、政府によるロヒンギャ族
に対する非難とふくそうして、ロヒンギャ族のミャンマーにおける安全な居住を妨げ
ている。ロヒンギャ族は、宗教を理由とする迫害にもさらされている。
ウ 原告の父は、後に軍事政権によって非合法化された「National Democratic Party for
Human Rights」(以下「NDPH」という。)の中央実行委員会の構成員となり、ロヒンギ
ャ族の権利高揚のための活動、選挙活動等を行ってきた。原告の父は、ロヒンギャ族を
抑圧していたミャンマー政府に反対していた。
原告の父は、政治活動、献身的な医療活動等、常にロヒンギャ族の側にたった活動を
してきたため、平成5年(1993年)2月15日、軍情報局の者に強制的に連行された。そ
の後、原告の父はインセイン刑務所に収容されていると伝えられたが、原告の母がイン
セイン刑務所に何回も足を運んでも、原告の父と一度も会うことができなかった。原告
の父は、苛酷な暴行を受けて、平成7年(1995年)3月10日に死亡した。原告の父は、ロ
ヒンギャ族を弾圧する軍事政権に反対し、拷問を受けて死亡したのである。
エ 以上によれば、原告がロヒンギャ族であることのみで、難民に該当するというべきで
ある。
ア 原告は、軍事政権が原告の父を殺害し、遺体を引き取ることもできず、葬式をするこ
ともできなかったこと、政府が教育を統制していたこと、アウン・サン・スーチーの軟
禁を解かないことに憤りを覚えたことなどから、平成8年(1996年)12月の民主化デモ
に参加した。
原告が参加した上記デモは、平穏かつ平和的なものであったが、その途中、待ちかま
えていた警官隊が四方を取り囲み、消防車から放水を開始し、デモ隊を崩した上で、学
生をこん棒で殴打し、約200名を連行した。
原告もこん棒で殴られ、足でけり飛ばされ、逮捕されて、警察車両に放り込まれた。原
告は、インセイン警察署に連行され、10日間、身柄を拘束された。その間、原告は、学生
運動を先導した者に関する情報を提供するよう強要され、顔や頭を殴打され続けた。
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原告は、二度と政治活動を行わないこと、学生のグループを作らないこと、夜に外出
しないこと、ヤンゴン州から許可なく出ないこと、政治活動を行った場合厳しく処罰さ
れることなどの内容を含む誓約書にサインをして、ようやく警察署から解放された。
イ その後も、原告は、デモ行進のたびに、地元の警察に呼び出され、尋問を受けたり、留
め置かれたりしており、警察からマークされていた。
ウ このように、原告は、二度と政治活動をせず、政治活動をしたら処罰を受ける旨の上
記誓約書を作成させられたのであり、その後に政治活動を行えば誓約書違反として処罰
を受けることは明らかである。原告は、来日以前から、警察に、個別的に氏名を特定され、
その人物像も把握されている。
ア 原告の母は、ミャンマー政府によって原告が今後も身柄拘束をされる危険性を考え、
国外に出ることを勧めた。来日の準備については、原告の母及びブローカーがすべてを
行い、原告は、当時どのようにしたのかは全く知らなかった。ロヒンギャ族であること
が判明している原告は、通常の正規の方法では旅券を入手することは不可能であり、ブ
ローカーは相当巧妙な方法で行ったものと考えられる。
イ 被告法務大臣は、原告がミャンマー政府から旅券の発給を受け、本国を出国したから、
原告の難民該当性が疑わしい旨主張する。
しかし、難民申請者が正規の旅券の発給を受けて合法的に出国したことは、難民該当
性と関連性を有しない事実であり、旅券の正規発給を受けることを出身国の保護を求め
ることと同視する考え方は誤りである。旅券は、現代社会においては、国籍国を出国し、
あるいは庇護を求めた国で生活を送るために必要な手段にすぎない。旅券の申請又は旅
券の延長申請と保護の付与との間に自動的なつながりはないから、申請者が旅券の申請
又は延長申請を行った理由が真に同人の利益を国籍国の保護にゆだねようというもので
ない限り、申請者の当該行為をもって国籍国の保護を求めたものと考えることはできな
い。
また、いかにミャンマー政府が厳格な手続を経て、旅券を発給等しているかを調べて
みても、全く無意味である。このような手続を経ずに旅券の発給を受けるために賄ろが
支払われているからである。
 原告は、平成11年(1999年)の春ころから、BRAJに接触し、反政府活動に参加した。も
っとも、原告は、ミャンマーで身柄を拘束された際にサインをした前記誓約書の違反によ
って、家族に不利益が及ぶことをおそれ、当初は、メンバーには入らず、ひそかに活動を支
援して、ミーティングに参加したり、通訳、翻訳などをしてきた。なお、BRAJは、少数民
族かつイスラム教徒の反政府団体であり、軍事政権から激しく敵視されている。
ア 原告は、平成12年(2000年)8月30日、原告の母の健康状態が悪化したために一時帰
国したが、ヤンゴン空港において、軍情報局に逮捕され、タムウェーの警察駐屯地に連
行されて、8日間、身柄を拘束された。
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軍情報局は、原告が日本の反政府政治団体と関係を持っているとの情報に基づき、反
政府活動の有無、日本の諸団体の活動、中心メンバーについて詳細に取り調べた。軍情
報局は、特にBRAJを中心として日本の反政府団体の幹部のメンバーの名前や集会・デ
モの写真等を示して、取調べを行った。
原告は、執ような尋問に対し、帰国した理由は原告の母の看病のためである、政治活
動については関心もなく、何も知らないなどと答えて、身柄を解放された。
イ しかし、軍情報部は、原告がミャンマーの民主化運動家と接触するのではないかと疑
っており、その後も、原告を尾行したりした。原告は、身の危険を感じて、再びミャンマ
ーを出国した。
ウ 軍当局は、原告の素性・政治活動歴も十分に理解した上で、原告に注目している。原
告が一度でも政治活動を行えば、身柄拘束を受け、弾圧される可能性が高い。
ア 原告が日本に再入国した後の平成12年(2000年)10月1日、軍当局が、原告の母の自
宅を訪れ、原告に関する質問を行った。
イ 原告は、民族の一員としてロヒンギャ族のための活動をしたいと考えたこと、メンバ
ーにならないと組織の詳細を知ることができないこと、原告が一時帰国をしたときの政
府の対応に我慢をすることができないと思ったことから、平成12年11月21日、BRAJに
正式に入会した。
原告は、ミャンマーに帰国した際に取調べを受けた経験に基づき、日本での活動家は、
デモや集会の写真で察知されていたので、デモや集会等により外部に対して露出するこ
とが少なければ大丈夫であろうと考えた。そこで、原告は、ミーティングや他団体との
折衝、内部の書類作成等には参加したものの、デモや集会に参加したり、ビラを配布し
たりするなどの大使館に知られるような活動はしなかった。
ウ 原告は、原告の母に電話をしたところ、軍情報部が、原告の母の自宅に何度も来てお
り、部屋の中を捜索して、書類、写真等を押収し、原告の母に対し、原告が本当に勉強し
ているのか、どんな仕事をしているのか、政治活動をしているかなどと細かく尋ねてい
ること、原告の母も警察に出頭し、尋問を受けていることが判明した。また、原告は、原
告の母に対し、BRAJに加入していることを伝えていなかったにもかかわらず、原告の
母は、軍情報部を通じて、原告がBRAJのメンバーになっていることを知っていた。
原告の母は、原告の身を案じて、絶対に帰国してはいけない旨伝えた。原告は、帰国し
た場合、父のようになると考え、恐怖で一杯になり、難民申請を決意するに至った。原告
は、帰国すれば、軍当局に逮捕され、殺されるか、長期の身柄拘束をされるという現実的
危険性に直面することになった。
エ 原告は、本件難民認定申請後、ミャンマーの知人に電話をしたところ、原告の母の自
宅の門には政府所有と記載された紙が貼ってあり、自宅が没収されているらしいこと、
原告の母の自宅には、頻繁に警察が来ていることが判明した。
- 11 -
オ 原告は、難民申請を行うことを決意してから、BRAJの活動をより熱心に行うことに
した。原告は、自身の身の危険はあるにしても、ロヒンギャ族を虐げ、民主化運動を押さ
え込む現在の軍事政権を許すことができないと考えていたからである。以後、原告は、
BRAJのミーティング、大使館前の集会、法務省や国連前のデモ、その他のデモ行進に全
部参加し、BRAJの会計監査の役員にも就任した。なお、原告がBRAJの会計監査の役員
に就いていることは、外部に公表されており、インターネットにも掲載されていた。
カ 原告は、平成14年11月ころ、在日ビルマ市民労働組合(以下「FWUBC」という。)に
加入した。FWUBCは、日本に居住するビルマ人の労働問題、未払賃金、差別等の問題の
解決をするとともに、アウン・サン・スーチーを支持し、ミャンマー軍事政権に反対す
る団体である。原告は、平成14年度には労使紛争担当、平成15年度には、総書記に就任
している。原告は、書記職として、他団体との折衝、申入れ、「Japanese Association of
Metal, Machinery and Manufacturing workers」(以下「JAM」という。)の事務所での
個別の労働問題での打合せ等をしている。また、FWUBCの役員として、ミャンマー大
使館の門の前で、自分自身がハンドマイクをもって発言したり、歌ったりし、政権の交
代などを訴えている。その際、大使館から写真を撮られた。
キ 原告が行った国会や国会議員への要請活動等に関する写真が雑誌に掲載されたりし
て、広く出回っている。
ク 原告は、ミャンマー政府に把握され、危機にさらされている。原告が入国管理局に収
容されている際、難民認定申請をしながら、ミャンマーに帰国する予定であった同室の
ミャンマー人が、在日ミャンマー大使館に対し、難民申請をしているミャンマー人とし
て原告の名を話した。
ケ 原告は、原告の母に電話をしたところ、原告の母の自宅が政府に接収されていること
などが判明した。
 以上のとおり、原告は、人種、国籍、宗教、政治的意見を理由に拘束されるおそれがあり、
場合によっては拷問を受け、命を落とす可能性があり、迫害を受けるおそれがあるという
十分な理由がある恐怖を有しているというべきである。
 被告法務大臣の主張
 以下のとおり、原告がイスラム教徒でありロヒンギャ族に属するとは到底認め難い。
ア 原告は、イスラム教徒の戒律を守って生きてきた旨供述しながら、本邦においては、
焼肉店で就労し、同店で雑用ばかりを命じられて嫌になったため、別の韓国焼肉店に転
じて、直接自らの手で食肉を扱う調理見習いを務めている。それのみならず、東京入管
に収容されてからも、約2か月を経過した後、突如として、イスラム教の先生に教えて
もらったと称し、食肉に関して配慮を申し出た。
イ 原告は、イスラム暦による自身の生年月日も本を見ないと分からない旨供述する。し
かし、原告がイスラム教徒であるのならば、日常生活ではイスラム暦を使用していない
- 12 -
としても、自らの生年月日すらイスラム暦で答えることができないというのは不自然で
ある。
ウ 戸籍表(乙28)によれば、原告の父の名は「B」、原告の母の名は「C」であり、3人の
姉のほか、「D」という兄がいるとされ、宗教及び民族は、原告を含め家族全員がキリス
ト教及びバマー民族とされている。その内容は、父「B’」、母「C’」との間の3人兄弟の
長男として出生したもので、「F」と「G」の2人の姉がいるという原告の供述内容とは
全く異なる。
したがって、原告がイスラム教徒であり、ロヒンギャ族であるとの主張や、原告の父
の名がB’ であって、平成7年(1995年)に刑務所で拷問を受けて死亡したとの主張自
体が相当疑わしい。
エ ロヒンギャ族とは、ミャンマーのラカイン州に居住するイスラム教徒であるから、イ
スラム教徒であるとは認め難い原告は、ロヒンギャ族であるとも到底認め難い。
オ 原告は、一般に色黒と言われるロヒンギャ族の風貌と、色白である自らの風貌とが異
なることを自認している。
カ ロヒンギャ族は、ラカイン州だけでも140万人存在するともいわれているところ、原
告は、ミャンマー国内のロヒンギャ族の数について、40万人ないし50万人と供述した
り、2万人と供述したりしている。
ロヒンギャ族の実態については未知の点が多いとしても、原告の上記供述には何らの
根拠がなく、誤りというべきである。
このように、ミャンマー国内のロヒンギャ族の数について誤った供述をしていること
に加え、けた違いの全く異なる数を述べていることからすれば、原告はロヒンギャ族の
実態について無知であるのみならず、あたかもそれらを知っているかのごとく装おうと
していることが明らかである。
キ なお、ロヒンギャ族が、ミャンマーのラカイン州北部から国境を接する隣国バングラ
デシュに難民であるとして流出する事件が何度かあった旨報道がされているが、平成4
年(1992年)4月、ミャンマー政府とバングラデシュ政府との間で、二国間協定が調印
されたことなどにより、バングラデシュに流出した者はミャンマーに帰還し始め、現在
までに約9割の者が帰還している。また、帰還民が迫害ないし差別を受けたという事情
はない。過去に大量流出を招いた原因はほぼ解決されている。ロヒンギャ族に属するこ
とのみで迫害を受けると推認することはできない。
 原告は、原告の父が逮捕されたのは、平成5年(1993年)2月15日である旨主張する。
ところが、原告は、難民調査官の調査に際しては、原告の父の逮捕日は平成5年(1993年)
2月10日である旨供述している。
原告によれば、原告の父は、原告の目の前で連行され、その後、原告の父とは面会してい
ないというのであるから、原告の父が連行された日は、原告にとって父の姿を見た最後の
- 13 -
日のはずである。原告の主張が真実であるならば、その日を言い間違えることは不自然で
ある。しかも、原告は、原告の父が連行された日が平成5年(1993年)2月10日で正しい
かという旨の原告代理人の質問に対し、いったんは「はい。」と回答しながら、陳述書との
そごを指摘されてようやく訂正したのである。
このように、原告は、原告の父が連行された日のことは鮮明に記憶にある旨供述するに
もかかわらず、真実であれば、通常言い間違えるとは思われないことについて、難民調査
官の調査に際して言い間違えた旨供述し、本人尋問においても指摘されるまで気付かなか
ったというのであるから、この点に関する原告の供述にも信ぴょう性があるとはいい難
い。
 原告は、平成8年(1996年)12月、学生デモに参加したことにより逮捕されたことがあ
る旨供述する。
しかし、原告は、上記デモにおける逮捕者について、80人から90人くらいと供述したり、
100人くらいと供述している一方で、陳述書においては、200人くらいと陳述している。
また、原告は、上記デモの目的や参加した理由について、当初、アウン・サン・スーチー
の解放や学生連盟を作るためなどと供述していなかったにもかかわらず、その後、デモの
目的には、アウン・サン・スーチーの解放も含まれていた旨供述を変遷させた。さらに、
原告本人尋問においては、学生連盟を作ることもデモの目的にはあったという趣旨に変遷
した。
以上によれば、原告が平成8年(1996年)12月に行われたというデモに参加したとする
供述自体、甚だ疑わしいというべきである。
 原告は、平成8年(1996年)12月、学生デモに参加したことにより逮捕されたことを契
機に、原告が今後も身柄拘束をされる危険性を考えた原告の母の勧めで、日本語を学ぶこ
とを考え、出国した旨主張する。
一方、難民認定申請書添付の陳述書(乙7)では、命の危険すら感じて心配になったため
ミャンマーを命がけで出た旨供述している。
しかし、原告は、難民調査官の調査の段階では、上記供述とは異なり、留学目的で出国し
た旨供述し、身柄拘束の危険などについては言及していない。
また、原告は、平成10年(1998年)9月17日、本人自ら旅券事務所に出頭するなどし
て旅券を取得し、同年10月11日に特に問題なく出国証印を受けて本国を出国しているば
かりか、平成12年(2000年)8月30日に一時帰国するに当たって、あらかじめ在日ミャン
マー大使館に赴き、日本に学生として在留している事実及び一時帰国の目的を明らかにす
る証明書の発行を受けている。その上、本邦入国後も長期間庇護を求めることも難民認定
申請をすることもなかったという経緯に照らしても、原告が本国で身柄拘束の危険に直面
していたとは到底認め難い。そもそも、原告は、5ないし6年勉強して帰国しようと考え
ていたと来日の動機を供述しており、来日して以来、本件難民認定申請に至るまで、庇護
- 14 -
を求めることも、難民認定申請をすることもなかったのであるから、原告がミャンマー政
府からの迫害をおそれて来日したものでないことは明らかである。
したがって、原告の母が身柄拘束の危険から原告に出国を勧めたという上記主張は理由
がない。 
 ア 原告は、ヤンゴンにおいて正規に旅券を取得している。
旅券とは、外国への渡航を希望する自国民に対して当該国政府が発給する文書であ
り、その所持人の国籍及び身分を公証するとともに、渡航先の外国官憲にその所持人に
対する保護と旅行の便宜供与を依頼し、その者の引取りを保証する文書である。したが
って、正規の旅券の発給を受けた原告は、本国政府に自発的に保護を求め、かつこれを
享受したことにほかならないのであって、このように自ら正規旅券の発給を求めるとい
う原告の態度は、それまで反政府活動に従事していたとする原告の供述内容と矛盾して
いる。
イ ミャンマーにおいては厳格な旅券発給等の審査が実施されており、反政府活動に関与
した程度によって旅券発給の許否等が決定されていると考えられる。したがって、正規
旅券の発給等が認められた者は、少なくともその時点において反政府活動に深く関わっ
ているとミャンマー政府が考えていない者であったことが、強く推認される。
ア 原告は、旅券の発給を受け、在ミャンマー日本国大使館で査証を取得し、ヤンゴンに
おいて正規に出国手続を受けてミャンマーを出国しているほか、平成12年(2000年)9
月19日にも、正規に出国手続を受けてミャンマーを出国している。
このように、原告が陸づたいに国外逃亡するという選択肢をとらず、あえて危険な出
国手続を求めているという態度に照らせば、それまで反政府活動に従事していたという
原告の供述が極めて疑わしいことはもちろん、客観的に見ても、ミャンマー政府が原告
に対して正規の出国許可を付与していることに照らせば、少なくとも当該手続の時点に
おいて、原告は、反政府活動に深く関わっているとミャンマー政府が考えていない者で
あったことが、強く推認される。
イ ミャンマーにおいては厳格な出国審査が実施されており、反政府活動に関与した程度
によって出国の許否等が決定されていると考えられる。したがって、正規に出国が認め
られた者は、少なくともその時点において反政府活動に深く関わっているとミャンマー
政府が考えていない者であったことが、強く推認される。
 原告は、来日後、BRAJに接触し、反政府活動に参加するようになったことから、一時帰
国した際にヤンゴン空港で軍当局から身柄を拘束され、タムウェーの警察駐屯地に連れて
行かれ、8日間身柄拘束されて取調べや拷問を受けた旨供述する。
しかし、BRAJなる組織の目的や実態は不明であり、同組織に関わり、反政府活動に参
加したこと自体疑わしいばかりか、これがミャンマー政府の関係者に知れるところとなっ
て、一時帰国した際に空港で軍に拘束された旨の主張に至っては、およそ荒唐無けいとい
- 15 -
うほかない。原告は、平成12年8月30日に実母の看病のため一時帰国し、同年9月20日に
何の支障もなく本国を出国して、予定どおり本邦に再入国しているのである。したがって、
その間に本邦での反政府活動を疑われて軍当局によって拘束を受けたとは到底信じ難い。
また、原告は、ロヒンギャ族であると旅券の発給を受けられないため賄ろを渡して旅券
の発給を受けた旨供述している。しかし、仮に、原告が一時帰国した際、空港で身柄を拘
束され、尋問や拷問を受けたというのであれば、軍当局者にとって、原告が賄ろによって
旅券の発給を受けていたこと自体をもって、原告を逮捕することは容易であったはずであ
る。ところが、原告は一時帰国時に旅券の発給を受けたことを理由に逮捕されてはいない
のであるから、原告の供述は相互に矛盾している。
また、原告は、一時帰国した際、証明書(甲30、31)を持ち歩いていたと思われる。しか
し、原告は、尋問や拷問を受け、8日間身柄を拘束されていたというにもかかわらず、上記
証明書は軍当局者によって発見されず、持ち物については何らとがめられることなく釈放
されたというのは、全く不可解というほかない。
さらに、原告は、本国に一時帰国中、4人から監視されていたとしながらも、問題なく出
国することができたのであり、本邦に再入国後も、直ちに難民認定申請をしないばかりか、
拘束を受け取調べを受けた原因となったというBRAJに、正式メンバーとして加入したと
いうのである。これらは、相矛盾するというほかない。
以上によれば、原告が一時帰国した際、反政府活動を疑われて身柄を拘束されて拷問を
受け、監視された旨の供述は、一時帰国中に逮捕や持ち物の没収もされず、無事に出国す
ることができたという事実及び本邦再入国後の原告の行動に照らして、全く信ぴょう性が
認められないというべきである。
ア 原告は、本国への一時帰国後、本邦に再入国した約2か月後の平成12年11月21日に
BRAJのメンバーとなった際、入会すればミャンマーに帰国することができなくなると
思った旨供述しながら、在留期限が切れる平成14年3月には帰国しようと思っていた旨
供述し、その矛盾を指摘されるや、入会当初は大使館前でのデモ等、目立った活動をし
なければ帰国をしても大丈夫だと思っていたと、場当たり的に供述を変遷させている。
結局のところ、原告の行動からすれば、一時帰国の際に身柄を拘束されたなどの供述も
信用し難い上、BRAJに加入することについても何らの危険を感じていなかったことは
明らかである。
イ 原告は、本国の実母に電話した際、軍情報部が実家を捜索して原告について取調べを
するなどしており、帰国すれば、虐待されて殺されるか、無期懲役になる可能性がある
ので、帰国するなと言われた旨供述する。そして、原告の母及び原告の友人が、原告に帰
国をしないよう呼びかけた手紙(甲26の1及び2、27の1及び2)を提出する。
しかし、原告は一時帰国の際に身柄拘束などの危険を体験した旨主張しながら、帰国
するや、すぐにBRAJに正式メンバーとして加入し、さらに母親から帰国するなと言わ
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れたとする直後に、本格的にデモ行進等の活動に参加するようになったのである。この
ように、原告の供述に従う限り、原告は自らの迫害のおそれを感じる機会ごとに、殊更
に迫害のおそれを強めるような行動をとっていることになり、極めて不可解である。む
しろ、原告が自らの難民該当性を基礎付ける事実として供述する内容は、ことごとく信
ぴょう性を認め難いものであることを総合すると、原告は、留学目的で来日したが、平
成14年3月30日の在留期限が迫り、本邦に在留し続ける策として、原告の母の電話や手
紙等を証拠として難民認定を申請することを思い立ったものと考えるのが、はるかに自
然で合理的である。
また、手紙(甲26の1及び2、27の1及び2)についていえば、別人から差し出され
たという手紙であるにもかかわらず、封筒の表書きを比較すると、極めて類似した特徴
のある筆跡で記載されている。この点を措くとしても、仮に原告の活動を理由に、原告
の実家を軍当局が捜索し、家族に尋問をするような状況にあれば、原告あてにその身の
危険を警告する内容を含むような手紙が、何らのチェックも経ずに発送されることも不
自然といわざるを得ない。
以上からすれば、原告が母から電話で帰国するなと言われた旨の供述や、母や友人か
ら届いたと称する手紙は、到底信用することができない。したがって、平成13年2月に
本国の実母から、軍が自宅に来て原告のことを調べていると電話で聞かされた旨の主張
もこれを信用することはできない。
なお、大使館への抗議行動、民主化組織への所属等、本邦における民主化運動の事実
をもって、直ちに迫害のおそれがあるともいい難いことは明らかである。
 原告は在留資格「就学」で入国し、その後「留学」へ資格変更したが、結局、大学を中退
し、その後、「短期滞在」へ資格変更し、最終的な在留期限である平成14年12月25日を超え
て不法残留したものである。そして、その間、東京都内所在の飲食店等において、月曜から
金曜日の週5日、月額約14万円の収入を得て稼動していたものであり、本国から真に迫害
を受けるおそれがある者の行動と考えられるような迫真性はおよそない。また、原告が本
件難民認定申請をしたのは、原告が最初に日本に入国してから約3年5か月後、再入国を
してからでも約1年6か月経ってからのことであり、原告が、在日ミャンマー大使館前の
デモに初めて参加したというのも、在留期間終了間際の平成14年3月12日であり、本件難
民認定申請のわずか2週間前である。これらにかんがみても、本件難民認定申請は、安定
した在留資格を得、本邦における不法就労を行うことが目的であり、難民として保護を受
けることが目的ではないものというほかない。真に迫害の危険をおそれて予定より早めに
来日したのであれば、日本に再入国した後、速やかに難民認定申請をしているはずであり、
原告のかかる行動は難民としての行動とは相容れないものである。
2 争点2(本件難民不認定処分の適法性②)について

退去強制令書執行停止申立て事件
平成14年(行ク)第8号
申立人:A、相手方:広島入国管理局主任審査官
広島地方裁判所民事第3部(裁判官:能勢顯男・田中一隆・財津陽子)
平成17年3月29日
決定
主 文
1 相手方が平成14年6月14日に申立人に対して発付した退去強制令書に基づく執行は、本案事
件(当庁平成14年(行ウ)第11号難民認定をしない処分等取消請求事件)の判決が確定する日まで、
これを停止する。
2 申立費用は相手方の負担とする。
事実及び理由
第1 申立て
主文第1項と同旨。
第2 事案の概要
申立人は、アフガニスタン国籍を有し本邦に不法入国したところ、①法務大臣により難民の認
定をしない旨の処分、②法務大臣により出入国管理及び難民認定法(以下「入管法」という。)49
条1項に基づく申立人の異議申出には理由がない旨の裁決、③相手方により退去強制令書の発付
処分を受けたが、これらの処分はいずれも違法であるとして、本案訴訟において上記各処分の取
消しを求め、本件執行停止を求めるに至った。
1 前提事実(記録による。)
 申立人は、昭和47年(1972年)《日付略》、アフガニスタン国内で出生したアフガニスタン国
籍を有する外国人である。
 申立人は、平成7年7月から平成12年6月まで、合計9回、いずれも短期滞在の在留資格(在
留期間90日)で日本に入国し、自動車中古部品の買付・輸出等の業務を行った。
 申立人は、山口県《住所略》所在の有限会社a(以下「a」という。)に雇用されることとなり、
平成12年12月1日、広島入国管理局(以下「広島入管」という。)岩国港出張所に、入管法7条
の2に基づく滞在期間を3年とする申立人の在留資格認定証明書の交付申請を行った。
 申立人は、平成13年4月14日、アラブ首長国連邦(以下「UAE」という。)の在ドバイ日本総
領事に対し短期査証発給申請を行った。
 申立人は、同年6月10日、韓国の釜山から航空機で福岡空港に到着し、福岡入国管理局(以
下「福岡入管」という。)の入国審査官に対し、前もって入手していたオランダ国籍のA’ 名義の
偽造旅券を提示し、在留期間90日、短期滞在の在留資格による上陸許可を不法に得て本邦に上
- 2 -
陸した。
申立人は、同年6月下旬ころ、前記在留資格証明書の不交付通知(平成13年6月19日付け)
があったことを知り、必要書類を追加した上、同年8月6日付けで、広島入管に対し、入管法7
条の2に基づく滞在期間を3年とする申立人の在留資格認定証明書の交付申請を行った。
 申立人は、同年9月6日、福岡入管を訪れて難民認定申請の意向を告げ、その際、自己の名を
A”、入国時期を同年8月22日、入国経路を船舶で横浜港と思われる港に到着したと、それぞれ
虚偽の事実を申告した。申立人は、同月12日、福岡入管に対してA” 名義で難民認定申請を行
い、同人に対するタリバン発付の拘束令状の写しを提出した。
 申立人は、同年11月7日、大阪入国管理局(以下「大阪入管」という。)に対し、本名であるA
での難民認定申請を行い、同年12月12日、福岡入管に対する難民認定申請を取り下げた。
 法務大臣は、平成14年2月27日、申立人の大阪入管に対する難民認定申請につき、難民認定
をしない処分(以下「本件不認定処分」という。)をし、同年3月6日、申立人にその旨通知した。
申立人は、同月8日、本件不認定処分に対する異議を申し出た。
 法務大臣は、同年6月13日、申立人の上記異議に理由がない旨の裁決をし、同月18日、申立
人にその旨通知した。
 広島入国管理局(以下「広島入管」という。)入国審査官は、同年5月17日、申立人の違反審
査を実施し、入管法24条1号に該当すると認定して、申立人にその旨通知した。
申立人からの口頭審理請求を受け、広島入管特別審理官は、同月23日、口頭審理を実施し、
上記認定に誤りがないとの判定をし、申立人にその旨通知した。
 申立人は、同日、上記判定について、法務大臣に対し異議の申出をした。
これを受けた法務大臣は、同年6月14日、申立人の異議申出には理由がない旨の裁決(以下
「本件裁決」という。)をし、相手方に通知し、同日、相手方は、申立人に対し、本件裁決のあっ
たことを通知した。
 相手方は、同日、申立人に対する退去強制令書(以下「本件退令」という。)を発付し、申立人
を収容した。
 申立人は、同年10月29日、仮放免の許可を受けた。
 一方、申立人は、同年2月28日、入管法違反容疑で逮捕勾留され、同年3月20日、同法違反
により広島地方裁判所に起訴され、第一審で刑の免除判決を受けたが、控訴審で罰金刑の判決
を受け、この判決は確定した。
2 当事者の主張
申立人の申立ての理由は、別紙「執行停止申立書」記載のとおりであり、相手方の意見は、別紙
「意見書」記載のとおりである。
第3 当裁判所の判断
1 回復困難な損害について
申立人は、本件退令に基づく収容及び送還により身体的拘束及び本国への強制的送還を受ける
- 3 -
ことを余儀なくされるところ、強制送還が回復困難な損害に当たることは明らかであり、収容に
よる身体的拘束が人権に対する重大な侵害であり、申立人に多大な精神的肉体的苦痛をもたらす
ものであることを考慮すると、この収容による損害もまた金銭によって償うことは社会通念上容
易ではないというべきであり、この点は相手方がどのように収容施設の充実を図ったとしても変
わるものではないから、上記収容もまた回復困難な損害に当たるというべきである。とすると、
本件退令に基づく収容及び送還の執行停止申立てについては、行政事件訴訟法(以下「行訴法」と
いう。)25条2項にいう「回復の困難な損害を避けるため緊急の必要性」があるといえる。なお、
平成17年4月1日施行の改正行訴法によって上記要件は緩和され、かつ、同規定は遡及的に適用
される。
2 本案について理由がないとみえるかどうかについて
 記録によれば、次の事実が認められる。
(アフガニスタンの国内情勢の概要)
ア アフガニスタンは、パシュトゥン人(ペルシャ系。人口の約38パーセントを占める。イス
ラム教の宗派はスンニ派。)、タジク人(ペルシャ系。人口の約25パーセントを占める。大半
がスンニ派)、ハザラ人(モンゴル系。人口の約19パーセントを占める。シーア派。)、ウズベ
ク人(モンゴル系とトルコ系の混血民族。人口の約6パーセントを占める。スンニ派。)を始
めとする諸民族が混在する多民族国家である。国民の98パーセントがイスラム教徒で、ハザ
ラ人を中心とする15パーセントがシーア派、84パーセントがスンニ派であるとされる。
イ アフガニスタンは、1919年に英国から王国として独立し、1973年に共和制に移行し、昭和
53年(1978年)には共産主義のアフガニスタン人民民主党(PDPA)政権が誕生した。
昭和54年(1979年)12月、旧ソ連軍の軍事介入のもと親ソ派のカルマルにより社会主義政
権が誕生し、昭和61年(1986年)5月にはナジブラが書記長に就任して政権を引き継いだが、
イスラム教徒民兵組織であるムジャヒディン各派が、それぞれ周辺各国から支援を受けてゲ
リラ戦を展開し、平成元年(1989年)2月、ソ連軍はジュネーブ合意に基づきアフガニスタ
ンから完全撤退し、平成4年(1992年)4月、ムジャヒディン各派の軍事攻勢によりナジブ
ラ政権が崩壊した。平成5年(1993年)1月、イスラム協会の指導者ラバニが大統領に就任
したが、各派間の主導権争いが激化し、全土が内戦状態に巻き込まれることになった。
ムジャヒディンの主な勢力として、タジク人中心のイスラム協会(ジャミアテイ・イスラ
ミ。ラバニ派)、パシュトゥン人中心のイスラム党(ヘズベ・イスラミ。ヘクマチャル派)、ア
フガニスタン解放イスラム同盟(イッティハディ・イスラミ。サヤフ派)、ハザラ人中心のイ
スラム統一党(ヘズベ・ワフダット。マザリ派とアクバリ派がある。)、ウズベク人中心のイ
スラム国民運動(ドストム派)があった。
ウ イスラム教スンニ派のパシュトゥン人を中心とするイスラム教原理主義組織タリバン(指
導者オマル)は、平成6年(1994年)ころから台頭し、平成8年(1996年)9月末、ラバニ派
を中心とする政権が支配していた首都カブールを制圧し、暫定政権の樹立を宣言した。
- 4 -
これに対し、ラバニ派、ドストム派等の各ムジャヒディン勢力は、北部マザリシャリフを
中心に反タリバン同盟である全国アフガニスタン救済イスラム統一戦線(通称北部同盟)を
結成し抵抗を続け、イスラム統一党も、この北部同盟に加入した。タリバンは、政権樹立の宣
言以来、国際社会に対し、アフガニスタンの正統な政権としての承認を求めていたものの、
タリバン政権を承認したのは、パキスタン、サウジアラビア、UAEの3国のみであった。
エ 平成13年(2001年)9月11日、米国でいわゆる同時多発テロが発生した。米国は、タリバ
ン政権がその首謀者であるオサマ・ビンラディンを匿っているとして、これを強く非難し、
その引渡しを求めた。これを機に、UAEは、同月22日、タリバン政権との外交関係を断絶し
た。
米国及び英国は、同年10月7日、タリバンへの軍事攻撃を開始し、北部同盟も米国らの支
援を受けてタリバンの支配地域へ進攻し、同年11月13日、タリバン政権は首都カブールを放
棄して事実上崩壊した。
同じころ、ドイツのボンにおいて、アフガニスタン各派代表者会議が開催された。これに
参加した各派は、同年12月5日、カルザイを議長とするアフガニスタン暫定行政機構(以下
「暫定機構」という。)を発足させること、緊急国民大会議(ロヤジルガ)による移行政権の誕
生まで暫定機構が国政を担当すること、暫定政権における30名の閣僚の内訳等について、合
意した(ボン合意)。
暫定機構は、同年12月22日、正式発足した。暫定政権の閣僚の内訳は、パシュトゥーン人
11名、タジク人8名(内相カヌニ、外相アブドラ、国防相ファヒム等、なおファヒムはラバニ
派の軍人マスードの配下にあった者である。)、ハザラ人2名(副議長兼女性問題担当相にシ
マサマル、計画相にイスラム統一党員であるムハマンド・モハケック)、シーア派セイド(預
言者ムハンマドの子孫とされるアラブ系民族。)3名(商業相カゼミ、農相アンワリ等)、ウズ
ベク人3名、その他の民族3名であった。国際社会は暫定機構をアフガニスタン政府として
承認し、日本政府もこれに続いた。平成14年(2002年)2月19日、カブールの在アフガニス
タン日本大使館が再開され、同年5月1日には川口外務大臣がアフガニスタンを訪問した。
オ 同年6月、カブールで緊急国民大会議(ロヤジルガ)が開催された。これを構成する代議員
は1656名で、そのうち、ハザラ人は12.5パーセントを占めた。これにより、カルザイを大統
領とするアフガニスタン移行政権が発足した。
同政権の閣僚は、計31名であり、うちハザラ人は、副大統領のカリム・ハリリ(95年にマ
ザリが死亡した後にイスラム統一党党首に就任した。)、計画相モハマド・モハケックの2名
であった。その他の閣僚は、パシュトゥーン人13名、タジク人9名(副大統領兼国防相ファ
ヒム、外相アブドラ等)、シーア派セイド3名(商業相カゼミ、農相アンワリ、運輸相ジャベ
ド)、ウズベク人3名、トルクメン人1名であった。その後、ハザラ人のハビバ・サラビが女
性問題担当相に就任し、ハザラ人閣僚は3名となった。
カ 本件不認定処分及び本件裁決当時(平成14年2月27日から同年6月14日)のアフガン国内
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の政治、治安、人権の状況
ア 政治情勢
暫定機構及び移行政権は、貿易関連税、ビザ発行手数料等の徴税能力を保持し、カブー
ル及びアフガン北東部については、軍事的にも政治的にも制圧、統治しているものの、そ
の余の地域については、これを統治するまでにはなく、同地域のほとんどは軍閥の支配下
にある。司法制度や国家警察の整備も行われておらず、公務員への給与の支払も困難な状
態にある。
暫定機構及び移行政権においては、パンジールグループと呼ばれるタジク人少数派が外
務(アブドラ)、国防(ファヒム)等の重要ポストを独占し、軍、警察、諜報部の実質的な支
配権を握っており、これに対して他の民族が不満を抱いていることから、民族同士の権力
闘争が再燃することを懸念する意見や報道もなされている。
その一方で、アフガニスタン南東部には、タリバン勢力及びアルカイダに所属する部隊
が残存し、政権奪取を狙って、テロを行ったり、政権の軍隊や米軍を中心とする治安部隊
との間に戦闘を行ったりしていると報道されている。
イ 治安
2003年のアムネスティ・インターナショナルの報告によれば、アフガニスタンにおい
ては、警察が十分に機能していない。カブールの治安は、国連治安支援部隊(ISAF)と米軍
により保たれているが、一部地域では犯罪や政治的意図に基づくと思われる暴力が発生し
ている。地方の治安は不十分であり、全土にわたって民族同士の対立や衝突が報告されて
いる。また、軍閥同士の戦闘も起こっている。地方の治安は、その土地を支配する軍閥によ
って保たれているが不安定であり、各地で強盗や暴行、勢力同士の衝突が絶えないとの報
告がある。
外務省は、本件各処分時におけるアフガニスタンの危険情報について、カブール市内は
危険度4「渡航延期勧告」を、その他の地域については警察等による治安推持能力が極め
て低く、各地で異なるグループ間の武力衝突や地方自治を巡る混乱も発生しており、不安
定な状況が続いているとして、危険度の最高レベルである危険度5「退避勧告」を発出し
ている。
ウ 人権
地方においては、武装集団による攻撃からの政府等の公的な保護を受けることは困難で
あり、ある者が攻撃のリスクにさらされるかどうかは地理的出身地、政治的な所属及び民
族的背景の3要素によって決まる。例えば、北部地域のパシュトゥン人は最も攻撃されや
すく、タリバン政権が崩壊した平成13年(2001年)11月以降、他の民族(パンジール地方
のタジク人が中心であるが、ハザラ人、ウズベク人もタリバン支配に対する反動から攻撃
に加わっている。)による攻撃を受け、難民も発生している。他方、ヘラートのダリ語を話
す(パシュトゥン人)グループは最も攻撃されにくいグループであるとの報告がある。
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カブールにおけるハザラ人については、民族的迫害はなく自由な移動が可能であり、ハ
ザラ人(申立人によるとシーア派セイドのアンワリ)が大臣を務める農業省には多くのハ
ザラ人が雇用されているとの報告がある。
(アフガニスタンにおけるハザラ人の状況)
ア ハザラ人は、ハザラジャットと呼ばれるアフガニスタンの中央部に古くから居住し、自治
を確立していたが、1893年、パシュトゥン人の王であるアブドゥル・レーマンによって制圧
された後は、民族的及び宗教的理由から差別や迫害を受け、奴隷として扱われるなど社会的・
経済的に低い地位に置かれることとなった。1979年、社会主義政権の誕生によって、ハザラ
人は他の民族と平等に扱われるようになり、政府閣僚を輩出するなど一定の社会進出を果た
したが、進学率や公務員への就職等では他の民族に比べて劣位に置かれていた。また、この
ころ、多くのハザラ人がカブールに移住し、特に西カブールはハザラ人の居住地域として国
内最大のものとなった。
イ イスラム統一党は、平成元年(1989年)、ハザラ人の権利獲得を目的としてマザリを中心
として結成された政治組織であり、ハザラ人の政治的・社会的活動の中心的組織であったと
ころ、ナジブラ政権崩壊後にムジャヒディン各派によって樹立された暫定政権からは除かれ
た。同党は、1992年にアフガニスタン全土が内戦状態に陥った後は、カブール市内において
「西カブールの抵抗」と呼ばれる暫定政権に対する抵抗運動を1995年5月まで継続し、27回
もの戦闘を行った。そのような中、1993年2月11日、西カブールのアフシャール地区におい
て、一般市民を含む数百人のハザラ人がラバニ派のマスード将軍に率いられたタジク人及び
パシュトゥン人勢力によって殺害されるという事件が起きた。
ウ 1995年3月6日、カブール市内において、マスード率いるタジク人勢力とイスラム統一党
との間に戦闘が始まった。この時、イスラム統一党指導者のマザリは、タリバンとの間で、イ
スラム統一党の部隊の重火器を提供する代わり、タリバン部隊がカブール市街に進出してマ
スードと対峠することを合意した。そこで、タリバンは、軽武装の部隊をカブールに投入し
た。ところが、イスラム統一党の部隊が上記合意に反してタリバンへの重火器の引渡しを拒
否しタリバンの部隊と戦闘を始め、さらにマスードの部隊がタリバンの部隊に一斉攻撃をし
たため、タリバンは、市街から撤退を余儀なくされ、数百名の戦死者を出すという痛手を被
った。そして、この撤退の際、タリバンは、マザリらイスラム統一党員7名を逮捕して殺害し
た。
エ イスラム統一党は、1995年5月にカブールから撤退し、その後は、イランの支援を受けつ
つ、バーミヤンを拠点としで各地で他民族の勢力と戦闘を行い、1996年にタリバン政権が樹
立された後は、北部同盟に加わった。
オ タリバンはパシュトゥン人を中心とするイスラム教スンニ派の原理主義組織であり、民
族・宗教的理由からハザラ人を敵視し、平成10年(1998年)8月8日に北部のマザリシャリ
フを占領した際には、一般市民を含むハザラ人の大量殺害を行い、その数は数千人に上ると
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の報告がなされた。また、同年9月15日にイスラム統一党の本拠地であるバーミヤンを陥落
させた際にも、多くのハザラ系市民を殺害した旨の報告がなされている。平成13年(2001年)
1月、バーミヤン地方のヤコウランにおいて、100人以上のハザラ住民がタリバン部隊によ
り殺害されたとの報告もある。
(難民認定申請に至るまでの申立人の行動及び履歴)
ア 申立人は、平成3年(1991年)にb大学経済学部を卒業し、同大学在学中、cに通学し、英
語を習得した。申立人は、平成4年(1992年)ころから、西カブール地区において、父が経営
する自動車部品の仕入れ販売店の手伝いをしながら、イスラム統一党への支援活動(資金、
食糧、医薬品の収集等)をし、平成5年(1993年)に同党に入党し、入党後、党の文化委員会
に所属し、党の方針を伝える活動、スローガンを書いて掲げる活動、さらにはイスラム統一
党の要人がマスコミからのインタビューに応じる際の英語通訳等に従事するようになった。
イ 申立人は、平成5年(1993年)、UAEのd社に中古部品の営業員として採用され、その買
付等の業務に従事し、平成6年(1994年)、同社がパキスタンのペシャワールに支店を置い
たことから、カブール、マザリシャリフ、ペシャワールを往来する生活を続け、一方で、主に
カブールにおいて前記のような党の活動も続けた。そして、同年にはイスラム統一党の指導
者を巡り、マザリとアクバリ(ハザラ人のうちラバニ政権に親和的な勢力アクバリ派の代表)
とが争い、軍事抗争にまで発展したが、申立人は、マザリ支持者としてこの戦闘行為に参加
した。アクバリは、この抗争に敗北し、その後、表立ってラバニ政府との協力関係を表明する
ようになった。また、申立人は、カブールでのラバニ派の部隊との戦闘にも兵士として参戦
することもあった。
ウ 前記のとおり、マスードの部隊(タジク人)は、平成7年(1995年)3月、西カブールに入
ったタリバンを攻撃し、このマスードの部隊には前記アクバリ派に属し西カブールから追
われたハザラ人も加わっていた。結局、タリバンは西カブールから排除され、マスードの部
隊がこれを制圧したが、当時カブールにいた申立人は、自己がイスラム統一党の活動家であ
り、前記のような戦闘行為に参加した経歴もあることから、マスードの部隊を構成するタジ
ク人やアクバリ派の者に逮捕され、殺されるのではないかと恐れ、同じような立場にある者
2名と共にカブールを脱出し、ペシャワールに逃亡した。このようなことから、申立人は、ア
フガニスタンで生活することはもちろん、帰国することさえ身体的危険を伴うものと考え、
極力帰国を避けるようになり、両親に会うためにアフガニスタンに入国したのは、平成11年
(1999年)及び平成12年(2000年)の2回であった。
エ 申立人は、ペシャワールに逃亡した後も、d社の営業員として働き、平成9年(1997年)
には、同社が開設したe社(その後、e’ 社と改称)に採用され、従前と同様の営業に従事し
た。これらの営業のため、申立人は、平成7年7月22日に本邦へ適法に入国してから平成12
年(2000年)まで、計9回にわたり本邦に適法に入国し、自動車中古部品の買付や輸入等の
業務を行うとともに、シンガポールや韓国にも渡航して同様の業務を行った。また、平成11
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年(1999年)ころからは、山口県《地名略》所在のaと取引をするようになった。
その間の平成8年(1996年)、申立人は婚姻し、二児をもうけた。また、申立人は、平成9年、
e社の業務に従事するため、UAEのシャージャに居住するようになり、家を空けることも多
かったことから、妻子をアフガニスタン北部のマザリシャリフに行かせ、同所で申立人の両
親と同居生活をさせた。
オ 申立人は、平成10年(1998年)ころからは、イスラム統一党の活動をしなくなった。
カ 前記の平成10年(1998年)8月のマザリシャリフの大量殺害の際、申立人の弟Bは死亡し、
申立人の父は負傷した。申立人の両親と妻子は、マザリシャリフから《地名略》に逃れた。
キ 申立人は、平成12年(2000年)、e社の業務として、f社を設立し、山口県《地名略》所在
の工場を同社名義で借り受けるなどして本邦での営業活動を行っていた。また、そのころ、
申立人は、aの専務取締役であるCから、同社で働くよう誘いを受け、Cを介して、同年12
月1日、広島入管岩国出張所に対し、入管法7条の2に基づく申立人の在留資格認定証明書
の交付申請(発行されると最長3年間の滞在が認められる。)を行ったが、この申請に対する
判断がなかなか出なかった(平成13年6月19日に不交付通知がなされた。)。
ク 申立人は、平成13年(2001年)4月7日ころ、両親に会う目的でアフガニスタンに帰国し、
カブールに入ったところ、母方の叔父の妻で、数日前に《地名略》から帰ってきたばかりのD
から、「タリバンが統一党員である申立人の知り合いを拷問し、申立人がイスラム統一党で活
動していたことを知り、申立人を逮捕するため、申立人の両親宅にやって来たが、申立人が
いなかったため、代わりに申立人の父を逮捕した。」旨を聞いた。そして、Dから、危険であ
るから《地名略》には行かないよう言われたため、申立人は、ペシャワールに戻った。
しかし、申立人は、タリバン政権に友好的な関係にあるパキスタンやUAEも危険であると
考え、同月14日、在ドバイ(UAE)の日本総領事に対し査証発給申請をしたものの、短期間で
これに対する判断を受けられそうになかったことから、単独で日本に不法入国することを決
意し、偽造旅券(A’ 名義のもの)を用いて、同年6月10日、福岡空港から本邦に入国した。
ケ 申立人は、本邦入国後、前記《地名略》工場に居住し、aの関係者には短期ビザで入国した
と偽り、従前どおり、e’ 社(旧e社)のために自動車部品の買付や輸出等を行っていた。
申立人は、入管法62条の2第2項のいわゆる60日ルールについては、本邦へ不法入国する
前から知っていたが、不法入国者であり、迫害を受けるおそれを立証する明らかな物証を所
持していないことや過去に来日歴があることから、自分の供述を信用してもらえずアフガニ
スタンに強制送還されるのではないかとの不安を抱いていたこと、日本に入国したことによ
り自己の生命が危険にさらされるのを一応避けられたという安心感、また、現在申請中であ
る在留資格認定証明書が交付されれば、正式な在留資格が与えられ、不法滞在が合法化され
るものと思いこんでいたこと、難民認定申請をすると、前記在留資格認定証明書の申請と二
重申請になり、在留資格認定証明書の発行を受けられなくなると考えたことから、入国後直
ちに難民認定申請をしなかった。
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申立人は、同年6月下旬、前記在留資格証明書不交付通知がなされたことを知ったが、不
交付の理由が申立人のUAEにおける住所が不安定であるためであると聞き、同年8月6日、
再度、Cを通じて広島入管に在留資格認定証明書の交付申請を行った。
申立人は、上記証明書が発行されないため、8月27日、難民の支援活動をしているカトリ
ック教会に電話をして難民認定の相談をし、同年9月12日、福岡入管に対して難民認定申請
を行った。申立人は、密航ブローカーから、「日本に入国したことのある者が難民認定を受け
るためには自分の名前でなく他人の名前を使わなくてはいけない。認定されるためにはタリ
バンから迫害を受けるおそれがあるという証拠が必要である。海路で入国したと述べる方が
よい。」とのアドバイスを受け、A”(イスラム統一党の軍事司令官でタリバンにより逮捕勾
留されたことがある者)に対する拘束令状の写しを購入し、A” と偽って上記申請をし、同写
しを提出し、入国経緯については、船で横浜港から入国したと偽った。また、60日ルールに
よって申請が不適法となることをおそれ、入国日を同年8月22日と偽った。
しかし、申立人は、福岡入管での事情聴取を受けるうち、密航ブローカーのアドバイスで
した難民認定申請では難民として認められないと判断し、同年9月22日、大阪で難民支援活
動を行っているEに相談し、同年11月7日、大阪入管に対し、本名で難民認定申請を行った
が、その際にも、ペシャワールから韓国を経由して同年8月22日に横浜港に上陸したとして、
入国日及び入国経路を偽った。
 申立人が難民に該当するといえるか
入管法2条3号の2は、同法にいう「難民」とは、難民の地位に関する条約1条(以下「難民
条約」という。)又は難民の地位に関する議定書(以下「難民議定書」という。)1条の各規定に
より難民条約の適用を受ける難民をいうと定めている。したがって、同難民とは、同条約1条
Aに定めるところの、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は
政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、
国籍国の外にいるものであって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのよう
な恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」をいう。そして、これ
にいう「迫害」とは、「通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃又は圧迫」をいうもの
と解され、迫害は、通常の場合は国家機関によって直接行われるものであるが、国家機関によ
らない迫害行為を政府当局が知っていながら放任するような場合も上記規定にいう迫害に当
たると解される。また、「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」と
は、申請人の主観的な事情のほかに、通常人が申請人の立場に置かれた場合にも迫害を受ける
おそれがあるという恐怖を抱くような客観的な事情が存在していることが必要であり、その事
情は、一般的な事情ではなく、申請人に関する個別具体的な事情であることを要すると解する
のが相当である。
そこで、上記の点を本件についてみると、前記認定の事実、すなわち、ハザラ人は、その民族
的宗教的特性や抗争の経緯等から、タリバン政権によって敵視され、迫害を受けていたこと、
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申立人は、シーア派に属するハザラ人であると同時にタリバン政権の敵対勢力であったイスラ
ム統一党の党員としての活動歴を有する者であったこと、タリバン政府は、申立人がイスラム
統一党の党員であることをつきとめ、申立人を逮捕しようとしていたこと等の事情にかんがみ
ると、その余の事情を勘案するまでもなく、申立人は、本邦に不法入国した平成13年6月10日
当時、タリバン政権から迫害を受けるおそれがあるという十分に理由がある恐怖を有し、難民
に当たる者であったといえる。これを否定する相手方の主張は採用できない。
もっとも、タリバン政権は、米国や英国の軍事攻撃を受け、平成13年(2003年)11月13日、
首都カブールから撤退し、カブール及び北部同盟が支配していたアフガニスタン北部地域等に
対する軍事的政治的支配を喪失し、本件不認定処分及び本件裁決の各時点のころには、地方の
反政府的な武装組織にとどまる存在となったのであり、この点からすれば、同各時点のころに
ついても、申立人が平成13年6月10日当時難民に当たるとした前示の事情を根拠として、申立
人が難民に当たるということはできない。
しかし、暫定機構は、本件不認定処分時の約2か月前である平成13年12月22日にようやく
発足したばかりであり、移行政権が発足したのは本件裁決時とほぼ同時期であり、本件不認定
処分及び本件裁決の各時点ころの暫定機構や移行政権は、米国及び英国の軍事力に支えられて
カブールとアフガニスタン北部を一応制圧しているにとどまり、全土を統治するには至らず、
カブール市内の治安ですらISAF など外国の軍事力に依存せざるを得ない状態であったこと、
その余の地方は、地方的軍閥組織が徴税し治安を担うなどしてこれを支配していたこと、タリ
バンの残存勢力も武装を解除されたわけではなく未だアフガニスタン各地で抵抗を続け、政権
奪回を狙ってテロ等の暴力的活動をしていたこと等の点にかんがみれば、本件不認定処分及び
本件裁決の各時点ころにおいて、申立人が、タリバンの残存勢力によって生命を奪われ、ある
いは、身体を損傷されるおそれがあるという恐怖を抱く客観的な事情があったというべきであ
る。
加えて、暫定機構や移行政権は、前記認定のとおり長年にわたり対立抗争を続けてきた民族、
宗派及び政治組織の連合であり、本件不認定処分及び本件裁決の各時点ころにおいては未だ安
定的な政権といえず、政権内部の対立抗争から軍事闘争に発展することを危倶するのはむしろ
当然といえること、申立人は、平成5年(1993年)にイスラム統一党に入党し、前記認定のよ
うな英語通訳等の活動をし、平成6年(1994年)のマザリとアクバリとの軍事抗争の際にはマ
ザリ支持者としてこの戦闘行為に参加したこと、その後アクバリ派はラバニ派と協調し、移行
政権で商業相に就いたカゼミはアクバリ派の構成員であったこと、平成3年(1991年)から平
成7年(1995年)にかけて西カブールをほぼ制圧していたイスラム統一党とラバニ政権とは軍
事抗争を繰り返し、このころ申立人は、イスラム統一党の活動に積極的に参加し、時には軍事
闘争にも参加したこと、ラバニ派はその後北部同盟の主たる構成員となり、その後継者と目さ
れるファヒムは暫定機構で国防相に、移行政権で副大統領兼国防相に就いたこと、申立人は、
平成7年(1995年)3月、ラバニ政権のマスードの部隊によって西カブールが攻撃され、西カ
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ブールからタリバン及びイスラム統一党が排除された時、生命身体の危険を覚え、ペシャワー
ルに逃亡し、それ以降、アフガニスタンで恒常的に生活することを止め、ペシャワールやUAE
のシャージャに居住し、アフガニスタンへの帰国をも避けるようになったこと等の点にかんが
みれば、申立人が暫定機構や移行政権の中枢にいるアクバリ派やラバニ派の系統に属する者か
ら生命又は身体への侵害を受けるおそれを抱くのは無理からぬことであり、それは通常人が申
立人と同じ立場に立ったとしても同様といえるから、この点からも、申立人については前記の
「迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱くような客観的な事情」があったといえる。
したがって、申立人は、本件不認定処分及び本件裁決の各時点ころにおいても、難民に該当
するといえる。
 本件難民認定の申請が入管法61条の2第2項の期間を徒過した不適法なものといえるかに
ついて
申立人は、難民認定申請を本邦上陸日等から60日以内に行わなければならないと定める上記
条項(いわゆる60日ルール)は、難民条約に違反し違法無効である旨主張する。しかし、難民条
約は、難民認定手続については各国の裁量に委ねているところ、申請期間の制限を設けた趣旨
は、難民認定の資料とする証拠の散逸等を防止することにあると解され、一定の合理性がある
といえるから、同規定が難民条約等に違反して無効であるということはできない。
しかし、難民の保護を目的とした難民条約の趣旨にかんがみれば、同項ただし書にいう「や
むを得ない事情があるとき」の判断にあたっては、申請に際しての物理的障害のほか、本邦に
おいて難民申請をするか否かという意思決定が困難といえる事情、特に、難民特有の心理状態
や言語能力等の申請人個人の事情をも斟酌するのが相当と解すべきである(なお、上記60日ル
ールについては、その存在意義への疑問や難民条約等の理念との乖離についての指摘もあり、
平成16年法律第73号によって改正削除された。)。
これを本件についてみるに、前記認定のとおり、申立人は、難民認定申請をすることにより
不法入国者としてアフガニスタンに強制送還されることをおそれていたこと、申請中であった
在留資格認定証明書の発行によって滞在が合法化されることもあり得ると考え、これに希望を
つなぎ、難民申請が在留資格認定証明書の申請と重複することを避けようとしたため、上陸後
直ちに難民申請をせずにいたこと、ところが、在留資格証明書がなかなか発行されず難民申請
期間を徒過してしまったこと、申請期間経過後の平成13年9月12日、福岡入管に難民認定申請
を行ったが、密航ブローカーのアドバイスに従って、偽名を用いたものの、これで難民と認め
られることはないと悟り、同月22日、大阪で難民支援活動を行っているEに相談し、同年11月
7日、大阪入管に本名で難民認定申請を行ったこと等の事実が認められ、これらの事実からす
れば、不法入国した難民としての心情や法的知識に乏しく規範意識も低かったことから、適切
な意思決定ができなかったことが申請期間徒過の原因であったといえる上、徒過の期間が約90
日にとどまること(証拠の散逸防止という点に限っていえば、この程度の日数の経過による弊
害はほぼ皆無である。)をも考慮すると、申立人については前記の「やむを得ない事情がある」
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場合に当たるとするのが相当である。
したがって、申立人の上記難民認定申請は適法であり、期間の徒過を理由とする不認定処分
は許されない。
 本件裁決が法務大臣の裁量権濫用行為として不適法なものといえるかについて
特別在留許可は、退去強制事由に該当する者に対し、特に在留を認めるものであるから、そ
の判断は、法務大臣の裁量に委ねられているところ、その判断が違法であるか否かは、判断の
基礎とされた重要な事実に誤認があること等により上記判断が全く事実の基礎を欠くか、又は
事実に対する評価が明白に合理性を欠くこと等により上記判断が社会通念に照らし著しく妥当
性を欠くことが明らかである場合には上記判断が裁量権の範囲を越え又はその濫用があったも
のとして違法であるとすることができると解される(最高裁大法廷昭和53年10月4日判決参
照)。
前示のとおり、本件裁決時においては申立人を難民と認定するに足りる事情が存在したので
あり、法務大臣は、同事情が認められないとして、本件裁決をしたものと推認されるから、この
点で判断の基礎となった事実について誤認があったといえる。そうすると、その判断は、社会
通念に照らし著しく妥当性を欠くといえるから、本件裁決は、裁量権の範囲を超えるものとし
て、違法である。
 本件退令発付処分が不適法なものといえるかについて
本件裁決が不適法であることは前記のとおりである。入管法49条5項は、「主任審査官は、法
務大臣から異議の申出が理由がないと裁決した旨の通知を受けたときは、……第51条の規定に
よる退去強制令書を発付しなければならない。」と定めていることからすると、主任審査官が当
該退令発付処分についての裁量権を有するものではなく、法務大臣の裁決が違法である場合に
は、これに基づく退令発付処分もまた違法というべきである。そうすると、本件退令発付処分
は違法である。
 以上によれば、本件執行停止については、本案の理由があると認められる。
3 公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるといえるか
相手方は、本件執行停止の申立てを認容することは、在留資格制度の混乱を招く等の点から公
共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるなどと主張するが、同主張は、一般的な影響をいう
ものであり、具体性がなく、採用できない。
4 結論
よって、申立人の申立ては、理由があるから、これを認容することとし、主文のとおり決定する。

難民認定をしない処分等取消請求事件
平成14年(行ウ)第11号
原告:A、被告:法務大臣・広島入国管理局主任審査官
広島地方裁判所民事第3部(裁判官:能勢顕男・田中一隆・財津陽子)
平成17年3月29日
判決
主 文
1 被告法務大臣が平成14年2月27日に原告に対してした難民の認定をしない旨の処分を取り消
す。
2 被告法務大臣が平成14年6月14日に原告に対してした原告の出入国管理及び難民認定法49条
1項に基づく異議の申出は理由がない旨の裁決を取り消す。
3 被告主任審査官が平成14年6月14日に原告に対してした退去強制令書発付処分を取り消す。
4 訴訟費用は被告らの連帯負担とする。
事実及び理由
第1 請求
主文第1ないし3項と同じ。
第2 事案の概要
原告は、アフガニスタン国籍を有する外国人であり、本邦に不法入国したところ、①被告法務
大臣により出入国管理及び難民認定法(以下「入管法」という。)61条の2第1項に基づく難民の
認定をしない旨の処分、②被告法務大臣により入管法49条1項に基づく原告の異議申出には理由
がない旨の裁決、③被告主任審査官により退去強制令書の発付処分を受けたが、これらの処分は
いずれも違法であるとして、それぞれの取消しを求めた事案である。
1 争いのない事実(末尾に証拠の記載のないもの)及び証拠によって容易に認められる事実
 原告は、昭和47年(1972年)《日付略》、アフガニスタン国内で出生したアフガニスタン国籍
を有する外国人である。
 原告は、平成7年7月から平成12年6月まで、合計9回、いずれも短期滞在の在留資格(在
留期間90日)で日本に入国し、自動車中古部品の買付・輸出等の業務を行った。(乙2)
 原告は、山口県《地名略》所在の有限会社a(以下「a」という。)に雇用されることとなり、
平成12年12月1日、広島入国管理局(以下「広島入管」という。)岩国港出張所に、入管法7条
の2に基づく滞在期間を3年とする原告の在留資格認定証明書の交付申請を行った。(乙3)
 原告は、平成13年4月14日、アラブ首長国連邦(以下「UAE」という。)の在ドバイ日本総領
事に対し短期査証発給申請を行った(乙4)。
 原告は、同年6月10日、韓国の釜山から航空機で福岡空港に到着し、福岡入国管理局(以下
- 2 -
「福岡入管」という。)の入国審査官に対し、前もって入手していたオランダ国籍のA’ 名義の偽
造旅券を提示し、在留期間90日、短期滞在の在留資格による上陸許可を不法に得て本邦に上陸
した。(乙5、41)
原告は、同年6月下旬ころ、前記在留資格証明書の不交付通知(平成13年6月19日付け)が
あったことを知り、必要書類を追加した上、同年8月6日付けで、広島入管に対し、入管法7条
の2に基づく滞在期間を3年とする原告の在留資格認定証明書の交付申請を行った。(乙6)
 原告は、同年9月6日、福岡入管を訪れて難民認定申請の意向を告げ、その際、自己の名を
A”、入国時期を同年8月22日、入国径路を船舶で横浜港と思われる港に到着したと、それぞれ
虚偽の事実を申告した。
原告は、同月12日、福岡入管に対してA” 名義で難民認定申請を行い、同人に対するタリバ
ン発付の拘束令状の写しを提出した。(乙9)
 原告は、同年11月7日、大阪入国管理局(以下「大阪入管」という。)に対し、本名であるAで
の難民認定申請を行い、同年12月12日、福岡入管に対する難民認定申請を取り下げた。(乙22
の、)
 被告法務大臣は、平成14年2月27日、原告の大阪入管に対する難民認定申請につき、難民認
定をしない処分(以下「本件不認定処分」という。)をし、同年3月6日、原告にその旨通知した。
(甲25、乙23)
原告は、同月8日、本件不認定処分に対する異議を申し出た。(乙24)
 被告法務大臣は、同年6月13日、原告の上記異議に理由がない旨の裁決をし、同月18日、原
告にその旨通知した。(甲26)
 広島入管入国審査官は、同年5月17日、原告の違反審査を実施し、入管法24条1号に該当す
ると認定して、原告にその旨通知した。(甲27)
原告からの口頭審理請求を受け、広島入管特別審理官は、同月23日、口頭審理を実施し、上
記認定に誤りがないとの判定をし、原告にその旨通知した。(甲28)
 原告は、同日、上記判定について、法務大臣に対し異議の申出をした。これを受けた被告法
務大臣は、同年6月14日、原告の異議申出には理由がない旨の裁決(以下「本件裁決」という。)
をし、被告広島入管主任審査官に通知し、同日、同審査官は、原告に対し、本件裁決のあったこ
とを通知した。(乙40、甲29)
 被告主任審査官は、同日、原告に対する退去強制令書を発付し(以下「本件退令発付処分」と
いう。)、原告を収容した。(乙43)
 原告は、同年10月29日、仮放免の許可を受けた。
 一方、原告は、同年2月28日、入管法違反容疑で逮捕勾留され、同年3月20日、同法違反に
より広島地方裁判所に起訴され、第一審で刑の免除判決を受けたが、控訴審で罰金刑の判決を
受け、この判決は確定した。(甲34ないし甲47の、甲50)。
2 争点
- 3 -
 原告が難民に該当するといえるか。
 本件不認定処分が理由を付した適法なものといえるか。
 本件難民認定の申請が入管法61条の2第2項の期間を徒過した不適法なものといえるか。
 本件裁決が法務大臣の裁量権濫用行為として不適法なものといえるか。
 本件退令発付処分が不適法なものといえるか。
3 争点(原告が難民に該当するといえるか)に関する当事者の主張
 原告の主張
ア 本邦入国の経過
ア 原告は、ハザラ人であり、シーア派イスラム教徒である。
イ 原告は、b大学卒業後の1992年、シーア派ハザラ人の政治団体であるイスラム統一党に
入党して文化委員会に所属し、主に通訳や広報関係の活動を行い、タリバンやタジク人勢
力からの攻撃の際は、これに対抗する軍事活動にも参加した。
ウ 1995年3月、原告は、西カブールにおいてタジク人グループがハザラ人に対する軍事攻
撃を行った際、カブールからペシャワールに逃亡し、それ以降安全にアフガニスタンに入
国することができなくなった。また、1994年にパキスタンのペシャワールにて中古自動車
部品販売業者であるBのもとで働いていたときには、イスラム統一党のペシャワール事務
所において通訳として活動した。
エ 原告は、1995年3月にカブールから逃亡して以後、ペシャワールに居住し、1997年には
UAEのシャージャに移住して中古自動車部品販売業に従事した。
オ 1998年8月、タリバンがアフガニスタン北部の町マザリシャリフに進攻し、多数(約
8000人)のハザラ人を虐殺した。マザリシャリフには原告の両親、弟、妻が住んでいたが、
原告の弟が行方不明になり、両親も家を略奪され、一家は《地名略》県に逃れた。
原告は、1999年と2000年にそれぞれ1度ずつ《地名略》県の両親を訪ねたが、2001年
4月7日、両親に会うため密かにアフガニスタンに入国し、カブールの親戚宅を訪れたと
ころ、おばから、原告がイスラム統一党員であることをタリバンが知り、原告を逮捕しよ
うとしたが、原告が不在であったため、代わりに原告の父が逮捕されたことを知らされた。
当時、UAEは、パキスタンとサウジアラビアとともにタリバン政権を承認しており、UAE
に居住する原告もタリバンによって逮捕される危険性が高かった。
カ そこで、原告は、日本に避難することを決意し、密航ブローカーに依頼して、平成13年
5月30日、UAEのドバイから出国した。
イ 難民該当性
ア 入管法にいう難民といえるためには、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構
成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のあ
る恐怖を有するために、国籍国の外にいる者」であることを要するが、ここにいう「迫害」
は、被告らが主張するような、「通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす」との要件ま
- 4 -
では必要とせず、生命や身体に対する脅威だけでなく、そのほかの人権に対する重大な侵
害も迫害に当たると解すべきである。
また、「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖」が存在するというため
には、被告が主張するような通常人を基準とした要件は不要であり、申請者の主観的な恐
怖が客観的状況により裏付けられていることで足りると解すべきである。
さらに、難民であることの立証責任を原則として申請者が負うとしても、立証の困難さ
にかんがみると、申請人の説明が信憑性を有すると思われるときは、これとは反対趣旨の
十分な理由がない限り、難民性が肯定される(灰色の利益を与えられる)べきである。
イ 原告は、ハザラ人、シーア派イスラム教徒である。ハザラ人は、モンゴル系でその容貌か
ら他の民族とは区別され、かつ、アフガニスタンでは少数派のシーア派に属するため、他
の民族によって有形無形の差別を受け、ときには虐殺されるなど迫害の対象とされてきた
歴史がある。特に、パシュトゥン人を中心とするスンニ派のタリバン政権下においては、
シーア派教徒は敵視され迫害された。また、原告はイスラム統一党員として活動した経歴
を持ち、ハザラ人の政治的権利を主張する政治的意見を有している。
本件不認定処分時は、暫定政権が発足したとはいえアフガニスタンの国内情勢は流動的
であり、タリバンは政権崩壊後も組織としては完全に崩壊しておらず、国内各地には相当
規模の兵力が残り、復活の兆候もあったし、タリバンにつながるスンニ派のイスラム原理
勢力も各地で活発に活動していた。
また、現政権は、旧敵対勢力であったタジク人(ファヒムを始めとするパンジールグル
ープやラバニ派)が権力を握っており、ハザラ人閣僚の登用は少なく実権もない。現政権
にはC等ハザラ人と報道されている閣僚がいるが、彼らはハザラ人ではなくセイドと呼ば
れるアラブ民族であり、かつてはタジク人に与してハザラ人と戦闘をした経歴を持つ者で
あって、ハザラ人の権利を主張したりする人や教育のある人、過去にイスラム統一党で活
動していた人を敵視する傾向がある。また、Cはイスラム統一党アクバリ派に属していた
ことがあり原告と面識もあるので、現政権に原告の個人情報が知られるおそれもある。
被告らは、難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)にいう迫害とは、当該国
の政府当局による行為に関連するものをいうと主張するが、反対派や地域住民による攻撃
等が行われる場合でも、それが政府当局によって容認されているか、又は当局が適当な保
護を与えることを拒否し、若しくは保護することができない場合も「政府当局の行為に関
連するもの」ととらえることができる。現政権の発足後、アフガニスタンの治安は極めて
悪く、複数の閣僚が暗殺されるなど要人の安全さえ確保されない状況である。また、現政
権は、アフシャールやマザリシャリフにおけるハザラ人の大量殺害事件について事実を明
らかにしようとしていない。このような状況の下では、現政権がスンニ派イスラム原理主
義勢力等ハザラ人を敵視するグループからハザラ人を保護するとは到底考えられず、現政
権による恣意的な逮捕やタリバン勢力によるテロ行為などのおそれもあるのであって、原
- 5 -
告に対する迫害の危険性が去ったとはいい難い。
したがって、本件不認定処分当時、原告には、再台頭する可能性のあるタリバン及びそ
れにつながるスンニ派の原理主義勢力、あるいは、現政権の中枢を握るタジク人勢力等か
ら、民族・宗派・特定集団に所属すること及び政治的な意見を有することを理由とする迫
害を受ける客観的なおそれがあった。
ウ 被告は、原告が入国後に稼働していたこと、難民認定申請の当初、氏名等を偽っていた
ことを指摘して、原告が難民としての保護を受ける真摯な姿勢がなく、迫害を受けるおそ
れがあるという恐怖を抱く主観的事情もないと主張する。
しかし、入国後に稼働したのは生活のためにやむを得ないことであった。氏名、入国経
緯等を偽ったのは、既に本名で在留資格証明書の交付申請をしており二重申請を避け、さ
らには、密入国を依頼したブローカーから、「過去の入国経験があると難民認定がされにく
い。入国経路を海路とした方が認定されやすい。迫害される危険があることの具体的な証
拠が必要である。」と聞かされ、これを信じたためである。難民が強制送還を恐れる心理か
ら虚偽の申告をすることは珍しくないことであって、この事実のみをもって原告の供述全
てに信用性がないとはいえない。
エ 以上によれば、本件不認定処分当時、原告が「人種、特定の社会集団の構成員であること、
又は政治的意見を理由とする迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖」を
有していたことは明らかであって、これを認定しなかった本件不認定処分は違法である。
 被告らの主張
ア 難民に該当するというための要件について
原告も主張するとおり、入管法にいう「難民」に該当するというためには、「人種、宗教、国
籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそ
れがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者」であることを
要するが、ここにいう「迫害」とは、通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし
圧迫であって、生命又は身体の自由の侵害又は抑圧をいうと解される。そして「迫害を受け
るおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」というためには、難民認定申請者の
主観的事情に加え、通常人が申請者の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観
的事情が存在していることを要すると解すべきである。
イ 難民認定の手続について
いかなる難民認定の手続を設けるかについては、難民条約及び難民の地位に関する議定書
(以下「難民議定書」といい、難民条約と合わせて「難民条約等」という。)には規定がなく各
締結国の立法政策に委ねられていると解されるところ、法は、法務大臣は申請者の提出した
資料に基づいて難民認定を行うことができ、提出資料のみでは適正な認定ができないおそれ
がある等の場合には、難民調査官をして事実調査をさせることができるとしている。さらに、
難民該当性を基礎づける資料は、申請者の本邦外での活動に関連することが多く、それらを
- 6 -
全て入管が収集することは不可能であり、他方、申請者はそれらの資料を最もよく収集し得
る立場にある。
上記の点から、難民性の立証責任は申請者が負担すると解すべきであり、法務大臣は、一
次的には申請者が提出した資料に基づき、二次的には難民調査官が必要に応じて実施した事
実調査で収集された資料に基づいて難民該当性を判断し、それでも難民該当性を認めるに至
らなかった場合には、不認定処分をなすべきである。UNHCRハンドブックの基準に則って
も、「全ての手に入り得る資料が入手されて検証され、かつ、審査官が申請人の一般的信憑性
について納得したとき」に限り「灰色の利益」が付与されるべきとされているのであるから、
全ての申請者が当然に灰色の利益を受けられるものではない。
ウ 迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱く客観的事情の不存在
タリバン台頭以前のアフガニスタン情勢は、ラバニ大統領派とへクチャマル首相派の双方
にハザラ人を主体とするグループとパシュトゥン人を主体とするグループの双方が属するな
ど、ハザラ人同士、パシュトゥン人同士の抗争を含め、複雑多岐にわたる抗争関係が存在し
ていたのであって、ある特定の民族や集団が、常に一方的な被害者であったと断じることは
できない。むしろ、イスラム統一党員の民間人に対する残虐行為が行われたという報告もな
されている。したがって、原告がハザラ人、イスラム統一党員であることから直ちに難民と
認定することはできない。
また、タリバンのハザラ人に対する人権侵害は、宗教的民族的特性によるものではなく、
タリバン政権の敵対勢力の一つとして戦闘地域における報復・攻撃の対象としていたに過ぎ
ない。
原告が主張するハザラ人殺害事件は、7ないし9年前のタリバン台頭以前の内戦状態下で
起こったものや、タリバンと北部同盟との軍事衝突の一環として発生したものに過ぎない。
そして、平成14年2月27日の本件不認定処分当時、タリバンはアフガニスタンの支配政権と
しても、組織としても完全に崩壊しており、ハザラ人迫害のおそれはほぼ皆無といえるほど
に希薄化していた。また、カルザイ政権は政治的に安定した歩みを始めており、閣僚にも数
人のハザラ人が登用されるなどハザラ人の地位も安定したものであったから、原告が政府当
局から迫害を受けるおそれもなかった。また、「迫害」の主体は政府当局の行為に関連するも
のを意味し、反対派勢力から攻撃を受けるおそれがあることから直ちに難民に当たるという
ことはできない。本件不認定処分当時は、タリバン政権は既に崩壊しており、暫定政権も成
立途上にあり、そもそも迫害の主体となるべき政府当局が存在していなかったともいえる。
なお、原告は、審理終結間近になって、迫害の主体として、従前に主張していたタリバン及
びタジク人勢力のほかに、サヤフ派やワッハービ派のイスラム原理主義勢力、イスラム協会、
パンジールグループ及びCを加える旨主張し(原告第6-3、第7、第8各準備書面)、書証
(甲113ないし127)を提出したが、これは原告の故意又は過失により時機に後れて提出した
攻撃防御方法である。これを許せば、被告がこれらの新主張等に対して反論、反証すること
- 7 -
を要し、訴訟の完結を遅延させる結果を招来するから、原告の上記主張立証は却下されるべ
きである。
エ 主観的事情の不存在
原告は、c社を設立した上、aに雇用されて、本邦における商業活動を本格的に開始しよ
うとし、そのため、平成12年11月15日、在留資格認定証明書の交付申請を行い、平成13年4
月14日には、渡航目的を「商用」とする90日間の短期滞在査証の発給申請を行った。さらに、
不法入国後は、福岡入管に難民申請するまでの約3か月間に各地で自動車中古部品の買付・
輸出等の業務を行っていた。原告は、難民認定申請をする際には、入管はおろか自己の支援
者に対しても氏名、入国の時期・経緯、迫害を受ける理由を偽り、難民としての保護を真摯
に求める行動をしなかった。
これらの事実からすれば、原告は稼働目的で本邦に不法入国したのであり、迫害を受ける
おそれがあるという恐怖を抱く主観的事情が存在しないことは明らかである。
4 争点(本件不認定処分が理由を付した適法なものといえるか)に関する当事者の主張
 被告らの主張
難民不認定処分は、申請者が難民に該当しないことを確認する行為であり、本来申請者に保
障された人権を制約するものではないから、処分の根拠となった資料を示して不認定処分を理
由づける具体的事実や、結論に達した過程を明らかにする必要はない。
前記のとおり、法務大臣の難民該当性を基礎づける資料の収集能力には限界があり、申請者
が常に立証を尽くすとは限らない実務の現状を考慮すれば、詳細な理由を付記することは困難
であり、認定手続の遅延を招き、申請者側にも混乱を生じさせるおそれがある。
難民該当性の立証責任は申請者にあり、法務大臣が申請者からの提出証拠及び難民調査官の
調査結果を総合評価しても難民性を認めるに足りない場合には、難民不認定処分の通知文書が
「全ての証拠を検討してもなお難民該当性を認めるに至らない。」と申請者側の立証責任を前提
にした記載になるのはやむを得ない。
以上の点からすれば、本件不認定処分における処分理由の付記は、法の要求を十分に満たし
ている。
 原告の主張
行政処分において理由の付記が求められるのは、行政庁の判断の慎重・合理性を担保してそ
の恣意を抑制すること及び不服申立ての便宜を図ることにある。この点について、難民認定に
関する処分には行政手続法の適用がないが(同法3条10号)、上記の趣旨の点では他の行政処
分との違いはない。この点に加えて、難民の認定は覇束行為であるから法務大臣の裁量の余地
はないこと、誤った認定がなされた場合には生命・身体・自由に対して重大な侵害を与えるも
のであることからすれば、その認定に関する手続については、刑事手続に準ずる手続的保障が
与えられるべきである。
本件不認定処分の通知書は、「具体的証拠がない。」と記載されているに過ぎず、これでは結
- 8 -
論のみを記したに等しく、不認定処分の根拠を明らかにするものとはいえないから、理由を付
した書面により通知したとはいえない。
5 争点(本件難民認定の申請が入管法61条の2第2項の期間を徒過した不適法なものといえる
か。)に関する当事者の主張
 被告らの主張
原告は、平成13年6月10日、偽造旅券を使用して本邦に入国、「短期滞在」「90日」の上陸許
可を得て上陸し、その150日後である同年11月7日、大阪入管に本件難民申請をしたのである
から、同申請が入管法61条の2第2項の期間を徒過した不適法なものであること(いわゆる「60
日ルール」)は明らかである。
そして、同項ただし書の「やむを得ない事由」とは、申請者が入管に出向くことが物理的な事
情により不能であった場合のほか、本邦において難民の申請をするか否かという意思を決定す
るのが客観的に困難と認められる特段の事情がある場合をいうと解せられるところ、原告は60
日ルールを知悉した上、これを徒過していることを隠すために氏名、入国時期・経路につき虚
偽の事実を述べていたのであるから、上記「やむを得ない事由」も認められない。原告は、稼働
目的での不法入国から始まった不法滞在を事後的に合法化し本邦に滞在するための方策として
A” 名義での難民認定申請の準備を進めるうち、法定申請期間を徒過してしまったに過ぎない。
 原告の主張
ア 入管法61条の2第2項(60日ルール)の違法性
難民条約等は、締結国に対し、難民条約等における「難民」の定義に該当する者(以下「条
約上の難民」という。)を、そのまま「難民」として認定する手続を整備することを要求して
おり、締結国の難民認定手続の規定又は解釈・運用が、難民条約上の難民に該当するにもか
かわらず、一定の者を難民と認定しない結果をもたらす場合には、その手続規定又は解釈・
運用は、難民条約等の授権の範囲を超えたものとして、違法であるというべきである。
これを入管法61条の2第2項についてみると、同項の期間制限は、難民条約上の難民に該
当するにもかかわらず所定期間内に申請を行わなかった者を難民認定しない結果をもたらす
ものといえるから、難民条約等に違反し、違法無効というべきである。
また、難民の認定は事実確認行為であって、法務大臣が申請人を難民条約上の難民と認め
るときは難民認定をしなければならない覇束行為であるから、難民に該当するにもかかわら
ず期間の徒過という形式的要件を設けることにより難民認定をしないとする本項は、明らか
に難民条約等に反している。
さらに、難民条約は難民認定の申請期間に制限を設けていないこと、他国(合衆国、スペイ
ン、韓国)の立法・運用をみても、入国後60日以内という短期の期間制限を設けている例は
なく、それぞれの期間制限の運用も緩やかであることにかんがみると、同項の期間制限は国
際基準と照らし合理性を欠いたものというべきである。
加えて、同項は、難民認定申請をすることにより逆に本国に強制送還されるのではないか
- 9 -
という恐怖を抱く難民の心理状態に対する配慮を欠いている。申請の遅延は、申請人の主張
の信用性に関する判断要素となるものであっても、遅延自体により難民該当性を否定すべき
ではない。60日を徒過した申請でも難民認定をしたケースは存在し、60日経過後の認定申請
では実体判断を行わないという被告の主張は実情と乖離している。
イ 入管法61条の2第2項ただし書該当性
仮に、同項が有効であるとしても、前記難民条約等の趣旨にかんがみれば、同項ただし書
の「やむを得ない事情のあるとき」とは、申請をすることに対する心理的な障害や情報不足
等の事情も考慮して緩やかに解すべきである。
これを本件についてみると、原告は、母国との関係を絶つことになる難民認定の申請を躊
躇し、むしろaを介して交付申請をしている在留資格認定証明書により適法な在留資格を得
たいと考えた。また、同一人が在留資格証明書の交付申請と難民認定申請を同時に行うこと
は相矛盾する行為であり、どちらか一方の取下げ勧告等を招くことになると考え、難民認定
の申請をすることにも躊躇した。原告が、当初、偽名で難民認定申請を行った理由の一つも、
既に本名で在留資格認定証明書の交付申請をしていたため、難民認定申請との同時申請とな
ることをおそれたがためである。さらに、原告の日本語能力は、日常会話程度であればこな
せるものの、読み書きはほとんどできず、言葉が巧く通じないことから信頼できる相談相手
もおらず、認定申請手続に関する情報が不足していた。
上記の各事実によれば、原告が上陸後60日以内に難民認定申請をしなかったことには相当
な理由があるというべきであり、同項ただし書にいう「やむを得ない事情」があったといえ
る。
6 争点(本件裁決が法務大臣の裁量権濫用行為として不適法なものといえるか)に関する当事
者の主張
 原告の主張
各国政府の裁量が認められる外国人の出入国管理に関する処分であっても、その処分が憲法
又は条約によって保障された何らかの人権を侵害する場合には、当該処分は裁量権の濫用又は
逸脱行為として違法であると解される。
当時のアフガニスタン情勢に照らせば、原告を難民と認める事情があったばかりか、前記の
とおり、原告がアフガニスタンに帰国すれば、生命、身体及び自由への侵害を受けることが予
想されるのであるから、被告法務大臣が本件裁決をし、原告について特別在留許可をしなかっ
たのは、憲法13条、14条、市民的及び政治的権利に関する国際規約第6条、7条、9条、26条に
違反し、裁量権の濫用又は逸脱行為に該当するというべきである。
 被告らの主張
特別在留許可は退去強制事由のある外国人に対する恩恵的措置であり、これを付与するか否
かの判断は国内外の情勢に通暁し出入国管理の衝に当たる法務大臣の自由な裁量に委ねられて
いるものと解すべきである。したがって、裁判所は、法務大臣の特別在留許可に関する処分の
- 10 -
適否については、法務大臣の第一次的な裁量判断が既に存在することを前提として、その判断
が社会通念上著しく妥当性を欠き、裁量権付与の目的を逸脱し、これを濫用したといえる場合
に限り、違法と判断できると解すべきである。
本件では、原告に難民該当性は認められない上、原告の入国経緯及び入国後の行動等に照ら
すと、原告について「特別に在留を許可すべき事情」は認められないから、入管法49条1項に
基づく原告の異議の申出には理由がない旨の裁決をし特別在留許可を認めなかった法務大臣の
行為が裁量権の濫用又は逸脱であるとはいえない。
7 争点(本件退令発付処分が不適法なものといえるか)に関する当事者の主張
 原告の主張
ア 本件裁決は違法であるから、これに基づく本件退令発付処分も違法である。
イ 原告は難民に該当するから、原告を本国に強制送還することを目的とする本件退令発付処
分は、難民条約32条、33条1項に違反する。また、原告が本国に強制送還されれば、ハザラ
人であることなどから「拷問」ともいえる重い肉体的・精神的苦痛を強いられるおそれが高
いから、本件退令発付処分は、拷問等禁止条約3条の1及び入管法53条にも違反する。
 被告らの主張
ア 本件退令発付処分の適法性について
主任審査官は、法務大臣から「異議申出は理由がない。」との裁決をした旨の通知を受けた
ときは、速やかに退去強制令書を発付しなければならないのであり(法49条5項)、退去強制
令書を発付するにつき全く裁量の余地はない。
したがって、本件裁決が適法である以上、被告広島入管主任審査官がした本件退令発付処
分も適法であるというべきである。
イ 難民条約32条
原告は難民に該当しないから、原告の主張は前提を欠いている。また、同条1項は、合法的
に滞在した難民のみを保護しているのであり、原告のように不法に入国した者まで保護する
ものではない。
ウ 難民条約33条
同条についても、原告は難民に該当しないから、原告の主張は前提を欠いている。また、ア
フガニスタンは入管法53条3項にいう「難民条約33条1項に規定する領域の属する国」には
該当しない。
エ 拷問禁止条約
最近のアフガニスタンの情勢に照らすと、原告がハザラ人であること等の原告指摘の諸事
情を考慮しても、アフガニスタンが、「その者に対する拷問が行われるおそれがあると信じる
に足りる実質的な根拠のある他の国」に該当するとはいえない。
第3 当裁判所の判断
1 時機に後れた攻撃防御方法の主張について
- 11 -
この点に関する被告らの主張は、前記「事案の概要」の「争点に関する被告らの主張」のウに
摘示したとおりである。しかし、被告らが上記主張において指摘する原告の主張立証は、要する
に、タリバンにつながるイスラム原理主義勢力(サヤフ派やワッハービ派)、あるいは、イスラム
協会やパンジールグループのタジク人勢力が迫害するおそれがあるという点にあり、これらは従
来の原告の主張や提出の証拠にも現れており(訴状15頁等参照)、従前の主張立証の域を出るも
のではないから、時機に後れた攻撃防御方法とはいえない。よって、被告の上記主張にある申立
てを却下する。
2 前記争いのない事実、証拠(甲1ないし11、15ないし29、44の、45ないし47の、49、51、
58ないし74、88、107、111、乙1ないし56、60、62、86、90、原告本人)及び弁論の全趣旨を総
合すると、次の事実が認められる。
 アフガニスタンの国内情勢の概要
ア アフガニスタンは、パシュトゥン人(ペルシャ系。人口の約38パーセントを占める。イス
ラム教の宗派はスンニ派。)、タジク人(ペルシャ系。人口の約25パーセントを占める。大半
がスンニ派)、ハザラ人(モンゴル系。人口の約19パーセントを占める。シーア派。)、ウズベ
ク人(モンゴル系とトルコ系の混血民族。人口の約6パーセントを占める。スンニ派。)を始
めとする諸民族が混在する多民族国家である。国民の98パーセントがイスラム教徒で、ハザ
ラ人を中心とする15パーセントがシーア派、84パーセントがスンニ派であるとされる。(甲
72)
イ アフガニスタンは、1919年に英国から王国として独立し、1973年に共和制に移行し、昭和
53年(1978年)には共産主義のアフガニスタン人民民主党(PDPA)政権が誕生した。
昭和54年(1979年)12月、旧ソ連軍の軍事介入のもと親ソ派のカルマルにより社会主義政
権が誕生し、昭和61年(1986年)5月にはナジブラが書記長に就任して政権を引き継いだが、
イスラム教徒民兵組織であるムジャヒディン各派が、それぞれ周辺各国から支援を受けてゲ
リラ戦を展開し、平成元年(1989年)2月、ソ連軍はジュネーブ合意に基づきアフガニスタ
ンから完全撤退し、平成4年(1992年)4月、ムジャヒディン各派の軍事攻勢によりナジブ
ラ政権が崩壊した。平成5年(1993年)1月、イスラム協会の指導者ラバニが大統領に就任
したが、各派間の主導権争いが激化し、全土が内戦状態に巻き込まれることになった。
ムジャヒディンの主な勢力として、タジク人中心のイスラム協会(ジャミアティ・イスラ
ミ。ラバニ派)、パシュトゥン人中心のイスラム党(ヘズベ・イスラミ。ヘクマチャル派)、ア
フガニスタン解放イスラム同盟(イッティハディ・イスラミ。サヤフ派)、ハザラ人中心のイ
スラム統一党(ヘズベ・ワフダット。マザリ派とアクバリ派がある。)、ウズベク人中心のイ
スラム国民運動(ドストム派)があった。
ウ イスラム教スンニ派のパシュトゥン人を中心とするイスラム教原理主義組織タリバン(指
導者オマル)は、平成6年(1994年)ころから台頭し、平成8年(1996年)9月末、ラバニ派
を中心とする政権が支配していた首都カブールを制圧し、暫定政権の樹立を宣言した。
- 12 -
これに対し、ラバニ派、ドストム派等の各ムジャヒディン勢力は、北部マザリシャリフを
中心に反タリバン同盟である全国アフガニスタン救済イスラム統一戦線(通称北部同盟)を
結成し抵抗を続け、イスラム統一党も、この北部同盟に加入した。タリバンは、政権樹立の宣
言以来、国際社会に対し、アフガニスタンの正統な政権としての承認を求めていたものの、
タリバン政権を承認したのは、パキスタン、サウジアラビア、UAEの3国のみであった。
エ 平成13年(2001年)9月11日、米国でいわゆる同時多発テロが発生した。米国は、タリバ
ン政権がその首謀者であるオサマ・ビンラディンを匿っているとして、これを強く非難し、
その引渡しを求めた。これを機に、UAEは、同月22日、タリバン政権との外交関係を断絶し
た。
米国及び英国は、同年10月7日、タリバンへの軍事攻撃を開始し、北部同盟も米国らの支
援を受けてタリバンの支配地域へ進攻し、同年11月13日、タリバン政権は首都カブールを放
棄して事実上崩壊した(乙50)。
同じころ、ドイツのボンにおいて、アフガニスタン各派代表者会議が開催された。これに
参加した各派は、同年12月5日、カルザイを議長とするアフガニスタン暫定行政機構(以下
「暫定機構」という。)を発足させること、緊急国民大会議(ロヤジルガ)による移行政権の誕
生まで暫定機構が国政を担当すること、暫定政権における30名の閣僚の内訳等について、合
意した(ボン合意)。
暫定機構は、同年12月22日、正式発足した。暫定政権の閣僚の内訳は、パシュトゥーン人
11名、タジク人8名(内相カヌニ、外相アブドラ、国防相ファヒム等、なおファヒムはラバニ
派の軍人マスードの配下にあった者である。)、ハザラ人2名(副議長兼女性問題担当相にシ
マサマル、計画相にイスラム統一党員であるムハマンド・モハケック)、シーア派セイド(預
言者ムハンマドの子孫とされるアラブ系民族。)3名(商業相カゼミ、農相アンワリ等)、ウズ
ベク人3名、その他の民族3名であった(甲58、乙55)。国際社会は暫定機構をアフガニスタ
ン政府として承認し、日本政府もこれに続いた。平成14年(2002年)2月19日、カブールの
在アフガニスタン日本大使館が再開され、同年5月1日には川口外務大臣がアフガニスタン
を訪問した(乙58ないし60)。
オ 同年6月、カブールで緊急国民大会議(ロヤジルガ)が開催された。これを構成する代議員
は1656名で、そのうち、ハザラ人は12.5パーセントを占めた(甲72の233頁)。これにより、
カルザイを大統領とするアフガニスタン移行政権が発足した。
同政権の閣僚は、計31名であり、うちハザラ人は、副大統領のカリム・ハリリ(95年にマ
ザリが死亡した後にイスラム統一党党首に就任した。)、計画相モハマド・モハケックの2名
であった。その他の閣僚は、パシュトゥーン人13名、タジク人9名(副大統領兼国防相ファ
ヒム、外相アブドラ等)、シーア派セイド3名(商業相カゼミ、農相アンワリ、運輸相ジャベ
ド)、ウズベク人3名、トルクメン人1名であった(甲58、82、乙55、61)。その後、ハザラ人
のハビバ・サラビが女性問題担当相に就任し、ハザラ人閣僚は3名となった(乙62)。
- 13 -
カ 本件不認定処分及び本件裁決当時(平成14年2月27日から同年6月14日)のアフガン国内
の政治、治安、人権の状況(甲24、61〜68、72、76、77、107、乙86)
ア 政治情勢
暫定機構及び移行政権は、貿易関連税、ビザ発行手数料等の徴税能力を保持し、カブー
ル及びアフガン北東部については、軍事的にも政治的にも制圧、統治しているものの、そ
の余の地域については、これを統治するまでにはなく、同地域のほとんどは軍閥の支配下
にある。司法制度や国家警察の整備も行われておらず、公務員への給与の支払も困難な状
態にある。
暫定機構及び移行政権においては、パンジールグループと呼ばれるタジク人少数派が外
務(アブドラ)、国防(ファヒム)等の重要ポストを独占し、軍、警察、諜報部の実質的な支
配権を握っており、これに対して他の民族が不満を抱いていることから、民族同士の権力
闘争が再燃することを懸念する意見や報道もなされている(甲61ないし68、72、76、77)
その一方で、アフガニスタン南東部には、タリバン勢力及びアルカイダに所属する部隊
が残存し、政権奪取を狙って、テロを行ったり、政権の軍隊や米軍を中心とする治安部隊
との間に戦闘を行ったりしていると報道されている(甲64)。
イ 治安
2003年のアムネスティ・インターナショナルの報告によれば、アフガニスタンにおい
ては、警察が十分に機能していない(甲73)。カブールの治安は、国連治安支援部隊(ISAF)
と米軍により保たれているが、一部地域では犯罪や政治的意図に基づくと思われる暴力が
発生している。地方の治安は不十分であり、全土にわたって民族同士の対立や衝突が報告
されている(甲63)。また、軍閥同士の戦闘も起こっている。地方の治安は、その土地を支
配する軍閥によって保たれているが不安定であり、各地で強盗や暴行、勢力同士の衝突が
絶えないとの報告がある。
外務省は、本件各処分時におけるアフガニスタンの危険情報について、カブール市内は
危険度4「渡航延期勧告」を、その他の地域については警察等による治安維持能力が極め
て低く、各地で異なるグループ間の武力衝突や地方自治を巡る混乱も発生しており、不安
定な状況が続いているとして、危険度の最高レベルである危険度5「退避勧告」を発出し
ている(甲107の)。
ウ 人権
地方においては、武装集団による攻撃からの政府等の公的な保護を受けることは困難で
あり、ある者が攻撃のリスクにさらされるかどうかは地理的出身地、政治的な所属及び民
族的背景の3要素によって決まる。例えば、北部地域のパシュトゥン人は最も攻撃されや
すく、タリバン政権が崩壊した平成13年(2001年)11月以降、他の民族(パンジール地方
のタジク人が中心であるが、ハザラ人、ウズベク人もタリバン支配に対する反動から攻撃
に加わっている。)による攻撃を受け、難民も発生している。他方、ヘラートのダリ語を話
- 14 -
す(パシュトゥン人)グループは最も攻撃されにくいグループであるとの報告がある。
カブールにおけるハザラ人については、民族的迫害はなく自由な移動が可能であり、ハ
ザラ人(原告によるとシーア派セイドのアンワリ)が大臣を務める農業省には多くのハザ
ラ人が雇用されているとの報告がある。
 アフガニスタンにおけるハザラ人の状況(甲5、6、8、11、21、22、72、76、90)
ア ハザラ人は、ハザラジャットと呼ばれるアフガニスタンの中央部に古くから居住し、自治
を確立していたが、1893年、パシュトゥン人の王であるアブドゥル・レーマンによって制圧
された後は、民族的及び宗教的理由から差別や迫害を受け、奴隷として扱われるなど社会的・
経済的に低い地位に置かれることとなった。1979年、社会主義政権の誕生によって、ハザラ
人は他の民族と平等に扱われるようになり、政府閣僚を輩出するなど一定の社会進出を果た
したが、進学率や公務員への就職等では他の民族に比べて劣位に置かれていた。また、この
ころ、多くのハザラ人がカブールに移住し、特に西カブールはハザラ人の居住地域として国
内最大のものとなった。
イ イスラム統一党は、平成元年(1989年)、ハザラ人の権利獲得を目的としてマザリを中心
として結成された政治組織であり、ハザラ人の政治的・社会的活動の中心的組織であったと
ころ、ナジブラ政権崩壊後にムジャヒディン各派によって樹立された暫定政権からは除かれ
た。同党は、1992年にアフガニスタン全土が内戦状態に陥った後は、カブール市内において
「西カブールの抵抗」と呼ばれる暫定政権に対する抵抗運動を1995年5月まで継続し、27回
もの戦闘を行った(甲21の49頁)。そのような中、1993年2月11日、西カブールのアフシャ
ール地区において、一般市民を含む数百人のハザラ人がラバニ派のマスード将軍に率いられ
たタジク人及びパシュトゥン人勢力によって殺害されるという事件が起きた。
ウ 1995年3月6日、カブール市内において、マスード率いるタジク人勢力とイスラム統一党
との間に戦闘が始まった。この時、イスラム統一党指導者のマザリは、タリバンとの間で、イ
スラム統一党の部隊の重火器を提供する代わり、タリバン部隊がカブール市街に進出してマ
スードと対峙することを合意した。そこで、タリバンは、軽武装の部隊をカブールに投入し
た。ところが、イスラム統一党の部隊が上記合意に反してタリバンへの重火器の引き渡しを
拒否しタリバンの部隊と戦闘を始め、さらにマスードの部隊がタリバンの部隊に一斉攻撃を
したため、タリバンは、市街から撤退を余儀なくされ、数百名の戦死者を出すという痛手を
被った。そして、この撤退の際、タリバンは、マザリらイスラム統一党員7名を逮捕して殺害
した。(甲72の60頁、112頁)
エ イスラム統一党は、1995年5月にカブールから撤退し、その後は、イランの支援を受けつ
つ、バーミヤンを拠点として各地で他民族の勢力と戦闘を行い、1996年にタリバン政権が樹
立された後は、北部同盟に加わった。
オ タリバンはパシュトゥン人を中心とするイスラム教スンニ派の原理主義組織であり、民
族・宗教的理由からハザラ人を敵視し、平成10年(1998年)8月8日に北部のマザリシャリ
- 15 -
フを占領した際には、一般市民を含むハザラ人の大量殺害を行い、その数は数千人に上ると
の報告がなされた。(甲5、6の15頁、8、22の、22のの2頁、)また、同年9月15日にイ
スラム統一党の本拠地であるバーミヤンを陥落させた際にも、多くのハザラ系市民を殺害し
た旨の報告がなされている(甲5、甲6、甲8、甲22の、22のの2頁)。平成13年(2001
年)1月、バーミヤン地方のヤコウランにおいて、100人以上のハザラ住民がタリバン部隊に
より殺害されたとの報告もある(甲72の125頁、76の)。
 難民認定申請に至るまでの原告の行動及び履歴
ア 原告は、平成3年(1991年)にb大学経済学部を卒業し、同大学在学中、dに通学し、英語
を習得した。原告は、平成4年(1992年)ころから、西カブール地区において、父が経営する
自動車部品の仕入れ販売店の手伝いをしながら、イスラム統一党への支援活動(資金、食糧、
医薬品の収集等)をし、平成5年(1993年)に同党に入党し(甲16、93年発行のイスラム統
一党員の身分証)、入党後、党の文化委員会に所属し、党の方針を伝える活動、スローガンを
書いて掲げる活動、さらにはイスラム統一党の要人がマスコミからのインタビューに応じる
際の英語通訳等に従事するようになった。
イ 原告は、平成5年(1993年)、UAEのe社に中古部品の営業員として採用され、その買付等
の業務に従事し、平成6年(1994年)、同社がパキスタンのペシャワールに支店を置いたこ
とから、カブール、マザリシャリフ、ペシャワールを往来する生活を続け、一方で、主にカブ
ールにおいて前記のような党の活動も続けた。そして、同年にはイスラム統一党の指導者を
巡り、マザリとアクバリ(ハザラ人のうちラバニ政権に親和的な勢力アクバリ派の代表)と
が争い、軍事抗争にまで発展したが、原告は、マザリ支持者としてこの戦闘行為に参加した。
アクバリは、この抗争に敗北し、その後、表立ってラバニ政府との協力関係を表明するよう
になった。また、原告は、カブールでのラバニ派の部隊との戦闘にも兵士として参戦するこ
ともあった。
ウ 前記ウのとおり、マスードの部隊(タジク人)は、平成7年(1995年)3月、西カブール
に入ったタリバンを攻撃し、このマスードの部隊には前記アクバリ派に属し西カブールから
追われたハザラ人も加わっていた。結局、タリバンは酉カブールから排除され、マスードの
部隊がこれを制圧したが、当時カブールにいた原告は、自己がイスラム統一党の活動家であ
り、前記のような戦闘行為に参加した経歴もあることから、マスードの部隊を構成するタジ
ク人やアクバリ派の者に逮捕され、殺されるのではないかと恐れ、同じような立場にある者
2名と共にカブールを脱出し、ペシャワールに逃亡した。このようなことから、原告は、ア
フガニスタンで生活することはもちろん、帰国することさえ身体的危険を伴うものと考え、
極力帰国を避けるようになり、両親に会うためにアフガニスタンに入国したのは、平成11年
(1999年)及び平成12年(2000年)の2回であった。
エ 原告は、ペシャワールに逃亡した後も、e社の営業員として働き、平成9年(1997年)には、
同社が開設したf社(その後、f’ 社と改称)に採用され、従前と同様の営業に従事した。こ
- 16 -
れらの営業のため、原告は、平成7年7月22日に本邦へ適法に入国してから平成12年(2000
年)まで、計9回にわたり本邦に適法に入国し、自動車中古部品の買付や輸入等の業務を行
うとともに、シンガポールや韓国にも渡航して同様の業務を行った。また、平成11年(1999
年)ころからは、山口県《地名略》所在のaと取引をするようになった。
その間の平成8年(1996年)、原告は婚姻し、二児をもうけた。また、原告は、平成9年、
f社の業務に従事するため、UAEのシャージャに居住するようになり、家を空けることも多
かったことから、妻子をアフガニスタン北部のマザリシャリフに行かせ、同所で原告の両親
と同居生活をさせた。
オ 原告は、平成10年(1998年)ころからは、イスラム統一党の活動をしなくなった(甲49尋
問調書の49以下)。
カ 前記オの平成10年(1998年)8月のマザリシャリフの大量殺害の際、原告の弟Dは死亡
し、原告の父は負傷した。原告の両親と妻子は、マザリシャリフから《地名略》県に逃れた。
キ 原告は、平成12年(2000年)、f社の業務として、c社を設立し、山口県《地名略》所在の
工場を同社名義で借り受けるなどして本邦での営業活動を行っていた。また、そのころ、原
告は、aの専務取締役であるEから、同社で働くよう誘いを受け、Eを介して、同年12月1
日、広島入管岩国出張所に対し、入管法7条の2に基づく原告の在留資格認定証明書の交付
申請(発行されると最長3年間の滞在が認められる。)を行ったが、この申請に対する判断が
なかなか出なかった(平成13年6月19日に不交付通知がなされた。)。
ク 原告は、平成13年(2001年)4月7日ころ、両親に会う目的でアフガニスタンに帰国し、
カブールに入ったところ、母方の叔父の妻で、数日前に《地名略》県から帰ってきたばかりの
Fから、「タリバンが統一党員である原告の知り合いを拷問し、原告がイスラム統一党で活動
していたことを知り、原告を逮捕するため、原告の両親宅にやって来たが、原告がいなかっ
たため、代わりに原告の父を逮捕した。」旨を聞いた。そして、Fから、危険であるから《地名
略》には行かないよう言われたため、原告は、ペシャワールに戻った。
しかし、原告は、タリバン政権に友好的な関係にあるパキスタンやUAEも危険であると考
え、同月14日、在ドバイ(UAE)の日本総領事に対し査証発給申請をしたものの、短期間でこ
れに対する判断を受けられそうになかったことから、単独で日本に不法入国することを決意
し、偽造旅券(A’ 名義のもの)を用いて、同年6月10日、福岡空港から本邦に入国した。
(上記認定に関し、被告らは、原告は稼働目的で本邦に入国したのであって、入国に至る経
緯及び迫害を受けることの恐怖に関する原告の供述は信用することができない旨主張する。
しかし、原告の入国前のアフガニスタン情勢に関する供述は、アフガニスタンの歴史や各種
の報告とほぼ符合すること、供述の内容自体もとりたてて不自然な点がなく、特に、それま
で適法に本邦に入国していた原告が不法入国するに及んだのは上記認定の経過によるものと
考えるのが自然であること、原告は、難民認定手続の当初は氏名や入国経緯等を偽っていた
ものの、その後の難民認定手続や、刑事公判手続及び本件訴訟手続においては、ほぼ一貫し
- 17 -
て上記認定と同旨の供述をしており、原告の供述の信用性に疑問を抱かせるような供述の変
遷は窺われないこと等の点にかんがみると、原告の供述は、上記認定の限度では、信用する
ことができる。)
ケ 原告は、本邦入国後、前記《地名略》工場に居住し、aの関係者には短期ビザで入国したと
偽り、従前どおり、f’ 社(旧f社)のために自動車部品の買付や輸出等を行っていた。
原告は、入管法62条の2第2項のいわゆる60日ルールについては、本邦へ不法入国する
前から知っていたが(甲49の181)、不法入国者であり、迫害を受けるおそれを立証する明ら
かな物証を所持していないことや過去に来日歴があることから、自分の供述を信用してもら
えずアフガニスタンに強制送還されるのではないかとの不安を抱いていたこと、日本に入国
したことにより自己の生命が危険にさらされるのを一応避けられたという安心感、また、現
在申請中である在留資格認定証明書が交付されれば、正式な在留資格が与えられ、不法滞在
が合法化されるものと思いこんでいたこと、難民認定申請をすると、前記在留資格認定証明
書の申請と二重申請になり、在留資格認定証明書の発行を受けられなくなると考えたことか
ら、入国後直ちに難民認定申請をしなかった。
原告は、同年6月下旬、前記在留資格証明書不交付通知がなされたことを知ったが、不交
付の理由が原告のUAEにおける住所が不安定であるためであると聞き、同年8月6日、再度、
Eを通じて広島入管に在留資格認定証明書の交付申請を行った。
原告は、上記証明書が発行されないため、8月27日、難民の支援活動をしているカトリッ
ク教会に電話をして難民認定の相談をし、同年9月12日、福岡入管に対して難民認定申請を
行った。原告は、密航ブローカーから、「日本に入国したことのある者が難民認定を受けるた
めには自分の名前でなく他人の名前を使わなくてはいけない。認定されるためにはタリバン
から迫害を受けるおそれがあるという証拠が必要である。海路で入国したと述べる方がよ
い。」とのアドバイスを受け、A”(イスラム統一党の軍事司令官でタリバンにより逮捕勾留
されたことがある者)に対する拘束令状の写しを購入し、A” と偽って上記申請をし、同写し
を提出し、入国経緯については、船で横浜港から入国したと偽った。また、60日ルールによ
って申請が不適法となることをおそれ、入国日を同年8月22日と偽った。
しかし、原告は、福岡入管での事情聴取を受けるうち、密航ブローカーのアドバイスでし
た難民認定申請では難民として認められないと判断し、同年9月22日、大阪で難民支援活動
を行っているGに相談し、同年11月7日、大阪入管に対し、本名で難民認定申請を行ったが、
その際にも、ペシャワールから韓国を経由して同年8月22日に横浜港に上陸したとして、入
国日及び入国経路を偽った。

難民認定をしない処分等取消請求事件
平成14年(行ウ)第81号
原告:A、被告:大阪入国管理局主任審査官
大阪地方裁判所第7民事部(裁判官:川神裕・山田明・一原友彦)
平成17年4月7日
判決
主 文
1 被告法務大臣が原告に対し平成12年2月10日付け通知書により同月23日に通知した難民の認
定をしない処分を取り消す。
2 被告法務大臣が原告に対し平成14年3月7日付け通知書により同月18日に通知した出入国管
理及び難民認定法(平成16年法律第73号による改正前のもの)61条の2の4第1号の規定による
異議の申出は理由がない旨の裁決の取消しを求める訴えを却下する。
3 原告のその余の請求をいずれも棄却する。
4 訴訟費用は、原告に生じた費用の4分の1と被告法務大臣に生じた費用の3分の1を被告法務
大臣の負担とし、その余の全費用を原告の負担とする。
事実及び理由
第1 請求
1 主文1項同旨
2 被告法務大臣が原告に対し平成14年3月7日付け通知書により同月18日に通知した出入国管
理及び難民認定法(平成16年法律第73号による改正前のもの。以下「法」という。)61条の2の4
第1号の規定による異議の申出は理由がない旨の裁決(以下「本件不認定裁決」という。)を取り
消す。
3 被告法務大臣が原告に対し平成14年3月18日付け裁決通知書により同日に通知した法49条1
項の規定による異議の申出は理由がない旨の裁決(以下「本件退去裁決」という。)を取り消す。
4 被告大阪入国管理局主任審査官(以下「被告主任審査官」という。)が原告に対し平成14年3月
18日付けでした退去強制令書発付処分(以下「本件令書発付処分」という。)を取り消す。
第2 事案の概要
1 訴訟の対象
本件は、アフガニスタン国籍を有する原告が、被告法務大臣に対し、帰国すれば迫害を受ける
おそれがあるなどとして難民認定申請をしたところ、平成12年2月10日付通知書により同月23
日に難民の認定をしない処分(以下「本件不認定処分」という。)の通知を受けたため、被告法務
大臣に対し、法61条の2の4の規定による異議の申出をしたが、本件不認定裁決を受け、また、
法24条4号ロに該当する旨の大阪入国管理局(以下「大阪入管」という。)入国審査官の認定及び
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当該認定に誤りがない旨の大阪入管特別審理官の判定を受けたため、被告法務大臣に対し、法49
条1項の規定による異議の申出をしたが、本件退去裁決を受け、さらに、本件令書発付処分を受
けたことから、本件不認定処分、本件不認定裁決、本件退去裁決及び本件令書発付処分の各取消
しを求めている抗告訴訟である。
2 法及び条約の定め
 法における「難民」とは、難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)1条の規定又
は難民の地位に関する議定書(以下「議定書」という。)1条の規定により難民条約の適用を受
ける難民をいう(法2条3号の2)。
 議定書1条は、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的
意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国
の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を
有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及び常居所を有していた国の外に
いる無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような
恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの(同条2、難民条約
1条A。以下、これらの者を単に「難民」という。)について、難民条約2条から34条までの
規定を適用する旨規定している。
3 前提事実(争いのない事実及び証拠〔書証番号は特記しない限り枝番を含む。以下同じ。〕等に
より容易に認められる事実)
 原告は、1960年(昭和35年)アフガニスタンにおいて出生した、アフガニスタン国籍を有す
る外国人の男性である。原告の属する民族はハザラ人、信仰する宗教はイスラム教シーア派で
ある(弁論の全趣旨)。
 原告は、平成8年1月29日、アフガニスタンの首都カブールにおいてアフガニスタン旅券の
発給を受けた(乙1)。
 原告は、平成9年1月26日、同年9月4日及び平成10年3月9日の3回にわたり、在パキス
タン・イスラム共和国(以下「パキスタン」という。)日本国特命全権大使から、渡航目的を短
期滞在とする1回限りの有効な渡航証明書の発給を受け、それぞれ平成9年1月31日、同年9
月8日及び平成10年3月16日、関西空港に到着し、大阪入管関西空港支局入国審査官に対し上
陸の申請をし、同入国審査官から、在留資格を「短期滞在」(法別表第一の三)、在留期間を「90
日」とする上陸の許可を受けて本邦に上陸し、それぞれ平成9年4月29日、同年12月6日及び
平成10年6月13日に本邦を出国した(乙2ないし4)。
 原告は、同年9月15日、在パキスタン日本国特命全権大使から、渡航目的を短期滞在とする
1回限りの有効な渡航証明書の発給を受け、同月28日、関西空港に到着し、大阪入管関西空港
支局入国審査官に対し上陸の申請をし、同入国審査官から、在留資格を「短期滞在」、在留期間
を「90日」とする上陸の許可を受けて本邦に上陸した(乙5、6)。
 原告は、同年11月27日、大阪入管において、難民認定の申請をしたい旨の意思を表明し、職
- 3 -
員から難民認定申請書の用紙を受領してその記入方法等の指示を受けたが、その場で英文での
記入を行うことができなかったため、これを持ち帰り、同月30日、大阪入管において、難民認
定申請書を提出した(以下「本件難民認定申請」という。乙13)。
 原告は、同年12月17日、平成11年3月16日、同年6月18日、同年9月13日及び同年12月15
日の5回にわたり、大阪入管において、被告法務大臣に対し、「難民認定申請のため」との理由
による在留期間の更新を申請し、各同日、被告法務大臣から、在留資格を「短期滞在」、在留期
間を 「90日」とする在留期間の更新の許可を受けた(乙6ないし10)。
 被告法務大臣は、平成12年2月10日付けで、本件難民認定申請は法61条の2第2項所定の期
間を経過してされたものであり、かつ、同項ただし書の規定を適用すべき事情は認められない
との理由により、本件不認定処分をし、原告に対し、同日付け通知書をもって、同月23日、その
旨を通知した(乙15)。
原告は、同月25日、被告法務大臣に対し、本件不認定処分について、法61条の2の4第1号
の規定による異議の申出をした(乙16)。
 原告は、同年3月17日、大阪入管において、被告法務大臣に対し、「難民不認定異議申出中及
び裁判準備の為」との理由による在留期間の更新を申請した(乙11)ところ、被告法務大臣は、
同月21日、上記申請を不許可とする処分(以下「本件更新不許可処分」という。)をし、同日、原
告に対し、その旨を通知した(乙12)。その結果、原告は、最終在留期限である同日を超えて本
邦に残留することとなった。
 大阪入管入国警備官は、同月24日、原告について、法24条4号ロ(不法残留)に該当すると
疑うに足りる相当の理由があるとして違反調査に着手し、同年7月24日、大阪入管主任審査官
から収容令書の発付を受け、同月26日、同収容令書を執行し、原告を大阪入管入国審査官に引
き渡した(乙18)。
 大阪入管入国審査官は、同年10月11日、原告について違反審査を実施した結果、原告が法24
条4号ロに該当する旨認定し、その旨を原告に通知したところ、原告は、同日、口頭審理の請求
をした(乙20)。
 大阪入管特別審理官は、同年11月13日、原告に対し口頭審理を実施した結果、入国審査官の
上記認定には誤りがない旨判定し、その旨を原告に通知したところ、原告は、同日、被告法務大
臣に対し、法49条1項の規定による異議の申出をした(乙21、22)。
 被告法務大臣は、平成14年3月7日付けで、本件難民認定申請は法61条の2第2項所定の期
間内にされたものと認められるが、原告は難民条約上の難民に該当せず、難民の認定をしない
とした本件不認定処分の判断に誤りは認められないとの理由により、本件不認定裁決をし、原
告に対し、同日付け通知書をもって、同月18日、その旨を通知した(乙17)。
 被告法務大臣は、同月7日付けで、本件退去裁決をした(乙23)。被告主任審査官は、原告に
対し、同日付け裁決通知書をもって、同月18日、本件退去裁決を通知するとともに、同日付け
で、送還先をアフガニスタンとして、本件令書発付処分をした(乙24、25)。
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 原告は、同年6月17日、本件訴えを提起した。
 近年におけるアフガニスタン情勢の概要は、次のとおりである。
ア アフガニスタンは、イラン系のパシュトゥーン人やタジク人、モンゴロイド系のウズベク
人やハザラ人等の民族が混在する多民族国家である。アフガニスタンにおいては、1979年
(昭和54年)12月、「ソビエト社会主義共和国連邦軍(以下「ソ連軍」という。)の軍事介入の
下にカルマル社会主義政権が誕生し、1986年(昭和61年)5月にはナジブラが書記長に就任
して政権を引き継いだが、イスラム教徒民兵組織であるムジャヒディーンがゲリラ戦を展開
し、ソ連軍は、1989年(平成元年)2月、アフガニスタンから完全に撤退し、1992年(平成4
年)4月、ムジャヒディーンの軍事攻勢によりナジブラ政権が崩壊した。ムジャヒディーン
には、イスラム教スンニ派でパシュトゥーン人中心のイスラム党(ヘクマチヤル派)、タジク
人中心のイスラム協会(ラバニ派)、ウズベク人中心のイスラム国民運動党(ドストム派)、イ
スラム教シーア派のハザラ人中心のイスラム統一党(ヘズベ・ワフダッド)マザリ派(後の
ハリリ派)、同アクバリー派、イスラム運動(ハラカティ・イスラミ)等が属していたところ、
1993年(平成5年)1月、イスラム協会の最高指導者・ラバニが大統領に就任したが、各派
間の主導権争いが激化し、全土が内戦状態に巻き込まれることとなった。
イ 1994年(平成6年)、パシュトゥーン人を中心とし、ムッラー・ムハマド・オマルが率い
るイスラム原理主義勢力タリバンが台頭し、イスラム原理主義政権の画立を目指して勢力を
拡大し、1996年(平成8年)9月末にはラバニ派を中心とする政権が支配していた首都カブ
ールを制圧し、暫定政権の樹立を宣言した。これに対し、ラバニ派ハリリ派ドストム派等の
各派は、北部マザリ・シャリフを中心に反タリバン同盟(通称北部同盟)を結成し抵抗を続
けたが、1998年(平成10年)夏には、タリバンの攻勢によりマザリ・シャリフ及びイスラム
統一党の拠点バーミヤンが陥落し(その際、2000人以上が虐殺されたとの報道等もあった。)、
同年末には、アフガニスタン国土の大半をタリバンが支配するに至った。
ウ アメリカ合衆国軍(以下「米軍」という。)とグレート・ブリテン及び北部アイルランド連
合王国軍は、2001年(平成13年)10月7日(日本時間8日)、同年9月のいわゆる同時多発テ
ロ事件を契機として、ウサマ・ビンラディンの引渡しを拒否したタリバン政権に対する攻撃
を開始する一方、北部同盟も米軍等の支援を受けて進攻した。タリバン政権は、同年11月13
日、首都カブールを放棄し、同年12月7日ころには、組織として崩壊するに至った。
エ 他方、国際連合(以下「国連」という。)の主導により、暫定政府発足のためのアフガニスタ
ン代表者会議が開催され、同月5日、アフガニスタン暫定行政機構が向こう6か月以内に開
催される緊急国民大会議(ロヤ・ジルガ)まで国政を担当し、同会議で樹立される暫定政府
がその後の統治に当たることで合意し、同月22日、パシュトゥーン人であるハミド・カルザ
イを議長(首相)とする暫定行政機構が正式に発足した。同機構の閣僚は、議長を含め30名
であるところ、ハザラ人5名(女性閣僚1名を含む。)が閣僚に就任した(乙27)。日本政府も、
同月20日、同機構を政府として正式に承認することを閣議決定し(乙29)、平成14年2月に
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は、東京でアフガニスタン復興支援会議が開催され、同月19日には、カブールの在アフガニ
スタン日本大使館が再開され(乙30)、同年5月1日には川口外務大臣がアフガニスタンを
訪問した(乙31)。そして、同年6月に開催された緊急ロヤ・ジルガにおいて、カルザイ暫定
政権議長が国家元首(大統領)に選出されて移行政権が発足し、ハザラ人でイスラム統一党
の指導者であるカリム・ハリリが副大統領に指名されたほか、ハザラ人閣僚が5名選出され
た(乙28)。
4 争点及び当事者の主張
 本件不認定処分の適法性について
(原告の主張)
次のとおり、本件不認定処分は違法である。
ア 本件不認定処分は、法61条の2第2項に定める制限期間遵守の有無について認定を誤った
瑕疵がある。
イ 仮に、本件不認定処分の理由が本件不認定裁決により同項違反から難民非該当に差し替え
られたとしても、①原告がハザラ人であること、②原告がマザリ・シャリフに居住していた
こと、③マザリ・シャリフにおいては、シーア派ハザラ人を中心とする勢力がタリバンの攻
勢に対して激しく抵抗していたこと、④原告は、マザリ・シャリフがタリバンの攻勢により
陥落する直前にマザリ・シャリフを脱出したものであること、⑤その当時、原告は戦闘員と
なり得る年代の男性であったこと、⑥原告のマザリ・シャリフ脱出以降、タリバンは、マザ
リ・シャリフを含むアフガニスタンのほぼ全土を掌握するに至ったこと、⑦タリバンがアフ
ガニスタン掌握の過程でハザラ人を中心とする人々を大量虐殺したことに照らせば、本件不
認定処分の当時、原告は、ハザラ人であることやシーア派を信仰していることによりタリバ
ンから無差別に身体を傷つけられ、又は拘束されて自由を奪われるという迫害を受けるおそ
れがあるという十分に理由ある恐怖を有し、難民に該当していた。
(被告法務大臣の主張)
ア ①申請者が難民に該当しないこと(以下「難民非該当」という。)、 ②難民認定申請が法61
条の2第2項所定の期間経過後にされたもので、かつ、同項ただし書に規定するやむを得な
い事情が認められないこと(以下「制限期間不遵守」という。)のいずれかの申請拒否要件が
あれば難民不認定処分は適法と解すべきところ、本件不認定裁決においては、難民非該当を
理由に本件不認定処分が維持されているから、本件不認定処分は、イのとおり、その処分時
における難民非該当を理由とするものとして適法である。
イ ①原告の供述する本件難民認定申請に至る経緯が不自然で信用できないこと、②原告がア
フガニスタンにおいて迫害を受けるおそれがあることを基礎付ける事情に係る原告の供述も
信用できないこと、③原告の供述を裏付ける手紙等は成立の真正が疑わしく信ぴょう性に乏
しいこと、④本件不認定処分の当時、アフガニスタンにおいて、およそイスラム教シーア派
のハザラ人であれば迫害を受けるおそれがあったとはいえないこと、⑤本件難民認定申請の
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目的が本邦での長期就労にあったと推認できることに照らし、上記の当時、原告は、難民に
該当していなかった。
 本件不認定裁決の適法性について
(原告の主張)
本件不認定裁決は、その理由として、単に難民条約上の難民に該当しない旨を述べるのみで、
その具体的判断内容を明らかにしていない。難民該当性の認定が難民条約及び議定書に基づく
国の義務を履行するための手続であって法務大臣に裁量判断の余地がなく、その判断を誤れば
申請者の生命・身体・自由に重大な危険を生じさせることになるものであることを考慮すると、
本件不認定裁決は、行政処分においては、判断の慎重・合理性を担保し、申請者の争訟提起の
便宜を図るため、その理由を被処分者に明らかにしなければならないという憲法上の要請に反
し、違法である。
(被告法務大臣の主張)
難民の認定は、難民条約に定める各種保護を与える前提として、申請人たる外国人が難民条
約の適用を受ける難民であることを確認する行為であり、難民不認定処分ないしこれに係る裁
決は、当該外国人が難民条約の適用を受ける難民とは認定できないことを確認するにすぎず、
本来、外国人に保障された人権を制約するという性格のものではない。そうすると、難民不認
定処分及びこれに係る裁決において、法務大臣は難民該当性を基礎付ける事実の存在が認めら
れないとき又は制限期間を経過して申請がされ、かつそのことにやむを得ない事情が認められ
ないときは、難民と認定できないことになるから、これを理由として提示すれば足りるという
べきである。本件不認定裁決は、難民に該当しない旨の理由が付されており、適法である。
 本件退去裁決の適法性について
(原告の主張)
次のとおり、原告に対しては在留特別許可が付与されるべきであったのであり、本件退去裁
決において原告に在留特別許可を付与しなかった被告法務大臣の判断は、違法である。
ア 前記(原告の主張)イの諸事情に加え、アフガニスタンでは本件退去裁決がされた時点
においてもタリバンの復活のおそれが存在しており、原告の迫害に対する恐怖心を解消する
程度に状況が安定していたとは到底いえないことを考慮すると、原告は、その時点において
も、難民に該当し、アフガニスタンへ帰国すると生命、身体及び自由への侵害の危険が明ら
かに予想されていた。また、仮に、原告が難民に当たらないとしても、上記時点におけるアフ
ガニスタンの状況に照らし、原告にはなお生命、身体又は自由に対する相当大きな脅威が存
在していた。したがって、被告法務大臣の上記判断は、日本国憲法(以下「憲法」という。)13
条、14条、市民的及び政治的権利に関する国際規約(以下「B規約」という。)6条、7条、9
条、26条の各規定に違反するし、仮に、そうでないとしても、それらの規定の趣旨に照らせ
ば、被告法務大臣の裁量権の範囲を大きく逸脱したものである。
イ 前記(原告の主張)イの諸事情によれば、本件不認定処分の当時、原告は、合法的に日本
- 7 -
国に在留している難民として、国の安全又は公の秩序を理由とする場合を除くほか、他国に
追放されない権利を有し、被告法務大臣は、原告の在留期間の更新を許可し続けるべき義務
を負っていた(難民条約32条)。ところが、前記前提事実のとおり、原告は、被告法務大臣が
本件不認定処分に相前後して原告の在留期間の更新を不許可とした結果、法24条4号ロに該
当するに至ったものであり、このまま退去強制されれば、5年間の上陸拒否(法5条1項9
号後段)という重大な不利益を被ることになる。そうすると、仮に、本件不認定処分後の事情
の変動により、原告が本件不認定裁決ないし本件退去裁決の時点では難民に該当しなくなっ
ていたとしても、それは本件不認定裁決に係る手続の遅延によるものであり、そのために原
告が上記のような不利益を被るのは極めて不合理である。したがって、被告法務大臣の上記
判断は、明らかに裁量権の範囲を逸脱したものである。
(被告らの主張)
前記(被告法務大臣の主張)イのとおり、本件不認定処分の時点において原告は難民に該
当していなかった上、本件退去裁決がされた当時、アフガニスタンにおいては、タリバンは組
織として完全に崩壊し、相当数のハザラ人が参加した暫定政権が成立していて、原告が迫害を
受けるおそれはなかったこと、原告の本邦入国が就労目的で、本件難民認定申請の動機も本邦
で長期間就労を継続することにあったものと推認できること、その他原告に在留を特別に許可
すべき理由は見いだせないことを考慮すれば、原告に在留特別許可を付与しなかった被告法務
大臣の判断が、裁量権の範囲を逸脱し、又はこれを濫用したものとはいえず、本件退去裁決は
適法である。
 本件令書発付処分の適法性について
(原告の主張)
前記(原告の主張)のとおり、本件退去裁決は違法であるから、法49条5項の規定により
本件退去裁決に基づいてされた本件令書発付処分も違法である。
また、前記(原告の主張)アの諸事情によれば、原告は、本件令書発付処分がされた当時に
おいても難民であり、アフガニスタンにおいて生命等が脅威にさらされるおそれがあったか
ら、本件令書発付処分は、難民条約32条1項及びノン・ルフールマン原則(難民条約33条1項、
法53条3項、拷問等禁止条約3条1項)に反し、違法である。
(被告主任審査官の主張)
被告主任審査官は、被告法務大臣が本件退去裁決をした以上、本件令書発付処分をしなけれ
ばならないところ(法49条5項)、前記(被告らの主張)のとおり、本件退去裁決は適法であ
るから、これに基づいてされた本件令書発付処分も適法である。
なお、前記(被告らの主張)のとおり、原告は、本件不認定処分の時点において難民に該当
せず、本件退去裁決がされた当時にも、アフガニスタンに送還されても迫害を受けるおそれは
なかったのであるから、本件令書発付処分は、難民条約32条1項及びノン・ルフールマン原則
に違反しない。
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第3 当裁判所の判断
1 本件不認定処分の適法性(争点)について
 判断の枠組みについて
ア 前記前提事実によれば、本件不認定処分は、その処分がされた当初においては、制限期間
不遵守を処分理由としてされたものであったが、その後、本件不認定裁決により、上記処分
理由が撤回され、難民非該当に差し替えられた上で、原告について難民の認定をしないとい
う結論が維持されたものと認められる。また、被告法務大臣も、本件訴訟において、本件不認
定処分の処分理由としては難民非該当のみを主張し、制限期間不遵守の主張はしないことを
明確にしている。そうすると、本件不認定処分の取消訴訟において問題となる処分理由は、
難民非該当に限られるというべきであり、たとえ本件難民認定申請が法61条の2第2項所定
の制限期間内にされたもので、当初の処分理由が誤りであったとしても、そのことによって
本件不認定処分の違法が導かれるものではない。したがって、本件不認定処分に同項所定の
制限期間遵守の有無の認定を誤った瑕疵がある旨の原告の主張は失当である。
なお、制限期間不遵守のみを処分理由としてされた難民不認定処分の取消訴訟において法
務大臣が新たに難民非該当を処分理由として主張することが許されるか否かについては、議
論の存するところである。しかしながら、本件では、本件不認定裁決において、本件不認定処
分の処分理由(制限期間不遵守)と異なる処分理由(難民非該当)により、原告について難民
の認定をしないという本件不認定処分の結論が維持されたのであるから、被告法務大臣は、
本件不認定裁決により、原告が難民に該当するか否かについて、難民調査官による事実の調
査(法61条の2の3)を経た上で、専門的見地から第一次的判断権を行使したものと評価す
ることができるから、被告法務大臣が難民非該当を本件不認定処分の処分理由として主張す
ることに何ら差し支えはないというべきである。
イ 上記のとおり、本件不認定処分は、本件不認定裁決により、難民非該当という処分理由の
下で維持されたものであるところ、被告法務大臣は、本件訴訟において、本件不認定処分の
時点において認められた事情を基礎として本件不認定裁決を行ったとし、難民該当性の判断
は本件不認定処分時が基準時になる旨明確に主張している。そうであれば、本件不認定処分
の取消訴訟において問題となる原告の難民該当性判断の基準時は、本件不認定処分の時と解
するのが相当である。
ウ 前記法及び条約の定めのとおり、議定書1条は、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集
団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由
のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けること
ができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まな
いもの及び常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有していた国
に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に
帰ることを望まないものについて、難民条約2条から34条までの規定を適用する旨規定して
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いる。
そして、ここにいう「迫害」とは、通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし
圧迫であって、生命又は身体ないしその自由の侵害又は抑圧をもたらすものを意味し、「迫害
を受けるおそれがある十分に理由のある恐怖を有する」というためには、その者が迫害を受
けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情のみならず、通常人がその者の
立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情が存在していることが必要であ
ると解される。
エ 難民非該当を処分理由とする難民不認定処分の取消訴訟において、申請者が難民に当たる
こと又は当たらないことの立証責任をいずれの当事者が負うべきかについては、①法61条の
2第1項は、「法務大臣は、……申請があったときは、その提出した資料に基づき、その者が
難民である旨の認定を行うことができる。」と定め、出入国管理及び難民認定法施行規則55
条1項は、難民の認定を申請しようとする外国人は、難民に該当することを証する資料を提
出しなければならないと定めていること、②難民の認定は、申請者の難民該当性について公
の権威をもって判断する行為で、事実の確認であり、これを受けていることが他の利益的な
取扱い(法61条の2の5、61条の2の6、61条の2の8)を受けるための要件となっており、
授益処分に該当するところ、授益処分については原則として申請者に立証責任があると解さ
れること、③難民であることを基礎づける事実は、通常申請者の生活領域内で生じる事実で
あること、④国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の難民認定基準ハンドブックにおいても、
申請を提出する者に立証責任があるのが一般の法原則である旨記述されていること(顕著な
事実)に照らすと、申請者は、自らが難民であることの立証責任を負うものと解するのが相
当である。
しかし、国籍国等において迫害を受け、又は迫害を受けるおそれがある者が、十分な客観
的証明資料を所持せずに国籍国等を出国し、出国後もこれらの資料の収集に困難な場合があ
ることは、経験則上認められるところである。そうすると、上記のとおり、難民であることに
ついての終局的な立証責任を負うのは申請者であるとしても、難民該当性の認定に当たって
は、申請者がこれらの資料を提出せず、あるいは申請者の提出した証拠の信ぴょう性に乏し
い部分があるからといって、直ちに難民であることを否定するのは相当でなく、本人の供述
等を中心に、資料収集の困難な事情をも十分に考慮した上で、申請者が難民であることを基
礎付ける根幹的な事実が認定できるかどうかという観点から判断する必要があるというべき
である。
オ 以上を前提に、本件不認定処分がされた当時、原告が難民に該当していたと認められるか
否かについて検討する。
 本件不認定処分がされた当時のアフガニスタン情勢について
前記前提事実、証拠(後掲)及び弁論の全趣旨によれば、本件不認定処分がされた当時までの
アフガニスタン情勢に閲し、次の各事実が認められる。
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ア 1993年(平成5年)以降、全土が内戦状態にあったアフガニスタンにおいては、1994年(平
成6年)、パシュトゥーン人を中心とするイスラム原理主義勢力タリバンが台頭し、イスラム
原理主義政権の樹立を目指して勢力を拡大し、1995年(平成7年)にかけて、カンダハルを
中心とするアフガニスタン南部を制圧した(乙42、45、46、59、60)。タリバンは、同年3月、
カブールに進攻し、同市内を分割支配して対立・抗争していたラバニ派及びイスラム統一党
マザリ派と交戦したが、カブールを制圧するには至らなかった(乙46、59、60)。その過程に
おいて、マザリ派は、ラバニ派及びタリバンの双方から攻撃を受け、カブール市内南西部の
ハザラ人が多く居住する支配地域を失うとともに、指導者マザリがタリバンに拘束されて死
亡し、ハリリが新たに指導者となった(乙44、46、60)。また、タリバンは、同年9月、アフガ
ニスタン西部の中心都市ヘラートを制圧し、同年11月から12月にかけて再びカブールヘの
攻撃を行った(乙46、59、60)。
イ タリバンは、1996年(平成8年)9月末、ラバニ派を中心とする政権が支配していたカブ
ールを制圧し、暫定政権の樹立を宣言した。これに対し、ラバニ派、ハリリ派、ドストム派等
の各派は、北部マザリ・シャリフを中心に反タリバン同盟(通称北部同盟)を結成し抵抗を
続け、1997年(平成9年)5月には、タリバンがマザリ・シャリフを一時占領したのに対し、
数日のうちにこれを撃退した(甲11、乙44)。その際、ハリリ派は、タリバンの兵士約300人
を殺害するとともに、約2000ないし3000人を捕虜にした(甲11、乙44、49)。
ウ これに対し、タリバンは、その後もマザリ・シャリフへの攻撃を継続し、同年9月には、マ
ザリ・シャリフ近郊のゲゼラバードにおいて、子供を含む約70人のハザラ人非戦闘員を殺害
した(甲11、乙49)。また、1998年(平成10年)8月8日、タリバンの攻勢によりマザリ・シ
ャリフが陥落し、タリバンは、前記のとおり多数のタリバン兵士が殺害されるなどしたこと
への報復として、ハザラ人を中心に、約2000ないし8000人の市民を殺害するとともに、多く
の市民を拘束した(甲11、乙44、49、50)。さらに、タリバンは、同年9月13日、ハリリ派の
拠点バーミヤンを陥落させたが、その際の戦闘においても、非戦闘員の市民が多数殺害され
た(甲11、乙49、50)。
エ その後、同年末には、アフガニスタン国土の大半をタリバンが支配するに至ったが、1999
年(平成11年)から2000年(平成12年)にかけても、国際社会による和平調停が行われる一
方で、タリバンと北部同盟との戦闘が継続された(甲11、乙48、50、59)。
オ タリバン政権下におけるハザラ人又はシーア派信仰者に対する人権侵害に関し、国際機関
等により、次のような報告がされている。
ア アフガニスタンにおいては、1995年(平成7年)以降、氏族的対立が目立ち始め、ある
地域が対立する勢力に占拠されると、少数民族に対し、残虐な行為が加えられることがあ
る。アフガニスタンでは、特にタリバンとハザラ人との間に民族的な対立が存在したが、
これまでそのような民族浄化は全く経験されていなかった(乙49)。
イ タリバン政権下における人権侵害の主要な標的には、タリバンと関係しない非パシュト
- 11 -
ゥーン人、宗教的少数者等が含まれていたが、発生した人権侵害の主要な要因は、宗数へ
の加入又は民族的特性によるとは限らず、むしろ、タリバンに対し、実際に反対者であっ
たか又はそのように解されたことによる(乙49)。
ウ タリバンの少数民族に対する対応は、反対勢力との接触の疑いがあるという主に政治的
な動機によるものであり、戦闘地域及び衝突のおそれのある地域の少数民族は、特に危険
である(乙50)。
エ ハザラ人は、その民族のために組織的に迫害されているわけではないが、特に戦闘年齢
の男性は、戦闘地域や反対勢力が形作られている地域において、反対勢力とのつながりを
疑われており、シーア派教徒も同様に反対勢力に属していると疑われることがある(乙
50)。
カ 日本国外務省は、平成10年12月28日付けで、アフガニスタンについて、現地情勢にかんが
み、危険度5の退避勧告の継続を発表し、どのような目的であれ、アフガニスタンへの渡航
は、情勢が安定するまで延期するよう勧告していた(乙59)。
 原告の個人的事情等について
ア 原告は、アフガニスタンにおいて迫害を受けるおそれがあること等に関し、概要、次のよ
うに供述する(甲12、原告本人)。
ア 1960年(昭和35年)、父Bと母の間の四男として出生した。3人の兄(長男C、次男D、
三男E)がいる。1984年(昭和59年)、妻Fと婚姻し、同人との間に3男2女をもうけた。
イ 1979年(昭和54年)、カブールの中等・高等学校を卒業し、社会主義政権による徴兵の
ため2年間の兵役を務めた後、カブールにおいて、Cと共に自動車及び自動車部品の販売
業を営んでいた。
ウ 原告は、同年、ハラカティ・イスラミに入党した。ハラカティ・イスラミにおいては、軍
事部門の指導者であるサイエド・ホセイン・アンワリ将軍のグループに属し、主としてポ
スターの作成、貼付等の仕事に従事していたが、兵士として活動したことはなかった。
エ 1993年(平成5年)、カブールにおいて、パシュトゥーン人及びタジク人のグループ(エ
テハッド)がハザラ人の居住地区に侵攻し、多くのハザラ人を逮捕、殺害し、略奪を行うと
いう事件が発生した。その際、原告は、甥(Eの子)が殺害されるなどしたため、自宅や家
族を守るため、銃を持って上記グループとの戦闘に参加した。
オ 上記のとおり甥が殺害された5か月か6か月前のころ、原告は、上記グループに拘束さ
れて銃床等で殴打されるなどの暴行を受け、翌日に上記グループの捕虜との交換で解放さ
れたものの、上記暴行により歯が折れ、左耳が聞こえなくなるなどの傷害を負い、1週間
の入院を余儀なくされた。
カ 原告は、1996年(平成8年)2月パシュトゥーン人との争いから逃れるため、前記アの
家族と共にカブールからマザリ・シャリフへ移り住み、兄らと共に自動車及び自動車部品
の販売業を営むようになった。
- 12 -
キ 原告は、自動車部品の買付けを行うため、日本語及び英語を話すことのできるハザラ人
Gと共に、平成9年1月31日、同年9月8日及び平成10年3月16日の3回にわたって本邦
に入国・滞在した。その際、Hからマザリ・シャリフにおいて商品を販売して得た買付資
金をGが本邦に開設していた銀行口座に随時送金してもらい、その資金を用いて、Gの通
訳により、中古自動車部品の買付けを行っていた。
ク タリバンは、1998年(平成10年)までに、マザリ・シャリフへ2度侵攻したが、いずれ
も敗退し、そのうち1度目の侵攻時には、約2000名のタリバン兵士が殺害された。原告は、
タリバンとの戦闘に直接加わったことはないが、所有する自動車で戦闘による負傷者を病
院に運び、あるいはイスラム統一党の司令官に資金を提供するなどの援助を行っていた。
ケ 原告及びその兄らは、同年8月、タリバンのマザリ・シャリフに対する3度目の攻勢を
受けて、仮にマザリ・シャリフがタリバンに陥落すれば、若者はタリバンに捕まって殺さ
れてしまうだろうという話になり、兄弟のうちで一番若い原告は、以前からこの時期に予
定していた日本での自動車部品の買付けを行う目的も兼ねて、マザリ・シャリフを脱出す
ることとなった。原告は、同月6月早朝、マザリ・シャリフを出てHに山まで送ってもら
い、以後、山岳地帯を自動車及び徒歩で移動し、バーミヤン、カズニ及びカンダハルを経由
してパキスタンのクィタに到着し、クィタから飛行機でペシャワールに入って、Gと落ち
合った。マザリ・シャリフが陥落したという話は、バキスタンへの移動中にも聞いていた
ものの、そのことを確実な情報として知ったのは、パキスタン入国後である。しかし、それ
までと同様に、今回もタリバンは敗退するのではないかと思っており、また、家族とは連
絡が取れなかったが、タリバン占領下のマザリ・シャリフに戻って家族を捜すわけにも行
かず、このままペシャワールで状況の変化を待っていても仕方がないので、予定どおり自
動車部品の買付けを行うため、日本へ向かうことにした。
コ 同年9月28日、Gと共に本邦に入国し、パキスタンから本邦の自分の銀行口座に送金し
た手持ちの資金1万ドル分の自動車部品の買付けを行ったが、約束していたHからの送金
がなく、資金が尽きたため、Gとの協力関係も維持できなくなった。原告は、Cからの送金
を待つとともに、日銭を稼ぎ、また気を紛らわせるため、塗装工として稼働し始めたが、依
然として送金がないことや、他のアフガニスタン人から聞いた情報により、マザリ・シャ
リフにおいてタリバンがハザラ人に迫害を加えていることが分かったことから、Hがタリ
バンにより殺害されたのではないかと思うようになり、自分もアフガニスタンに帰れば間
違いなく危険であると考え、本件難民認定申請をした。
サ 原告は、平成11年3月、友人のIから兄らがタリバンに捕まったらしいとの話を聞き、
その後、父母及び妻から届いた手紙(甲1ないし3、5)により、3人の兄がタリバンに拘
束されたこと、そのうちDは、一時釈放されたものの、再度拘束されて死亡したこと、Hは
カンダハルの収容所に、Eはシベルガンの収容所にそれぞれ連行されたようだが、結局行
方不明となっていること、父母も亡くなったこと等を知った。
- 13 -
シ 原告の妻及び子らは、長男が成長し、タリバンから目を付けられるおそれが生じたため、
同年、マザリ・シャリフを脱出し、パキスタンへ移り住んだ。
イ 原告は、上記供述の裏付けとして、以下の文書を提出しているので、これらの文書につい
て検討する。
ア イスラム太陽暦1378年4月10日(平成11年7月10日)付け手紙(甲1の1。以下「甲1
の手紙」という。)
a 甲1の手紙の前半部分は、その記載内容から原告の父又は母が作成名義人であること
を読み取ることができ、①マザリ・シャリフの陥落後、Dがタリバンに捕まったが、健
康を害したため、10か月後に釈放されたこと、②Eも、タリバンに拘束されカンダハル
ヘ連行されたこと、③イスラム太陽暦1377年6月1日(平成10年8月23日。なお、甲1
の翻訳文に1378年」とあるのは、「1377年」の誤りと思われる。)、タリバンがマザリ・
シャリフの原告宅を捜索し、モハケック、イスラム統一党等に対する援助の領収書、ア
リ・サルワル司令官に贈与したランドクルーザーの領収書等を押収したこと、④Hはそ
の場にいなかったこと、⑤その後、タリバンは、月に1、2度、原告宅を捜索し、原告の
行方を捜していること等が記載されている。
また、甲1の手紙の後半部分は、原告の妻が作成名義人となっており、タリバンが、原
告宅から、原告がモハケックやドストムと一緒に写った写真等を押収したこと等が記載
されている。
b 原告は、甲1の手紙の筆跡は原告の父のものである旨供述しているところ、被告らは、
甲1の手紙は、成立の真正が疑わしく、内容の信ぴょう性にも乏しいと主張するので、
以下検討する。
 甲1の手紙は、その作成日付けから1年近く前の出来事であるタリバンによる原告
宅の捜索・押収の様子や原告の兄らがタリバンに拘束されたこと等が詳細に記載さ
れ、原告がマザリ・シャリフにとどまっていた場合の危険を強調する内容になってい
る。そうすると、甲1の手紙は、その作成者において原告が本件難民認定申請を行っ
ていることを認識した上で、原告が難民認定を受けるために有利な資料を提供すると
いう目的で作成された可能性があり、その信ぴょう性の吟味は、他の証拠等との整合
性等を踏まえて慎重に行う必要があるものと考えられる。
しかしながら、原告の供述するように、原告の家族において、何らかの方法によっ
て原告が本件難民認定申請をしたことを知り、アフガニスタンに帰国した場合の危険
を報告して原告の援助をするために、あえて上記のような内容の手紙を作成した可能
性も否定できず、上記事情のみをもって甲1の手紙が偽造されたもの又は内容虚偽の
ものとまで断じることはできない。
 また、原告は、原告の家族がペシャワールに行くスンニ派タジク人に甲1の手紙を
託し、その者がペシャワールのパークホテルに滞在中のハザラ人に手紙を手渡し、そ
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のハザラ人が愛知県岡崎市にいたハザラ人Jに甲1の手紙を届け、Jが原告に甲1の
手紙を手渡した旨主張・供述する(原告本人)ところ、被告らは、甲1の手紙の封筒(甲
1の2)には、あて先として、マザリ・シャリフで自動車や自動車部品の販売をして
いた原告に届けてほしい旨の記載しかなく、上記のような託送により、第三者を介し
て現実に、日本に届くとは考えられず、また、上記のような内容の手紙がタリバン等
の手に渡れば家族の生命にも危険が及ぶ可能性があるのに、これをスンニ派の人物に
託すのは不合理であり、さらに、甲1の手紙をJから受け取った際にこれがどのよう
にして届けられたのか尋ねなかったという原告の供述(原告本人)は不自然であるな
どと指摘する。
しかしながら、後記のとおり、イの手紙(甲2の1)には、原告の上記主張ないし供
述に沿う記載がある。また、確かに、証拠(乙66)によれば、平成11年以降、日本とア
フガニスタンとの間の郵便業務は、平成13年10月14日から平成14年1月16日までの
間を除き、特に制限等はされていなかったことが認められるが、長年にわたって内戦
状態にあり、タリバンと北部同盟との戦闘が継続していた当時の情勢に照らすなら
ば、アフガニスタン国内において、郵便制度が正常に機能していたかは疑問であるし、
仮にこれが機能していたとしても、タリバン政権下の郵便制度をあえて利用せず、原
告の家族において信頼できると考えた第三者を介して我が国に滞在する原告に手紙を
届けようとするのも理解できない行動ではない。さらに、原告の供述によれば、Jが
原告の家族から直接甲1の手紙を託されたものでなく、Jが原告の家族の消息を知っ
ているとは限らない状況であったのであるから、原告がJに対し甲1の手紙がどのよ
うにして手元に届けられたかを確認しなかったとしても、それを直ちに不自然な行動
ということはできない。
 被告らは、別件訴訟の判決においてハザラ人J’ の関与した文書の成立の真正に疑
問が示されたことを指摘し、原告の供述するJとは、上記J’ である旨主張する。
しかし、原告はこれを否定する供述をしており(原告本人)、両者が同一人物である
ことを認めるに足りる証拠はない(なお、原告は、甲1の手紙を「大阪で会社を持って
いたハザラ人のJ” から受領した」と主張しており、本人尋問においても、平成12年
ころ、イスラム統一党関係の文書を来日した「J”’」から受け取ったこと、「J”’」を介
して原告の電話番号が家族に伝わったことなどを供述しているが、これらの事情によ
っても、原告の主張又は供述する「J」、「J”」ないし「J”’」と被告の指摘する「J’」
との同一性は明らかではない。)。また、別件訴訟とは事案及び証拠状況を異にする本
件訴訟において、上記判決の判示をもって直ちに甲1の手紙に信ぴょう性がないとま
でいうことはできない。
 したがって、甲1の手紙の記載内容の信用性については、他の証拠等との整合性等
の観点から慎重な吟味が必要であるが、甲1の手紙が父の筆跡である旨の原告の前記
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供述をにわかに排斥することはできず、甲1の手紙が成立の真正の証明を欠き、ある
いはおよそ信ぴょう性に乏しいものとすることはできない。
イ イスラム太陽暦1378年8月15日(平成11年11月6日)付け手紙(甲2の1。以下「甲2
の手紙」という。)
a 甲2の手紙は、原告の妻が作成名義人であり、①この前に出した手紙を託した人は、
パークホテル前に集まっていたハザラ人らが原告を知っていたので、そのうちの1人に
手紙を託した旨述べていること、②イスラム太陽暦1377年6月1日(平成10年8月23
日)、タリバンがマザリ・シャリフの原告宅を捜索し、モハケック、イスラム統一党等に
対する援助の領収書、原告がモハケックやドストムと一緒に写った写真等を押収したこ
と、③その後、タリバンは、月に1、2度、原告宅を訪れ、原告の行方を捜していること、
④イスラム太陽暦1377年7月12日(平成10年10月4日)、Hがタリバンに捕まったこ
と、⑤HとEは、今のところ殺される心配はなく、カンダハルとシベルガンにそれぞれ
収容されているようであること等が記載されている。
b 原告は、甲2の手紙について、筆跡は原告の父のものであり、原告の家族から託送に
よってアフガニスタン国籍を有するKの下に届けられ、同人から原告に手渡された旨供
述しているところ、被告らは、甲1の手紙と同様に、甲2の手紙も、成立の真正が疑わし
く、内容の信ぴょう性にも乏しいと主張する。
しかし、アbにおいて判示したのと同様に、甲2の手紙は、上記のような記載内容に
照らすと、その作成者において原告が本件難民認定申請を行っていることを認識した上
で、原告が難民認定を受けるために有利な資料を提供するという目的で作成された可能
性があり、その記載内容の信用性については、他の証拠等との整合性等の観点から慎重
な吟味が必要であるが、甲2の手紙が父の筆跡である旨の原告の前記供述をにわかに排
斥することはできず、甲2の手紙が成立の真正の証明を欠き、あるいはおよそ信ぴょう
性に乏しいものとすることはできない。
c なお、前記のとおり、甲2の手紙には、イスラム太陽暦1377年7月12日(平成10年10
月4日)にHがタリバンに捕まったことが記載されているところ、仮にこの日付が正し
ければ、イスラム太陽暦1378年4月10日(平成11年7月10日)付けの甲1の手紙に上
記のような記載がないのは、やや不自然といえる。
しかし、上記各手紙の記載が積極的に矛盾するとまではいえないこと、甲2の手紙の
文脈上、Hが捕らわれたのは、イスラム太陽暦1378年7月(平成11年10月)の出来事で
あるとも善解し得ないではないこと、甲1の手紙及び甲2の手紙が偽造され、あるいは
虚偽の内容を記載されたものとするならば、あえてこのような不自然な記載がされると
は考え難いことに照らし、上記の点をもって、甲1の手紙及び甲2の手紙が成立の真正
の証明を欠き、あるいはおよそ信ぴょう性に乏しいものとすることはできない。
ウ イスラム太陽暦1378年9月13日(平成11年12月4日)付け手紙(甲3の1。以下「甲3
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の手紙」という。)
a 甲3の手紙は、原告の父及び妻が作成名義人であり、①最近、Dがタリバンに捕まっ
たこと、②タリバンに拘束されているHはシベルガンにいるが、Eの所在は不明である
こと、③原告がイスラム統一党や司令官に援助したお金と車の受領書をタリバンが持っ
ていったこと、④イスラム統一党のアリ・サルワル司令官の母がバルクアブから原告宅
を訪ねてきて、タリバンの事務所で働いている中立の者が、タリバンの出した文書をこ
っそりと取り出し、イスラム統一党を介してバルクアブヘ送っており、同党は、その文
書内容を協力者に知らせていること、⑤約1月前に原告の従兄弟であるLがタリバンに
捕まり、原告宅の近所でも、数週間前に2人がタリバンに捕まったこと等が記載されて
いる。
b 原告は、甲3の手紙について、筆跡は原告の父のものであり、原告の家族から託送に
よって愛知県岡崎市のMの下に届けられ、同人から原告に手渡された旨供述していると
ころ、被告らは、甲1、2の手紙と同様に、甲3の手紙も、成立の真正が疑わしく、内容
の信ぴょう性にも乏しいと主張する。
しかし、アbにおいて判示したのと同様に、甲3の手紙は、上記のような記載内容に
照らすと、その作成者において原告が本件難民認定申請を行っていることを認識した上
で、原告が難民認定を受けるために有利な資料を提供するという目的で作成された可能
性があり、その記載内容の信用性については、他の証拠等との整合性等の観点から慎重
な吟味が必要であるが、甲3の手紙が父の筆跡である旨の原告の前記供述をにわかに排
斥することはできず、甲3の手紙が成立の真正の証明を欠き、あるいはおよそ信ぴょう
性に乏しいものとすることはできない。
エ イスラム太陰暦1419年《日付略》付け殺害指示書(甲4)
a 上記殺害指示書は、バルフ県諜報部事務所マザリ・シャリフ支部のNが作成名義人で、
その旨の署名があり、Bの息子で、イスラム統一党に所属し、《地名略》県出身の原告は、
アブガニスタン・イスラム首長国の敵であり、その逮捕を執行すること及びもし逮捕で
きない場合は見つけ次第処刑することを許可する旨が記載されている。なお、上記殺害
指示書の右上部には、イスラム太陽暦で1378年《日付略》との日付が記載されている。
b 上記殺害指示書は、仮にこれが真正に成立したものであるとすれば、タリバン内部に
おいて保管されているはずの文書であるところ、原告は、その入手経緯について、タリ
バンの事務所職員が上記殺害指示書を盗取してイスラム統一党に手渡し、これをアリ・
サルワル司令官の母が原告宅に持参し、原告の家族が甲3の手紙に同封して託送した旨
主張しており、甲3の手紙にもこれに沿う記載がある(前記ウaの④)。
しかしながら、上記のような入手経緯は、タリバンの事務所職員が自ら危険を冒して
まで上記殺害指示書を盗取してイスラム統一党に交付したとする点において非常に不自
然であり、容易には納得できない。また、原告の供述(原告本人)を前提としても、原告は、
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イスラム統一党の党員ではなく、同党に対し他のお金を持っているハザラ人と同等の資
金援助等を行っていたにすぎないのであり、そのような原告に対し、マザリ・シャリフ
の陥落後18日程度しか経過していない時期に、わざわざ上記のような殺害指示書が発行
されるというのも、不自然な印象を免れない。さらに、前記のような人定事項を基にし
て実際に原告を捜し出すのは、非常に困難であると考えられる。これらの事情に照らす
と、甲3の上記記載及び原告の上記主張をにわかに採用することはできず、他に上記殺
害指示書が真正に成立したことを認めるに足りる証拠はない。
したがって、上記殺害指示書は、成立の真正に疑問があり、信ぴょう性に乏しいもの
といわざるを得ない。
オ イスラム太陽暦1379年3月16日(平成12年6月5日)付け手紙(甲5の1。以下「甲5
の手紙」という。)
a 甲5の手紙は、原告の妻が作成名義人であり、①原告の両親が死亡したこと、②タリ
バンが原告宅にDの遺体を持ってきたこと、③原告の妻子らは、原告の長男が大きくな
り、タリバンにより逮捕・殺害される危険が高まったため、マザリ・シャリフからパキ
スタンヘ行くことにしたこと、④Dは、タリバンに捕まり、一度釈放されたが、それは原
告を捕まえるための罠であり、原告がいないことが分かると、タリバンは、もう一度D
を拘束し、拷問して殺害したこと、⑤パキスタンまで逃げたときのことを電話で話した
かったが、時間がなく、お金もかかるので手紙にしたこと、⑥原告の妻子らは、パキスタ
ンの《地名略》港に到着した後、イスラム統一党の援助を受け、現在はパキスタンの《地
名略》に住んでいること、⑦パキスタンへ向かう途中、持っていたお金と装飾品をタリ
バンに取り上げられたこと等が記載されている。
また、その封筒(甲5の2)の表面には、あて先を大阪市生野区所在のaという会社の
Oとする旨及び甲5の手紙を原告に渡してほしい旨が記載され、2000年(平成12年)、
6月13日付けの消印が押捺されており、その裏面には、パキスタンの《地名略》におけ
る原告の家族の住所が記載され、国際エクスプレスメールによって上記aに配達された
ことを示す伝票が貼付されている。
b 原告は、甲5の手紙について、誰の筆跡かは不明であるが、何者かが文字の読み書き
ができない原告の妻が述べたことを代書したもので、原告の家族がaに勤務する原告の
同僚のOあてに郵便を出した旨供述しているところ、被告らは、甲1ないし3の手紙と
同様に、甲5の手紙も、成立の真正が疑わしく、内容の信ぴょう性にも乏しいと主張す
る。
しかし、アbにおいて判示したのと同様に、甲5の手紙は、上記のような記載内容に
照らすと、その作成者において原告が本件難民認定申請を行っていることを認識した上
で、原告が難民認定を受けるために有利な資料を提供するという目的で作成された可能
性があり、その記載内容の信用性については、他の証拠等との整合性等の観点から慎重
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な吟味が必要であるが、原告の上記供述をにわかに排斥することはできず、甲5の手紙
が成立の真正の証明を欠き、あるいはおよそ信ぴょう性に乏しいものとすることはでき
ない。
なお、原告は、平成12年4月ないし5月ころに原告の妻から電話連絡があった旨供述
している(乙37)ところ、被告らは、同年6月になってわざわざO経由で甲5の手紙を
出す必要はなかった旨主張するが、甲5の手紙の分量やその記載内容の重要性に照らせ
ば、その伝達のために電話ではなく手紙を用いたことも首肯し得るところである。
カ イスラム太陽暦1371年《日付略》付け病院紹介状(甲7)
a 上記病院紹介状は、b衛生局の医師が作成名義人であり、カブールの病院あてに、①
原告はハラカティ・イスラミのメンバーであり、アフガニスタン・イスラム国の敵によ
って拷問を受けたこと、②原告は重傷であり、入院と投薬による治療を希望すること等
が記載されている。
b 原告は、原告の家族が、原告宅にあった上記病院紹介状をパキスタンへ持参し、甲8
ないし10の文書と共に甲5の手紙に同封して郵送してきたのではないかと思う旨供述
する。
しかしながら、原告は、甲7ないし10の文書について、原告の妻が2000年(平成12
年)5月24日付けの封筒に入れてペシャワールから原告に送付した旨主張しているこ
と、甲1ないし3の手紙には、タリバンが原告宅を繰り返し捜索し、イスラム統一党
等に提供した資金の領収書等を押収していることが記載されていること、甲5の手紙
には、原告の妻がパキスタンへ向かう途中、所持していたお金と装飾品をタリバンに取
り上げられた旨記載されていること、上記aの記載内容は、単なる病院の紹介状とし
ては不自然であり、平成4年当時に発行された上記病院紹介状を、その後も原告宅に保
管していた理由も明らかでないことに照らすと、原告の上記供述をにわかに採用するこ
とはできず、他に上記病院紹介状が真正に成立したことを認めるに足りる証拠はない。
したがって、上記病院紹介状は、成立の真正に疑問があり、信ぴょう性に乏しいもの
といわざるを得ない。
キ イスラム太陽暦1377年《日付略》付け避難指示書(甲8)
a 上記避難指示書は、ハラカティ・イスラミのサイエド・ホセイン・アンワリ司令官が
作成名義人であり、①ロシアとの戦闘の際及びマザリ・シャリフにおけるタリバンの攻
撃の際に、原告が政治・経済・文化面で多大な支援をしたことを賞すること、②原告は
ハラカティ・イスラミの国家に貢献する人物であり、原告及びその家族は危険な状況で
あるため、マザリ・シャリフから避難するよう指示すること等が記載されている。
b 原告は、原告の家族が、原告宅にあった上記避難指示書をパキスタンへ持参し、甲7、
9、10の文書と共に甲5の手紙に同封して郵送してきたのではないかと思う、旨供述す
る。
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しかしながら、カbにおいて判示したないしの事情に加え、上記aの記載内容は、
余りにも説明的で、原告に避難を指示するためにわざわざこのような文書を作成する必
要性があるのか疑問であることに照らすと、原告の上記供述をにわかに採用することは
できず、他に上記避難指示書が真正に成立したことを認めるに足りる証拠はない。
したがって、上記避難指示書は、成立の真正に疑問があり、信ぴょう性に乏しいもの
といわざるを得ない。
ク イスラム太陽暦1358年《日付略》付け党員証(甲9)
a 上記党員証は、ハラカティ・イスラミの党員証である。
b 原告は、原告の家族が、原告宅にあった上記党員証をパキスタンへ持参し、甲7、8、
10の文書と共に甲5の手紙に同封して郵送してきたのではないかと思う旨供述する。
しかしながら、カbにおいて判示したないしの事情に加え、原告は、上記党員証
の発行日の当時、社会主義政権下で兵役に服していたこと(甲12、原告本人)に照らすと、
社会主義政権と対立するムジャヒディンの一員であるハラカティ・イスラミに加入して
いたとするのは不自然であって、原告の上記供述をにわかに採用することはできず、他
に上記党員証が真正に成立したことを認めるに足りる証拠はない。
したがって、上記党員証は、成立の真正に疑問があり、信ぴょう性に乏しいものとい
わざるを得ない。
ケ イスラム太陽暦1374年《日付略》付け検問通行依頼書(甲10)
a 上記検問通行依頼書は、ハラカティ・イスラミのカブール支局長が作成名義人であり、
カブールからマザリ・シャリフのムジャヒディン及び担当者あてに、原告はハラカテ
ィ・イスラミのメンバーであり、支障なく往来できるよう配慮されたい旨が記載されて
いる。
b 原告は、原告の家族が、原告宅にあった上記検問通行依頼書をパキスタンへ持参し、
甲7ないし9の文書と共に甲5の手紙に同封して郵送してきたのではないかと思う旨供
述する。
しかしながら、カないしクにおいて判示したところに照らすと、原告の上記供述をに
わかに採用することはできず、他に上記検問通行依頼書が真正に成立したことを認める
に足りる証拠はない。したがって、上記検問通行依頼書は、成立の真正に疑問があり、信
ぴょう性に乏しいものといわざるを得ない。
ウ 以上を前提に、原告の前記供述の信用性について検討する。
ア ハラカティ・イスラミへの加入(アウ)について
原告は、1979年(昭和54年)以来、ハラカティ・イスラミに加入している旨供述する(甲
12、乙38、原告本人)。
しかしながら、前判示のとおり、ハラカティ・イスラミへの加入に関して原告が提出す
る甲7ないし10の文書は、いずれも成立の真正に疑問があり、信ぴょう性に乏しいもので
- 20 -
ある。
また、前判示のとおり、原告は、同年当時、社会主義政権下で兵役に服していたこと(甲
12、原告本人)に照らすと、社会主義政権と対立するムジャヒディンの一員であるハラカ
ティ・イスラミに加入していたとするのは不自然といわざるを得ない。
さらに、証拠(乙33ないし35、38)及び弁論の全趣旨によれば、原告は、難民調査官によ
る調査に対し、本件不認定処分がされるまで、ハラカティ・イスラミに加入していた事実
を供述したことはなく、本件不認定処分を受け、甲7ないし10の文書等を入手した後、平
成12年10月13日の事情聴取において初めてその事実を供述するに至ったことが認められ
る。このように、タリバンと対立する組織への加入という重要な事実について当初供述し
ていなかったことについて、原告は、合理的な理由を述べていない。
これらの事情によれば、原告の上記供述をにわかに採用することはできない。
イ エテハッドとの戦闘行為に参加した経験(アエ)について
確かに、前記前提事実及び認定事実のとおり、カブールでは、1993年(平成5年)1月に
ラバニが大統領に就任して以降、各派間の主導権争いによる内戦状態に陥っていたこと、
1995年(平成7年)3月には、ハザラ人を中心とするイスラム統一党マザリ派は、ラバニ
派及びタリバンの双方から攻撃を受け、カブール市内南西部のハザラ人が多く居住する支
配地域を失うなどの打撃を被ったことに照らすと、1993年(平成5年)の当時、カブール
のハザラ人居住地域において、パシュトゥーン人やタジク人のグループとハザラ人との間
で何らかの抗争・戦闘があったとしても不自然ではない。
しかしながら、証拠(乙33ないし40)及び弁論の全趣旨によれば、原告は、本件難民認
定申請後、平成15年6月5日付準備書面においてエテハッドとの戦闘行為に参加した事実
を主張するに至るまで、難民調査官等の大阪入管の担当官に対し、そのような事実を供述
したことはなかったものと認められる。その理由について、原告は、自分は戦争を嫌って
おり、日本も戦争が嫌いな国であると思っていたので、武器を手にしたことがあるという
話をすれば、難民認定上不利益ではないかという考えがあり、担当官からも特に質問を受
けなかったので、自分の判断で何も言わないことにしていた旨供述する(甲12、原告本人)
が、本件難民認定申請をしてから、本件訴訟提起後1年近くの時点まで、戦闘行為に参加
した経験に関する主張・供述を一切していなかったことに対する説明として、合理的とは
いい難い。
また、その他に、原告がパシュトゥーン人やタジク人のグループとの戦闘行為に参加し
たことがあることを裏付ける証拠はない。
そうすると、原告の上記供述をにわかに採用することはできない。
ウ 拘束されて暴行を受けた経験(アオ)について
前判示のとおり、病院紹介状(甲7)には、パシュトゥーン人やタジク人のグループに拘
束され、銃床等で殴打されるなどの暴行を受けて負傷し、1週間の入院を余儀なくされた
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旨の原告の供述に沿う記載があるが、上記病院紹介状は、成立の真正に疑問があり、信ぴ
ょう性に乏しいものである。
しかしながら、証拠(乙33、36、39)及び弁論の全趣旨によれば、原告は、平成11年
2月3日、難民調査官により最初の事情聴取が行われた際には、1992年(平成4年)ころ、
カブールで、1日だけ、「ATEHAD」グループにハザラ人であるという理由で素手や太い電
気コードで殴られ、足で蹴られたりして1週間寝込む迫害を受けた旨供述し、平成12年
5月15日の入国警備官による事情聴取に対しては、1992年(平成4年)ころ、カブール市
内で、銃の不法所持により、「タリバングループ」に逮捕され、1昼夜拘束された旨供述し、
平成12年11月13日の口頭審理においては、7年ほど前にハザラ人とパシュトゥーン人
との仲が悪化した時、「ヘズベエテハッド」というグループに捕まり、ハザラのコマンドの
居場所や武器の保管場所を聞かれ、銃床で殴られたり蹴られたりする拷問を受け、頭、耳、
左手小指から出血し、左耳がよく聞こえなくなるなどの傷害を負い、1週間ほど入院した
旨供述したことが認められる。そうすると、上記のとおり、原告の供述には、その細部にお
いて微妙な変遷も認められるが、少なくとも、1992年(平成4年)ないし1993年(平成5年)
ころにパシュトゥーン人等からなるグループに拘束されて暴行を受け、1週間程度入院な
いし寝込む傷害を負ったという限度では、早い段階から一貫した供述がされているものと
いえる。
なお、被告らは、暴行の理由、態様及び結果に係る供述が次第に具体的かつ苛烈な内容
になっていると主張するが、そのような変化は、担当官の質問や供述録取の方法に由来す
るものとも考えられるし、たとえ原告の上記供述に多少の誇張等が含まれるとしても、そ
の核心部分についてまで直ちに信用性が否定されるものではない。
したがって、原告の前記供述をにわかに排斥することはできず、1992年(平成4年)な
いし1993年(平成5年)ころ、原告がパシュトゥーン人やタジク人のグループに拘束され、
銃床等で殴打されるなどの暴行を受けて負傷し、1週間の入院を余儀なくされたという事
実があったものと認められる。
エ マザリ・シャリフに居住し、自動車等の販売業を営んでいたこと(アカ)について
前記のとおり、原告は、1996年2月、パシュトゥーン人との争いから逃れるため、家族
と共にカブールからマザリ・シャリフへ移住し、自動車及び自動車部品の販売業を営むよ
うになった旨供述しているところ、原告の供述調書等(乙33ないし40)の記載に照らして
も、上記供述の信用性を否定すべき事情は見当たらず、そのような事実があったものと認
められる。
オ イスラム統一党への援助(アク)について
前記のとおり、原告は、マザリ・シャリフにおけるタリバンと北部同盟との攻防戦に際
し、所有する自動車で北部同盟側の負傷者を病院に運び、あるいはイスラム統一党の司令
官に資金を提供するなどの援助を行っていた旨供述しているところ、前記の各手紙(甲1
- 22 -
ないし3、5)には、これに沿う記載(原告がイスラム統一党の指導者に資金を提供した領
収書の存在等)がみられる。
確かに、証拠(乙33ないし35)及び弁論の全趣旨によれば、原告は、平成11年7月10日
ころに甲1の手紙を入手した後、同年9月24日の難民調査官による事情聴取に対し、マザ
リ・シャリフでイスラム統一党に自動車部品を販売し、資金や自動車を提供していた旨初
めて供述したもので、それ以前には上記のような供述をしていなかったことが認められ
る。また、前判示のとおり、甲1ないし3、5の手紙の記載内容の信用性については、慎重
な吟味が必要と考えられるところ、原告がイスラム統一党への援助を行ったことを具体的
に裏付ける証拠はない。さらに、原告の本人尋問における供述のうち、所有する自動車で
負傷者を病院に運んだとする点は、従前にない新たな供述であり(甲12、乙35ないし40)、
にわかに採用し難い。
しかしながら、原告は、自分が行っていた資金援助は、ある程度資金的な余裕のある者
であれば誰もがやらなければならない程度のもので、自分としてはそれほど重要なことと
は思っておらず、質問をされなかったので、自分からあえて説明はしなかった旨供述して
いるところ、1996年(平成8年)2月から1998年(平成10年)8月までの当時、北部同盟
が支配し、ハザラ人も多く居住するマザリ・シャリフにおいて自動車及び自動車部品の版
売業を営み、ある程度の資産を有していたものと推認される原告が、タリバンの攻勢が続
く状況において、北部同盟を構成するイスラム統一党に対し、他の者らと同様に、その資
産に見合う程度の何らかの援助を行ったことがあるとしても不自然ではない。そうであれ
ば、甲1の手紙を入手するまでは、上記のような程度の援助が難民該当性の判断において
重要な事実になるとは思い至らず、この点に関する供述をしていなかったという原告の上
記供述を不合理として直ちに排斥することはできず、上記のような軽度の何らかの援助を
した限度で、原告の供述や上記手紙の各記載内容も信用できるというべきである。
したがって、原告は、マザリ・シャリフに居住していた当時、イスラム統一党に対し、他
の者らと同様に、その資産に見合う程度の何らかの援助を行ったことがあるものと認めら
れる。

退去強制令書発付処分取消請求控訴事件
平成16年(行コ)第114号(原審:大阪地方裁判所平成15年(行ウ)第91号)
控訴人:法務大臣、被控訴人:A
大阪高等裁判所第6民事部(裁判官:大出晃之・川口泰司・田中一彦)
平成17年5月19日

判決
主 文
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
1 控訴人
 原判決を取り消す。
 被控訴人の請求を棄却する。
 訴訟費用は、第1、2審とも被控訴人の負担とする。
2 被控訴人
主文と同旨。
第2 事案の概要
1 事案の要旨
 本件は、出入国管理及び難民認定法(平成16年法律第73号による改正前のもの。以下「法」
という。)24条4号イ所定の退去強制事由に該当するとして控訴人から退去強制令書の発付処
分(以下「本件処分」という。)を受けた被控訴人が、上記退去強制事由に該当する事実はない
から本件処分は違法であると主張して、本件処分の取消しを求めた事案である。
 原審裁判所は、被控訴人の請求を認容した。これに対し、控訴人が、上記第1の1のとおりの
判決を求めて控訴を提起した。
2 争いのない事実等(証拠の掲記のない事実は、当事者間に争いがない。)
原判決2頁7行目から同4頁16行目までに記載されているとおりである(ただし、同頁14行目
の「当庁」を「大阪地方裁判所」に改める。)から、これを引用する。
3 争点及びこれに関する当事者の主張
下記4のとおり、当審における当事者の主張を加えるほかは、原判決4頁18行目から同7頁4
行目までに記載されているとおりであるから、これを引用する。
4 当審における当事者の主張
 控訴人の原判決批判
- 2 -
ア 退令処分の取消訴訟において主張できる違法事由について
ア 行政事件訴訟法においては、先行処分の要件該当性に関する争いは当該先行処分の段階
で終了させ、後行処分への影響を遮断することが予定されている。別個の行政処分の間に
おいて違法性が承継されるということは、行政事件訴訟法が本来予定しているものではな
く、例外的な場合に限られる。
イ 法は、入国審査官の認定に処分性を認めて、その適法性を争う機会を与え、その不服に
対して二段階の裁決(特別審理官の判定、法務大臣の裁決)の手続を設けている。また、こ
れらの各裁決に対する取消訴訟においては入国審査官の認定処分の要件該当性を違法事由
として主張することは認められていない(行政事件訴訟法10条2項)。さらに、法務大臣の
裁決と主任審査官の退令処分とは密接不可分の関係にある。以上のことなどからすれば、
法が、主任審査官の退令処分においてのみ、入国審査官の認定に係る違法事由を主張させ
ることを許容する特殊な立法政策を採用したとは考え難い。
ウ 以上からすれば、主任審査官の退令処分の取消訴訟において、入国審査官の認定処分の
誤りを違法事由として主張することはできないというべきであり、これに反する原判決の
法解釈は誤りである。
イ 法24条4号イの「専ら行っている」の該当性について
ア 「留学」の在留資格を有する者が本邦において行うことができる活動は、「本邦の大学若
しくはこれに準ずる機関、専修学校の専門課程、外国において12年の学校教育を終了した
者に対して本邦の大学に入学するための教育を行う機関又は高等専門学校において教育を
受ける活動」に限られる(法別表第1の4の表の「留学」の項)。「留学」の在留資格に該当
する活動のためには、本邦に滞在するための費用を支弁する十分な資力や支弁のための手
段を有した上で、教育機関等で教育を受けなければならず、かかる資力等を有せず、専ら
本邦において自ら就労して得た収入で生活費を支弁し、学費を捻出して教育を受ける活動
は、法が認めた「留学」の在留資格に該当する活動には当たらない(法7条1項2号、「出
入国管理及び難民認定法第7条第1項第2号の基準を定める省令」の「法別表第一の四の
表の留学の項の下欄に掲げる活動」の項2号、法19条1項2号、同条2項参照)。
被控訴人は、資格外活動である就労の内容(特に、本件クラブでの稼働は、風俗営業が営
まれている営業所において行う活動であり、資格外活動許可が得られる余地のないもので
ある。)やその有償性・継続性にかんがみて、平成15年5月以降、少なくとも本邦滞在中の
必要経費の多くを自らの就労によって継続して賄うようになったということができるか
ら、被控訴人の活動は、その時期に在留資格「留学」で在留する者の活動には該当しなくな
ったというべきである。
原判決の判断は、在留資格「留学」の意義を正確に理解していない上、被控訴人の本件大
学における平成15年春学期における出席状況や成績を過大に評価する一方で資格外活動
の内容を考慮要素から除外している点で誤りである。
- 3 -
イ 被控訴人は、平成15年6月19日に本件クラブの強制捜査が行われたという偶然の事情
によって、本件クラブにおける稼働を継続できなくなったものであり、強制捜査がなけれ
ばこれを継続していたことが明らかである。したがって、資格外活動を「専ら行っている」
といえるか否かを判断するには、同日より前の資格外活動の内容に着目してその継続性や
有償性を評価し、検討しなければならない。被控訴人の同日以前の収入額と同日以後の収
入額とを平均化して考慮した原判決は誤りである。
ウ 被控訴人の資格外活動の稼働時間は、在留資格「留学」の活動の時間と対比すべきであ
る。被控訴人の本件大学における履修時間は多くても1週間当たり22.5時間、全授業に出
席したとしても、せいぜい1か月当たり100時間程度(なお、出席が確認されている授業の
被控訴人の出席率は約82パーセントである。)であるから、被控訴人の資格外活動の稼働
時間が、本件大学における授業時間を大きく超えていたことは明らかである。
また、被控訴人が資格外活動許可(法19条2項、出入国管理及び難民認定法施行規則〔以
下「規則」という。〕19条)すら得ずに行っていたBにおける稼働時間や、そもそも資格外
活動が許可される余地のない本件クラブでのホステス業の稼働時間と在留資格「留学」で
在留する外国人が資格外活動許可を得て従事する活動の時間とを単純に比較することはで
きない。被控訴人は、資格外活動許可によって許容される範囲の稼働時間をも超える稼働
を行っていたものであり、被控訴人の行っていた資格外活動は、在留資格「留学」で在留す
る外国人に許容される活動を大きく逸脱していたものである。
 控訴人の原判決批判に対する被控訴人の反論
ア 退令処分の取消訴訟において主張できる違法事由について
ア 既に主張したとおり、法24条各号の該当性は、退令処分自体の固有の要件であるから、
本件において違法性の承継の問題は生じない。仮に、違法性の承継の問題であるとしても、
原判決が述べるように、入国審査官の認定の違法性は、退令処分に承継されるというべき
である。
イ 法務大臣の裁決が行政事件訴訟法3条3項の「裁決」に当たるとしても、次のとおりい
うことができる。すなわち、同法10条2項の適用を主張する理由があるのは、法務大臣の
裁決の取消訴訟において、入国審査官の認定の違法を争う場合に限られ、退令処分の取消
訴訟である本件と同項とは関係がない。また、法務大臣の裁決と退令処分とではその法的
性質や外国人に対する法的効果が大きく異なるから、両者は密接不可分なものとはいえな
い。
イ 法24条4号イの「専ら行っている」の該当性について
ア 資格外活動の内容は、法19条1項違反の違法性の程度に関わる問題であり、法73条の罰
則の適用においてその軽重を決定するための考慮事由となるものではあろうが、法24条4
号イの「専ら行っている」との要件の問題ではない。
被控訴人の資格外活動(ホステス)はクラブにおける酒食の提供に止まり、それ自体が
- 4 -
違法であるとか公序良俗を乱す職種というわけではない。また、接客のアルバイトは、留
学生にとっては日本語の能力向上に資する貴重な機会であって、学業と本来両立し得ない
ものではない。資格外活動の内容を考慮したとしても、「専ら行っている」との要件が満た
されているとはいえない。
イ 被控訴人は、ホステスが肌に合わないため早晩辞める考えでいた。強制捜査がなければ
被控訴人が本件クラブにおける資格外活動を継続していたことが明らかであるなどという
控訴人の主張は、推測にすぎない。そのような仮定・推測に基づいて「専ら行っている」と
の要件が満たされているということはできない。
ウ 通常の刑事罰の適用・執行においては、謙抑性の見地から、段階的に刑を重くしていく
運用がされている。退去強制は、法における「極刑」ともいえる最大の不利益処分であり、
被控訴人に最初からいきなり退去強制を科す控訴人のあり方は、謙抑性、警察比例の原則
に反する。資格外活動に対する罰則の要件(単に法19条違反だけでよい。)と退去強制の
要件(「専ら行っている」との要件が必要とされる。)とにことさら差違を設けた法の趣旨
に照らせば、本件程度の違反で退去を強制することを法が想定していないのは明らかであ
る。
第3 当裁判所の判断
1 判断の要旨
当裁判所も、被控訴人の請求には理由があるものと判断する。その理由は、原判決7頁6行目
から同18頁18行目までに記載されているとおりであるから、これを引用する。ただし、下記2の
とおり補正する。
2 原判決の補正
 原判決7頁6行目の次に行を改めて以下のとおり加え、同頁7行目冒頭の「」を削る。
「 法の規定
法24条は「次の各号のいずれかに該当する外国人については、次章に規定する手続により、
本邦からの退去を強制することができる。」と定め、日本国が同条所定の退去強制事由に該当す
る外国人の本邦からの退去を強制することができること、その場合には第五章「退去強制の手
続」の規定(法27条以下)によることを規定している。」
 同8頁10行目の次に行を改めて「 入国審査官の認定及び法務大臣の裁決の処分性」を加
え、同頁11行目冒頭の「」を削る。
 同9頁7行目から同10頁1行目までを次のとおり、同頁2行目冒頭の「」を「」に、それ
ぞれ改める。
「 入国審査官の認定の違法を理由に退令処分の取消しを求めることの可否
しかしながら、前記のとおり、入国審査官の認定、特別審理官の判定、法務大臣の裁決及び主
任審査官の退令処分は、退去強制という同一の行政目的を達成するための一連の手続を構成す
る処分であり、退令処分は、これを受ける外国人が法24条各号の一に該当すること(退去強制
- 5 -
事由があること)を中核的根拠とする処分である。また、異議の申出に理由がないとする裁決
の通知を受けた主任審査官は退去強制令書の発付(退令処分)を義務付けられることになる。
以上の点や、前記のような法24条の規定に照らせば、同条所定の退去強制事由があるとの入国
審査官の認定に誤りがない旨の特別審理官の判定、同判定に対する異議の申出に理由がない旨
の法務大臣の裁決及びこれを受けてされた退令処分は、同条所定の退去強制事由があるとの入
国審査官の認定が正当なものであってはじめて、実体法的にその正当性が基礎付けられるとい
う関係にあることが明らかである。こうした関係からすると、入国審査官において、法24条各
号の一に該当する場合ではないのに、これに該当するとの認定をした違法は、これを是認する
特別審理官の判定、これに対する異議を棄却する法務大臣の裁決、さらにこれに基づいて一連
の手続の最終処分としてされる退令処分にも及び、上記違法性を承継した退令処分も瑕疵ある
処分といわざるを得ないものというべきである。したがって、入国審査官の認定の違法を理由
に退令処分の取消しを求めることは許されるものというべきである。
 控訴人の主張(原判決批判を含む。)について
この点、控訴人は、①法が入国審査官の認定に処分性を認めて、その適法性を争う機会を与
え、その不服に対して二段階の裁決(特別審理官の判定、法務大臣の裁決)の手続を設けている
こと、②これらの各裁決に対する取消訴訟においては入国審査官の認定処分の要件該当性を違
法事由として主張することは認められていない(行政事件訴訟法10条2項)こと、③法務大臣
の裁決と主任審査官の退令処分とは密接不可分の関係にあることなどに照らし、入国審査官の
認定の違法を理由に退令処分の取消しを求めることは許されないなどと主張する。
しかし、①先行する認定等の処分が独立の争訟対象となるとしても、早期救済のため争訟の
機会を与えたものにすぎないのであって、その段階で取消訴訟等を提起して争わなければ最終
処分である退令処分においてその違法を主張して争うことを許容しない趣旨であるとは到底考
えられない(早期救済のために争訟の機会が与えられている場合に、その後の救済の機会が制
限されることが当然のことであるかのように述べる控訴人の主張には、論理の飛躍があるとい
わざるを得ない。)。②また、法務大臣の裁決の取消訴訟において入国審査官の認定の違法を主
張し得るかどうかは行政事件訴訟法10条2項のいわゆる原処分主義の適用があるかどうかの
問題であるが、本件において取消しを求められている退令処分は、入国審査官の認定との関係
では「その処分(本件では入国審査官の認定)についての審査請求を棄却した裁決」に当たらな
いことが明らかである。すなわち、本件は、同条項の直接の適用場面ではないのである。③それ
にもかかわらず、法は、退令処分の取消訴訟において入国審査官の認定の違法を主張し得ない
という趣旨の明文規定を置いていない。一方、退令処分は、執行官である入国警備官に対し退
去強制の執行を命令する文書である退去強制令書(法51条、52条参照)を発付するという退去
強制に直結する重大な処分であるが、前記のとおり法24条各号所定の退去強制事由があるとの
入国審査官の認定が正当なものであってはじめて、実体法的にその正当性が基礎付けられるも
のである。
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これらの点に照らせば、異議の申出に理由がないとする裁決の通知を受けた主任審査官が退
去強制令書の発付(退令処分)を義務付けられるという点(控訴人は、この点をとらえて法務大
臣の裁決と退令処分とが「密接不可分」であると主張しているものと解するほかない。)を根拠
に、法が入国審査官の認定と退令処分との関係について、行政事件訴訟法10条2項と同様の規
制を及ぼすという立法政策を採用しているとは解されない。控訴人の主張は、採用することが
できない(なお、上記のような解釈は、実体法である法の規定によって導かれるものである。
したがって、控訴人が行政事件訴訟法について述べるところは、これまで述べたような当裁判
所の判断を左右するものではない。)。」
 同10頁5行目の次に行を改めて「2 事実の認定」を加え、同頁6行目冒頭の「2」を削り、
同頁8行目の「原告本人」の次に「〔1審。以下同じ。〕」を加え、同頁14行目の「46万4025万円」
を「46万4025円」に改める。
 同12頁25行目の次に行を改めて「ア 法及び規則の規定」を加え、同頁26行目冒頭の「ア」
を削り、同13頁5ないし6行目の「出入国管理及び難民認定法施行規則(以下「規則」という。)」
を「規則」に改め、同頁22行目の次に行を改めて「イ 判断基準」を加え、同頁23行目冒頭の「イ」
を削り、同頁26行目の「解される」の次に「(なお、「全訂出入国管理及び難民認定法逐条解説」
514頁にも同様の記載がある。)」を加える。
 同16頁15ないし16行目の「深夜にわたるものであり、」の次に「一般論をいえば、」を加え、
同17頁16行目から同18頁18行目までを次のとおり改める。
「ケ まとめ
以上のとおり、被控訴人の資格外活動の稼働時間及び報酬額並びに被控訴人の就学状況から
すれば、被控訴人が、その在留目的が留学から就労その他の報酬を受ける活動に実質的に変更
したといえる程度に資格外活動を行っていたとはいえず、被控訴人が資格外活動を「専ら行っ
ている」者であったとは認められない。したがって、被控訴人の資格外活動が法24条4号イ所定
の要件を満たしているとはいえないから、同要件が満たされることを前提にされた大阪入管入
国審査官の認定ないし大阪入国管理局長の裁決に基づいて控訴人が行った本件処分は違法であ
る。
 控訴人の主張(原判決批判を含む。)について
ア まず、控訴人は、原判決の判断は、①在留資格「留学」の意義を正確に理解していない
(被控訴人の活動は在留資格「留学」で在留する者の活動には該当しなくなったというべきであ
る。)、②被控訴人の本件大学における平成15年春学期における出席状況や成績を過大に評価す
る一方で資格外活動の内容を考慮要素から除外している点で誤りである、などと主張する。
しかし、被控訴人が、報酬を受ける活動を「専ら行っている」といえるかどうかは、その活動
の時間の程度、継続性、報酬の多寡、留学の目的である学業の遂行を阻害していないかなどを
総合的に考慮し、在留目的たる活動が実質的に留学ではなく、就労その他の報酬を受ける活動
に変更したといえる程度に達しているか否かをもって判断すべきことは、既に述べたとおりで
- 7 -
ある。上記①の控訴人の主張は、結局のところ、被控訴人が、法19条1項の規定に違反したと
いうことを言葉を変えて述べているものにすぎず、採用できない。
また、控訴人は、本件クラブでの稼働は風俗営業が営まれている営業所において行う活動で
あり、そもそも資格外活動許可が得られる余地のないものであるから、このような資格外活動
の内容も勘案すべきであるなどと主張する。しかし、資格外活動の内容が資格外許可の得られ
ない活動であることが、法73条の適用場面において違法性の程度の判断に影響し得るとして
も、少なくとも本件クラブにおいて稼働中の被控訴人の仕事の内容それ自体が公序良俗に反す
るようなものではない本件においては、そのことをもって直ちに資格外活動を「専ら行ってい
る」と推認すべきであるとか、その判断に決定的な影響を与えるものであるということはでき
ないことが明らかである(控訴人の主張は、「専ら行っている」との要件と、これとは別個の要
件である「法19条1項の規定に違反して」とを、混同したものと解される。)。さらに、当裁判所
は、被控訴人の資格外活動の稼働時間及び報酬額も十分に勘案した上で、前記のような判断を
行ったものであって、被控訴人の本件大学における平成15年春学期における出席状況や成績を
過大に評価しているとの控訴人の主張は、独自の評価を述べるものにすぎない。結局のところ、
上記②の控訴人の主張も、採用できない。
イ 被控訴人は、平成15年6月19日に本件クラブの強制捜査が行われたという偶然の事情
によって、本件クラブにおける稼働を継続できなくなったものであり、強制捜査がなければ本
件クラブにおける稼働を継続していたことが明らかであるとか、強制捜査前の資格外活動の内
容に着目してその継続性や有償性を評価し、検討すべきである、などと主張する。
確かに、被控訴人の供述(乙23、24、被控訴人本人)中には、Bや他のアルバイト先でアルバ
イトを続けるつもりであったという趣旨の部分がある。しかし、被控訴人は、学業は続けて卒
業したいとの供述をしていることからして、上記供述部分も、本件大学における勉学をおろそ
かにしてまで本件クラブ等での稼働に専念したり、これを拡大して稼働するという趣旨のもの
とは認められないし、前記認定のとおりの被控訴人の稼働状況をも考慮すれば、強制捜査がな
かった場合に、被控訴人が、その在留目的が留学から就労に実質的に変更したといえる程度に
資格外活動を行うに至っていたとも断定できない。
また、前記認定のような本件の事実関係に照らせば、強制捜査より前の資格外活動の内容に
着目して継続性や有償性等を評価したとしても、被控訴人が、その在留目的が留学からその他
の報酬を受ける活動に変更したといえる程度に資格外活動を行っていたとまでは評価できない
というべきである。
結局のところ、上記のような控訴人の主張も、採用することができない。
ウ さらに、控訴人は、①被控訴人の資格外活動の稼働時間は、在留資格「留学」の活動の時
間と対比すべきであるとか、②被控訴人が資格外活動許可を得ずに行っていた稼働の時間と在
留資格「留学」で在留する外国人が資格外活動許可を得て従事する活動の時間とを単純に比較
することはできない、などとも主張する。
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しかし、資格外活動許可を得た場合に認められる稼働時間(1週間28時間以内)や、被控訴
人の本件大学における履修時間は、一般的な大学生の履修時間と比較しても有意な差はないと
考えられることに照らせば、上記①の控訴人の主張が本件の結論を左右するに足りる議論でな
いことは明らかである。
また、被控訴人が資格外活動を「専ら行っている」者に当たるか否かの判断、すなわち、被控
訴人が、その在留目的が留学から就労その他の報酬を受ける活動に実質的に変更したといえる
程度に資格外活動を行っていたといえるか否かの判断に当たって、在留資格「留学」によって
本邦に在留する外国人が行いうる資格外活動の時間がどれだけであるかを判断資料とすること
は合理的なものというべきである(なお、資格外活動の許可を得ていないことは、「法19条1項
の規定に違反して」資格外活動を行っているか否かの問題であって、資格外活動を「専ら行っ
ている」か否かの問題ではない。また、本件の事実関係のもとにおいては、被控訴人の資格外活
動の内容が、法24条4号イ所定の「専ら行っている」との要件の存否の判断に決定的な影響を
与えるものではないことは、既に述べたとおりである。)。
上記控訴人の主張も、採用することができない。
エ その他、控訴人がるる主張するところは、いずれも前記のような当裁判所の判断を左右
するに足りるものではない。結局のところ、控訴人の主張は、理由がないことに帰する。」
3 結論
以上の次第であって、被控訴人の請求には理由があるから認容すべきであり、これと同旨の原
判決は相当である。よって、本件控訴は理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり
判決する。

退去強制令書発付処分無効確認等、難民認定をしない処分取消請求控訴事件
平成16年(行コ)第221号(原審:東京地方裁判所平成14年(行ウ)第75号、第80号)
控訴人:法務大臣・東京入国管理局成田空港支局主任審査官、被控訴人:A
東京高等裁判所第14民事部(裁判官:西田美昭・小池喜彦・森高重久・西田美昭)
平成17年5月31日

判決
主 文
1 原判決を次のとおり変更する。
2 被控訴人の請求(ただし、被控訴人の控訴人法務大臣が被控訴人に対し平成13年8月29日付け
でした裁決の取消しを求める予備的訴えを除く。)をいずれも棄却する。
3 被控訴人の、控訴人法務大臣が被控訴人に付し平成13年8月29日付けでした裁決の取消しを
求める予備的訴えを却下する。
4 訴訟費用は、第1、2審とも被控訴人の負担とする。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
1 控訴人ら
 原判決中控訴人敗訴部分を取り消す。
 前項の取消しにかかる被控訴人の請求をいずれも棄却する。
 訴訟費用は、第1、2審とも被控訴人の負担とする。
2 被控訴人
本件控訴をいずれも棄却する。
第2 事案の概要等
1 事案の概要
控訴人は、平成13年7月2日に本邦に不法入国した者であるところ、同日、東京入国管理局(以
下「東京入管」という。)成田空港支局入国警備官の違反調査を受け、同月6日に同支局入国審査
官により出入国管理及び難民認定法(以下「法」という。)24条1号に該当する旨の認定がされ、
同月17日に同認定に誤りがない旨が判定されたため、同日控訴人法務大臣に対し、異議の申出を
したが、控訴人東京入管成田空港支局主任審査官(以下「控訴人審査官」という。)は、同年8月
29日に控訴人法務大臣が上記異議の申出に理由がない旨の裁決(以下「本件裁決」という。)をし
たとして、翌30日、被控訴人に対し、退去強制令書を発付した(以下「本件退令発付処分」という。)
また、被控訴人は、同年7月3日、東京入管成田空港支局において、難民協定申請をしたところ、
控訴人法務大臣は、同年8月29日、被控訴人について難民の認定をしない旨の処分をした(以下
「本件不認定処分」といい、本件裁決、本件退令発付処分と合わせて「本件各処分」という。)
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本件は、被控訴人が、イスラム教シーア派に属するハザラ人であり、反タリバン勢力であるa
の元司令官及び中央委員会のメンバーであるため、本件各処分当時、アフガニスタンにおいて、
タリバン勢力から迫害を受けており難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)上の難
民に該当する等と主張して、本件裁決の不存在確認(予備的に本件裁決の無効確認ないし取消し)
及び本件退令発付処分について無効確認(原審・平成14年(行ウ)第75号事件)を、本件不認定
処分について取消し(原審・平成14年(行ウ)第80号事件)を求めるものである。
原審は、本件裁決は行政機関の内部的決裁行為というべきものであって、行政事件訴訟法3条
1項にいう公権力の行使に該当しないとし、本件裁決の不存在確認等を求める主位的訴え並びに
本件裁決の無効確認及び同裁決の取消を求める予備的訴えをいずれも却下したが、被控訴人は難
民条約にいう難民に該当するとして、その余の本件退令発布処分の無効確認を求める請求及び本
件不認定処分の取消を求める請求を認容した。
控訴人は、請求認容部分、訴え却下部分を不服として控訴した。
2 前提となる事実
本件の前提となる事実は、原判決事実及び理由の「第2 事案の概要」欄の1項に記載のとお
りであるから、これを引用する。
3 争点及び争点に関する当事者の主張
本件の争点は、本件裁決の存否及び本件各処分の適法性であり、後者の争点における主要な内
容(争点)となっているものは被控訴人の難民該当性である。
上記争点に関する当事者双方の主張は、原判決28頁8行の「作成した」を「作成して」に改める
ほか、原判決事実及び理由の「第2 事案の概要」欄の2項及びに記載のとおりであるから、
これを引用する。
第3 当裁判所の判断
1 本件裁決の裁決該当性について
 本件裁決がされた経緯は、前記前提となる事実(原判決の引用)に記載のとおりであり、その
概要は以下のとおりである。すなわち、被控訴人は、平成13年7月2日、便名等不祥の航空機
により新東京国際空港(以下「成田空港」という。)に到着して本邦に不法入国した。東京入管
成田空港支局入国審査官は、同月3日、同月4日及び同月6日、被控訴人に対し違反審査を実
施した上で、同月6日、被控訴人が法24条1号に該当する旨を認定し、被控訴人にこれを通知
したところ、被控訴人は、同日、同支局特別審理官に対し口頭審理を請求した。東京入管成田空
港支局特別事理官は、同月17日、被控訴人について口頭審理を実施し、入国審査官の上記認定
に誤りがない旨を判定したところ、被控訴人は、同日、控訴人法務大臣に対し異議の申出をし
た(以下「本件異議の申出」という。)控訴人法務大臣は、同年8月29日、本件異議の申出につ
いて理由がない旨の裁決(本件裁決)をし、その旨を控訴人審査官に通知し、控訴人審査官は、
翌30日、被控訴人に本件裁決がされたことの通知があったことを告知した。
 一方、入国警備官による違反調査の結果、収容された容疑者に対する退去強制手続の概要及
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びこれに関連する法の規定は、以下のとおりである。
ア 入国審査官は、法44条の規定により容疑者の引渡しを受けたときは、容疑者が法24条各号
の一に該当するかどうかをすみやかに審査し(法45条1項)、審査の結果、容疑者が法24条
各号のいずれにも該当しないと認定したときは、直ちにその者を放免しなければならず(法
47条1項)、法24条各号の一に該当すると認定したときは、すみやかに理由を付した書面を
もって、主任審査官及びその者にその旨を知らせなければならない(同条2項)。この場合に
おいて、容疑者がその認定に服したときは、主任審査官は、すみやかに法51条による退去強
制令書を発布しなければならない(同条4項)。
イ 一方、同通知を受けた容疑者は、同認定に異議があるときは、その通知を受けた日から3
日以内に、口頭をもって、特別審理官に対し口頭審理の請求をすることができ(法48条1項)、
特別審理官は、口頭審理の結果、同認定が事実に相違すると判定したときは、直ちにその者
を放免しなければならず(同条6項)、同認定が誤りがないと判定したときは、すみやかに主
任審査官及び当該容疑者にその旨を知らせるとともに、当該容疑者に対し、法49条の規定に
より異議を申し出ることができる旨を知らせなければならない(法48条7項)。この場合に
おいても、容疑者がその認定に服したときは、主任審査官は、すみやかに法51条による退去
強制令書を発布しなければならない(同条8項)。
ウ 上記同通知を受けた容疑者が、特別審理官の判定に異議があるときは、その通知を受けた
日から3日以内に、法務省令で定める手続により、不服の事由を記載した書面を主任審査官
に提出して、法務大臣に対し異議を申し出ることができ(法49条1項)、法務大臣は、同異議
の申出を受理したときは、異議の申出が理由があるかどうかを裁決して、その結果を主任審
査官に通知しなければならない(同条3項)。
エ 主任審査官は、法務大臣から異議の申出が理由があると裁決した旨の通知を受けたとき
は、直ちに当該容疑者を放免しなければならず(同条4項)、異議の申出が理由がないと裁決
した旨の通知を受けたときは、すみやかに当該容疑者に対し、その旨を知らせるとともに、
法51条の規定による退去強制令書を発付しなければならない(法49条5項)。
 ところで、行政事件訴訟法3条2項にいう「行政庁の処分」とは、公権力の主体たる行政庁が
行う行為のうちで、その行為により直接国民の権利義務を形成し又はその範囲を確定すること
が法律上認められているものをいうところ(最高裁昭和30年2月24日第一小法廷判決・民集
9巻2号217頁、最高裁昭和39年10月29日第一小法廷判決・民集18巻8号1809頁参照)、上記
の規定によれば、法24条各号の一に該当する旨の入国審査官の認定を受けた容疑者について
は、以後すみやかに退去強制令書が発布され、実力をもって本邦からの退去が強制されること
になるから、入国審査官の認定は、私人を名宛人とし、退去強制という強度の侵害作用の要件
である退去強制事由を認定するものであり、行政庁がその優越的な地位に基づき、公権力の発
動として行う行為であって、私人の権利義務、法律上の地位に直接具体的な影響を与えるもの
であるといえるから、上記の「行政庁の処分」に当たるといえる、また、口頭審理の請求を受け
- 4 -
た特別審理官による判定は、入国審査官の認定に対する不服申立てに対し義務として応答する
ものであるから、行政事件訴訟法3条3項の「裁決」に当たるというべきである。さらに、法49
条1項の異議の申出に対しては、同条3項において、「法務大臣は、第1項の規定による異議の
申出を受理したときは、異議の申出が理由があるかどうかを裁決して、その結果を主任審査官
に通知しなければならない。」と規定されていることからすれば、法務大臣は異議の申出につき
判断することが義務付けられており、その判断結果は、放免行為(同条4項)ないし主任審査官
からの通知(同条5項)によって、申出人に対して通知されることになるから、法49条の規定
からみて、法務大臣に異議の申出に対する応答義務があることは明らかである。そして、法務
大臣に応答義務がある以上、法49条1項が、容疑者に対し、特別審理官の判定に対して「異議
の申出」という名の不服申立権を認めているというべきであるから、法47条2項所定の入国審
査官の認定に対する法48条所定の特別審理官の判定が行政事件訴訟法3条にいう「裁決」に当
たる以上、認定に誤りがない旨の判定に対する法49条所定の裁決も、当該判定に対する「異議
の申出」という不服申立ての応答として、行攻事件訴訟法3条3項にいう「裁決」に当たるとい
うべきである。
なお、法49条3項によれば、法務大臣は、同条1項の異議の申出に対して主任審査官に応答
することを規定するにすぎず、当該容疑者に対して直接応答することは予定していないが、法
務大臣の異議の申出に理由がないと裁決した場合には、主任審査官を通じて速やかに本人に告
知することとされているのであって(法49条6項)、処分権者と告知者が異なるというにすぎ
ないというべきであるから、法務大臣による異議の申し出に対する応答が直接当該容疑者に対
してなされるものでないという点は、行政事件訴訟法3条3項の「裁決」該当性を否定する理
由になり得ない。また、上記のとおり、法49条の趣旨は、判断権者と裁決の通知事務の担当者
を分けたにすぎないものであって、法49条3項の裁決を内部的決裁行為と解することも相当で
はない。さらに、法49条3項が同条1項の異議の申出に対する応答義務を法務大臣に課してい
ることは文理上明らかであり、法務大臣に応答義務がある以上、法49条1項にいう「異議の申
出」が容疑者に対して特別審査官の判定に対する不服申立権を認めたものであることも明らか
であるというべきであるから、法が「異議の申出」という用語を用いていることも「裁決」該当
性を否定する根拠とはならない。
 以上のとおりであるから、本件裁決は行政事件訴訟法3条3項及び4項にいう「裁決」に該
当するというべきである。
2 被控訴人の難民該当性について
被控訴人は、本件不認定処分は、被控訴人が難民条約上の難民に該当するにもかかわらず、こ
れを看過してされた処分であるから取り消されるべきであり、本件退令発付処分は、送還先をア
フガニスタンとしたことが、難民を迫害のおそれのある国に送環することを禁じた難民条約33条
1項、法53条3項のノン・ルフールマン原則に違反し無効である旨を主張するので、以下、被控
訴人の難民該当性について検討する。
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 まず、法に定める難民とは、難民条約1条又は難民の地位に関する議定書1条の規定により
難民条約の適用を受ける難民をいうところ(法2条3号の2)、同規定によれば、この難民とは、
「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害
を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいるもので
あって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにそ
の国籍国の保護を受けることを望まないもの及び常居所を有していた国の外にいる無国籍者で
あって、当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するた
めに当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」である。そして、「迫害」とは、一
般に、生命又は身体の自由の侵害又は抑圧並びにその他の人権の重大な侵害を意味するものと
解せられるが、「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」というた
めには、当該人が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情のほか
に、通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的事情が存在して
いることが必要であると解すべきである。
そして、法の定める難民を上記のとおり解することからすれば、当該人に係る難民該当性の
判断は、当該人の出身国の状況を認定した上で、当該人の迫害のおそれを基礎付ける個々の事
情に関する供述の信用性の判断を行い、その上で、このように認定された出身国の状況に当該
人の個々の事情を合わせかんがみることにより、当該人がその出身国に戻ったとすれば、迫害
を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているか否かという主観的事情の存否及び通常人が当
該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観的、事情の存否の判断を行い、さ
らに、これら主観的及び客観的事情が肯認された場合に、そのような恐怖が難民条約等に規定
された人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由
とするものであるかを認定するという方法で行うのが相当といえる。
 しかるところ、アフガニスタンの歴史的沿革に関する認定は、原判決事実及び理由の「第3
 争点に関する判断」欄の2項(原判決33頁15行目から35頁20行目まで)に記載のとおりで
あるから、これを引用する。ただし、原判決33頁16行目の「甲1、」の次に「5、」を加え、同頁
21行目から22行目にかけての「人口の約35パーセントを占め」を「1990年代の数字で人口の
約38パーセントを占め」に改め、同34頁6行目の「タジク人」の前に「①」を加える。
また、アフガニスタンにおけるハザラ人の状況についての認定及びその状況に関する各種の
報告書の記載は、原判決事実及び理由の「第3 争点に関する判断」欄の2項ア(原判決35
頁22行目から同37頁9行目まで)、イ及びウアないしオ(原判決37頁10行目から同39頁14行
目まで)、エア及びイ(原判決39頁25行目から同42頁7行目まで)、オアないしオ(原判決42頁
16行目から同44頁16行目まで)に記載のとおりであるから、これを引用する。
 一方、被控訴人は、本人尋問及び被控訴人代理人作成の聴取報告書(甲79)において、被控訴
人がシーア派ハザラ人であること、aの司令官等としてタリバンに反対する活動をしたために
タリバンから指名手配を受けたこと等を供述するところ、その要旨は、以下のとおりである。
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ア 被控訴人は、イスラム教シーア派に属するハザラ人であり、1979(昭和54)年にソ連がア
フガニスタンに侵攻していたことや、ハザラ人やイスラム教シーア派が迫害を受けていたこ
とから、1981(昭和56)年ころからaのメンバーとして活動を開始し、《地名略》担当の第○
情報部門の責任者に任命され、情報収集などを行うようになったが、他方で、そのころ、アフ
ガニスタンの事業許可を取得し、中古自動車部品の貿易・販売事業で生計を立てるようにな
った。
イ 被控訴人は、1982(昭和57)年ころ、当時のカルマル政権により上記のaにおける活動を
理由として逮捕され、1か月以上身柄を拘束された。
ウ 被控訴人は、その後も事業で得た利益でaを経済的に支援したり、同党の広報に携わる等
の政治活動をしていたが、aの最高司令官であるB(以下「B」という。)からの依頼を受け、
カブールに潜入していたBBCのイギリス人ジャーナリストからインタビューを受け、現地を
案内する等したため、1989(平成元)年ころ、当時のナジブラ政権により再び逮捕され、裁判
で2年間の懲役を命じられたが、6か月後に恩赦により釈放された。被控訴人は、上記身柄
拘束の際、金属製ケーブルで身体を殴られたり、電気ショックを受けさせられ、熱した棒を
左腕に押しつけられる等の拷問を受けた。
エ 被控訴人は、その後もaのメンバーとしてaに経済的支援をしたほか、重要なミーティン
グ等に参加していたが、その間、1992(平成4)年3月ないし4月ころ、aを含むムジャヒデ
ィンがカブールを制圧し、ナジブラ政権を崩壊させたものの、その後ムジャヒディン間で内
戦が始まり、当時aの副最高司令官の地位にあった被控訴人の長兄Cが、この内戦で殺害さ
れた。被控訴人は、同人の弟であったため、他のaのメンバーから信頼を受け、同年5月こ
ろ、長兄を継いで《地名略》でスカッド・ミサイルの防衛を担当する第○部隊の司令官になり、
650人から800人くらいの部下を率いて活動を行うようになるとともに、aの中央委員会の
メンバーに任命され、ヘクマティアルらのパシュトゥーン人のムジャヒディン勢力と戦った
ところ、これらの活動が評価されBから感謝状を受けた。
また、被控訴人は、1993(平成5)年8月、ムジャヒディン間の内戦が一時的に停止した時
期にBとともに停戦維持に関する任務に従事し、代表団の安全確保を行うなどしたところ、
1994(平成6)年1月にはアフガニスタン・イスラム国の第○部隊の司令官に任命された。
オ 1994年(平成6)年には、アフガニスタン南部で誕生したタリバンが、次第にカブールに
勢力を伸ばし、翌年にはカブールを攻撃するようになったが、被控訴人は、1995(平成7)年
10月、aの軍事部門の情報管理・規律維持の責任者に任命された。また、1996(平成8)年
ころには、イスラム統一党の指導者であるマザリがタリバンに殺害されたことを契機とし
て、イスラム協会、イスラム統一党、aの反タリバン連合部隊が形成され、被控訴人は、同年
5月、カブールで、各組織の衝突の防止及び治安維持のための部隊の司令官に任命され、600
名の部下を率いて活動した。
しかし、1996(平成8)年9月27日、タリバンがカブールを制圧したため、被控訴人は北
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カブール、トルクマンへと戦闘をしながら退避することになり、約3か月間戦闘を続けた後、
自分や家族の命を守るためにアフガニスタンを出国することを決意した。
カ 被控訴人は、1996(平成8)年12月ないし翌年1月ころ、パシュトゥーン人に500万アフ
ガニを支払い、パキスタンのペシャワールへ逃走した。被控訴人は、身元を隠すため、パシュ
トゥーン人の服装をし、頭に布を巻いて被控訴人と分からないようにしたほか、身元が判明
する書類は所持しないようにしたが、被控訴人の妻子も被控訴人とは別行動でカブールから
ペシャワールへ移り、妻が被控訴人の書類やパスポートを運び被控訴人に渡した。被控訴人
は、ペシャワールに到着した後、生計を立てるために他のアフガニスタン人2人と共同で貿
易事業を行うことにし、1997(平成9)年2月ころ、日本の会社を紹介されて来日した。被控
訴人の妻子は、その後カブールに帰り妻の実家で暮らすこととなった。
キ 被控訴人は、日本からパキスタンに帰国後、UAEに滞在することにし、1997(平成9)年
7月ころ、他の2人のアフガニスタン人とUAEの《地名略》に貿易事業の会社を設立したが、
その後Bからアフガニスタン国内のaメンバーに経済的支援をする任務を与えられ、UAEに
おける責任者として活動するようになり、UAE国内に滞在するaのメンバーや支援者らへの
連絡、会議等を開催してアフガニスタンの状況を話したりするほか、イランやパキスタンに
滞在するメンバーと連絡を取っていた。
ク 被控訴人は、1997(平成9)年8月から翌年7月までの間、5回にわたりいずれも短期滞
在の在留資格を取得して来日し、中古自動車部品の貿易事業に従事しつつ、1998(平成10)
年春ころには、aのミーティングに参加するためタジキスタンを経由し、アフガニスタン北
部のタハールに入ったり、1999(平成11)年初め及び2000(平成12)年初めには、カブール
で地下活動を行うaのメンバーを支援するため、危険を冒してタリバン支配下のカブールに
潜入して、経済的支援をしたりする等の活動を継続していた。被控訴人のこのような活動が
評価され、被控訴人は、2000(平成12)年3月ころ、aの中央委員会のメンバーに再度登録
された。
ケ 2001(平成13)年3月ころ、当時アメリカを訪問していたBが、イランのマシャドに滞在
することになり、aの中央委員会のメンバーによる会議が開催されたため、被控訴人も参加
した。その際、被控訴人はaの週刊誌であるbのインタビューに応じ、被控訴人はタリバン
に批判的な内容を述べたところ、被控訴人のこのインタビューを掲載した同週刊誌は、《日付
略》に発行された。
また、被控訴人は、同年5月ころ、伯母の葬儀のために《地名略》の親戚を訪ね、その際、《地
名略》の日刊紙であるcの記者のインタビューに応じたが、その中で被控訴人は、タリバン
に批判的な発言をしたところ、同インタビューが掲載された日刊紙が《日付略》に発行され
てしまった。
コ 被控訴人は、上記のような反タリバン活動をしていたため、タリバンの諜報機関に個別に
把握されることとなり、被控訴人がUAEに滞在していた2001(平成13)年6月中旬ころに
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は、《地名略》に居住していた妻の親戚であるDから、被控訴人の従兄弟であるEが連行され
たと聞いたほか、同月19日、Bから、タリバンが被控訴人の指名手配書をパキスタン大使館、
UAE大使館に送付しており、被控訴人に身柄拘束の危険が迫っている旨の連絡を受けた。さ
らに翌20日には、UAEに駐在するタリバンの大使館から、被控訴人の会社に対し、被控訴人
にアブダビの大使館に来るようにとの電話があった。被控訴人は、これらの連絡を受け、自
らの身柄拘束の危険が迫っていると感じ、同月23日ころ、UAEからパキスタンのペシャワー
ルへと出国した。
サ 被控訴人がペシャワールに入ったころ、被控訴人は、パキスタンに滞在する親戚から、タ
リバンが伯母の葬儀を行った親戚の自宅を2度訪れ、被控訴人の所在場所を尋ねたことを聞
かされたほか、aの情報部門に所属するGからも、被控訴人の従兄弟であるEが連行された
旨を聞かされた。さらに、被控訴人が中央カブールに有していた店舗及び被控訴人の《地名
略》の自宅がタリバンに没収されて他人に売却されたほか、被控訴人の《地名略》の自宅もタ
リバンにより破壊され敷地内に地雷が埋められた旨を聞かされた。
また、被控訴人は、妻の兄であるFやGから、被控訴人が指名手配された旨が記載されて
いるタリバンの指名手配書(甲74)や、d紙(甲70)、被控訴人のインタビューの掲載された
c紙(甲69)を受け取った。
シ 被控訴人は、パキスタンにおいてもタリバンの捜索を受けるようになったため、安全な国
へ出国することを決意し、過去に日本滞在の経験があったことなどから、日本へ行くことを
希望し、1万500米ドルと3枚の写真を渡して、ブローカーの手配により、2001(平成13)年
6月28日、ペシャワールからイスラマバードへ行き、イスラマバードから経由地の空港に空
路で移動した後、バンコクと思われる空港をさらに経由し、同年7月2日、成田空港に到着
し、同日、東京入管成田空港支局上陸審査場において、同支局入国審査官に対し、難民認定申
請をしたい旨を述べた。
 以上の被控訴人の供述によれば、被控訴人がアフガニスダンにおいてタリバンから迫害を受
けるおそれがあると認識したのは、被控訴人の反タリバン活動がタリバンの諜報機関に個別に
把握されることとなり、タリバンが指名手配書を発布し、被控訴人に出頭を求めてきたことが
契機となったものといえる。
この点について、被控訴人は、上記タリバンが指名手配書を発布し被控訴人に出頭を求めた
という事情のみが被控訴人の迫害を受けるおそれを基礎付けるものではなく、被控訴人がシー
ア派ハザラ人であり、反タリバンの勢力であるaの司令官及び中央委員会のメンバーとして積
極的に反タリバン活動をしていたという事情から、アフガニスタンにおいて迫害を受けるおそ
れがあったと主張する。
しかしながら、前記引用に係る原判決認定事実及び各種報告書の記載によれば、国際機関
等が、シーア派ハザラ人であることのみを理由に暴行や殺害等の迫害がなされたいう報告をし
たという事実はなく、タリバンも公式には組織的かつ日常的にハザラ人を迫害することを肯定
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していたものではないことが認められるのであって、むしろ、タリバンによって行われたハザ
ラ人の虐殺行為は、宗教的又は民族的特性に帰因するものというよりも、反タリバン勢力の攻
撃に対する報復として、反タリバン勢力に対する協力者、あるいは反タリバンとみなされた者
を対象としてされた側面があるというべきであり、アフガニスタンにおいて、一般にシーア派
ハザラ人が、そのことのみを理由にタリバンによる迫害を受けるおそれがあるものと認めるこ
とは困難であるといわざるを得ない。
もっとも、上記報告書中には、タリバンによるハザラ人に対する暴行や殺害等の迫害は、必
ずしも組織的に行われたものでないにしても、現実には、ハザラ人がその民族及び宗教的信仰
のゆえに、タリバンから反対勢力に属することを疑われ、その疑いの客観的証拠がなくとも暴
行や殺害等を受けることが相当の頻度であったこと、少なくとも一部のタリバン勢力が非スン
ニ派を殺害することを宗教的使命とみなしていたことなどを指摘するものもあるので、まし
て、被控訴人の供述するとおり、被控訴人がシーア派ハザラ人であるというだけでなく、aの
司令官及び中央委員会のメンバーとして積極的に反タリバン活動をしていたというのであれ
ば、そのことによっても、被控訴人がタリバンから迫害を受けるおそれがあると認識していた
ということも想定できないことではない。
しかしながら、以下に述べるとおり、被控訴人が、そのような理由から迫害を受けるおそれ
があると認識していたとは到底認められない。すなわち、前記被控訴人の供述によれば、被控
訴人は、平成4年(1992年)にaの司令官に任命され、その後も司令官等として反タリバン活
動をしてきたというのであるが、証拠(乙43、被控訴人本人)及び弁論の全趣旨によれば、被控
訴人は、①平成9年(1997年)2月7日から同年5月6日まで、②同年8月8日から同年10月
31日まで、③平成10年(1998年)4月から同年7月1日まで、④平成11年(1999年)1月27日
から同年4月26日まで、⑤同年9月29日から同年12月26日まで、⑥平成12年(2000年)4月
19日から同年7月16日までの6回にわたり、中古自動車部品買付け等の目的で、本邦に入国在
留していたことが認められるのであり、前記引用に係る原判決前提となる事実のとおり、被控
訴人は、7回目になる平成13年7月2日の今回の入国に至って初めて、同月3日、本件難民認
定申請をしているのである。一方、その間のアフガニスタンの状況は、タリバンが平成8年9
月(1996年)9月に首都カブールを陥落し、平成10年(1998年)夏には、マザリシャリフ及び
イスラム統一党の拠点であるバーミヤンを陥落させるなどの事件があり、前記被控訴人の供述
によれば、被控訴人においても、タリバンがカブールを制圧したため、北カブール、トルクマン
へと戦闘をしながら退避することになり、約3か月間戦闘を続けた後、自分や家族の命を守る
ためにアフガニスタンを出国することを決意したというのである。しかるに、被控訴人は、被
控訴人においては、その間に我が国に庇護を求めることも難民認定申請をすることもなかった
ばかりか(被控訴人が同申請をしたことをうかがわせる証拠はない。)、平成9年(1997年)以降、
3回にわたりアフガニスタンに帰国して、aに対する経済的支援を行うなどしてきたというの
であって、仮に、被控訴人がシーア派ハザラ人でaの司令官等であることからタリバンから迫
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害されるおそれがあると認識していたものであったとすると、上記のような被控訴人の行動は
到底理解し難いものといわざるを得ず、むしろ、被控訴人においては、単にハザラ人であるこ
とやaの司令官等であるとの事情のみでは、必ずしもアフガニスタンにおいて迫害を受けるお
それがあるとは認識していなかったものと考えるのが自然である。
以上のとおり、被控訴人がシーア派ハザラ人であり、また、aの司令官等であったという事
情からも、アフガニスタンにおいて迫害を受けるおそれがあったと認識していたとする被控訴
人の主張は採用できないものであり(なお、タリバンが被控訴人の指名手配書を発布し、被控
訴人に出頭を求めてきたということを被控訴人が知ったとする以前において、被控訴人がタリ
バンからaの司令官等として活動していることを個別的に認識されるなり、タリバンが被控訴
人の身柄を探している等といった事実に直面したというような事情は本件全証拠によるも認め
られないから、aの司令官等であったということを根拠として、被控訴人が迫害を受けるおそ
れがあったと認識していたということはあり得ない。)、被控訴人がアフガニスタンにおいてタ
リバンから迫害を受けるおそれがあると認識したとしても、それは、被控訴人の反タリバン活
動がタリバンの諜報機関に個別に把握されることとなり、タリバンが指名手配書を発布し、被
控訴人に出頭を求めてきたとすることが契機となったものとみざるを得ない。
 ところで、被控訴人の反タリバン活動がタリバンの諜報機関に個別に把握されることとな
り、タリバンが指名手配書を発布し、被控訴人に出頭を求めてきた一連の経緯に関する被控訴
人の供述は前記ケないしサのとおりであるところ、被控訴人は、これらの被控訴人の供述を
裏付ける証拠として甲69ないし71号証、74号証及び75号証を提出する。しかし、以下のとお
り、これらの書証はいずれも偽造ないし内容虚偽の証拠である。すなわち、
ア 甲69号証について
甲69号証は、被控訴人がタリバンにより指名手配された契機となったとするインタビュー
記事が掲載されているc紙であるところ、上記c紙は、紙面左頁右上部には《日付略》を発行
日とする記載がされているにもかかわらず、これと一体の紙面である右頁右上部には同月22
日を発行日とする記載がされていることが認められ、同紙が日刊紙であることからすると、
このような記載は著しく不自然なものといわざるを得ない。また、控訴人らが同紙の発行元
から取り寄せたとする《日付略》を発行日とするc紙(乙44)と甲69号証のc紙は掲載され
ている写真及び掲載記事の見出しがすべて異なっており、他方控訴人らが発行元から取り寄
せたとする同月22日付けの同紙(乙45)と甲69号証を比較すると、掲載されている写真及び
掲載記事の見出しがほぼ一致すると認められるものの、控訴人らの取り寄せた同紙には、被
控訴人のインタビュー内容や被控訴人の写真等、被控訴人に関する記事は何ら掲載されてい
ないことが認められる。さらに、甲69号証には、紙面右頁の中央付近に記載された一体とな
る記事がダリ語で記載されているにもかかわらず、一文の途中からパシュトゥーン語で記載
されている等、通常では考え難い体裁のものとなっており、内容にもつながりのない文章と
なっていることが認められる(乙50)。これらの事実からすると、甲69号証は、被控訴人のイ
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ンタビュー記事を掲載することを目的として意図的に作成された偽造の新聞であるといわざ
るを得ず、少なくとも《日付略》付けのc紙には、被控訴人のインタビュー記事は掲載されな
かったことが認められる。
イ 甲70号証について
甲70号証は、甲69号証のインタビューに関する記事を敷衍したものとして被控訴人が提
出するd紙であるところ、同紙には、「反アフガニスタン・イスラム首長国のプロパガンダを
外国で行っている者の1人がAである。《日付略》、cに反アフガニスタン・イスラム首長国
のプロパガンダを行った。」等と記載されていることが認められるが、上記のとおり、同日付
けのc紙にはそのような記事は掲載されていないことが認められることからすると、この新
聞記事も偽造によるものであるといわざるを得ない。
ウ 甲74号証について
甲74号証は、被控訴人がタリバンによる指名手配を受けたとして提出する指名手配書であ
るところ、同号証には、「Aは、反乱及び犯罪を行う組織の司令官として、反アフガニスタン・
イスラム首長国のプロパガンダを外国の報道機関に行ったものである。」と記載された上、被
控訴人の身柄をアフガニスタンの裁判所に引き渡すよう命じる旨の記載がされている。そし
て、被控訴人が、同指名手配書に記載された「プロパガンダ活動」はパキスタン(《地名略》)
の日刊紙である前記c紙(甲69)への記事掲載を指すものと主張しており、その他に被控訴
人が同時期に外国の報道機関にタリバンに批判的な意見を述べたり、その旨の記事等が掲載
された事実は全証拠によっても認めることができない(なお、被控訴人は、《日付略》ころ、
aの週刊誌であるbにもインタビュー記事を掲載されているが、同週刊誌は「外国の報道機
関」ではないから、bの掲載を理由とするものとは考えられない。)。そうすると、上記指名手
配書の根拠となっている前記c紙(甲69)の記事が偽造である以上、上記指名手配書は偽造
であるといわざるを得ない。
エ 甲71号証について
甲71号証は、タリバンが被控訴人に係る指名手配書を在パキスタン及び在UAEのアフガ
ニスタン大使館に送付したという内容のBからのファックスであるが、上記のとおり甲69の
c紙や甲74の指名手配書自体が偽造なのであるから、上記ファックスも上記c紙等の偽造文
書と併せて作成された内容虚偽の文書であるといわざるを得ない。
オ 甲75号証について
甲75号証は、被控訴人に対するアフガニスタン当局からの呼出状であるところ、上記各証
拠が偽造文書又は内容虚偽の文書であることや、上記呼出状の日付が2001年(平成13年)、
8月14日であるところ、これがUAEから本邦に向けて発送されたのは、本件不認定処分がな
された同月29日の後の同年11月13日であるし(甲76)、上記呼出状は在UAEのタリバン政権
下のアフガニスタン大使館が発行したとされるものであるのに、発行日は西暦で記載されて
いることからすれば(イスラム教を厳格に解釈しイスラム原理主義に立つタリバン政権の大
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使館が、イスラム教徒のアフガニスタン国民に宛てた公文書の発行日の記載にイスラム暦を
使用しないのは不自然である。)、上記呼出状も偽造文書であると判断せざるを得ない。
なお、被控訴人は、前記c紙への被控訴人の関与を否定する供述をするが、被控訴人は、同
紙面に掲載された被控訴人の顔写真を被控訴人自身が新聞記者からの求めに応じて提出した
というのであるから(被控訴人本人・原審第5回口頭弁論調書91項)、被控訴人が主張する
ようなインタビューが実際に行われていたとするなら、上記のような偽造記事に被控訴人が
提供した写真が使用されるはずはなく、また、被控訴人が上記c紙及びd紙を入手した経緯
について、当初はGが被控訴人の妻の兄に渡し、その後、同人からこれを受け取った旨述べ
ていた(甲78・8頁)が、その後、c紙については、妻の兄弟がGから郵送してもらったもの
を妻の兄弟から直接受け取ったと供述し(被控訴人本人・原審第5回口頭弁論調書98項ない
し101項)、さらに、Gと妻の兄弟が一緒にカブールから持ち込み、妻の兄弟から受け取った
旨の供述をしており(被控訴人本人・原審第2回口頭弁論調書39項ないし40項)、また、d
紙についても、後に、被控訴人がGから直接受け取った旨供述する(被控訴人本人・原審第
2回口頭弁論調書39項ないし41項)など、その供述に変遷がみられることからして、被控訴
人自身が前記c紙の偽造に関与していた疑いが極めて高いといわざるを得ず、さらに、被控
訴人が主張するインタビュー自体の存在も極めて疑わしいといわざるを得ない。
以上によれば、被控訴人の反タリバン活動がタリバンの諜報機関に個別に把握されること
となり、タリバンが指名手配書を発布し、被控訴人に出頭を求めてきたとする一連の経緯に
関する被控訴人の供述は、これを裏付ける上記各証拠がいずれも偽造文書又は内容虚偽のも
のであることからして、その信用性には疑問がある。確かに、被控訴人の主張するように、難
民認定における信ぴょう性判断は、難民問題の特殊性や証拠収集の困難性、申請者の心的ス
トレスによる記憶の変容等の心理的要因、言語的障害等の文化的要因等にかんがみ、慎重に
検討する必要があり、証拠の一部が信ぴょう性に欠けるとしても、これをもって供述全体の
信ぴょう性を否定するのは相当ではなく、その他の証拠の検討、供述全体の自然性、合理性
や一貫性という点を総合的に評価した上で慎重な検討がされなければならないのは当然であ
るが、本件の場合、上記のとおり被控訴人の供述のうち、難民該当性の核心的部分に関する
証拠が偽造文書又は内容虚偽の文書であることにかんがみれば、その供述自体に合理性や一
貫性があったとしても、難民該当性に係る被控訴人の供述の信用性が否定されるのは当然で
ある。
 以上の次第であるから、被控訴人がaの司令官等として反タリバン活動をしていたか否かの
判断は措くとしても(仮に被控訴人がその司令官等として活動していたとしても、それ故に被
控訴人が迫害を受けるおそれがあることを認識していたといえないことは前判示のとおりであ
る。)、本件各処分時において、被控訴人に難民条約にいう「迫害を受けるおそれがあるという
十分に理由がある恐怖を有する」というための、当該人が迫害を受けるおそれがあるという恐
怖を抱いているという主観的事情の存在を肯認することはできない。
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 さらに、被控訴人の今回の本邦への入国に関しては、以下の事情を指摘することができる。
ア まず、証拠(乙9の1ないし3、38、43、被控訴人本人)及び弁論の全趣旨によれば、被控
訴人は、UAEでe社を共同経営し、UAE、パキスタン、日本を行き来して中古車部品貿易業
を営んでいた者であり、平成9年2月以降、今回の入国までの間に6回本邦への入国歴があ
り、いずれもその渡航目的を「BUSINESS」又は「CAR BUSINESS」としており、本邦におい
て中古自動車部品の仕入れ等の業務に従事していたこと、しかし、その間、我が国に対し、一
時庇護を求めたり、難民申請を行うことはなかったし、また、その手続を調べたり準備を進
めるようなこともなかったこと、被控訴人は、今回の入国に先立つ平成12年10月18日、渡航
目的を「BUSINESS FOR COMPANY」として、在パキスタン日本国大使館に査証発給申請
を行ったものの、以前は即日か翌日に発給されていた査証が、その際には、係官から結論が
出るまで1か月かかる旨言われたという経緯があったこと、その後、上記申請に係る査証が
被控訴人に対し発給された形跡がないこと、被控訴人は、今回の入国後においても、本邦で
中古自動車部品等の仕入れ資金の送金を受けるために開設してあった口座にUAEのe社か
ら200万円の送金を受け、本邦において中古自動車部品を買い付けてはe社に向けて輸出す
る等の経済活動をしていることが認められる。
イ また、証拠(乙51ないし58)及び弁論の全趣旨によれば、被控訴人が共同経営するeの社
員であったHは、H’ との偽名を使って本邦に6回目の入国をし、平成13年4月9日付けで
自らをaの構成員であるとして難民認定申請をしたが、同人が提出したc紙(タリバンが同
人の財産を没収する等したという内容のもの。)は偽造されたものであることが判明し、難
民不認定処分を受け、異議審査中にアフガニスタンに向けて自費出国をしたことが認められ
る。そして、同人は、上記難民認定申請の際に、自らをaの司令官であるとして、a発行の身
分証明書、感謝状、指令文書、司令官時代の写真を提出し(乙53)、「迫害を受けるおそれがあ
るという十分な理由のある恐怖」を裏付ける資料として偽造されたc紙等を提出しているが
(乙51、52)、c紙等が偽造されたものであることは被控訴人の場合と同様であるし、Hが自
らをaの司令官であるとして提出した上記各書面も、被控訴人が自らをaの司令官であると
して提出した甲53号証、第58号証、第61号証ないし第63号証と上部の定型の記載欄及び書
面下部にされたサインが酷似しているし、甲57号証、第59号証、第64、第65号証についても、
H’ が提出した同種の文書と書式等が酷似している(乙53)のであって、被控訴人が自らを難
民であるとする理由とその根拠として提出された証拠資料は、いずれもH’ の場合と酷似し
ている。
ウ さらに、証拠(乙104、88)及び弁論の全趣旨によれば、平成12年以降、アフガニスタン人
で難民認定申請を行った者のうち、平成16年7月12日時点で既に本邦から帰国している者が
29名(うち28名は自費出国)いるところ、うち25名が中古自動車部品業を営んでいる者であ
ること、また、同年2月19日現在、東京地方裁判所に係属中の難民不認定等取消訴訟等にお
けるアフガニスタン人当事者36名のうち22名が中古自動車部品業を営んでいる者であるこ
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とが認められる。このように、アフガニスタン人のうち特定の職業の者が特定の時期に一斉
に難民認定申請をするということ自体、不自然であるというべきであるが、さらに、証拠(乙
43、84、85、114、被控訴人本人)及び弁論の全趣旨によれば、被控訴人の今回の不法入国後
の取引先であるf有限会社の住所「千葉県《住所略》」は、被控訴人と同じく中古自動車輸出
業者であり、かつ東京地方裁判所に難民不認定処分取消請求事件を提起していたアフガニス
タン人Iの仮放免許可の際の指定住居及びアフガニスタン人Jの仮放免許可の際のかつての
指定住居であること、また、過去の被控訴人の外国人登録地である千葉県《住所略》は、同じ
く難民不認定処分等の適否を訴訟で争うK(以下「K」という。)らが摘発された場所である
こと、しかも、Kも中古自動車部品販売業等を営んでいる者であるところ、Kに関しては、本
邦に偽名を使って入国し過去の入国歴を秘して難民認定申請をし、法務大臣の不認定処分に
対しその取消訴訟を提起していたL(以下、「L」という。)が、Kとの兄弟関係が強く推認さ
れる旨のDNA鑑定の結果が出ると、訴えを取り下げて本邦から自費出国したこと、さらに同
じく、氏名生年月日等を偽って入国し過去の入国歴を秘して難民認定申請をし、法務大臣の
不評定処分に対し取消訴訟を提起したMもKとの親族関係を控訴人らに指摘されDNA鑑定
を請求されるや、訴えを取り下げて本邦から自費出国していることが認められることからす
れば、平成12年以降、被控訴人のような中古自動車部品業を営み難民認定申請をしたアフガ
ニスタン人には、相互に関係していることが推認される。
エ 以上によれば、被控訴人による本件難民認定申請は、被控訴人が査証の発給を受けること
が極めて困難と考え、自らがUAEで営むe社の事業を維持し、今後の本邦における中古車部
品貿易業を継続するため、難民を偽装し本邦での在留資格を得ることを目的としたものであ
ることが強く疑われるものであり、被控訴人には、中古車部品貿易業を継続するために本邦
に不法入国する十分な動機があるといえる。
 以上の次第であるから、被控訴人が法2条3号の2、難民条約1条、難民議定書1条にいう
難民に該当すると認めることはできず、被控訴人が本件各処分時にアフガニスタンに帰国すれ
ばタリバンによる迫害を受けるおそれがあるというのは、被控訴人が今後も本邦において中古
車部品貿易業を継続するための口実にすぎないとみるのが相当である。
3 本件裁決の存否並びに本件裁決の不存在確認、無効確認及び取消しを求める訴えの当否につい

 被控訴人は、本件裁決は裁決書が作成されておらず不存在である旨主張する。
しかし、法49条3項の裁決を行うに当たり、文書によって行うべきことは規定されていない
し、一般に、行政処分は、行政庁が意思決定をした後、外部に表示され、対外的に認知される存
在になったときに成立し、その効力は、特段の定めがない限り、意思表示の一般原則に従って、
行政処分が相手方に到達したとき、すなわち、行政処分の告知時に発生するものと解せられる。
そして、法49条3項の裁決については、法務大臣が「異議の申出に理由がある」旨の意思決定
をした場合には容疑者を放免することによって(同条4項)、また法務大臣が「異議の申出に理
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由がない」旨の意思決定をした場合には主任審査官が容疑者にその旨を知らせることによって
(同条5項)それぞれ外部への表示及び告知がなされるのであって、前記引用に係る原判決前提
となる事実のとおり、控訴人法務大臣は、平成13年8月29日、本件異議の申出について理由が
ない旨の本件裁決をし、これを控訴人審査官に通知し、翌30日、控訴人審査官は、本件裁決が
されたことを被控訴人に告知しているのであるから、本件裁決が存在していることは明らかで
ある。
したがって、本件裁決の不存在確認を求める被控訴人の請求は理由がない。
 被控訴人は、予備的に、被控訴人の難民該当性を看過した控訴人法務大臣の判断には重大か
つ根本的な事実誤認による裁量権の逸脱があり、本件裁決は無効ないし取消されるべきである
旨主張する。
しかし、被控訴人は本邦に不法入国した者であるから、法24条1号所定の退去強制事由があ
ることは明らかであり、被控訴人が難民条約にいう難民に該当すると認められない以上、控訴
人法務大臣が法50条により特別に在留を許可すべき事情があるとは認められないから、本件裁
決は適法であって、その無効確認を求める被控訴人の予備的請求も理由がない。
また、前記のとおり、本件裁決は平成13年8月30日に被控訴人に告知されたものであるとこ
ろ、本件裁決の取消しを求める被控訴人の予備的訴えは平成14年2月15日に提起されたもの
であることは記録上明らかであるから、上記予備的訴えは行政事件訴訟法14条1項所定の出訴
期間を徒過した不適法なものである。
4 本件退令発布処分及び本件不認定処分の適法性について
前記のとおり、被控訴人が法2条3号の2、難民条約1条、難民議定書1条にいう難民に該当
すると認めることができないから、本件不認定処分は適法であり、また、被控訴人は、難民に該当
すると認めることができず法20条1号に該当すると認定されているのであり、また、被控訴人が
上記のとおり難民に該当しない以上、本件退令発布処分が法53条3項、難民条約33条1項に違反
しているものとは認められないし、控訴人審査官に裁量権の濫用があるということもできないか
ら、本件退令発布処分を無効とする事由はない。
したがって、本件退令発布処分の無効確認及び本件不認定処分の取消しを求める被控訴人の請
求は、いずれも理由がない。
5 よって、原判決を上記の判断に従って変更することとし(原判決中本件裁決の不存在及び無効
確認を求める訴えを不適法として却下した部分も取り消すものであるが、同部分につき更に弁論
する必要はない。)、主文のとおり判決する。

在留特別許可不許可に対する異議の申出に理由がないとする裁決取消等請求事件
平成15年(行ウ)第31号
原告:A、被告:東京入国管理局長・東京入国管理局横浜支局主任審査官
横浜地方裁判所第1民事部(裁判官:川勝隆之・諸岡慎介・菊池絵理)
平成17年7月20日
判決
主 文
1 被告東京入国管理局長が原告に対し平成15年5月7日付けでした出入国管理及び難民認定法
49条1項の規定による原告の異議の申出は理由がない旨の裁決を取り消す。
2 被告東京入国管理局横浜支局主任審査官が原告に対し平成15年5月7日付けでした退去強制
令書発付処分を取り消す。
3 訴訟費用は被告らの負担とする。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
1 原告(請求の趣旨)
主文と同旨
2 被告東京入国管理局長(請求の趣旨に対する答弁)
 主文第1項に係る原告の請求を棄却する。
 訴訟費用は原告の負担とする。
3 被告東京入国管理局横浜支局主任審査官(請求の趣旨に対する答弁)
 主文第2項に係る原告の請求を棄却する。
 訴訟費用は原告の負担とする。
第2 事案の骨子
中華人民共和国で生まれ、同国の国籍を有する原告は、日本人男性と偽装結婚をし、在留資格
「日本人の配偶者等」、在留期間「6月」として上陸許可を受けて、中華人民共和国から日本に入国
し、在留期間の更新又は変更を受けないで上記在留期間を経過して日本に残留していたが、同居
していた日本人Bと養子縁組を行ったことから、同人との生活を続けることを希望して、東京入
国管理局横浜支局に出頭し、上記不法残留事実を申告した。
しかし、出入国管理及び難民認定法(平成15年法律第65号による改正前のもの。以下「法」と
いう。)24条4号ロに該当する旨の入国審査官の認定(法47条2項)と、同認定には誤りがない旨
の特別審理官の判定(法48条7項)を受けたことから、法務大臣に対し法49条1項の規定による
異議の申出をしたところ、法務大臣から権限の委任を受けた被告東京入国管理局長は、上記異議
の申出に理由がない旨の裁決(法49条3項)を行い、同裁決の通知を受けた被告東京入国管理局
- 2 -
横浜支局主任審査官は、原告に対し、退去強制令書を発付(法49条5項)した。
そこで、原告が、被告東京入国管理局長がした上記裁決は、原告に対し法50条1項3号の規定
に基づく在留特別許可を付与しないという判断を前提としたものであって、裁量権を逸脱又は濫
用した違法なものであり、したがって、被告東京入国管理局横浜支局主任審査官がした上記退去
強制令書発付処分も違法であるなどと主張して、これらの取消しを求めたのが本件事案である。
第3 基礎となる事実
(以下の事実は、争いのない事実又は弁論の全趣旨ないし記載した証拠により容易に認められ
る事実である。)
1 原告の身分事項について
原告は、1967年(昭和42年)1月13日に中華人民共和国(以下「中国」という。)において出生
した、中国国籍を有する女性である。 〔乙1号証〕
2 原告の入国の経緯及び在留状況等について
 原告は、日本人C(以下「C」という。)と、平成7年6月14日、中国において同国の方式によ
り婚姻手続をした。そして、Cは、同年7月17日、神奈川県川崎市川崎区(以下「川崎区」とい
う。)長に対し、上記婚姻に係る証書を提出した。 〔乙4、32号証〕
 原告は、平成7年10月17日、中国上海空港から新東京国際空港に到着し、東京入国管理局成
田空港支局入国審査官から法別表第2に定める在留資格「日本人の配偶者等」、在留期間6月と
して上陸許可を受け、日本に上陸した。 〔乙1号証、弁論の全趣旨〕
 原告は、平成7年10月30日、川崎区長に対し、川崎区《住所略》を居住地として、世帯主をC、
世帯主との関係を妻として、外国人登録法3条1項の規定に基づく外国人登録の新規登録申請
をした。 〔乙3号証〕
 Cは、平成8年3月15日、川崎区長に対し、原告との協議離婚を届け出た。 〔乙4号証〕
 原告は、上記の在留期間の更新又は変更の許可を受けることなく、上記上陸許可の在留期
限である平成8年4月17日を経過して日本に残留した。 〔乙3号証〕
 原告は、平成9年4月ころ、日本人B(昭和6年9月2日生まれ。以下「B」という。)と知り
合い、平成12年8月ころから、神奈川県横浜市南区(以下「南区」という。)前里町《住所略》に
おいて、同人と同居を始めた。 〔甲6、7号証〕
 原告は、平成12年9月29日、南区長に対し、南区日枝町《住所略》を居住地として、世帯主を
原告として、外国人登録法に基づく外国人登録の変更登録申請をした。 〔乙2、3号証〕
 Bは、平成13年1月30日、南区長に対し、原告を養子とする縁組を届け出た。 〔甲1、3、
4号証〕
 原告は、平成13年1月30日、南区長に対し、南区前里町《住所略》を居住地として、世帯主を
B、世帯主との関係を子として、外国人登録法に基づく外国人登録の変更登録申請をした。 
〔乙2、3号証〕
3 退去強制令書発付に至る経緯等について
- 3 -
 原告は、平成13年7月19日、東京入国管理局横浜支局(以下「横浜支局」という。)に出頭し、
不法残留の事実を申告した。 〔乙6号証〕
 被告横浜支局主任審査官は、横浜支局入国警備官から、原告が法24条4号ロに該当すると疑
うに足りる相当の理由があるとする収容令書の発付請求を受け、平成15年4月17日、収容令書
を発付した(法39条)。そして、横浜支局入国警備官は、同月21日、上記収容令書を執行して原
告を横浜支局収容場に収容し、横浜支局入国審査官に引渡した(法39条1項、44条)。 〔乙9、
10号証〕
 横浜支局入国審査官は、平成15年4月21日、原告の審査を行い、原告が法24条4号ロに該当
する旨の認定をし、原告にこれを通知したところ、原告は、同日、特別審理官による口頭審理を
請求した(法47条2項、48条1項)。 〔乙11、12号証〕
 横浜支局特別審理官は、平成15年5月2日、原告の口頭審理を行い、上記横浜支局入国審査
官の認定に誤りがない旨の判定をし、原告にこれを通知したところ、原告は、同日、法務大臣に
対し、異議の申出をした(法48条7項、49条1項)。 〔乙13、14、15号証〕
 法69条の2、同法施行規則61条の2第9号の規定に基づき法務大臣から法49条3項に規定
する権限の委任を受けた被告東京入国管理局長は、平成15年5月7日、上記異議の申出は理由
がない旨の裁決(以下「本件裁決」という。)をし、これを被告横浜支局主任審査官に通知した(法
49条3項)。 〔乙16号証〕
 被告東京入国管理局長から上記裁決の通知を受けた被告横浜支局主任審査官は、平成15年5
月7日、原告に対し、本件裁決がされたことを告知するとともに、退去強制令書を発付した(法
49条5項、51条。以下「本件退去強制令書発付処分」という。)。 〔乙17、18号証〕
 横浜支局入国警備官は、平成15年5月7日、原告に対し、上記退去強制令書を執行し(法52
条1項)、同月23日、原告を横浜支局から入国者収容所東日本入国管理センターに移収した。 
〔乙18号証〕
 原告は、平成16年6月9日、入国者収容所東日本入国管理センター所長から仮放免の許可を
受け(法54条2項)、出所した。 〔乙28、29号証〕
なお、原告は、現在も仮放免中である。
第4 争点
本件の主たる争点は、以下の各点である。
① 本件裁決をした被告東京入国管理局長の判断に裁量権の範囲の逸脱又は濫用の違法があるかど
うか。
この争点は、実質的には、本件裁決の前提となった、原告に対し法50条1項3号の規定に基づ
く在留特別許可を付与しないという被告東京入国管理局長の判断、に係る裁量の逸脱・濫用の有
無である。
② 本件裁決に、調査義務違反ないし適正手続違反の違法があるかどうか。
第5 争点に関する当事者の主張
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1 争点①(本件裁決をした被告東京入国管理局長の判断に係る裁量権の範囲の逸脱・濫用の違法
の有無)について
【原告の主張】
 本件裁決の違法性に係る判断の枠組みについて
ア 法務大臣から権限の委任を受けて在留特別許可を認めるべきか否かの判断を行う地方入国
管理局長は、在留特別許可を求める外国人に関しては、その入国の経緯、入国後の状況、生活
実態、日本人等との身分関係の有無、そのような身分関係がある場合には当該日本人等との
生活実態、当該日本人等の生活状態、当該外国人と日本人等の家族関係の緊密性や相互の養
育扶養等の相互依存関係等、その他あらゆる個別具体的な事情を、適切かつ慎重に検討して
その判断を行わなくてはならず、人道上、社会通念上、当該外国人に在留特別許可を与える
べきときにこれを認めない裁決をした場合には、およそその判断には裁量権の逸脱濫用が認
められるというべきである。
イ 確かに、法においては、在留特別許可について、いかなる場合にこれを認めるべきかとい
う判断の基礎となる要件、基準については何ら定められていない。
しかし、現在の運用実態によると、在留特別許可制度は、本来退去強制の対象となるべき
外国人に対して、人道上の配慮から認められた救済措置的制度となっており、現在は、在留
特別許可を求める者の圧倒的多数がこれを認められ、これを認めない旨の裁決に至る事案の
方がより限定的であるという状態となっている。そうである以上、決定過程の適正や透明性
を確保し、多くの事案を判断する際の公平性・平等性を担保するためには、在留特別許可制
度の趣旨を踏まえ、当該外国人が抱える一切の個別具体的事情を考慮した上、できうる限り
慎重に判断されるべきことが要求されているのである。
このような観点からすれば、在留特別許可を与えるか否かの判断においては、まず、いか
なる事実的基礎に基づいて結論に至ったかの点が明確にされなければならない。その上で、
当該外国人について、考慮すべき事項を考慮することがなかったり、逆に考慮すべきでない
事項を必要以上に考慮したり、あるいは、当該外国人について有利な事情の価値を不当に低
く評価したり、逆に不利な事情をことさら過度に斟酌したりするなどして、前提事実の評価
に適正を欠き、その結果、判断の妥当性が損なわれ、その判断に他の事例との均衡上、不公
平・不平等が認められるような裁決については、その判断に関し、事実の基礎を欠き又は社
会通念上著しく妥当性を欠くものとして、裁量権の逸脱濫用に当たると解すべきである。
 本件裁決の違法性について
アア 本件では、原告の入国の経過は、就労目的の偽装結婚による入国であり、その動機にお
いても態様においても悪質であることは否定できない。 
しかし、この点について原告は深く反省している。また、原告は、夫が生活費を渡さず、
両親も病気がちとなり、経済的に困窮のあまりこのような手段を選択したものである。そ
して、夫婦や家族そろっての不法入国や不法残留を企図したような事案とは異なり、その
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きっかけは義姉Dのアドバイスによる影響が強く、一切の手続も同女が行っていることに
鑑みれば、原告は比較的受動的な立場にあったことが伺える。
イ さらに、原告は、Dからの断るに断れない頼みによるものとはいえ、離婚した元夫が不
法入国するにあたって加担したとも評価されかねない行為をした。
しかし、当時の事情を踏まえると、原告は完全にだまされたといえるのであり、その結
果、200万円もの損害を被っている。したがって、その関与は完全に受動的なものであり、
主導的なものではなく、その不良性は軽微と評価すべきものである。なお、原告も深く深
く後悔し、反省しているところである。
イ 上記アのような不良性が認められる原告ではあるが、そもそも原告は、偽装結婚による入
国及びその後の不法就労以外に何らの法令違反も犯しておらず、原告の素行状態は至って善
良である。特に、Eでの仕事は、約7年という長期に渡り勤め続けており、現場から確固たる
信頼が確保されていたことはいうまでもなく、経営者からの評価も大変に高かった。
また、Bと同居後の生活ぶりや、二人を知るに至った日本人からの信頼が極めて厚いこと
からも分かるように、原告がいかなる違反行為も行わず、真面目に生活しており、日本人か
らも広く信頼を集める人柄であることは明らかである。
ウア そして、何より原告は、高齢の養母Bから是非にと請われて養子縁組をしている。Bは、
本件裁決当時は71歳であり、甲状腺炎、C型肝炎、腱鞘炎等の持病があり、その年齢から
いって体調や健康状態が悪化していく一方であることは明らかである。したがって、原告
にとってという以前に、Bにとって、同居をして、その生活全てを支えてくれる原告の存
在はもはや無くてはならないものであり、Bにとっての原告の存在意義は極めて重要であ
る。
また、原告とBの同居生活は、本件裁決直前までには2年9ヶ月にも及んでおり、二人
の生活は強い安定性を有していた。
上記のようなBと原告の身分関係の存在と生活の安定性は、在留特別許可を認める方向
で斟酌すべき最も重要な要素である。
イ さらに、本件裁決が行われた平成15年当時は、原告に対するBの経済的依存度が極めて
大きくなっていた。
エ 他方、原告にとっては、Bは現在唯一の家族であり、精神的な支えのすべてである。すなわ
ち、原告は、中国に帰る家はなく、迎える家族もなく、原告を助けることのできる親族は一人
もいない。また、原告は、平成7年からほぼ10年間日本に滞在し続けており、その生活基盤、
人間関係等は日本に移ってしまっている。さらに、原告はめぼしい財産は持っていない。し
たがって、原告にとっては、家族であるBの側で同女と一緒に暮らせることだけが必要不可
欠の状態であるといえる。
オ また、原告は、養女としてBに対し扶養義務を有し、Bにとっての唯一の同居の家族とし
てBを生涯支える立場にある(民法730条、809条、877条1項)。そして、原告がBの側で生
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活し続け、Bの介護等の一翼を担い、扶養の義務を果たすことにより、Bは、今後社会福祉制
度を利用しないで済むか、必要最小限の利用で済むことになる。したがって、原告が日本に
在住してBの老後の介護を担い、その生涯を看取るということは、急速な高齢化が進む我が
国において、同人が極めて有用な社会的資源となることを意味しており、このような社会的
意義からも、原告を日本に在留させるべき積極的な理由があるということができる。
カ なお、いわゆる婚姻事案においては、例えば不法入国した外国人について、日本人の配偶
者との間に子供もいないような事案でも、婚姻手続が完了し、同居の実態と安定性が認めら
れ、他の違反事実がなければ、ほぼ間違いなく在留特別許可が認められている。これは、当該
外国人が日本人配偶者と愛情で結ばれ、共同生活を送っており、その意味で日本社会への定
着が認められ、他方の日本人配偶者にとっても当該外国人の存在が必要不可欠であるからで
あると考えられる。そして、夫婦は互いに扶養の義務を負う立場にあり、将来的には生まれ
るであろう子供の養育等の責任があり、さらには、互いに老齢になった際の助け合いや介護
等の生活がある。
このような婚姻事案と本件事案の差異は、二人の間に「子供ができる」ことがあり得ず、一
方が高齢のため「介護等の状況がそう遠くない将来に迫っている」ことくらいである。
キ また、本件について、在留特別許可を認める裁決を行ったとしても、「他の不法滞在者に及
ぼす影響」は皆無である。なぜなら、仮に本件のように養子縁組をして在留特別許可を得よ
うとする不法滞在者がいるとしても、実際に養親養子として真実の親愛の情で結ばれていな
ければ現実に同居などは極めて困難であるし、本件のように、養親も単身で、養子も身寄り
身内がなく、お互いが共に暮らすのでなければそれぞれが生活上極めて悲惨な状態に陥るよ
うな事案は、極めてまれであるからである。
ク 上記のところからすると、原告に在留特別許可を認めない旨の裁決をした被告の判断は、
裁量権を逸脱濫用した違法があることは明らかである。
 本件退去強制令書発付処分の違法性について
そして、被告東京入国管理局横浜支局主任審査官がした本件退去強制令書発付処分は、本件
裁決が前提となっており、その判断に裁量の余地はないのであるから、本件裁決が違法である
以上、本件退去強制令書発付処分も当然違法となる。
【被告らの主張】
 在留特別許可に係る法務大臣等の裁量権が広範なこと等について
ア 在留特別許可は、退去強制事由のある外国人について、その在留中の一切の行状等の個別
事情を考慮するほか、国内の治安や善良な風俗の維持、保健衛生の確保、労働市場の安定等
の政治、経済、社会等の諸事情、当該外国人の本国との外交関係、我が国の外交政策、国際情
勢といった様々な事情を、その時々に応じ、将来の変化に配慮するなどして総合的に考慮し
た上、我が国の国益に利すると認められる場合に、法務大臣等が恩恵的に付与するものであ
るため、その付与に当たっての法務大臣等の裁量の範囲は極めて広範なものである。
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そして、在留特別許可がこのような裁量処分であることからすると、これを付与しないで
法49条3項の裁決をした法務大臣等の判断の適否に対する司法審査の在り方としても、裁判
所は、法務大臣等と同一の立場に立って在留特別許可をすべきであったかどうか又はいかな
る処分を選択すべきであったかについて判断するのではなく、法務大臣等の第一次的な裁量
判断が既に存在することを前提として、同判断が裁量権を付与した目的を逸脱し、又はこれ
を濫用したと認められるかどうかを判断すべきものである(行政事件訴訟法30条)。
イ ところで、在留特別許可の許否の判断についての被告東京入国管理局長の裁量権の範囲
は、前記アのとおり、極めて広範なものであるため、これを付与しないという判断が裁量権
の逸脱・濫用として違法になる事態は容易には考え難く、極めて例外的にその判断が違法と
なり得る場合があるとしても、それは、法律上当然に退去強制されるべき外国人について、
なお我が国に在留することを認めなければならない積極的な理由があったにもかかわらず、
これが看過されたなど、在留特別許可の制度を設けた法の趣旨に明らかに反するような極め
て特別な事情が認められる場合に限られる。
これを本件に即してみると、本件における被告東京入国管理局長の第一次的な裁量判断
は、原告については「在留を特別に許可すべき事情は認められない」というものであるから、
その判断が在留特別許可の制度を設けた法の趣旨に明らかに反するというためには、当該事
情を在留を特別に許可すべき事情と認めないときには在留特別許可の制度を設けた法の趣旨
に明らかに反すると評価される事情が原告に認められることが必要である。すなわち、被告
東京入国管理局長の判断が違法とされるには、単に、在留を特別に許可すべき事情があると
いうのでは足りず、在留を特別に許可すべき事情と認めなければ法の趣旨に明らかに反する
と評価される事情が認められる必要があるというべきである。
そのため、本件裁決が裁量権の逸脱・濫用により違法であることを主張する原告は、本件
訴訟において、在留を特別に許可すべき事情と認めなければ法の趣旨に明らかに反すると評
価される事情を主張立証しなければならないことになる。
以上より、在留特別許可を付与しなかった法務大臣等の判断が違法となるのは、法律上当
然に退去強制されるべき外国人について、なお我が国に在留することを認めなければならな
い積極的な理由があったにもかかわらず、これが看過されたなど在留特別許可の制度を設け
た法の趣旨に明らかに反するような極めて特別な事情が認められる場合、すなわち、在留を
特別に許可すべき事情と認めなければ法の趣旨に明らかに反すると評価される事情を当該外
国人側が主張立証した場合に限られると言わなければならない。
そして、当該外国人側の主張立証した事情が、在留を特別に許可すべき事情と認めなけれ
ば法の趣旨に明らかに反すると評価される事情とまでいえるものではなかったならば、在留
特別許可を付与しない法務大臣等の判断は、当不当の問題が生ずることはともかく、その裁
量権の範囲内の判断であって、違法とはいえない。

難民認定をしない処分取消等請求事件
平成15年(行ウ)第271号
原告:A、被告:法務大臣
東京地方裁判所民事第3部(裁判官:鶴岡稔彦・清野正彦・進藤壮一郎)
平成17年8月31日

判決
主 文
1 原告の請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1 請求
1 被告が平成14年7月8日付けで原告に対してした難民の認定をしない処分を取り消す。
2 被告が平成15年1月31日付けで原告に対してした、出入国管理及び難民認定法(平成16年法律
第73号による改正前のもの)61条の2の4に基づく異議申出に理由がないものと認める決定を取
り消す。
第2 事実の概要
 1 争いのない事実
 原告は、1978年(昭和53年)にアフガニスタンにおいて出生した同国籍を有する外国人女性
である。
 原告は、平成12年8月7日、大阪入国管理局関西空港支局の特別審理官より在留資格を短期
滞在、在留期間を90日とする上陸許可を受け、本邦に上陸した。
 原告は、被告に対し、同年10月10日、東京入国管理局において難民認定申請をした(以下「本
件難民認定申請」という。)。
 被告は、原告に対し、同申請について、平成14年7月8日付けで、難民の認定をしない処分
をし、同月30日、これを告知した(以下「本件処分」という。)。
同処分に係る通知書(乙8の1)には、「あなたの『人種』、『宗教』及び『特定の社会的集団の
構成員であること』を理由とした迫害を受けるおそれがあるという申立ては証明されず、難民
の地位に関する条約第1条A及び難民の地位に関する議定書第1条2に規定する『人種』、
『宗教』及び『特定の社会的集団の構成員であること』を理由として迫害を受けるおそれは認め
られないので、同条約及び同議定書にいう難民とは認められません。」との理由が附記されてい
る。
 原告は、被告に対し、同年8月5日、本件処分を不服として異議の申出をした。
 被告は、原告に対し、同申出について、平成15年1月31日付けで、同異議申出に理由がない
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ものと認める決定をし、同年2月7日、これを告知した(以下「本件決定」という。)。
同決定に係る通知書(乙11)には、「貴殿の難民認定申請につき再検討しても、難民の認定を
しないとした原処分の判断に誤りは認められず、他に、貴殿が難民条約上の難民に該当するこ
とを認定するに足りるいかなる資料も見出し得なかった。」との理由(以下「本件決定理由」と
いう。)が附記されている。
 原告は、同年4月24日、本件処分及び本件決定の取消しを求めて提訴した。
2 当事者の主張の骨子
 本件は、原告が被告に対し、本件処分及び本件決定の取消しを求めた事案である。
原告は、本件処分時において原告は出入国管理及び難民認定法(平成16年法律第73号による
改正前のもの、以下「法」という。)2条3号の2並びに難民の地位に関する条約(以下「難民条
約」という。)1条及び難民の地位に関する議定書(以下「難民議定書」という。)1条所定の難
民に該当するから本件処分は違法であり、また、本件決定には、行政不服審査法(以下「行服法」
という。)48条、41条1項所定の理由が附記されていないから固有の瑕疵があり違法であると
主張した。
 これに対し、被告は、原告の難民該当性を争うとともに、本件決定理由は行服法の求める理
由附記に欠けるところはないと主張した。
3 争点
 原告の難民該当性
 本件決定理由の適否
4 争点に関する当事者の主張
 争点(原告の難民該当性)について
(原告の主張)
ア 原告がハザラ人、シーア派、女性であることを理由として迫害を受ける可能性が大きいこ

原告がアフガニスタンに帰国した場合、次のとおり、原告はハザラ人、シーア派、女性であ
ることを理由として迫害を受ける可能性が大きい。
ア タリバン政権の下においてハザラ人、シーア派、女性は迫害されており、現在において
もタリバンがアフガニスタンの支配を回復する可能性が大きいこと
次のとおり、アフガニスタンにおいては、タリバン政権の下においてハザラ人、イスラ
ム教シーア派(以下「シーア派」という。)、女性が迫害されており、現在においてもなおタ
リバンがアフガニスタンの支配を回復する可能性が大きいのであるから、原告がアフガニ
スタンに帰国した場合、原告はハザラ人、シーア派、女性であることを理由として迫害を
受ける可能性が大きい。
a タリバン政権の下における人権の抑圧状況
 タリバンは1996年(平成8年)にアフガニスタンの首都カブールを制圧した。タリ
- 3 -
バンは、イスラム原理主義者の中でも最も厳格にシャリアと呼ばれるイスラム法を解
釈し執行する急進主義者の団体であって、他のイスラム社会や西欧社会、国連機関等
との一切の妥協を拒否し、タリバンの政策やイスラム法の解釈に対する議論や批判を
許さない集団である。タリバンは、彼らの解釈によるイスラム法制度に基づく場当た
り的な支配組織を確立し、その支配地域を厳しく統治した。
 タリバンは、テレビ放送、スポーツなどの娯楽活動を禁止し、拷問や公開の死刑、鞭
打ち刑、四肢切断刑等の残虐な刑罰を執行した。
 タリバンはアフガニスタンの最大民族であるパシュトゥーン人を主体として構成さ
れ、その多くはイスラム教スンニ派であり、少数民族であるハザラ人、タジク人、ウズ
ベク人を迫害したほか、特にシーア派に属するハザラ人に虐殺や強制移住等の厳しい
弾圧を加えた。
 タリバンは、女性の就労や教育のみならず、近親者の男性の付き添いなく女性が外
出することを禁止し、女性が外出する場合にはブルカで身を包まなければならないも
のとした。女性は公式に学校に出席することを禁じられ、適切な医療を受ける権利を
侵害され、移動の自由を制限され、さらに、自由に発言する機会を制限された。女性は
子供とともに誘拐を含め人身売買の対象とされており、女性に対しては殴打、レイプ、
強制結婚、失踪、誘拐、殺害を含む暴力が繰り返されていた。
b タリバンがアフガニスタンにおいて支配を回復する可能性
アフガニスタンにおいては、2001年(平成13年)12月22日に暫定行政機構が発足した
が、次のとおり、同機構又は移行政権は永続的なものとはいえないし、タリバンはアフ
ガニスタンにおいて崩壊しておらず、現在もなおいつ支配を回復してもおかしくない状
況である。
 暫定行政機構はアフガニスタン全体を統治しているわけではなく、実効支配してい
るのは首都カブールを中心とする全国の2割程度の地域にすぎない。残る地域は内戦
時代の旧ゲリラ勢力(地方軍閥)が群雄割拠しているのが現状である。暫定行政機構
内部における利害の対立も激しく、政権はいつ内部から崩壊してもおかしくない政治
的緊張状態に置かれている。このような緊張状態は、2002年(平成14年)4月に元国
王ザヒル・シャーが帰国したことで一層深刻化している。
 タリバン政権の崩壊と暫定行政機構の樹立は、アメリカを中心とする多国籍軍の圧
倒的な軍事力により達成されたものであり、憲法に基づく民主的で平和な方法で行わ
れたものではない。同年6月に新憲法制定のための緊急国民大会議(ロヤ・ジルガ)
の代表者の選任及び会議が開催されたが、軍閥司令官及び指揮官による不正や虐待、
脅迫により本来の目的が損なわれており、真に自由で民主的な選挙に基づく政権は確
立していない。
 現在アフガニスタンの治安は悪化しており、タリバン政権以前に戻ったといわれて
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いる。警察は専門技術を欠き、資源の不足及び地方武装勢力の支配により多くの場合
有効に機能していない。警察組織自体が腐敗し、拷問や恣意的拘禁を行っており、警
察に対する国民の信頼は極めて低水準である。カブールに展開する国際治安支援部隊
(ISAF)は武装勢力により度重なる攻撃にさらされており、地方都市においてもロケ
ット弾や爆弾によるテロ行為が頻繁に繰り返されている。基本的生計を営むための諸
権利や社会的インフラの整備も立ち後れている状況である。このような情勢の中で、
アフガニスタンに帰還した多くの避難民が再び出国したり国内避難民になったといわ
れている。2003年(平成15年)以降のアフガニスタンへの帰還民の数は著しく減少し
ている。
 このように、アフガニスタンにおいては復興が遅々として進まず、一般住民の生活
状況の改善も見込めないことから、多くの人々が南東部及び東部地方で再び勢力を盛
り返したタリバンなどの過激武装組織に身を投じて、現政権と外国の支持勢力への失
望を表している。タリバン兵のうち降伏したのはごく一部であり、多数が中央や地方
の市民の中に身を潜めているといわれている。
 アフガニスタンにおいては2004年(平成16年)1月に新憲法が採択されたが、イス
ラム保守派の要求を受け入れ、その前文に「全ての法律はイスラム教の信仰に反して
はならない。」と明記された。
イ 暫定行政機構の下においても、ハザラ人、シーア派、女性は迫害されていること
仮に、タリバンがアフガニスタンの支配を回復する見込みがないとしても、次のとおり、
暫定行政機構の下においてハザラ人、シーア派、女性は迫害されているのであるから、原
告がアフガニスタンに帰国した場合、原告はハザラ人、シーア派、女性であることを理由
として迫害を受ける可能性が大きい。
a 暫定行政機構の主要ポストを掌握している北部同盟各派は、かつてハザラ人と敵対し
激しい戦闘と迫害を加えた集団である。
b タリバン政権時代より状況が改善されたとはいえ、女性は引き続き広範囲の差別に直
面している。女性の教育や労働を禁止するタリバンの政策は撤廃されたが、社会や家庭
では女性や少女の活動を極端に規制し続けている。強制結婚も広く認められており、多
くの少女が早い年頃で結婚させられている。軍閥や警察は、女性に対しタリバンと同様
の態度を取っており、警察による性的暴力の被害者の救済も期待できない。兵士や警察
官自身が強姦の加害者となることも少なくない。女性は、現政権下においても、引き続
き移動の自由を制限され、学校においては性別により生徒が分離され、女児のための教
師すら不足している状態である。
イ 原告が元婚約者の兄から結婚を強制され、これを拒否した場合名誉殺人の被害者となる可
能性が大きいこと
ア 原告は、カブールで両親や他の兄弟とともに生活していたが、1999年(平成11年)3月
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から5月頃、タリバンの兵士がやってきて、原告の父に対し、タリバン軍の上の人が原告
を気に入り嫁にほしいと言っているとして結婚の承諾を追った。原告の父が原告には婚約
者があるとしてこれを断ったところ、兵士は、たまたま同席していた原告の婚約者B(サ
イード族、シーア派)を連れ去った。そこで、原告一家はこれ以上カブールに止まることに
危険を感じ、その翌日、カブールを離れ、バスを乗り継ぐなどしてパキスタンのペシャワ
ールに避難した。
イ 原告はその後来日したが、タリバン兵に連れ去れたBは、新政権が成立した後も行方が
分からないままであり、死亡したであろうという見方が確実になったため、婚約者が死亡
した場合にその兄弟が代りに結婚するというアフガニスタンの慣習に従い、Bの兄であっ
たCが原告の父に原告との結婚の承諾を求め、父はこれを承諾してしまった。
ウ 原告がアフガニスタンに帰国した場合、原告は、Cや原告の父から結婚を強制されるこ
とが確実である。そして、原告がこれを拒絶した場合、アフガニスタンにおいては、女性が
慣習等により定められた男性との結婚を拒絶した場合は男性の名誉が傷つけられたとして
女性を自分の名誉のために殺害すること(名誉殺人)が黙認されており、原告はその被害
者となる可能性が大きい。現に、Cは、原告の家族に対し、原告の所在を明らかにするよう
求め、見つけ次第殺害すると述べている。
ウ 小括
したがって、原告は、上記ア又はイのいずれの観点からも難民と認定されるべきである。
(被告の主張)
ア 難民該当性の判断基準等
ア 法に定める難民とは、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること
又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する
ために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又
はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」をいう
ところ、ここにいう「迫害」とは、通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし
圧迫であって、生命又は身体の自由の侵害又は抑圧を意味する。また、「迫害を受けるおそ
れがあるという十分に理由のある恐怖を有する」に当たるためには、難民該当性を主張す
る者が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いている主観的事情のほかに、通常人が
その者の立場に置かれた場合にも同様の恐怖を抱くような客観的事情が存在していること
が必要である。そして、これらの立証責任は、難民認定申請者に難民認定のための資料の
提出を義務付ける法61条の2第1項の規定に照らしても、また、証拠との距離、立証の難
易等に照らしても、難民該当性を主張する者の側にあると解すべきである。
イ また、「社会的集団」とは、一般的に、共通の社会的背景、習慣、社会的地位を有し、かつ、
一定の結合関係を有し同一の集団に帰属しているとの認識ないし考え方を有する複数の者
を表す言葉であるから、このような一般的語義に照らしても、女性であることは、上記「特
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定の社会的集団の構成員であること」に当たらないものと解すべきである。
ウ さらに、難民制度は、国籍国による保護を受けられない者に対し国籍国に代わって条約
締結国が条約所定の保護を与えるものであるから、迫害の主体は国籍国政府に限られると
解すべきである。
イ 原告がハザラ人、シーア派、女性であることを理由として迫害を受ける可能性が大きいと
の原告主張について
ア タリバン政権下の状況を根拠として迫害の可能性が大きいとする原告主張が失当である
こと
a タリバン政権の下におけるハザラ人の状況
タリバン政権下におけるアフガニスタン国内の宗教及び民族対立の主要な要因は、宗
教への加入又は民族的特性によるものではない。非戦闘員に対する残虐行為のほとんど
は、内戦下における対立組織の支配地域を占領した際に報復の意図で行われたものであ
る。このように、アフガニスタンにおいては民族浄化といった現象は全く存在しなかっ
た。タリバン自体、パシュトゥーン人全体を代表する団体ではなかったし、タリバンが
ハザラ人を迫害の対象とする旨の公式見解を出したとの報告は、いかなる国際機関等か
らも示されてはいない。タリバンがハザラ人を虐殺したとする被害の実態、被害者数等
も判然としていない。諸外国政府においても、申請者がおよそハザラ人であることのみ
をもって難民と認定するという取扱いはなされていない。
b タリバンが既に崩壊していること
2001年(平成13年)9月11日の米中軸同時多発テロを受けて、米英が同年10月7日に
アフガニスタン空爆を開始し、米英の支援を受けた北部同盟が同年11月9日にマザリシ
ャリフを、同月13日にカブールを制圧し、タリバン政権は崩壊への道を辿った。その後、
国際連合の主導の下にアフガニスタン代表者会議が開催され、アフガニスタン暫定行政
機構(以下「暫定行政機構」という。)が緊急国民大会議まで国政を担当することとなった。
タリバンは同年12月7日、本拠地カンダハルから撤退し、政権としても組織としても壊
滅した。
その後、暫定行政機構の下において復興や治安回復が着々と進展し、平成14年3月以
降8月10日までの間に、153万人のアフガニスタン避難民が本国に帰還した。平成16年
5月の発表では、アフガニスタン避難民の帰還者は330万人を超えており、UNHCRも
「明らかに多くのアフガン人が、故郷の多くの地域の状況が改善され帰還が可能になっ
たと判断している。一部には治安の問題があるものの、その他の地域では治安の向上と
経済機会拡大が保障されている。」と報告している。
暫定行政機構の政情に不安定な面が全くないとはいえないものの、同機構の下、大局
的にはアフガニスタンの国内秩序は安定的に回復したものというべきである。
このように、本件処分当時、タリバンは名実共にアフガニスタンの実効支配を失い、
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これを回復する見込みもなかった。
イ 暫定行政機構の下においても迫害の可能性が大きいとの原告主張が失当であること
暫定行政機構は、国連を含む国際社会の支援を受けて成立し、ハザラ人の閣僚が計5
名選出されており、ハザラ人、シーア派の国民に対して迫害を開始するような事態は想
定できない。
暫定行政機構においては、ハザラ人女性であるシーマ・サマルが副議長兼女性問題担
当相に任命され、女性の権利の尊重を盛り込んだ施政方針が発表されるなど、女性問題
への新たな取組みがなされている。その結果、アフガニスタン移行政権は平成15年3月
5日に女子差別撤廃条約を批准し、平成16年1月4日に採択された憲法においても、男
女の法の下における平等等が謳われている。
このように、暫定行政機構の下において、原告がハザラ人、シーア派、女性であること
を理由として迫害を受けるおそれはない。
ウ 元婚約者の兄による結婚強制及び名誉殺人に関する原告主張について
元婚約者の兄による結婚強制及び名誉殺人に関する原告主張は、その枢要部分に供述の変
遷があり一貫性がない。そもそもBなる人物が実在することを裏付ける証拠すら存在しない
し、仮に実在するとしても同人がタリバン兵に連行されたことを裏付ける証拠も存在しな
い。原告の姉は、カブールの自宅周辺に戦火が及んできたためにパキスタンに避難した旨陳
述しており、原告の主張は不自然といわざるを得ない。
また、Bが実在するとしても、同人が死亡したということすら疑わしく、その兄であるC
が原告に結婚を申し入れてきたという事実も何らの裏付けもないものである。原告は、一方
でCが原告を性の対象にしていると供述しながら、他方でCが原告の殺害を決意していると
述べるなど、その主張は場当たり的で信憑性がない。
仮に、原告の主張が事実であったとしても、それは婚約を巡る民事家事上の争いにすぎず、
アフガニスタン政府が結婚強制や名誉殺人を是認し放置していることを明確に示す証拠は提
出されてないのであるから、これを根拠に原告の難民該当性を肯定することはできないとい
うべきである。
 争点(本件決定理由の適否)について
(原告の主張)
本件決定には、行服法の求める理由の附記がなく、違法である。
(被告の主張)
行服法48条、41条1項による理由附記の趣旨は、処分庁の再度の判断を慎重ならしめてその
恣意を抑制するとともに、決定の理由を明示することによって、不服申立人に対し原処分に対
する取消訴訟の提起に関して判断資料を与えるところにある。このような趣旨に照らし、本件
決定には理由附記の不備はないというべきである。
第3 当裁判所の判断
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1 事実認定
前記争いのない事実に証拠等(各項目の末尾に掲記した。)を総合すると、次の事実が認められ
る。
 原告の家族関係等
ア 原告は、1978年(昭和53年)《日付略》、アフガニスタンの《地名略》においてハザラ人、シ
ーア派の両親の二女として出生した。両親は原告を含め1男6女をもうけたが、原告が10歳
の頃に一家でカブール市《地名略》に転居した。
イ 原告の父は、原告によれば同市において養護院院長を務めていたとのことであり、原告の
姉D(以下「D」という。)の夫E(以下「E」という。)によれば、原告の父は我が国の労働省
に相当する機関に勤務する公務員でトップから3番目の人物とのことである。いずれにせ
よ、原告の父は、一般のアフガニスタン国民よりも相当程度裕福で安定した生活をしていた。
(甲35、43、乙1、7、10、原告本人、証人E)
 タリバン侵攻とカブールからの避難等の経緯
ア 1989年(平成元年)2月にアフガニスタンからソ連軍が撤退し、同年4月にムジャヒディ
ン(イスラム聖戦士)による政権が樹立されたが、ムジャヒディン各派や国内新興勢力によ
る権力闘争が開始され、国士は内戦状態に陥った。最も有力であったラバニ大統領のタジク
人政権がカブールとその周辺を支配し、西部3州はイスマイル・ハン派により占められ、東
部のパシュトゥーン3州は軍司令官の評議会の支配下にあった。北部6州はウズベク人軍閥
ドスタム将軍が支配し、中央部はハザラ人がバーミヤン州を支配しその後もこれらの勢力に
よる合従連衡が繰り返された。
イ タリバン(イスラム神学校学生及び神の道を求める者たちの意)は、代表を名乗るムハン
マド・ウマルらによって1994年(平成6年)春頃に結成された。タリバンは、上記のように
ムジャヒディン各派により繰り返される権力闘争を否定し、「真のイスラム国家」をアフガニ
スタンに樹立することを目指し、ムジャヒディン各派の解散と武装解除を掲げて宣戦を布告
した。
タリバンは、パキスタン政府からの援助及び長年の内戦状態に疲労した民衆の支持を背景
として、1996年(平成8年)頃からアフガニスタン南部より勢力を拡大し、1998年(平成11
年)夏頃には国土の約3分の2、2001年(平成13年)初旬には国土の約9割を掌握するに至
った。
ウ タリバンは、8名で組織される最高決議機関シューラ(評議会)の合議制により運営され、
厳格なイスラム法による統治を実施した。各支配地で女性の就労禁止、女児の通学禁止、外
出時における女性のヴェール(ブルカ、チャドラー)着用が義務づけられたほか、音楽、テレ
ビ、ギャンブル、スポーツ等を禁止し、違反者に懲罰を科するなどした。加えて、タリバンは、
ウサマ・ビン・ラーディンなど国際的テロリストの身柄引渡しを拒否したり、中央山岳地帯
バーミヤンの大仏立像を破壊するなどの行為に及び、国際的に強い非難を浴び、国連の制裁
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決議が発動されるなどして国際的に孤立していった。
エ 上記イのとおり、原告の家族はカブール市において比較的裕福な生活を送っていたが、
内戦状態が悪化し、自宅にロケット弾が着弾する事態となったことから、戦禍を免れるため、
1999年(平成11年)、一家でパキスタンのペシャワールに避難した。
(なお、原告は、この出国の経緯について、その頃、タリバン兵士が原告宅を訪れ、原告の
父に対し原告をタリバン軍人と結婚させる承諾を追ったが、父が原告には婚約者があること
を理由にこれを拒絶したところ、タリバン兵士はその場に同席していた婚約者Bを連行した
ことから、原告父はその翌朝家族とともにアフガニスタンを出国してペシャワールに避難し
た旨主張する。しかしながら、①原告はその出国時期について、本件訴え当初は同年7月頃
と主張していたものを原告本人尋問後に同年3ないし5月と訂正している。また、②原告は、
婚約者が連行された経緯について、本件難民認定申請段階において上記のように主張してい
たところ(乙7)、その後これを変更し、タリバン兵士が当初来たときは婚約者は同席してお
らず、その2、3日後に来たときは「婚約者はもういないからいいだろう。」と告げられたの
で、出国することとしたという具体的な陳述をした(甲35)。ところが、この点も、原告本人
の際に再度供述を上記のとおり変更するに至った。原告が住み慣れた母国・自宅を捨てて国
外に避難するという重大な出来事に関する印象的な事柄でありながら、このように主張・供
述がたやすく変遷するのは不自然といわざるを得ない。加えて、③原告の姉Dは、原告一家
は内戦が激化し自宅にロケット弾が着弾する事態に至ったためパキスタンに避難したと陳述
しているところ(乙72)、原告がその主張・供述において自宅の被弾に一切触れないで出国
の経緯を説明しようとすることも不自然の観を否めない。Dの陳述には特段不自然な点も見
当たらず、同人が原告の姉で現在原告と同居しているという立場上、殊更原告に不利な陳述
をするとも認め難いことから、その陳述内容には信用性があり、結局のところ、原告の出国
の理由が婚約者の連行にあったという原告の主張には疑問を抱かざるを得ず、出国の経緯は
上記のとおり認定するのが相当である。)
オ 原告は、1999年(平成11年)以降ペシャワールに滞在していたが、Dが本邦在住のEと婚
姻して来日し、現地の日本人支援者からも来日を勧められたことから、同年6月8日、在パ
キスタンのアフガニスタン大使館(当時はタリバン政権)より正規の旅券を取得し、2000年
(平成12年)8月7日、台湾・台北を経由して関西国際空港から本邦に上陸した。
カ 原告は、来日後の同年11月10日、被告に対し本件難民認定申請をした。その申請書には、
原告が難民と考える理由として、①原告がハザラ人・シーア派であること、②タリバンは自
分たちの民族・宗教の男性と結婚させること、③女性は外に出られず全身をヴェールで隠さ
なければならないことなどが記載されている。
(甲1、2、4、5、9、27、35、86、109ないし112、乙1ないし7、13、14、21ないし32、
42ないし44、46、47、60ないし62、66、68、71、72、原告本人)
 米中軸同時多発テロとタリバン政権の崩壊
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2001年(平成13年)9月1日、米中軸同時多発テロが発生したことを受けて、米英軍が同年
10月7日、アフガニスタン空爆を開始し、同年11月10日、米英の支援を受けた北部同盟がマザ
リシャリフを陥落させ、同月13日、カブールを制圧した。更に同月18日にはラバニ大統領がカ
ブール入りして勝利宣言をした。
タリバン政権は、同年12月7日頃、最後の支配地域である本拠地カンダハルから撤退し、名
実共に崩壊した。
(乙12、弁論の全趣旨)
 アフガニスタンにおける新政権の樹立及び復興に向けた取組み
ア アフガニスタンにおける新政権樹立の経緯(本件処分後の事情を含む。)は、次のとおりで
ある。
ア 2001年(平成13年)11月27日、ドイツ連邦共和国のボン郊外でアフガニスタン代表者会
議が開催され、暫定政権樹立のための協議が開始された。12月5日には、国連特使の仲介
の下に暫定行政機構が成立し、また、上記代表者会議において、①緊急国民大会議(緊急ロ
ヤ・ジルガ)を暫定政権発足後6か月以内に招集して正式政権が樹立されるまで統治に当
たる移行政権を発足させること、②移行政権発足後18か月以内に正式の国民大会議を招集
することの合意に達した。
同月22日に暫定行政機構が正式に発足し、日本を含め、世界各国がこれを承認した。式
典においては、同機構のカルザイ議長が国民に平和と法をもたらすことを誓い、言論と信
教の自由や女性の権利尊重、教育の復興、テロとの戦いなどを盛り込んだ13項目の施政方
針を発表した。
暫定行政機構の閣僚のうちハザラ人の閣僚は5名を占め、副議長兼女性問題担当相には
ハザラ人女性のシーマ・マサルが就任した。
イ また、2002年(平成14年)1月21及び22日にはアフガニスタン復興支援閣僚会合が東京
で開催され、具体的な援助約束及び拠出の表明によってアフガニスタンの復興支援に対す
る国際社会の援助約束が示された。
同会合の共同議長最終文書には、「紛争と抑圧の主たる犠牲者であった女性の権利を回
復し、女性のニーズに対処することが核心であることが強調された。女性の権利及びジェ
ンダーの問題は、復興プロセスにおいて十分に反映されるべきである。」との内容が盛り込
まれている。
これを受けて、日本政府は、アフガニスタンの女性の地位向上に向けた制度・政策作り
を支援するため、アフガニスタンに専門家を派遣し、同国から本邦に研修生を受け入れる
ほか、同年2月からは内閣官房長官の懇談会として「アフガニスタンの女性支援に関する
懇談会」が開催され、女性のニーズに配慮した支援の在り方について検討が行われている。
ウ 1月15日には国連安全保障理事会において、タリバンはもはやアリアナ・アフガン航空
を所有、賃借、運航、管理等していないとの判断に基づいて、アフガニスタンに対する制裁
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措置のうち同航空の外国乗り入れの禁止を全面解除する決議が全会一致で採択された。ま
た、2月には、20年以上もの間郵便機能が麻痺していたアフガニスタンにおいて、閉鎖さ
れた郵便局が次々に再開された。
エ 日本政府は、2月19日に日本大使館をカブールに再開した。
オ 3月18日には川口外相がカブールを訪問して復興活動を視察し、4月24には、我が国が
国民大会議開催に向けて270万ドルの支援金拠出を決定した。5月には同外相とシーマ・
マサル副議長兼女性問題担当大臣が女性問題の重要性等について会談を行った。
カ 6月15日、アフガニスタンの最高意思決定機関である緊急国民大会議が開催され、国家
元首となる移行政権の長に暫定政権のカルザイ議長を選出し、これを受けて暫定政権議長
は、同月19日、緊急国民大会議で暫定政権を継ぐ移行政権の閣僚名簿を発表し、大統領に
就任した。同大統領は、その就任演説において、テロとの戦いの継続と民族対立や軍閥の
解消、武器回収や天然資源保護などを表明した。暫定政府の女性問題相には、国民大会議
招集委員会の副議長を務めた女性マフブーバ・フクコマルが起用され、その後、ハザラ人
女性であるハビーバ・サロービーに代わった。また、保健相にもタジク人女性ソヘイラ・
スイッディーキーが就任した。
キ 12月16日には閉鎖中であった在日アフガニスタン大使館が5年ぶりに再開された。
ク 同月22日、カブールにおいて、周辺6か国(パキスタン、中国、タジキスタン、ウズベキ
スタン、トルクメニスタン及びイラン)とG8諸国、インド、国連、OICイスラム諸国会議
機構)らの代表が集まり、アフガニスタンとその周辺地域の安定に関する会合が開催され、
同月24日にはカブール宣言が採択された。同宣言においては、暫定政権及びアフガニスタ
ンの周辺国が、長年の紛争を乗り越えて治安、繁栄、民主主義及び人権を享受すべきであ
ることを決意し、アフガニスタン周辺地域の平和と安定に向けた協調関係、テロリズム・
麻薬・イスラム過激主義との闘争、アフガニスタン暫定政権の歓迎、平和確立のための相
互信頼・友好・内政不干渉や復興支援などが謳われ、同宣言を国連安全保障理事会に付託
することが決定された。
ケ 2003年(平成15年)1月8日、テヘランでアフガニスタン・イラン・インド貿易会議が
開催され、向こう5年間アフガニスタンのトラックやバスのイランへの乗り入れを認める
協定が成立した。同月12日、アフガニスタン政府は、民族配分に配慮しつつ、武装解除と
国軍編成の4委員会を創設した。同月14日、アフガニスタンとイランとの間で、翌年にヘ
ラートへ電力供給を可能とする合意書が署名された。
コ 同年3月5日、アフガニスタン政府は、女子差別撤廃条約を批准した。また、平成16年
1月4日には国民大会議において新憲法が採択された。同憲法においては男女の平等が謳
われ、女子の教育、識字率の向上の義務が規定されている。
イ 本件処分時における暫定行政機構の取組状況については、次のとおりである。
ア 本件処分時(平成14年7月8日付け、告知日は同月30日)において、タリバン政権は名
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実共に完全に崩壊しており、暫定政権がアフガニスタンの全土を支配していた。その政権
内に種々の不安定要因があったことは否定できないものの、その後の経緯(上記ア)に照
らしても、大局的には復興や安定に向けた一貫した取組みがなされていたことは明らかで
あり、同政権がアフガニスタンにおける唯一の正当的政権として国際的にも承認されてい
た。
イ アフガニスタンは32の州に分かれ、各州が更に細かい行政区画に区分されているとこ
ろ、それぞれの行政区には警視長が置かれ、警視長には州の警視長への報告義務がある。
アフガニスタン警察法(1973年)によれば、警察官は、警察と憲兵の総司令官、州の警視長、
州の憲兵司令官、地元の警察官等により構成されるものと定められ、例えばカンダハール
市には約3000人の警察官が配備されていた。
また、2002年(平成14年)1月に東京で開催されたアフガニスタン復興支援閣僚会合に
おいて、ドイツ政府は、暫定行政機構の要請を受けて、アフガニスタン警察の再建を援助
することにつき中心的役割を果たすことで合意した。ドイツ政府のアフガニスタン警察支
援計画(ドイツ計画)は、重要な経済的・技術的支援と専門知識とを提供するものである。
ドイツ計画は、構造及び組織に対する助言、再建された警察学校における訓練、警察車両
及び捜査器具の提供を含めた支援、他の支援国の警察関連支援活動の調整等からなってい
る。その結果、内務省内の警察行政の再構築、警察官訓練のカリキュラムの作成を含む警
察学校の再建に向けた取組等がなされ、同年8月には警察学校が1500名の生徒をもって
再開した。
これらの諸点に加え、上記アの経緯を併せ考慮すると、アフガニスタン国内にいて散発
的なテロが繰り返され、地方によっては必ずしも治安が良好でない地域もあり、また、時
として警察官の不祥事が問題となっていたことは否定できないものの、大局においては、
アフガニスタンにおいて治安が回復しつつあったものと認められる。特に、カブールには
国連治安支援部隊(ISAF)及び米軍が展開し、比較的良好な治安が保たれていた。
ウ また、女性問題担当相には女性閣僚が充てられ、国際的な支援の下、女性の地位向上に
向けた検討が行われ、それが女子差別撤廃条約の批准、男女平等を規定した新憲法の採択
といった結果に結実していることに照らしても、暫定政権下においては、本件処分時にお
いても、女性の地位向上に向けた一貫した取組みがなされ、女性の地位が相当程度改善し
ていたものと認められる。
エ さらに、暫定行政機構に5名のハザラ人閣僚が就任し、民族対立や軍閥の解消に向けた
取組みがなされていたことに照らしても、本件処分において、ハザラ人・シーア派の地位
が相当程度改善されつつあったことが認められる。
ウ このように、アフガニスタン国内における治安の回復や復興に向けた動きを背景として、
2001年(平成13年)頃から、パキスタンやイランに逃れていたアフガニスタン避難民が帰還
を始め、その数は同年11月が6900人、同年12月が3万人に達した。
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2002年(平成14年)3月、アフガニスタン国外難民と国内避難民の国連帰還プログラムが
開始され、同月以降8月10日までの間に、約153万人のアフガニスタン人がパキスタン、イ
ラン及び中央アジア諸国から帰還した。2004年(平成16年)5月9日のUNHCRの発表によ
ると、2002年以降のアフガニスタンへの帰還者は330万人を超えており、UNHCRは2004年
の帰還者の予測を50万人に上方修正するとともに、「明らかに多くのアフガン人が、故郷の
多くの地域の状況が改善され帰還が可能になったと判断している。一部には治安の問題があ
るものの、その他の地域では治安の向上と経済機会拡大が保障されている。」と報告した。
(甲21、36、67、74ないし79、87、88、94、96、乙12、15ないし17、34、36ないし41、43、
48ないし59、69、70)
 原告家族の本国帰還等
ア 上記のような状況の中で、原告の父も原告及びD以外の家族(妻及び1男4女)と共にア
フガニスタンに帰還した。原告の父は、その後、元の職業に復職し、かつての自宅において家
族と共に安定した生活を送っている。
イ ところで、原告は、従前はタリバン兵士から結婚を強制されることを本件難民認定申請の
理由として挙げていたところ、本件処分に対する異議申出段階において、Bの兄Cが原告と
の結婚を迫ってきており、原告の父がこれを承諾してしまったために、原告が結婚の申入れ
を拒絶した場合、原告は火をつけられたり殺されたりすると主張するに至った。本件訴訟に
おいては、その理由として、アフガニスタンにおいて婚約者の男性が死亡した場合、その兄
弟が相手女性と婚約する慣習があり、これを女性側が拒絶した場合、男性側の名誉を害した
として殺害(名誉殺人)の対象となるとの主張をしている。
しかしながら、そもそも、原告がBと婚約しており同人がタリバンに連行されたという出
国の経緯自体に疑問があることは既に判示したとおりである。これが仮に事実であったとし
ても、Bが死亡したことについては何ら客観的証拠が示されていない。それゆえ、Bの亡き
後、Cなる人物が原告の父に原告との結婚の承諾を求めたことや、相当程度の地位・身分を
有する原告の父がその要求に屈してこれを承諾したこと、原告がCとの結婚に応じなかった
場合に同人が原告を殺害するであろうことなどの原告主張は、客観的証拠の裏付けを欠く上
に、原告本人の供述にも変遷、予断等が多く、これを採用することは困難であるというほか
ない。
(乙8ないし11、証人E、弁論の全趣旨)
以上の事実が認められる。
2 争点(原告の難民該当性)について
 難民該当性の判断基準
ア 法に定める難民とは、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又
は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するため
に、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はその
- 14 -
ような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」である(法2条
3号の2並びに難民条約1条及び難民議定書1条)。
ここにいう「迫害」とは、通常人において受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫で
あって、その者の生命又は自由が脅威にさらされるおそれのあるものをいい(難民条約33条
1項参照)、また、「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」とい
うためには、難民該当性を主張する者が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いている
主観的事情のほかに、通常人がその者の立場に置かれた場合にも同様の恐怖を抱くような客
観的事情が存在していることが必要であると解される。
そして、そのような迫害は、一般的には国籍国の国家機関によりなされるものであるが、
国家機関以外の主体による迫害行為であっても、それを政府当局が知りながら放置・黙認す
るような場合にも、上記迫害に当たるものと解するのが相当であり、以上の解釈に反する原、
被告の主張は、いずれも採用しない。
イ なお、被告は、女性であることが一般的に「特定の社会的集団の構成員であること」に当た
らないと主張するので、この点について付言する。
「社会的集団」の一般的な語義に照らしても、また、難民条約が何ぴとも人間としての基本
的権利及び自由を差別を受けることなく享受し得るとの理念に立脚していることに照らして
も(同条約前文参照)、女性が一般的に上記特定の社会集団に含まれないとの解釈を採用する
ことは困難であり、他に被告の解釈を裏付けるに足りる根拠を同条約に見出すことはできな
いから、被告の上記主張は失当である。
もっとも、女性が上記社会的集団の構成員に当たり得るとの解釈に立った場合、難民条約
は、特定の社会的集団の構成員である「ことを理由に」迫害を受けるおそれがある者を難民
として保護するものであるから、女性であることを理由に難民該当性が認められるために
は、少なくとも、その迫害行為が女性一般に向けられたものであって、そのような一般的な
迫害行為の一環としてその者にも被害が及ぶ性質のものでなければならないと解するのが相
当である。すなわち、迫害行為が女性一般に向けられたものではなく、ある特定の女性が自
己の名誉等を害したという行為に着目してその女性に危害を加えるような場合は、その者の
女性であるという社会的地位に着目して女性一般に対する迫害の一環として危害を加えよう
とするものではないから、「特定の社会的集団の構成員であること……を理由に迫害を受け
るおそれがある」場合には当たらないものと解される。
 原告がハザラ人、シーア派、女性であることを理由とする主張について
ア タリバンによる支配が回復する可能性が大きいことを理由とする主張について
原告は、タリバン政権の下において、ハザラ人、シーア派、女性は迫害されており、現在に
おいてもタリバンがアフガニスタンの支配を回復する可能性が大きいから、原告は難民に該
当する旨主張する。
しかしながら、既に判示したとおり(上記1)、タリバン政権は平成13年12月の時点に
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おいて名実共に崩壊しており、暫定行政機構及び暫定政権発足後の本件処分時においてタリ
バンが近い将来アフガニスタンの支配を回復する見込みがあったとは認められない。
したがって、原告の主張には理由がない。
イ 暫定行政機構の下においてもハザラ人、シーア派、女性が迫害されているとの主張につい

原告は、暫定行政機構の下においても、ハザラ人、シーア派、女性というだけで迫害が行わ
れる旨主張する。
しかしながら、既に判示したとおり(上記1イウエ、ウ)、本件処分時においてハザラ人、
シーア派、女性の地位は相当程度改善されており、多数の避難民がアフガニスタンに帰還し
つつあったのであるから、暫定行政機構の下において、上記のような属性のゆえに迫害を受
けるおそれがあったと認めることは困難である。
したがって、原告の主張には理由がない。
ウ 小括
以上のとおり、原告がハザラ人、シーア派、女性であることを理由に迫害を受けるおそれ
があるという十分に理由のある恐怖があるとは認められず、他にこれを認めるに足りる証拠
もないから、この点を根拠に原告の難民該当性を認めることはできないものというべきであ
る。
 結婚強制及び名誉殺人を根拠とする主張について
原告は、本国に帰国した場合、Cから結婚を強制され、これを拒絶した場合名誉殺人の被害
者となる可能性が大きいと主張する。
しかしながら、既に判示したとおり(前記1エ、イ)、上記主張に沿う原告の供述には種々
の疑問があり、上記事実自体たやすく措信し難いものである。
また、強制結婚やその拒否を理由とする名誉殺人は、基本的には私人間の行為であるところ、
既に認定したところによれば、少なくとも本件処分当時のアフガニスタンの暫定行政機構下に
おいて、これらの行為が、社会的慣習に基づく正当な行為であるとして容認されたり、黙認さ
れていたものとは到底考え難いところであり、しかも、原告が帰国した場合、アフガニスタン
でも最も治安の安定しているカブールの自宅において父母と同居することになるものと推認さ
れるところ、本件処分時においても、大局においてはアフガニスタンの治安は回復しつつあっ
たのであるから(上記1ア、イイ)、国家機関・当局等が原告の主張するようなCの行為を放
置・黙認することも想定し難いというべきである。
よって、以上のいずれの観点に照らしても、結婚強制及び名誉殺人を理由として原告の難民
該当性を認めることはできない。
 小括
本件においては、上記及びのほかに原告の難民該当性を裏付ける主張はなされておら
ず、また、これを認めるに足りる証拠もないから、結局原告の難民該当性は否定されることと
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なる。
3 争点(本件決定理由の適否)について
本件決定には、「貴殿の難民認定申請につき再検討しても、難民の認定をしないとした原処分の
判断に誤りは認められず、他に、貴殿が難民条約上の難民に該当することを認定するに足りるい
かなる資料も見出し得なかった。」との理由が附記されている。
ところで、本件決定は本件処分に対する行服法上の異議申立てに係る決定との性質を有するも
のであって、同法上理由を附記しなければならない決定であるところ(同法48条、41条1項)、そ
の趣旨は、処分庁の再度の判断を慎重ならしめてその恣意を抑制するとともに、不服申立人に対
し、原処分に対する取消訴訟の提起に関して判断資料を与えるところにあると解される(最高裁
昭和47年3月31日第二小法廷判決・民集26巻2号319頁参照)。
本件決定には上記理由が附記されており、加えて、本件処分においても「あなたの『人種』、『宗
教』及び『特定の社会的集団の構成員であること』を理由とした迫害を受けるおそれがあるとい
う申立ては証明されず、難民の地位に関する条約第1条A及び難民の地位に関する議定書第1
条2に規定する『人種』、『宗教』及び『特定の社会的集団の構成員であること』を理由として迫害
を受けるおそれは認められないので、同条約及び同議定書にいう難民とは認められません。」との
理由が附記されていることを併せ考慮すれば、これらの理由の記載により上記理由附記の目的は
達せられているものということができるから、本件決定理由は行服法の求める理由附記に欠ける
ところはないと解するのが相当である。
4 結論
以上のとおり、本件請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担
につき行政事件訴訟法7条、民事訴訟法61条を適用して主文のとおり判決する

退去強制令書発付処分等取消請求事件(A事件)
平成13年(行ウ)第406号
難民認定をしない処分取消請求事件(B事件)
平成14年(行ウ)第255号
原告:A(A事件・B事件)、被告:法務大臣(A事件・B事件)・東京入国管理局主任審査官(A事件)
東京地方裁判所民事第2部(裁判官:大門匡・田徹・矢口俊哉)
平成17年9月27日

判決
主 文
1 原告の請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1 請求
(A事件)
1 被告法務大臣が平成13年11月28日付けで原告に対してした出入国管理及び難民認定法49条1
項に基づく原告の異議の申出は理由がない旨の裁決を取り消す。
2 被告東京入国管理局主任審査官が同日付けで原告に対してした退去強制令書発付処分を取り消
す。
(B事件)
被告が平成13年11月28日付けで原告に対してした難民の認定をしない処分を取り消す。
第2 事案の概要
本件は、原告が、①被告法務大臣が原告に対して在留特別許可を与えないでした、出入国管理
及び難民認定法49条1項に基づく原告の異議の申出は理由がない旨の裁決については、原告の
難民該当性を看過するという事実誤認があり、裁量権の濫用及び逸脱があるから違法であるとし
て、また、被告東京入国管理局主任審査官がした原告に対する退去強制令書発付処分については、
瑕疵ある同裁決に基づくものであり、固有の瑕疵もあるから違法であるとして、同裁決及び同発
付処分の各取消しを求める(A事件)とともに、②被告法務大臣が原告に対してした難民の認定
をしない処分についても、原告の難民該当性を看過するという事実誤認、理由附記の不備の違法
があるとして、同処分の取消しを求めている(B事件)事案である。
1 前提事実(当事者間に争いのない事実並びに掲記の証拠(特記しない限りA事件のものである。)
及び弁論の全趣旨により容易に認められる事実)
 原告の出入国歴と難民認定の手続等
ア 原告は、アフガニスタンにおいて出生した、アフガニスタン国籍を有する外国人である。
なお、パスポート等には、昭和49年(1974年)《日付略》が生年月日として記載されている(乙
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1)。
イ 原告は、平成12年4月7日、タイ王国(以下「タイ」という。)のバンコクより、関西国際空
港に到着し、在留資格「短期滞在」、在留期間「90日」の上陸許可を受けて、我が国に上陸し、
同年7月6日、名古屋国際空港より出国した(乙3、4)。
ウ 原告は、平成13年9月26日、台湾より、東京国際空港に到着し、有効な旅券又は乗員手帳
を所持せず、法定の除外事由がないのに不法に我が国に入国した(乙5、12、14から16まで)。
エ 原告は、平成13年10月31日、東京入国管理局において、被告法務大臣に対し難民認定の申
請をした。
オ 被告法務大臣は、平成13年11月28日、上記申請に対し、難民の認定をしない処分(以下「本
件不認定処分」という。)をし、同月29日、原告に告知した(処分日及び告知につき、乙8)。
カ 原告は、平成13年11月29日、本件不認定処分に対し異議の申出をしたが、被告法務大臣は、
平成14年2月4日付けで異議の申出に理由がない旨の決定をした(乙9、30、31)。
 原告に対する退去強制手続
ア 東京入国管理局入国警備官は、平成13年10月16日、原告が法24条1号に該当すると疑う
に足りる相当の理由があるとして、被告東京入国管理局主任審査官から収容令書の発付を受
け、同月17日、同令書を執行して原告を東京入国管理局収容場に収容し、同月18日、法24条
1号該当容疑者として東京入国管理局入国審査官に引き渡した(乙11から13まで)。
イ 東京入国管理局入国審査官は、違反審査を実施し、平成13年11月6日、原告が法24条1号
に該当する旨認定し、原告にこれを通知したところ、原告は、同曰、東京入国管理局特別審理
官に対し口頭審理を請求した(乙14から17まで)。
ウ 東京入国管理局特別審理官は、平成13年11月16日、口頭審理を実施し、入国審査官の上記
認定に誤りがない旨判定し、原告にこれを通知したところ、原告は、同日、被告法務大臣に対
し異議の申出をした(乙18から20まで)。
エ 被告法務大臣は、同月28日、上記異議の申出については、理由がない旨裁決をし(以下「本
件裁決」という)、同裁決の通知を受けた被告東京入国管理局主任審査官は、同月29日、原告
に本件裁決を告知するとともに、退去強制令書の発付処分をした(以下「本件発付処分」とい
う。)
(処分日及び告知につき、乙21から23まで)。
オ 同日、退去強制令書は、東京入国管理局入国警備官によって執行され、原告は、東京入国管
理局収容場に収容され、その後、入国者収容所東日本入国管理センターへ移収されていたと
ころ、平成14年4月26日、仮放免許可を受け、同日仮放免された(乙23、B事件乙18)。
2 本件の争点(争点に対する当事者の具体的主張は、別紙のとおりである。)
 本件不認定処分及び本件裁決当時、原告が、アフガニスタンにおいて、イスラム教シーア派
のハザラ人であることを理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有し
ていたといえるか(原告の難民該当性)。
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 本件発付処分について、アフガニスタンを送還先と定めた点等について違法はあるか(本件
発付処分固有の瑕疵)。
 本件不認定処分の通知書に記載された理由には不備があって違法といえるか(本件不認定処
分の理由附記の不備)
第3 争点に対する判断
1 争点について
 難民の意義について
出入国管理及び難民認定法(平成16年法律第73号による改正前のもの。以下「法」というこ
とがある。)2条3号の2は、同法における「難民」の意義について、難民の地位に関する条約(昭
和56年条約第21号。以下「難民条約」という。)1条の規定又は難民の地位に関する議定書(昭
和57年条約第1号。以下「難民議定書」という。)1条の規定により難民条約の適用を受ける難
民をいうと規定している。
一方 難民条約1条Aは、同条約の適用を受ける「難民」の意義について、「1951年1月1
日前に生じた事件の結果として、かつ、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員で
あること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有
するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又
はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及びこれらの
事件の結果として常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有してい
た国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国
に帰ることを望まないもの」と規定している。また、難民議定書1条は、同議定書の適用を受け
る「難民」について、難民条約1条Aの「1951年1月1日前に生じた事件の結果として、か
つ、」及び「これらの事件の結果として」という文言を除かれているとみなした場合に同条の定
義に該当するすべての者をいい、これらの者については、難民条約2条から34条までの規定が
適用されると規定している。
したがって、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意
見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の
外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有
するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」は、出入国管理及び難民認定法に
いう「難民」に該当することとなる。そして、上記の「迫害」とは、通常人において受忍し得な
い苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって、生命又は身体の自由の侵害又は抑圧を意味するも
のと解するのが相当であり、また、上記にいう「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由
のある恐怖を有する」というためには、当該人が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱い
ているという主観的事情のほかに、通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱
くような客観的事情が存在していることが必要と解される。
 原告の難民該当性
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ア 前提となるアフガニスタン情勢とハザラ人を巡る状況
このような見地から本件についてみると、証拠(甲101から103まで、105から108まで、
118、198の1及び2、乙28、101、103、112、119から127まで、139、140、144から146まで、
148から150まで、152)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる(証拠を明示
することが適当な場合は適宜個別に掲記した。)
ア アフガニスタンの民族構成とハザラ人
アフガニスタンは、多民族国家で、主要な民族は、パシュトゥーン人(約35パーセント)、
タジク人(約25パーセント)、ハザラ人(約15パーセントから20パーセント)及びウズベク
人(約6パーセント)であり、その宗教は、パシュトゥーン人、タジク人及びウズベク人の
ほとんどがイスラム教スンニ派であるのに対し、ハザラ人はイスラム教シーア派である。
ハザラ人は中央アジアに人種的起源があると考えられており、その他の民族とは、身体
的外見によって区別できるといわれている。主にアフガニスタン中央部のバーミヤンをは
じめとするハザラジャートという山岳地帯に居住しているほか、カブールやマジャリシャ
リフ等の都市部に居住している。
なお、ハザラ人は、アフガニスタンにおいて、パシュトゥーン人中心の国家政策が長く
続いたため、社会的経済的差別の対象とされ、後記ムジャヒディーン諸勢力による内戦前
は、自らハザラ人であることを認めることを望まなかったといわれている(乙122)。
イ タリバン台頭前の政治体制とムジャヒディーン諸勢力(ハザラ人勢力を含む。)による権
力闘争等
a アフガニスタンでは、昭和48年(1973年)、王政から共和制に移行後、昭和53年(1978
年)、人民民主党(PDPA)による共産主義政権が成立し、ソ連軍侵攻による軍事介入が
行われ、ソ連の支援下でカルマル政権が成立した。これに対して、各民族は、「ムジヤヒ
ディーン」(聖戦の戦士)と称するゲリラ勢力(以下単に「ムジャヒディーン」という。)
を結成して共産主義政権に対する抵抗を開始した。昭和61年(1986年)5月にはカルマ
ルからナジブラに政権が引き継がれたが、平成元年(1989年)2月にはソ連軍が撤退し、
平成4年(1992年)4月に至って、ナジブラ政権が崩壊し、首都カブールでは、ムジャヒ
ディーン各派の合意によって、イスラム協会(タジク人が基盤)の党首ブルハヌディン・
ラバニ(以下「ラバニ」という。)を次期大統領に抱く暫定政権が成立した。しかし、グル
バディン・ヘクマティヤール(以下「ヘクマティヤール」という。)を党首とするイスラ
ーム党(パシュトゥーン人が基盤)がカブール攻撃を開始し、イスラム国民運動(ドスト
ム将軍派。ウズベク人が基盤)のカブールからの撤退を要求したり、イスラム教スンニ
派のサヤーフ学派が同シーア派の排除を要求してイスラム統一党(ハザラ人が基盤)と
武力衝突するなど、ムジャヒディーン各派による権力闘争と内戦が繰り広げられ、全国
各地において各派が入り乱れて軍閥的に支配する状態が続くことになった。
b 平成4年(1992年)6月末、ラバニを支持するイスラム協会等のラバニ派と、ヘクマ
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ティヤールを支持するイスラーム党等のヘクマティヤール派との間で、ラバニが大統領
に就任し、ヘクマティヤール派のファリードが首相に就任することで合意が成立したも
のの、両者間で総選挙の実施時期を巡って裂を生じ、同年8月には、イスラーム党(ヘク
マティヤール派)がカブールへの攻撃を行った。平成5年(1993年)1月、イスラーム党
は、ラバニが正式に大統領に就任したことに反発して、イスラム統一党等と共闘し、ラ
バニ大統領の退陣を要求してカブールへの攻撃を再開し、多数の死者が生じた。その後、
パキスタン首相の仲介により、停戦に向けた交渉がもたれ、同年6月には、停戦が合意
され、ラバニ大統領とヘクマティヤール首相という二頭体制の連立政権が発足したが、
ヘクマティヤールは事実上政府に参加せず、両者の対立は継続した。また、イスラム国
民運動(ドストム将軍派)は、前記合意による内閣に参加できなかったことを不満とし
ており、ヘクマティヤール派と結んでカブールに攻撃をかけるなど、その戦闘は拡大し
ていくこととなった。
c そのころ、イスラム教シーア派ハザラ人を基盤とする政治勢力は、イスラム統一党と
イスラム運動(ハラカティ・イスラミ)等に分かれていた。イスラム統一党は、当初ラバ
ニを支持していたが、平成4年(1992年)末ころ、ヘクマティヤール派支持に転じ、西
カブールの支配権を巡って、ラバニ政権のアフマド・シャー・マスード司令官の部隊と
その支援を受けたアフガニスタン解放イスラム同盟(党首サヤーフ。パシュトゥーン人
が基盤)との間で激しい戦闘となり、平成5年(1993年)2月には、《地名略》地区のハ
ザラ人数百人が両勢力によって殺害されたり、行方不明になったりしたとされている。
また、イスラム統一党は、ラバニ派に属するイスラム運動(ハラカティ・イスラミ)との
間で、平成6年(1994年)夏、カブール南西部の支配権を巡って交戦し、平成7年(1995
年)9月にも武力衝突を起こして、数百人の死者と数千人の負傷者を生じたと報告され
ている(甲118、乙121から124まで)。
d イスラム統一党は、平成6年(1994年)9月、率いる者の名を冠したアクバリー派と
マザリー派とに分裂した。マザリー派がハザラ人の住む地域で主要派閥を占めたのに対
し、アクバリー派はごく少数にとどまったものの、ラバニ派やイスラム運動(ハラカテ
ィ・イスラミ)と同盟を結んで、マザリー派と熾烈な戦闘を繰り広げ、多くの民間人の
犠牲者を出した(乙122)。
e イスラム統一党は、平成4年(1992年)以来、ムジャヒディーン各派間の権力闘争に
積極的に加わり、平成5年(1993年)から平成7年(1995年)まで、西カブールを支配
し、平成8年(1996年)から平成10年(1998年)にかけては、北部地域で度々軍事的勝
利を収めた。こうした過程において、ハザラ人が歴史上長らく、経済的社会的に末端の
地位に甘んじていたこともあって、イスラム統一党の兵士らは、パシュトゥーン人、タ
ジク人、ウズベク人といったハザラ人以外の民族集団に対して極めて敵対的な態度をと
り、恣意的な逮捕や拷問、レイプ、裁判なしの処刑等を行い、捕虜に対する虐待にも及ん
- 6 -
だため、イスラム統一党は、内戦中、アフガニスタンで最も暴力的な集団の一つとみな
されていたと報告されている(乙122)。
ウ タリバンの台頭とカブール陥落、北部同盟の結成
a いわゆるタリバン(「イスラム神学校生及び神の道を求める人達」の意)は、平成6年
(1994年)春ころ、代表を名乗るイスラム神学校教師ムハンマド・オマルとその友人数
人によって、アフガニスタン南部のパキスタン国境付近で創設されたと伝えられてい
る。真のイスラム国家の樹立を目的として、ムジャヒディーン各派による権力闘争を否
定し、その解散と武装解除を目指した聖戦を布告して、その活動を開始すると、ムジャ
ヒディーン政権が成立した後も各派の権力闘争による内戦状態の長期化、治安の悪化等
で疲弊していた民衆の支持を集めて、その勢力を急速に拡大していった。その主要な構
成員は、パシュトゥーン人であったが、タジク人、ハザラ人、ウズベク人等それ以外の民
族も含まれていた。
b タリバンは、平成6年(1994年)11月、カンダハルに入り、同市の行政府を解散させて、
独自の行政府を樹立し、それから5か月の間に南部を中心にした全土31州のうち9州ま
でを支配下に収めた。平成7年(1995年)3月には、カブールまで進望するも、マスード
司令官の指揮するラバニ派の反撃を受けて、カブールからの退却を余儀なくされた。し
かし、その際、タリバンに攻撃を仕掛けてきたへクマティヤール派をその本拠地・カブ
ール南方のチャールアシアープから駆逐するとともに、イスラム統一党マザリー派もカ
ブールから排除した。マザリーはタリバンの部隊に拉致されて死亡し、ハリリがイスラ
ム統一党の後継者となった。弱体化したヘクマティヤール派は平成8年(1996年)6月
にはラバニ政権に参加し、ヘクマテイヤールは首相に就任することになった。
c タリバンは、平成7年(1995年)9月には西部のヘラードを制圧するなどして更に支
配地域を広げ、その範囲は全土の3分の2に及び、平成8年(1996年)9月には、ヘクマ
ティヤール派と共闘するラバニ派との戦闘の末、カブールを制圧して暫定政権を樹立し
た。
d こうして勢力を拡大していったタリバンに対し、ラバニ派は、平成8年(1996年)10
月、イスラム国民運動(ドストム将軍派)、マザリー派を引き継いだイスラム統一党ハリ
リ派との間で反タリバンの軍事同盟(祖国防衛最高評議会)を結び、その後、アフガニス
タン解放イスラム同盟(パシュトゥーン人が基盤)やイスラム運動党(ハラカティ・イ
スラミ)の参加も得て、「アフガニスタン救国イスラム統一戦線」(北部同盟)と称し、タ
リバンとの間で激しい戦闘を繰り広げることになった。
e 一方、イスラム統一党アクバリー派は、平成10年(1998年)11月、タリバンに投降し
て、その兵士もタリバンに組み込まれた(乙122、150)。
f タリバンは、後記エの各地での攻防を経て、平成13年(2001年)4月ころまでには、
国土の約9割を制圧するに至った。
- 7 -
エ タリバンとムジャヒディーン各派との各地での戦闘における残虐行為、報復等
a マザリシャリフ
平成9年(1997年)5月、ドストム将軍に反旗を翻しタリバン支持を表明したマレッ
ク将軍率いるイスラム国民運動の部隊によりマザリシャリフは制圧され、タリバンもマ
ザリシャリフに進入してハザラ人の居住地区で武装解除を実施しようとしたが、これを
拒んだイスラム統一党ハリリ派との間で激しい戦闘となり、マレック将軍もタリバン攻
撃に転じた。このため、タリバンはマザリシャリフから撤退したが、その際、イスラム統
一党ハリリ派は、タリバンに属する者約300人を殺害し、タリバンの兵士約2000人を捕
虜にしたとされている。また、マレック将軍の部隊もタリバン戦士の多くを殺害したと
されている(甲105、乙122、149)。
タリバンは、平成10年(1998年)8月マザリシャリフを再度侵攻して陥落させたが、
上記平成9年(1997年)5月の戦闘時の損害に対する報復として、何千人もの市民、特
にハザラ人を殺害したとされている(甲106、乙122、150)。
なお、マザリシャリフから北部へ逃れようとした市民(ハザラ人を含む。)に対し、そ
のルートを支配していたイスラム統一党ハリリ派の兵士は、金を要求し、金が払えない
場合には、逃亡を許さず、タリバンの元へ追い返したとされている(乙122)。
b バーミヤン
タリバンは、平成10年(1998年)9月、イスラム統一党ハリリ派の本拠地であるバー
ミヤンも制圧した。平成11年(1999年)4月には北部同盟がいったんこれを奪回したも
のの、同年5月にはタリバンによって再び制圧された(乙120)。
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)作成の平成13年(2001年)1月付けバックグラ
ウンドペーパー(甲102)及びアメリカ合衆国(以下「米国」という。)国務省作成の平成
12年(2000年)2月25日付け国別人権状況報告(甲103)によれば、タリバンは、平成10
年(1998年)9月のバーミヤン制圧の際、多数のハザラ人の一般市民を虐殺したとされ
ている。一方、UNHCR作成の平成14年(2002年)4月付けバックグラウンドペーパー
(乙103)によれば、タリバンは、平成11年(1999年)5月の再度のバーミヤン制圧の際、
ハザラ人やタジク人からなる民間人の多くを強制移住させたが、そのほとんどは、翌月
以降に帰還することができたとされている。
タリバンは、平成11年(1999年)9月、再度バーミヤンから撤退したが、イスラム統
一党ハリリ派の部隊は、地元の牢獄に捕えられていた30名のタリバン支持者の殺害に及
んだとされている(乙122)。
c ヤカオラン等
平成12年(2000年)12月から平成13年(2001年)前半にかけて、中部山岳地帯のハザ
ラジャートを巡ってタリバンとイスラム統一党ハリリ派が、北東部のタハール州を巡っ
てタリバンとラバニ派が、それぞれ攻防戦を展開し、いずれの地域でも短期間に支配権
- 8 -
が入れ替わって、状況はめまぐるしく変化した。平成12年(2000年)12月には、タリバ
ンがヤカオランを制圧し、翌年1月22日には、イスラム統一党ハリリ派がヤカオランを
奪還したが、2月17日には、タリバンが再度これを制圧した。タハール州でも、戦闘が
頻発し、7月4日の戦闘において北部同盟が270人のタリバン兵士を殺害したとの発表
がされた(乙152)。
上記ヤカオランの攻防を巡っては、平成12年(2000年)12月にタリバンが同地を制圧
した際、この地域で被った損害に対する報復として多数の一般市民を即決処刑したとさ
れ、平成13年(2001年)1月7日の戦闘では、ハザラ人約300人を虐殺したと報告され
ている。一方、イスラム統一党ハリリ派も、この地域を支配している間、タリバンの協力
者とみなされる者に虐待を行っており、平成12年(2000年)12月に同地域を支配下に置
いていた数日間に少なくとも4人を即決処刑にしたと報告されている(甲107、108)。
オ タリバン政権下での人権侵害と民族の関係等
デンマーク王国移民局作成の平成13年(2001年)11月付け「アフガニスタンにおける治
安及び人権状況検討のためのパキスタン視察団報告」(乙125)によれば、平成9年(1997
年)以降、アフガニスタンにおける少数民族の政治的迫害や追放が一般化したことはなく、
迫害されるかどうかは、むしろ被害者の居住地域によるところが大きく、アフガニスタン
の戦闘地域又は衝突のおそれのある地域の少数民族は極めて危険であるとされ、アフガニ
スタンの戦闘地域では報復攻撃が行われており、北部同盟がタリバンの兵士を襲うと、タ
リバンが後に当該地域を奪回したときに報復を行ったとされている。
また、英国内務省作成の平成13年(2001年)4月付け「アフガニスタン・アセスメント」
(乙101)によれば、タリバン政権下のアフガニスタンにおいて、タリバンと関係のない非
パシュトゥーン人や宗教的な少数派は、タリバンによる拘束、拷問等の人権侵害の主要な
標的とされたものの、実際に発生した人権侵害の主要な要因は、宗教への加入や民族的特
性によるものというよりは、むしろ被侵害者がタリバンに実際に反対していたか又はその
ようにみられたためであり、タリバンとハザラ人との間に民族的な対立はあったものの、
いわゆる「民族浄化」は起こらず、非戦闘員に対する残虐な行為のほとんども、内戦下で対
立組織の支配地域を占領した際に、報復等の意図で行われていたとされている。
カ タリバン政権の崩壊とその後のアフガニスタンの状況
a タリバン政権の崩壊と暫定行政機構の成立
米国は、タリバン政権に対し、その庇護下にあるムスリム過激派のウサマ・ビン・ラ
ディンが平成10年(1998年)8月のケニア・タンザニアの米国大使館爆破事件に関与し
たとして、その身柄引渡しを要求したにもかかわらず、タリバン政権がこれに応じなか
ったことから、平成11年(1999年)8月には、国内資産凍結等の経済制裁を発動した。
諸外国もこれに同調し、同年10月には、国連安全保障理事会において、海外資産凍結等
同様の措置を内容とする決議が採択されたことで、タリバン政権は、国際的に孤立した
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状態に置かれていた。
また、平成13年(2001年)3月には、タリバン政権は、国連や諸外国・団体の要請を
無視して、文化的価値の高いバーミヤンの大仏立像を破壊したことにより、国際的な非
難を浴び、更に孤立を深めていった。
平成13年(20011年)9月11日、いわゆる米国同時多発テロが発生し、米国政府は、こ
れへの関与の可能性を指摘してビン・ラディンの身柄引渡しを改めて要求したが、タリ
バン政権がこれを拒否したことを受けて、同年10月4日には、イギリスと共にタリバン
支配地域への空爆を開始した。北部同盟も、米英軍の支援を得て反撃を開始し、同年11
月9日にはマザリシャリフを、同月13日にはカブールを、それぞれ制圧し、翌14日には
米国副大統領がタリバン政権の崩壊を宣言し、同月17日にはカブールに入ったラバニ大
統領が勝利宣言を行った。
タリバンの兵士は、もともと日和見主義的に参加した者が多かったため、組織に対す
る忠誠心が薄く、マザリシャリフ陥落の報に接し、その多数がタリバンを離脱してしま
い、一部アラブ系義勇兵の抵抗はあったものの、同月25日までに、タリバンの支配地域
はカンダハル周辺を残すのみとなった。
一方、同年12月5日、アフガニスタン主要4派がドイツのボン近郊において協議を行
い、アフガニスタン暫定行政機構の人選等に関して合意するに至った。その結果、パシ
ュトゥーン人の有力指導者カルザイを議長とする暫定行政機構が、遅くとも平成14年
(2002年)6月中に開かれる緊急国民大会議(ロヤ・ジルガ)まで国政を運営し、同大会
議で樹立される暫定政府(移行政権)が、その後1年半以内の「移行期」の統治にあたる
こととなった。
このような状況の中で、タリバンは、平成13年(2001年)12月6日、カンダハルを含
む南部の3州を、元タリバン指揮官で、地元の武装勢力司令官であるナキーブッラーが
率いるパシュトゥーン勢力に明け渡すことに同意し、同月7日、その明渡しを完了した。
かくして、タリバンは政権としても組織としても崩壊し、他方において、同月22日、
アフガニスタン暫定行政機構がカブールに設立され、日本政府をはじめ、各国がこれを
正式な政府として承認した。
b 避難民の帰還とアフガニスタンの復興に向けた動き
上記aのような経過によってタリバンが崩壊し、暫定行政機構が発足してアフガニス
タン復興への動きが始まったため、パキスタン等の周辺国に避難していたアフガニスタ
ン人が本国への帰還を始め、その数は平成13年(2001年)11月に6900人、同年12月に
は3万人を超えた。
同年12月20日及び21日には、アフガニスタン復興運営グループの第1回会合が、ブリ
ュッセルで開催され、アフガニスタン復興に向けての国際的支援が合意された。
平成14年(2002年)1月21日及び22日には、日本政府も、東京において、アフガニス
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タン暫定行政機構関係者のほか、米国、EU、サウジアラビア等を交えて、アフガニスタ
ン復興支援国際会議を開催し、復興支援に関する国際社会の約束が発表された。
同月15日には、国連安全保障理事会において、タリバンはもはやアリアナ・アフガン
航空を所有、賃借、運航、管理等していないとの判断に基づいて、アフガニスタンに対す
る制裁措置のうち、国際線運航の停止を解除する旨の決議が採択され、同月24日には、
同航空の運航が再開された。
c 移行政権の成立と新憲法の採択・カルザイ大統領の選任等
平成14年(2002年)6月、アフガニスタンの最高意思決定機関であるロヤ・ジルガに
おいて、国家元首となる移行政権の長に、暫定行政機構のカルザイ議長を選出し、これ
を受けて、カルザイ議長は、大統領に就任したが、イスラム統一党出身のハリリが副大
統領に就任するなど、ハザラ人からも5名の閣僚が選任された。
平成16年(2004年)1月には、ロヤ・ジルガにおいて、新憲法を採択し、同年11月には、
新憲法に基づいて大統領選挙のための国民投票が初めて実施され、移行政権のカルザイ
大統領が新大統領に選出された。
周辺国に避難していたアフガニスタン人の帰還は、その後も更に数を増しており、
UNHCRの発表によれば、平成14年(2002年)3月以降、平成16年(2004年)5月末ま
での時点で、その数は315万人余りに及び、国内にとどまっていた避難民であって元の
居住地へ帰還したものを合わせると、その合計は360万人に達している。
イ シーア派ハザラ人の一般的状況と難民該当性
ア 前記アの認定事実を基に、まず、ハザラ人一般に対する迫害のおそれについて検討する
と、アフガニスタンの歴史を通じて、ハザラ人が、宗教、民族上の少数派として、経済的社
会的に差別的扱いを受け、政治的に圧迫されてきた結果、パシュトゥーン人との間に根深
い対立感情が存在することはうかがえるところであり、また、前記アエのaからcまでの
とおり、タリバンとイスラム統一党あるいは北部同盟との内戦下で、多数のハザラ人の一
般市民に対して、タリバンの部隊による即決処刑等の残虐な殺害行為が存在したというこ
とができる。
イ しかし、そうした行為が行われたとされている地域は、マザリシャリフ、バーミヤン及
びヤカオラン等の戦闘地域に集中しており、イスラム統一党の側も、一般市民に対して残
虐な行為をしたと報告されているところであって(前記アイe)、前記アオの報告にあると
おり、これらの残虐な行為のほとんどは、内戦下の対立組織の支配地域を占領した際に報
復の意図で行われていたとみることができる。
ムジャヒディーン勢力同士の内戦下でも、ハザラ人勢力を含めて離合集散が行われ(前
記アイaからcまで)、タリバン台頭後には、主要構成民族や宗派も異なり、それまで対立
していたムジャヒディーン諸勢力がタリバンに対抗して北部同盟を結成するなど(前記ア
ウd)、民族、宗教のみによって単純に説明できない複雑な権力闘争が繰り広げられてい
- 11 -
た。また、タリバンは、パシュトゥーン人中心の組織ではあったが、ハザラ人も構成員に含
んでおり、イスラム統一党アクバリー派の加入を受け入れている(前記アウe)。これらの
事実を総合すると、タリバン政権下において、ハザラ人が、タリバンから、支配争奪を巡る
戦闘時の対立状況を離れて、単にその民族及び宗教を理由に、生命、身体に対して危害を
加えられ、迫害されていたとは認め難いところである。
また、本件不認定処分の当時、アフガニスタンにおいては、北部同盟がカブールを奪還
して、米国副大統領がタリバン政権の崩壊を宣言し、その支配地域はカンダハル周辺を残
すのみという状況にあった(前記アカa)ものであり、暫定行政機構や移行政権の成立前
の段階とはいえ、タリバンとイスラム統一党あるいは北部同盟との内戦は国土の大部分の
地域で終息していたものということができるから、戦闘地域において結果としてハザラ人
に対して行われることがあったとされる残虐行為についても、その危険は解消されていた
とみるのが相当である。
ウ これに対して、原告は、本件不認定処分の当時、タリバンが崩壊していたというのは事
実誤認であり、復活を目指してその勢力を温存していて、タリバンによる迫害の危険は取
り除かれておらず、さらに、ハザラ人とパシュトゥーン人との対立は歴史的に根深いもの
があることから、タリバン政権崩壊後であっても、このような対立関係が解消されない限
り、ハザラ人がパシュトゥーン人によって迫害を受ける危険は解消されないなどと主張し
ているので、この点について、更に検討する。
a 確かに、甲213の新聞報道によれば、平成15年(2003年)に至っても、タリバンの残党
と思われる勢力が政府機関や国連・援助関係者に対する攻撃を仕掛けたり、政府軍及び
アフガニスタンに駐留を続ける国際治安支援部隊との間で戦闘を行ったりしており、双
方に多数の死傷者が生じている事実を認めることができる。
しかしながら、これらの攻撃や戦闘は、選挙の実施その他統治機構の確立や治安維持・
復興支援等にあたる政府や国連・援助関係者に向けられたものであり、それ以上に特定
の民族・集団が標的にされたものではないことからすれば、ハザラ人に対する迫害のお
それの根拠となるものでないことは明らかである。
b また、本件不認定処分当時は、北部同盟によるカブール奪還直後であって、いまだ暫
定行政機構や移行政権が成立する前の段階にあり、安定した統治機構が築かれていたわ
けではなく、治安も依然混乱した状況にあったことは否定し難い。このことは、同じく
甲213の新聞報道において、平成14年(2002年)6月の移行政権成立当時においても、
暫定行政機構が直接支配しているのはカブール等を含む3州に限られており、その余の
州では、旧ムジャヒディーン各派に支配が分かれた、いわば群雄割拠の状態にあったと
されていること、その後も、各派間の武力衝突がたびたび生じているほか、政権から排
除された武装勢力等によるテロ行為が活発化していたとされていること等からも裏付け
られるところである。
- 12 -
しかしながら、ハザラ人勢力は、タリバンからカブールを奪回した北部同盟を始めと
して、以降の統治機構の構成メンバーに一貫して名を連ねているところであり、統治機
構の不安定や治安状況の悪化といった事情があり、各派間の対立抗争や軍事的衝突の可
能性はあるにせよ、そのことが、原告が主張するような、パシュトゥーン人によるハザ
ラ人に対する迫害のおそれに直ちにつながるものではない。
c 以上の点に関して、原告は、タリバンの支配以前からそれと無関係にハザラ人への迫
害が行われていた例として、平成5年(1993年)2月に起こった《地名略》での虐殺行為
を挙げる。
しかし、前記アイcのとおり、これも西カブールの支配権を巡りイスラム統一党がラ
バニ政権の部隊との間で激しい戦闘を行った過程で生じた事件というべきである。当
時、イスラム統一党はパシュトゥーン人を基盤とするイスラーム党(ヘクマティヤール
派)と結んで反ラバニ勢力の一角をなしており、同じハザラ人勢力でもラバニ派に与す
るイスラム運動(ハラカティ・イスラミ)とは、激しい対立状態にあったとされること
(前記アイc)からすれば、《地名略》の虐殺行為を、パシュトゥーン人とハザラ人との間
の民族間の対立関係から説明するのは無理があり、パシュトゥーン人によるハザラ人一
般に対する迫害の事例と評価するのは適切ではない。ましてや、本件不認定処分当時は、
かつて西カブールの支配権を巡って争っていた各派、ラバニ派と反ラバニの両陣営に分
かれていた各派も北部同盟に参加するなど、タリバンに対抗するためムジャヒディーン
勢力が結集されており、タリバンからカブールを奪還し、国土の大半からこれを排撃し
た時期にあたるのであって、ハザラ人やムジャヒディーン各派を取り巻く情勢も平成5
年(1993年)の時点から大きく変化している。
したがって、本件不認定処分当時におけるハザラ人に対する迫害のおそれを判断する
に当たり、《地名略》での虐殺行為はその資料になり得ないというべきである。
d さらに、ハザラ人に関する専門家である英国の大学教授が、難民再審査裁判所の委託
を受けてハザラ人の安全に関して作成した文書である甲219の中には、平成15年(2003
年)のカブール及びジャグリ(ガズニ州の東南に位置する都市)の状況として、ハザラ人
がパシュトゥーン人から定期的に襲われていることや、警察と地元住民が衝突したなど
の話を聞いたことがある旨記載された部分がある(原文6頁・訳文7頁)。
しかし、当該ハザラ人が被害を受けた行為の内容は、泥棒や嫌がらせであり、その記
載内容から、直ちに、ハザラ人が生命又は身体の自由の侵害又は抑圧を受ける具体的危
険が存在するとまでは認め難く、また、行政当局が、事案の内容や当該地区一般の治安
の状況を離れて、ハザラ人が被害者であるという理由のみで、その保護を放棄している
とまでは断ずることができない。
したがって、甲219は、本件不認定処分の当時、原告が、その個別事情のいかんを問わ
ず、ハザラ人の民族、宗教のみを理由に、その生命又は身体の自由の侵害又は抑圧を受
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けるとの恐怖を抱くような客観的な事情が存在したことの根拠になるものではない。
ウ 原告の個別的事情と難民該当性
ア 次に、原告の個別的事情についてみると、証拠(甲1から3まで、乙12、15、16、18、B
事件乙1の1及び2、14、7、原告本人)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認めら
れる。
a 原告は、ハザラ人であって、イスラム教シーア派の信者であり、昭和47年(1972年)
ころにカブールの《地名略》地区で出生した。原告の父は、自動車の部品販売業を営んで
おり、原告も10歳で小学校をやめて家業を手伝うようになった。
b 平成4年(1992年)にナジブラ政権が崩壊した後、カブール市内では、サヤーフ派と
ラバニ派とが連帯してイスラム統一党との間で激しい戦闘を繰り広げるようになった。
その際、戦闘の現場を通りかかった原告の兄は流れ弾を腰に受けて死亡した。戦闘によ
る危険を避けるため、原告一家は、カブールを離れて両親の出身地の《地名略》市に移り
農業に従事していたが、十分な仕事にならなかったので、原告は、2、3か月を過ごして
都市部であるマザリシャリフに移動し、中古車部品販売店を開業した。ここで、原告は、
亡き兄の妻と結婚し、長男、二男をもうけ、妻と兄との間の長女と共に生活していた。
c タリバンは2度にわたってマザリシャリフに侵攻し、平成10年(1998年)時の2度目
の侵攻でこれを制圧したが、その際、タリバンは市内で無差別に銃撃を行って市民を殺
害した。原告一家は、市内から逃げ出して《地名略》という町に向かったが、その途中で、
原告は、ロケット弾の破片を背中に被弾したほか、銃撃を受けて左臀部から左大腿部ま
でを貫通する傷害を負ったことから、家族と離れて一人動けなくなって気を失ったとこ
ろを、タリバンに捕まって、そのままマザリシャリフ市内の刑務所に収監された。
d 刑務所内では、タリバンの兵士から、銃でたたかれたり、ナイフで切りつけられるな
どの暴行を受けた。しかし、原告の父がパシュトゥーン人の知り合いに口利きしてもら
ってタリバンに賄賂を払い、約2か月後に出所することができた。
e 原告一家は、マザリシャリフでも危険な目に遭ったことから、パキスタンに移り住む
ことを決意し、自動車や列車を利用してパキスタンのペシャワールまで移動し、そこで
家を借りて生活を始めた。仕事も探したが見つからず、やむを得ず、妻ら家族とともに
じゅうたんの製作を行い、それでわずかな収入を得て生計を立てていた。
f 原告は、平成12年(2000年)4月には、自動車部品販売業を営む知り合いのBに誘わ
れて来日し、約3か月滞在したが、日本国内では、自動車部品の運搬、車からの取り外し、
コンテナへの積み込みなどの作業を手伝って報酬を得ていた。
g 平成12年7月16日に日本からパキスタンに戻ったころから、原告は、ペシャワール
にいるアフガニスタン人が警察官に逮捕され、お金を払わなければアフガニスタンに送
り返されるという話を聞くようになり、原告も警察官から質問を受けてお金を払って解
放されるということがあった。原告は、アフガニスタンに戻れば危険な目に遭うおそれ
- 14 -
があると考え、また、じゅうたんの製作による収入だけでは家族の生活が苦しいという
事情もあったため、ペシャワールに移り住んでいた父と今後の身の振り方について相談
し、海外に渡航して就労資格を得て、そこで働いて家族に仕送りをすることとした。こ
のとき、父は渡航の手続を依頼したブローカーに1万6千米ドルの費用を支払ってい
る。
h 原告は、渡航先としては、多くのアフガニスタン人が難民として認められビザの取得
が容易であるという話を聞いていたロンドンを考え、ブローカーからもその旨の説明を
受けて、パキスタン・イスラマバードから出国した。途中まで同行したブローカーの案
内に従って何度か飛行機を乗り継いだものの、ブローカーと別れて搭乗した飛行機(中
華航空機)の到着地が羽田空港であり、パスポートもブローカーに預けたままにしてあ
ったことから、入国審査の際に、パスポートを所持していないこと等を説明したところ、
不法入国の容疑で警察に引き渡された。
イ 以上認定した事実経過の中で、原告は、①カブールに在住していた時、サヤーフ派及び
ラバニ派とイスラム統一党との間の戦闘に巻き込まれて原告の兄が命を落としているこ
と、②マザリシャリフに移ってからは、タリバンが侵攻してきた時、タリバンからロケッ
ト砲の破片を被弾したり銃撃を受けたりして負傷していること、さらに、③その傷害を負
った状態でタリバンによって拘束されて、刑務所に収容され、そこでも暴行・虐待を受け
たこと等について、原告が難民であることを裏付けるものとして主張している。これらに
ついては、原告又はその親族が、タリバンその他の者から直接生命又は身体の侵害にさら
された事実ということになるので、果たして、これらの事実が原告に対する迫害のおそれ
の根拠となり得るかについて検討を加える必要がある。
まず、上記①の点についてみると、兄はムジャヒディーン勢力間のカブール市内の戦闘
の巻き添えとなって、負傷・死亡に至ったものであって、シーア派のハザラ人であること
を理由に標的にされたなどの事情があるわけではないから、原告に対する迫害のおそれ
の根拠になるものではない。次に、②及び③の点については、前記アエaでみた平成10年
(1998年)のマザリシャリフ侵攻・制圧時におけるタリバンの一般市民、特に、ハザラ人
に対する残虐行為であって、原告自身がその被害を受けたものとみることができるが、そ
うした行為の評価は、前記イイに述べたとおりである。特に、刑務所内において虐待が行
われた経緯については、タリバン兵士は、刑務所の警備と外部での戦闘を交代で行ってお
り、外部での戦闘で仲間が殺されるなどの被害を受けた後に、その直接的な報復、腹いせ
として、そうした行為に及んだものである旨を原告自身が供述している(甲1)。このこと
からみても、当時のマザリシャリフでの戦闘状態を離れて、その民族及び宗教を理由にし
て、原告の生命、身体に対して危害が加えられ、迫害されていたとは認め難いところであ
る。
なお、前記アgのとおり、パキスタンのペシャワールでの生活について、原告は、ペシャ
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ワールにいるアフガニスタン人が警察官に逮捕され、お金を払わなければアフガニスタン
に送り返されるという話を聞くようになり、原告も警察官から質問を受けてお金を払って
解放されるということがあった点については、このような事情は、アフガニスタンから避
難してペシャワールで生活している原告にとって、海外に渡航して難民認定の申請を行う
契機になったものとしては理解できるものの、原告が本件において、その難民性として主
張するところの、アフガニスタン本国におけるタリバンによるハザラ人に対する迫害のお
それ、さらには、パシュトゥーン人一般によるハザラ人に対する迫害のおそれを基礎づけ
るものでないことは明らかである。
ウ 以上にかんがみると、原告の個別事情を勘案しても、本件不認定処分当時、原告が本国
において迫害を受けるとの恐怖を抱くような客観的事情が存在したとは認められないとい
うべきである。

退去強制令書発付処分取消等請求事件(甲事件)
平成13年(行ウ)第416号
難民認定をしない処分取消請求事件(乙事件)
平成14年(行ウ)第131号
原告:A(甲・乙事件)、被告:法務大臣(甲・乙事件)・東京入国管理局成田空港支局主任審査官(甲事件)
東京地方裁判所民事第38部(裁判官:菅野博之・市原義孝・近道暁郎)
平成17年11月11日

判決
主 文
一 甲・乙事件被告法務大臣が原告に対して平成13年9月21日付けでした難民の認定をしない旨
の処分を取り消す。
二 甲・乙事件被告法務大臣が原告に対して平成13年9月21日付けでした出入国管理及び難民認
定法49条1項に基づく異議の申出には理由がない旨の裁決を取り消す。
三 甲事件被告東京入国管理局成田空港支局主任審査官が原告に対して平成13年9月26日付けで
した退去強制令書発付処分を取り消す。
四 訴訟費用は、全事件を通じて、甲・乙事件被告法務大臣及び甲事件被告東京入国管理局成田空
港支局主任審査官の負担とする。
事実及び理由
第一 請求
主文同旨
第二 事案の概要
一 事案の骨子
甲事件は、アフガニスタン(なお、時期及び支配勢力により、同国の国名は複数のものがあるが、
本判決では、いずれも単に「アフガニスタン」と表記する。)の国籍を有する男性である甲・乙事
件原告(以下「原告」という。本邦入国当時18、9歳)が、東京入国管理局成田空港支局入国審査
官から平成16年法律第73号による改正前の出入国管理及び難民認定法(以下「出入国管理法」と
いう。)24条1号に該当する旨の認定を受け、次いで、東京入国管理局成田空港支局特別審理官か
ら同認定に誤りがない旨の判定を受け、さらに、甲・乙事件被告法務大臣(以下「被告法務大臣」
という。)から出入国管理法49条1項に基づく異議の申出には理由がない旨の裁決を受け、甲事
件被告東京入国管理局成田空港支局主任審査官(以下「被告主任審査官」という。)から退去強制
令書発付処分を受けたため、アフガニスタンに送還されれば迫害のおそれがあるにもかかわらず
在留特別許可を認めなかった上記裁決は違法であり、それを前提とする上記発付処分も違法であ
るなどと主張して、被告法務大臣に対しては上記裁決の取消しを、被告主任審査官に対しては上
記発付処分の取消しを求める事案である。
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乙事件は、原告が、出入国管理法61条の2第1項に基づき難民の認定を申請したところ、被告
法務大臣から難民の認定をしない旨の処分を受け、さらに、出入国管理法61条の2の4の規定に
基づく異議の申出についても、被告法務大臣から理由がない旨の決定を受けたため、上記処分が
違法であると主張して、被告法務大臣に対し上記処分の取消しを求める事案である。
二 関係法令の定め等
1 難民の定義
 出入国管理法61条の2第1項は、「法務大臣は、本邦にある外国人から法務省令で定める
手続により申請があつたときは、その提出した資料に基づき、その者が難民である旨の認定
(以下「難民の認定」という。)を行うことができる。」と規定している。そして、出入国管理法
2条3号の2は、出入国管理法における「難民」の意義を、「難民の地位に関する条約(以下「難
民条約」という。)第1条の規定又は難民の地位に関する議定書第1条の規定により難民条約
の適用を受ける難民をいう。」と規定している。
 難民条約1条Aは、「1951年1月1日前に生じた事件の結果として、かつ、人種、宗教、
国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるお
それがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であつて、そ
の国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国
の保護を受けることを望まないもの及びこれらの事件の結果として常居所を有していた国の
外にいる無国籍者であつて、当該常居所を有していた国に帰ることができないもの又はその
ような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」は、難民
条約の適用上、「難民」という旨規定している。
 難民の地位に関する議定書(以下「難民議定書」という。)1条2は、難民議定書の適用上、
「難民」とは、難民条約1条Aの規定にある「1951年1月1日前に生じた事件の結果として、
かつ、」及び「これらの事件の結果として」という文言が除かれているものとみなした場合に
同条の定義に該当するすべての者をいう旨規定している。
 したがって、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的
意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍
国の外にいる者であつて、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐
怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」は、出入国管理法にいう
「難民」に該当することとなる。
2 退去強制令書の発付と在留特別許可等
 出入国管理法49条3項は、「法務大臣は、第1項の規定による異議の申出を受理したとき
は、異議の申出が理由があるかどうかを裁決して、その結果を主任審査官に通知しなければ
ならない。」と規定している。
 出入国管理法49条5項は、「主任審査官は、法務大臣から異議の申出が理由がないと裁決
した旨の通知を受けたときは、すみやかに当該容疑者に対し、その旨を知らせるとともに、
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第51条の規定による退去強制令書を発付しなければならない。」と規定している。
 出入国管理法50条1項は、「法務大臣は、前条第3項の裁決に当つて、異議の申出が理由が
ないと認める場合でも、当該容疑者が左の各号の1に該当するときは、その者の在留を特別
に許可することができる。」とし、その3号において、「その他法務大臣が特別に在留を許可
すべき事情があると認めるとき。」と定めている。
3 難民の追放及び送還の禁止
 難民条約32条1項は、「締約国は、国の安全又は公の秩序を理由とする場合を除くほか、合
法的にその領域内にいる難民を追放してはならない。」と規定している。
 難民条約33条1項は、「締約国は、難民を、いかなる方法によつても、人種、宗教、国籍若
しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見のためにその生命又は自由が脅
威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放し又は送還してはならない。」と規定してい
る。
4 拷問を受けるおそれのある者の追放及び送還の禁止
 拷問及び他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する条約(以下
「拷問等禁止条約」という。)3条1項は、「締約国は、いずれの者をも、その者に対する拷問
が行われるおそれがあると信ずるに足りる実質的な根拠がある他の国へ追放し、送還し又は
引き渡してはならない。」と規定している。
 拷問等禁止条約1条1項は、「この条約の適用上、『拷問』とは、身体的なものであるか精神
的なものであるかを問わず人に重い苦痛を故意に与える行為であって、本人若しくは第三者
から情報若しくは自白を得ること、本人若しくは第三者が行ったか若しくはその疑いがある
行為について本人を罰すること、本人若しくは第三者を脅迫し若しくは強要することその他
これらに類することを目的として又は何らかの差別に基づく理由によって、かつ、公務員そ
の他の公的資格で行動する者により又はその扇動により若しくはその同意若しくは黙認の下
に行われるものをいう。『拷問』には、合法的な制裁の限りで苦痛が生ずること又は合法的な
制裁に固有の若しくは付随する苦痛を与えることを含まない。」と規定している。
三 前提事実
本件の前提となる事実は、次のとおりである。いずれも、証拠及び弁論の全趣旨等により容易
に認めることのできる事実であるが、括弧内に認定根拠を付記している。
1 原告の身分事項及び入国・在留状況について
 原告は、アフガニスタンにおいて出生したアフガニスタン国籍を有する男性の外国人であ
り、昭和57年(1982年)(月日不詳)に出生した旨供述している(乙2、弁論の全趣旨)。
 原告は、平成13年8月1日、有効な旅券等を所持することなく、新東京国際空港(現在の
成田国際空港。以下、改称の前後を問わず「成田空港」という。)に到着し、本邦に不法入国し
た(乙1の1)。
2 原告の退去強制手続について
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 警備会社の警備員が、平成13年8月1日、成田空港内のトイレで原告を発見した。同警備
員から原告の引渡しを受けた東京入国管理局(以下「東京入管」という。)成田空港支局審査
管理部門首席審査官は、出入国管理法24条1号(不法入国)に該当する疑いがあるとして、
同日、同支局首席入国警備官にその旨通報した。(乙1の1から1の4まで)
 東京入管成田空港支局入国警備官は、平成13年8月2日、被告主任審査官から収容令書の
発付を受け、同日、これを執行して原告を同支局収容場に収容し、同月3日、原告を出入国管
理法24条1号該当容疑者として同支局入国審査官に引き渡した(乙3から5まで)。
 東京入管成田空港支局入国審査官は、平成13年8月3日及び同月9日、原告に対する違反
審査を行い、同日、原告について、出入国管理法24条1号に該当する旨認定し、原告にこれ
を通知した。原告は、同日、口頭審理の請求をした。(乙7、8の1、9)
 東京入管成田空港支局特別審理官は、平成13年8月16日、口頭審理を実施して、上記認定
に誤りがない旨判定し、原告にこれを通知した。原告は、同日、法務大臣に異議の申出をした。
(乙10、11、12の1、12の2)
 被告法務大臣は、平成13年9月21日付けで、原告の上記異議の申出には理由がない旨の裁
決(以下「本件裁決」という。)をした。本件裁決の通知を受けた被告主任審査官は、同月26日、
原告に本件裁決を告知するとともに、退去強制令書(以下「本件退令」という。)の発付処分(以
下「本件退令処分」という。)をした。(乙13から15まで)
 東京入管成田空港支局入国警備官は、平成13年9月26日、本件退令を執行して原告を同支
局収容場に収容した後、同月27日、原告を入国者収容所東日本入国管理センターに移収した
(乙15)。
 原告は、平成13年12月25日、本件裁決及び本件退令処分の取消しを求めて、甲事件に係る
訴えを提起した(当裁判所に顕著な事実)。
 原告は、平成14年7月1日、仮放免された(乙15)。
3 原告の難民認定申請手続について
 原告は、平成13年8月3日、東京入管成田空港支局において、難民の認定の申請(以下「本
件難民認定申請」という。)をした(乙6、19)。
 被告法務大臣は、平成13年9月21日付けで、本件難民認定申請について、難民の認定をし
ない旨の処分(以下「本件不認定処分」という。)をし、同月26日、これを原告に告知した。原
告は、被告法務大臣に対し、同月29日、本件不認定処分について、異議の申出をした。
なお、本件不認定処分の告知書に付記された理由は、「あなたの『人種』、『宗教』、『国籍』、
『政治的意見』、『特定の社会的集団の構成員であること』を理由とした迫害を受けるおそれが
あるという申立てについては、これを立証する具体的な証拠がなく、難民の地位に関する条
約第1条A及び難民の地位に関する議定書第1条2に規定する『人種』、『宗教』、『国籍』、
『政治的意見』、『特定の社会的集団の構成員であること』を理由として迫害を受けるおそれは
認められず、同条約及び同議定書にいう難民とは認められません。」というものであった。(乙
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16、17の1から17の3まで)
 法務大臣は、平成13年12月10日付けで、原告の上記異議の申出には理由がない旨の決定
(以下「本件決定」という。)をし、同月18日、これを原告に通知した。
なお、本件決定の通知書に付記された理由は、「貴殿の難民認定申請につき再検討しても、
難民の認定をしないとした原処分の判断に誤りは認められず、他に、貴殿が難民条約上の難
民に該当することを認定するに足りるいかなる資料も見出しえなかった。」というものであ
った。(乙18)
 原告は、平成14年3月14日、本件不認定処分の取消しを求めて、乙事件に係る訴えを提起
した(当裁判所に顕著な事実)。
四 争点
本件の主な争点は、次のとおりである。
1 難民該当性の有無
すなわち、本件不認定処分のされた平成13年9月21日当時、原告は、「人種」、「宗教」、「国籍」、
「政治的意見」、「特定の社会的集団の構成員であること」を理由に、アフガニスタン暫定政権及
びタリバンの残党から迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有しているた
めに、国籍国の外にいる者ということができるか。
2 本件裁決の適法性
すなわち、本件裁決のされた平成13年9月21日当時、原告はアフガニスタンに送還されれば
迫害を受けるおそれがあったので、在留特別許可を付与されるべきであったのに、これを付与
せずにされた本件裁決は、被告法務大臣の有する裁量権を逸脱するなどしてされた違法なもの
であるということができるか。
3 本件退令処分の適法性
具体的には、本件裁決が違法であるから、これを前提とする本件退令処分も違法であるか。
また、本件退令処分には、送還先をアフガニスタンとしたこと、送還の目どがないのに退去強
制令書を発付したこと等につき違法があるか。
五 争点に関する当事者の主張の要旨
1 争点1(難民該当性の有無)について
 原告の主張
 アフガニスタンの一般情勢について
ア 概要
多民族国家であるアフガニスタンは、1919年に王制の下でイギリスから独立を達成
し、昭和48年(1973年)7月に共和制に移行した。昭和53年(1978年)の政変により共
産主義のPDPA(アフガニスタン人民民主党)が成立し、昭和54年(1979年)12月のソビ
エト社会主義共和国連邦(以下「ソ連」という。)の軍事進攻後、ソ連の支援下で共産主
義のカルマル政権が成立した。
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しかし、イスラム原理主義を中心とするムジャヒディーン(イスラム聖戦士)がソ連
及びカルマル政権に対する抵抗を開始し、アフガニスタン国内は現在まで続く内戦状態
となった。政権は、昭和61年(1986年)5月にカルマルからナジブラに引き継がれたが、
ソ連軍が平成元年(1989年)に撤退すると、ナジブラ政権は平成4年(1992年)に崩壊し、
ムジャヒディーン各派による連立政権が成立した。
その後、ムジャヒディーン各派同士での主導権争いにより内戦が激化し、その中から、
イスラム原理主義の新興勢力であるタリバンが、平成6年(1994年)末ころ、台頭して
きた。
タリバンは、急速に支配地域を拡大し、平成8年(1996年)9月には首都カブールを
占拠した。こうしたタリバンの進攻に対し、ムジャヒディーン各派は反タリバン勢力と
して統一戦線(北部同盟)を結成し、両者の間での激しい内戦が最近まで継続していた。
タリバンは、平成10年(1998年)に入り、北部の要衝地であるマザリシャリフなどを支
配下に納め、平成13年(2001年)4月初めには国土の9割を掌握したといわれている。
一方、タリバン政権の崩壊後、暫定行政機構の中核をなす北部同盟は、タジク人を主
体とするラバニ・マスード派、ウズベク人を主体とするアフガニスタン・イスラム運動、
ハザラ人を主体とするイスラム統一党を中心としている。
イ ハザラ人の迫害の歴史
ハザラ人は、今から2300年以上前から、現在のアフガニスタンで暮らしている先住民
族である。
ハザラ人は、1880年代までは、現在のアフガニスタン中央部に広がるハザラジャート
という山岳地帯で完全な自治を確立し、支配していた。しかし、1890年に王位についた
パシュトゥーン人の王アブドル・ラーマンは、激しい抵抗をみせたハザラ人に対して怒
りと憎しみを抱いており、敗残兵の首で塔を建てたり、敵軍の兵に対して拷問を行うな
ど残虐な行為を繰り返していた。
ハザラ人たちは、アブドル・ラーマンによる専制政治に対して、3回にわたって反乱
を起こしたが、これらがいずれも失敗に終わったことで、ハザラ人社会は多くの面でか
つてない変容を遂げることになった。それまで部族単位による統治が行われていたハザ
ラジャートは、アブドル・ラーマンが派遣したアフガニスタン人統治者と政府から給与
を払われた者によって支配されるようになった。また、アブドル・ラーマンは、シーア
派ハザラ人に対して、スンニ派の信仰を強要したこともあった。ハザラジャートのすべ
ての放牧地を没収する命令が1894年4月11日に下され、また、ハザラ人だけに課された
重税も多数あった。さらに、上記反乱での敗退により、莫大な数のハザラジャートのハ
ザラ人が殺され、又は移住を余儀なくされた。
その後、アマヌッラー王による治世が行われていた時代には、ハザラ人には一定の権
利が認められ、奴隷制度も廃止された。しかし、後のパシュトゥーン人による国家主義
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政策によって、ハザラ人は社会から隔離されてしまい、その中でも特に顕著なのがパシ
ュトゥーン語の公用語化政策であった。
1929年から1978年までのハザラ人に対する政治的抑圧は、アブドル・ラーマンの治
世下の時代を除いて、最もひどいものであるといわれている。工事現場での作業等に従
事するのもハザラ人であり、ハザラ人には重税が課された。また、多くの指導的立場に
あったシーア派ハザラ人は、暗殺されたり処刑されたりした。このほか、ハザラ人に対
する社会的・経済的な隔離政策も行われた。1970年代に飢饉が起きたが、ハザラ人は政
府から援助を受けられず、公共投資はパシュトゥーン人の居住地域だけに行われ、パシ
ュトゥーン人は税金も兵役も免除された。また、パシュトゥーン人は教育面でも優遇さ
れていた。このような中でも、ハザラ人は、カブールにおいて、政治・経済・文化面で幾
らかの功績を上げていたが、昭和53年(1978年)のPDPAによる共産主義クーデターに
よって、その発展は止まり、多くの指導的なハザラ人は、迫害を受けたり、国外退去を強
いられた。
ハザラ人社会は、1980年代から1990年代前半にかけて最もめざましい進展を遂げ、
1990年代には、イスラム統一党という政党とその指導者であるマザリー師の下で固い
結束が生まれた。しかし、イスラム統一党がナジブラ政権崩壊後に成立した暫定政権か
ら締め出されたため、シーア派ハザラ人は再び完全に無視される結果となった。
イスラム統一党は、平成7年(1995年)2月に、当時勢力を増してきたタリバンと停
戦協定を結んだ。その後、当時のラバニ大統領の主任司令官であったマスードの部隊が、
同年3月6日に、イスラム統一党に対して最大級の攻撃を仕掛けてきたため、イスラム
統一党は、タリバン軍に対し、西カブールの前線に入ることを許可したところ、タリバ
ンは、イスラム統一党の援助をするどころか、イスラム統一党の兵士から武器を取り上
げ、マザリー師を殺害した。
こうして、ハザラ人社会において初めての統一的なリーダであったマザリー師の死に
より、シーア派ハザラ人の活発な活動には急速な終末がもたらされ、その後は、タリバ
ンが勢力を拡大して、平成8年(1996年)にはカブールを制圧した。
ウ タリバン政権下におけるハザラ人に対する迫害
タリバンは、ムッラー・ムハンマド・オマル師を最高指導者とする集団であり、パキ
スタン・イスラム共和国(以下「パキスタン」という。)の「マドラサ」と呼ばれる宗教
学校の教師や学生を中心として結成された。タリバンは、イスラム原理主義者の中で最
も厳格にシャリアと呼ばれるイスラム法を解釈し執行する急進主義者である。タリバン
は、他のイスラム社会や西欧社会、国連の援助機関を含む国際社会との一切の妥協を拒
否し、タリバンの政策やイスラム法の解釈に対する議論や批判を許していない。タリバ
ンに反対するとの疑いを受けた人の多くは、拷問や残虐な取扱いを受けている。
タリバン体制下でのアフガニスタンには、憲法、法の支配及び独立した司法組織は存
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在せず、司法手続は、各地の指揮官や当局者の判断により恣意的に執行されていた。ま
た、タリバンは、公開の死刑、むち打ち刑、四肢切断刑等の残虐な刑罰を実施している。
このほか、タリバンは、娯楽活動を禁止し、男性のひげの長さや女性の服装等について
も厳しく取り締まるなど、人々の社会的活動を抑圧している。
タリバンは、アフガニスタンの最大民族であるパシュトゥーン人を主体としており、
少数民族であるハザラ人、タジク人、ウズベク人等を迫害している。とりわけ、パシュト
ゥーン人の多くがイスラム教スンニ派であるのに対し、ハザラ人の多くがイスラム教シ
ーア派であることから、ハザラ人は、以下のとおり、タリバンによる組織的な殺害を含
む迫害の対象となってきた。
タリバンが平成10年(1998年)8月8日にマザリシャリフを攻略したときには、何千
人ものハザラ人の一般市民が、タリバンにより計画的かつ組織的に虐殺された。オマル
師は、シーア派ムスリム不信仰者(ハザラ人)を殺害しても罪にはならないとの布告を
出したとされている。生き残ったシーア派ハザラ人に与えられた選択肢は、改宗するか、
他国に逃れるか、殺されるかであった。
また、200人とも500人ともいわれるハザラ人の一般市民が、同年9月に、バーミヤン
において虐殺された。さらに、タリバンは、平成11年(1999年)5月9日にバーミヤン
を再占領し、同月14日に、バーミヤン地方第2の都市であるヤカオランを奪取した。こ
の際にも、多くのハザラ人の一般市民が、タリバン警備隊による組織的殺害の標的とさ
れた。
タリバンは、平成12年(2000年)12月にも、再度ヤカオラン地域を制圧した後、100
人から300人にのぼるアフガニスタン一般市民を即決処刑した。さらに、タリバンは、平
成13年(2001年)1月にも、ヤカオラン地域において、ハザラ系住民を逮捕、処刑した。
エ タリバン崩壊後のアフガニスタンの情勢
平成13年(2001年)9月11日、大規模なテロ事件が、ニューヨークにおいて発生した。
アメリカ合衆国は、アルカイダが上記テロを行ったとして、アルカイダを支援していた
タリバンを攻撃し、アフガニスタンの各地を空爆した。
その結果、同年12月にタリバンがアフガニスタンにおいて統治機能を喪失したと報道
されているが、アフガニスタンにおけるハザラ人迫害の歴史は、タリバン誕生前からの
ものであり、タリバン崩壊の報道がされているだけで、ハザラ人に対する迫害の危険が
なくなったとするのは、早計に過ぎる。
北部同盟の将軍たちは、以前にアフガニスタン全土を不安と混乱に陥れたその人達で
あり、パキスタン在住のアフガニスタン市民は、治安に対する不安を述べている。
マスードの部隊及び北部同盟の構成メンバーは、深刻な人権侵害を数多く行ってい
る。マスードの部隊は、カブールに対して散発的なロケット攻撃を行っており、反タリ
バン勢力は、民間人居住地域への無差別爆撃を行っている。北部同盟の軍事部隊、その
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下級指揮官及び不良分子は、政治的暗殺、誘拐、身代金目的の誘拐、拷問、強姦、恣意的
な拘束、戦利品の略奪を行っている。
北部同盟は、しばしばカブールに対しロケット攻撃を行った。この一連の攻撃の多く
で、民間人を死傷させている。
北部のマスード配下の指揮官の一部は、囚人及び政治的な対立勢力構成員から情報を
得るため、又はその意思をくじくために拷問を行ったと伝えられている。
マスードによって拘束された囚人の一部は、地雷原でのざんごう掘りのような生命の
危険がある仕事を強制されている。
タリバンと北部同盟双方の民兵が、市民の監獄からの釈放、又は逮捕をしないことと
引換えに賄ろを要求したという、信頼のおける複数の報告がある。
北部のシバルガン近くで平成9年(1997年)に集団墓地が発見された事実は、広く報
道された。墓地には2000人の遺体が埋められていたと伝えられており、これらは平成9
年(1997年)ごろにマザリシャリフ付近で拘束され、北部同盟部隊に処刑されたタリバ
ン兵の遺体であると考えられている。
北部のマスード配下の北部同盟指揮官たちが、タジキスタン経由でアフガニスタンに
運び込まれている人道的救援物資の一部を接収し、NGO職員を威嚇し、救援部隊の交通
を妨害し、その他の方法で人道的支援の活動を妨害しているとの複数の報道がされてい
る。
市民が、自らの民族的出自及び敵対勢力への協力の容疑により、タリバン及び北部同
盟の両勢力によって拘束されているとの信頼のおける報道が複数存在する。特に、その
ほとんどがシーア派イスラム教を信じているハザラ系住民は、そのほとんどがスンニ派
イスラム教徒であるパシュトゥーン系のタリバンによる民族的出自を理由とした攻撃の
対象となっている。
マスード配下の北部同盟が、タリバン側の囚人を道路や空港の滑走路の建設作業に強
制的に従事させたとする、複数の信頼のおける報道も寄せられている。
平成13年(2001年)12月22日にアフガニスタンでは暫定政権が発足した。しかし、暫
定政権の外交、内務、国防の重要閣僚ポストを得た派閥の頭領で記念式典に出席したラ
バニ前大統領やマスード将軍は、平成5年(1993年)2月11日、西カブールのアフシャ
ール地区で、数百人のハザラ人を殺害し、レイプや放火を行った者たちである。このよ
うに、北部同盟の将軍たちは、以前にアフガニスタン全土を不安と混乱に陥らせた人物
である。
そもそも、アフガニスタンの多数民族であるパシュトゥーン人と1800年代まで自国
を有していたハザラ人との対立は、歴史的に根深いものがある。支配民族と被支配民族
という関係は、1930年から50年代にかけてのパシュトゥナイゼーションともいえる政
策によって顕著となるが、両民族の長年にわたる闘争、シーア派とスンニ派の教義上の
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対立、そして、民族的ルーツの違いが、互いの不信感や憎悪を増長する根源となってい
る。この民族間対立により、ハザラ人に対する人権侵害は、タリバンによる政権掌握に
よって、より公式に制度化されたということができる。
逆に言えば、タリバン崩壊後であっても、このような対立関係が解消されない限り、
ハザラ人がパシュトゥーン人によって迫害を受ける危険は解消されないのである。
さらに、タリバンは、アルカイダと共闘して、復活の機会を狙っており、米軍のヘリコ
プターを撃墜したり、駐留中の米軍にロケット弾を撃ち込むなどしている。タリバン代
表のオマル師が、「米国との戦争は終わっておらず、米国はアフガンで旧ソ連軍と同様、
重大な損失を出すだろう。」などと述べていると報道されている。パキスタンの地元紙に
よれば、タリバン政権のジララディン・ハッカニ司令官とヘクマティヤール元首相との
間では、アフガニスタン暫定政権の打倒に向け連携することで合意が成立しているとさ
れている。
報道によれば、暫定政権の実効支配地域はせいぜい全国の2割程度であり、パシュト
ゥーン人であるカルザイ首相の存在感は、事実上のタジク人政権とも言える暫定政権の
中では極めて薄く、米国や国連の後ろ盾で辛うじて支えられているとされている。この
ように、いつ、現在の暫定政権が覆されて、かつてのムジャヒディーンたちによる混乱
が起きたり、あるいはタリバンが復活したり、タリバン以外のパシュトゥーン人による
ハザラ人の迫害が再燃しても、全くおかしくない状況である。

退去強制令書執行停止申立事件
平成17年(行タ)第82号
申立人(控訴人・原告):A、被申立人(被控訴人・被告):大阪入国管理局主任審査官
大阪高等裁判所第2民事部(裁判官:松山恒昭・小原卓雄・吉川慎一)
平成17年11月16日

決定
主 文
1 被申立人が、申立人に対し、平成15年10月30日付けで発付した退去強制令書に基づく執行は、
本案(大阪地方裁判所平成15年(行ウ)100号退去強制令書発付処分取消請求事件)の控訴審判決
言渡後30日を経過するまで停止する。
2 申立費用は、被申立人の負担とする。
事実及び理由
第1 申立ての趣旨
主文と同じ。
第2 事案の概要
1 事案の要旨
本件は、タイ王国(以下「タイ」という。)の国籍を有する申立人が、退去強制手続において被申
立人から退去強制令書の発付処分を受けたため、その取消しを求める本案事件を提起するととも
に、執行停止を申し立てた事案である。
2 事実経過
一件記録によれば、次の事実が認められる。
 申立人は、昭和45(1970)年1月28日、タイ人である母B(昭和24(1949)年11月6日生)(以
下「B」という。)とタイ人の父との間において出生したタイ国籍を有する外国人である。
 申立人は、平成9(1997)年11月14日、タイにおいて、C(以下「C」という。)との間にD(以
下「D」という。)を出産した。
 申立人は、平成11(1999)年3月1日、大阪府において、Cとの間の子であるE(以下「E」
という。)を出産した。
 Bは、現在、子である日本国籍を有するF(申立人の異父妹、平成5年9月28日生)(以下「F」
という。)の保護者として定住者の在留資格で我が国に在留し、平成15年1月8日から申立人
肩書住所地にFと居住している。また、申立人の異父妹であるG(昭和60(1985)年9月22日
生)(以下「G」という。)は、平成7年8月11日から日本人の子として定住者の在留資格で我が
国に在留している。
 申立人は、平成8年(1996)年1月14日、関西国際空港から在留資格「短期滞在」、在留資格
「90日」で我が国に入国し、在留期間更新許可を1回受けた後、同年6月26日、同空港より出国
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した。
 申立人及びDは、平成10(1998)年10月8日、Cと共に、タイ・バンコクから関西国際空港
に到着し、大阪入国管理局(以下「大阪入管という。」関西空港支局入国審査官に対し、上陸申
請を行い、同審査官から、在留資格「短期滞在」、在留期間「90日」とする各上陸許可を得て我
が国に上陸した。申立人らは、その後、在留期間の変更または更新を受けることなく、在留期限
である平成11年1月6日を超えて不法に在留している。
 申立人は、平成11(1999)年3月1日、大阪府においてEを出生した。
 申立人は、平成14年7月23日、不法就労を大阪入管に摘発され、申立人らの法違反の事実が
発覚した。D及びEは幼児であり、申立人は、同人らを養育中であることから在宅調査となっ
た。大阪入管入国警備官は、申立人らについて違反調査を実施した結果、申立人及びDについ
て出入国管理及び難民認定法(平成16年法律第73号による改正前のもの、以下「法」という。)
24条4号ロの、Eについて同条7号に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして、平成
15年1月24日、被申立人から各収容令書の発付を受けた上で、同月27日、同各収容令書を執行
し、申立人らを大阪入管審査官に引き渡した。申立人らは、同日、仮放免許可された。
 申立人らは、同年3月ころ、外国人登録上の住所を肩書住所地に変更し、仮放免の指定住居
を肩書住所地に変更する許可を受けた。
 大阪入管入国審査官は申立人らについて、違反審査を実施した結果、同年8月7日、申立人
及びDが法24条4号ロに、Eが同条7号に該当すると認定し、申立人らに対し、それぞれ通知
したところ、申立人らは、口頭審理を請求した。大阪入管特別審査官は、同年9月12日、申立人
らについて、口頭審理を実施した結果、入国審査官の上記認定には誤りがないと判定し、申出
人らにこれを通知した。申立人らは、同日、法務大臣に対して異議の申出をした。
 大阪入管入国警備官は、平成15年10月21日、Cが居住していた大阪市《住所略》(以下「C宅」
という。)を調査したところ、申立人らを発見した。被申立人は、同日、申立人があらかじめ被
申立人の承認を受けることなく、指定住居を変更していたとして、申立人の仮放免許可を取り
消し、申立人は、同日、上記収容令書により大阪入管に収容された。
 法務大臣から権限の委任を受けた大阪入管局長は、同月24日付けで申立人らの異議の申出に
は理由がないとの各裁決をし(以下「本件各裁決」という。)、被申立人は、同月30日、申立人ら
に対し、本件各裁決を通知すると共に、各退去強制令書を発付し、執行した。申立人は、引き続
き大阪入管に収容され、D及びEは、同日、仮放免が許可された。なお、Cは、タイに送還され
た。
 申立人らは、平成15年11月11日、本件各退去処分の取消しを求めて本案事件(大阪地方裁判
所平成15年(行ウ)第100号退去強制令書発付取消請求事件)を提起するとともに、同月13日、
執行停止を申し立てた(大阪地方裁判所平成15年(行ク)第45号退去強制令書発付処分執行停
止申立事件)。大阪地方裁判所は、同年12月24日、申立人について収容部分を含めて本件退去
処分の執行を本案訴訟の第1審判決言渡しの日から30日を経過するまで停止する旨の決定を
- 3 -
した。被申立人は、申立人について収容部分の執行停止について、同月26日、当庁に対し、即時
抗告を申し立てたが、平成16年2月20日、当庁は、同抗告を棄却するとの決定をした。(当庁平
成16年(行ス)第8号)。
 大阪地方裁判所は、平成17年10月20日、本案事件について、申立人らの請求をいずれも棄却
するとの判決をし、同年11月2日、申立人らは、当庁へ控訴した。
3 争点
 重大な損害を避けるための緊急の必要があるとき(行政事件訴訟法25条2項)
(申立人の主張)
ア 要件の緩和
平成16年改正の行政事件訴訟法25条2項では、執行停止の要件が緩和され、「重大な損害」
で足りることとされた。
イ 送還部分について
このまま手続が続行し、申立人らがタイに送還されるときは、申立人らは本案訴訟の訴え
の利益を失い、又は事実上本案訴訟追行の目的を失い、処分の違法性を争うことができなく
なる。また、同訴訟で勝訴の確定判決を得たとしても、送還執行停止前の原状を回復しうる
制度的な保障がなく、再入国が困難である。しかも、仮に送還執行後に訴訟を継続していく
場合、訴訟代理人との打合せ等が困難となり、訴訟追行に大きな障害が生じる。これらの損
害は事後的に回復困難である。
ウ 収容部分について
仮に、送還部分についての執行が停止されても、収容部分の執行が停止されなければ、申
立人には回復困難な損害が生じる。
ア 申立人は、D及びEと自由に会えない状態が相当長期にわたり続くことになり、家庭生
活が完全に破壊される。
イ 重病のBを介護・家事する者が小学6年生のFしかいなくなる。Bも満足な介護を受け
られなくなる。
ウ 申立人には逃亡の恐れはない。
(被申立人の主張)
ア 重大な損害の意義
平成16年改正の行政事件訴訟では、「重大な損害」と文言を改めたことに併せて、同法25
条3項で「重大な損害を生ずるか否かを判断するに当たっては、損害の回復の困難の程度を
考慮するものとし、損害の性質及び程度並びに処分の内容及び性質をも勘案するものとす
る」としているが、これはその判断が損害の性質のみによって行われることなく、損害の程
度並びに処分の内容及び性質を総合考慮して、個々の事案ごとの事情に即して、社会通念上
金銭による回復をもって満足させるのが相当か否かの判断が適正に確保されるように配慮し
たものである。
- 4 -
イ 退去強制令書発付処分の内容及び性質
退去強制手続きは、我が国に好ましくない外国人を強制力をもって国外に排除するという
国内秩序維持のための手続に伴うものであって、退去強制令書の執行による収容は、退去強
制事由のある外国人を送還のために身柄を確保するのみならず、その者を隔離し、我が国に
おけるこれ以上の在留活動を禁止する趣旨を含むものであるから、収容により、その者の移
動の自由が制限され、それに伴って精神的苦痛等の不利益が生じることは当然に予定されて
いる。収容の継続が妥当性を欠くなどの事態を生じた場合には仮放免の制度がある。
ウ 収容部分の執行について
D及びEについては、申立人との同時収容も可能であるし、BやFに対する援助について
は、申立人以外にも対応できる人がいる。もともとBやFと申立人とは別世帯を構成してい
た。
したがって、退去強制令書の収容部分が執行されたことによって生じる精神的損害は、一
般的なものであって、「重大な損害」に当たらない。
 本案について理由がないとみえるとき(行政事件訴訟法25条4項)
(被申立人の主張)
法務大臣は、退去強制事由に該当する外国人について、当該外国人からの異議の申出につい
て裁決する際には、当該外国人の異議の申出に理由がないと認める場合でも、当該外国人につ
いて法50条1項3号にいう「特別に在留を許可すべき事情があると認めるとき」は、在留を特
別に許可することができる。
しかし、この在留特別許可の付与は、法務大臣の裁量権に委ねられており、法務大臣がその
付与された権限の趣旨に明らかに背いて裁量権を行使したものと認め得るような特別の事由が
ある場合等、極めて例外的な場合にのみ、その行使が裁量権の範囲を超え又はその濫用があっ
たものとして違法となると解すべきである。法務大臣から権限の委任を受けた大阪入管局長に
ついても同様である。
本件での次のような事情を考慮すれば、本件各裁決について裁量権の逸脱あるいは濫用を認
める余地はない。
ア 退去強制事由の存在
申立人は、不法に残留する者であり、退去強制事由に該当する。
イ 申立人の入国目的
申立人の入国目的は、我が国で生活することにあり、当初から不法在留することを前提と
していた。
ウ 不法就労
申立人は、入国以来、約4年間にわたって不法残留した上、不法就労していた。
エ C、Bとの関係
申立人はCと内縁関係にあって、C宅で一家4人で居住していた。B及びFとは、別々に
- 5 -
生活していた。Bは、生活保護を受給しており、Fとの生活のための収入は保障されている。
Bは、我が国に入国してからも、頻繁にタイとの間を往復しており、マッサージ店で稼動し
たり、タイ人に不法就労をあっせんしたりしており、およそ他者による介護が不可欠なほど
重篤な状態ではない。また、Bには東大阪市に姪が在住しており、豊中市には、実の娘のGも
居住している。
オ 子の福祉
D及びEは、十分に可塑性に富む年齢であり、タイ人である申立人に伴って帰国するので
あるから、生活環境になじめないとはいえない。
カ 在留特別許可を付与することの悪弊
不法滞在、不法就労していた者が、不法滞在が発覚するや、親族の病状等の個人的事情を
主張することによって、違法行為が看過されることになれば、外国人による同種事案を誘発
することになり、出入国管理行政の適正な遂行を妨げることになる。
(申立人の主張)
本件では、本件裁決が次のとおり裁量を逸脱して違法であるため、本件退去強制令書発付は、
その違法性を承継し、違法である。
ア 事実誤認
被申立人は、申立人らの住居が肩書住所地にあったのにもかかわらず、それをC宅と誤認
した。
イ 就労の事実の評価の誤り
申立人が就労していたのが不法であるとしても、在留特別許可の判断においては申立人に
有利に判断すべきである。
ウ 生活状況・適応状況
申立人らは、我が国での生活に適応し、真面目かつ勤勉に生活している。
エ 母Bの重病とFの福祉
ア 申立人の母Bは、平成13年4月ころから悪性リンパ腫を患っており、他にも高血圧症、
C型肝炎、変形性頸椎症、腰椎症等をも患っている。
イ 従前からBの症状が悪化した際には、申立人がBとFのために家事をする必要があっ
た。
ウ 近時、悪性リンパ腫が悪化して、Bの症状は極めて危機的であり、申立人がBやFのた
めに家事をする必要性がある。 
エ Bの抗ガン剤治療は少なくとも半年間から1年間は続く可能性は高いが、その期間中、
小学校6年生のFが一人で暮らすことは、不可能である。
オ 日本人であるFのために、Bは我が国に住む必要があるが、我が国でBの面倒を見てく
れる人は申立人以外にいない。
カ 申立人が退去強制されれば、FとBのみが我が国に残されることになり、Fの福祉に反
- 6 -
する。
キ したがって、このような状況で申立人らを退去強制することは、B及びFの福祉及び人
道の観点から許されない。
オ タイでの生活が不可能なこと
申立人は、タイの自宅を差し押さえられ、失っており、帰る家も資産もない。
 公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるとき(行政事件訴訟法25条4項)
(被申立人の主張)
退去強制令書の発付を受けた者が抗告訴訟を提起し、併せて退去強制令書の執行停止を申し
立てた場合、単に本案訴訟の提起、係属を理由として安易に送還を停止することとすれば、本
案訴訟が係属している限り、法違反者の送還を長期間にわたって不可能にすることになり、出
入国管理行政の迅速かつ円滑な執行を停滞させることになるから、公共の福祉に重大な影響を
及ぼす。
仮に退去強制令書が発付された外国人に対して、送還部分のみならず収容部分についてまで
その執行を停止することになれば、在留資格及び在留期間の点で管理を全く受けることなく、
放任状態のまま在留させることになる。
これは法が予定しない在留の形態を作り出すことになり、三権分立の建前に反し、在留資格
制度を混乱させることになる。
第3 裁判所の判断
1 重大な損害を避けるため緊急の必要があるときについて
 送還部分について
本件退去強制令書の執行により、申立人がタイへ送還されると、申立人の意思に反して送還
されるものであるから、そのこと自体が重大な損害を生じさせることなる。また、仮に申立人
が本案訴訟で勝訴したとしても、申立人が当然に再入国できるなど、原状回復方法が規定され
ているものではない。申立人は本案訴訟の訴えの利益を失い、又は事実上本案訴訟追行の目的
を失い、処分の違法性を争うことができなくなる。仮に、送還執行後に訴訟を係属していく場
合、訴訟代理人との打合せ等が困難となり、訴訟追行に大きな障害が生じることも予想できる。
したがって、本件強制退去令書に基づく送還によって申立人が被る損害は、原状回復が困難
な損害であって、金銭賠償による損害の回復をもって満足させることが相当でないというべき
であるから、重大な損害に該当する。
このような重大な損害を避けるためには、本件退去強制令書に基づく執行のうち送還部分の
執行を停止すべき緊急の必要があるというべきである。
 収容部分について
D及びEは、母である申立人によって養育監護されてきたものであり、人格形成おいて重要
な幼児期において長期間母親の介護から離されることは、同人らの身体的及び精神的発達に重
大な悪影響を与えることが懸念される。
被申立人は、同人らを申立人と同時収容できることを指摘しているが、同人らを長期間収容
施設に収容すると、それぞれの年齢時に受けるべき学校教育を受ける機会を逸するほか、同人
らの発育等に対する悪影響が生じることが予想できる。
また、申立人の母Bは、一件記録によると、悪性リンパ腫を患っており、他にも高血圧症、C
型肝炎、変形性頸椎症、腰椎症等をも患っていて、症状悪化時には家事・育児に困難を要し、他
者の介助を要するため、申立人が収容されれば、いまだ小学6年生にすぎないFにその負担が
課せられることになるものと認められる。
被申立人は、申立人以外にもBの家事・介護をすることができる人物の存在を示唆するもの
の、これは血縁関係のみからその可能性があるというに止まるものであって、具体性に乏しい。
したがって、申立人が収容されることは、その子D及びEの発育等に重大な影響が生じるも
のであり、また、申立人が扶養義務を負うBやFの生活等にも深刻な影響が生じることが予想
できる。
これらの損害は、原状回復が不可能な損害であって、かつ、金銭賠償によって受忍すべきも
のとは言い難いから、重大な損害に該当する。
このような重大な損害を避けるためには、本件退去強制令書に基づく執行のうち収容部分に
ついても執行を停止すべき緊急の必要があるというべきである。
2 本案について理由がないとみえるときについて
申立人が、本件各裁決についての大阪入管局長の裁量権の行使の違法性について主張するとこ
ろは、主張として明らかに失当といえるものではなく、本案訴訟の第一判決では否定されたもの
ではあっても、控訴審における判断にまつところもあるから、本件について、本案について理由
がないとみえるとすることはできない。
3 公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるときについて
被申立人が主張するところは、いずれも強制退去制度など出入国管理行政の適正な追行に対す
る一般的な影響を述べているにすぎず、具体的に本件退去強制令書に基づく執行を停止すると公
共の福祉に重大な影響を及ぼすといえるだけの事情が生ずるとする根拠となるものではないか
ら、失当である。
第4 結論
よって、申立人の申立ては、理由があるので認容することとし、主文中のとおり決定する。

退去強制令書発付処分取消等請求事件
平成14年(行ウ)第161号
原告:Aほか5名、被告:大阪入国管理局長・大阪入国管理局主任審査官
大阪地方裁判所第2民事部(裁判官:西川知一郎・田中健治・石田明彦)
平成17年11月18日

判決
主 文
1 被告大阪入国管理局長が平成14年8月21日付けで原告らに対してした出入国管理及び難民認
定法(平成16年法律第73号による改正前のもの)49条1項に基づく原告らの異議申出は理由がな
い旨の各裁決をいずれも取り消す。
2 被告大阪入国管理局主任審査官が平成14年8月21日付けで原告らに対してした各退去強制令
書発付処分をいずれも取り消す。
3 訴訟費用は、被告らの負担とする。
事実及び理由
第1 請求
主文と同旨
第2 事案の概要
本件は、中国の国籍を有する外国人であるとされ、架空人名義を用いるなどして日本人Bの孫
ないしその妻子に当たるなどと偽り、「定住者」の在留資格を取得して本邦に不法に上陸し、ある
いは、本邦で出生し、上記架空人の子として「定住者」の在留資格を取得した原告らが、上記不法
入国等の事実が発覚したとして、上陸許可ないし在留資格取得許可が取り消され、出入国管理及
び難民認定法(平成16年法律第73号による改正前のもの。以下「法」という。)24条1号又は7号
に該当する旨の大阪入国管理局(以下「大阪入管」という。)入国審査官の認定及び同認定に誤り
がない旨の大阪入管特別審理官の判定を受け、法務大臣に対し異議の申出をしたのに対し、法務
大臣から権限の委任を受けた被告大阪入国管理局長(以下「被告入管局長」という。)が原告らの
異議の申出は理由がない旨の各裁決(以下「本件各裁決」という。)をし、これを受けて被告大阪
入国管理局主任審査官(以下「被告主任審査官」という。)が原告らに対し退去強制令書を発付し
た(以下「本件各退令発付処分」という。)ため、原告Aの父は日本人であり、原告Cを除くその余
の原告らはいずれも日本国籍を有しているから、退去強制に付すことは許されない、また、原告
Cについても、その妻子が日本国籍を有していることを看過して被告入管局長による裁決がされ
たものであり、裁量権の逸脱ないし濫用に当たり違法であるなどとして、被告入管局長のした本
件各裁決及び被告主任審査官のした本件各退令発付処分の各取消しを求めた事案である。
1 前提となる事実
- 2 -
 当事者 原告C(《日付略》生)、原告A(《日付略》生)、原告D(《日付略》生)及び原告E(《日
付略》生)は、いずれも中国福建省において出生した者であり、原告F’ ことF(《日付略》生。
以下「原告F」という。)は、大阪府において出生した者である。
原告C(夫)と原告A(妻)は夫婦であり、原告D(長女)、原告E(長男)及び原告F(二女)は、
原告C及び原告Aの子である。
原告Aの父は、Gである。
(当事者間に争いのない事実)
 原告らの入国及び在留経緯等
ア 原告Cについて
ア 原告C(申請書の氏名はC’)は、Hを代理人として、平成6年3月24日、広島入国管理
局において、自らが日本人の子であるBこと中国人B’(以下「B」という。)の孫C’(《日
付略》生)であり、法別表第2に掲げる在留資格「定住者」に係る告示である平成2年5月
24日法務省告示第132号「出入国管理及び難民認定法第7条第1項第2号の規定に基づき
同法別表第2の定住者の項の下欄に掲げる地位を定める件」(以下「本件告示」という。)第
4号にいう「日本人の子として出生した者でかつて日本国民として本邦に本籍を有したこ
とがあるものの実子の実子(前3号に該当するものを除く。)に係るもの」に該当するとし
て在留資格認定証明書の交付申請をした。法務大臣は、同申請に対し、平成6年7月14日、
在留資格「定住者」の在留資格認定証明書を交付した。
(乙4号証、当事者間に争いのない事実)
イ 原告Cは、平成6年(1994年)8月19日、Bほか総勢約15名ないし16名とともに名古屋
空港に到着し、名古屋入国管理局(以下「名古屋入管」という。)名古屋空港出張所入国審
査官にC’ 名義の中国旅券を提示した上で上陸申請を行い、同入国審査官から、在留資格
「定住者」、在留期間「1年」とする上陸許可を受けて本邦に上陸した。
(当事者間に争いのない事実)
ウ 原告Cは、平成7年(1995年)7月25日、大阪入管において、法務大臣に対し、C’ 名で
「日本で生活すること」との理由を付して在留期間更新許可申請を行い、同申請に対し、法
務大臣は、同年11月13日、在留期間を「1年」とする在留期間の更新を許可した。
以後、原告Cは、同様に「日本の生活する」との理由を付して3回の在留期間更新申請を
行い、法務大臣は、平成8年(1996年)8月15日及び平成9年(1997年)9月29日にそれ
ぞれ在留期間を「1年」とする許可を、平成11年(1999年)4月13日に在留期間を「3年」
とする許可を行った。
(乙5号証、7号証、当事者間に争いのない事実)
エ 名古屋入管名古屋空港出張所入国審査官は、平成13年1月24日、原告Cが日本人の実子
の実子ではなく、法7条1項2号に規定された上陸の条件に適合していなかったことが判
明したとして、平成6年(1994年)8月19日付けで行われた上陸許可を上陸の日にさかの
- 3 -
ぼって取り消すとともに、これを原告C(上陸許可取消通知書上の氏名はI)に通知した。
なお、同手続は、同出張所入国審査官の依頼により大阪入管入国審査官が行った。
原告Cの上陸許可が取り消されたため、法務大臣は、平成13年1月24日、上記ウ記載の
各在留期間更新許可を取り消し、これを原告C(処分取消通知書上の氏名はC”)に通知し
た。
(乙6号証、7号証、当事者間に争いのない事実)
イ 原告Aについて
ア 原告A(申請書の生年月日は《日付略》)は、C’(原告C)を代理人として、平成7年7月
26日、大阪入管天王寺出張所において、C’ の妻であり、本件告示第5号にいう「1年以上
の在留期間を指定されている定住者の在留資格をもって在留するものの配偶者」に該当す
るとして在留資格認定証明書の交付申請をした。法務大臣は、同申請に対し、同年9月13
日、在留資格「定住者」の在留資格認定証明書を交付した。
(乙9号証、当事者間に争いのない事実)
イ 原告Aは、平成7年(1995年)10月29日、J、原告D及び原告Eとともに関西国際空港
に到着し、大阪入管関西空港支局入国審査官にA(《日付略》生)名義の中国旅券を提示し
た上で上陸申請を行い、同入国審査官から、在留資格「定住者」、在留期間「1年」とする上
陸許可を受けて本邦に上陸した。
(当事者間に争いのない事実)
ウ 原告Aは、「A(《日付略》生)」の身分事項で、平成8年(1996年)10月2日、大阪入管に
おいて、「日本の生活する」との理由を付して在留期間更新許可申請を行い、同申請に対し、
法務大臣は、平成9年(1997年)3月11日、在留期間を「1年」とする在留期間の更新を許
可した。
以後、原告Aは、同様に「日本の生活する」との理由を付して2回の在留期間更新申請を
行い、法務大臣は、同年11月11日に在留期間を「1年」とする許可を、平成11年(1999年)
4月13日に在留期間を「3年」とする許可を行った。
(乙10号証、12号証、当事者間に争いのない事実)
エ 大阪入管入国審査官は、平成13年2月16日、原告Aが法7条1項2号に規定された上陸
の条件に適合していなかったことが判明したとして、平成7年(1995年)10月29日付けで
行われた上陸許可を上陸の日にさかのぼって取り消すとともに、これを原告A(上陸許可
取消通知書上の氏名はA’、生年月日は《日付略》)に通知した。
原告Aの上陸許可が取り消されたため、法務大臣は、平成13年2月16日、上記ウ記載の
各在留期間更新許可を取り消し、これを原告A(処分取消通知書上の氏名はA’、生年月日
は《日付略》)に通知した。
(乙11号証、12号証、当事者間に争いのない事実)
ウ 原告Dについて
- 4 -
ア 原告D(申請書の氏名はD’、生年月日は《日付略》)は、C’(原告C)を代理人として、
平成7年7月26日、大阪入管天王寺出張所において、C’ の子であり、本件告示第6号にい
う「1年以上の在留期間を指定されている定住者の在留資格をもって在留するものの扶養
を受けて生活するこれらの者の未成年で未婚の実子」に該当するとして在留資格認定証明
書の交付申請をした。法務大臣は、同申請に対し、同年9月13日、在留資格「定住者」の在
留資格認定証明書を交付した。
(乙13号証、当事者間に争いのない事実)
イ 原告Dは、平成7年(1995年)10月29日、原告A、J及び原告Eとともに関西国際空港
に到着し、大阪入管関西空港支局入国審査官にD’ 名義の中国旅券を提示した上で上陸申
請を行い、同入国審査官から、在留資格「定住者」、在留期間「1年」とする上陸許可を受け
て本邦に上陸した。
(当事者間に争いのない事実)
ウ 原告Dは、D’ 名で、平成8年(1996年)10月2日、大阪入管において、「日本の生活す
る」との理由を付して在留期間更新許可申請を行い、同申請に対し、法務大臣は、平成9年
(1997年)3月11日、在留期間を「1年」とする在留期間の更新を許可した。
以後、原告Dは、同様に「日本の生活する」との理由を付して2回の在留期間更新申請を
行い、法務大臣は、同年11月11日に在留期間を「1年」とする許可を、平成11年(1999年)
4月13日に在留期間を「3年」とする許可を行った。
(乙14号証、16号証、当事者間に争いのない事実)
エ 大阪入管入国審査官は、平成13年2月16日、原告Dが法7条1項2号に規定された上陸
の条件に適合していなかったことが判明したとして、平成7年(1995年)10月29日付けで
行われた上陸許可を上陸の日にさかのぼって取り消すとともに、これを原告D(上陸許可
取消通知書上の氏名はD”)に代わり母である原告Aに通知した。
原告Dの上陸許可が取り消されたため、法務大臣は、平成13年2月16日、上記ウ記載の
各在留期間更新許可を取り消し、これを原告D(処分取消通知書上の氏名はD”)に代わり
母である原告Aに通知した。
(乙15号証、16号証、当事者間に争いのない事実)
エ 原告Eについて
ア 原告E(申請書の氏名はE’、生年月日は《日付略》)は、C’(原告C)を代理人として、
平成7年7月26日、大阪入管天王寺出張所において、C’ の子であり、本件告示第6号にい
う「1年以上の在留期間を指定されている定住者の在留資格をもって在留するものの扶養
を受けて生活するこれらの者の未成年で未婚の実子」に該当するとして在留資格認定証明
書の交付申請をした。法務大臣は、同申請に対し、同年9月13日、在留資格「定住者」の在
留資格認定証明書を交付した。
(乙17号証、当事者間に争いのない事実)
- 5 -
イ 原告Eは、平成7年(1995年)10月29日、原告A、J及び原告Dとともに関西国際空港
に到着し、大阪入管関西空港支局入国審査官にE’ 名義の中国旅券を提示した上で上陸申
請を行い、同入国審査官から、在留資格「定住者」、在留期間「1年」とする上陸許可を受け
て本邦に上陸した。
(当事者間に争いのない事実)
ウ 原告Eは、E’ 名で、平成8年(1996年)10月2日、大阪入管において、「日本の生活す
る」との理由を付して在留期間更新許可申請を行い、同申請に対し、法務大臣は、平成9年
(1997年)3月11日、在留期間を「1年」とする在留期間の更新を許可した。
以後、原告Eは、同様に「日本の生活する」との理由を付して2回の在留期間更新申請を
行い、法務大臣は、同年11月11日に在留期間を「1年」とする許可を、平成11年(1999年)
4月13日に在留期間を「3年」とする許可を行った。
(乙18号証、20号証、当事者間に争いのない事実)
エ 大阪入管入国審査官は、平成13年2月16日、原告Eが法7条1項2号に規定された上陸
の条件に適合していなかったことが判明したとして、平成7年(1995年)10月29日付けで
行われた上陸許可を上陸の日にさかのぼって取り消すとともに、これを原告E(上陸許可
取消通知書上の氏名はE”)に代わり母である原告Aに通知した。
原告Eの上陸許可が取り消されたため、法務大臣は、平成13年2月16日、上記ウ記載の
各在留期間更新許可を取り消し、これを原告E(処分取消通知書上の氏名はE”)に代わり
母である原告Aに通知した。
(乙19号証、20号証、当事者間に争いのない事実)
オ 原告Fについて
ア 原告Fは、《日付略》、大阪府において、父を原告C、母を原告Aとして出生した。
原告F(申請書の氏名はF’)は、C’(原告C)を代理人として、同月20日、大阪入管に
おいて、C’ の子であり、本件告示第6号にいう「1年以上の在留期間を指定されている定
住者の在留資格をもって在留するものの扶養を受けて生活するこれらの者の未成年で未婚
の実子」に該当するとして在留資格取得許可申請をした。法務大臣は、同申請に対し、平成
11年4月13日、在留資格「定住者」及び在留期間「3年」とする在留資格の取得を許可した。
(乙22号証、当事者間に争いのない事実)
イ 法務大臣は、平成13年2月16日、処分に重大な瑕疵があることが判明したとして、原告
Fに対する平成11年4月13日付け在留資格取得許可を取消し、これを原告F(処分取消通
知書上の氏名はF’)に代わり母である原告Aに通知した。
(乙23号証、当事者間に争いのない事実)
 原告らに対する退去強制令書発付に至る経緯
ア 原告Cについて
ア 大阪入管入国警備官は、平成13年8月2日、原告Cについて法24条1号にいう「第3条
- 6 -
の規定に違反して本邦に入った者」に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして、
被告主任審査官から収容令書の発付を受けた上で、同月7日、大阪入管茨木分室において
同収容令書を執行し、同日、大阪入管入国審査官に引き渡した。
原告Cは、同日、仮放免許可された。
(当事者間に争いのない事実)
イ 大阪入管入国審査官は、平成13年12月14日、原告Cについて法24条1号に該当する旨
の認定を行い、原告Cにこれを通知したところ、原告Cは、同日、口頭審理を請求した。
(当事者間に争いのない事実)
ウ 大阪入管特別審理官は、平成14年2月18日、入国審査官のイ記載の認定には誤りがない
旨判定し、原告Cにこれを通知したところ、原告Cは、同日、法務大臣に対し異議の申出を
した。
(当事者間に争いのない事実)
エ 法務大臣から権限の委任を受けた被告入管局長は、平成14年7月17日付けで、原告Cの
異議の申出は理由がない旨の裁決(本件各裁決中、原告Cに係るもの)をした。被告主任審
査官は、同裁決を受けて、同年8月21日、原告Cに同裁決を通知すると共に、退去強制令
書を発付(本件各退令発付処分中、原告Cに係るもの)し、大阪入管入国警備官は、同日、
大阪入管茨木分室においてこれを執行し、原告Cを大阪入管収容場に収容した。
原告Cは、同日、仮放免許可された。
(当事者間に争いのない事実)
イ 原告Aについて
ア 大阪入管入国警備官は、平成13年8月2日、原告Aについて法24条1号にいう「第3条
の規定に違反して本邦に入った者」に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして、
被告主任審査官から収容令書の発付を受けた上で、同月7日、大阪入管茨木分室において
同収容令書を執行し、同日、大阪入管入国審査官に引き渡した。
原告Aは、同日、仮放免許可された。
(当事者間に争いのない事実)
イ 大阪入管入国審査官は、平成13年12月18日、原告Aについて法24条1号に該当する旨
の認定を行い、原告Aにこれを通知したところ、原告Aは、同日、口頭審理を請求した。
(当事者間に争いのない事実)
ウ 大阪入管特別審理官は、平成14年2月18日、入国審査官のイ記載の認定には誤りがない
旨判定し、原告Aにこれを通知したところ、原告Aは、同日、法務大臣に対し異議の申出を
した。
(当事者間に争いのない事実)
エ 法務大臣から権限の委任を受けた被告入管局長は、平成14年7月17日付けで、原告Aの
異議の申出は理由がない旨の裁決(本件各裁決中、原告Aに係るもの)をした。被告主任審
- 7 -
査官は、同裁決を受けて、同年8月21日、原告Aに同裁決を通知すると共に、退去強制令
書を発付(本件各退令発付処分中、原告Aに係るもの)し、大阪入管入国警備官は、同日、
大阪入管茨木分室においてこれを執行し、原告Aを大阪入管収容場に収容した。
原告Aは、同日、仮放免許可された。
(当事者間に争いのない事実)
ウ 原告Dについて
ア 大阪入管入国警備官は、平成13年8月2日、原告Dについて法24条1号にいう「第3条
の規定に違反して本邦に入った者」に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして、
被告主任審査官から収容令書の発付を受けた上で、同月7日、大阪入管茨木分室において
同収容令書を執行し、同日、大阪入管入国審査官に引き渡した。
原告Dは、同日、仮放免許可された。 
(当事者間に争いのない事実)
イ 大阪入管入国審査官は、平成13年12月18日、原告Dについて法24条1号に該当する旨
の認定を行い、原告D(代理人原告A)にこれを通知したところ、原告D(代理人原告A)は、
同日、口頭審理を請求した。
(当事者間に争いのない事実)
ウ 大阪入管特別審理官は、平成14年2月18日、入国審査官のイ記載の認定には誤りがない
旨判定し、原告D(代理人原告A)にこれを通知したところ、原告D(代理人原告A)は、
同日、法務大臣に対し異議の申出をした。
(当事者間に争いのない事実)
エ 法務大臣から権限の委任を受けた被告入管局長は、平成14年7月17日付けで、原告Dの
異議の申出は理由がない旨の裁決(本件各裁決中、原告Dに係るもの)をした。被告主任審
査官は、同裁決を受けて、同年8月21日、原告D(代理人原告A)に同裁決を通知すると共
に、退去強制令書を発付(本件各退令発付処分中、原告Dに係るもの)し、大阪入管入国警
備官は、同日、大阪入管茨木分室においてこれを執行し、原告Dを大阪入管収容場に収容
した。
原告Dは、同日、仮放免許可された。
(当事者間に争いのない事実)
エ 原告Eについて
ア 大阪入管入国警備官は、平成13年8月2日、原告Eについて法24条1号にいう「第3条
の規定に違反して本邦に入った者」に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして、
被告主任審査官から収容令書の発付を受けた上で、同月7日、大阪入管茨木分室において
同収容令書を執行し、同日、大阪入管入国審査官に引き渡した。
原告Eは、同日、仮放免許可された。
(当事者間に争いのない事実)
- 8 -
イ 大阪入管入国審査官は、平成13年12月18日、原告Eについて法24条1号に該当する旨
の認定を行い、原告E(代理人原告A)にこれを通知したところ、原告E(代理人原告A)は、
同日、口頭審理を請求した。
(当事者間に争いのない事実)
ウ 大阪入管特別審理官は、平成14年2月18日、入国審査官のイ記載の認定には誤りがない
旨判定し、原告E(代理人原告A)にこれを通知したところ、原告E(代理人原告A)は、
同日、法務大臣に対し異議の申出をした。
(当事者間に争いのない事実)
エ 法務大臣から権限の委任を受けた被告入管局長は、平成14年7月17日付けで、原告Eの
異議の申出は理由がない旨の裁決(本件各裁決中、原告Eに係るもの)をした。被告主任審
査官は、同裁決を受けて、同年8月21日、原告E(代理人原告A)に同裁決を通知すると共
に、退去強制令書を発付(本件各退令発付処分中、原告Eに係るもの)し、大阪入管入国警
備官は、同日、大阪入管茨木分室においてこれを執行し、原告Eを大阪入管収容場に収容
した。
原告Eは、同日、仮放免許可された。

難民認定をしない処分取消請求控訴事件
平成16年(行コ)第347号(原審:東京地方裁判所平成12年(行ウ)第181号)
控訴人:法務大臣、被控訴人:A
東京高等裁判所第8民事部(裁判官:原田敏章・氣賀澤耕一・渡部勇次)
平成17年12月1日
判決
主 文
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
1 控訴人
 原判決を取り消す。
 被控訴人の請求を棄却する。
 訴訟費用は、第1、2審とも被控訴人の負担とする。
2 被控訴人
主文と同旨
第2 事案の概要
1 本件は、ミャンマー連邦の国籍を有する被控訴人A(原審原告)が、控訴人(原審被告)に対し、
出入国管理及び難民認定法(以下「法」という。)による難民認定の申請をしたところ、控訴人か
ら、難民性を認定するに足りる証拠がないとして、平成11年5月24日付けで難民の認定をしない
旨の処分(以下「本件処分」という。)を受けたため、本件処分には難民性の判断を誤るなどの違
法があると主張して、その取消しを請求した事案である。
原審は、被控訴人からの本件処分の取消請求を認容した。そこで、控訴人が原判決を不服とし
て控訴に及んだ。
2 前提となる事実(当事者間に争いがない。)は、原判決の「事実及び理由」欄の「第2 事案の概
要及び争点」の1のないしに記載(原判決3頁7行目から4頁8行目まで)のとおりである
から、これを引用する。
3 争点及び争点に関する双方の主張は、原判決の「事実及び理由」欄の「第2 事案の概要及び争
点」の2ないし4に記載(原判決4頁9行目から23頁17行目まで)のとおりであるから、これを
引用する。ただし、原判決9頁20行目から21行目にかけての「特殊性をかんがみれば」を「特殊
性にかんがみれば」に改め、12頁21行目の「率先し行って」を「率先して行って」に改める。
4 控訴人の控訴理由の骨子
- 2 -
被控訴人は、ミャンマーにおいて、1978年(昭和53年)に国立大学であるB大学を卒業し、政
府から許可を受けて学習塾を開き、また、特にすべてのビデオが政府の検閲下にある状況のもと
で、1985年(昭和60年)以降、政府から許可を受けて10年以上にわたり貸しビデオ店を経営して
いたものであり、1997年(平成9年)7月25日、ミャンマー政府から正規に旅券の発給を受け、
1998年(平成10年)4月27日に旅券に渡航先国の追加を行い、同年5月20日には旅券に渡航目的
の追加を行った上で、同年6月16日に何らの問題もなく正規に本国を出国するなどしているので
あって、被控訴人がミャンマー政府から迫害の対象とされていたとは認め難い客観的事情が存在
しているのである。
上記の点を踏まえて被控訴人の供述等の信用性を検討すると、その供述等の全体に信用性を認
めることあるいは少なくともその基本的な部分に信用性を認めることは到底できず、したがっ
て、被控訴人が「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」ものと認め
るに足りる証拠はないのである。この点、原判決は、被控訴人の供述等に信用性を認め、これに基
づいて被控訴人が難民に該当するものと認めたのであるが、被控訴人の供述等の信用性について
の評価を誤ったもので不当である。
第3 当裁判所の判断
1 本件の争点は、被控訴人の難民該当性の有無、本件処分に附記された理由の不備の有無、
の2点である。
そこで、まず、被控訴人の難民該当性の有無について判断するが、被控訴人が難民であるか否
かは、法第2条第3号の2に定義する「難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)第1
条の規定又は難民の地位に関する議定書第1条の規定により難民条約の適用を受ける難民」に該
当するか否かによって決定される。すなわち、被控訴人が「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会
的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由
のある恐怖を有するために、国籍国(ミャンマー)の外にいる者であって、そのような恐怖を有す
るためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」(難民条約第1条A及び難民の地位
に関する議定書第1条2参照)」に該当すれば、控訴人は被控訴人を難民として認定しなければな
らないことになる(法第61条の2第1項)。
本件においては、被控訴人が上記の「特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を
理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」ものとの要件を満たす
か否かが実質的な争点であるので、以下、その見地から、被控訴人の難民該当性の有無について
判断することとする。
2 被控訴人の出身国情報
関係証拠及び弁論の全趣旨によって認められる被控訴人の国籍国であるミャンマーの状況等に
ついては、原判決の「事実及び理由」欄の「第3 争点に対する判断」の2に記載(原判決23頁23
行目から27頁末行まで)のとおりであるから、これを引用する。ただし、原判決26頁23行目から
24行目にかけての「立入りの拒否を」の次に「1999年(平成11年)5月ころまで(乙37の1ない
- 3 -
し3)」を加える。
3 原審における被控訴人の供述等
被控訴人の原審本人尋問における供述及び陳述書(甲2)の記載(以下、まとめて「被控訴人の
供述等」という。)の要旨は、原判決の「事実及び理由」欄の「第3 争点に対する判断」の3に
記載(原判決28頁5行目から32頁2行目まで)のとおりであるから、これを引用する。
ただし、原判決28頁13行目の「原告の弟は、」の次に「1985年(昭和60年)、《地名略》州独立の
ために戦う」を加え、29頁24行目の「努め」を「務め」に改め、30頁6行目の「原告はこれに参加し、
青年部の」を「原告はNLDに入党し、下部組織であるNLD《地名略》州北部支部青年部の」に改め、
31頁2行目から7行目までを下記のとおり改め、同頁18行目の「就職先の会社が、」の次に「部品
調達のために」を加え、同頁25行目の「努めている」を「務めている」に改める。
「コ ところで、原告の経営する貸しビデオ店については、1997年(平成9年)3月ころ、店舗
内の営業用機器やビデオテープ100本以上が軍情報部に押収されたことから、廃業に至った。こ
のような押収を受けた理由は、公式には明らかにされていないが、原告としては、原告が1995年
(平成7年)7月に自宅軟禁から解放されたCの演説等を収録したビデオを複写して貸し出すな
どしていたことが原因であると考えている。
原告は、1997年(平成9年)5月ころ、自分の身に危険が迫った場合には国外に出ることを考
えて、用事でヤンゴンに行った際に旅券を取得するための申請手続をし、賄賂を用いて、同年7
月25日に旅券(乙1)の発給を受けた。この旅券には、1998年(平成10年)5月にブローカーを
通じて「商用目的」の追加を行った。」
4 当審における証人Dの証言等
当審証人Dの証人尋問における証言及び陳述書(甲40)の記載(以下、まとめて「Dの証言等」
という。)の要旨は、以下のとおりである。
 Dは、《日付略》にミャンマー(当時のビルマ)のマンダレーで生まれ、被控訴人とは幼なじ
みであった。1974年(昭和49年)9月にE経済大学に入学し、1978年(昭和53年)11月に同大
学を卒業した。その後はマンダレーで洋服の生地などを売る店を経営していた。現在、日本政
府から難民認定を受けて、日本に居住している。妹が1980年(昭和55年)に被控訴人と結婚し
ている。 
 ミャンマーでは、1988年(昭和63年)3月のヤンゴンでの軍事独裁政権に対する反政府運動
がマンダレーにも波及した。Dは、同年8月8日のマンダレーでの反政府デモに参加し、同月
12日に設立された「上ビルマイスラム教徒同盟」の書記長に就任するなどして反政府運動に関
与しため、警察に追われる身となり、同年9月25日に自らマンダレーの国軍大隊本部に出頭し
て、警察に逮捕され、そのまま1989年(平成元年)2月10日までマンダレー刑務所に収容され
ていた。Dは、刑務所から出た翌日である同年2月11日にNLDに入党し、1996年(平成8年)
9月にミャンマーを出国するまで、NLDの区組織委員会のメンバーになったりあるいはマンダ
レー管区調査局の担当員になったりするなどの活動をしていた。
- 4 -
 Dは、1989年(平成元年)3月にラショーの主要な民主化活動家であったFにNLD《地名略》
州北部支部議長になってくれるように説得に行き、説得に成功したが、その際に同行してくれ
たNLD党員の一人が被控訴人であり、それから活動家としての付き合いが始まった。
当時、被控訴人は、NLD青年部の一員で、NLD党員や支持者を拡大するために重要な役割を
担っていた。被控訴人は1990年(平成2年)の総選挙の際には、NLD《地名略》州北部支部の選
挙対策委員会の委員であり、同支部において投票所責任者に選ばれている。1990年(平成2年)
5月の総選挙では、NLDが議席の82%を獲得したが、軍事政権はNLDに政権を委譲せず、む
しろ弾圧を加えた。
 1995年(平成7年)7月にCが自宅軟禁から解放されて週末ごとに自宅前で対話集会を開き、
演説をしたりしていたが、その演説等のビデオを広める(複写して配布する)のに被控訴人が
ラショーで経営していたビデオ店も重要な役割を担っていた。ヤンゴンから来る演説等のビデ
オをラショーからマンダレーに買物にやって来る商人に託して被控訴人に渡してもらっていた
のは、1995年(平成7年)10月〜11月ころから1996年(平成8年)4月ころまでである。
 Dは、1996年5月26日から28日まで、複数政党制による選挙施行の6周年記念として、ヤン
ゴンのNLD本部での第1回総会に参加し、憲法起草委員会の委員として新憲法の基本原則の
起草に係わり、総会後もしばらくヤンゴンにとどまっていたが、総会に参加して先にマンダレ
ーに戻ったNLD党員が次々と逮捕されている状況の中で、身の危険を感じ、軍情報部による逮
捕を逃れるためにラショーに行くことにした。被控訴人は、ラショーに着いたDを案内して、
自動車で20分ほどのところにあるGに連れて行き、同村の知人のところに2週間ほどDを匿っ
た。
 Dは、上記のとおりGに身を隠した後、ヤンゴンに戻り、逮捕を免れるために国外に脱出す
ることを計画し、1996年(平成8年)7月25日に高額の金員を渡したブローカーを通じて旅券
を取得し、同年9月25日にミャンマーを出国した。
その間の同年9月22日、Dは、友人の弁護士から、欠席裁判で7年の刑の判決が出ているこ
とを聞かされ、また、妻から、同月24日にマンダレーの自宅が軍によって家宅捜索されて文書
や写真などが押収されたことを聞かされた。
 Dは、1996年(平成8年)9月25日にミャンマーを出国し、同年11月17日に日本に入国し、
同年12月26日に難民認定の申請をし、1999年(平成11年)2月2日に日本において難民認定を
受けた。
5 被控訴人の供述等の信憑性及びDの証言等の信憑性について
 被控訴人の供述等の信憑性について
当裁判所も、前記3の原審における被控訴人の供述等については、少なくともその基本的な
部分について十分に信憑性があるものと判断する。その理由は、原判決の「事実及び理由」欄の
「第3 争点に対する判断」の3に記載(原判決32頁4行目から37頁2行目まで)のとおり
であるから、これを引用する。ただし、原判決32頁5行目の「前記1」を「前記2」に改め、同
- 5 -
頁末行の「7月」を「5月」に改め、33頁1行目の「同月15日」を「同年7月15日」に改め、同頁
4行目冒頭の「会員党」を「会員」に改め、同頁12行目の「NLD《地名略》州支部」を「NLD《地
名略》州北部支部」に改め、34頁20行目から21行目にかけての「少なくとも1988年(昭和63年)
ころからは」を「1995年(平成7年)7月に自宅軟禁から解放された」に改め、35頁21行目の「昭
和58年」を「昭和53年」に改める。
なお、被控訴人の難民認定申請の際の供述書(乙4の2)中のSSLAとの係わりに関する部分
や軍諜報局員による拘留・尋問に関する部分について、あるいは、被控訴人の難民調査官に対
する供述調書(乙7)中の1998年3月若しくは4月ころのDとの係わりに関する部分について、
それぞれ正確性を欠いた記載があること(いずれも被控訴人が原審の本人尋問において自認し
ている。)や、ミャンマーで1990年(平成2年)5月に行われた総選挙の際に被控訴人がNLD
から特定地区の投票所の責任者に任命された書面(甲3)の趣旨についての被控訴人の原審で
の供述が変遷していることも、被控訴人の供述等の基本的な部分についての信憑性に影響を与
えるものではないというべきである。
 Dの証言等の信憑性について
前記4に記載したDの証言等についても、その内容は具体的であって特に不自然・不合理な
点はなく、少なくともその基本的な部分については十分に信憑性があるものと判断される。D
が被控訴人の義兄(被控訴人の妻の兄)であることから被控訴人のためにことさらに虚偽の証
言をしあるいは虚偽の内容の陳述書を作成したことを窺わせるような事情は認められない。
したがって、Dの証言等によっても、前記3の原審における被控訴人の供述等の基本的な部
分についての信憑性が裏付けられるものというべきである。
 なお、被控訴人がミャンマー政府から正規に旅券の発給を受けて適法にミャンマーを出国し
た事実については、たしかに、それは被控訴人がミャンマー政府から反政府運動の中心人物と
して特に注目され警戒されるほどの積極的な反政府活動家ではなかったことを推測させるもの
ではある。しかしながら、被控訴人が賄賂を用いて旅券を入手したことをしばらく措くとして
も、ミャンマー政府においても、国内の反政府活動家を迫害することは人道的見地から国際的
非難を浴びることになろうから、そうした非難をできるだけ避けるためにも、政府にとって好
ましからざる人物が自らミャンマー国外に出国することをむしろ歓迎し、たとえ出国者が反政
府活動家であることを把握していたとしても、その出国者が反政府運動の中心人物でない場合
にはあえて出国を阻止しなかった可能性も十分にあると考えられるのであるから、反政府運動
の中心人物としては特に注目され警戒されていなかった被控訴人がミャンマー政府から正規に
旅券の発給を受けて適法にミャンマーを出国したからといって、そのことと被控訴人がNLD
に所属する反政府活動家であって政府にとって好ましからざる人物であったこととの間に直ち
に矛盾があるものとはいえないというべきであり、この点の供述等が不自然・不合理なものと
して前記の被控訴人の供述等の信憑性が失われるものではないというべきである。我が国で難
民と認定されたD自身もブローカーを通じてミャンマー政府から正規に旅券の発給を受け、適
- 6 -
法にミャンマーを出国しているのである。法務省入国管理局e作成の報告書(乙22)も未だ上
記の判断を左右するには至らない。
6 被控訴人の難民該当性について
 上記5で検討したとおり、前記3の被控訴人の供述等は少なくともその基本的な部分におい
て信用することができるものであり、前記4のDの証言等も少なくともその基本的な部分にお
いて信用することができるものである。そして、これらによれば、被控訴人は、ミャンマー国籍
を有する本件処分当時46歳の男性で、1998年(平成10年)6月にミャンマーを出国して我が国
に入国し、現在、国籍国の外にあるものであるところ、① 被控訴人は、大学生のときの1974
年(昭和49年)ころから反政府運動に加わるようになり、② 1978年(昭和53年)に国立大学
を卒業した後、故郷のラショーに帰って学習塾を開いたが、子供たちの前で政府(軍事政権)を
批判したことから、1985年(昭和60年)に軍情報部よって塾の閉鎖を命じられ、③ その後、
貸しビデオ店を開業したが、1988年(昭和63年)8月にラショーで行われた民主化を求めるデ
モに青年グループのリーダーとして参加し、そして、同年9月にNLDが結成されるや、直ちに
これに入党して《地名略》州北部支部青年部の組織部長となり、以後、NLD党員として反政府
活動を行っていたものであり、1989年(平成元年)には軍情報部から尋問を受けたこともあり、
④ 1990年(平成2年)5月にミャンマーで複数政党制による総選挙が行われた際には、NLD
から特定地区の投票所の責任者に任命され、党務としてNLDの勝利のために活動し、⑤ こ
の総選挙によってCの率いるNLDが圧勝したものの、SLORCから政権委譲が行われなかった
ため、なおも反政府活動を継続し、⑥ 1995年(平成7年)7月にCがようやく自宅軟禁から
解放されて、週末ごとに自宅前で市民との対話集会を開き、演説等を行うと、被控訴人におい
て折から貸しビデオ店を経営していたことから、その様子を収録したビデオを複製して貸し出
すことを始め、そのためにこれを知った軍情報部から1997年(平成9年)3月ころに貸しビデ
オ店の閉鎖を命じられ、⑦ この間の1996年(平成8年)5月ころには、NLD党員でそのころ
軍情報部から追われていた義兄のDをラショー付近の小村に匿い、⑧ そして、1997年(平成
9年)5月ころには、自分の身に危険が迫った場合に備えて旅券の申請し、賄賂を用いて、同年
7月に旅券の発給を受け、貸しビデオ店を廃業した同年8月ころに家族をラショーに残してヤ
ンゴンに転居し、自動車部品会社に就職していたところ、翌1998年(平成10年)5月にSSAの
関係者2名がCの自宅前でビラを配布していて逮捕され、また、ラショーに住んでいる妹から
「軍情報部の関係者が来て被控訴人がどこに住んでいるのかを聞いて行った。」旨の連絡を受け
たことから、自らが逮捕される危険性が迫っているものと感じて出国を決意し、たまたま就職
先の会社が部品調達のために被控訴人を日本に派遣したいということであったことから、上記
の旅券により同年6月16日にミャンマーを出国し、翌同月17日に我が国に入国し、⑨ 我が国
に入国後は直ちにNLD-LAのメンバーとなり、同年8月に難民認定の申請をしたものである。
⑩ なお、我が国で難民認定を受けた上記Dは被控訴人の妻の兄であり、また、被控訴人の弟
は《地名略》州独立のためにミャンマー政府と戦うSSAのメンバーである。
- 7 -
 上記①ないし⑩の事実を総合考慮し、これに、ミャンマー国内においてはNLD党員に対して
迫害が行われているという一般的な政治情勢をも加えて検討すると、たとえ被控訴人がミャン
マー政府から反政府運動の中心人物として特に注目され警戒されるほどの積極的な反政府活動
家ではなかったとしても、少なくとも被控訴人はNLDに所属する反政府活動家として政府に
とって好ましからざる人物として忌避の対象となる存在であったことは否定できず、平成11年
5月24日の本件処分時において、被控訴人は「特定の社会的集団の構成員であること又は政治
的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」ものであっ
たというべきである。すなわち、被控訴人が平成11年5月24日当時にミャンマーに帰国した場
合には、被控訴人は我が国に入国する前の活動や我が国に入国した後の言動等を理由にミャン
マー政府あるいは軍情報部によって身柄を拘束されあるいは通常人において受忍し得ないよう
な身体的自由に対する不当な圧迫を受ける具体的な可能性が少なからずあったものというべき
である。
 被控訴人が国立大学を卒業していること、ミャンマー政府から許可を受けて学習塾を開いて
いたこと、すべてのビデオが政府の検閲下にある状況の中で被控訴人が政府から許可を受けて
10年以上にわたり貸しビデオ店を経営していたこと、被控訴人が貸しビデオ店を廃業するに当
たり政府や軍情報部から逮捕されたり処罰を受けたりしたことがないこと、そして、被控訴人
は政府から正規に旅券の発給を受け、これによって何ら問題なく適法にミャンマーを出国した
ものであること、さらに、被控訴人がミャンマーに残している妻子も現在まで政府から迫害を
受けてはいないこと、等も、未だ上記判断を左右するには足りないものというべきである。な
お、被控訴人がその出国当時において我が国で就労して得た金銭をミャンマーの家族に送りた
いとの気持を有しており現にその後送金をしているとしても、そのことと被控訴人が難民であ
ることとが直ちに矛盾するものではないというべきである。
7 まとめ
以上の検討によれば、被控訴人は法第2条第3号の2に定義する難民に該当するものと認めら
れるから、被控訴人が難民に該当することを認めるに足りる資料がないことを理由としてなされ
た本件処分は違法なものといわざるを得ない。
したがって、本件処分の取消しを求める被控訴人の本件請求は、理由附記の不備の点について
判断するまでもなく、理由があるからこれを認容すべきである。
第4 結論
よって、被控訴人の請求を認容した原判決は相当であり、本件控訴は理由がないからこれを棄
却することとして、主文のとおり判決する。

収容の執行停止決定に対する抗告事件
平成17年(行ス)第86号
東京高等裁判所第10民事部(裁判官:大内俊身・江口とし子・大野和明)
平成17年12月13日
決定
主 文
本件抗告を棄却する。
抗告費用は抗告人の負担とする。
理 由
1 本件抗告の趣旨は、原決定を取消し、本件申立てを却下する旨の裁判を求めるというのであり、
その理由は、別紙抗告理由書に記載のとおりである。
2 当裁判所も、本件退去強制令書に基づく執行は、本案事件の第1審判決の言渡しの日から起算し
て15日後まで停止するのが相当と判断するが、その理由は、原決定が説示するとおりである。
抗告理由は、「留学」の在留資格を有する外国人が経費支弁能力を失い、資格外の報酬を受ける活
動を行って、その活動が本邦滞在中の必要経費を賄おうとする程度にまで至っている場合には、在
留目的たる活動が「留学」から変更されたことになる旨主張するが、原決定が説示するように、相手
方が本件退去強制の事由である「報酬を受ける活動を専ら行っていると明らかに認められる者」に
当たるかどうかについては、相手方の本邦における学生としての生活及び就労等の状況、就労に至
った経緯、学費及び生活費の支出の状況、本国からの送金の状況及び使途等並びにこれらの事実の
評価等に関し、更に本案における審理を尽くす必要があるのであって、現時点において、相手方の
在留目的たる活動が「留学」から変更されたものと直ちに認めることはできない。そして、相手方
の上記在留資格にかんがみれば、極めて計画的かつ意欲的に学業に励んでいた若年の相手方にとっ
て、収容が更に継続されることによって学業に支障を生ずることによる不利益は、回復が容易でな
く重大なものということができ、原決定にいう特段の事情が認められることも、原決定の説示する
とおりである。
3 よって、本件抗告は理由がないので棄却することとし、主文のとおり決定する。

在留特別許可不許可に対する異議申出に理由がないとした裁決取消等請求控訴事件
平成17年(行コ)第222号(原審:横浜地方裁判所 平成15年(行ウ)第31号)
控訴人:東京入国管理局長、被控訴人:A
東京高等裁判所第11民事部(裁判官:富越和厚・桐ヶ谷敬三・佐藤道明)
平成18年1月18日
判決
主 文
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人の請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用は、第1、2審とも被控訴人の負担とする。
事実及び理由
第1 控訴の趣旨
主文同旨
第2 事案の概要
1 被控訴人は、《日付略》に中華人民共和国(以下「中国」という。)で生まれ、中国の国籍を有す
る女性であり、平成7年6月14日日本人男性と偽装結婚をし、在留資格「日本人の配偶者等」、在
留期間「6月」として上陸許可を受けて、同年10月17日に中国から日本に入国し、在留期間の更
新又は変更を受けないで上記在留期間(平成8年4月17日まで)を経過して不法に日本に残留し
ていたが、平成12年8月ころから同居していた日本人B(《日付略》生。)と平成13年1月30日に
養子縁組を行ったことから、Bとの生活を続けることを希望し、同年7月19日東京入国管理局横
浜支局に出頭し、上記不法残留事実を申告した。
しかし、出入国管理及び難民認定法(平成15年法律第65号による改正前のもの。以下「法」と
いう。)24条4号ロに該当する旨の入国審査官の認定(法47条2項)と、同認定には誤りがない旨
の特別審理官の判定(法48条7項)を受けたことから、平成15年5月2日、法務大臣に対し法49
条1項の規定による異議の申出をしたところ、法務大臣から権限の委任を受けた控訴人東京入国
管理局長(以下「控訴人入管局長」という。)は、同月7日、上記異議の申出に理由がない旨の裁決
を行い(法49条3項。以下「本件裁決」という。)、本件裁決の通知を受けた控訴人東京入国管理局
横浜支局主任審査官(以下「控訴人主任審査官」という。)は、同日、被控訴人に対し、退去強制令
書を発付した(法49条5項。以下「本件退去強制令書発付処分」という。)。
本件は、被控訴人が、控訴人入管局長がした本件裁決は、被控訴人に対し法50条1項3号の規
定に基づく在留特別許可を付与しないという判断を前提としたものであって、裁量権を逸脱又は
濫用した違法なものであり、したがって、控訴人主任審査官がした本件退去強制令書発付処分も
違法である等と主張して、控訴人入管局長に対しては本件裁決の取消しを、控訴人主任審査官に
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対しては本件退去強制令書発付処分の取消しを各求めた事案である。
原審は、控訴人入管局長がした被控訴人に対し在留特別許可を付与しないとの判断は事実的基
礎を欠くものであるか又は社会通念上著しく妥当性を欠くものであることが明らかと認めざるを
得ないもので、同控訴人に委ねられた裁量権の範囲を逸脱し又はその濫用があった違法なもので
あり、したがって、これを前提とした本件裁決は違法であり、また、違法な本件裁決を前提として
された本件退去強制令書発付処分も違法であるとして、各処分(以下「本件各処分」という。)を
取消したので、控訴人らが控訴した。
2 基礎となる事実、争点、争点に関する当事者の主張は、原判決の「事実及び理由」第3ないし第
5に摘示のとおりであるから、これを引用する。
第3 当裁判所の判断
当裁判所は、被控訴人の請求はいずれも理由がないものと判断する。その理由は、次のとおり
である。
1 争点①(本件裁決をした控訴人入管局長の判断に係る裁量権の範囲の逸脱・濫用の違法の有無)
について
 本件の事実経過については、原判決の「事実及び理由」第6の1のに説示のとおりである
から、これを引用する。
 法は、全ての人の本邦における出入国の公正な管理を図ることを目的とし(1条)、外国人の
入国については日本国内で行おうとする活動、身分等を審査することとし(7条)、日本に在留
する外国人は所定の在留資格の下で、所定の活動が許され、また、当該資格による在留につい
てはそれぞれ在留期間が定められ、これに応じて在留資格に変更が生じた場合には在留資格の
変更が、在留期間の更新を相当とする事由がある場合には在留期間の更新が予定されている
(2条の2、法第4章第1節)。そして、このような制度枠組は我が国の出入国管理の根幹をな
すものといえる。
そこで、法は、刑法等の刑罰法規に触れる行為(法24条4号ホないしリ、4号の2)に限らず、
不法入国(同条1号、2号)、不法就労(同条4号イ)、不法残留(同条4号ロ)に該当する者など、
上記制度枠組に反する者についての退去を強制する手続を規定する。また、出生その他の事由
により上陸の手続を経ることなく日本に在留することとなる外国人で、法22条の2に定める在
留資格の取得の許可を受けないで、在留資格を有することなく日本に在留できる60日の期間を
超えて日本にいる者についても、退去強制事由に該当するとしていること(法24条7号)に見
られるように、退去強制の対象となる者について帰責性を要件としていない。すなわち、法は、
法24条列挙の退去強制事由に該当する者を類型的に見て我が国社会に滞在させることが好ま
しくない外国人であるとし、不法残留について帰責性がない者であっても、退去強制手続の対
象とすることを予定しているものである。
ただし、法務大臣は、法49条3項の規定に基づく裁決をするに当たって、外国人に退去強制
事由があり、法49条1項による異議の申出が理由がないと認める場合でも、その外国人につい
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て、「永住許可を受けているとき」「かつて日本国民として本邦に本籍を有したことがあるとき」
に加え「特別に在留を許可すべき事情があると認めるとき」は、その在留を特別に許可するこ
とができる(法50条1項)。もっとも、在留特別許可は、退去強制事由があるために我が国から
退去強制されるべき者に対して法務大臣等が例外的に付与する許可であるから、在留特別許可
を付与するかどうかは、法の目的とする出入国の管理及び在留の規制の適正円滑な遂行という
その制度目的の実現の観点から、その外国人の在留中の一切の行状、特別に在留を求める理由
等の個人的な事情ばかりでなく、国内の政治・経済・社会等の諸般の事情及び国際情勢、外交
関係等の諸般の事情を総合的に考慮して行なわなければならないものであって、その要件の判
断は、法務大臣の広範な裁量を前提としているものと解すべきであり、このことは、法務大臣
から権限の委任を受けた地方入国管理局長が法49条3項の裁決をする場合(法69条の2、法施
行規則61条の2第9号)においても同様である。
本件においては、前記基礎となる事実(原判決第3、2及び)のとおり、被控訴人は法24
条4号ロに該当すると認められるから、本件裁決が違法であるか否かは、控訴人入管局長が、
被控訴人に対し法50条1項3号の規定に基づく在留特別許可を付与しなかったことについて
の違法性の有無によることとなる。そして、この場合において、「法務大臣が特別に在留を許可
すべき事情があると認めるとき」に該当しないとの判断が違法となるのは、当該事情があるの
に、裁量判断の基礎とした事実の誤認により当該事情を看過した場合又は事実に関する評価が
合理性を欠くこと等により当該事情がないとした判断が社会通念に照らして著しく妥当性を欠
くものであることが明らかであると認められる場合であるというべきである。
なお、法50条1項3号の規定に基づく在留特別許可は、法24条各号の退去強制事由に該当
し、日本からの退去を求めるべき外国人に対して、引き続き日本に在留し、日本の社会で生活
していくことを許容するものであることからすれば、法務大臣等がする在留特別許可を付与す
るかどうかの判断において、当該退去強制事由に係る行為の動機、目的、態様等を具体的に検
討することを要することはいうまでもなく、また、その外国人が、それまで日本において、健全
な市民として平穏で安定した生活を送ってきたこと及び将来も、日本において健全な市民とし
て平穏で安定した生活を送ることができる蓋然性が高いことは、最低限満たすべき要素である
ということができる。
 ところで、《証拠略》によれば、控訴人入管局長は、被控訴人が在留期間の更新を受けないで
在留期間を経過して日本に残留する者(法24条4号ロ)に該当するとして、被控訴人が偽装結
婚により日本人の配偶者としての在留資格で日本に入国したこと、Bと養親子関係にあり、同
居の親子と同様な生活を営んでいることを確認したうえ、被控訴人及びBの供述を考慮して
も、在留特別許可を付与する事情は認められないとしたことが認められる。
そこで、本件において、被控訴人に対し在留特別許可を付与しなかった控訴人入管局長の判
断が、事実的基礎を欠き又は社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかなものであって、裁
量権の範囲を逸脱し又はその濫用があったものと認められるかどうかについて検討することと
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する。
ア 被控訴人の日本における生活状況等について
前記認定事実によれば、被控訴人は、平成7年10月に日本に入国してから平成15年4月に
横浜支局収容所に収容されるまでの約7年7か月の間、横浜市内に居住して、飲食店の店員、
ホテルでの皿洗い及び家事手伝いの仕事に従事し、生計を立ててきたものであって、反社会
的な業務に従事したことは認められず、その生活関係に関する限りは、健全な市民の一人と
して、平穏で安定したものである。また、a社に登録し従事していた横浜市のホテルでの皿
洗いの仕事は、7年以上にわたり継続的に、極めてまじめに勤務してきたものであり、その
勤務態度や仕事内容は雇用主や職場の人々からも高く評価され、信頼を得るに至っている。
また、日本での生活において被控訴人と現在親交のある者は、いずれも健全な市民として社
会生活を送っている者であることが認められる。
イ 偽装結婚を手段とする不法入国、不法残留及び不法就労等について
ア 被控訴人は、前記認定のとおり、日本人のCと偽装結婚することにより、在留資格を「日
本人の配偶者等」とする上陸許可を受けて日本に入国しているところ、このように、不正
に在留資格を取得し、上陸許可を受けて日本に入国する行為は、我が国の在留資格制度及
び入国審査制度(法3条1項2号、7条1項2号、9条1項)を潜脱する行為であって、実
質的に法24条1号及び2号の退去強制事由に匹敵する行為である上、偽装婚姻を届け出て
戸籍の原本に記載させることは、公正証書原本等不実記載罪(刑法157条1項)にも該当し、
我が国の婚姻制度に対する信頼を著しく損ねる行為である。
また、被控訴人が在留期間の更新又は変更の許可を受けずに在留期限である平成8年4
月17日以降も日本に残留していた行為は、退去強制事由(法24条4号ロ)に該当し、被控
訴人が在留期間経過後も不法に就労していた行為は、外国人の就労活動が制限されている
我が国の在留資格制度(法7条1項2号、19条1項等)を乱す行為であり、さらに、被控訴
人は、元夫Dが日本に不法入国した際にEの指示でDの密入国のための費用200万円を負
担してDの不法入国を幇助していた。
以上のとおり、被控訴人は、日本国内における不法就労を目的として、Eを介して約50
万円の金銭をCに交付し(《証拠略》)、日本人との婚姻という虚偽の外観を作出して入国し
たものであり、偽装結婚がその相手方となる日本人の違法行為をも予定するものであるこ
とからすると、その違法性は顕著であり、また、費用200万円を負担してDの密入国を実
質的に援助した行為も、出入国管理制度に関する規範意識の欠如を示すものというほかな
く、その手段、態様は、法秩序を著しく侵害するものとして違法性が強いものであり、被控
訴人に対し在留特別許可を付与するかどうかの判断において、この点が重要視されること
はやむを得ないといえる。
なお、平成16年8月31日に法務省入国管理局が公表した「在留特別許可された事例につ
いて」の26の実例(《証拠略》)には、偽装結婚を手段として不法入国した外国人に対して
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在留特別許可が付与された例は含まれていない。ちなみに、事例25では、日本人の子及び
その配偶者を装った母親及び父親とともに在留資格「定住者」及び在留期間「1年」の上陸
許可を受けて日本に入国し、日本の小・中学校に就学していたところ、数年後、家族の身
分詐称が発覚したことから上陸許可が取り消された東アジア出身の男性(21歳)について、
本人は大学在学中であり、身元保証人等から学費及び生活費の援助が確約されているもの
で、不法在留以外に法令違反が認められなかった事例において、在留資格「留学」及び在留
期間「1年」の在留特別許可が付与されているが、身分を詐称した両親は、日本での在留を
諦め本国に帰国していることが認められる。
イ 次に、これら違法行為についての動機、目的等を検討する。
前記認定事実によれば、被控訴人は、夫Dが生活費を渡さないばかりか、被控訴人に金
を要求して暴力を振るうなどし、辛い思いをしていたこと、病気となった両親の治療費や
生活費が必要となった際に当時日本で生活していたEの助言から日本で働くことを決意し
たものであり、被控訴人が日本で稼働し収入を得たいと考えるに至った経過や動機は理解
し得るものであるが、このことが違法な手段による日本への入国を正当化するものではな
く、適法な手続によらずに日本で稼働し収入を得たいということは、不法就労目的での不
法入国を企図したことに他ならず、出入国管理制度の観点から是認できる動機、目的とい
うことはできず、E及びCの主導の下に事が運ばれことが推認されるとしても、日本人と
の結婚を偽装するなど、自らの自由意思で偽装結婚を手段に日本に入国したものであり、
その点で不法入国の態様が悪質であるとの評価は免れない。
そして、Dの不法入国幇助については、Dが離婚した元夫であること、日本へ不法入国
してからその後の生活に至るまでいろいろと世話になったEによる指示を受けてのもので
あることを考慮しても、その金額の大きさに照らし、前記違法の顕著性を減殺することは
できない。 
なお、退去強制の事由である被控訴人の不法残留については、もとより容認されるべき
ことではないが、被控訴人が日本の在留資格制度や在留期限等について正確な知識を持っ
ておらず、自己の行為の違法性についての明確な認識を有していなかったことが窺われる
から(《証拠略》)、本件においては、退去強制事由に該当するということ以上に、ことさら
悪質なものと評価すべきものとはいえない。
ウ 日本人との養親子関係について
婚姻と養子縁組とは、相互の情愛ないし精神的な結びつきをもって、新たに家族関係を形
成していくという点では、共通性を有するものではある。しかし、同居の必要性(日本人の養
親が日本国内に居住している場合の他方の日本在留の必要性)の観点からは、大きな相違が
ある。
すなわち、民法上も、婚姻は家族の単位の基本として、「夫婦は同居し、互に協力し扶助し
なければならない。」と規定されており(民法752条)、この強い共同関係は、一夫一婦制を前
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提とし(民法732条)、婚姻関係が持続する限り、家庭生活のあり方として持続していくもの
であるのに対し、養親子関係は、親子関係を作出する合意であり、親子関係においては「直系
血族及び同居の親族は、互に扶け合わなければならない。」(民法730条、809条)、「直系血族
及び兄弟姉妹は、互に扶養をする義務がある。」(民法877条1項、809条)と規定されている
にとどまり、当事者間の同居義務までは定められておらず、子は経済的にあるいは自ら婚姻
関係を形成することにより親との家族共同体から自立していくことが予定されているのであ
る。さらに、養子縁組の目的も、互いに扶け合って共同生活を送ることにある場合もありう
るが(その場合であっても、養子の将来における婚姻や再度の養子縁組等もあり得るのであ
って、これが永続するとは限らない。)、それのみならず財産の承継(相続)を目的とするもの
もある上、養子は一人に限定されているものでもなく、養子は実方の血族との親族関係が終
了するものでもない。
また、これを法の規定にみると、日本人と婚姻関係にある外国人については、「日本人の配
偶者等」として在留資格が認められている(法別表第2)のに対し、日本人と養子縁組を行っ
た外国人については、未成熟子の養育を目的とし養子となる者の実方の血族との親族関係が
終了する特別養子(民法第817条の2)について「日本人の配偶者等」の在留資格が認められ
ている(法別表第2)ほか、一般養子については、法別表第2に定める在留資格「定住者」に
係る平成2年法務省告示第132号の7号において、日本人、永住者の在留資格をもって在留
する者、1年以上の在留期間を指定されている定住者の在留資格をもって在留する者又は特
別永住者の扶養を受けて生活するこれらの者の「6歳未満の養子」について、定住者として
在留資格が与えられることとなっているにとどまる。これら取扱いの相違は、日本人との親
族関係が日本人との同居(日本国内の在留)を必要とするものか否かという観点からも肯定
されるものである。
したがって、日本人と婚姻関係にある外国人については、その婚姻の事実が在留特別許可
を付与するかどうかの判断において重視され、不法残留又は不法就労等がその態様において
悪質でなく、しかも、その点を除けば、日本人の配偶者としての在留資格が肯定される場合
には、在留特別許可が付与されることが多いことがうかがわれる(《証拠略》)が、一般の養親
子関係については、不法残留又は不法就労の点を除いても、それ自体が在留資格となるもの
ではないから、在留特別許可を付与するかどうかの判断において、日本人の配偶者と日本人
の養子とを同列に扱うことはできないというべきである。その外国人が、日本人と、相互の
情愛や精神的な結びつきをもって、同居し、互いに扶け合って共同生活を送っているような
場合、その事実は在留特別許可を付与する一つの好ましい事情として考慮することができ、
真摯な養子縁組を行ったことは、そのような相互の情愛や精神的な結びつきの確実さを示す
一つの事情として考慮すべきである。
エ Bとの生活関係について
ア 前記認定事実によれば、被控訴人は、平成15年5月の本件裁決の6年以上も前にBと出
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会い、次第に親交を深め、Bから養女になってほしいと言われて本件裁決の約2年9か月
前の平成12年8月ころから養子縁組を前提としてBと同居生活を始め、本件裁決の約2年
3か月前には正式に養子縁組の届出をし、以後も、親子としてBと平穏に同居生活を続け
ていたところである。そして、《証拠略》によれば、被控訴人とBの関係は、本件訴訟の口
頭弁論終結時においても、依然として、実の親子のような情愛をもって精神的にも深く結
ばれた真摯なものであり、周囲の多くの人々からもその関係を受け容れられ、社会に溶け
込んだ、安定したものとなっていると認められ、また、当初は、Bが被控訴人の生活を扶助
する関係にあったが、その後のBの稼働状況の変化により、Bが経済的に被控訴人に依存
し、日々の生活における家事についての被控訴人への依存性が高まっていたことがうかが
え、Bとしては、被控訴人の将来における婚姻を考慮にいれつつも、被控訴人の身上を案
じ、被控訴人との同居を希望し、被控訴人もBとの同居を希望している。
イ ところで、被控訴人が中国に強制送還された場合の被控訴人への影響等についてみる
と、①現在、被控訴人が日本において所有している資産は100万円ほどの現金だけであり、
中国には住居も資産も有していないこと(《証拠略》)、②被控訴人の父母は既に死亡し、被
控訴人の長男は離婚した夫の両親に引き取られ、現在長男との交流はなく、被控訴人の両
親の養女、叔父、叔母等の親族との交流もなく、被控訴人にとって、その経済的な生活基盤
や人的な交流関係は既に養親のBを中心とする日本に移っており、中国には経済的な基盤
がない状況にあることが認められる。しかし、本国での経済的窮状から不法就労した場合
に、本国におけるよりも日本における方が就労の機会及び所得が多いと認められるとして
も、このことが本国への強制送還を妨げる事情ということはできず、③被控訴人が、中国
で生まれ、28歳までは中国で生活しており、日本に滞在していた期間は本件裁決時まで約
7年半(本件訴訟の口頭弁論終結時まで10年)の間であること、④被控訴人は、本件裁決
がされた当時36歳であり、健康上の問題も特にないこと(《証拠略》)からすれば、上記事
情のもとにおける強制送還が、被控訴人について人道に悖る行為ということもできない。
被控訴人が、Bと同居し孝行することを在留の目的としており、Bとの養子縁組がなかっ
た場合には、中国に帰国することとなったと理解していることは(《証拠略》)、相当な判断
というべきである。
ウ 次に、被控訴人の強制送還によるBへの影響についてみると、《証拠略》によれば、①こ
れまでの被控訴人とBの生活においては、掃除、洗濯、洗い物等の家事は被控訴人がし、料
理は基本的にBがしており、休日には被控訴人もしていたこと、②Bが体調を崩したとき
は、被控訴人がBを病院に連れて行ったり、看病するなどしていたこと、③《日付略》生ま
れで、高齢となったBの日常生活において被控訴人が大きな助けとなっていたこと、④B
は、甲状腺機能亢進症、慢性C型肝炎などの持病があり、投薬等の治療を受けている状態
であるため、今後日常の家事等を一人でしながら、つつがなく生活することはいずれ困難
になることが予想されること、⑤Bは、独身で子供がなく、親族はそれぞれが家族ととも
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に生活しているため将来の日常生活の世話を期待し難い事情にあること等に加え、既に説
示したとおり、経済的にも精神的にも被控訴人への依存を強めていることが認められる。
もっとも、被控訴人による家事援助又は将来の介護は、Bとの親子と同様の信頼関係か
ら当然に要請されることではないうえ(我が国の家庭においても、仕事や生活の必要から
別居を余儀なくされる親子の例や親族家族が老人を身近に介護することができない例は少
なくなく、また、親子関係における情愛は子の婚姻、自立を妨げるものではない。)、また、
被控訴人への経済的依存もBの本意とするところではなく(《証拠略》)、Bの生計の維持の
ために被控訴人の日本への在留を論ずべきものではない。主として家事援助又は将来の介
護若しくは経済的支援の必要から、被控訴人の在留を論ずることは、被控訴人及びBの本
意にも反するものと解され、両名の真意は、むしろ、家事又は経済の面における相互依存、
相互扶助の中で育まれた親子と同様又はそれ以上の精神的な相互依存、相互扶助関係の持
続に核心があり、在留特別許可との関係では、この精神的な相互依存、相互扶助をいかに
考慮するかを検討すべきである(被控訴人の送還後の本国において予測される経済的困難
も、我が子の身の上を案ずるBの立場からより考慮されることになる。)。
これらの観点からすると、被控訴人の身上を案ずるBの心情及びそのようなBに感謝の
念をもって、その心身を案ずる被控訴人の心情は否定できないが、被控訴人への在留特別
許可の障害となる事由は被控訴人自身の違法行為にあり、真摯な親子の情愛をもってして
も前記の違法な行為を優越するまでに日本での在留の理由となるとすることはできない。
被控訴人が中国に強制送還させられた場合、互いに情愛をもって精神的にも深く結ばれた
Bとの平穏で安定した生活関係は、従来のように身近なものではなくなるが、通信手段の
発達した現在、相互の交流が完全に断ち切られるものではない。また、被控訴人において、
新たに親しい友人や配偶者等を中国で得る可能性もあり得るのであるから、被控訴人が自
己の行為の結果として生まれ育った母国である中国に強制送還されることは、Bとの関係
でも、人道に悖るものとは認められない。
オ その他の事情
被控訴人は、家族の結合の法的保護を謳った「市民的及び政治的権利に関する国際規約」
(以下「B規約」という。)17条及び23条1項の趣旨も重視され、配慮されなければならず、本
件においては、Bと被控訴人は、お互いが唯一無二の家族であり、その結合は誰にも破壊し
得ない高度な法的保護に値するところまで強まっている旨主張する。
ところで、国家は、外国人を受け入れる義務を国際慣習法上負うものではなく、特別の条
約ないし取決めがない限り、外国人を自国内に受け入れるかどうか、また、これを受け入れ
る場合にいかなる条件を付するかを自由に決することができるのであり、憲法上も、外国人
は、我が国に入国する自由を保障されているものでないことはもちろん、在留の権利ないし
引き続き日本に在留することを要求する権利を保障されているものでもない(最高裁昭和32
年6月19日大法廷判決・刑集11巻6号1663頁、最高裁昭和53年10月4日大法廷判決・民集
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32巻7号1223頁参照)。そして、B規約13条1項は在留外国人について「法律に基づいて行
われた決定によってのみ当該領域から追放することができる」と規定し、法律に基づいて退
去強制手続をとることを認容しており、B規約は、上記国際慣習法上の原則を当然の前提と
し、その原則を基本的に変更するものとは解されないところ、B規約17条及び23条1項は、
いずれも憲法の諸規定による人権保障を超えるものではないと解され、日本に在留する外国
人については、法に基づく外国人在留制度の枠内でのみ憲法の基本的人権が保障されている
にすぎず、在留の許否を決定する国家の裁量を拘束するまでの保障が与えられていると解す
ることはできない(前記最高裁昭和53年10月4日判決参照)。したがって、B規約17条及び
23条を根拠に、外国人が家族生活を営むために日本に在留する権利が保障され、法律に基づ
く退去強制の手続によっても退去を強制されることがないと解することはできない。
 上記で検討したところによれば、被控訴人は、日本に入国して以降、健全な市民の一人と
して、平穏で安定した生活を送ってきたものであり、将来にわたって、健全な市民として平穏
で安定した生活を送ることができる蓋然性が高いものと認められるが、被控訴人が行った偽装
結婚を手段とする不法入国、不法残留、不法就労及び不法入国幇助は、いずれも被控訴人の意
思に基づく、違法性の強いものであり、Bと養子縁組をし同人との緊密な信頼関係を築いてい
ることも、同居を必然としない身分関係にある者が被控訴人の将来の安否を気遣い、在留を切
望しているものであって、その心情は理解できるが、被控訴人に対する退去強制を妨げ、日本
への在留を必要ならしめるに足るものということはできない。上記事情のうち不法入国幇助あ
るいは被控訴人とBとの親密な信頼関係、相互の相互依存・相互扶助関係については、控訴人
入管局長による在留特別許可を付与しないとの判断後に立証されたものもあるが、平成15年5
月2日にされた特別審理官による口頭審理の手続には、被控訴人の代理人弁護士佐賀悦子及び
Bも立会いのうえで被控訴人からの事情聴取がされ(《証拠略》)、被控訴人とBとの養子縁組の
経緯や両名の親密な信頼関係等、被控訴人が本件訴訟において主張している事情の多くが記載
され在留特別許可の付与を切望する旨の同日付け上申書(《証拠略》)が代理人から提出されて
いる。控訴人入管局長は、判断時までに現れたこれら諸般の事情を考慮したうえで被控訴人に
対し在留特別許可を付与しないとの判断をしたものであり、このような判断に至る経過、判明
していた事実関係等に照らしても、控訴人入管局長がした上記判断が、事実的基礎を欠くもの
であるか又は社会通念上著しく妥当性を欠くものであるとは認められず、控訴人入管局長に委
ねられた裁量権の範囲を逸脱し又はその濫用があったものとは認められない。
2 争点②(本件裁決に係る調査義務違反ないし適正手続違反の違法の有無)について
被控訴人は、本件裁決は、適正な調査義務を怠ったばかりか、告知及び聴聞の権利を侵害した
ことは明らかであり、憲法31条に定めた適正手続の趣旨に反し、違法無効な処分であると主張す
る。 
ところで、一般に行政手続は、刑事手続とはその性質において差異があり、行政目的に応じて
多種多様な手続があるところ、行政処分の相手方に対して、事前の告知、弁解、防御の機会を与え
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るかどうかは、行政処分により制限を受ける権利利益の内容、性質、制限の程度、行政処分により
達成しようとする公益の内容、程度、緊急性等を総合較量して決定されるべきものであり、常に
そのような機会を与えることを必要とするものとはいえない(最高裁平成4年7月1日大法廷判
決・民集46巻5号437頁参照)。
本件においては、原判決認定の事実経過のとおり、被控訴人は、本件裁決を受けるまで、入国警
備官による違反調査、入国審査官による審査及び法24条4号ロに該当する旨の認定、特別審理官
による口頭審理の各手続において、手続の説明を受け、弁解、意見を述べる機会を十分に与えら
れており、調査に応じ十分に自らの主張を尽くしており(上記のとおり、特別審理官による口頭
審理の手続には、被控訴人の代理人弁護士Fも立ち会い、上申書の提出もしていた。)、告知及び
聴聞の権利を侵害されたとは認めることができない。
したがって、控訴人入管局長が在留特別許可に係る判断において適正な調査義務を怠り、ある
いは告知及び聴聞の権利を侵害したものとはいえず、被控訴人の主張は理由がない。
3 被控訴人のその余の主張も、上記認定、判断を左右するものではない。
4 上記説示したところによれば、本件各処分の取消しを求める被控訴人の請求は、控訴人入管局
長が被控訴人に対し在留特別許可を付与しないとの判断が違法であるとの前提を欠くことになる
から、いずれも理由がない。
5 よって、これと異なる原判決を取消し、被控訴人の請求をいずれも棄却することとして、主文
のとおり判決する。

難民認定をしない処分取消、退去強制令書発付処分取消等請求控訴事件
平成17年(行コ)第209号(原審:東京地方裁判所平成13年(行ウ)第176号、第181号)
控訴人:法務大臣・東京入国管理局主任審査官、被控訴人:A
東京高等裁判所第19民事部(裁判官:岩井俊・坂口公・竹田光広)
平成18年3月7日
判決
主 文
本件控訴をいずれも棄却する。
控訴費用は控訴人らの負担とする。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
1 控訴人ら
 原判決中、控訴人らの敗訴部分を取り消す。
 被控訴人の請求をいずれも棄却する。
2 被控訴人
主文と同旨
第2 事案の概要
1 事案の要旨等
 被控訴人は、ミャンマー連邦(以下「ミャンマー」という。)国籍を有する者であるが、控訴
人法務大臣に対し出入国管理及び難民認定法(平成13年法律136号による改正前のもの。以下
「法」という。)に基づき難民の認定の申請(以下「本件難民認定申請」という。)をしたところ、
控訴人法務大臣は、平成13年2月7日付けで(告知は同年4月4日)、申請期間の徒過を理由に
難民の認定をしない旨の処分(以下「本件難民不認定処分」という。)をした。
また、被控訴人に対する不法残留容疑による退去強制手続において、東京入国管理局(以下
「東京入管」という。)特別審理官の判定につき被控訴人が法49条1項に基づく異議の申出をし
たところ、控訴人法務大臣は、平成13年2月13日付けで(告知は同年4月4日)、被控訴人の異
議の申出には理由がない旨の裁決(以下「本件裁決」という。)をし、次いで、控訴人東京入国管
理局主任審査官(以下「控訴人主任審査官」という。)は、平成13年4月4日付けで、被控訴人
に対し、送還先をミャンマーとする退去強制令書発付処分(以下「本件退令発付処分」という。)
をした。
本件は、被控訴人が、本件難民不認定処分、本件裁決及び本件退令発付処分には被控訴人が
難民であることを看過した違法があるなどと主張して、その各取消しを求めた事案である。
 原判決は、要旨、次のとおり判示して、本件難民不認定処分の取消請求を棄却したが、本件裁
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決及び本件退令発付処分を取り消した。
ア 被控訴人の難民該当性について
各種機関による報告書等によると、ミャンマー国内には政治的理由による身柄拘束等の人
権弾圧が行われているという一般的状況があることに加え、ミャンマーの軍事政権が1997
年(平成9年)にミャンマー国内で起きた小包爆弾事件は在日反政府組織が実行したもので
あるとして、在日ビルマ人協会所属の者を実行犯であると特定したとの状況があること、被
控訴人は、本邦入国後、1995年(平成7年)に日本国内におけるミャンマー民主化勢力組織
である国民民主連盟(以下「NLD」という。)の日本支部(以下「NLD-LA日本支部」という。)
の会員になり、1997年(平成9年)には同組織の運営委員となって、1998年(平成10年)か
らは公然と反政府のビラはりや、デモに参加していた事実が認められ、ミャンマーの在日大
使館員によるデモの際の写真撮影などの情報収集によりミャンマー政府がこれを把握してい
ること等からすると、被控訴人が、反政府活動家としてミャンマー政府の忌避対象となり得
ることは否定し難く、仮に被控訴人が帰国した場合には、日本国内における活動を理由に身
柄を拘束され、不当な処遇や不当な処罰を受ける可能性が否定できず、被控訴人がその政治
的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという恐怖を有することに十分な理由がある。
したがって、被控訴人は難民に該当する。
イ 本件難民不認定処分の取消請求について
被控訴人の難民認定の申請は、法61条の2第2項の規定する期間を徒過しており、被控訴
人には同項ただし書の「やむを得ない事情」も認められないから、本件難民不認定処分には
取消原因はない。
ウ 本件裁決の取消請求について
被控訴人は、法24条4号ロ(在留期間の更新又は変更を受けないで在留期間を経過して本
邦に残留する者)に該当する不法残留者であるから、被控訴人が控訴人法務大臣に対して行
った異議申出は理由がないが、法49条1項の異議の申出に理由がない場合であっても、控訴
人法務大臣は、難民の認定を受けている者その他在留特別許可を与えるべき事情があると認
める者に対しては、その裁量によって在留特別許可を与えることができるとされているとこ
ろ(法61条の2の8、50条1項)、控訴人法務大臣は、本件裁決をするに当たって、被控訴人
が難民に該当するにもかかわらず、被控訴人が難民に該当することを考慮せずに本件裁決を
したと認められるから、本件裁決は、当然考慮すべき重要な要素を一切考慮せずに行われた
ものといわざるを得ず、その裁量の範囲を逸脱する違法な裁決であり、取り消されるべきで
ある。
エ 本件退令発付処分の取消請求について
本件退令発付処分は、本件裁決が適正に行われたことを前提として発付されるものである
ところ、前提となる本件裁決は取り消されるべきものであるから、退去強制令書の発付も根
拠を欠くことになり、本件退令発付処分は違法なものとして取消しを免れない。
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 これに対し、控訴人らが、不服申立てをしたものである。
原判決のうち、本件難民不認定処分の取消請求を棄却した部分については、被控訴人は控訴
をしなかったので、被控訴人の敗訴が確定した。
したがって、当審の審理判断の対象は、本件裁決及び本件退令発付処分の当否である。
2 法令の定め
本件に関連する法令等の定めは、原判決「事実及び理由」中、第2「事案の概要」の1(3頁ない
し6頁)記載のとおりであるから、これを引用する。
3 原審における当事者の主張
原審における当事者の主張は、原判決「事実及び理由」中、第2「事案の概要」の3ないし5(8
頁ないし23頁)記載のとおりであるから、これを引用する(ただし、本件難民不認定処分の取消
原因に関する当事者の主張部分〔原判決8頁以下のの項〕を除く。)。
4 当審における争点及び当事者の主張
(当審における争点)
当審における争点は、本件裁決及び本件退令発付処分の各取消原因の存否であり、その前提と
して、被控訴人の難民該当性の有無が主要な争点となる。
被控訴人の難民該当性に関する当事者の主張は、概要、以下のとおりである。
(控訴人らの控訴理由)
 被控訴人が提出したNLD-LA日本支部の役員リストや写真に基づいて、被控訴人の名前が同
リストに掲載されていた事実や被控訴人が日本国内におけるデモに参加した事実を認めること
ができるかどうかは、それ自体疑わしき点がある上に、仮にその事実が認められるとしても、
同役員リストを見ると、被控訴人は多数いる「運営委員」と称する執行委員の1人であるにす
ぎず、その地位が組織内で中心的な位置を占めていたとはいえないばかりか、役員リストをミ
ャンマー大使館員が入手し、その内容を把握している事実も明確に認定できるものではない。
また、そもそも、在日ミャンマー大使館が、このようなリストに名前が掲載されているとい
う事実や、日本国内でのデモに参加していたという事実に基づき、そのリストに掲載されある
いはデモに参加したというだけで、その者を直ちに迫害の対象と考えているとは認め難く、被
控訴人がそのような対象となっているおそれを示す個別的、具体的な事情も認められない。そ
うすると、被控訴人が本国政府から迫害の対象とされ、本国に帰国した場合、通常人において
受忍し得ない苦痛をもたらす生命又は身体の自由の侵害又は抑圧を受けるおそれがあるという
十分に理由のある恐怖を抱いているという客観的事情が存在しているとは到底認め難い。
むしろ、被控訴人は、長期間にわたる不法就労を目的として本邦に入国したと認められ、日
本において飲食店従業員として不法就労に従事して得た収入のうち計100万円余りを本国の家
族に送金しており、その後6年8か月以上の期間が経過した後、唐突に本件難民認定申請をし
たものであって、このような長期間、不法残留、不法就労を行った被控訴人の悪質な行状を考
えると、被控訴人は、日本での就労を主たる目的として日本での在留を求めていると強く推認
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されるのであって、被控訴人については難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)
の適用を受ける難民といえるほど現実的で個別かつ具体的な迫害のおそれは認められない。
 被控訴人の供述には、日本への入国の動機等という難民性認定に関する重要な部分につき不
合理な変遷があり、日本での政治活動を始めるに至った経緯及びその開始時期についての供述
も不合理な内容であり、日本国内で、在日ミャンマー大使館を窓口として旅券を更新している
客観的事実に照らしても、被控訴人がNLD-LA日本支部の実行委員会の役員であったとする被
控訴人の供述も信用性が低く、被控訴人の供述は、全体として信用性に欠け、被控訴人主張の
事実は認められない。
また、被控訴人は、本国において迫害のおそれを生ずるような政治活動など行っておらず、
不法就労目的で本邦に入国したにすぎないにもかかわらず、本件訴訟に及び、事実に反する内
容の供述をし、さらに、控訴人らから難民調査及び違反調査段階における供述との食違いにつ
いて指摘されるや、虚偽の事実に基づく不合理な弁明を述べるなど、虚偽の供述を重ねてまで
難民認定を受けようとしていると考えられるものであるが、原判決は、供述内容を過大に表現
しようとすることは、難民の認定を受けようとする者の心理として理解できるなどとして、被
控訴人の政治活動に係る主張事実を認定したが、被控訴人の供述の信用性につき判断を誤った
ものであり不当である。
さらに、原判決は、被控訴人の供述のうち、本国における活動や来日の状況に関する部分と
日本での活動に関する部分に分断して、それぞれの信用性を判断する手法を取り、前者に関す
る供述を措信し難いとしつつも、後者に関する供述については客観的事実と符合しており、被
控訴人の供述のとおりの事実を認めることができるとしたが、本国における活動や来日の状況
に関する部分と日本での活動に関する部分の供述は密接に関連しているのであって、原判決に
は被控訴人の供述の信用性に関する判断の誤りがある。
 被控訴人が行ったと認められる程度の政治活動等によって、迫害のおそれが生じたとは考え
難い。
ミャンマー軍事政権に抗議する反政府デモは、在日ミャンマー人を中心に多数の参加者を集
めて行われているところ、在日ビルマ人協会等に所属して反政府活動を行い、帰国すれば迫害
を受ける旨申し立てていた某ミャンマー人男性は、不法残留中の妻の体調不良等を理由に早期
帰国を希望した際、在日ミャンマー大使館の職員から、帰国後の自身の危険については心配な
いと明言されたと述べており、被控訴人の活動が補助的・受動的な内容にすぎないことを考え
ると、本邦において反政府デモ等の抗議活動に参加したからといって、これをもって直ちに迫
害のおそれが生ずるとは言い難いことは明らかである。
(被控訴人の主張)
控訴人らの主張を否認ないし争う。
第3 当裁判所の判断
1 前提となる事実関係
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争いのない事実、後掲証拠及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
 被控訴人
被控訴人は、《日付略》、ビルマ連邦(現ミャンマー)で出生したミャンマー国籍を有する男性
である。被控訴人は、ヤンゴンで生まれ、その後マンダレーで生活し、マンダレー大学に入学し
て数年間在籍したが、中途退学し、兄のもとでビデオの販売等を行っていた(乙5の1ないし
4、乙6)。
 入国及び在留等の状況
ア 被控訴人は、《日付略》付けミャンマー内務省発行の被控訴人名義の旅券(乙1)を所持し、
《日付略》ミャンマーを出国してタイに入国し、タイに滞在した後、《日付略》新東京国際空港
に到着した。そして、東京入国管理局(以下「東京入管」という。)成田支局入国審査官に対し
て、渡航日的「TOURIST(観光)」、日本滞在予定期間「7 DAYS(7日間)」とそれぞれ外国人
入国記録に記入して上陸申請し(乙2)、同日、在留資格「短期滞在」、在留期間90日の上陸許
可を受け、本邦に上陸した。(乙1)
イ 被控訴人は、《日付略》、東京都豊島区《住所略》を居住地として、豊島区長に対し、外国人
登録の新規登録申請をした(乙3)。
ウ 被控訴人は、在留資格の変更又は在留期間の更新の許可申請をすることなく、在留期限で
ある《日付略》を超えて、本邦に残留している。
エ 前記アの旅券には、《日付略》付けで、在東京ミャンマー大使館員が、有効期間を《日付略》
まで延長した旨の記載がされている(乙1)。
オ 被控訴人は、各区長に対し、次のとおり居住地変更登録申請をした(乙3。いずれも東京
都)。
ア 《日付略》
《住所略》
イ 《日付略》
《住所略》
ウ 《日付略》
《住所略》
 本件難民不認定処分、本件裁決及び本件退令発付処分に至る経緯
ア 被控訴人は、《日付略》、控訴人法務大臣に対し、本件難民認定申請をした(乙4)。
東京入管難民調査官は、《日付略》及び《日付略》、被控訴人から事情を聴取するなどの調査
をした(乙5の1ないし4、乙6)。
イ 東京入管入国警備官は、《日付略》に違反調査を実施した結果(乙7)、被控訴人が法24条
4号ロに該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして、《日付略》、控訴人主任審査官か
ら収容令書の発付を受け、《日付略》、同令書を執行して(乙8)、被控訴人を法24条4号ロ該
当容疑者として東京入管入国審査官に引き渡した(乙9)。
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 控訴人主任審査官は、同日(《日付略》)、被控訴人の仮放免を許可した(乙10)。
ウ 東京入管入国審査官は、《日付略》及び《日付略》、被控訴人について違反審査をし(乙11、
乙12)、その結果、《日付略》、被控訴人が法24条4号ロに該当すると認定し、被控訴人にこれ
を通知したところ(乙13)、被控訴人は、同日、口頭審理を請求した(乙12)。
エ 東京入管特別審理官は、《日付略》、口頭審理を実施し(乙14)、その結果、同日、前記ウの
評定に誤りがないと判定し、被控訴人にこれを通知したところ(乙15)、被控訴人は、同日、
控訴人法務大臣に対し、法49条1項の異議の申出(以下「本件異議申出」という。)をした(乙
16)。
オ 控訴人法務大臣は、《日付略》、アの本件難民認定申請について本件難民不認定処分をし、
《日付略》、被控訴人に対し、「あなたからの難民認定申請は、出入国管理及び難民認定法第61
条の2第2項所定の期間を経過してなされたものであり、かつ、あなたの申請遅延の申立て
は、同項但書の規定を適用すべき事情とは認められません。」との理由を付した書面により、
これを通知した(乙18)。
カ 控訴人法務大臣は、《日付略》、本件異議申出(上記エ)は理由がない旨の本件裁決をし(乙
17)、その通知を受けた控訴人主任審査官は、《日付略》、被控訴人にこれを通知するとともに
(乙19)、本件退令発付処分をした。
東京入管入国警備官は、《日付略》、被控訴人を東京入管収容場に収容し、《日付略》、被控訴
人を入国者収容所東日本入国管理センターに移収した(乙20)。
 本件訴訟の提起等
被控訴人は、《日付略》に本件難民不認定処分の取消訴訟を、《日付略》に本件裁決及び本件退
令発付処分の取消訴訟を、それぞれ提起した。
被控訴人は、その後、仮放免された(弁論の全趣旨)。
2 被控訴人の難民該当性について
当裁判所も、被控訴人は難民に該当するものと判断する。その理由は、以下のとおりである。
 後掲各証拠及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
ア ミャンマーの情勢
ミャンマーでは、1988年(昭和63年)3月に起こった学生を主体とする反政府運動が次第
に激しくなり、同年8月8日には学生組織などの呼びかけにより大規模なゼネストが展開さ
れたが、同年9月18日に軍事クーデターが起こり、国家法秩序回復評議会(以下「SLORC」
という。)が全権を掌握した。
1990年(平成2年)5月には総選挙が施行され、アウンサンスーチーの率いるNLDが80
%の議席を占めて勝利したが、SLORCは、NLDに政権を委譲しなかった。
1996年(平成8年)12月25日には、ガバーエーパゴダで政府要人をねらった爆弾事件(以
下「パゴダ爆弾事件」という。)があり、1997年(平成9年)4月6日にはSLORC第2書記
のティンウー中将の自宅に小包が届き、これが爆発して同書記の長女が死亡するという事件
- 7 -
(以下「小包爆弾事件」という。)が起きた。SLORCは、同月8日、小包爆弾事件について、在
日反政府組織がテロリズム路線へ転換し実行したものである旨を発表し、同年6月27日、同
事件の犯人として、在日ビルマ人協会所属のB及びCが特定されたと発表した。
SLORCは、1997年(平成9年)11月に国家平和発展評議会(以下「SPDC」という。)と改
名した。
(甲9、10、14、36、乙43、弁論の全趣旨)
イ NLD関係者、政治的理由による身柄拘束者に対する処遇
ミャンマーにおけるNLD関係者や政治的理由による身柄拘束者に対する処遇については、
次のような報告がある。
ア アムネスティ・インターナショナル年次報告書1997年版(甲11)
1996年(平成8年)5月、NLDが党大会を招集した後、軍政府は300人以上の活動家を
逮捕した。同年9月、NLDの党大会への参加を要求する何百人かの国会議員当選者とNLD
支持者は短期間拘禁された。逮捕者数は、当局の発表では573人だったが、反対派によれば
800人であった。
イ ヒューマンライツウオッチ世界報告書1998年版(甲9)
1997年(平成9年)中も、ミャンマーにおける人権の尊重は、容赦なく悪化し続けた。
反対勢力であるNLDは、政府の抑圧の標的となり続けた。この年の間、NLDの指導者らは、
いかなる公の演説を行うことも禁止され、5月に党議会を開こうとした300人以上の党員
が拘留された。SLORCは、パゴダ爆弾事件及び小包爆弾事件を、追放されている全ビルマ
学生民主戦線及びカレン民族同盟の武装反対勢力によるものであるとし、NLDはこれらの
グループと連絡を取り合っている「公然とした破壊的因子」であるとした。
ウ 国連人権委員会決議に従って提出された特別報告官ラジスーマー・ララの報告(2000
年1月24日)(甲13)
特別報告官は、特にNLDの幹部及び一般の会員に対して、NLDをやめさせるための嫌
がらせと脅迫がなされているとの報告を、継続して受けている。アウンサンスーチーが他
のNLDリーダーに会うことは可能であるが、常に制限を受け監視されている。公の集会は
許されない。執行委員会のメンバーに対する脱退強制の結果、数多くのNLD支部が閉鎖又
は解散に追い込まれた。1999年(平成11年)3月までに50以上の支部が閉鎖を強要されて
いる。
さらに、同年9月に受け取った多数の情報によれば、NLDの、選出議員を含む多くのメ
ンバーと他の活動家が、数百人単位で、逮捕あるいはその他の形で刑務所などに留置され
ており、他のメンバーは、集会及び活動の自由が制限され、組織的な監視を受けている。
エ 米国国務省各国人権情報2000年版(甲14)
1995年(平成7年)にNLD書記長であるアウンサンスーチーをその自宅での軟禁から
表面上は解放して以来、軍事政権は彼女に対して、首都の外への旅行を、修道院訪問の1
- 8 -
度しか許可していない。2000年(平成12年)8月24日、ヤンゴン郊外で彼女はNLDの党会
議へ行くことを阻止され、9日間道端で孤立することとなり、その間彼女は党員に連絡す
ることを拒否された。この孤立状態は、警察がアウンサンスーチーとその仲間の身柄を拘
束し、アウンサンスーチーのヤンゴンでの自宅で外部との音信を不通にした状態で拘留し
た同年9月2日に終了し、この拘留状態は同月14日まで続いた。同月21日、軍事政権は再
び彼女の電車でのマンダレーへの旅行を阻止し、自宅で外部との連絡を絶った状態で拘留
した。SPDCも同様に、これら両方のできごとにおいて、NLDの他の指導者を拘留した。そ
の中にはNLD副議長のティンウーも含まれていた。1996年(平成8年)以来、保安部隊は
アウンサンスーチーの自宅前の通りの公衆の通行も制限している。
2000年(平成12年)9月21日、NLD党員は、マンダレーへの遊説へ出発するアウンサン
スーチーを見送りにヤンゴン鉄道駅に集まっていたが、警察は彼らを逮捕し、年末の時点
で彼らは拘留中である。その際、約100名のNLD党員が逮捕された。
オ アムネスティ・インターナショナル報告書「ビルマ(ミャンマー):制度化された拷問」
(2000年12月13日発行)(甲10)
ミャンマーでは拷問や虐待が制度化されてきた。軍の情報員、刑務所の看守や警察官は、
政治的理由による拘留者を尋問するときに、また反乱を牽制するための手段として、拷問
や虐待を用いている。時と場所は異なっても、拷問のパターンは同じだ。拷問が国中で行
われてきたことは、40年以上にもわたって報告されている。治安部隊は、情報を引き出し、
政治囚や少数民族の人々を罰し、軍事政権に批判的な人々に恐怖を植え付ける手段とし
て、拷問を用い続けている。
1990年(平成2年)5月の総選挙でNLDが80%以上の議席を獲得して以来、過去10余
年、軍政は一連のNLDへの取締りを展開してきた。NLDは政権を担うことを許されず、何
百人もの党員は平和的な政治活動のために投獄され、何千人もの党員が離党を迫られてき
た。さらに、SPDCは、反対勢力の牽制や人々に恐怖を与え続けるために、嫌がらせや監視、
党の事務所の閉鎖など様々なコントロールを行っている。今日、ミャンマーでは、表現や
結社の自由はほとんど完全に否定されている。2000年(平成12年)には、平和的な反政府
勢力に更なる弾圧が加えられた。現在も、アウンサンスーチーと8人のNLD中央執行委員
会のメンバーは、首都ヤンゴンの郊外を訪れようとした同年9月以来、軟禁状態におかれ
ている。NLDの副議長ティンウーも、反政府行動のために捕らわれた何百もの人々ととも
に、現在も軍の拘置所に拘留されている。
1700人に及ぶとされる政治囚は、拘禁の初期段階において、軍の情報員が入れ替わり立
ち代わり行う尋間中に、既に拷問の危険にさらされている。尋問は何時間も、時には何日
間も続く。また、政治囚は、判決後も、便箋の保持といった、刑務所が恣意的に設けたルー
ルを破ったとして罰せられる場合に、拷問や虐待を受けやすい。さらに、刑事囚は、当局に
よって、労働キャンプでの砕石、道路建設などの労働に従事させられている。労働キャン
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プの状況は非常に厳しく、何百人、何千人もの囚人が虐待や過度の労働、あるいは食糧や
医療の欠如が原因で命を落としてきた。
拷問被害者は、軍の情報員が初期の尋問で一貫して用いてきた特有の拷問方法を報告し
ている。その方法には、皮がむけるまで向こうずねに鉄を当てて上下させる「鉄の道」、「窒
息状態」、身体のあらゆる部分への「電気ショック」などがある。軍情報部センターは広範
囲に国中に張り巡らされ、こうした拷問が一般的になっている。政治的な理由によって拘
置されている人々が逮捕されると、彼らは通常、まずこうしたセンターに連れて行かれる。
判決を受けた後、彼らは普通、ミャンマーにある43刑務所の中の、20のうちのいずれかに
移される。状態は異なるが、いずれの刑務所においても囚人は残酷で非人道的、品位を落
とすような処遇を受けている。刑務所の看守は、囚人を処罰する方法として、ほとんど換
気がなく光も届かない小さなレンガ房に数週間あるいは数か月間も拘留する「タイクペイ
ク」や、様々な困難な姿勢を長時間強いる「ポンサン」(ビルマ語でモデルを意味する。)を
用いている。
ウ NLD-LA日本支部と被控訴人のかかわり
NLD-LA日本支部は、1995年(平成7年)5月に結成された在日ミャンマー人の組織で
あり、タイに本部を置くNLD-LAの日本支部である、NLD-LA日本支部は、東京都内に事
務所を置き、平成17年ころの会員数は名簿上235名ほどで、活動に参加しているのはおよ
そ130名程度とされている。その幹部は、議長以下16名の執行委員と16ないし22名程度の
運営委員で構成されている。なお、NLD-LA日本支部の現在の議長は、同支部はデモや書
籍の発行を中心とした平和的手段によって本国の民主化を進める方針を採っているとして
いる。(甲7、8、乙112)
被控訴人は、前記のとおり《日付略》に日本に入国したものであるが、《日付略》発行の
会員証(乙5の3)の交付を受けて、結成直後からNLD-LA日本支部の会員となり、《日付
略》から《日付略》まで運営委員を務めた後(甲37、38)、《日付略》及び《日付略》の年次
総会(5月)で運営委員に再選され(甲1、39、40)、《日付略》には社会福祉部長を務めた(甲
41)。
エ 在日ミャンマー人が行った本国政府に対する抗義行動
在日ミャンマー人が行った本国政府に対する抗議行動の例を挙げると、次のとおりであ
る。
ア 1996年(平成8年)9月18日、11月18日(甲23)、12月4日(甲3)及び12月24日(甲
60①)に、ミャンマー大使館前や都内において、ミャンマー軍事政権に抗議するデモが行
われた。同年9月18日及び11月18日のデモでは、ミャンマー大使館敷地内から、同大使館
員が、デモ参加者らを写真撮影した(甲23)。
1997年(平成9年)から1999年(平成11年)にかけても、都内各地でミャンマーの民主
化を求めるなどのデモが多数回行われた(甲60)。
- 10 -
イ 1999年(平成11年)5月22日、日本教育会館でミャンマー大使館主催の「日本ミャンマ
ー伝統文化友好コンサート」(以下「文化コンサート」という。)が開催されたが、同会館前
で、文化コンサートに抗議するデモが行われた(甲4、60)。
翌23日のコンサート(2日目)が終了した同日午後4時ころ、NLD-LA日本支部のDと
ビルマ青年ボランティア協会のEが、客席から「民主化闘争は勝利するぞ。」などと叫んだ
ところ、主催者側ミャンマー人5、6人に囲まれ、メタル製のライトなどで顔や頭などを
殴られ、Dが全治10日間の頭部挫創、Eが全治7日間の顔面・頭部・肩甲部打撲の各傷害
を負った(甲15ないし17)。
ウ 1998年(平成10年)及び1999年(平成11年)7月7日、ミャンマー大使館前において、
1962年(昭和37年)にミャンマーで起きた流血事件を記念したデモが行われた(甲5、
60)。
エ 1999年(平成11年)9月9日、ミャンマー大使館付近において、1988年(昭和63年)8
月8日のゼネストを記念したデモが行われた(甲2、甲60⑭、弁論の全趣旨。なお、甲2の
写真の日付は「9 8 ’98」とも読めるから、その作成日に疑問があるが、控訴人らはこれ
が1999年9月9日に撮影されたものであることを明らかに争わない。)。
このときのデモでは、ミャンマー大使館敷地内から、同大使館員が、デモ参加者らを写
真撮影した(甲23)。
オ 1999年(平成11年)11月23日、ミャンマー大使館前において、学生運動の指導者Fの釈
放を要求するデモが行われた(甲6)。
(なお、以上のデモにつき乙5の2)
オ 集団難民認定申請
1997年(平成9年)2月3日、NLD-LA日本支部、在日ビルマ人協会など在日ミャンマー
人組織に所属するミャンマー人36名が集団で難民の認定の申請を行った(甲36)。
その後も、1999年(平成11年)10月、12月に、文化コンサート事件の抗議行動に参加した
ミャンマー人が集団で難民認定の申請をし、被控訴人も10月8日に本件難民認定申請を行っ
た(甲36、乙4)。
これらのうち、一定の者が難民の認定を受け、あるいは特別在留許可を得たとされている
(甲36、弁論の全趣旨)。
 被控訴人の本国における政治活動及び来日の経緯
ア 被控訴人の主張及び供述
被控訴人は、本件訴訟において、本国における政治活動及び来日の経緯について、次のと
おり主張及び供述する。
ア 前記のとおり被控訴人は《日付略》生まれであるが、《日付略》マンダレー大学に入学し、
《日付略》、マンダレー大学学内で、当時の政権党が発した廃貨令に対する反対デモに参加
した。
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イ 被控訴人は、学友Gに誘われ、翌《日付略》、ビルマの民主化と国に学生自治会の結成を
認めさせることを目的として組織されたマンダレー大学学生連合に参加した。マンダレー
大学学生連合は、マンダレー大学及びマンダレー市全体の民主化運動の推進役であり、ク
ーデター前までは1100人以上の学生及び助手が加わり、FとGの2人が代表を務め、被控
訴人も、15人で構成される中央執行委員会の一員として勧誘と情報収集を担当し、ビラを
配布する等した。
同年7月から同年9月18日のクーデター前までは、ほぼ毎日のように、マンダレー大学
構内や周辺で、民主化及び学生自治を求める大がかりなデモが行われ、被控訴人は、ほぼ
毎回デモに参加した(前記のとおり、その間の同年8月8日には学生組織などの呼びかけ
により大規模なゼネストが展開された。)。
ウ 1988年(昭和63年)9月18日のクーデターにより、同日夜、軍がマンダレー大学を閉鎖
し、同月25日ころ寮も閉鎖されたため、被控訴人は、危険を感じて友人のところに宿泊し
つつ、活動を続けた。
被控訴人は、同年10月ころ、友人から紹介された弁護士Hから、地下の民主化括動に誘
われ、実際に、H、被控訴人、I、F、Gの5人が活動した。Hがビラを執筆し、他の4人が
これを配布あるいはちょう付した。9月18日のクーデター後は、ビラの配布が発覚すれば
逮捕は免れないため、被控訴人は、自転車に乗って逃げる等の用心をしたり、民主化活動
に関心のない人のもとや街の周辺地域に泊まり、逮捕されないよう気を付けた。
エ 1989年(平成元年)2月、ビラを配布していたIが、軍情報局に逮捕され、1か月後に釈
放された後、国境へ逃亡したが、被控訴人は、同人が死亡したと聞いた。
また、同年3月には、ビラを配布していたFとGがそれぞれ逮捕されたが、被控訴人は、
その後の2人の消息を知らない。
被控訴人は、その後も、Hと新たに加わったJの3人で民主化活動を続けたが、《日付略》
にリーダー格のHが逮捕されて刑務所に収容された後は、民主化活動を進めていくことが
困難となった。
オ マンダレー大学は開講してもすぐ閉鎖して講義がない状態が続き、また学位を取得した
としてもミャンマー軍事政権下では将来の見通しがないと考えた被控訴人は、学業を続け
る意欲を失い、1992年(平成4年)ころ、同大学を中退した。
被控訴人は、日本には、叔父が1人いるほか、親戚も知人もいなかったが、ミャンマーで
は政治活動の自由もなく将来の見通しもつかないことから、同年3月ころ、被控訴人の将
来を心配した父の勧めを受け、民主化が実現されるまでの間日本へ行く決意をした。以上
が、来日前の活動に関する被控訴人の主張ないし供述である。
イ 検討
ア そして、①上記のとおり、ミャンマーにおいては、1988年(昭和63年)に学生運動が
激化して軍事クーデターが起こったという事実があるほか、②NLD党員のIという人物
- 12 -
が1989年(平成元年)7月にインセイン刑務所に投獄され、1991年(平成3年)にタラワ
ディ刑務所に移されて、1998年(平成10年)5月に同刑務所で死亡したとの報告があり(甲
10)、また、③弁護士のHという人物が1989年(平成元年)に逮捕され、同年10月31日に
刑の宣告を受けてマンダレー刑務所に在監中であるとの記録があるなど(甲58、59)、被
控訴人の本件訴訟における主張及び供述に一部符合する客観的な状況の存在も認められ
る。
しかしながら、被控訴人は、難民調査及び違反調査の際には、難民調査官、入国警備官、
入国審査官及び特別審理官に対し、①本国では、マンダレー大学在学中に大学で集会を開
いたりデモに3、4回参加したことがあるが、来日するまでは被控訴人自身はそれほど民
主化を積極的に求めようという意思はなく、特にグループにも所属せず、それほど表立っ
た運動もしたことがなく、逮捕される危険性もなかった、②したがって、NLD-LA日本支
部に入っていなかった来日当初は、ミャンマーに帰国しようと思えばいつでも帰国できた
が、日本へは仕事をするために来たので、10年間働いて金を稼いだら帰国するつもりであ
った旨の供述をしており(乙5の1、6、7、12、14)、これらは、本件訴訟における主張
及び供述と食い違っている。
イ 本件難民認定申請の申請書(乙4)には、被控訴人が《日付略》から《日付略》までマン
ダレー大学学生連盟の民主化運動に参加するなどして、軍事政権に対する反政府運動をし
たために逮摘される可能性があったので日本に来た旨の記載があり、被控訴人が2000年
(平成12年)《日付略》の第1回難民調査の際に難民調査官に提出した英文の陳述書(乙5
の4)にも、同趣旨の記載がある。
しかし、これらの申請書及び英文の陳述書はいずれも被控訴人の友人が代書したもので
あり、被控訴人自身がビルマ語で書いたという陳述書の原文は現存しないというのである
から(乙4、5の1)、被控訴人の上記供述内容に照らし、これらが被控訴人の記憶に忠実
に記載されたものかどうか疑念がある。
ウ そして、被控訴人は、調査時の供述と本件訴訟における供述とが食い違っていることの
理由として、調査時には体調が良くなかったことなどを挙げて弁解するけれども、被控訴
人の調査時における上記供述内容は、2000年(平成12年)1月から同年11月までのおよそ
10か月間に前後5回にわたって行われた面前聴取の際に繰り返し供述していた内容であ
って、しかも、同年6月○日の調査の際には、入国審査官に対し、自己の健康状態について、
結核を患って1998年(平成10年)○月ころに入院したことがあるが、調査当時には完治し、
風邪を引いているくらいで特に悪いところはないと述べているのであるから(乙12)、体
調不良を理由とする被控訴人の弁解は採用し難い。 さらに、被控訴人は、来日後の状況
については、後記のとおり、NLD-LA日本支部に加入して反政府活動を行ったために逮
捕される危険があるとし、調査時においても本件訴訟での主張及び供述とほぼ同趣旨の内
容を供述していたのであるから、本国における被控訴人の政治活動の状況が本件訴訟で主
- 13 -
張及び供述するとおりであったのならば、これを調査時にあえて隠さなければならない理
由があるとも考え難い。
エ したがって、被控訴人が本件訴訟において初めて主張及び供述を始めた本国における被
控訴人の行った政治活動及び来日の経緯の状況を、そのまま認めることは困難であり、被
控訴人の本国における政治活動歴は、たとえそれがあったとしても、当局から追跡された
り、特別な監視を受けるような人物として当局の注目を引くほどのものであったとは認め
られないといわざるを得ない。
 来日後の被控訴人の活動状況
ア 被控訴人の主張及び供述
被控訴人は、来日後の政治活動に関して、次のとおり主張及び供述する。
ア 被控訴人は、《日付略》に来日し、横浜市内のかに料理店で働き始め、Cを知る従業員を
介して同人に連絡し、日本でのビルマ民主化運動に参加したい意思を伝え、在日ビルマ人
協会主催のデモの日程を教えてもらい、1994年(平成6年)ころから、ミャンマー大使館
前でのデモに参加するようになり、1995年(平成7年)のNLD-LA日本支部の結成以前に、
10回程度、ビルマ民主化を掲げたデモに参加した。被控訴人は、これらのデモで、日本国
内でビルマ民主化運動に取り組む仲間たちと出会い、そのうちの1人Kから、NLD-LA日
本支部創設の必要を説明された。
イ 1995年(平成7年)5月21日、NLD-LA日本支部の創設と同時に、被控訴人は、実行委
員会の役員になり、その後も2000年(平成12年)に収容されるまで同委員会の役員を務め、
デモの事前宣伝や議長らのサポート、NLD-LA日本支部の機関誌「シュエイヤドゥー」(以
下「シュエイヤドゥー」という。)の製本作業に従事して、活動の一端を担った。シュエイ
ヤドゥーにはNLD-LA日本支部の役員リストが掲載され、大使館員がこれを入手するのは
簡単である。
また、被控訴人は、マウンエイ中将や、チョーウィン、フラミン、ウィンアウンらミャン
マー軍事政権の要人が来日した際もデモに参加してきたが、ミャンマーの大使館員は、そ
の様子を写真に撮るなどしている。
ウ 1999年(平成11年)5月23日、ミャンマー大使館主催の文化コンサートの会場で起きた、
ミャンマー人民主化活動家が大使館職員等から暴行を受け負傷するという事件を機に、被
控訴人ら在日ミャンマー人民主化活動家の間で切迫感が高まり、集団での難民の認定申請
が相次いだ。被控訴人も、NLD-LA日本支部の友人Lらに難民の認定の申請を勧められ、
同年10月8日、他のビルマ人24人とともに難民の認定の申請をした。
以上が、来日後の活動に関する被控訴人の主張及び供述である。

退去強制令書発付処分取消請求事件(73号事件)
平成16年(行ウ)第73号
難民不認定処分等無効確認請求事件(76号事件)
平成16年(行ウ)第76号 
原告:A、被告:名古屋入国管理局主任審査官(73号事件)・法務大臣(76号事件)
名古屋地方裁判所民事第9部(裁判官:加藤幸雄:舟橋恭子:片山博仁)
平成18年3月23日

判決
主 文
1 (73号事件)
被告名古屋入国管理局主任審査官が、原告に対し、平成16年8月27日付けでした退去強制令書
発付処分を取り消す。
2 (76号事件)
 被告法務大臣が、原告に対し、平成16年8月27日付けでした出入国管理及び難民認定法49条
1項に基づく異議の申出は理由がない旨の裁決は無効であることを確認する。
 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用はこれを3分し、その1を原告の、その余を被告両名の各負担とする。
事実及び理由
第1 原告の請求
1 (73号事件)
主文1項と同旨
2 (76号事件)
 被告法務大臣が、原告に対し、平成16年8月25日付けでした難民の認定をしない旨の処分は
無効であることを確認する。
 主文2項と同旨
第2 事案の概要(以下、年号については、本邦において生じた事実は元号を先に、本邦外において生
じた事実は西暦を先に表記する。)
本件は、ミャンマー連邦(旧ビルマ連邦。以下、国名の変更があった1989(平成元)年6月18日
より前は「ビルマ」、同日以後は「ミャンマー」という。また、同国民については、その前後を問わ
ず「ビルマ人」という。)国籍を有する原告が、名古屋入国管理局(以下「名古屋入管」という。)入
国審査官によって出入国管理及び難民認定法(平成16年法律第73号による改正前のもの。以下、
条文を摘示するときは「法」と、法律名を摘示するときは「入管難民法」という。)24条6号の退去
強制事由に該当すると認定され、口頭審理を請求したが、名古屋入管特別審理官によって上記認
定に誤りがない旨判定されたため、法49条1項に基づいて異議の申出をしたところ、被告法務大
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臣から上記異議の申出は理由がないとの裁決(以下「本件裁決」という。)を受けるとともに、被
告名古屋入管主任審査官(以下「被告主任審査官」という。)から退去強制令書の発付処分(以下
「本件発付処分」という。)を受け、さらに、法61条の2に基づいて難民の認定を申請したところ、
被告法務大臣から難民の認定をしない旨の処分(以下「本件不認定処分」という。)を受けたため、
国籍国又は本邦において行った反政府活動を理由に難民に当たると主張して、本件発付処分の取
消し(73号事件)と本件裁決及び本件不認定処分の無効確認(76号事件)を求めた抗告訴訟である。
1 前提となる事実(争いのない事実及び証拠により容易に認定できる事実)
 当事者
ア 原告は、1971年(昭和46年)《日付略》生まれのミャンマー国籍を有する男性である。
イ 被告法務大臣は、特別審理官の判定に対する異議の申出について裁決する権限(法49条3
項)、上記異議の申出に理由がないと認める場合でもその者の在留を特別に許可することが
できる権限(法50条1項)及び難民の認定の申請について判断する権限(法61条の2)を有
する者である。
被告主任審査官は、法務大臣から異議の申出が理由がないと裁決した旨の通知を受けたと
きは、退去強制令書を発付しなければならないとされている者である(法49条5項)。
 原告による本邦入国及び残留の状況
原告は、平成9年(1997年)9月11日、シンガポール船籍の船舶《名省略》号(以下「本件船舶」
という。)の乗員として、原告名義の旅券及び乗員手帳を所持して東京港に到着し、同日、東京
入国管理局東京港出張所入国審査官から、許可期限を同月26日までとする乗員上陸許可を受け
て本邦に上陸した。しかし、原告は、同月13日、本件船舶が名古屋港に寄港した際、同港から本
邦に上陸したまま帰船せず、所在不明となったまま許可期限である同月26日を超えて本邦に残
留した(乙1、3、4の1ないし9)。 
その後、原告は、平成14年(2002年)2月1日、名古屋市《地名略》区役所において、居住地
を同区《住所略》とする外国人登録をしている。
 本件訴え提起に至る経緯
ア 退去強制手続について
ア 名古屋入管及び愛知県警は、平成16年(2004年)6月30日、名古屋市《住所略》所在の
B寮への合同立入調査を実施したが、その際、原告を不法残留の容疑で摘発した。
そこで、名古屋入管入国警備官は、同日、違反調査を行った上で、原告を法24条6号(不
法残留)に該当する容疑者として、名古屋入管入国審査官に引渡した(乙7、8)。
イ 名古屋入管入国警備官は、同年7月1日、原告につき違反調査を行った。また、名古屋入
管入国審査官は、同年6月30日、7月15日及び同月16日、原告につき違反調査を行った(乙
9ないし12)。
以上の結果、名古屋入管入国審査官は、同日、原告が、法24条6号に該当すると認定し、
原告にこれを通知したところ、原告は、同日、口頭審理を請求した(乙13)。
- 3 -
ウ これを受けて、名古屋入管特別審理官は、同年8月4日、原告につき口頭審理を実施し、
同日、名古屋入管入国審査官の上記認定には誤りがない旨判定し、原告にこれを通知した
ところ、原告は、同日、被告法務大臣に異議の申出をした(乙17ないし19)。
エ 上記異議の申出に対し、被告法務大臣は、同月27日、異議の申出は理由がない旨の本件
裁決をした。そして、その通知を受けた被告主任審査官は、同日、原告に本件裁決を告知す
るとともに、原告に本件発付処分を行った(甲2、乙21ない23)。
イ 難民認定申請について
ア 原告は、名古屋入管に収容中の平成16年(2004年)7月15日、被告法務大臣に対し、難
民認定申請をした(以下「本件申請」という。)。そこで、名古屋入管難民調査官は、同月
22日及び23日、原告から事情を聴取するなどの事実の調査を行った(乙14の1ないし4、
15、16)。
イ 被告法務大臣は、同年8月25日、本件申請につき、①原告の供述からは本国政府から政
治的意見や特定の社会的集団の構成員であることを理由に個別に把握されているとは認め
られないこと、②本国政府から政治的意見を理由に迫害を受けるとの申立てには信用性が
認められないことなどからすると、申立てを裏付けるに足りる十分な証拠があるとは認め
難く、難民の地位に関する条約(以下「難民条約」という。)1条A及び難民の地位に関
する議定書(以下「難民議定書」といい、難民条約と併せて「難民条約等」ということがあ
る。)1条2に規定する難民とは認められず、また、本件申請が、法61条の2第2項所定の
期間を経過してされたものであり、かつ、同項ただし書の規定を適用すべき事情も認めら
れないとして、本件不認定処分をした(乙20)。
ウ 原告は、同年11月27日、本件発付処分の取消しを求める訴えを提起し(73号事件)、次いで、
同月29日、本件裁決の取消しを求める訴えの追加的併合の申立てをした(当庁平成16年(行
ウ)第74号事件。なお、同事件については、平成17年(2005年)5月12日、取り下げられた。)。
さらに、原告は、平成16年(2004年)12月9日、本件不認定処分、本件裁決及び本件発付
処分の各無効確認を求める訴えを当庁に提起した(76号事件)。
なお、原告は、平成17年(2005年)5月12日、追加的併合に係る上記76号事件のうち本件
発付処分の無効確認を求める訴えを取り下げた。
 ミャンマーにおける政治情勢の概略
ア ビルマは、1948年(昭和23年)、イギリスから独立したが、1962年(昭和37年)、ネ・ウィ
ンが、軍事クー・デタにより全権を掌握し、ビルマ社会主義計画党による一党支配を始めた。
イ 1988年(昭和63年)3月、首都ラングーン(現ヤンゴン)において、一部の学生による反
政府運動が発生し、同年8月から9月にかけて、全国的な民主化闘争に発展した。これに対
し、ビルマ国軍は、同年9月18日、幹部20名から成る国家法秩序回復評議会(State Law and
Order Restoration Council。以下「SLORC」といい、この政権を「軍事政権」ということが
ある。)を設置して全権を掌握した。
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ウ SLORCは、反政府運動の鎮圧を図るとともに、1990年(平成2年)5月27日、公約した複
数政党制に基づく総選挙を実施したところ、アウン・サン・スー・チーの率いる国民民主連
盟(National League for Democracy。以下「NLD」という。)が圧勝した。
エ しかし、SLORCは、選挙結果を認めて国民会議を開催しようとはせず、NLDを中心とする
民主化勢力への抑圧を強めた。SLORCは、1997年(平成9年)11月15日、国家平和開発評議
会(State Peace and Development Council。以下「SPDC」という。)に名称を変更したが、
民主化勢力への抑圧政策に変更はなく、アウン・サン・スー・チーに対する軟禁状態も、緩
和された時期もあったが、現時点まで継続されている。
2 本件の争点
 本件不認定処分に重大かつ明白な違法が存するか(76号事件)。
具体的には、以下の事項が争点となっている。
ア 法61条の2第2項所定の難民認定申請期間(いわゆる60日ルール)が、難民条約に違反す
るか。
イ 原告に、法61条の2第2項ただし書のやむを得ない事情があるか。
ウ 原告は難民条約及び難民議定書上の難民に当たるか。
 本件裁決に重大かつ明白な違法が存するか(76号事件)。
具体的には、と同様に原告が難民に当たるか、原告に在留特別許可を与えなかったことが
上記違法といえるかなどが争点となっている。
 本件発付処分は違法か(73号事件)。
具体的には、ミャンマーを強制送還先とする本件発付処分が難民条約33条1項の定めるノ
ン・ルフルマン原則に違反するかなどが争点となっている。
3 争点に関する当事者の主張
 争点(本件不認定処分に重大かつ明白な違法が存するか)について
ア 法61条の2第2項所定の難民認定申請期間(いわゆる60日ルール)が、難民条約に違反す
るか。
(原告の主張)
被告法務大臣は、本件不認定処分の理由の一つとして、本件申請が、法61条の2第2項所
定の難民認定申請期間を経過してなされたものであることを挙げている。しかしながら、60
日ルールを適用して本件不認定処分を行った被告法務大臣の運用は、明らかに難民条約に違
反するものである。
ア 60日ルールの難民条約違背性
a 被告法務大臣は、60日ルールの根拠として、①迫害から逃れて他国に庇護を求める者
は、速やかにその旨を申し出るべきであり、我が国の地理的実情から見て、60日間は入
国管理官署に申請するに十分な期間であると考えられること、②不法入国後何年も経っ
た後になって、入国当時難民であったことを主張することを認めることとなれば、その
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当時の事実を把握することが著しく困難となり、公正な難民認定を阻害すること、③速
やかに難民として我が国の保護を求めなかったという事実自体がその者の難民非該当性
を物語ること、以上の3点を主張する。
b なるほど、難民条約は、難民たる地位の認定に関する手続について何ら規定していな
いから、同条約締約国は、それぞれ自国が妥当と考える行政的、司法的手続を定めるこ
とができるとともに、申請、証拠書類の提出、不服申立てなどの様式、申請期間などに関
する手続規定を設けることができる。
しかし、国際法の一般原則によれば、条約の締約国は、条約の趣旨の範囲内でのみ国
際的義務の履行方法を決定し得るのであり、ここで定められる手続要件規定は、実際に、
当該条約の目的の実現に資するものでなければならない。これを難民条約についてみる
に、その目的は、難民を保護すること及び難民に対して基本的な権利・自由を可能な限
り広く保障することにあるから、条約締約国によって決定される難民認定の手続的要件
に関する規定は、上記目的の実現に資するものでなければならない。
そして、難民認定手続は、国連難民高等弁務官事務所(以下「UNHCR」という。)作成
に係る「難民認定基準ハンドブック難民の地位の認定の基準及び手続に関する手引き」
(甲23)に、「人は、1951年の条約(注:難民条約)の定義に含まれている基準をみたす
や否や同条約上の難民となる。これはその難民の地位が公式に認定されることより必ず
先行しているものである。それ故、難民の地位の認定がその者を難民にするのではなく、
認定は難民である旨を宣言するものである。認定の故に難民となるのではなく、難民で
あるが故に難民と認定されるのである。」(第一部第1章28)と記載されているように、
裁量によって難民の保護を図るという性質のものではなく、羈束行為なのであるから、
難民条約を批准した国家において、難民該当性という要件に更に要件を付加するような
ことがあってはならない。
以上を前提とすれば、入国等の後60日以内に申請すれば難民であった者が、60日を経
過した瞬間から難民でなくなるということはあり得ないし、難民認定申請の形式的要件
を具備していないことをもって、迫害を受けるおそれを有したまま、本国へ送還される
こともあり得ないはずである。
したがって、まず、基本的には、難民認定申請期間の制限を設けた法61条の2第2項
は、あくまでも努力条項であり訓示的な規定と考えるべきであって、申請を受けた際に
は、これを盾に難民としての認定を拒否することはできないといわなければならない。
このことは、我が国も委員国になっているUNHCR執行委員会が、庇護国のない難民
に関する決議(UNHCR執行委員会・難民の国際的保護に関する結論第15号。甲22)に
おいて、「庇護希望者に対し一定の期限内に庇護申請を提出するよう求めることはでき
るが、当該期限を徒過したことまたは他の形式的要件が満たされなかったことによって
庇護申請を審査の対象から除外すべきでない。」と定め、これが難民条約に基づく難民保
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護の要請の必然的な結果であることからも裏付けられているというべきである。
イ 60日ルールの撤廃
平成16年法律第73号によって改正された入管難民法は、平成17年5月16日から施行さ
れているが、同法においては、60日ルールは撤廃されている。このことは、60日ルールが
合理性を欠くことの証左である。
ウ 被告法務大臣による実際の運用
実際に、被告法務大臣は、これまで多くの事例において、本来の主張によれば60日ルー
ル違反として難民の認定を受けられないはずの難民認定申請者に対し、難民認定の確定作
業を行ってきた。これらの者は、難民認定申請の段階で難民と認定された者、異議の申出
の段階で難民と認定された者、難民と認定されなかったが、その理由が60日ルール違反以
外の理由であった者に区分されるところ、上陸から申請までの期間が最も短い者でも約4
か月(難民認定を受けた者では2年3か月)、多くの者は3年ないし5年を経過しており、
難民認定を受けた者で最も長期間を経過した者は6年8か月を経過していた。
このことは、長期間経過後の申請については、事実の把握が困難となり、公正な難民認
定を阻害するとの60日ルールの制度理由の一つを、被告法務大臣自ら否定していることに
ほかならない。
(被告法務大臣の主張)
原告の主張は争う。
本件申請は、法61条の2第2項所定の60日の期間を経過した後にされたものであるとこ
ろ、原告は、同項所定のいわゆる60日ルールが、難民条約に違反するものである旨主張する。
しかし、以下のとおり、60日ルールは難民条約等に違反するものではなく、上記主張は失当
である。
ア 難民認定手続の定め方の裁量性
難民条約等には、難民の定義及び締約国が採るべき保護措置の概要についての規定は存
在するものの、難民認定手続については何ら定められていないから、難民認定手続を定め
るか否か、また、定めるとした場合にどのように定めるかについては、各締約国の裁量に
ゆだねられている。
そして、国家はその国の事情に応じた法律を制定し得るのであるから、難民認定手続を
どのように定めるかは、締約国の立法政策上の問題であり、そもそも条約違反の問題が生
じる余地はない。現に、諸外国においても、我が国と同様の申請期間を定めている国が存
する。
また、国際慣習法上、外国人の入国及び滞在の許否は、当該国家が自由に決し得るもの
であり、条約等の特別の取決めがない限り、国家は外国人の入国又は在留を許可する義務
を負わない。被迫害者を受け入れて保護する国家の権利としての庇護権は、国際法上確立
しているといわれるが、当該被迫害者が庇護を求める権利としての庇護権は、国際法上確
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立した概念とはなっておらず、一般条約も存在しないところ、難民条約等には、庇護に関
する規定が置かれていないので、難民に庇護を求める権利まで保障しているものではな
く、まして、難民条約には、不法に在留する難民の滞在を認めることを義務付けている規
定もない。
このことから、難民であっても、自分の希望する国に当然に入国が認められるものでは
なく、また、当然に在留が認められるものでもない。
したがって、難民条約等において、難民を受け入れ、条約上の保護を与えるか否かは、結
局、各締約国がその主権的判断に基づいて決定すべき事項であって、これが合理的である
限り、結果として、締約国に入国できず、難民認定申請もできないという事態を認めてい
るのである。したがって、難民条約等自身、難民認定申請に期間制限を設けることを絶対
的に禁止しているとは考えられず、我が国が難民認定申請に申請期間の制限を設けたとし
ても、それ自体が難民条約等に違反するものとはいえない。
イ 60日ルールの合理性
法61条の2第2項が60日ルールを定めているのは、①難民となる事実が生じてから長
期間経過後に難民認定の申請がされると、その当時の事実を把握することが著しく困難と
なり、適正かつ公正な難民認定が阻害されること、②迫害から逃れて他国に庇護を求める
者は、速やかにその旨を申し出るべきであること、③我が国の地理的、社会的実情から見
て、60日間は入国管理官署に申請するに十分な期間であると考えられることなどを理由と
している。
ところで、法の定める難民に該当する者は、その恐怖から早期に逃れるため速やかに他
国の庇護を求めるのが通常であり、我が国の地理的、社会的実情に照らせば、このような
者が難民認定の申請をすべきか否かについての意思を決定し、入国管理官署に出向いて手
続を行うのに、60日という期間は十分であると考えられるから、速やかに難民であること
を主張して保護を求めなかったという事実自体、その難民非該当性を物語っているという
べきである。
また、我が国において難民認定制度が発足した昭和57年当時には、実際には難民に該当
しないにもかかわらず、滞在国において長期間滞在ないし就労を確保するために、難民認
定制度を濫用する者が存在することが重大な問題となっており、何らかの対策の必要性が
認識されていたところ、60日ルールは、このような制度濫用者からの申請を可及的に排除
する機能をも併せ有するというべきである。
以上から、法61条の2第2項所定の60日ルールは、難民条約等の規定や趣旨に照らして
合理的な制度であり、その適用によって難民認定を受けられない条約上の難民が理論上生
じ得るとしても、難民条約等に違反するとはいえない。

上陸許可取消処分取消等請求事件
平成17年(行ウ)第79号
原告:A、被告:東京入国管理局長ほか2名
東京地方裁判所民事第38部(裁判官:菅野博之・市原義孝・近道暁郎)
平成18年3月28日

判決
主 文
一 本件訴えのうち、被告東京入国管理局入国審査官が原告に対して平成一六年一一月一日付けで
した、平成八年一二月二九日付け上陸許可及び平成一三年八月一〇日付け上陸許可の各取消処分
の取消しを求める訴えをいずれも却下する。
二 被告東京入国管理局長が原告に対して平成一六年一二月二〇日付けでした出入国管理及び難民
認定法四九条一項に基づく異議の申出には理由がない旨の裁決を取り消す。
三 被告東京入国管理局主任審査官が原告に対して平成一七年一月二八日付けでした退去強制令書
発付処分を取り消す。
四 訴訟費用は、原告と被告東京入国管理局長との間においては、原告に生じた費用の三分の一を
被告東京入国管理局長の負担とし、その余は各自の負担とし、原告と被告東京入国管理局主任審
査官との間においては、原告に生じた費用の三分の一を被告東京入国管理局主任審査官の負担と
し、その余は各自の負担とし、原告と被告東京入国管理局入国審査官との間においては、全部原
告の負担とする。
事実及び理由
第一 請求
一 被告東京入国管理局入国審査官が原告に対して平成一六年一一月一日付けでした、平成八年
一二月二九日付け上陸許可及び平成一三年八月一〇日付け上陸許可の各取消処分をいずれも取り
消す。
二 主文第二項と同旨(なお、訴状請求の趣旨第二項の「二〇〇五年(平成一七年)一月二八日付で
した」とあるのは「平成一六年一二月二〇日付けでした」の誤記と認める。)。
三 主文第三項と同旨。
第二 事案の概要
一 略語の一部
・ 中華人民共和国を「中国」という。
・ 東京入国管理局を「東京入管」という。
・ 被告東京入国管理局入国審査官を「被告入国審査官」という。
・ 被告東京入国管理局長を「被告東京入管局長」という。
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・ 被告東京入国管理局主任審査官を「被告主任審査官」という。
・ 平成一七年法律第六六号による改正前の出入国管理及び難民認定法を「出入国法」といい、
平成一六年法律第七三号による改正前の出入国管理及び難民認定法を「改正前の出入国法」と
いう。
・ 被告入国審査官が原告に対して平成一六年一一月一日付けでした、平成八年一二月二九日付
け上陸許可及び平成一三年八月一〇日付け上陸許可の各取消処分を「本件各上陸許可取消処分」
という。
・ 被告東京入管局長が原告に対して平成一六年一二月二〇日付けでした出入国法四九条一項に
基づく異議の申出には理由がない旨の裁決を「本件裁決」という。
・ 被告主任審査官が原告に対して平成一七年一月二八日付けでした退去強制令書の発付処分を
「本件退令処分」といい、当該退去強制令書を「本件令書」という。
・ 平成一六年法律第八四号による改正前の行政事件訴訟法を「改正前の行訴法」という。
・ 経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約を「A規約」という。
二 事案の骨子
本件は、中国国籍を有する男性である原告(本件退令処分当時一七歳)が、被告入国審査官から
本件各上陸許可取消処分を受け、その後、被告入国審査官から出入国法二四条二号(不法上陸)に
該当する旨の認定を受け、次いで、東京入管特別審理官から同認定に誤りがない旨の判定を受け、
さらに、法務大臣から権限の委任を受けた被告東京入管局長から本件裁決を受け、被告主任審査
官から本件退令処分を受けたため、不法上陸当時九歳であった原告には不法上陸について帰責性
がなく、かつ、原告は、九歳から日本において教育を受けており、日本での教育を継続する必要が
あること等を理由に、本件各上陸許可取消処分はその必要性を欠く違法があり、また、在留特別
許可を付与すべきであったにもかかわらずこれを認めなかった本件裁決は違法であり、それを前
提とする本件退令処分も違法であるなどと主張して、被告入国審査官に対しては本件各上陸許可
取消処分の各取消しを、被告東京入管局長に対しては本件裁決の取消しを、被告主任審査官に対
しては本件退令処分の取消しを、それぞれ求める事案である。
三 関係法令の定め等
本件に関連する出入国法及び改正前の出入国法の規定は、次のとおりである。 
1 出入国法二四条は、「次の各号のいずれかに該当する外国人については、次章に規定する手続
により、本邦からの退去を強制することができる。」とし、その二号において、「入国審査官から
上陸の許可等を受けないで本邦に上陸した者」と定めている。
2 改正前の出入国法四七条二項は、「入国審査官は、審査の結果、容疑者が第二四条各号の一に
該当すると認定したときは、すみやかに理由を附した書面をもつて、主任審査官及びその者に
その旨を知らせなければならない。」と規定している。
3 改正前の出入国法四八条一項は、「前条第二項の通知を受けた容疑者は、同項の認定に異議が
あるときは、その通知を受けた日から三日以内に、口頭をもつて、特別審理官に対し口頭審理
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の請求をすることができる。」とし、出入国法四八条八項は、「特別審理官は、口頭審理の結果、
前条第三項の認定(注:改正前の出入国法四七条二項の認定に相当する。)が誤りがないと判定
したときは、速やかに主任審査官及び当該容疑者にその旨を知らせるとともに、当該容疑者に
対し、第四九条の規定により異議を申し出ることができる旨を知らせなければならない。」と規
定している。
4 出入国法四九条一項は、「前条第八項の通知を受けた容疑者は、同項の判定に異議があるとき
は、その通知を受けた日から三日以内に、法務省令で定める手続により、不服の事由を記載し
た書面を主任審査官に提出して、法務大臣に対し異議を申し出ることができる。」と規定し、同
条三項は、「法務大臣は、第一項の規定による異議の申出を受理したときは、異議の申出が理由
があるかどうかを裁決して、その結果を主任審査官に通知しなければならない。」と規定してい
る。
5 出入国法四九条六項は、「主任審査官は、法務大臣から異議の申出が理由がないと裁決した旨
の通知を受けたときは、速やかに当該容疑者に対し、その旨を知らせるとともに、第五一条の
規定による退去強制令書を発付しなければならない。」と規定している。
6 出入国法五〇条一項は、「法務大臣は、前条第三項の裁決に当つて、異議の申出が理由がない
と認める場合でも、当該容疑者が左の各号の一に該当するときは、その者の在留を特別に許可
することができる。」とし、その三号において、「その他法務大臣が特別に在留を許可すべき事
情があると認めるとき。」と定めている。
四 前提事実
本件の前提となる事実は、次のとおりである。証拠及び弁論の全趣旨等により容易に認めるこ
とのできる事実は、その旨付記しており、その余の事実は、当事者間に争いのない事実である。
1 原告の身分事項及び入国状況等について
 原告は、昭和六二年(一九八七年)六月一日、中国の黒竜江省において、いずれも中国国籍
を有する外国人であるB(以下「B」という。)及び母C(以下「C」という。)の間に出生した
中国国籍を有する男性の外国人である。原告には、実妹として、平成元年(一九八九年)七月
一四日に中国の黒竜江省において原告と同じ父母の間に出生したD(以下「D」という。)が
いる。
 E(以下「E」という。)は、日本国籍を有する女性であり、第二次大戦後に中国に残されて、
中国で養育されたいわゆる中国残留邦人である。Bは、Eの夫の実兄の子である。Eは、原告
が出生した昭和六二年六月一日より以前に、既に本邦に帰国していた。
 原告、B、C及びD(以下「原告一家」という。)は、平成八年(一九九六年)一二月二九日、
中国の上海から新東京国際空港(現在の成田空港。以下、改称の前後を問わず「成田空港」と
いう。)に到着した。
Bは、東京入管成田空港支局入国審査官に対し、真実は日本国籍を有する者の子ではない
のに、日本国籍を有するEの子であるとして、外国人入国記録の渡航目的の欄に「日本人の
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配偶者等」と記載して上陸申請を行った。また、原告、C及びDは、東京入管成田空港支局入
国審査官に対し、外国人入国記録の渡航目的の欄に「定居(定住)」と記載して上陸申請を行
った。なお、上陸申請の際、原告の外国人入国記録の日本滞在予定期間の欄には、「一年」と
記載されていた。
Bは、東京入管成田空港支局入国審査官から、在留資格「日本人の配偶者等」とする上陸許
可の証印を受け、原告、C及びDは、在留資格「定住者」及び在留期間「一年」とする上陸許
可の証印を受けた。原告一家は、同日、本邦に上陸した。
2 原告の在留状況等について
 原告は、千葉県《地名略》市長に対し、外国人登録法に基づく新規登録を申請し、平成九年
一月八日、外国人登録証明書の交付を受けた。
 原告は、平成九年一二月一〇日、法務大臣に対し、在留期間更新許可申請を行い、法務大臣
は、同月二二日、在留期間を一年として、これを許可した。
 原告は、平成一〇年一一月二七日、法務大臣に対し、在留期間更新許可申請を行い、法務大
臣は、同年一二月九日、在留期間を一年として、これを許可した。
 原告は、平成一一年一二月三日、法務大臣に対し、在留期間更新許可申請を行い、法務大臣
は、平成一二年一月二五日、在留期間を三年として、これを許可した。
 原告は、平成一三年六月一一日、法務大臣に対し、再入国許可申請をし、法務大臣は、同日、
これを一回限り有効なものとして許可した。
 原告は、平成一三年六月二九日、新潟空港から中国のハルピンに向け、再入国許可による
出国をした。
 原告は、平成一三年八月一〇日、中国のハルピンから新潟空港に到着し、再入国許可によ
る上陸許可を受けて本邦に上陸した。
 原告は、平成一四年一一月一九日、法務大臣に対し、在留期間更新許可申請を行った。
 被告入国審査官は、平成一六年一一月一日、EがBの実母ではないことが判明したとして、
B、C及びDに対する平成八年一二月二九日付けの各上陸許可等を取消した。また、Bは、平
成一六年一一月一日ころ、東京入管に収容された。
被告入国審査官は、原告に対して、平成一六年一一月一日、本件各上陸許可取消処分をす
るとともに、平成九年一二月二二日、平成一〇年一二月九日及び平成一二年一月二五日付け
でした各在留期間更新許可並びに平成一三年六月一一日付けでした再入国許可を取り消し、
さらに、上記の申請を終止した。被告入国審査官は、原告に対し、平成一六年一一月一日、
本件各上陸許可取消処分を告知した。
3 原告の退去強制手続等について
 東京入管入国警備官は、平成一六年一一月一日、原告について違反調査を行い、その結果、
原告が出入国法二四条二号(不法上陸)に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして、
同月一六日、被告主任審査官から収容令書の発付を受け、同月一九日、同令書を執行すると
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ともに、同日、原告を出入国法二四条二号該当容疑者として、被告入国審査官に引き渡した。
被告主任審査官は、同日、原告に対し、仮放免を許可した。
 被告入国審査官は、平成一六年一一月一九日、原告、C及びDについて違反審査を行い、そ
の結果、同日、原告が出入国法二四条二号に該当する旨の認定を行い、これを通知した。原告
は、同日、特別審理官による口頭審理を請求した。
 東京入管特別審理官は、平成一六年一二月三日、原告について口頭審理を行い、その結果、
同日、被告入国審査官による上記認定に誤りがない旨判定し、原告にこれを通知した。原告
は、同日、法務大臣に対し、異議の申出をした。
 法務大臣から権限の委任を受けた被告東京入管局長は、平成一六年一二月二〇日、原告の
上記異議の申出に理由がない旨の本件裁決をした。本件裁決の通知を受けた被告主任審査官
は、平成一七年一月二八日、原告に本件裁決を通知するとともに、本件退令処分をした。東京
入管入国警備官は、同日、本件令書を執行し、被告主任審査官は、同日、原告に対し、仮放免
を許可した。
 なお、平成一六年一一月又は一二月ころ、B、C及びDも、被告入国審査官から、出入国法
二四条二号(不法上陸)に該当する旨の認定を受け、次いで、東京入管特別審理官から同認定
に誤りがない旨の判定を受け、さらに、法務大臣から権限の委任を受けた被告東京入管局長
から出入国法四九条一項に基づく異議の申出には理由がない旨の裁決を受けた。被告主任審
査官は、Bに対しては、平成一六年一二月二〇日に、C及びDに対しては、平成一七年一月
二八日に、それぞれ退去強制令書発付処分をした。Dは、同日、仮放免されたが、B及びCは、
退去強制令書の執行により、東京入管に収容された。
B及びCは、その後に、仮放免されたものの、平成一七年五月一五日、成田空港から出国し
た。
 原告は、平成一七年三月七日、本件訴えを提起した。また、Dも、同日、当庁に、被告入国
審査官がDに対して平成一六年一一月一日付けでした、平成八年一二月二九日付け上陸許可
及び平成一三年八月一〇日付け上陸許可の各取消処分の取消し等を求める訴えを提起した。
五 争点
本件の主な争点は、次のとおりである。
1 本件各上陸許可取消処分の取消しを求める訴えの適否
具体的には、本件各上陸許可取消処分の取消しを求める訴えは出訴期間を徒過した不適法な
訴えか。
2 本件各上陸許可取消処分の適法性
具体的には、本件各上陸許可取消処分は、法令の権拠に基づかないでされた違法なものであ
るということができるか。また、本件各上陸許可取消処分は、手続上又は実体上、違法なもので
あるということができるか。
3 本件裁決の実体上の適法性
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具体的には、原告は、不法上陸について帰責性がないこと、日本で継続して教育を受けるべ
きこと等を理由として出入国法五〇条一項三号に基づく在留特別許可を付与されるべきであっ
たのに、これを付与されずにされた本件裁決は、被告東京入管局長の有する裁量権を逸脱する
などしてされた違法なものであるということができるか。
4 本件裁決についての違法性の承継の有無
 本件各上陸許可取消処分が違法であるとして、本件裁決は、その違法性を承継するか。
5 本件裁決の手続上の適法性
本件裁決は、手続上違法なものであるということができるか。
6 本件退令処分の適法性
本件裁決が違法であるから、これを前提とする本件退令処分も違法であるか。
六 争点に関する当事者の主張の要旨
争点に関する当事者の主張の要旨は、別紙「当事者の主張の要旨」のとおりである。
第三 争点に対する判断
一 争点1(本件各上陸許可取消処分の取消しを求める訴えの適否)について
1 改正前の行訴法一四条一項によると、取消訴訟の出訴期間は、処分又は裁決があったこと
を知った日の翌日から起算して三か月である。
前記前提事実によると、原告が本件各上陸許可取消処分を知ったのは、平成一六年一一月
一日であり、原告が本件訴えを提起したのは、平成一七年三月七日である。そうすると、本件
各上陸許可取消処分の取消しを求める訴えは、原告が本件各上陸許可取消処分を知った日か
ら四か月以上経過した後に提起されているということになる。
 出訴期間は、不変期間であり(改正前の行訴法一四条二項)、当事者がその責めに帰するこ
とができない事由により不変期間を遵守することができなかった場合には、その事由が消
滅した後一週間以内に限り、不変期間内に訴訟行為の追完をすることができる(民事訴訟法
九七条)。
原告は、Bが、本件各上陸許可取消処分を受けた直後に、東京入管の職員から、在留特別許
可についての説明を受け、また、その際に、本件各上陸許可取消処分に対する不服申立てを
することができる旨教示されていなかったことから、本件各上陸許可取消処分とその後の退
去強制手続が一体のものであると誤信した旨主張する。
しかし、東京入管の職員が、本件各上陸許可取消処分を受けた直後に、在留特別許可につ
いての説明をすることには、何ら違法な点は存せず、また、上陸許可取消処分に対する審査
請求等の不服申立手続は、存在しないのである(行政不服審査法四条一項一〇号参照)から、
東京入管の職員が、本件各上陸許可取消処分に対する不服申立てをすることができる旨教示
しなかったことも、違法であるとはいえないのである。
そうすると、仮に、原告又はBが、本件各上陸許可取消処分とその後の退去強制手続が一
体のものであると誤信した事実があったとしても、それは、原告又はB自身の主観的な問題
- 7 -
にすぎないといわざるを得ない。
したがって、原告の前記主張事実をもって、本件がその責めに帰することができない事由
により不変期間を遵守することができなかった場合に当たるということはできない。
 また、上記のとおり、上陸許可取消処分に対する審査請求等の不服申立手続は、存在しな
いから、改正前の行訴法一四条四項の適用の余地もないというべきである。
 以上によれば、本件各上陸許可取消処分の取消しを求める訴えは、出訴期間経過後に提起
された不適法なものであることが明らかであるというべきである。
2 これに対して、原告は、平成一六年一一月一日に各上陸許可取消通知書を受け取ったもの
の、その際には、本件各上陸許可取消処分に対して取消訴訟を提起することができる旨の告
知を受けておらず、かつ、そのようなことは知らなかったのであるから、出訴期間は進行し
ない旨主張する。
しかし、改正前の行訴法一四条一項にいう「処分又は裁決があつたことを知つた日」とは、
当該処分又は裁決が効力を発生したことを前提として、処分等の相手方がその処分等の存在
を知った日をいうと解すべきである。そして、同項の文言からすると、「処分又は裁決があつ
たことを知つた」というためには、処分等の相手方が取消訴訟を提起することができる旨の
告知を受けることや、その処分等に対して取消訴訟を提起することができることを認識する
ことは必要がないというべきである。
したがって、原告の上記主張は、採用することができない。
 また、原告は、被告入国審査官が、原告について出入国法二四条二号(不法上陸)に該当す
る旨の認定を行うに際して、本件各上陸許可取消処分が有効か否かについても審査の対象と
していることからすると、出入国法四九条一項に基づく異議の申出は、上記認定について、
改正前の行訴法一四条四項にいう「審査請求」に当たるとともに、本件各上陸許可取消処分
との関係でも、「審査請求」に当たる旨主張する。
しかし、上陸許可取消処分は公定力を有する行政処分であるから、入国審査官は、出入国
法二四条二号に該当するかどうかを審査するに当たって、既にされた上陸許可取消処分を有
効なものとして扱わざるを得ないというべきである。
また、改正前の出入国法四五条一項は、入国審査官は、容疑者が出入国法二四条各号の一
に該当するかどうかを審査すると規定しているにすぎないのであるから、退去強制手続にお
いて、上陸許可取消処分等が有効か否かについて審査することは、予定されていないという
べきである。
そうすると、被告入国審査官が、原告について出入国法二四条二号に該当する旨の認定を
行うに際しても、本件各上陸許可取消処分が有効か否かについてを、審査の対象とすべきで
あるということはできない。
したがって、被告入国審査官の上記認定に際して、本件各上陸許可取消処分が有効か否か
についても審査の対象としていることを前提とする原告の前記主張は、採用することができ
- 8 -
ない。
 原告は、Bが、本件各上陸許可取消処分を受けた直後に、東京入管の職員から、在留特別許
可についての説明を受け、また、その際に、本件各上陸許可取消処分に対する不服申立てを
することができる旨教示されていなかったことから、上陸許可取消処分とその後の退去強制
手続が一体のものであると誤信したのであり、本件裁決のあった日から本件各上陸許可取消
処分の取消訴訟の出訴期間が起算される旨主張する。
しかし、前記一のとおり、上記のようなBの誤信をもって原告の責めに帰することがで
きない事由により出訴期間を遵守することができなかった場合に当たるということはできな
いのである。
また、改正前の行訴法一四条四項後段は、「行政庁が誤って審査請求をすることができる旨
を教示した場合」について規定していることから、改正前の行訴法一四条四項の適用もない
というべきである。
そうすると、原告の上記主張は、採用することができない。
3 以上によれば、本件各上陸許可取消処分の取消しを求める訴えは、いずれも出訴期間を徒過
した不適法な訴えであるといわざるを得ない。

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